丹後の地名

八田(はった)
舞鶴市八田

付:松尾神社


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京都府舞鶴市八田

京都府加佐郡加佐町八田

八田の地誌




《八田の概要》

八田は舞鶴市の北西部。由良川下流左岸に位置する。由良川が北流しその西岸を並行して国道175・178号線が走る。簡単にいえば大川橋を西へ渡った所である。
中世には丹後国田数帳に記す祇薗寺庄域であったともされるが確認はできないという。
近世、細川氏の田辺築城に際しそれ以前田辺紺屋(旧名八田)に居住していた農民が当地近辺に移住させられた。地名の由来は、移住前の地名を踏襲したものという。八田の氏神・松尾社および八戸地の氏神・白鬚社は村人が移住の時に奉遷してきたものといわれる。
八田村は、江戸期〜明治22年の村名。枝郷に八戸地村があり、延享年間に分村独立したという。八田は明治22年〜現在の大字名。はじめ丸八江村、昭和3年八雲村、同30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字。

《人口》120《世帯数》41

《主な社寺など》
八田古墳
松尾神社
八雲病院

《交通》松尾神社(八田)

《産業》

松尾神社

八田の集落を見下ろす高台にある。「室尾山観音寺神名帳」の記載の「正二位・松尾明神」と思われ、位階の高い神社であった。この神名帳の時代は今の八田の現在地に鎮座あったのではなく、西舞鶴の愛宕山東麓にあったのではなかろうか。今の朝代神社の境内にも松尾神社があり、たぶんこのあたりにあったと思われる。
「もとは五世紀ごろに朝鮮半島から渡来した秦氏が、この地に移り住み、松尾山の神霊を祭ったのが始まりとされる。秦氏が先進の技術で桂川を治め、付近一帯を開墾して、農林業を興したことから、交通、開拓、治水・土木の守護神とされ、洛西の総氏神とも称してきた。」(京都新聞10・10・17)とあるが、その山城愛宕郡の松尾大社の分社。4〜5世紀の頃、新羅加耶系渡来氏族・秦氏の氏神であり、八田とはその秦のことと思われる。綾部市に八田があるが、それが北上したのか今の西舞鶴にも入り、それがまたこの地に移ったものと思われる。

『田辺旧記』に、松尾神社本殿
 〈 松尾大明神 八田村  〉 

『八雲のれきし』に、
 〈 松尾神社
八田村は、天正九年(一五八一)三月、細川藤孝公が領するまで田辺(現舞鶴市紺屋町附近)にあって、田辺城の築城の時、現在の場所に移住したと伝えられる。八田村が田辺にあった頃、京都、松尾大社の祭神(大山昨命、中津島姫命(市杵島姫命)を紺屋町の笶原神社に産土神として祭祀したが、移住の際、村人と共に八田の宮の谷に移し祭った。
 棟札によれば享保十七年(一七三二)神殿造営とある。
 祭日は、正月十五日、二月八日、八月八日の三回で神饌・神酒を供え氏子一同参拝した。今では元旦、三月八日春の祈念祭、十月十三日は例祭、この日は青年が太鼓をもって村内を練りこみ、昔は踊、相撲の余興もあって盛んであった。十一月二十三日は奉穀祭(例祭)が執り行われている。
 境内社は大川神社・春影稲荷神社・八坂社・三柱社・山之神社である。
 境外社は愛宕社、秋葉社が宮の谷山頂にあり、虚空さんが永禄八年頃(一五六五)猪田山の山頂に祀られた。
 小字イシに薬師さん、堂ケ裏に地蔵堂が祀られている(松尾神社の狛犬の銘は万延元年作(一八六○年)瓦製)。  〉 


八田村の主な歴史記録


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 一 祇薗寺庄 六十五町三百卅四歩内
  六十二町七段百八十三歩   光寿院
  十二町三段百五拾一歩   丸田村 羽太修理進  〉 

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 八田村
 松尾大明神社あり、八戸地村は八田村の内なり、白髭大明神氏神なり、この村鮭の魚を喰わず。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 八田村 高五百六拾五石六升
    内八石壱斗五合 万定引
    四拾五石御用捨高 内三拾石八戸地江
 松尾明神 末社稲荷 氏神
 恵比須
 地蔵堂
 薬師堂  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎八田村(丸田村の南)
【松尾大明神】
 【付録】(薬師堂)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 丸八江村。凡海郷由良庄に属していたもので此の村名は丸田、八田、和江の三ケ字の文字を抽取って作ったものである。今は八戸地を加へて四ケ字から成っている。
  〉 

