「現代」という時代はいつから始まったのであろうか。人類史の大昔からあって、未来永劫変わることなく続くというものでは決してない。
アメリカの未来宇宙マンガで社長にコキ使われる社員の姿を見ていて私の弟は笑ったものである、「こんな時代でも社長なんかおるんか」。
いかにもアメリカ的で未来永劫社長や社員がいると思い込んでいるのであろうか、それが子供でもおかしかったのであろう。王様や殿様や家来が宇宙旅行の時代にもいると考えるような時代錯誤話である。
「現代」もいつか始まって、いつかは終わるという歴史的文化的な人類史上の一時代である。
現代というのは今現在の社会のことであるから、それがいつ始まったのかという問題である。
一般には戦後である。1945年の日本の敗戦から始まるとされる。それも一つの凡俗な正解であろうが、しかし社長や社員が生まれ、それらしく社会に登場してくるのは、もう少し早い。どこで線を引くかは諸説あるが、歴史は人間が作るものである以上は前の時代とは明確な断層があって区切られ、従来には見られなかった新しい歴史の主体者、新顔の役者、これまでにはなかったタイプの人間たちが社会に登壇してくるところで線を引くより仕方なかろうと思われる。
舞鶴の、あるいは丹後の現代史はいつどこではじまったのであろうか。
舞鶴市議会やクソ役人などで始まったとかいうことはありえない。病院を潰したりゼーキンの無駄遣いはあっても舞鶴の未来を本当に切り開く主体者であるなどということは未来永劫変わることなく決してないであろう。
未来を切り開く歴史の主人公は従来社会の批判者、否定者として社会に登壇してくる。何も性格が悪いからではなく、彼らの置かれた経済的立場、それを反映した社会的立場から、彼らは心ならずもそうあらねばならないだけである。
ある程度意識的論理的で、ある程度は行動戦略を持った大量の否定者の登壇となれば、「米騒動」(1918)のあたりとなると私は考える。私が考えるというのかそうした説に賛成するのである。
『中舞鶴校百年誌』は、
〈
大正3年に勃発した第一次世界大戦に日本も参戦(日独戦争)し青島を攻略した。この参戦により一部に大正成金を生み出したが、好景気会社は別として一般大衆は物価騰貴にあえぎ官公吏や教員なども「中流の名をもってよばれる貧民階級」「洋服細民」というよび名が生れるほど窮乏にあえいだのである。
その一例として大正7年2月「東京朝日新聞」に小学校教員が訴える投書を紹介しよう。
「自分は月俸20円の小学校教員である。家族は自分等夫婦のほか親一人、子供二人の5人ぐらし。米は平均一人前3合として日に1升5合、一ケ月4斗5升は要る。1升24銭として月11円25銭、野菜、味噌、しょう油、マキで3円、冬期は炭が20貫目要るとすると10貫目3円として6円、石油が2升、1升30銭として60銭。すなわち必要欠くべからざる生活品だけでもすでに20円85銭になる。しかも互助会といって40銭を天引かれ、新聞雑誌代といって30銭を引かれ、茶話会といっては20銭を引かれるので、実際手にはいる金は18円余。これでどうしてくらしてゆけようか。しかたがないから米を少しでも減らすために麦を半分以上まぜ、日に一度は粥なり雑炊を食っている。炭が高いから家内中湯にはいらぬことすでに月余。いっぱいの酒、一片の肉はおろか、一個の焼イモを買う余裕もない。いわんや一枚の着物を求むることをや。お正月がきても餅もロクロク食えず子供に晴着一枚着せることもできぬ」
同年3月宮城県下の駐在巡査佐川芳之助(45)は家族6人とも枕をならべて自殺した。物価騰貴で食えないためであった。
急騰を始めた米価が投機商人による米の買占めと、大地主や米商人の売り惜しみを引き起している最中の大正7年7月、寺内内閣がシベリア出兵を発表するや、まるで火に油を注ぐように一升50銭になったときその怒りが爆発した。
〉
従来から何度か見られたような近世的な米の凶作に原因した米価の騰貴ではなかった。米が無くて値上がりしたのではなく、米はあるのに騰貴した。直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものであった。まさに現代的な要因による米価の騰貴であった。少し以前の石油のようなもので、中国やインドのためというよりも戦争が続けば、4年も続けば物資はそろそろ欠乏しはじめ絶対に当然にも石油は値上がりする、貴金属なども値上がりし、要するにすべての戦争に必要不可欠な資源は戦争で大浪費されるため値上がりすることになる。よく知られた経済法則で、それを見越してファンドなどが買い占めるわけである。未来が正しく予測できるほどには人間は利口ではないので、大もうけできるかも知れないし大損するかも知れないが、皆がそうしたことに走り出す。全体がまともな生産活動よりも、大バクチでバカ儲けをしようとばかりやりはじめる、そうした、カジノ資本主義経済にますます狂ってくる。
米価だけに限って見れば、根本的には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず、地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある、と言われる。
米価は大正18年8月2日のシベリア出兵宣言とともに急騰した。神戸市を例にとれば、1升当りの米価は8月1日の40銭7厘から8日には60銭8厘にまでなった、という。
他方の賃金も上昇すれば文句はなかろうが、賃金は上がらない、それどころか輸出急増にともなうインフレにより勤労民衆の実質賃金は低下した。一日働いても米一升(1.42…キロとか、だいだい1.5キロである)の値にもならなくなってきた。オヤジがええとこで働いていても三人家族ならその米代にすべてが消えた。ワーキングプア。今の社会状況に似ているわけであるが、この時代になれば、もう今現在のおおかたの眠ったような無気力無関心無行動な労働者を大きく超えるほどに民衆の意識や行動力は進歩していた。日露戦争講和反対運動や護憲運動の経験、前年のロシア革命の影響や民本主義思想の浸透により大きく変化向上していて、ここに空前の大騒動を現出した。とされる。
同書は続けて、
〈
