春部村・春日部村
(かすかべむら)
舞鶴市志楽地区の旧村


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京都府舞鶴市志楽地区

京都府加佐郡志楽村




 

春部村の概要

《春部村の概要》


 春部村(春日部村)は古代から戦国期の地名で現在は失われてない。だいたいの位置や範囲は舞鶴市の東部、志楽川の流域にあたり、旧加佐郡志楽村の範囲で、現在の志楽小学校の校区、現在は志楽と呼んでいる広域の範囲だったと思われる。
古代の志楽郷、中世の志楽荘内の3か村の一志楽荘の南部、志楽川流域の市場・泉源寺・田中・安岡・吉坂・小倉・鹿原など一帯と想定されている。「阿良須神社文書」に春日部村が祖母谷・朝来と境を接する旨を示す箇所があるので、当村は志楽川流域に比定されている。
丹後風土記残欠には春部村とあり、春部村は「村」であった。郷でも里でもなく、村は当時の行政の単位ではないので、そうしたものではない自然村落の単位をこのように呼んでいたのかも知れない。中世の行政単位と呼ぶのか徴税単位と呼ぶのかそうした「荘」や「名」でもなく、春日部はやはり「村」であった。これはこれでどうして村なのか、村とは何かと研究してみるべき課題と思われる。古代以来春部とはそうした「村」であった。
『舞鶴地方史研究』(1990.10)に、
中世村落の復原
 丹後国志楽荘春日部村・その一 志楽谷小字図をもとに・高橋聡子
…志楽荘は大浦半島の大半を占める大きな荘園であったが、梅垣西浦文書がかかわるのは志楽谷に広がる春日部村である。青葉山松尾寺の麓より舞鶴湾へ西流する志楽川を中に、吉坂・鹿原・安岡・田中・小倉・泉源寺・市場の集落が散在する志楽谷は、名利金剛院・松尾寺を有し、吉坂がもと木津坂で若狭国木津荘へ向う坂ということで名付けられたといわれているように、往古より若狭への街道筋でもあった。西大寺領春日部村は、この志楽谷に浦(佐波賀・波佐久美・大丹生・瀬崎)を含んでいる。…
市史もそう書いているが、中世は大浦半島の一部も含んだのであるが、そうなれば、どうも自然村落としての村だけとは言えそうにもなくなる。
古代もそうであったかはわからない。どちらかと言えば含まなかったような感じがある。村と呼ぶからにはそれなりの実体としてのまとまりがあるはずで、何も村としてのまとまりがないのに「村」とは呼ばないと思う。春部はそうした村であったと思われるが、中世になれば、一宮の宮座組織が作られていたようで、いわば地域に基づいた自治組織体のように思われる。
 中世の春日部村は庄園としては、「西大寺光明真言料所。暦応4年10月4日、足利尊氏が「丹後国志楽庄〈除醍醐寺并北禅院造営料所定〉地頭職」を筑後国竹野新荘の替として西大寺に寄進、のち正平7年後2月13日付西大寺長老宛ての後村上天皇綸旨によって、この時寄進されたのは志楽荘内春日部村であることがわかる。以後、康永4年3月15日には「造外宮料丹後国志楽庄之内春日部村役夫工米」が免除され、応永元年8月4日、同5年10月3日の両度には諸公事・守護役が、同21年閏7月14日には御即位段銭がそれぞれ免除されている(西大寺文書)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」には南都西大寺領「丹州志楽庄段銭」5貫文が見え、」(『角川日本地名大辞典』)。
小倉の阿良須神社は春日部村一宮で、南北朝期・室町期の神事・宮座・神田等に関する記録を所蔵、村落内部の祭祀慣習について資料を残しており、その祭礼芸能には風流踊の伝統が現在にも引き継がれている。

