丹後の地名

吉坂
(きっさか)
舞鶴市吉坂


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京都府舞鶴市吉坂

京都府加佐郡志楽村吉坂

吉坂の地誌




《吉坂の概要》

吉坂は舞鶴市の一番東側で青葉山の南麓。吉坂峠は福井県との境になる。松尾寺の入口にある。
中世志楽庄春日部村の地で、承久元年(一二一九)九月二三日村安永吉永田地寄進状写(金剛院文書)に、
 志楽庄安永名之内奉寄進西願寺領事
  合・斗代壱段者  在所吉津坂村道祖神前
とある。
丹後・若狭両国の国境であったので、近世は足軽二人のいる領境番所を置いた。
明治35年には吉坂堡塁が置かれた。

《人口》174《世帯数》69


《主な社寺など》
氏神は小倉の阿良須神社。
岩室稲荷神社・稲荷神社・白髭神社
吉坂堡塁

《交通》
松尾寺駅
国道27号線

《産業》


吉坂の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 吉坂村は
若狭丹後の境なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈   定免九ツ二分
吉坂村 高百七拾壱石三斗八升八合
    内三石九斗九升五勺 万定引
    弐拾弐石御用捨高
  白髭大明神  鍵取 市郎左衛門
  稲荷大明神  称宜 太郎太夫
   当時山ノ尾中段ニ高サ壱丈斗切立タル如ク見事成ル岩有リ 其内ニ霊狐住リ岩宇呂三太夫 ト云是ヲ祝フ  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎吉阪村(鹿原村の次、是より若狭の国に至る)
【岩窪稲荷大明神】
岩窪稲荷大明神は白狐なり、俗名を岩窪三太夫といふ。元吉阪の農夫其山林に岩窪あり高サ一丈余、故大湖石の如く處々に穴あり、其穴に古より白狐栖めり、農夫毎に之が為に食事を与ふ、於是白狐遂に農夫と馴れ、白髪の老翁に化して毎月朔日其家に来り審に吉凶を告ぐ、斯の次第自然に世間に流布するに及びぬ遂に岩窪稲荷大明神と勧請す。田辺侯の参勤に年々護道すといふ、嘗て江戸の邸舎に於て岩窪三太夫と称し人と相撲を取る蓋此狐なり。先是牧野侍従鶴を愛す、其鶴狐の為に捕はる、於是侍従大に怒を発し使者を岩窪稲荷に遣し、昨夜狐鶴を取る今其狐を捕へ官に訴へずんば稲荷の社悉く之を毀たんといふ、是夜虎落(獣を捕ふる器名)の内に其狐入りて死す。此外奇瑞の毎度あるなり、今も白髪の老翁に化したるは往々の人の見る所なりといふ。
 【付録】(白髭大明神、貴船大明神)
【湊の森】
【甲山】(若狭国境)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 吉坂にクレ谷がある。公家谷の訛であって高穴穂の朝、億計、弘計の御子等潜み坐せし故後人が尊んで公家谷と称したのであるとのことである。  〉 


吉坂の小字


吉坂 六分市 クズレ 大津下 煙谷 砂田 谷ノ向 大津 墓ノ下 寺屋敷 谷ノ中 小谷ノ中 今谷口 谷ノ奥 秋加 谷ノ下 アバラ 金小石 高岸 大土井 尾畑口 ヒヘ田 堂ノ向 クレ谷 杉ノ木 月ゴシ ホソ 森ケ奥 才ノ神 峠谷 小谷 森ノ向 西ケ迫 キドコ 林ケ谷 西谷 桑迫 滝ノ尻 宮ノ奥 宮ノ口 ツカホリ 細迫 鍋谷 西荒田 迫田 由里 堂ノ上 駒ケ谷 千石谷 中谷 尾畑 アンノ谷 岩尾谷 今谷 大地 忠谷 長迫

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