丹後の地名

加佐郡(かさぐん)
舞鶴市・福知山市大江町・宮津市由良


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京都府舞鶴市・福知山市大江町・宮津市由良

加佐郡の地誌




《加佐郡の概要》

加佐郡という郡は現在は消滅したが、丹後国5郡の1つで、もっとも東に位置する郡である。そのだいたいの郡域は由良川下流域と舞鶴湾周辺部になり、現在の舞鶴市、福知山市大江町、宮津市由良の範囲であった。
 丹後国は和銅6年(713)4月に、加佐郡などの5郡を分割して設置されている(続日本紀)が、それ以前からカサ郡(評)と呼ばれていた。
 読み方はカサである。残欠はウケだと主張するのだが、どう考えても私には昔からカサだっただろうとしか考えられない。
カサという地名は全国にはけっこう多いが、説明はない。意味不明の古代地名である。金沢庄三郎のクシフル説がもっとも正解なのでなかろうか。
加佐郡の中心は舞鶴市の九社明神の分布する地と私は考える。公文名の笠水神社の周辺こそカサであったのではなかろうか。


加佐郡の主な歴史記録

《日本書紀》天武天皇5年9月条
 〈 神官奏曰、爲新嘗卜国郡也。斎忌(斎忌、此云踰既)則尾張国山田郡、次(次、此云須伎也)丹波国訶紗郡、並食卜。  〉 
訳すると、
神官(かむつかさ)(まう)して(まう)さく、「新嘗(にひなへ)(ため)国郡(くにこほり)(うらな)はしむ。
斎忌(斎忌、此をば踰既(ゆき)と云ふ。)は尾張国の山田郡、次(次、此をば須伎(すき)と云ふ。)は丹後国の訶紗郡、(ならび)(うら)()へり」とまうす。

《丹後風土記残欠》
 〈 伽佐郡。伽佐郡は旧笠郡の字を用いる。訓で宇気乃己保利と曰う。其宇気と称する所以は、往昔、豊宇気大神が田造郷の笶原山に留り坐して、人民等が其恩頼を受けた、故に宇気と曰う也。笠は一に伽佐と訓む。よって今、世に謬って伽佐乃己保利と曰う也。  〉 


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 加佐郡
一 □□郷 百六拾七町七段内   *これは倉橋郷といわれる
  □□□一段七十五歩     領家 延永左京亮
  廿七町九段八十三歩      与保呂 小倉筑後守
  卅一町六段百二歩       地頭 小野寺
一 田辺郷 百九十九町五段二歩  細川讃州
一 大内庄 九十八町二段三百歩  三上江州
一 □□郷 四十八町九段二百九十二歩内   *凡海郷としているようである
  □□□四十五歩  和江村 岸九良左衛門
  廿五町三段百廿一歩     建福寺
  十八町八段八段五十九歩   本光院
   二町七段六十七歩     不足可有紀明之
一 有道郷 五十二町六段百一歩内
  十七町六段三百五十三歩  二ケ村 上ノ大方殿
  卅四町九段百八歩     四ケ村 山名有道殿
一 □□郷 三十六町内        *志高郷としているようである
  □□□          井田河内守
  四町五段         法万院
  十三町五段        三上因州
一 志高庄 廿三町一段百七歩内
  十四町八段百八十歩    杉若三良左衛門
  八□□段二百八十七歩     不知行
一 河□□ 六十五町二段三百五歩 大和弥九良    *河守郷としている
  卅四町二段分 享徳元年新宮国分寺段銭致沙汰之 此外 公方御免之由申之
一 余戸里 六十町八段二百九歩  鹿王院
  十八町分 享徳元年新宮国分寺段銭致沙汰之  此外公方御免之由申之
一 池内保 十九町二段内
  八町三段百八十歩     吉原殿
  八町四段百九十七歩    成吉越中
  □□五段        庶子分 下宮四良左衛門
一 □□保 五町七段     細川讃州
一 気多保 十二町五段内
  五町           兵部少輔殿様
  五町            連成就院
  二町五段          慈光院
一 □□保 一町六段九十歩   本主
一 □□寺庄 田辺郷混入 十九町六段三百廿歩 大聖寺殿
  普甲寺 十四町九段三百四歩内
  五町三段          当知行
  九町六段三百四歩      不知行
一 岡田庄 卅九町九段四歩内
  廿町四段  御料所庄主
  十町二段二百卅六歩    地頭 下山殿
  五□百八十歩        大祥寺
  一□□段          大俣分
  五町三段二百四十八歩    無現地
一 祇薗寺庄 六十五町三百卅四歩内
  六十二町七段百八十三歩   光寿院
  十二町三段百五拾一歩   丸田村 羽太修理進
一 清薗寺 川守郷混入 廿二町二百六十歩  大和弥九良
  大□社 十六町九段二百七十歩内
  六町五段百八十歩      延永左京亮
  六町三百五十二歩     公文分 渡辺源左衛門
  九町七段百九十歩      御神領
一 志楽庄 二百町九段百八十歩内
  九十四町三段三百四十六歩  西大寺
  四十二町五十歩       朝来村 三宝院
  五町百五十歩        河部村公文分 大方殿様
  七町一段三百歩       春日村公文分 伊賀次良左衛門
  五町四段二百九十歩     朝来村公文分 同人
  廿二町二段二百卅八歩    河部村  安国寺
  廿二町二段二百卅八歩・但十五町致御公事  同半済  延永左京亮
  三町            同貞名  安国寺
    已上千百七十一町百九十八歩。  〉 