なぜカスカベと呼ばれるのか。これはわからない。春日部は古代部民制の名のように見える、はたしてそうした古代部民・春日部の居住地だったのか、何もそれらしき記録は残らない。
しかしそれだけとも限らないようである。
『日本古代氏族辞典』は、
春部・春日戸・春戸にも作る。(一)大化前代に設定された部民の後裔氏族の一つ。『日本書紀』継体天皇八年正月条に、太子の勾大兄皇子(のちの宣化天皇)の妃(のちの宣化皇后)の春日山田皇女が嗣がなく妾の名も絶えると悲しんだため、天皇は「宜賜匝布(さほ)屯倉、表妃名於万代」と詔したとあり、同安閑天皇元年閏十二月是月条に、盧城部連枳(クサンカムリに呂)喩(きこゆ)の女幡媛が物部大連尾輿の瓔珞(くびたま)を偸んで皇后に献じたが、「事至発覚、枳(クサカンムリに呂)喩、以女幡媛、献采女丁、是春日部采女也。」とみえる。これらの伝えによれば、春日部は春日山田皇女の御名代であるが、皇女の母家の春日臣氏が五世紀から六世紀にかけて多くの天皇に后妃を出していることから、同氏が出身の后妃のために設定、管理した部曲とみる説もある。大宝二年「御野国味蜂間郡春部里戸籍」に集住してみられるのをはじめ広く分布し、かなり全国的に設定されたことが窺われる。神護景雲三年に陸奥国牡鹿郡の外正八位下春日部奥麻呂ら三人の氏人が武射臣を賜氏姓された。(二)渡来系氏族の一つ。姓は村主。のちの河内国高安郡(今の大阪府八尾市東部)の地を本拠としたらしく、『延喜式』神名帳、河内国高安郡条に「天照大神高座神社二座(並大。月次新嘗。元名春日戸神。)」「春日戸社坐御子神社」がある。『新撰姓氏録』には、未定雑姓、山城国に「春日部主寸。津速魂命三世孫大田諸命之後也」とみえる。

丹後では弥栄町黒部が春部村だったともいう。『丹後旧事記』は、
春部村。竹野の村の西黒部村をいふ。
大宇賀神社。黒部村。祭神=大宮宜大明神 若宮売大明神。
 延喜式の竝小社にして谿羽道主命の勧請なり崇神天皇四十九年竝松社廿七社あり当郡の神戸所にて春部郷といふ今世黒部といふはあやまりか。
氷上郡春日町は氷上郡春部郷の地であった。

『天皇と鍜冶王の伝承』は、朝鮮語から解くと、カスガベとは、浦,浜辺,海辺のことという。
志楽谷の中ほどに安岡(やすおか)という集落がある。ここはヤスカとかアスカとか呼ばれたという。あるいはカスカの遺称地名かも知れない。

春部村の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
春部村(以下二行虫食)
大倉木社祭神国造(以下三行虫食)

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
一 志楽庄 二百町九段百八十歩内
  九十四町三段三百四十六歩  西大寺
  四十二町五十歩       朝来村 三宝院
  五町百五十歩        河部村公文分 大方殿様
  七町一段三百歩       春日村公文分 伊賀次良左衛門
  五町四段二百九十歩     朝来村公文分 同人
  廿二町二段二百卅八歩    河部村  安国寺
  廿二町二段二百卅八歩・但十五町致御公事  同半済  延永左京亮
  三町            同貞名  安国寺

