丹後の地名

今田(いまだ)
舞鶴市今田


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京都府舞鶴市今田

京都府加佐郡池内村今田

今田の地誌




《今田の概要》

今田は舞鶴市の南部。伊佐津川支流・池内川流域に位置する。青谷川と真倉川が合流する。
このあたりでは谷幅も広く耕地も多い。古くから池内谷およびこの地方の中心的役割を果していたと思われる。上殿に円墳があり、金環が出土している。式内社・倭文神社が鎮座し、7年目ごとに行う「ずいきみこし」の神事が伝わる
『角川日本地名大辞典』は、「室町期に見える地名。丹後国加佐郡田辺郷八田村のうち。応永18年11月15日、沙弥見智なる者が八田村八幡宮に田地1反10代を寄進しているが、その坪付に「坪ハ今田之従垣北」と見える(桂林寺文書。大日料7-15)。この今田とは当地のことか」としている。
今田村は江戸期〜明治22年の村名。同22年池内村の大字となる。


《人口》836《世帯数》279

《主な社寺など》
倭文神社
愛宕神社
沢神社
秋葉神社
山ノ神神社
武大神社
稲荷神社
金刀比羅神社
稲荷神社

曹洞宗桂林寺末仏智山常徳寺
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 桂林寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 仏智山常徳寺、曹洞宗、慶長二年創立、池内村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【仏智山常徳寺】(曹洞宗)  〉 

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
 〈 今田村
木延キノベ山常徳寺は桂林寺末寺禅宗なり。子鳥シドリ八社明神、今田村より岸谷村まで九ケ村の氏神。坂根修理亮古この村の地頭なり。  〉 

上殿古墳
上原徳春軒の居城した城跡

エントンビキ
エントンビキ・エトンビキ・エイトンビキと呼ばれる伝統民俗行事、意味は不明とか。藁で作られた胴体と野菜などで作られた顔をしたヘビ(龍)である。
『舞鶴市史』は、
 〈 えんとんびき  〉 

 〈 今田では毎年十二月、古くから行われて来た「えんとんびき」という子供達の年中行事がある。これは藁で作った大蛇を持って各戸を回り、悪魔払いをするのであって、その時は必ず門口から入って裏口へ通り抜けることになっていた。子供達には欠かせない行事になっていたが、作り方も難しいところがあり、大人達の協力も得られないことが多く、次第にさびれていく状況だという。  〉 
エントンビキはこの付近では別所・布敷・上根・岸谷でも行われていたという、八朔の子供達の行事であった。だいたいは月遅れで行われていたが、今田は7月の最後の土日に行われて、ここは暦通りか。今福の蛇綱と同じようなものである。

