丹後の地名

鹿原
(かわら・かはら)
舞鶴市鹿原


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京都府舞鶴市鹿原

京都府加佐郡志楽村鹿原


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鹿原の地誌

《鹿原の概要》


鹿原の舞鶴市の東部。古刹紅葉の金剛院のある集落。加佐郡誌は鹿原はたぶん河原の意味だろうとしている。
中世は志楽庄春日部村の地、文明三年(一四七一)四月二一日付の溝尻兵衛三郎田地売券(梅山西浦文書)に「志楽鹿原彦二郎衛門」とみえるのが早い。天正二年(一五七四)三月七日付の次郎太郎田地売券(同文書)にも「鹿原宿の次郎太郎」とみえる。


《人口》321《世帯数》128


《主な社寺など》
氏神は阿良須神社
真言宗東寺派鹿原山金剛院(慈恩寺)
鹿原神社
臨済宗南禅寺派鹿母山徳蔵院
『加佐郡誌』
 〈 臨済宗の南禅寺派に属するもので永和二年に規塋和尚が開山せられた寺である。古は字吉坂に今谷にあって天台宗の西願寺と称し七堂伽藍の備った立派な霊場であったが、後大破したのを、安応年間の規塋が再建を発願し地を鹿原に卜して改宗して山号寺号を改め今日の様にしたのであって春日仏師の作と伝へている地蔵大菩薩を本尊としているのである。末寺には小倉の桂昌院、泉源寺の龍興院があり、境内には局の子安観音といって黄金仏であると伝へているものを奉置している。そして地方の信仰誠に厚く盆会の十七夜は近郷稀に見るの賑を呈するのである。当寺からは建長寺住職特賜の拙堂和尚や諏訪温泉寺の住職の臺 (山の下に品)和尚等の名僧を出している。  〉 


鹿原城址(細川氏と戦った竹内主膳)

《交通》
国道27号線

《産業》


鹿原の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 鹿原村
鹿原山慈恩寺真言宗号して金剛院と、開基平成天皇之皇子真如親王、天長六年開基
元禄十丁丑年まで八百七十年其後白河院、永保二年中奥御建立美福門院久安寅年七堂伽藍御建立今の本堂是なり。
本尊不動明王 叡山和尚作(相応和尚)
同阿弥陀   安阿弥作 (快慶のこと)
鎮守熊野大権現、天照太神宮、弁才天社、荒神社、ニ階之鐘楼、三重之塔あり。
城ケ嶽(金剛院の上の山)是は小松内大臣重盛美福門院当山御建立の時、奉行として爰にあり、鹿母カモ山徳蔵院禅寺なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免六ツ
鹿原村 高三百七拾壱石六斗四升
    内三拾九石壱斗壱升壱合 万定引
    五拾石御用捨高

  荒神社  鍵取 市兵衛
  山神社
  徳蔵院 鹿母山 南禅寺末 鹿原村吉坂村ノ寺
  始終住持伝来ヲ記ス
  慈恩寺 鹿原山 金剛院
  寺領弐拾弐石八斗七升八合
  境内千八百弐拾五坪  其外山林
  縁記紙面
 人王五十一代平城天皇王子高岡親王 法名真如師 出家廻国此山ニ至草創也 于時淳和天皇御宇天長六己酉年建立号金剛院九百六十年ニ及 寺之境説云 高岡親王京都ニ御座時鳳凰鳴其声善哉善哉ト鳴飛行跡ヲ慕ヒ給ふニ丹後国鹿原山ニ至山ニ宿ス 七日七夜鳴昼ハ善哉夜ハ怪去怪去ト鳴依是相応之勝地トテ開給フ鳴声薫甚敷由
  弁財天 高野山ヨリ勧請開基相継之所山上ニ有
    リ
    此外中興建立
      当時ニ楓多シ色ハ不勝黄葉多シ
  大日堂 三間四面
  地蔵堂
 高岡親王戒名真如法師初ハ東大寺ニ居給ヒ後高野山ニ住シ給ヒ其後入唐人王七十二代白河院永保二壬戌年高岡親王創建ノ跡ヲ尋神社仏閣荒タルヲ修補シ給フ是中興開山也此年大旱也 四月より七月迄雨不降諸事雨ヲ祈レトモ不降 当寺ニ詔シ給ヒ雨ヲ祈ル七日目祈結願ノ日大雨天下ヲ潤ス 亦同年御脳有諸寺諸山丹誠ヲ尽して験ナシ亦当寺ニテ祈之其験無ニヨリ衆僧相議シ若州辺ニ有不動明王勧請シテ祈祷ス 于時永保二壬戌年九月廿八日明王ヲ鹿原ニ移ス 此作無動寺ノ相応和尚彫刻三体ノ内也 悪魔退治ノ法ヲ祈ル御脳忽平愈シ給フ依而新ニ不動ヲ安置ス
   本堂 本尊阿弥陀 安阿弥ノ作
      不動明王 相応和尚作 五間四面
    往古阿弥陀ヲ本尊トス 白河天皇勅願以後
    不動ヲ本尊トス
    護麻堂 三間四面
    二階鐘楼 二間四方
    鐘ハ金崎ノ海ヨリ上リタリシ由金崎ノ銘有リ
    金崎ノ海底ニ今モ鐘有由地ニ耳ヲ当テ聞ケハ鐘ノ響有由 長浜ノ沖ニモ鐘有テ夜更ケテ海上ニ灯火見ユル村ノ者是ヲ灯明ト云
    拝殿 掛作 鎮守拝殿也 三間四方
    回廊 五間ニ一間
    会堂 廃ス
    浴堂 廃ス
    荒神社 時代不知 三尺ニ二尺
    熊野権現 同   三間ニ二間
    伊勢大神宮 同  五尺ニ三尺
    三重素塔  同  三間四面
    二王門  三間ニ二間 二王門ヨリ本堂迄
         二丁半 二王ハ安阿弥作
    方丈 九間ニ六間 今七間半ニ五間
    庫裏 七間ニ五間 今六間四方
    塔頭 今無之
    十二坊舎
 此時寺号ヲ慈恩寺ト名付慈悲ノ恩沢故亦諸堂修理衆僧供領ハ志楽ノ荘ニ於テ被為寄附御祈願ノ勅書勅額明白也 是中興開山也 亦次ニ近衛院御宇久安二丙寅年 五百八十九年ニ及 美福門院霊仏奇瑞ノ事被及聞召高岡親王ノ草創白河帝ノ中興有由所トテ新ニ弥陀ノ像ヲ安鎮シ造営有リ 平忠盛奉行タリ 今本堂也
  光厳院御字

