丹後の地名

五箇(ごか)
京丹後市峰山町五箇


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京都府京丹後市峰山町五箇

京都府中郡峰山町五箇

京都府中郡五箇村五箇



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五箇の概要


《五箇の概要》



鱒留川の上流域、磯砂山(661m)北麓に位置する広い地域。地名の由来は、往古当地に人家が5軒あったことによるとも、茂地(もち)・笛ケ谷・大ケ谷(大萱)・山崎・本箇(ほんこ)の5集落があり、合わせて五箇というようになったども伝える。しかしゴカという地名は各地にもあり、古地名のようで、カガ(開墾地)とか蛇(カガ)とかにちなむものであったかも知れない。
この村の周辺、磯砂山山麓こそはのちの「大丹波王国」の発祥地、聖地だったろうと思われ、「丹波」「田庭」も元来はこのあたりを呼んだ地名ではなかろうか。旦波大縣主由碁理や丹波道主命という「丹波」を冠する人たちも、あるいはこの村の人だったかも知れない。

中世は五箇保の地で 鎌倉期に見える保名。寛喜元年7月19日付の将軍藤原頼経袖判下文(常陸真壁文書)に「丹後国五箇保」と見える。丹後国田数帳には五箇保はみえないが、「丹後御檀家帳」には「一 五ケの御城 石川小太郎殿〈石川殿の御子息惣領殿なり」と見える。「縁城寺年代記」に、天文13年大谷進藤が「五箇城」を討ち取ったとある。
五箇村は、 江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て同9年京都府に所属。同22年五箇村の大字となる。技村に茂地(もち)・訓谷(くんたに)・大ケ谷(おおがや・大萱)・山崎があった。

五箇村という場合、狭い意味の大字の五箇村集落をいう場合と、その周辺の村々が合併して成立した広域の五箇村がある、その広域の意味の近代の五箇村は、明治22年〜昭和30年の自治体で、五箇・鱒留・二箇・久次の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成した。昭和30年に峰山町の一部となって、村制時の4大字は峰山町の大字に継承された。
狭い意味の五箇は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五箇村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《五箇の人口・世帯数》 431・133

《主な社寺など》

磯砂山(いさなごやま)
磯砂山(舟岡より)

丹波郡の南方、五箇の南、 但馬国との境近くにある古来の伝説の山。有名な『丹後国風土記』逸文の「丹後国丹波郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を真奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき…」と記される、その「比治山」とみなされた伝説の山になる。しかし逸文の記事はあいまいで、筆者は実際には比治山を知らない様子で、かなり彼の観念に従って描いたように思われる。郡家は今の峰山丹波か五箇あたりにかにあったのだろうと思われるが、そこからの方向などは明らかに間違っているように見られて、本当にこの山を指しているかは不明である。
この山は多くの別名があるが、比治(ひじ)山、比沼(ひぬ)山、(あしうら)占山、真奈井(まない)山、伊佐(いさ)山、白雲山、雲居山、鳶尾山などとも呼ばれる。
真奈井山はそう呼ばれる井(泉)や滝があるからである。比治というのはこのあたり一帯の里名であり、比治山はその裏山一帯を呼ぶ総名でもある。ヒジ、クジ、フジなどと転訛し山名や地名、神社名となって残されていて、かなり広い範囲を呼ぶ名であったと思われる。渡来人たちの聖地を意味したクシフルの転訛と思われる。足占山・蘆占山は、峰山の古名、吉原とも同じでクシフルの別転訛であろう。
上には自信が持てるがイサナコは超難解山名、今以て謎、歴史家や郷土史家がこれまで何度も挑戦してきたが解けてはいない、他の分野からの究明が待たれる。そのときは意外な古代史が解き明かされることだろう。
磯砂山とは、市販地図ではこうなっているし、麓の笛原寺の山号にも後になっているが、残缺に「…丹波と号くる所以は、豊宇気大神が当国の伊去奈子嶽に天降りたる時に…」と見えて、明確にこの山こそが豊受大神降臨の地とし、何か豊受やマナイと関係深そうな名とも思われる。天之真名井は去来真名井(いさのまない)とも呼ばれていたので、それが伊佐山、イサナコ山となったのかもわからない、イサとかヨサはこのあたりの古地名であったか、その後地名の移動があったのかも知れないが、そのサはヒジのジ、クシフルのシ、要するにソフルのソの意味かと思われ、これが聖なる山の語根的な名であろうと思われる。ずいぶんと古い時代の山名で、近代人がその感覚のままでは解けそうにもない。