エントンビキ


エントンビキ




『森の神々と民俗』(金田久璋・1998)は、
 〈 エイトン引きの民俗
 これらの龍蛇伝承地には、年中行事として藁製の大蛇を村中ひきまわす、エイトンビキ・エントンビキ・エトンビキ・アクマバライと呼ばれる子供組の民俗行事が、毎年九月一日(八朔)に行われている。ここでは別所・上根・大波上の事例を紹介しよう。
エントンビキ(舞鶴市別所)
 むかし、大蛇が里に現われて娘に巻きつき、さらって行くことがあった。その際、逃げまどう娘たちを土蔵や便所に隠した故事により、毎年九月一日にこの行事を行っている。
 大蛇は八月三十一日夜に準備をする。体育振興会とPTAの役員たちが公民館に集まり、持ち寄った七、八束のモチ米の藁を綯って、約十二、三メートルの蛇体(ジャ)を作る。頭部はサンダワラを二個あわせ、ナスビ・ホオズキ・ミニトマトで目玉を、ハランで舌をトンガラシで牙を作り、ミノグサの髪をたらして、榊と御幣を頭にさす。完成した蛇体は床の間の三宝の上に祀っておく。
 翌日午後、学校から帰宅した子供たちが公民館に集合し、「エントンビキじゃ、ワッショイ・ワッショイ」と掛声をあげながら村通りをひきまわし、各家を訪れてお駄賃をもらう。大蛇にかまれると幸運にめぐまれると言われており、子供や老人の頭を「健康で長生きしてください」と言ってかむ。以前は腰にトンガラシをさし、女の子を見つけると追いかけまわし、無理やりトンガラシをねぶらせた(なめさせた)。古老によれば、これは女性を男性(ジャ)に従属させるウラの意味があるという。エントンビキの表向きの理由としては、稲作に甚大な被害を与える風の神の退散と五穀豊穣、村びとの無病息災を祈る八朔の行事であると伝えられている。現在は子供の数が減ったため、女子も参加するようになった。
 村中をひとまわりすると、仲井・谷家の荒神がある裏山へ藁蛇をかつぎあげ、椎の巨木の根元にまきつけ、行事は終了する。荒神はカブの先祖を祀るとする伝承があり、土地の売買によっても祭祀がひきつがれる。たとえば城代茂樹家の前庭の垣根には荒神を祀る小祠があり、南無妙法蓮華経の札と自然石を安置する。もともと谷九左ヱ門家の屋敷地であったが、購入後も屋敷の先祖さん、土地の守り神として手厚く祀っているという。

エトンビキ(舞鶴市上根)
 池内川上流にある上根では、毎年九月一日の八朔の日に少年団によってエトンビキが行われる。以前は男子の行事であったが、近年子供の数が減少しているため、女子も参加する。
 その由来譚としては、むかし、疫病がはやり村中が困窮することがあった。魔除けと五穀豊穣を祈って、藁蛇を毎年かついでまわると伝えられている。
 大蛇の胴体は稲葉とススキ(サバイ)とキビを三つ編みにして、約三メートルの縄を綯い、頭はサンダワラ二個を重ね、バランで舌をつくる。牙はトウガラシ、目玉はナスビとホウズキ、耳はビワの葉を用い、藁製の刀を口にくわえさせる。尻尾には必ず青い稲穂をまぜて綯いあげることとされている。別所とちがい、藁製の刀とフサを二本の笹竹につるし、それをかついだ子供が大蛇を先導する。下地から上地まで、約三十戸の家々を「ヨイーサ、ヨイーサ」と掛声をかけあってまわり、頭を持った上級生が戸口に立って「ヨイヤカノウ」と祝言をのべる。お駄賃をもらい、時には「かましたげる」と言って、長命を祈り老人の頭をかむ。昔はタカノツメ(トウガラシ)を竹の先につけて振りまわし、女性を追いかけてなめさせた。全戸をまわりおえると、池内川の左岸にある山の神に参拝し、小祠の左横に藁蛇を奉納する。腐ったままの藁塚がうず高くとぐろ状に積みあげてある。二本の笹竹は山の神の両脇に立て、行事を終了する。  〉 


《交通》
府道舞鶴綾部福知山線


今田の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 今田村
木延(キノベ)゙山常徳寺は桂林寺末寺禅宗なり。子鳥(シドリ)八社明神、今田村より岸谷村まで九ケ村の氏神。坂根修理亮古この村の地頭なり。  〉 


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ
今田村 高四百八拾九石九升
    内弐拾三石四斗九升五合八勺 万定引
    四拾五石御用捨高
 倭文社 八月十七日祭 鍵取 源四郎
  氏子 今田 万願寺 堀 布敷 別所 岸谷
     上根 寺田 白滝 下村
    十ヶ村氏神トス 今田万願寺ハ池姫ハ氏神
    トセス 右之村ヨリ毎年振物笹躍狂言ヲ勤
倭文ヲ幟ニ又小鳥八社明神ト書リ
 常徳寺 仏智山 桂林寺未