全国で一道三府三十二県に及んだ米騒動は大正時代の最も大きな社会的事件であった。舞鶴での米騒動を警察の記録や、当時の目撃者の話から再現してみよう。
8月には大都市では一升五十銭となり、10日は京都、名古屋などで群衆が米屋を襲い大阪、神戸へひろがっていった。
舞鶴でも8月4、5日ごろから白米一升四十銭を越え始めた。海軍工廠の工員や雑役、沖仲土、左官、手伝いなどで組織している「一心会」の会員たちは、海軍酒保(共済組合売店)で市価より安い米が買えていたが、暴騰のため市価との差が縮まり13日、一升三十五銭で売ることが発表された。
当時同工廠の工員の平均日給は八十銭(全国平均男子九十二銭、女子四十八銭)だった。「三十五銭なんて高い米が買えるか。安く売らせよう。」の声が高まった。同日夕、四時間の残業を終えた工員約千人が軍港西門を出て余部下通一丁目の海軍酒保中江出張所(現矢野食堂)をとり囲んだ。
〉
米価が上がってもそれが汗水垂らして働く疲弊の極みにあった農家の取り分になるなら、まだしも辛抱もできようが、要するに米を買い占める財力のあるクソ大金持ちどものポケットに入るだけのものである。それなら怒りは爆発しよう。
「西門」というのは、北吸の「東門」に対するもので、ここから東が鎮守府で、工廠もその中にあったのであるが、ここに門があった。こちらが本来の正門という。舞鶴鎮守府本庁の真下の、今の中舞鶴郵便局のある三角の歩道橋のある三叉路のあたりにあった。西隣に公園があるが、そこあたりが西門一丁目である。
「矢野食堂」さんは今はないが、戦後の名写真で有名な「三浦写真館」さんの東隣にあったそうである。
「酒保」というのは軍隊用語で兵隊の相手にしたコンビニである。売店である。
→余部下本通りである。西門があったあたりの上から見ているかたちになる。
左手の灰色の壁が「三浦写真館」。その手前の今は駐車場となっている所に「海軍酒保中江出張所」があったという。
尚、このあたりは空襲による火災に備えた家屋疎開が大規模に行われていて、米騒動当時の町並みではないそうである。
写真の右手に公園があって、飯野寅吉の銅像がある。舞鶴市は看板を立てて一生懸命に褒め称えている。そうしたいなら別にかなわぬが、その目の前の歴史的にははるかに重要で全国的にも知られた舞鶴米騒動にはそ知らぬ顔というのはどうした精神なのだろう。芝居の主役が誰かをも知らぬ者が言うネゴト、愚かさと一面に偏った腐った頭脳ぶりを自らで宣伝したいのならこのままでもよかろうが、…
そんなものでも現代の役場のハシクレのつもりなのだろうか。自分の誕生日も誕生の地も生まれたいきさつも、生まれた状況も知らない、ましてその誕生の意義や歴史的使命や任務などツユ考えてみたたこともないような自己認識、自己分析なし自己を見つめることもない「現代人」「行政」ということになる。カッコウだけはマネているが中味カラッポのニセ「現代人」、ニセモノ「役場」であることを自己表明しているようなものである。
現代史の幕開けの地を行く↓下の写真の三輪車のお子さん。それが舞鶴市さん(一部、あるいは大部分の舞鶴市民さん)の姿であるかも知れない。お子ちゃま、あるいは時代遅れのバカ殿様に現代という社会の要請に応えうる新しい街づくりなどはできるわけがない、病院を潰したように、それだけでも大正の米屋の百倍は悪いが、さらに舞鶴全部も潰してしまいかねない。高い高い高い俸給を支払ってやるのも、市民としても納税者としても本気にイヤになってくる。
大量に登場した大衆、これこそが現代の次にくる未来社会の主人公であり、現代は現代の役場の任務はそうした彼らに必要な最大のサービスを提供することにあろう。そう勤めてこそ町はよくなる。時代遅れのクソ公務員が何のつもりで納税者に説教たれるのかわかりかねるが、おまえさんどもすべきことはもう役割を終えた、あるいは終えつつあるような資本家や軍人やお殿様を褒め称えることではまったくなかろう。
『大江町誌』は、
〈
米騒動の影響 米騒動は、蓄積された社会の矛盾・勤労低所得大衆の不満の大爆発であった。その巨大なエネルギーは、政治・経済・社会に次のような変革をもたらしたと考えられる。
(イ)政府は、憲法制定後も厳しい官僚的専制を続け、民党の抵抗力も容易にこれを崩すことができなかったばかりか、軍閥の横暴が強まってきていた。米騒動はこの鞏固な政権を一挙に軍閥から政党の手に移させたといえる。初の政党内閣(原内閣)は騒動後一月で出現したのである。
更に、政党政治の限界を見せつけられ、ロシア革命の影響も受けて社会運動が起こり、社会主義政党も生み出されていく。
(ロ)米騒動は、生活に喘ぎ忍従と諦めに陥っていた大衆に、自らの力を自覚させ、束縛と闘う勇気を起こさせたことであろう。大戦後の世界的平和風潮とも連動して、大正デモクラシーの時代が出現する。
(ハ)労働者・小作農の団結 小作争議は大正七年に二五六件であったものが、大正十年には一、六八○件に激増し、小作人組合が各地に結成され、翌年日本農民組合結成へと発展した。労働組合も大正七年僅か一一のものが翌年には七○へと増大していった。
(ニ)解放運動の前進
明治四年の解放令の後も、依然として不当な差別と貧困に苦しめられていた未解放地区の人々も、団結の成果を自覚し、大正十一年(一九二二)全国水平社を結成して自らの力で解放を闘いとる方向を打ち出した。
〉
『舞鶴地方史研究』(69.5)は、
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舞鶴の米騒動について 藤田欽也
…さて舞鶴の場合には、第二段階にはいって地方の中小都市にも波及していった八月一三日におこっている。発端は、海軍工廠の労働者およそ一、○○○人が同日午後八時ごろ、二時間の残業を終えて工廠の西門を出ると、工廠で働く人夫の斡旋団体である「一心会」の幹事が、近くの同町警部補派出所の前で、「米屋の決議で、明日から米が一升三五銭になりました。」と伝えたことからはじまった。それをきいて多くの人が集まり、そのなかには「三五銭は高い。三○銭以下が適当である」と演説する人もでてきて、騒々しくなり、その数も工廠の労働者だけでなく、町民も加わっておよそ三、○○○人の集団となった。