《地名辞書》
 〈 補〔丹後〕○宮津府志、也足軒説曰、旦波国の内加佐・与佐・竹野・熊野の四郡を割き新郡を立て丹波郡と名付く、此五郡を丹後国と云なり、此国分国なるが故に神社の郡違多し、国造以後のことを知らずして撰集なしたる延喜式は大野の神社、多久神社、揆枳神社を竹野郡とし、三重の神社を与佐郡に出せし類なり、是皆丹波郡の神社也、和銅の国造は加佐郡より検地し竹野郡に終る、依て両郡を公庄に定め諾良帝の供領とせしなり、和名抄に国府加佐郡と記す、加佐は神社のかななり、又竹野郡公庄村に43元明天皇(天智の女、文武の母)奉崇郡立神社といはひ祭る。

加佐郡。本州の東偏にして、由良川舞鶴湾の二地勢に分る、今面積十万里、二町二十三村に分つ、人口六万。○本郡は和名抄十郷に分つ、天武紀、白鳳五年の条に、丹波国訶紗郡新嘗次スキの卜に会ふ由見ゆ、即此也、加佐の名は古に聞えず、蓋与謝の分地ならん。  〉 

《日鮮同祖論》(金沢庄三郎)
 〈 …次に、丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛ヒカカタノ天アマ能ノ椅建ハシダテ践歩フミアユ美ミ、天降アモ利リ坐イマ志志大八洲オホヤシマと詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には与謝郡郡家ノ東方ノ隅方ニ有速石里、此里之海ニ有長ク大ナル石前イソノサキ、長二千二百二十九丈、広サ或所ハ九丈以下、或所ハ十丈以上、二十丈以下、先ヲ名ケ天椅立、後シリヲ名久志浜、然云者、国生大神伊射奈芸命、天ニ為通ヒ行ント而椅ヲ作リ立タマウ、故云天椅立、神ノ御寝ミネ坐セル間ニ仆伏キ、仍怪ミ久志備坐、故云久志備浜、此中間云久志、自此東ノ海ヲ云与謝海、西海云阿蘇海と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。  〉 


