丹後の地名

旧・加佐町(かさちょう)
舞鶴市内の旧町名


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京都府舞鶴市

京都府加佐郡加佐町



旧・加佐町の地誌

《旧・加佐町の概要》


加佐町は舞鶴市の西部にあった旧町名。由良川の流域に位置し、西は宮津市と福知山市大江町、南は綾部市と接する。
昭和30〜32年の加佐郡の自治体名で、岡田上・岡田中・岡田下・八雲・神崎の5か村が合併して成立した。合併各村の29大字を継承した。
合併時の戸数1,906・人口9,879。町役場は志高に設置した(現・舞鶴市役所加佐分室)。
昭和32年に舞鶴市に合併した、加佐町の29大字は舞鶴市の大字に継承された。

こんな風に書けば簡単だが、実際は四苦八苦したようであり、また短命であった。
昭和32年といえば、私は10歳だったわけだが、何か意味がわからなかったが、合併とかで、東舞鶴の町中では皆が提燈行列をして祝ったという記憶が残る。

《人口》4628《世帯数》1594。

旧・加佐町の主な歴史記録

『ふるさと岡田中』
産業、経済の復興と大型化に伴い、行政もこれに順応して市町村の集中化をはかる必要から市町村合併法が制定された。加佐郡の由良川筋六か村においては村長会、村会連合会において十数回の会合、協議を重ねた結果、昭和三十年四月二十日、岡田上、岡田中、岡田下、八雲、神崎の五か村が合併して加佐町が誕生した。ここに至るまでの経過は「京都府市町村合併史」や、当時の岡田中村の記録によると次の通りである。
 この五か村に由良村を加えた六か村は、国道、府道など主要幹線が走り、また各村を南北に貫流する由良川の流域にある農村として、地形上は元より政治・風俗・産業・文化などの面で緊密な関係にあった。ただ、このうち由良村は宮津市とも地理的に近く、人の往来や産業交流も同市との関係が多かった。
 この地方の合併問題は古く大正期にさかのぼる。すなわち岡田三か村の合併あるいは岡田下村、東雲村、丸八江村の合併構想など種々論議を重ね、後者の場合は役場、学校、村会議員数などの問題で折り合いがつかず、昭和三年十月に丸八江村と東雲村が合併して八雲村が出来た。
 その後、昭和二十四年の府自治制度調査委員会の合併試案によると、この地方は岡田三か村(人口六、三七一人)と八雲、由良、神崎(人口六、二五七人)の二ブロック合併構想であった。各村会は、この合併構想をめぐって複雑な動きを見せた。とくに両ブロックとも学制改革により新たに設立される新制中学校の設置場所や、その運営について住民感情がからみ合い、それが大なり小なり合併問題に影響していた。…
…その後、東西舞鶴市議会議員との会談や、村会を開いて経過を報告、五月十六日は六か村合併委員三十人が会合して経過報告や協議を行った。舞鶴市は同月十八日の市会協議会に合併問題を提議、検討を始めた。五月二十六日、六か村長は舞鶴西議員十四人と、また六月四日は東議員十五人と会合し、六か村長会でも協議を重ねた後、同月二十二日、舞鶴市へ書面を以て六か村編入を申し入れた。同月十五日の舞鶴市会協議会では、賛成十八、反対十五で受け入れを決めた。八月三十一日舞鶴市議会は議員提案で六か村編入及び十一月三日の実施期日をはかった結果、賛成十七、反対十五で編入を議決したので、岡田中村会でも九月三日舞鶴市合併を正式に決議、翌四日舞鶴市へ決議書を提出した。
 ところが、九月十二日に至り、これまで一致して舞鶴市合併を進めて来た六か村のうち、岡田上村は「時期尚早」その他の理由をもってこの際見送ることを声明、舞鶴市への編入申し入れ決議の撤回を通告してきたので、同月二十六日の舞鶴市議会の合併問題は流会となり、他の五か村の申し入れも自然解消となった。その後、年内に数回、明けて三十年一月から三月にかけて村会協議会、五か村委員会などを開いて善後策を協議したが、岡田上村の歩調がくずれたため、舞鶴市合併は中止となり、由良村は宮津市への合併に傾いていった。
 こうした岡田上村の合併決議撤回によって、舞鶴市議会はもちろんのこと、五か村においても打撃と混乱を引き起こしたが、時期尚早の裏面には、それなりの理由と思惑があったものと思われる。
 岡田中村会も事態の急変により、村理事者、村会議員、各種団体長の合同協議会等を開いて、各村の状況報告を行い協議を重ねた結果、舞鶴市合併への一段階として、なるべく六か村合併として進み、万一由良村がこれに同調しない場合はやむを得ず、五か村合併として進むことを申し合わせた。その後もたびたび協議を行い、三月十三日、八雲村で開いた合併委員会では由良村を除く五か村で進むことを確認し、十四日、岡田下役場で五か村合併委員会を聞き次の決定をみた。なお不参加を表明した由良村は後日宮津市へ合併した。