当時派出所は工廠の酒保の西およそ一〇〇mのところにあったが、その前の広場に集った群衆はふたたび酒保のところへ戻って、酒保の人に米の廉売を要求した。おしかけた群衆のなかには、投石するもの、電燈をこわすもの、屋内に入って家財を投出すものもあって、ついに店のものに白米一升を二○銭で廉売させる貼紙を出させた。京都市の場合でも一升を三○銭にさせたのに比べれば、それよりまた一○銭も安いのは注目に値いしよう。
その後、群衆は二手にわかれ、一隊は北上とて長浜の米などか納めてある酒保倉庫に向い、別の一隊は南下して余部町内の米屋へおしかけた。北上した群衆は途中で、海軍の衛兵五○余名によって阻止されてしまった。群衆のなかには腹を立てて投石するものもあったが、それに対して衛兵らは銃に剣をつけて群衆に向ってきたので、群衆は口々にそれを非難した。とくに先頭にたっていた人のなかには「何故国民の軍隊が国民を突くのか。衛兵司令官の回答を待つ。」とするどく詰問するものもあったという。全国的にみると、米騒動の鎮圧に軍隊が出動した地域は一○七市町村におよび、出動人員は五七、○○○人をこえると推定されている。なかには沖の山炭鉱のあった宇部市のように、八月一七日坑夫や貧民など数千人が炭鉱主の邸宅をこわし一八日にはいると、出動した軍隊によって、坑夫一三人が射殺されたところもあった。
一方南下した別の一隊は、上一丁目の米屋へおしかけた。そのときには、そこの主人一家は酒保での事件をきいて、前もって隣家に難をさけていたが、群衆の左かには店に投石したり、店先の雨戸をこわしたり、丁度到着したばかりの一貨車分一三○俵の米の一部をもち出して、道にばらまくものもいた。彼らはさらに四軒の米屋におしかけたが、それらの店では、先手をうって「一升二○銭なり」の貼紙を店先にだしていたので、打ちこわしをまぬがれた。その後上一丁目の米屋でも、「明日より白米一升二○銭なり」の貼紙をだしたところ、夜中の一二時頃早くも、この安い米を買おうとして一○○余名がおしよせた。そうして、そのなかの数人は「米を売れ。売らなければ、八円(米一升二○銭として一俵分)をおいて米俵を持ち帰ればいいだろう。皆さん、一俵づつ持っていこう。」とくり返し大声でいった。その声におされて、店員の一人が「明朝六時から売り出す」旨の貼紙をだしたが、工廠の労働者たちは「私たち職工は午前五時に工廠へ出勤しなければなうないから、六時まで待っておれない。」といって納得しなかった。「近所の綿屋に米屋の主人がいるので、そこへおしかけろ。」といっているとき、およそ四○名ほどの兵士がやってきて、群衆を制止した。群衆の怒りをおさえる意味もあってか、兵士の方も売ることをすすめたので、その米屋も売出しをはじめ、白米八○俵と糯米七・八俵を一俵八円で売り払った。そのため、他の米屋でも同様に、同夜米を売り渡した。その後も二日ほど不穏な状態が続いたので、衛兵の町内見廻りが継続されたという。
余部町の米騒動の知らせは、隣りの新舞鶴町にも伝わり、それを聞いた群衆およそ一、○○○人は同日午後二時過ぎ、同町の米商人T方におしよせ、投石したり、格子戸をこわしたりして米の廉売を強要した。そこの米屋な初め一升三五銭の貼り札をだしたが、群衆はそれに承知せず、結局余部町と同様一升二○銭で売ることになった。ところが群衆のなかには「売る石数を知らせろ。」といって投石するものもあったので、店の方ではあるだけの白米を売ろうとして五俵ほど売ったところへ、巡査部長がやってきて、「二○○俵を一人三升づつ売るから解散せよ。」といった。しかし群集は「警察で売ることを保証しなければ、解散しない。」とか、「一軒に三升か、一人に三升か。」といって、なかなか解散しなかった。その後署長の鎮撫演説でやっとおさまったが、ときに午前二時ごろであった。なおこの米屋だけでも二○○俵の白米が売られたという。
しかし、米の廉売の恩恵にあづからなかった一般の町民は、「かえって高い米を食べなければならぬ。」といって反対し、米屋に米価の引下げを迫ったので、新舞鶴町の米屋一○軒は逆に怒り、一、○○○俵の米を大阪に移出、販売しようとして、二七日貨車に積込もうとしているところを町民にみつかって大騒ぎとなり、町長や署長の仲裁で、一時それをとりやめたが、その後も不穏な空気が続いたという。
〉
『舞鶴市史』によれば、次のようなビラが工廠内に貼られていたという。
〈
工廠内ノ掲示
奮起ヲ促ス
1、八月十四日夜 警官へ抵抗セサルニカゝハラス抜剣シテ良民ヲ叩キ 或ハ蹴リタルハ誠二奮慨二耐ヘヌ 我等ハ此際大ニ奮起シテ同友ヲ助ケサルヘカラス 立テヨ立テ
二、目的ヲ実行シルニハ一同団結セサルヘカラス 団結セジンバ目的達成セス
三、目的物ハ警察 □□
四、集合地 三条海岸へ八月十五日午後九時三十分
五、得物ハ棒切 石ハイ(紙入レ目チブシ)
団結セヨ 実行セヨ 祈ル
造キ 造船 造兵幹部
(工廠内乙造船海岸便所掲示)
今夜 九時新舞鶴万代橋ニ
集合 警察署焼打
(八月十五日)
(「新舞鶴警察署沿革録」舞鶴東警察署蔵)
〉
弁護士がビデオカメラで写しながら家宅捜索に立ち会ったものでないので、本当にこれがあったのかどうかはわからない。
「あの晩おまえ何をしとった」と言われたら誰も返事ができないな。「お前がやったんやろ、白状したほうがええぞ」と何日もやられたらたいていのもんならハイやりました、というかもしれなん。「警察がちょっと細工したら、誰でもわけなく犯人にされる」などと今回の女子高生殺害事件でもウワサされていたが、無能のウワサ高い舞鶴警察の先輩のやることだから、あるいは官憲のデッチ上げの官憲が作った「ビラ」かもわからない。こんな時代の官憲の「証拠」や「証言」や「自供」などは信用しない方が安全かも知れない。ワケのわからぬ「幹部」名や「警察署焼打」などという何の意味もない腹のたしにもならぬアホな行動をするだろうかどうか、警察などはまったく問題ではない。以外に工廠内に入り込んでいた官憲スパイが、彼らを暴徒かゴミかクズに仕上げるための細工かも知れない。こうした官憲のデッチアゲ作文らしいと多少アタマあるものならわかりそうなものを市史にさもホンマげに掲載し注意書きもない。舞鶴の歴史認識の低レベルさを示すオソマツさの象徴である。小学生がが笑う程度のものでしかない、よそへ持っていって見せ自慢したりするなよ、笑われるぞ。