最初から人の姿をした天女や豊宇気が祀られていたわけではなかろうから、それ以前は何が祀られていたのであろうか、蛇を祀る山ではなかったろうか、このあたりも検討しなおしてみる必要がありそうに思われる。

磯砂山は五箇村の管理下にあったようで、「峯山明細記」は、
 〈 一磯砂山ヘ他村ヨリ古来入込候村々
長岡 善王寺 河部 新町 荒山 内記 丹波郷 矢田 杉谷 菅 久次
右十一ケ村入来候尤山手米ハ取不申候
一磯砂山続字滝谷ト申所元禄十六末年鱒留村ト及山論両村共江戸表へ罷下御裁許ヲ受候処寛永二年乙酉五月二十五日両村入合山ニ被仰付尤其以来他領ヨリハ一切不入来候  〉 

女池(めいけ)
女池(磯砂山)
常吉側登山路の六合目、大成登山路との出会いから南約300メートルの地に女(雌)池がある。「宮津府志」は
 嶺近き処に大なる池ありて縁毛亀の年経たる住む、(割注・土俗此池の主也といふ)又池の辺には一、二尺斗の蝦蟇いくらもあり と、実に人里遠き深山幽僻の地なればかゝる異類も有べき事なり、此池天女の降りし所といふ
と記し、「丹哥府志」は「比治山の頂に井あり真井といふ、天女八人天降つて其井に於て浴すといふ、今山の半腹に池のたわといふ処あり、蓋此処なり」という。天女伝説の池である。水旱の時、沼をかきまわすと雨が降るという伝承があり、江戸時代には神宮・僧侶がここで雨乞の祈祷を行ったという。今は小さな泥沼となっている。
普通はこの女池を伝説の真名井とするが、磯砂山にはもう一つ男池と称する池があり、近づきがたい場所のようだが五箇の集落に向いていて、こちらが真名井だとする説もある。

真名井滝
大ケ谷(おおがや)(大萱)登山路の中腹に「真奈為の滝」がある。かつて領内第一の滝といわれ、一の滝、二の滝、三の滝、四の滝、五の滝と5段に分かれる高さ数十丈の瀑布であった、「丹後旧事記」に「丹波郡足占山にあり、彼地の流にして高サ五十余丈、五流つゞくを以て俗に五滝と云、又比治滝ともいふなり、諸木茂りて外よりは見えず」と記される、その茂みは今は伐採しつくされていて山肌に、水やせた姿で見られるという。

比治真名井原
磯砂山北麓の五箇一帯を呼ぶもので、丹波郡式内社の比沼麻奈為神社がある。丹後には真名井原と呼ばれる所が何ヵ所かある、江戸期には3ヵ所あるとされていたが、その大元・元祖・根本・本家の地がここ「比治の真名井原」とされる。
『加佐郡旧語集』は、
 〈 丹後ノ内ニ同名三カ所根本比治山ナラン。国分未無之国ニ名モナキ神代ノ内丹後五郡ノ惣名ナラン。神書ニ比治ト府中ト河守ト三ケ所也。河守ト云モ籠ノ訓ナラン。  〉 

『丹後旧事記』も、丹後には真名井原は三箇所あるといっている。
ここ磯砂山の麓と橋立の真名井神社のあたり、それに大江山内宮あたりとしている。
 〈 当国に真名為原と云所三カ所有事は丹波郡比治山の真名為は真名井大明神豊宇賀能売の天降の地にて天女の遊し池有故なり。余社の宮辺を魚井原といふ事は天女宇賀能売命此地に通ひ止由居皇太神へ御饗を奉捧し神戸所有が故に魚井原と伝ふて天女を飯役明神と祭る。又神座舞原は天岩戸の辺を云皇女豊鋤入姫の天照皇太神を祭りし跡なりこれにて当国に三カ所の真名為原ある事を知るべし。  〉 

これらは江戸期の文献だが、より古くは西舞鶴あたりも真名井原(あるいはマイハラ)、あるいはフケイウラ・クケイウラがあったことは間違いはない。

豊受大神の故地で、『摂津風土記』逸文には、
 〈 稲椋山
昔、豊宇可乃売の神、常に稲椋の山に居て山を以ちて膳厨之処(みくりや)としたまひけり。後に事故ありて、已むことをえず遂に丹波の国の比遅の麻奈葦に還せりといふ。  〉 
伊勢外宮に還られたのではなく、「丹波国比遅麻奈葦」に還られたという。外宮の故地はここになる。
『丹後路の史跡めぐり』(昭47)は、