《加佐郡誌》
 〈 名称の起源。本郡はカサコホリと言ひ、字は加佐郡を用ふるが、古はウケノコホリといひ、字は笠郡と書いたさうである。其の由来は丹後風土記に「ウケといふは、豊受大神(我が蚕桑五穀の神)が田造郷の笶原ノ山に留り居給ふて、此の地方の民其の恩恵を受けたによる」とあるに基づいてゐるものの様であ。其の笠の字を用ひた理由は、作物の成育に必要な雨などを受けたのになぞらへての事であらうかと思はれる。所が笠の字は、物の名としてはカサと訓むが為めに、後には其の起りを知らないで、専らカサと訓み、遂には文字までも全く旧のものを棄てて、伽佐、訶紗等を用ふる様になり、更に中古以後は、又今の字(加佐)を書く習ひとなってしまったのである。抑々此の字を用ゐ初めたのは、何時の頃からであるか全く不明であるが、和名類聚抄等に、此の字を用ゐてあるから見ると、可なり早くから用ひならはれてゐた事が明かである。異説一、丹後旧事記によれば、カサは神座であって、豊受大神の座せし処であるから、斯く名付けたものであるといふ。二、本郡は、雨量多く、殊に時雨など甚だよく来る故、雨を防ぐ具の大切な処といふ意で、笠と名付けたといふ。  〉 