  制札
       禁 制
    丹後国志楽庄内鹿原山
    金剛院 美福門院御願所
    右至于当庄内地頭下司以下人々等
    任自由彼寺山木切取葦背勅制
    然者可処重科之状如件
     元弘三年六月 日
 昔境内湯舟山城ケ尾山ヲ限ル近年細川家山門切ニ
仕給 城ヶ尾古城小松殿嫡子三位中将惟盛爰ニ居給

  細川家之時下馬札給ル于今在之
    宝 物
   一 五色仏舎利 三粒
   一 五筆不動専 一軸
   一 鳥羽僧正不動尊
   一 氏信筆薬師十二神
   一 大師御袈裟
   一 後鳥羽院勅額 建久戊午年被為掛
               五百四十九年ニ及
   一 光厳院御字 元弘年中山林制札 四百四年
            此年正慶 改元

   一 唐筆数多有之
   一 藤孝卿 忠興卿御自筆制札
            周快
     寺中 福寺院  藤ノ坊 橋本坊
       医王山 多祢寺 西蔵院
               由良ヶ獄 虚空蔵別
               当虚空蔵嶽トモ云昔長
               福寺ト云
     末寺由良山 如意寺 
     笠松山 泉源寺 智性院 愛宕山
   松尾村より市場迄志楽荘ト云 元来日下部村ト云古来奈良西大寺領地也 収納物相滞ニ付一色左京太夫ヲ頼田中ノ大島但馬ヲ頼テ納米取立奈良ニ送ル然所労而無功故後ハ但馬押領ス 其後大島御家人卜成故領地替ル
   一 高岡親王貞観三年上表奏事渡侮入唐羅越
     国逆旅遷化
     高野山宿坊  西谷院 報恩寺
   荒神社
   山神社  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎鹿原村(小倉村の次)
【鹿原山慈恩寺金剛院】(真言宗無本尊末寺四ケ寺寺領廿三石)
鹿原山慈恩寺金剛心院は真如親王の開基なり(真如親王は平城帝の皇子なり、始め高岡親王と称す、嵯峨帝の位に即くに及び立ちて太子となる、平城帝既に位を譲りて後奈良の故宮を修理して妃薬子と居焉、薬子の人となり恣にして奸なり、其兄仲成勢を恃みて頗る暴戻なり、遂に薬子と重祚を謀る、事露はれて皆誅に伏す、此時太子も亦廃せられて僧となり名を真如と改む(日本後記三代実録)後に入唐して遂に返らず)、天長二年真如親王諸国巡遊して志楽の庄に来り(在昔高岳親王京にあるの日鳳凰来り鳴く其肇善哉善哉と呼ぶ、高岳親王之を追ふて丹後に来り其鳥鹿原山に来り七日七夜鳴く、於是高岳親王其地を卜して伽藍を建立すといま人語り伝ふ、奇怪の説なれども、仲成の事露るるに及びて、高岳親王鳥に托して丹後に遁るにも斗りがたし)堂宇を建立す、號して金剛院といふ。後二百余年を経て白川帝の御宇に至る永保二年夏四月より雨ふらず七月に至る、於是新たに不動明王を勧請して請雨経法を修す、蓋勅に応ずるなり(日本史請雨経法を神泉苑に修する事を挙げて他の寺院を挙げず)、其請雨の験ありて慈雨の澤天下に及ぶ、よって慈恩寺の勅號を賜はる、是年重修の勅ありて伽藍を再建す、後六十年を経て近衛帝の御宇に至る、久安二年美福門院大伽藍を増立して三重の塔を造る(日本史曰后嘗金剛勝)是時平忠盛普請奉行となる。先是永保年中以来永く勅願所となりぬ、勅書勅願今に存す、皆以て徴とするに足る、後世に至りては元弘三年の制札、其文に云、
丹後国志楽庄内鹿原金剛院
美福門院御願所