  〉 


《丹哥府志》
 〈 ◎今田村
【倭文神社】(延喜式)
倭文神社、子鳥大明神と称す、祭八月十七日。
【仏智山常徳寺】(曹洞宗)  〉 


《加佐郡誌》
 〈 池内村。もと大内郷に属していた。現今は今田、堀、池ノ内下、布敷、別所、上根、寺田、白滝、岸谷の九ケ字から成っている。
  〉 


《舞鶴市史》
 〈 えんとんびき
今田では毎年十二月、古くから行われて来た「えんとんびぎ」という子供達の年中行事がある。これは藁で作った大蛇を持って各戸を回り、悪魔払いをするのであって、その時は必ず
門口から入って裏口へ通り抜けることになっていた。子供達には欠かせない行事になっていたが、作り方も難しいところがあり、大人達の協力も得られないことが多く、次第にさびれていく状況だという。  〉 


《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 今田
 今田の地名は、昔、池内谷が湖であったことから付けられた地名といわれるが、はっきりしない。
 今田の地名が初めて見えるのは、室町時代の応永十八年(一四一一)十一月十五日、沙弥見智なる者が八田村八幡宮に田地一段十代を寄進しており、その坪付に、
 「今田之従垣北」(桂林寺古文書)
とある。今田村の従垣北の田を八幡宮に寄進した史料で、八幡宮とは、現在の桂林寺境内に祀られている八幡宮のこと。八幡宮は八田村(田辺の前の村)の鎮守として崇敬されていた社であった。
 さて、上林街道は万願寺村より今田村上殿の山麓つたいに、今田の常徳寺の下を通る。青谷川を渡り駒谷の裾つたいに堂の鼻を廻り、山裾つたいに現在の池内小学校辺りまで続いていた。この間の旧道には、今も所々に三尺道が遣っており、往時の街道を偲ばせてくれる。この東側山麓沿いの旧道の外に、西側山袂を流れる池内川の土手道がある。この道がいつ頃から存在していたかは不詳だが、上林へ通じる古い街道であったことは間違いない。
 地元の人々の話によると「今田の耕地の中央部から石ころが沢山出るのは、この辺りに河原があった跡であると、古老よりのいい伝えを聞く」
 今田の中央耕地が現池内川の河床より低いことは、布敷辺りより万願寺方向へ南北に旧河川が流れていたものと推測され、いつ頃西側山裾へ川が移動したのか、或いは瀬替工事により改修されたか史料は無く、地元でも全く判らない。
 享保年間(一七一六〜一七三五)に書かれた地図を見ると、今田村内を流れる池内川を「今田川」と記し、土手道を「今田道」と記している。そのことは享保年間以前、既に西側山袂に今田川と土手道があったことが知れる。この件については、今後の調査究明に期待したい。
 この今田川の下流辺りに小字出口と呼ばれる地名がある。池内より田辺城下に出る街道筋に当たる所からこの地名が付けられたものか。いずれにしても江戸時代、今田川の土手道が池内谷へ入る主要街道であったことは推測される。
 さて、今田村の東側山麓づたいに通って来た旧道と、今田川の土手道が池内小学校辺りで交叉し、これより上林街道は池内川の右岸に沿って遡って行く。
 一方、これより池内川を渡り池内下村に入る旧道あり。これより丹後峠又は見内峠を越えて、丹波の上杉(梅迫)に至る一義街道がある。また堀村より堀峠を越えて、真倉へ抜ける間道がこの辺りで分かれていた。…  〉 

今田の小字


今田 広井 山崎 宮尻 出口 丁田 倉加 西ノ大 上殿 宮谷 堂ケ鼻 駒谷 湯ノ口 平畑 青谷 山ノ神 北平畑 浅ノ口 大谷 南平畑 円明 滝谷 口ノ白谷 奥ノ白谷 湯舟 本谷 西ノ大道 四ツ辻 宮西 宮東 湯舟谷 鳥戸 浅野

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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