《京都府の地名》
 〈 加佐郡
     面積九六・四六平方キロ
     大江町
:現在は一郡一町であるが、かつては舞鶴市全域・宮津市由良地区を含み、府北部の由良川下流域および若狭湾の支湾舞鶴湾沿岸部一帯を占め、東は若狭国大飯郡(福井県)、南は丹波国何鹿郡(現綾部市)・天田郡(現福知山市)に、北は大江山(八三二・五メートル)山系で与謝郡(現与謝郡・宮津市)と、西は丹波国天田郡に接していた。
 地名は藤原宮出土木簡に「丙申年七月旦波国加佐評口[ 」とみえるのが早い。「丙申年」は持続天皇一〇年をさすと考えられる。「日本書紀」天武天皇五年九月条には「詞沙郡」、寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)には「伽佐郡」とみえるが、「延喜式」神名帳・「和名抄」に「加佐郡」とあり、一般には「加佐」を用いたと思われる。「延喜式」(武田本)神名帳は「カサ」と訓じている。
 なお京都白川家に伝来したと称する「丹後風土記」残欠は地名の由来について
 …略…
と述べ、古くは「笠郡」と記し「宇気乃己保里」と訓じたという。「宇気」とは丹後にゆかりの深い豊宇気大神によるが、「笠」は「かさ」と訓じるので誤って「加佐」と記すようになったとする。もとより地名説話にすぎない。
〔原始〕 縄文時代の遺跡は三河遺跡(前期)、内宮の梅ケ平(ルビ・だいら)遺跡、高津江の高津江遺跡、南有路の高川原(ルビ・たかがわら)遺跡、舞鶴市内では地頭遺跡(前期−後期)、和江遺跡(前期−晩期)・三日市遺跡(中期)・桑飼下遺跡(後期)・岡田由里遺跡(後期)・蒲江遺跡(後期)など由良川流域に多い。前期は少なく、多くは中期−晩期に属するものである。
 弥生時代の遺跡も由良川流域に多く、河口よりさかのぼる形で蒲江・和江・桑飼下・岡田由里・地頭・高津江などで発見されている。また郡内中央を南流する宮川流域の梅ケ平や舞鶴市内の高野川・伊佐津川流域にもある。
 丹後半島には、福田川・竹野川・野田川流域に古墳時代前期の広大な前方後円墳があり、また若狭の北川流域にも同様のものが発見きれているが、旧加佐郡域で発見されているのはもっぱら後期のもので、舞鶴市内では横穴式石室を主体とした六世紀末から七世紀の円墳が多い。現加佐郡内では由良川流域に三河古墳、北有路の阿良須神社古墳、上野の上野古墳(円墳)、波美の宮山(ルビ・みややま)古墳群(円墳)、関の段(ルビ・せきのだん)古墳、宮川流域に天田内の荒神塚古墳(円墳)・大明神塚古墳(円墳)、内宮の城山(ルビ・しろやま)古墳(円墳)などがある。
 高川原遺跡からは六−七世紀のものとされる住居跡が発見された。
〔古代〕 郡名は藤原宮出土木簡に「丹□国加佐郡白薬里大贄久己利魚・《私注・月編に昔》一斗五升和銅二年四月」とみえるのが早い。先引の木簡に「旦波国加佐評」とあり丹波国に属していたことが知れるが、「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に「割二丹波国加佐、与佐、丹波、竹野、熊野五郡一、始置二丹後国一」とみえ、この時他の四郡とともに丹後国を形成した。
 「和名抄」に記す加佐郡内の郷は志楽・椋橋(刊本は高橋)・大内・田辺(刊本は田造)・凡海・志託・有道・川守(ルビ・かわもり)・余戸・神戸(高山寺本なし)の一〇郷で、現加佐郡大江町内に比定されるのは有道・川守の二郷である。神戸郷を大江町内に比定する説(大日本地名辞書)もあるが判然としない。有道郷の郷域は北有路・南有路を中心にした地域、川守郷は現河守を中心とした地域と考えられている。
 「延喜式」神名帳は加佐郡に一一座を載せるが、現加佐郡内では「阿良須神社」が北有路の阿良須神社に比定される(舞鶴市域内に比定する読もある)。宮津市内に比定される「奈具神社」を除く他の九座は舞鶴市内とされている。現加佐郡内で古代に建立されたと考えられる寺院は南山の観音寺、尾藤の常楽寺(ルビ・じょうらく)、河守の清園寺(ルビ・せいおんじ)などである。
 なお「日本霊異記」上巻の「嬰児鷲所禽他国得逢父縁」に、皇極天皇時代のこととして鷲にさらわれた娘が丹波国加佐郡で父親と遭遇した話がみえている。
〔中世〕 加佐郡内の古代郷には一二世紀中頃から各々ほぼ郷名を負う荘園が立荘されていったが、現加佐郡内に比定される有道郷には立荘された様子がみられず、中世にも郷として存続していた(丹後国田数帳)。川(河)守郷には一三世紀中ば頃の大江町観音寺文書に河守御庄がみえる。なお丹波氷上郡(現兵庫県氷上郡)に新補地頭として補任された久下氏の一族が、一四世紀中頃には河守郷の代官として名をみせており(久下文書)、丹波における同氏の広範な活動がうかがわれる。
 現加佐郡の西北部、与謝郡加悦町、福知山市との境の大江山は、お伽草子「酒呑童子」、謡曲「大江山」などで知られる源頼光鬼退治伝説の舞台とされる。この伝説は丹波国天田郡から丹後国にかけて流布する用明天皇の第三皇子麻呂子親王の鬼城退治伝説と重なって分布する場合が多い。郡内には頼光鬼退治に関する伝承地として、二瀬川(宮川)、南山の鬼ケ城、仏性寺の鬼ケ茶屋などがある。
(近世〕 天正七年(一五七九)七月、一色義有は細川藤孝・忠興父子、明智光秀らに攻められて降伏した。翌八年に細川氏が丹後を与えられて入国、忠興は宮津城(跡地は現宮津市)、藤孝は田辺城(跡地は現舞鶴市)を築城したという(丹後旧事記)。慶長五年(一六〇〇)細川氏は豊前中津(現大分県中津市)に転封、京極高知が丹後全領を与えられて入国、田辺城に任した。同七年高知は検地を行ったが、この時加佐郡は村数一三四(ほか枝郷一三)、総高三万七三八三・〇七石であった(慶長検地郷村帳)。このうち現加佐郡内に含まれる分は二六村六一五一・五二石、舞鶴市分は一〇七村三方五七四・五九石、宮津市分は一村六五六・九六石。
 元和八年(一六二二)高知の死後遺領は長男高広・次男高三・養子高通の宮津藩・田辺藩・峯山藩に三分された。加佐郡一三四村のうち一二一村三万五千石は田辺藩領、残りは宮津藩領。現加佐郡分二六村のうち田辺藩領一二村、宮津藩領三一村、残り一村は両藩の入組となった。田辺藩の在方支配は、藩領を六地区に分けて代官所を置いたが、現加佐郡分は川口東(ルビ・かわぐちひがし)・川口西に分属した。宮津藩領分のうち三村と田辺藩と入組の一村は寛文六年(一六六六)幕府領となり、以後変遷しながらも幕末には幕府領であった。
〔近現代〕 明治元年(一八六八)幕府領は新政府直轄地として久美浜県となり、同二年田辺藩が舞鶴藩に、同四年七月廃藩置県で舞鶴藩が舞鶴県に、宮津藩が宮津県となり、同年一一月三県は豊岡県に編入。同九年豊岡県が廃されて京都府の管轄となり宮津支庁に属した。同一二年郡区町村編制法が実施されて加佐郡役所が舞鶴に置かれた。
 明治二二年町村制施行によって郡内は舞鶴町・池内村・中筋村・高野村・余内村・与保呂村・倉梯村・志楽村・朝来村・西大浦村・東大浦村・河守下村・河守上村・河西(ルビ・かわにし)村・河東村・有路上村・有路下村・岡田上村・岡田中村・岡田下村・丸八江(ルビ・まるやえ)村・東雲村・四所村・神崎村・由良村の一町二四村となった。昭和一三年(一九三八)舞鶴市・東舞鶴市が成立して加佐郡より分離。同一七年朝来・東大浦・西大浦の三村が東舞鶴市に、同三一年由良村が宮津市に、同三二年加佐町(同三〇年岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神埼の五村が合併)が舞鶴市に各々編入分離、加佐郡は大江町一町となった。  〉 