右至于当庄内地領下司以上人々等任自由彼等山木切取輩背勅制顕然者可處重科之状如件
元弘三年六月 日
 愚按ずるに、丹後より御願所に至る凡廿字是を本文とす、勅封の處は今冨御紋の在る處なり、右至て以下月日に至る四十六字は即ち宮司の付録なり、元弘年中既に一色氏丹後の国司なり、恐らくは一色氏前司に継ぎて月日を改め故の如く建る所ならん、此後細川氏二代の制札あり今此を用ゆ。辛丑夏余其寺に遊びて堂宇及仏像尽く是を観るに昔の如く壮なる事なしといへども、本堂の傍に鎮守社ありて天照、熊野権現を合せ祭る、其社の前に拝殿あり、所謂かけ作りなり、懸崖の下に柱を建つ凡二丈余り、本堂の前に護摩堂あり、護摩堂の前より石階六、七十段を下りて右の方に三重の塔あり、塔の前に大日堂地蔵堂あり、又楼門の内に十二坊今左右に連り、鐘楼塔堂悉く備はる、其門の前に下乗の札あり。本堂に安置し奉る不動明王は相応和尚の作なり、本堂の脇士多門天持国天は運慶の作なり、阿弥陀如来は行基菩薩の作なり、永保以前は是を以て本尊とすといふ、六臂如意輪観音は安阿弥の作なり、愛染明王は弘法大師の作なり、金胎大日如来は仁和寺智証大師の御作なり、弘法大師の木像は真雅の作なり、護摩堂に安置する不動明王は智証大師の作なり、塔の内にある大日如来は安阿弥の作なり、地蔵堂の地蔵は津志王丸の身代り地蔵なりと称す。
蔵宝目録
一、真如親王肖像(御自製)。一、種字曼陀羅(仝上)。一、五色仏舎利(開山真如親王手付の存する所)。一、鬼形仮面()…略…
【にしきの里】鹿原山に楓樹多かりしかばにしきの里といふ。藻塩草ににしきの里は春部の次にありといふ、丹後とも備中ともあり、備中名勝考に備中の国に探り求めるは誤りといふ。
【犬の馬場】(鹿原山境内城の尾といふ所)
平重盛の五男平忠房丹後の守に任ぜられ丹後侍従といふ、其住国の頃此處に於て犬遂物をなせりといふ、今に其馬場の所あり犬の馬場といふ、古き絵巻物あり。
【鹿母山徳蔵院】(禅宗、末寺二ケ所)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 現時の志楽村耕地の大半は枯木ケ浦の入江であって字鹿原小字船塚(船附の意か)まで船が出入したとの説がある。
字鹿原恐らくは河原の意であらう。此所に鹿原山慈恩寺(金剛院は主坊)がある。郡中最古の建築物で詳細は神社寺院の部に載せてある。又城址があるがあるが之は竹内主膳(現竹内家の祖)の依った城で天正元年に細川幽斎の為めに落とされたと伝へられている。尚ほ小字杉の木に送り杉がある。それは水田中の倭杉であって、古老の伝ふるところによると白鳳十年十月十四日の北国大地震に際に青葉山が崩壊したが、其の時山中の大杉一株土砂と共に流出して埋もれ、梢のみ現はれたものであるといはれている。(異説がある。)  〉 


鹿原の小字


鹿原 札垣 上谷 大柳 松谷 森ノ下 森ノ内 三角 ハビロ 樋ノ口 白屋 下河原 金屋 村中 竹ノ内 竹林 ヨトク 弁才天 猫谷 中道 堤口 馬場 タバタ ヒハダ 堤 小谷 石橋 角田 鎌谷口 谷田 鎌谷 柴崎 宮ケ谷 細迫 トチザコ 小谷口 円成寺 大崎 桜谷 山本 湯舟 上竹 杉ノ木 大松 大丸田 西ノ谷口 西ノ谷 サコダ 庵ノ谷口 井根口 庵ノ谷 石井ノ向 石井口 行次 ソリダ 石井 煙谷 小屋ケ谷 弘法 バンジャ 下西ノ谷 崩レ 下小谷 大滝山 岸ト

関連項目

「志楽つづき」


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