 〈 五穀の神と知られ、伊勢の外宮に祀られている豊受大神などは大陸よりの帰化人らしく思われ、新羅より帰化した天日槍族などは、但馬から熊野‐竹野地方に大きな勢力を張っていた。  〉 

どこだったか中学校の校長先生されていた人だが、私がいうよりもずっと前からこう言われている。「大陸よりの帰化人」と書くよりも、今なら新羅よりの渡来神、あるいは天日槍族の祀った神とか書かれたことであろう。


笛ケ谷(ふえがだに)。
笛の浦・府江原などとも称される名所で、比治真名井原の一角、五箇の国道から磯砂山山麓の方へ少し入ったあたりである。こうした「笛谷」と書かれた案内板があちこちにある。
笛谷(五箇)
笛原寺とか、ここのフエという地名は私は真名井の転化だと考えている。西舞鶴湾を古くは笛ヶ浦と呼んでいたし、湾奥の建部山には笛原寺があった。真名井はウケ井ともフケ井とも呼ばれ、これが吹飯浦(天橋立の真名井川が流れ込むあたりの浦の名)と呼ばれたのだろうし、西舞鶴湾は九景ヶ浦とも呼ばれた、福井の地名もある。フケイがクケイとかフエに転化したもので、笛原とは真名井原の別称フケイ原からの転訛だと考えている。
『丹後旧事記』は、
 〈 笛の浦。又府上原といふ磯砂山笛原寺の辺をいふ笛連館跡山中に海辺の名有の名所。
 名に高き浪立寄せ聞しかは 笛のうらにも風は吹なり  無名。  〉 
と、どの文献も、この「笛の浦」を、ここ笛原のことのように解釈しているが、波立寄せるなどというのだから、橋立の吹飯浦のことではなかろうか。
ここから天橋立や大江山や西舞鶴へと故地の地名と伝説を携えて人々が移動してきたのであろうか。豊受神はどうしたのであろうか。元伊勢とはここだろうか。古い歴史が解明を待つ。

また神服連海部直の子笛連王の館跡であったと伝え、海辺・海部(あまべ)という地名も残るという文献がある。
『丹後旧事記』
 〈 笛連王。日本古事記神服海部の亙の子なり母は節名節媛と云大日本根子彦国牽尊の尊(孝元天皇)奉仕父の府跡を領す與佐の比治の山麓笛原を府とす。順国志に曰く比沼真名井ケ原の辺五ケの庄本ケの邑に砂山と云高山有麓に磯砂山笛原寺と云真言宗の伽藍あり和哥名所志に笛の浦と記す山中に海部の名有の名所とす是笛連が館跡なり。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【磯砂山笛原寺】(真言宗)
神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛といふ、人皇八代孝元天皇の仕へ奉り丹波与謝郡比治の里笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓五箇の庄なり。  〉 

『峰山郷土志』
 〈 笛ケ谷 一帯の地を笛の浦または笛の原(府上原(ふえのはら))といい、笛連王(ふえのむらじのきみ)の館の跡で、山中に海辺の名のある名所である。
「名に高き浪立寄りて聞しかば笛のうらにも風は吹なり」(無名)−と『丹後旧事記』にあるが、『丹哥府志』は笛連の府の跡であるといって、山中に海部の名がある。海部は笛連の父の海部ノ直の姓であるといっている。  〉 