どうした歴史的意義があるのであろうか。一般には組織的指導部なしの一般大衆の自然発生的暴動であったが、江戸期や近世の打毀とは違った意義をもつと言われる。
巨大なエネルギーの最初の解放であったわけであるが、米騒動は独占資本・寄生地主階級と天皇制支配体制に対する労働者・農民の反抗であり、それを小ブルジョア層が支援した。またシベリア出兵に対する無言の批判で平和運動でもあった。沈黙の政友・憲政・国民の3党に代わって全国の新聞が言論の自由擁護と倒閣の論陣を張り、すでに元老の支持を失った寺内内閣は9月21日総辞職に追い込まれた。
官僚支配では民心の安定は不可能とみた元老は政友会総裁原敬を首相に指名した。初めての政党政治のかもしだす政治的自由の拡大のなかで、労働者・農民・水平社・婦人・学生・普選・社会主義運動などの社会運動が開花して大正デモクラシーの最盛期を現出する。
米騒動は世界史的には翌年の朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動と連動するロシア革命の波紋の一つをなし、世界資本主義の全般的危機に日本もくみこまれたことを示すものであった。という。
現代の最先端を行くつもりだけのものなのか、あるいは実際は最末端を行くものなのか、どうような観光案内にもこの場所は紹介されてはいない。
米騒動百周年までには市民の浄財を集めて「記念碑」の一つでもたてようではないか。このままでは世界が嗤うのではなかろうか。
今の中舞鶴という所は海軍の町であったが、地域の文化レベルは舞鶴では一番だろうと私は思うが、ハイレベルであった。特に現代については高い。米騒動がそうであったように文化も、まず中舞鶴がトップで次が新舞鶴(東舞鶴)の順かも知れない。ここが動かなかったら舞鶴の未来はなかろう。
米騒動の資料
『舞鶴地方史研究』(69.5)の先の部分
〈
舞鶴の米騒動について
藤田欽也
一、 はしがき
昨年は米騒動がおこってから丁度五○年をむかえた。このときにあたり、今までに分っている範囲で舞鶴の米騒動について記しておこう。今後は生存者がすぐなくなりつつあることを考えれば、米騒動五○年を機会に今のところほとんどおこなわれていない生存者からのききとり調査を積極的におしすすめる必要があろう。
二、 原因
第一次世界大戦による物価の騰貴は労働者の実質賃金を低下させ、民衆の生活を悪化させた。とくに米価の暴騰は著しく、一九一八年(大正七年)三月に一升二○銭であった米価は、七月にはいると四○銭、八月のはじめには五○銭をこえるところもでてきた。舞鶴においてもほぼ同様、米価の騰貴がみられ、当時舞鶴海軍工廠で働いていた労働者約六○○○人のうち、加佐郡余部町(現舞鶴市余部)に住むところの約三○○○人は、主に同町にあった海軍工廠の酒保で米を買っていたが米価暴騰のために、予約注文していた米すら手に入らない状態になっていた。このため海軍工廠で働いていた労働者の間には不満が増大していった。一升五〇銭という米価は日給に直して平均八○銭の海軍工廠の労働者にとってたえられないものになっていた。
米価暴騰の根本原因は、大戦中の資本主義発展による都市人口の増大にともなう米の需要増加に対し、半封建的な寄生地主制のもとでの米の生産が追いつけないところにあった。それ庭加えて、大商人や一部大資本家のシベリア出兵をみこした米の買占めが、ますます米価の騰貴に拍車をかけたのである。米価暴騰で深刻な生活難におちいった民衆の不満が一挙に爆発したのか米騒動である。
三、 経過
一九一八年(大正七年)七月二二日、富山県の魚津町で沖仲仕などをして家計を助けていた漁村の婦人が、米の県外積出しに反対して運動をおこし、警察によって解散させられたのが全国の米騒動のはじ茂りである。八月二日、寺内内閣はシベリア出兵を宣言したが翌三日には同じく富山県の中新川郡西水橋町で漁村の婦人約三○○人か、資産家や、米商人の家にさしかけ、米の県外移出禁止と廉売を要求し、六日には滑川町にも波及して町当局に時価より五銭安の三五銭で米の廉売をやらせた。七月二三日から八月八日までの、騒動が富山県内にとどまっていた時期を、米騒動の第一段階とよんでいる。
八月一○日ごろから米騒動は大都市にも波及し、特に一三日ごろからは地方の中小都市へもひろがった。この八月一○日から八月一五日までが米騒動の第二段階で、この時期に民衆の蜂起がもっとも集中しておこっている。八月一○日には名古屋で市民大会が開かれ、二万人の市民が公園に集まり、そこで米価引下げを要求する労働者や学生の演説があり、京都でも同日夜、柳原の被差引部落民がまづ立上り、民衆は米商人の店におしかけて表戸をこわし、警官の斡旋で一升につき五銭の値下げを承認させ、その後各所の米屋へおしかけて「白米一升三○銭で売ります」という貼り紙を出させた。一一日には大阪で約三○○○人の民衆か集って市民大会が開かれ、聴衆の多くはその後街頭にでて米商人のところにおしかけて、米の廉売を要求した。一二日には神戸で数万の群衆がデモ行進をおこなった。外米指定商鈴木商店の元本宅が焼かれ、「神戸新聞」の三層楼も焼打ちにあった。このためここに軍隊の出動をみて、多数の検挙者を出して鎮圧された。こうして米騒動は移出とりやめや安売りの要求運動から打ちこわしへとすすんでいった。一三日になると、米騒動は首都東京にも波及して、日比谷公園で市民大会が開かれ、集った群衆から騒動がおこった。一三日までに福島・豊橋・岐阜・大津・富山・高岡・金沢・福井・和歌山・堺・尼崎・姫路・岡山・尾道・呉・広島・鳥取・高松・丸亀・高知をどの地方都市でもおこり、一四日には浜松・岡崎・奈良・福山、一五日には仙台・若松・横浜・横須賀・甲府・津・松山・門司、一六日には下関・小倉、一七日には新潟・長岡・長野、そうして二○日ごろには佐世保・熊本などの各都市に波及している。
(先の引用部分)
全国的には一六日以後、米騒動は第三段階に入り、騒動は地方の町村や山口県、北九州の炭鉱地帯にひろが った。町村の騒動は小作農や貧農が中心となって、大地主や高利貸を対象にしておこっている。炭鉱での闘争は、山口・福岡・佐賀・熊本四県の一○余カ所でおこり、九月六日には北海道空知の沼見炭鉱にもひろがり、九月一二日の三池炭鉱の騒動を最後にして、米騒動は終りをつげた。
四 性格