《角川日本地名大辞典》
 〈 古代〜近代の郡名。丹後国5郡の1つ。丹後国東南部に位置する。西部に由良川が若狭湾に注ぎ、北部は若狭湾支湾舞鶴湾が半島に抱かれている。古くは丹波国に属す。和銅6年4月丹波国から丹後国を分置してより丹後国となる。『日本書紀』天武天皇5年9月条に訶紗郡、藤原宮跡出土木簡に加佐評、「東寺百合文書」寿永3年4月平辰清寄進状案に伽佐郡、『延喜式』神名帳・藤原宮跡出土木簡・『和名抄』などに加佐郡と用いる。

〔古代〕由良川流域には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多い。古墳は丹後北西部のものより時代も下り6〜7世紀の円墳が多く、規模も小さい。『和名抄』に示す郷名は、高山寺本に志楽〈之良久〉・椋橋・大内・田辺・凡海〈於布之安末〉・志託〈之多加〉・有道〈安里知〉・川守・余戸とし、『和名抄』刊本に椋橋の代わりに高橋、田辺の代わりに田造とし、神戸郷を加える。志楽郷は現在の志楽・朝来・河辺谷一帯、椋橋郷は与保呂・祖母谷両川流域、田辺・大内両郷は現伊佐津川・高野川流域一帯、志託・有道・川守郷は現由良川流域の岡田地区〈現舞鶴市〉・有路地区〈現大江町〉・河守地区〈現大江町〉付近、余戸は現中舞鶴付近を一応あててみることができる。神戸郷は考察の手がかりがないし、凡海郷は漠然と北部海岸地帯をあててみるにすぎない。『延喜式』神名帳は加佐郡に大1座・小10座をあげているが、そのうち名神大社大川神社をふくめて奈具・伊知布西・阿良須・麻良多神社の5座が由良川流域にある。ただし阿良須神社は現大江町域のものを数えたが、現舞鶴市字小倉の同名神社を数える説もある。奈具神社のある由良は現宮津市域となっている。『和名抄』刊本には丹後国府を加佐郡に在りとし、「上七日、下四日」としている。平安期に創立されたと伝える寺院に松尾寺・金剛院・多祢寺・円隆寺(以上、舞鶴市)、観音寺・清園寺・常楽寺(以上、大江町)などがある。