神服部連海部直と、ムラジとアタイ、ムラジとキミの姓がダブる、ずいぶんと古い記録のようで、このあたりらしい話であるが、ほかの文献には見えない。


『中郡誌稿』
 〈 (五箇村誌草稿)磯砂岳 茂地大成常吉但馬境より根を起し屹立一千尺北海航舟の望標たり頂上二方に分る東の岳西の岳の称あり産物薪炭料中腹以上楊(つげ)を生ぜり又紅葉樹多く秋は錦の色美はし登れば日本海岸を眼下に眺望す快晴の日京都愛宕山を望むを得といふ山中二つの池あり比治の池(俗にタナバタ池)といふ一は雌池大成よりの登路南一町にあり一は雄池茂地の部殆んど麓にあり登路は大ケ谷、茂地、大成、常吉よりあり一山四名磯砂岳、マナヰ岳、比沼山、足占山是れなりタナバタの神の事蹟を存す(風土記逸文)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【磯砂山(いさなごさん)(六百六十一メートル、五箇)】安政四年(一八五七)冬、発刊の句集『北丹勝景集』のうち、磯砂山・乙女の旧地、足占山と号すと題した句の中から次の二句をあげてみよう。
落葉せし 稍や猿の こえ高き 希声
高根にも 一筋つきぬ 雪颪 春章
また、天保二年の『峯山古事記』の編者宮田則誠・遯叟・肥亭号す)に「磯山残雪」の詩がある(峰山三十勝)。
滕六成奇功 如花挿杳冥 滕六奇功を成す、花を杳冥にさ挿すが如し。
人關V暑日 嶽色始回青 人關V暑の日 嶽色はじめて回青。
〔大意〕雪の神は不思議な技をなしとげたものだ。磯砂山の残雪をみると、ちょうどまっくらな中に花をさしたようだ。人間の世界に新しい夏がやって来た頃になって、山の色ははじめて青味をとりもどした。
磯山残雪の詩趣は、郷土人でなくてはとらえることのできない神山の姿で、女神のこもる山にふさわしい情景を詠みとったところに、何ともいいがたい親しみがある。
また『丹後旧事記』によると−比治山、比沼山、足占山、磯砂山の四名一山(一山四名)の地なり。比沼山は嶺に真奈井という湖水ありし故にかくいうなり。比治山は土形里の山なるによりていうなり。比治山は、この郷の山の総称なり。足占山は、天女豊宇賀能メ命、行衛知らずこの里を出給いし古事よりて呼ぶなり(一書−行自を慕うゆえをもって名付けしや)。磯砂山は、このふもと、笛原寺の山号なり−といっている。久次岳のところで述べたように、この山が八人の天女の故地であるとわりきっている。また、同書は「天人足占山」の項で、足占の名にちなんだ二つの和歌を紹介している。一つは藤原保昌が、丹後守となって任国に下るとき、和泉式部が保昌に従って丹後に行くかどうか思い惑っていると聞いた権中納言定頼が、式部に送った歌で『続古今和歌集』にのっている。
行きゆかすきかまほしきはいつ方に 跡定むらん足の占山 定頼
(注)『丹哥府志』には「踏定むらん…」とあり、『三家物語』には「あしの浦山」とある。
今一つは、細川幽斎(玄旨法印または其玄法印)の『天正日記』からとったもので、「松倉周防守の砦(熊野郡大向村)を出て、およそ海上七里ばかり行くに、足占山近く見ゆる。一国の高山というべくもあらず。また玄蕃頭(次男、興元)の城に近きなど思い合せて」と前書きして……、
ならすの旅の行ゑはよしあしの とわで文見る足のうら山 玄旨法印
『峯山旧記』は磯砂山について、『丹後風土記』の例をあげ、
昔、天火明命などの天降った地であ。。丹後の国は、もと丹波の国と合っして一国であったが、日本根子天津御代豊国成姫天皇の時(元明天皇和銅六年)勅命により、丹波の国五郡を割いて丹後の国を置い。丹波の国と名づけた原因は、むかし豊宇気大神が当国の伊去奈子の嶽に天降っておいでになる時、天道日命らが大神にお願いして、五殺、桑蚕の種をさずかり、そこで嶽に真名井を掘り、その水をそそいで水田(た)陸田(はた)をこしらえ、ことごとくお植えになった。秋の垂穂が、八握りもふさふさと見事に
垂れさがっている有様を、大神が御覧になって、大そうおよろこびになり「ああ、立派に田植のできた田庭(たにわ)であることよ」とおっしゃいました。その後、大神は、再び高天の原へお登りになった。それで田庭(丹波)といのである−。
この伊去奈子ノ嶽が今の磯砂嶽で、瑞穂の守護神豊受皇大神のお降りになった地であり、瑞穂(稲作り)発祥の地であり、また、丹波、丹後の地名の起源の山でもある−。
といっている。
このように『峯山旧記』では「あなにえし、たうえみてし田庭なるかも」とおっしゃたのは、豊受大神(豊宇気)である、他でて天照大神となっているのもあるし、伊去奈子を射狭那子と書いているものもある。
また『丹後風土記』の田造郷の由来(加佐郡)をみると、
天香山命と天道姫命が、伊去奈子嶽に天降っておられる豊宇気ノ大神を祭って、新嘗(新穀、新しい食物を供える)しようと思ったが、井水が見るまに濁ってお供え物を炊くことができないので、その井水を泥真名井と呼んだ。そこで、天道姫命は葦を抜きとって大神の心を占った。だからこの山を葦占山と名づけた。
とあって、アシウラに葦占の文字をあてはめている。
しかし『丹哥府志』は、アシウラの名は、通常、天女の行方を占ったからであると解釈するといって、足占説をとっている。
「泥真奈井」については『摂津風土記』に「常に摂津の国の稲倉山にいた豊宇賀乃売神が、事故があって、やむを得ず但波、比遅乃麻奈葦にかえった」とあるから、丹波の泥真名井は、すなわち伊去奈子嶽に掘ったという真名井と一致するし、なお、豊宇賀能売命の本居は、この山であることを証明している。
比治山の山、切畑の山かき消えて ちかき木立に鳴れるむら雨 与謝野寛
また、イサナゴの語源については、南方語のイサナは勇魚、すなわち鯨のことで、この山も切畑山と同じく北海行航の望標で、遠く海上から眺めると鯨の形に見えろからであろう−と『丹後旧事記』はいっているし、『真名井考』では、伊邪奈岐山のことである−とある(『五箇村郷土誌』)。
宝暦十一年の『宮津府志』は「伊佐奈古嶽は当国第一の高山と言い伝え、また奈具社由来の天女の比治山であるというが、是か非かわからない。山つづきの西の方を肱山峠というが、昔はすべて、ひじ山といい、後に−いさなご−と呼びわけたものであろうか……」とある。
この山は明治維新前までは女人禁制であったといわれている。