『八雲のれきし』
 〈 八田・八戸地の分区
 八田村は、古くは由良荘の部内にあって、垣村と称したとも言い伝えられている。
 その後幾星霜の永い歳月が過ぎ、百余年にわたった戦国時代の末期、即ち天正八年頃(約四一○余年前)細川藤孝が、田造郷八咫村(現舞鶴市字北田辺)に築城を計画して、その区域内にある民家に移転が命ぜられた。
 当時私たちの祖先は、現紺屋町に住み農業を営んでいたが、築城のため田畑を失い止むなくその代替地を求めて、あちこち詮策に当ったに違いない、当時早くから開けていたと思われる大川村地内と丸田村地内とにそれぞれの適地を見定め、永年住みなれた故郷をあとに、この二か所に分れ分れに移転した。
 この二つの集落を八田村と称し、凡そ一八○年の間一つの邑として栄えてきた。その後双方とも人口が増加し、また分家等によって戸数も増え次第に大村となった。
 そのため、互に勢力的な問題や、そのうえ二つに隔った不便さ等諸々の問題が重ってか延享年間分村の機運となり「八田村」の名称をそのまま継いだ現八田と、新しく「八戸地村」と名乗った現八戸地とに分れ、「八田村」は土地、行政とも完全に二つに分離した。
 八戸地村の起りについては詳かでないが、最初この地に八戸の農家が移り住んだので、「八戸の地」即ち八戸地となったとも言われ、また「八田の内」と云う意味から八田内が訛って八戸地となったとも考えられている。  〉 

『市史編纂だより』(48.10)
 〈 小便地蔵さんとは
  (八田) 槙和田  武一さん
八田に〃小便地蔵〃'さんというのがある。いつまでも子供の寝小便がなおらない時には、このお地蔵さんにお願いするとケロリとなおる。全快するとお地蔵さんに、よだれ掛けをお供えするとよい。ということで、戦前までは、たくさんのよだれ掛けがかかっていた。
 この道は昔は宮津街道といい、多くの旅人が往来した。ちようどこの辺で一服して、このお地蔵さんに小便をかけたものだろう。お地蔵さんは、毎日、頭から小便をじゃあ、じゃあかけられて大困り、人間の小便が出ないようにしてやれと、お考えになったのではなかろうか。村の古老はこう解釈している。  〉 
『舞鶴の民話1』
 〈 小便地蔵  (八田)
 由良川に架かる大きな橋を「大川橋」というが、ここを渡って宮津の方へ行く。この道は昔、宮津街道といって多くの旅人が往来した。
 大川橋を渡ったところけ八田の集落で、ここに〃小便地蔵〃という変わったお地蔵さんがある。昔、旅人は川を渡ると、この辺りで一服した。そして、このお地蔵さんに小便をかけると精力が出て旅をするにも、仕事をするにも大そう良いことから、いつの頃からか、旅人は競ってお地蔵さんの頭からシャーシャーと小便をかけるようこなったそうだ。
 たまりかねたお地蔵さんは「全国でも、こんな地蔵はないだろうな」と思われ、そこで人間どもに小便が出ないようにしてやろうと決心。
 それからは、逆に寝小便を直す地蔵さんとしてあがめられるようになり、願いがかなった親が奉納した〃よだれかけ〃が戦前までは沢山かけられていたが、最近は寝小便をする子供が減ったのだろうか、その数は極端に少なくなっているそうだ。  〉 

八田の小字


八田 フケ 宮ノ谷 家前 長田 ハザマ 布フケ 家下 家中 ドケハナ 由リ下 ナギサ 麦田 アレ 出合 長畑 ドキノソリ 高畑 土橋 タノワキ 麻町 下中野 イネ下 屋内津 上中野 堀町 イボ イナイ イシ 土穴 サコ イノダ 五反田 アノ谷 フジ 安垣 元結 シヨズ 小迫 コヨリ アカシ ナガレ 山ノ神 ヤクシ 小山 森ケ谷 堂ケ市


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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