 このような経過をたどって誕生した加佐町であるが、旧五か村が丸裸で合併したので、経済的にはすこぶる困難な二か年の町財政であった。
 その後加佐町としては今後に取り残された交通網の整備、由良川の改修など加佐町単独で行うことは難しいことと、加佐町から舞鶴市内の各産業部門への通勤者も多く、農業の兼業化が進むにつれて、舞鶴市への依存度はますます高くなっていった。こうした情勢から再び舞鶴市編入に動き始め、舞鶴市としても、さきの由良村の宮津市合併に衝撃が大きく、加佐町も宮津市への合併に傾くかも知れないとの憂慮から同市としても編入機運が熟してきた。そこで昭和三十二年三月十六日、両市町から府へ合併申請を行い、同月二十五日、府議会は加佐町の舞鶴市編入議案を議決、同年五月二十七日、舞鶴市へ編入・合併が実現した。以上の経過を記すと次のようになる。…

『郷土史・岡田上』

…岡田上村では其の後合併について諸種手だてを究明しているうちに「時期尚早」であるという結論に達したため左の理由により編入申し入れ撤回を通告した。その理由とは 一、舞鶴市会の編入申込受入決議に無理があり、今後東西両区の対立がいよいよ激化すること。
 二、現在舞鶴市の財政は赤字であって、この場合の合併は双方に不利であり、促進法の第一目的である双方住民の福祉増進の主旨にも副わぬこと。
 三、府関係の意向をただしても、二、の理由により知事の勧告も見込なく、府審議会の賛成もなく九月府会の上程は不可能と見られること。
 四、編入合併の条件については、合併前に何ら具体的な話合いがなく六か村側が無理な申し入れだけに相当不利な合併条件が予想されること。
 五、都市と農村とは生活生業等一切の環境を異にし川筋は土地の事情もちがうから川筋六か村合併が自然であること。                  (舞鶴市史より)
 以上の如く岡田上村の編入反対により、先の市議会の編入決議は無効となった為、岡田上村を除く他の五か村は再度編入申し入れを行ったが、舞鶴市民の中からも反対の声が強くなり市議会も混乱し遂にこの問題は実現に至らなかった。其の後、岡田上村と他の五か村の間にはやや感情的に気まずい状態も生まれたが、早く融和して足並みを揃え今後に対処すべきであるとの基本構想にたちかえり、一応六か村合併は異論がないのだからその問題から研究し直す事となったのである。
 昭和三十年に入るとこの問題は益々活発化し、たびたび委員会を開いてこの問題を煮つめていったが、中学校の統廃合問題で意見の一致をみないまま遂に由良村が脱落する事となった。そこで他の五か村は同年三月十四日岡田下村役場にて再度合併委員会を開き由良村不参加のまま五か村合併を決議。翌十五日には各村それぞれに合併村議会を開き、即日府へ申請したのである。

 昭和三十年四月二十日「加佐町」は誕生したわけであるが、舞鶴市とは江戸時代同じ田辺藩の統治下にあり、
政治、産業、文化などきわめて緊密な関係にあった事は申すまでもない。今後の加佐町を概観しても山積みされ
た諸問題は、舞鶴市に依存しなければならない面が多く、加佐町独自では実現困難な事が多かった。一方、舞鶴
市側にも、東西対立などもろもろの問題をかかえながらも次第に加佐町合併の機運が高まっていった。
 こんな中、昭和三十年十月二十五日に加佐町から「由良村と加佐町が合併して後、舞鶴市へ編入を希望する」
旨の申入れが舞鶴市へ行われ、また十二月八日には、由良村よりも独自で舞鶴市編入陳情書が送られた。
 これに基づき舞鶴市は、行政区画調査特別委員会を設置して現地調査などを実施し、結果一応由良村は一たん

加佐町と合併して後市編入が適当であるとの判断から、加佐町と由良村との合併斡旋にのり出したのである。これに対し由良村では、村内ではげしく議論された模様であるが、加佐町誕生の時の感情的なしこり、昭和二十九年宮津市誕生の時の合併呼びかけなどもからんで、その態度決定には四苦八苦長時間を要した。そして遂に住民の意向調査を実施、「観光立村」を表示した村民の希望により、三十一年八月宮津市に編入を決定したのである。
 昭和三十二年に入ると舞鶴市では加佐町の編入に対して対立していた険悪な空気が急に和らぎ、解決の気配がみえてきた。そして三十二年三月九日この機を待っていたかの様に加佐町より舞鶴市へ合併申入れが正式に行われた。

新町名「加佐」の起源
 加佐の地名の起源は、丹後風土記によると、加佐郡は昔ウケノコホリといい字は「笠」とかいた。ウケというのは、豊受大神(五殻及養蚕の神)が、田造郷の笶原山に留り給うて、この地方の民その恩恵を受けた。によるとあるに基いているものの様である。其の「笠」の字を用いた理由は作物の成育に必要な雨などを受けたになぞらえての事であろう。ところがその「笠」は後の人がその起りを知らないで、もっぱら「カサ」と読み遂に文字までもが「伽佐」「訶紗」と用いるようになり、中古以降は現在の「加佐」と書くようになったとある。(加佐郡誌)

カサという意味不明でありながら、大変に重要な古代地名は、この町のお陰で残ったようなことで、現在もこの地方をカサとも呼んでいる。

関連項目






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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