【女池(めいけ)(雌池)】この池は常吉側にあって、常吉登山路の六合目、大成登山路の出合いから南方約三百メートルの池のタワ(タワ=凹地)にある。『宮津府志』によると「この山は古木がおい茂り、たやすく登りにくい。嶺の近くに大きな池があって、年を経た緑毛亀(みのがめ)(池の主という)が住み、付近では一、二尺もある蝦蟇はめずらしくないと、里の者は語っているが…この池が天女の降ったところであるといわれている」とある。また、「『丹哥府志』は、「磯砂山の古名は比治山で、山頂の井を真井という」と、天女の池に定めている。宝暦十一年には大池であったというこの池も、今は杉の植林の中に赤黒い泥沼にせばめられてみるかげもないが、旱の時、沼をかきまわすと雨が降るといわれ、登山するものもある。以前は、神官、僧侶がこの池のほとりで雨乞いの祈祷を行なったり、藁で作った竜で沼をかきまぜたそうであるが、これは明冶以前の風習であろう。私どもの子供の頃は、うっそうと繁った木立の中に、どす黒い池水が淀んでいたことな記憶している。
人ありて比治の木の間に誘ふとも 留るなかれ五月の霧よ 与謝野晶子
【東西南北の碑】宝暦三年『峯山明細記』によると、享保四年(一七一九)、御公儀(江戸幕府)の命令で、磯砂山より巳の方角(東南と南の間)丹波鬼ケ城山を見通しの石碑が建てられている。場所は五箇村御高札場から一里十町二十五間の山頂で、当時の峯山藩主四代高之は、建碑を五箇村に仰せ付けたのではなかろうか。『丹哥府志』にいう磯砂嶽の東西南北の碑がそれであろうが、どこにもみあたらない。
今山頂の観測塔の側に大きな石があり、正方形にくぼんだ碑柱の跡が残っているが、この跡から方位を考えると、四辺がそれぞれ東西南北に向いている。しかし、碑柱は、いつか常吉側へくずたれたが、大成登山路の九合目付近まで運び上げて、路傍に建てられている。高さ約二メートル幅五十センチ角の南無妙法蓮華経の宝塔で、基部は土中に埋れて読みとれないが、四方に「…」等の文字が彫られている。東西南北の碑に七字の妙号をぎざんだという記録はないが、碑はこの外にみあたらない。
また、この碑は、常吉の法華宗徒によって建てられたといっているが、今一つ、峯山の上河金七(全性寺鐘楼、金毘羅権現一の大鳥居建立者)が、磯砂山上に妙号宝塔を建て、それから家運が傾き始めたとのいい伝えがあるから、一層複雑である。四代高之が幕命によって建てさせたという、鬼ヶ城山見通しの碑は、あるいはこの位置にあったのではなかろうか。また、年代的に疑問はあるが、妙号宝塔に姿を変えて建立したのではなかったか。つきくずした理由は別として、今一度山頂へかえすべきである。)  〉 