米騒動のおこった地域は一道三府三七県にまたがり、ほぼ全国の四分の三におよび、三八市、一五三町、一七七村で、合計三六八市町村に達している。参加人員も一○○万人をこえたといわれている。検事処分をうけたものは八、二五三人、そのうち起訴されたものは七、七七六人であった。懲役刑に処せられたものは二、六四五人、そのなかには無期のものが七人もあり、和歌山県の未解放部落民二人が死刑の判決をうけた。舞鶴では私服の警官がひそかに白墨やインクで主な活動分子の背中にしるしをつけてまわり、翌日早朝の工廠の出勤時に門のところに待機して、その目印をたよりにして一斉に検挙した。そしてそれらの検挙者から他の参加者の氏名をききだして、総数一○○余名を検挙したのであった。有罪となった人びとの中には、米の買い出しにきていただけのものもあったという。
米議動の性格についてみてみると、全国的には蜂起の主力は、労働者・農民・漁民・職人。小商人などひろく民衆各層にむよんでいたが、舞鶴の場合には、海軍工廠の労働者が群衆のなかで蜂起の主力になっている点が特長的である。ただし、その場合にも職場で蜂起したのでなく、夜工廠から出たあと、その地域の住民として参加したのであった。また全国的にもそうであるが、舞鶴ても米騒動は行動を計画し、指導する組織もなかったので自然発生的な性格をもっていた。そのため一揆的で持続性かなかった。
すでに一九一五年(大正四年)四月、友愛会(労資協調主義を立前としていた)の京都支部が舞鶴の海軍工廠の労働者によってつくられ、二年後の一九一七年(大正六年)の初めには一、二○○名をこえていた。しかし友愛会が労働組合としての性格をもってくるにつれて、工廠当局は第二組合的な工友会をつくって友愛会の切崩しをおこなったため、脱退者が続出し、友愛会京都支部は大打撃をうけて、会員も二○○人ほどに減ってしまった。米騒動のあと、友愛会京都支部幹事のO氏が米騒動の指揮者(もっともO氏は指揮者ではなかったが)として起訴されたために、友愛会京都支部ばつふれてしまった。
五、意義
当時の寺内内閣が、八月一四日米騒動に関する記事をさしとめたことから、諸新聞は一斉に寺内内閣を批判し、内閣総辞職をせまった。こういうなかで寺内内閣も九月二一日、ついに総辞職においこまれた。 米騒動はその後の労働運動や農民運動の発展のため大きな刺激となり、労働者は自分たちの権利と自由を守る労働組合をつくり、より組織的な大衆行動をおこなうにいたるのである。
大正から昭和にかけての舞鶴における歴史遺産をほりおこす仕事は全国的にみても大変遅れていると思う。今後の成果を期待して筆をおく。
〉
『舞鶴地方史研究』(69.11)
〈
◇ 資 科 ◇
中舞鶴の米騒動について
本誌第九号で〃舞鶴の米騒動について〃藤田欽也氏より、その原因、経過、意義等を明らかにしていただいたが、その後中舞鶴地区の年輪会(現老人クラブの前身)が数年前中公民館長の肝入りで郷土誌談義を録音していることが解り、その中で中地区での米騒動の件が語られているので、これを集約整理し、資料として収録することにした。
(瀬戸美秋 記)
○神成与七氏(明治二十五年生 当時海軍軍人)
米騒動の前日は、中舞鶴でも町の人々が米の値段か毎日のように上るので不安は募る一方、いつ米騒動か起るかわからないので心配だと語っていたか、下二丁目の下士卒集会所でも海兵団から電話で今晩あたり米騒動があるかも知れぬから厳重警戒をするよう連絡があり、様子をさぐってみると今夕工廠の職工が退場する頃決行するということがわかり、海軍では―早くも一ケ小隊を長浜海軍倉庫に派遣待機させていた。
いよいよ時は迫り、みるみる中に下一丁目の酒保前は、ヤジと暴徒で黒山となり、児童公園の方から一心会と書いたちょうちんをつけた一団がワーッというかん声を上げて酒保目指して集まり、折から工廠の退場時とあって職工たちと共に一層気勢を上げ、酒保に入った暴徒は、二階に上って電燈を消し、消したと思ったら大事なものからドンドン下にたたき落し、米は外に引っぱり出し俵を片っぱしから嫌で切り、道に明けてしまい、酒保はまたたくまに破壊ざれ全滅の状態になり、続いて吉岡という米屋にも押掛け米俵を切り、これも同様、道にぶちまけてしまった。
これに乗じてかれらは「こんどは長浜だ」と怒声を上げ、煽動するものを早くもみた。石油缶をたたいて長浜の坂を一目散に下ってきた。この時長浜では、海軍が一箇小隊を二隊に分け、全隊員着剣というものものしさで第一線は神社前の両方に、第二線は米倉庫前にそれぞれ配置してあった。この下ってきた暴徒の一団をみて、小隊長は大声で解散を命じたか、かえっていきりたった群衆は、制止も聞かず投石、投木等ますます反抗し、「ヤレーヤレー」と連呼するので、たまりかねた小隊長は、やむなく『突撃に−』の最後の手段をとったので、ついに暴徒は、命からがら四散した。あの際溝に、或は田圃に落ちる者もあり、悲惨を目に会って解散した。あの時もし海軍か出動しなかったら長浜米倉庫も酒保同様全滅したであろう。
○永井大蔵氏(明治十九年生 当時海軍工廠職工)
なお騒動当時、退場してくる職工に入り混じって警察官か私服で警戒していたか、手に白墨を持って群衆の中に入り、共に「ワッショイワッショイ」と奇声を上げたようなふりをして職工の服の背中とか脇に何かわからないい文字を書いてその本人の後日の証拠にするつもりであったと思う。
現場でつかまえられて、中派出所の留置場に入れられたものもあるが、その場所へ刑事が、つかまったふりをして中に入り、「あんたどんなことをした」「わたしはこうこうした……」「そうかえらいことやったなあ−、うまいことやったなあ−、おれもやってここへ入れられたんだ」というようにして、その人のやったことを、その人の口からはかしてつかまった者もあり、翌朝私は何知らぬ顔をして工廠に出勤したら、来ていない者が何人もあって、その人はどうかというと、背中に文字を書かれたものだからして、門の入口で「おい、ちょっとこい」といって引つぱられ背中の文字を目当てに拘引した。その当時伍長であった私は、ある船の上甲板に引っぱり出され、いろいろ質問されたが、私は参加してをい。私の知った人でも長い間監獄に入れられた人もあり、なかなかその当時の悲惨な状態は申し切れない程であった。