〔中世〕「丹後国田数帳」によってかつて『和名抄』にあげられた加佐郡10郷の変遷を見ると、まず郷名が残っているのが明確なのは田辺・有道2郷、虫損で郷名不詳3郷のうち、同帳冒頭の郷は内容的に倉橋(椋橋)郷とみられるが、残り2郷は不明。郷荘保のいずれか不詳の65町2反305歩大和弥九郎云々の条は、34町2反分享徳元年新宮国分寺段銭云々とあって、「康正二年造内裏段銭并国役引付」に丹後国河守郷段銭、大和弥九郎9貫590文とあるのと照合し、また大和氏が河守郷を領していたことを示す足利義満袖判御教書(萩藩閥閲録)もあるのでここの不明部分を河守郷にあてることができる。田数帳より早く13世紀の観音寺(現大江町南山)文書には「河守郷荘」があるのも注目すべきである。かつての郷が荘となっているのが大内・志高・志楽の3荘、同じく里を称するのが余戸里、かくして『和名抄』に見える郷名で田数帳との関係不明のものが凡海と神戸の2郷であるが、さきに郷名不詳として残った2郷のうち、某郷49町9反292歩は志高か凡海郷の可能性があるし、某郷36町内云々と記したところは志高郷の可能性を残している。理由は前者に含まれている和江村は、海にも志高荘にも近いこと、後者の領主三上氏は後世志高城主三上氏と同苗字と思われるからである。加佐郡における勢力の配置はまず倉橋郷における守護代延永左京亮をあげねばならないが、彼の倉橋城は竜勝寺裏山の城とも思われるが、あるいは亀岩の城かもしれない。いずれも跡地は舞鶴市字行永である。延永氏はこののち永正13〜14年に、一色氏反主流の一色九郎と若狭武田氏反主流の逸見某と組んで丹後守護一色義清・若狭守護武田元信らの連合軍にあたったが追いつめられて倉橋城とともに滅んだ。加佐郡西部の田辺郷・大内荘には細川讃州(成之)・三上江州らの勢力がある。戦国末期になると丹後の水軍の活動は活発となったが、加佐郡はその拠点をなした。この地の中世文化を考える場合は注目すべきものに、松尾寺阿弥陀如来座像・金剛院の深沙大将立像・執金剛神立像(いずれも国重文)などの快慶の作品が志楽荘に集っていること、また金剛院の三重塔婆(国重文、室町期)のごとく丹後地方には数の少ない建造物、観音寺(現舞鶴市)・金剛院の鎌倉期梵鐘・絵画には松尾寺の孔雀明王像・同寺法華曼荼羅図(いずれも国重文)、同寺終南山曼荼羅図・伽藍落慶供養図(参詣曼荼羅図)など注目すべきものが多い中世文書としては西大寺領志楽荘関係の梅垣西浦文書、同じく志楽荘関係一宮阿良須神社文書・桂林寺文書・堀口家文書・観音寺(現大江町)文書など丹後のうちで最も多く好資料として注目されている。近世〕慶長7年検地京極高知の郷村帳によると加佐郡134か村・3万7.383石であった。高知の死後丹後が宮津・田辺・峰山に分領された時、加佐郡は宮津領13か町村、田辺領120か村、ほから夏間村1村は両藩の入り組みとなった。関村は河守町分とされた。享保2年宮津へ青山氏入部の際宮津領分より波美・蓼原・公庄関村が代官領として湊宮陣屋、のち久美浜代官所支配となる。なお湊宮陣屋支配のはじめ享保2〜4年の間は波美新井市右衛門宅を代官役所とする説がある(新井家文書)。夏間村は田辺・宮津領入り組みから享保2年以後は田辺・代官領入り組みなった。加佐郡南部の現大江町に属する地域はこのように宮津・田辺・久美浜代官各領が錯綜することになった。

〔近代〕幕末期の当郷内の村数は、150か村6か町・3万9、050石余(旧高旧領)、明治12年郡区町村編制法施行時の町村数は171。郡役所は舞鶴に置かれ、初代郡長は野田新。明治22年市制町村制施行時の町村数は2。この間、明治4年7月郡内の村々は久美浜・舞鶴県所属となった。同年11年豊岡県に編入され、同9年京都府所属となった。昭和18年舞鶴市と東舞鶴市が合併して新たに舞鶴市が成立、現在、加佐郡を冠する町は大江町のみである。  〉 

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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