《舞鶴市史》
志楽荘

 志楽荘春日部村一宮 平安後期以降の政治的社会的変動のなかで、諸国では国衙に結集した在庁官人層の主導のもとに、国内の由緒の深い有力な神社を一宮あるいは二宮に指定して国内の安穏を祈祷させるとともに自分たちの精神的な紐帯として最重要視した。特に一宮の社殿の修理・造営などの際には国衙の主導のもとに、一国平均役と呼ばれる国内の荘園や公領を論ぜず平均の課役によってなされるなど手厚く保護された。丹後国一宮は国衙近傍にあって延喜式の式内大社である籠神社で、鎌倉時代までは国衙の主導のもとに三○年一度と言われた社殿の造営が行なわれ、中世には国衙勢力と親密な関係にあった。これに対して丹後国二宮は竹野郡周枳相郷(現大宮町)にあって同じく式内大社である大宮売神社と言われる。 このような傾向は鎌倉時代以降、一国単位ではなく荘園や村落においても、荘内鎮守あるいは村内鎮守のために地域の主要な神社を一宮あるいは二宮と称して崇敬するようになった。志楽荘においても春日部村の大森宮がいつごろから一宮と称されるようになったのかは明確ではないが、観応元年(一三五○)六月三日に、政所尭基の宛行状によって「丹後国加佐郡志楽荘春日部村一宮御供田之事」すなわち「日日御饌料」として、在所曽保谷境杉か谷の五段が[天下泰平」「万人快楽」「庄内安穏」を祈るべく寄進安堵されており、南北朝時代なかごろにはすでに春日部村の大森宮が一宮と称されるようになっていたことがわかる。
 大森宮では毎月晦日には釈迦講が行なわれ、そのために観応元年(一三五○)に西大寺から派遣された政所の尭基から専光房に対して釈迦講田として一段が安堵されている(「阿良須神社文書」観応元年三月二十三日付け政所尭基宛行状)。書中では「往古よりの釈迦講田」と言っているが、実際に春日部村において釈迦信仰が広まるのは、おそらく暦応四年(一三四一)に尊氏によって西大寺に志楽荘春日部村が寄進されてから後のことと思われる。鎌倉時代に西大寺を復興した叡尊は京都の清涼寺式釈迦像を模した釈迦像を本堂の光明真言堂に祀り光明真言会を始めたが、これ以降釈迦信仰は西大寺にとって重要な意義を有するようになった。大森宮で釈迦講が営まれるようになるのはまさに、西大寺側が釈迦信仰を媒介にして志楽荘春日部村における荘園支配をイデオロギーの側面から補強しようとする現われである。
 ところで、専光房のあと釈迦講田を領知したものは少納言律師盛舜であったが、彼はまた金剛院の住侶でもあった。大森宮における祭祀のうぢ神事的な側面は有力農民から選任ざれだ神職が行ない、釈迦講や大般若講などの仏事的な側面を金剛院住侶が担っていたもので、神仏習合のあらわれである。

宮座

 鎌倉時代の後半以降、中世の村々には宮座と呼ばれる田遊びや田楽などの村落芸能や祭祀を行なう地縁的な合集団が形成されるようになる。始めのうちは上層農民によって排他的に行なわれていたものが、次第に中小農民らも参加出来るようになっていった。
 志楽荘春日部村大森宮においても、応永二十二年(一四一五)金剛院住侶盛舜が、自分の当知行していた春日部村内の小倉若宮法楽田半段について、「結衆等の私曲の計らいをもって違乱をなし恥辱を与え」たと政所に訴えており、この時期すでに「結集」と称される大森宮の宮座組織が形成されていたことを窺わせる。次に示すのは文安六年(一四四九)二月十一日付け一宮置文案である(写真104)。

   定 志楽庄一官置文事
     禰宜事ハ、於二座衆之内一、為二一老一可レ持并祝の事、為二二老一可レ
     持、然者神恩に八斗代壱段ツゝ、可レ取者也、
   一、大般若講并九日仕立等事、禰宜・祝為二両人一打変に可レ勤者也、
   一、御供打蒔風情事、禰宜・祝・講長為両三人可レ取者也、
   一、毎月籠事、於二神前一無二退転一通夜可□
   一、神田所当米事、講師坊・禰宜・祝座衆両三方奇(寄)召算用候て、相残
     分候ハゝ、御宮の造栄(営)あるへく候、如此定置上者、禰宜・祝・座
     衆聊違乱あるへからす、背二此旨輩一者、為二座衆一堅其成敗あるへ
     く候、仍御宮置文状如レ件、
                         政所曽禰兵衛助
      文案(安)六年二月十一日
                       (「阿良須神社文書」)

 これによれば、一宮大森社には座衆を呼ばれる上層農民による祭祀集団があって、そのうちもっとも重要な職である禰宜職は座衆のうち一老と呼ばれる年功を積んだ村の最長老ともいうべき人物がなり、禰宜に次ぐ重職の祝には二老の者がなり、彼らは神恩、つまり給田として八斗代の田一段ずつを受け取ることが出来ることになっていた。また御供打蒔風情(おそらく神前に供えた後のお下がり米のことであろう)については禰宜・祝・講長の両三人が受け取ることが出来た。その一方で禰宜・祝は交替で大般若講ならびに九日仕立と呼ばれる行事を勤めることになっており、神田からの上納される所当米については講師坊・禰宜・祝と座衆から両三人らが寄り合って算用し、残額は社の造営費用に宛てられることになっていた。さらに座衆全員の義務として毎月籠について神前において退転なく通夜することと定められていたが、これは毎月晦日に行なわれる釈迦講のことと思われる。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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