舟岡古墳(円墳)・大門(だいもん)古墳。
下山横穴群
小字大門には、平安時代後期の寺院跡があり、扇状地・水田から礎石多数が発見された。寺跡範囲は、南北200メートル、東西200メ−トルと推定される。
『中郡誌槁』
 〈 古墳
(五箇村誌草稿)明治三十二年始めて字五箇小字下山(府丘の裏)に横穴を発見し神代土器及銅環を堀り出せり(人類学雑誌第百五十九号)
(実地調査)今役場所在地の近傍(舟岡のつづき)なる丘陵北向の処に横穴数個あり祝部土器数個朝鮮土器破片数個銀環二個鉄片(鏃先程の大きさにて剣の先の如し)一個を役場に蔵す慶徳院にも祝部土器一個あり皆此より出たる也此他尚多かりしといふ役場にあるものの中花立形のものの腹部に?形のへらの筋あり其他此所より苗代に到るの間田圃の傍祝部土器朝鮮土器の破片多し役場に又善王寺村大字大塚谷より発掘したる同種の大なる徳利形のもの二個を蔵す  〉 

船岡神社
丹波道主命の館跡で、同命を祀る。
舟岡神社(峰山町五箇)
↑この丘の上に鎮座
舟岡神社(峰山町五箇)
↑忠魂碑。元帥伯爵、東郷平八郎の揮毫。奥に社殿。
案内板(舟岡神社)

現地の案内板舟岡の案内板
 〈 船岡
船岡神社境内のこの丘の上、昔から船岡と呼んでいます。
ここは、四道将軍、丹波道主命の館であったので「府の岡」と呼んでいたのが、後に「船岡」に変わってきたのであろうといわれています。
丹波道主命は丹波比古多々須美知能宇斯王命といい、彦坐王(崇神天皇の弟)の子であつて、崇神天皇即位十年に四道将軍に任ぜられ、山陰道に下り、丹波の小見、比治の真名井原に館をつくりました。
ここで、食物の神の豊受大神をまつって、八乙女に奉仕させるとともに、里ごとにも、豊受大神を祭らせて、全盛期のイャンクック伝説行いましたので、人々はその徳を慕い丹波道主命を尊称していたといわれています。
この付近一帯から横穴が発見され、須恵器、土師器、金環、鉄刀、鉄鏃等が出土しました。
昭和五十九年二月 峰山町教育委員会  〉 

『中郡誌槁』
 〈 (五箇村誌草稿)
愛宕神社 字五箇にあり
府丘神社 四道将軍の古跡とて丹波道主命を祭る
菅公廟 昔字五箇に寺田六助なるものあり京に菅公に仕へて愛せらる公禍にあひ九国に謫せられたまふ六助随従を請へどもゆるされず悲しむこと甚し公あはれと思召し形見として梅花石壹個を賜ふ六助なくなく受けて帰郷し祠を建て之を奉祀す天神ケ森是なり其後今を去る六七十年前午年に大洪水あり祠石を併せて流失行く所を知らず後菅の人某拾ひ得て峯山の市民にひさぐ再伝して今や峯山町石田與兵衛氏の有となる明治二十年頃天竜寺由利滴翠師来峰石田氏こうて梅花石の由来を記し軸物として保存す石も亦小祠を造りて奉蔵頗る敬む毎年旧二月二十五日由来記と共に出して祭り児童を饗応するを例とせり
末月神社 五箇、月読命
稲荷神社 大門、司食神
(峰山明細記)一社十三ケ所但し神主無御座候何れも村支配に御座候
 内二社 (東小祠)舟岡(上屋一間四面程) (西小祠)天満宮(上屋右同断)