註、なお右収録には、武田直平氏(明治二十四年生、当時海軍工廠退職)の聞取りも参考にした。
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『中舞鶴校百年誌』(一部重複あり)
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大正時代
大正デモクラシーと呼ばれた時代である。大正3年に勃発した第一次世界大戦に日本も参戦(日独戦争)し青鳥を攻略した。この参戦により一部に大正成金を生み出したが、好景気会社は別として一般大衆は物価騰貴にあえぎ官公吏や教員なども「中流の名をもってよばれる貧民階級」「洋服細民」というよび名が生れるほど窮乏にあえいだのである。
その一例として大正7年2月「東京朝日新聞」に小学校教員が訴える投書を紹介しよう。
「自分は月俸20円の小学校教員である。家族は自分等夫婦のほか親一人、子供二人の5人ぐらし。米は平均一人前3合として日に1升5合、一ケ月4斗5升は要る。1升24銭として月11円25銭、野菜、味噌、しょう油、マキで3円、冬期は炭が20貫目要るとすると10貫目3円として6円、石油が2升、1升30銭として60銭。すなわち必要欠くべからざる生活品だけでもすでに20円85銭になる。しかも互助会といって40銭を天引かれ、新聞雑遮代といって30銭を引かれ、茶話会といっては20銭を引かれるので、実際手にはいる金は18円余。これでどうしてくらしてゆけようか。しかたがないから米を少しでも減らすために麦を半分以上まぜ、日に一度は粥なり雑炊を食っている。炭が高いから家内中湯にはいらぬことすでに月余。いっぱいの酒、一片の肉はおろか、一個の焼イモを買う余裕もない。いわんや一枚の着物を求むることをや。お正月がきても餅もロクロク食えず子供に晴着一枚着せることもできぬ」
同年3月宮城県下の駐在巡査佐川芳之助(45)は家族6人とも枕をならべて自殺した。物価騰貴で食えないためであった。
急騰を始めた米価が投機商人による米の買占めと、大地主や米商人の売り惜しみを引き起している最中の大正7年7月、寺内内閣がシベリア出兵を発表するや、まるで火に油を注ぐように一升50銭になったときその怒りが爆発した。
米騒動
歴史上の大事件の多くは、はじめはごくさりげない顔で登場するものだ。大正7年(1918)の夏、日本海沿いの漁師町の魚津で口火が切られた米騒動もその例外でなく、この事件はまたたく間に全国に拡がり各所で焼打ちとか流血の惨事を招く大事件となったのである。(世界文化社・日本歴史シリーズより)
当地としても舞鶴海軍工廠に多数の工員が安い賃金で働いていたので、生活に困りこの騒動に巻きこまれていったのは、やむにやまれぬ成行であった。何分日給が一円未満(写真66)で米一升50銭になったら暮せるわけがない。これらの子弟の大部分は安い外米(南京米・写真67)を食べた記憶を思い起すに違いない。
米騒動
米騒動は大正時代の大事件のひとつであり、当時の学童たちにも忘れることのないショックを刻みつけた暴動であったので今少しく舞鶴よみうり(昭和50年11月1日付)に掲載された「舞鶴今は昔」からその
一部を転載してみることにする。
大正7年8月13日午後8時30分ゴロヨリ米価暴騰ノ為メ海軍職工約三千人、新舞鶴町、余部町(大正8年中舞鶴町と改称)ニテ騒擾ヲナシ、海軍酒保中江出張所其他五、六ノ米殻商ヲ襲ヒ、店舗ヲ破壊シ、且ツ金二十銭ニテ白米ノ強買ヲシタルモノ約二百俵ニシテ騒擾ニヨル全体ノ損害約七千六百円……
舞鶴東署(当時は新舞鶴署)に残る米騒動の記録はこう書き出している。全国で一道三府三十二県に及んだ米騒動は大正時代の最も大きな社会的事件であった。舞鶴での米騒動を警察の記録や、当時の目撃者の話から再現してみよう。
8月には大都市では一升五十銭となり、10日は京都、名古屋などで群衆が米屋を襲い大阪、神戸へひろがっていった。
舞鶴でも8月4、5日ごろから白米一升四十銭を越え始めた。海軍工廠の工員や雑役、沖仲土、左官、手伝いなどで組織している「一心会」の会員たちは、海軍酒保(共済組合売店)で市価より安い米が買えていたが、暴騰のため市価との差が縮まり13日、一升三十五銭で売ることが発表された。
当時同工廠の工員の平均日給は八十銭(全国平均男子九十二銭、女子四十八銭)だった。「三十五銭なんて高い米が買えるか。安く売らせよう。」の声が高まった。同日夕、四時間の残業を終えた工員約千人が軍港西門を出て余部下通一丁目の海軍酒保中江出張所(現矢野食堂)をとり囲んだ。(写真70)
筋向いの自宅から目撃していた布川清さん(大正15年高卒・63才)は当時の記憶を次のように語られている。
「小学校へあがる前の年、数え年七つの時ですが今もその情景をはっきり憶えています。始まった時はまだ明るさが残っていました。西門の方から出てきた黒っぽい服装の工員さんたちが酒保をとりかこみ、ワイワイいっているうちに人数はこの広い十二間道路いつぱいになりました。だれかが石を投げたのをきっかけに、ガラス窓はたちまち全部割られワーとかん声をあげて酒保へなだれこんでいきました。そして米俵をかつぎ出し道路にぶちまけました。おかみさんたちがバケツを持ってこの米を拾っていました。
そのうち西門の方から海軍の兵隊が着剣した銃をかまえながら何個分隊かに分かれて出動してきました。中舞鶴の憲兵隊(現警部補派出所)から騎馬の憲兵も出て鎮圧にかかりました。群衆は二手に分かれ、一隊は長浜にある酒保の米倉庫を襲おうとしたのですが、着剣した兵隊にはばまれ倉庫は無事だったとのことです。一隊は上通りの米屋を襲ったときいています。とにかく恐ろしくて足がガクガクしてふるえがとまりませんでした。警察では群衆の中に私服刑事をまぎれこませ、あばれている者の背中に片っぱしからチョークで印をつけ、その場でつかまえた他、翌朝出勤時に工廠の門で待ちかまえ、服に印のついている者を片っぱしから警察に引っ張って調べたということも聞いてます。」
群衆は米を強奪したものもあるが、大部分は「一升二十銭」で廉売させるのが目的。海軍酒保が襲われたとの情報が伝わると、同夜群衆が押しかけた六軒の米屋ではつぎつぎ「十四日から一升二十銭で売ります」の貼り紙をした。新舞鶴町の米屋では午前零時を過ぎたとたん「十四日になったぞ。さあ売り始めろ」と深夜から安売りを強制させられた。一人当り三〜五升が多いが、中には俵ごと安価で買っていくものもあり、警察ではその後俵ごと買った八十八人を調べたうえ米屋に還付させている。
