丹後の地名

市原谷(いちわらだに)
福知山市大江町市原谷


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京都府福知山市大江町市原谷

京都府加佐郡大江町市原谷

京都府加佐郡有路下村市原谷

市原谷の概要




《市原谷の概要》

市原谷は由良川下流域の右岸、二箇から支流田中川を遡った源流域山間に位置する。大江町の東端で北は舞鶴市と東は綾部市と接する幕末から明治初年にかけて二箇村から独立したという。
慶長6年宮津藩領となり、元和8年からは田辺藩領。慶長の頃郷士芦田与右衛門為玄が二箇市原谷の山中を開発して従者とともに居住、寛永11年田辺藩主より宛行われた地で、芦田氏は毎年、朝倉山淑100斤を年貢として上納したという。
市原谷の奥に進めば市原峠を越えて丹波国何鹿郡西方に通じる。当村と西方とは古くから婚姻関係などを通じて緊密で、正月には両村から代表を選び餅食い競争をしたと伝えるている。
市原谷村は江戸期〜明治22年の村名。江戸期は二箇村に含まれた。市原谷は明治22年〜現在の大字名。はじめ有路下村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。

《二箇の人口・世帯数》37・12

《主な社寺など》
八幡神社
市杵嶋姫神社
竜尾寺廃寺跡

《交通》

《産業》

市原谷の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 市原谷
芦田氏代々拝領の地、瀧蔵山光明寺真言大伽藍の跡あり、今は弁才天を安置す。  〉 

《加佐郡誌》
 〈 参考。一、市原谷は本来有道郷に属していたが、何時頃よりか河守郷に配下に入って来たと云ふ。以前一谿間の地であったのを慶長年間に初めて開墾し、寛永年間其河を浚へ遂に一部落を爲した。其後市原谷と称へた。村の東方の山に古跡廃址がある。土地の人伝へ言「正暦の頃此処に龍尾寺といふ巨刹があった」と。  〉 

《大江町誌》



《京都丹波・丹後の伝説》(いるべ・イラストも)
 〈 モチ食い峠 加佐郡大江町有路下
 大江町と綾部市の境には、正月の「モチ食い大会」にちなんだ伝説がある。その舞台は、大江町有路下の市原谷と綾部市西方を結ぶ府道の〃モチ食い峠〃。もち食い峠
〃参殿さん〃と呼ばれている市原谷の、農業芦田正さんは、縁側の日だまりでカキをほおばりながら「昔は食べることが何よりの楽しみだった……」と語りはじめる。
 西方と市原谷は山一つ越えたところで、お互いに行ききした仲。正月になると市原谷に双方の若者が集まってモチの大食いを競った。
 芦田家は田辺藩の命で市原谷一帯を治めていた名主。すでに二十代、三百五十年から四百年続いた旧家だ。この催しも楽しみの少ない地元の人たちのレクリエーションとして考えついた名主のアイデアだった。
 正月になると、村中の人が芦田家に集まってモチつき。峠のふもとに集まった両村のえり抜きの〃大食い〃が村人たちが見守る中、持ち込まれた〃白モチ〃をパクリパクリ。いつも勝つのは西方勢−‐。くやしがった市原谷勢、ある年の大会後、勝って帰って行く西方勢をつけて行ったところ、峠でゲイコンをバリバリかじっていた。
「ダイコンにはジアスターゼがあって消化がいいからね」−−芦田さんは〃敵もざるもの〃といわんばかりに話を続ける。
「不思議がっに村人たちが、翌年、こっそり峠へ登り、隠していたダイコンを持ち帰った。さあ大変。勝って峠を登ってきた西方勢。消化の妙薬、ダイコンはいくらさがしてもない。大腹をかかえて苦しみ抜いた」という。
 それ以後、西方勢はこのモチの大食いに挑戦しなかったとか。
「最後の勝負はわが方にあった」と、芦田さんはさも愉快そうに話を結んだ。
      (カット=荒賀智子さん=大江町有路下校)

「しるべ」この話から名のついたのがモチ食い峠。府道とは名ばかりで峠の一・五キロは雑木が茂って通行出来ない道なき道。地元の人たちが改修を訴えている。  〉 

『舞鶴の民話5』(イラストも)
 〈 モチ食い峠 (大江町)
 大江町と綾部の境には、府道にモチくい峠とよばれるところがある。大江町の有路下の市原谷の古老が、えんがわの日のあたるところに座りながら「むかしはな、モチはおいわいか、正月。ぼたもちは盆のころ食べた。これが何よりの楽しみだった」と。私は母とよく有路の守谷さんというお医者さんの家に、ガタガタ汽車にゆられながらいき、母のおばあさんの妹が嫁にいった守谷さんにいき、よくぼたもちをたべたものだ。私にとって、守谷さんにいくと、ぼたもちが一番のたのしみだった。
 古老の家は、芦田さんといって、田辺藩のころ、市原谷一帯を治めていた名主さんだ。四百年の前から、正月になると、綾部の西方と市原谷を山一つこえたところで、若者が両方からやってきて、モチの大ぐらいを競った。これは、楽しみの少ないこの頃にとっては、たのしみの一つであった。
 正月になると、村中の人が芦田家に集まり、ペッタン、ペッタンとモチをつき、大きなたらいのようなものに餅をいれ、峠にもちこまれる。峠のふもとに集まった村人の見守る中、白モチをパクリ、パクリたべる。いつの時にも、勝つのは西方勢。くやしがった市原谷勢は、あるときこっそりと西方勢のうしろをつけた。それと知らぬ西方の若者たちは、峠のところで、バリバリバリと大根を丸かじりしている。大根には消化剤のジアスターゼがあって、たべたもちが早く消化される。もち食い峠
 今まで負けていた市原谷の村人は不思議に思い西方がよくモチを食べられるのは大根だなと考え西方のかくしていた峠の大根をみんな持ち帰った。勝って帰ってきた西方の若者、峠で大根をたべようと思ったのに、一本も大根がない。モチの太鼓腹をかかえながら、ゲエゲエと苦しみ、苦しみぬいた。
 それ以後、西方勢の若者は、このモチくい大会には一人もでてこなかったという。「結局モチくい大会は、市原谷の勝ちだね」と芦田さんは得意そうに笑って、話は終わった。  〉 


市原谷の小字


市原谷 小坂谷 窪通 中地 柳ケ撓

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『大江町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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