境内長三十五間程幅三十貮間程(但し)山共 一二社(三尺社) 愛宕(上屋舞殿共ニ三間程) (小祠)熊野権現(上屋一間四面程) 境内山ノ頂上長十八間程幅八間程但山の間数難相知 鐘撞堂(一間四面程) 鐘(一尺八寸) 愛宕舞殿にて六月二十三日の暁より明る朝迄七月二十四日毎年両度河部村神子相模神事相勤申候
右舟岡愛宕両所にて毎年七月二十四日当村並他領二ケ村御領分久次村右三ケ村一所に祭礼勤来候
一二社 (小祠)薬王寺 (同)稲荷 両祠上屋舞殿共二間四面境内長九間程幅三間程但し山少し御座候へ共間数難相知候 右祭礼八月二十一日河部村神子相模神事相勤申候
一社 (小祠)八大荒神(上屋一間程)境内長十五間程幅十四間程但し御田地の内森に成居申候
一社 (小祠)末次荒神(上屋一間四面程)境内長二十五間半程幅貮間程但し御田地の内に御座候
一社 (小祠)天王(上屋一間四面程)境内長二十五間程幅十二間程
三社(字茂地分) (小祠)毘沙門 (同)八大荒神 (同)若宮(上屋省く)境内長九間程幅四間程但山少し御座候へ共間数難相知候 一社弁財天(後に出だす)
按、村誌草稿に府丘とあるは旧称舟岡なりしを改めやがて道主命の府趾と附会したるにあらざる乎現に維新後までも舟岡神社の額かかり居たりと云又末月神社も明細記には末次荒神とあり前期の如く天神の森より舟岡に移り今は其処に末月神社あるなり  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【船岡神社(五箇、船岡、祭神 丹波道主命と伝う)】
宝暦三年(『峯山明細記』)
東 小祠 舟岡(ふなおか)、上屋 一間四面程、西 小祠 天満宮、上屋(同上)、境内 長三十五間に幅三十二間程
但し、山共、支配や神事は愛宕と同じ。
明治二年(『峯山旧記』)
舟岡明神天神(他に記載はない)
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 府岡神社、昔、道主将軍の住み給う旧跡であって、この神に丹波道主命をまつって来たと申し伝えているが、その他は明らかでないという。また、舟岡を府岡と変えたのは四道将軍の府の跡にちなんだものであろう。
社殿 一間五寸四面、境内九二三坪、官有地第一種……社掌兼勤、藤神社行待政治
(頭注付記)明治四十二年六月五日許可、愛宕神社に合併。
『五箇村郷土誌二』(昭和十一年)は府岡の名を船岡神社とし、由緒として、舟岡は四道将軍丹波道主命の宅跡で、舟岡ノ祠があり、境内は今公園となっている。「道主命は比沼真名井原に堡殿を造り、四人の姫に命じて豊宇気持神、豊宇気比売を祭り」と記している。
建物は一間半に一間、境内九百二十三坪、東郷平八郎書「忠魂碑」がある。
峰高編『古代丹後文化圏』(昭和二十七年)咋岡神社の項に、咋は噛むに通じ、カムは神(カミ、カム、カムイ)から変化したので、咋岡は神岡とよばれ、今の舟岡すなわち昔の府岡で、四道将軍丹波道主命の居館の地と称せられるところであろう。この岡は口枳ノ里(注、口枳郷)、久次村の南を囲む…小丘で、精巧な土師土器(すえき)や祝部土器を出土している」といい、また、府岡は古代の生活になくてはならない土器をつくる赤い良質の粘土が露出していると述べている。  〉 