暴動には群衆心理はつきもの、襲われたのは米屋だけでなく近所の靴屋、飲食店、酒店、青物商、理髪店なども投石でこわされている。この騒動で余部町十四軒、新舞鶴町十四軒の米屋は店を閉めてしまった。同署で調べたところ、全町民の約半数が将来の生活に不安を抱き、差し当り救済を必要とするもの百二十戸、約六百 人と推定。米屋の篤志家と交渉して一升三十五銭で売るよう承諾させたり、生活困窮者には町役場から内地米一升二十銭、外米十五銭で配給する対策(十六日から)なども決め「謹ミテ新余両町民ニ告グ」のチラシ五千枚を配ったりした。
不穏な空気は数日続いたが十八日には薄らぎ、秩序も回復したので厳戒体制を解いた。この間八十人が検挙され、四百人が取調べを受け、四十七人が騒擾罪で起訴された。警官は十六人が負傷、海軍からは余部町に少佐以下六十八人、新舞鶴町に大尉以下三十九人が出動している。
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『倉梯校百年誌』
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弥三郎 大正のころなら米騒動がありましたなあ。私は工廠へ行ってましたが、インクで背中に印をつけられ、翌朝出勤時にみなつかまえられたとききました。
池田 米を買いに来るいうてびくびくしましたし。
友二郎 百姓家では米持つとるとこは襲われるといううわさでしたが何ごともなかったです。
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『志楽校百年誌』
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米騒動が起こる
大正七年は、第一次世界大戦後のインフレと凶作に見舞われて国民の生活がおびやかされました。争議が各地に起こり、世間が騒がしくなってきました。舞鶴でも米穀商が米の買溜めをして消費者の米価が暴騰し、とうとう町民の一部が蜂起して酒保をおそい、米屋の倉庫をねらい、倉破りや、放火するなどの大さわぎが起こりました。夜中に町から火の手のあがっているのを見て、子供心にも身の震えるのを覚えたほどでした。
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『舞鶴市史』
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米騒動
大正七年に起こった米騒動は、第一次世界大戦勃発以来の物価騰貴に加え、シベリア出兵にからむ米商人らの買い占めにより米価が暴騰するなかで、七月二十三日、富山県下新川郡魚津町の漁民妻女(沖仲仕)らが、米の値上げを防ごうと相談し、荷主に北海道や樺太などへの米の移出中止を要求する行動を起こしたのが、その始まりと言われている。越えて八月三日から八日にかけて同県下の中新川郡東・西水橋町、滑川町でも、土地の資産家や米屋あるいは町当局に米を県外に積み出さないこと、米価をつり上げないことを要求して押しかけ、この騒動はついに富山県一帯に拡大、「越中女房一揆」あるいは「女一揆」として全国に報道された。
米価は、同年一月ごろには一升(約一・五キロ)二六銭だったのが、八月七日には四六銭、八日四七銭、九日四九銭、十日五一銭とはね上がり、〃朝起きると何銭か高くなっている〃という全国的な狂騰相場で、果ては労働者の日給が米一升の代金にも及ばなくなった。このような下で、米騒動は九日には岡山、香川、愛知に、十日には京都、十一日から十二日にかけて大阪、兵庫に波及し、このうち神戸では朝鮮米の輸入を一手に扱っていた鈴木商店が焼き打ちに遭い、十三日には首都東京にも及ぷ全国的な騒擾事件となった。騒動は急速に地方の小都市、農・漁村、炭鉱地帯に広がり、炭鉱では暴動化するところもあった。特に十三日から十四日にかけて頂点に達したが、九日から十五日までの一週間が最も集中していた。
この騒擬は、一道三府三八県、三六市、一二九町、一四五村(同一市町村において二回以上騒動が発生しても、市町村数は一とした)におよび、約三か月の間に四九七回発生し、直接参加人員は約七○万人と推定されている。このうち、鎮圧のため軍隊が出動したところは七○市町村を数え、死者一三人、重傷者一六人を出し、検挙者約二万五、○○○人以上、起訴されたもの七、七七六人に達し、十月二十五日、富山県中新川郡上市町の騒動を最後として終息した(米騒動の研究)。
米騒動は、単に米価の高騰に対する値下げ要求だけでなく、農村地帯では小作争議となり、炭鉱地帯の労働者や都市の勤労者には賃上げや待遇改善の要求となって大衆運動に広がっていったのである。なお、この騒動により非政党内閣は倒れ、代わって政友会内閣が成立した。).(京都府下での騒動
京都市では、下京区柳原町の七条署管内を中心に十日午後から十二日の朝にかけて米屋、派出所など二○か所が襲われ、歩兵第三十八連隊の一個小隊が出動する騒ぎとなった。十一日夜には乙訓郡久世村、綴喜郡八幡町にも飛火し、十三日から十四日にかけて加佐郡余部町、新舞鶴町、相楽郡上狛村に、十五日同郡笠置村、十六日同郡中和束村、十八日乙訓郡大枝村に発生した。また二十一日には加佐郡由良村で貧民救済対策を不満とし、村長宅へ押しかけるなど騒動の余波がおよんだが、府内で起訴された者は合計三二六人であった(京都府百年の資料
一)。これより先、四月二十三日、木内京都府知事は、郡役所・市役所に対し米の売り惜しみについて次のように訓令している。
京都府訓令第十三号
時局以来物資需給ノ関係変調ヲ来シ一般ノ物価箸シク昂騰ヲ告ケ延テ国民日常ノ必需品ニ及ホシテ中産者以下ノ生計ハ次第ニ逼迫ヲ蒙ルニ至レリ(略)近時米価屡暴騰ノ勢ヲ示シ動モスレハ其平準ヲ失セントスルハ一ハ供給者カ将来ノ高値ヲ気構ヘテ妄リニ売惜ミヲ為スニ因ル所大ナリ然レトモ斯ノ如キハ堅実ナル生産者ノ最モ慎ムヘキ所タルノミナラス為ニ却テ不測ノ激落ニ遭遇シ禍害ノ因ヲ為ス処ナシトセス(略)猥ニ必需品ヲ保蔵シテ社会ノ安静ヲ害スルカ如キコト無カラシムヘン
(京都府百年の資料 一)
(余部町・新舞鶴町の米騒動
当時余部町・新舞鶴町を管轄していた新舞鶴署は、その顛末を警察署沿革録に次のように記している。
騒擾事件
一、大正七年八月十三日午后八時三十分頃ヨリ米価暴騰ノ為メ海軍職工約三千名新舞鶴町 余部町二騒擾ヲナシ海軍工廠酒保中江出張所其他五六ノ米穀商ヲ襲ヒ店舗ヲ破壊シ且シ金弐拾銭ニテ白米ノ強買ヲナシタルモノ約弐百俵ニシテ騒擾ニヨル全体ノ損害額約七千六百円(写真28)
騒擾ノ報伝ハルヤ之ガ警戒鎮撫ニ努メ舞鶴署其他ヨリ警部補一名 巡査部長六名巡査五十名 刑事四名ノ応援ヲ得之ヲ緩急二応シテ按排配置シ鎮定ニ努メタル結果翌日ヨリ稍々緩慢トナリ漸次鎮定ニ趣キ八月十六日ニ至リ警戒ヲ解クヲ得クリ本事件ニヨリ検挙セラレタルモノ八十名取調ヲ受ケタルモノ四百名ニシテ起訴セラレタルモノ四十七名二及ベリ
騒擾ニ関スル状況報告
本年八月十三日夜部内余部町及新舞鶴町ニ発生シタル暴動事件ニ関シテハ鎮圧警戒及犯人ノ検挙等ノ経過ニ付テハ随時及報告置候処本件ハ最近漸ク終了ヲ告ケタルニ依リ更ニ之レヲ綜合シテ左ニ及報告候也
左記
一、本年七月中旬頃ヨリ米価頓ニ暴騰スルヤ各地ニ於テ漸ク生活難ヲ絶叫スルニ至リタルモ当署管内ハ海軍所在地ノ関係上労働ノ需用非常ニ多ク従テ下級民ノ生活比較的困難ナラサリシヲ以テ生活難ノ声余リニ大ナラス然レトモ翌八月四五日頃ニ到リ白米一升四十銭ヲ超過スルニ至ルヤ労働賃金ノ潤沢ナリシ下級民モ漸ク生活難ヲ叫フニ至リタレハ多数ノ職工ヲ使役スル当海軍工廠ニ於テ先ツ之レカ救済策トシテ同月十日ヨリ同経理部内ニ野菜市場ヲ開設シ一般職工ニ対シ約三割ノ廉価ヲ以テ販売(該廉売ニ依ル損失ハ同工廠共済会基金ヲ以テ填補)開始シタルモ飯米其他ノ日用品ニ至リテハ依然トシテ今回被害者ノ一人タル海軍酒保中江出張所ニテ販売セラルゝモノニシテ地方一般商家ヨリ僅ニ白米一升ニ付約一銭ノ廉価ニ止リ格別ノ恩恵無キヲ以テ海軍職工ハ此点ニ付未タ満足セサシモノノ如シ而カモ海軍職エニアラサル一般労働者就中海軍御用ノ石炭運搬其他ノ雑役人夫、仲仕、左官、手伝、土方等ヲ以テ組織セル労働組合一心会員(昨大正六年五月組織セラレ其会員ハ主トシテ新余両町ノ者ヲ以テス)間二於テハ一層生活難ヲ訴へ同月十日ニ至リ一心会幹部ヨリ余部町ニ対シテ之レカ救済方ニ付懇願スル所アリ卜聞クヤ当署ハ米価暴騰ニ依ル下級民心ノ帰嚮甚タ穂カナラサルヲ察シ之レヲ各地ニ於ケル米価暴動ニ対照シテ専ラ之レカ視察警戒ニ努ムルト共ニ之レカ救済方法トシテ最初ヨリ町村其他公共団体ノ助力ヲ俟つタス此際米商ヲシテ進ンテ義侠的廉価販売ヲ為サシムルヲ以テ民心ヲ融和シ最モ策ノ得タルモノト認メ同月十二日夜急速新余両町ノ米商組合一部役員ニ諮リ翌十三日早朝当署ニ同組合役員会ヲ開キ本職及町吏員立会協議ノ結果左ノ決議ヲ為シタリ
(一)新余両町ノ米商組合員中ノ篤志家ニ於テ翌八月十四日ヨリ警察署ニ於テ窮民卜認メタル者(別表、第一表第三項以下)ニ限リ白米一升ニ付三十五銭ニ販売スルコト
但シ篤志家ニ於ケル廉価販売ハ向フ一ヶ月トス
本表中数字ノ単位ハ一戸ヲ示ス
(二)米商篤志家ニ於ケル廉価販売期間満了後ニ至リ尚米価下落セサル時ハ町ニ於テ適当ノ米価廉売方法ヲ講スルコト
一、然ルニ前記労働組合一心会ノ幹部数名ノ者ハ余部町役場ニ就キ当日当署二於ケル米商篤志家ノ米価廉売計画ハ知得シタルモ他ノ会員及一般労働者其事実ヲ須知セス其結果或ハ不穏ノ行為二出ツル者無キヤヲ憂慮シ当署ハ数名ノ私服巡査ヲシテ新余両町ノ視察 警戒ニ従事セシメツゝアル際同夜(同月十三日)午後八時三十分多数ノ海軍職工カ四時間ノ残業ヲ終へ軍港西門ヲ出テ署属余部警部補派出所前ニ差シ掛ルヤ初メ数十名ノ集団立止リ突然米価暴騰生活難ヲ呼ハリ喧噪シツゝアル内ニ群集ハ約三千名(大部分職工)増加シ故ナク瓦礫ヲ同派出所ニ投入シ数枚ノ硝子ヲ破壊シタル後喊声ヲ発シツゝ群集ハ先ツ海軍工廠酒保中江出張所ヲ襲ヒ店舗家什及書類ニ至ルマテ悉ク破壊シタリ
一、此報一度本署ニ達スルヤ本職ハ警部補以下多数ノ署員ヲ率ヒテ現場二出張シタルニ群集ハ既ニ中江出張所ヲ破壊シ尽シ他ノ米商店ニ向ハントスル道程ニアリタルヲ以テ本職ハ余部派出所前ニ於テ大声以テ此レカ慰撫演説ヲ試ミタルモ容易ニ解散ノ模様ナク進ンテ各米商店ヲ襲ハントスルノ状況ナルニ依リ当署ハ電話ヲ以テ便宜鎮守府ニ依頼シ協議上数十名ノ衛兵(人員表
別表第二表)ノ応援ヲ乞ヒ之レヲ二方面ニ分チ各適当ノ警察官ヲ分属セシメ之レカ鎮圧ニ努メタルモ群集ハ一層増加シ其勢力偉大ニシテ容易ニ鎮圧シ得ス同夜午後十一時頃マテ前記中江酒保ノ外六名ノ米店襲撃セラレタリ唯最後一部ノ群集ハ同町字長浜海岸ニアル別記中江酒保ノ米倉庫(約一千俵積込)ノ襲撃ニ向ヒタルモ衛兵及警察官協力シ約一時三十分間対陣ノ後之レヲ撃退シ該倉庫ヲシテ安全ナラシムルコトヲ得タリ
一、尚前記被害者ノ外靴屋、飲食店、酒屋、青物商、理髪店ニ対シ悪戯的ニ投石其他破壊セラレタル商店数軒アルモ其損害極メテ軽微ナリ而シテ同夜ニ於ケル全被害者ハ別表第三表ノ通リナリ
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市史は官憲史観そのもので、市民からは何の聞き取りもしていない。アホらしいようなものなのでこれ以上は引かない。当時の官憲は天皇制軍国主義国家の官憲ということである、そんなもんの主張をそのままに長々と掲載して、何の注意書きも添えないし、他方の市民側からの視点がない。ファシズム官憲史観に立っているのか、オイオイ大丈夫なのか。市史よ。
《宮津市史》
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加佐郡由良村では、若干の不穏な動きがあったらしい。旧盆休みの八月二十一日、村内の日稼ぎに従事する数十人の人々が村の神社に集合し、米価高騰にもかかわらず村が何等の救済方法をとらないのは不都合であるとして村長の無能をののしりあい、村長宅に押しかけようとし駐在巡査が出張してこれをおさめるという事態もおき、山本村長以下村役場員は急遼救済方法を協議するにいたった(四−六○○)。
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