天満神社。
岡の上には社殿は一つしかないので、合祀されているよう…

『峰山郷土志』
 〈 【天満神社(五箇、舟岡山、祭神 菅原道真公)】
『峯山明細記』の「西 小祠 天満宮」、『峯山旧記』の「天神」とあるのがこの社である。
『縁起』によると、延喜の頃(九〇一)、五箇村の寺田六助が、都で菅原道真に仕えていたが、道真が藤原時平のざんげんにあって筑紫に流される時、形見として「梅花石」をいただき、故郷の五箇へ帰り、この石をまつったのが「天神が森」であった。ところが、ある年の大洪水に、社とともに流失し、その後、菅村の者が拾って峯山の岡田屋に売り、さらに石田与兵衛の手に渡り、与兵衛は、これを屋敷内の祠中にまつり、明治二十一年頃、天竜寺の由利滴翠管長の来峰を機会に、梅花石の由緒を書いてもらって掛軸とし、毎年二月二十五日に、この二点をとり出してお祭りを行なっていた。昭和二年三月七日の震災に、書を焼失したが、梅花石は、今なお同家にまつられている。石の表面に、梅花に似た斑点がある。
滴翠管長の梅花石賛偈
神霊威徳感応多 神霊の威徳 感応多く
千歳猶懐筑紫○ 千載なおおもう筑紫の○(『五箇村郷土誌』)
(注)○は原文から写しおとしたもので、書軸は焼滅してたしかめるすべもないが、「空」または「天」の宇ではなかったろうか。
明治十七年(『府・神社明緬帳』)
無格社 天満宮、祭神(同上)、由緒 不詳、社殿 一間五寸四面、境内 五五八坪、官有地第一種
〔境内神社〕須賀神社 祭神 不詳、由緒 不詳、建物 二尺に一尺一寸
(頭注付記)明治四十二年六月五日許可、愛宕神社に合併。
昭和十一年(『五箇村郷上誌二』)
無格社 天満神社 舟岡山にあり、祭神由緒 不詳、建物一間半に一間
また、同社の石段は、古五箇の力士川浪(砂原彦次郎)と、信徒によって、西山村から背負って運搬したものであるという。文政(一八一八〜一八二九)の文字がみえる。
【合併神社】前記の府岡、天満の二社の外、明治四十二年六月五日付、愛宕神社に合併されたものに、次の七社がある。
一、末月(すえつき)神社」(天神ヶ森、祭神由緒 不詳) この神社は末次(すえつぎ)といい、天満宮が舟岡に移されたあとにできた社で、あとをついだから末次と呼んだのであろうという。
『峯山明細記』には、「小祠 末次荒神、上屋 一間四面程、境内 長二十五間半幅二闇程、但し御田地の内に御座候」とあり、『峯山旧記』も同じく末次荒神とのせている。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 末月神社……社殿 一間四面、境内 五坪、民有地第一種……。
(頭注付記)明治四十二年六月五日許可、愛宕神社に合併。
昭和十一年、『五箇村郷土誌二』には「社殿 一間半に一間、境内 約五坪、祭年一回」とあり、祭神は不詳で、宝暦年間に五十一坪もあった境内は、明治十七年には、わずか五坪に減じている。また、祭神は「月読命」であるともいっている。
一、稲荷神社 …
一、八柱神社(天神ヶ森、祭神 豊受大神御伴神)
『峯山明細記』
小祠 八大荒神、上屋 一間程、境内 長十五間幅十四間程、但し御田地の内、森になりおり申し候。
一、大神社(祭神 大神)『府・神社明細帳』には「無格社 大神社、祭神 大神、由緒 ここは比沼麻奈為神の天降りになった処といい伝え、このあたりに比沼麻奈為という池がある。社殿 一尺五寸に二尺、境内 一、一七八坪、官有地第一種……」とあるが、『峯山明細記』の「小祠 薬王寺、同稲荷」または『峯山旧記』の「薬王寺」にあたる社なのであろうか。「境内一、一七八坪、信徒人員百五十五人」となっているから、五箇村にとっても大きな社のはずであるが、昭和十一年の『五箇村郷土誌二』にもみえていない。社は他と同じく明治四十二年六月五日に愛宕神社と合併している。
一、天王神社 …
一、権現社 …
一、弁財天 …
【神鉾(かみほこ)神社(茂地、長船)】明治十七年『府・神社明細帳』に「無格社 神鉾神社、祭神 不詳。由緒としては、ただ比沼ノ麻奈為という池のある山のふもとにこの神をまつって来たと伝う」とある。「社殿 一尺に一尺二寸の小祠。坪内二坪、民有地第一種、田中和平治所有……」。
明治四十二年六月五日付許可。愛宕神社に合併。
昭和十一年『五箇村郷土誌二』に由緒として、茂地の人が伊勢へ十二回参宮した記念にまつり、昔は広い境内があり、今もその土地が残っているといっており、建物は二間四方、境内七坪、昔の氏神であると。
【八柱神社(茂地、祭神 天都神)】『峯山明細記』にみえる「茂地分、小祠 毘沙門、同八大荒神、同若宮」がこれであろう。「上屋あり、境内 長九間幅四間程、但し山少しあるが間数は知りがたい」といっている。
『峯山旧記』には「茂地、八大荒神、若宮権現」とだけ記載していて、毘沙門はない。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 八柱神社、祭神 同、由緒 ここ比沼真名井山のふもとに、この神を祭り来ると申し伝え、その他は不詳。社殿 一間一尺五寸に一間四尺七寸、境内 四〇八坪、官有地第一種。
〔境内神社〕阿佐美(あざみ)神社、祭神 薊瓊入姫命、由緒 不詳。建物 一間三尺五寸に一間一尺五寸……。
(頭注付記)明治四十二年六月五日愛宕神社に合併。
この境内社の祭神は、四道将軍丹波道主命が熊野郡川上の麻須郎女(麻須良女)をめとって産まれた一男五女の一人で、『日本書紀』の垂仁紀十五年、または、『古事記』百七段に、この五人の女が召されて后妃に上っていることが記されている。
昭和十一年(『五箇村郷土誌二』)
天津神、阿佐美神、合祀、建物 本殿と籠堂、境内 四〇八坪、祭 十二月二十日  〉 

末月(すえつき)末次(すえつぎ)神社は、「陶造(すえつく)り」の転訛である。二箇や五箇、舟岡の周辺は良質の粘土が出て、須恵器が焼かれた窯跡が何ヵ所もある、その須恵器を焼いた人々が祀った神社である。「新漢陶部高貴」(いまきのあやのすえつくりべのこうき)とか、こうした焼物は渡来技術で渡来人たちであったろうか。
『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』に、
新治郷
一 末次保  三町四段五十歩内
  一町七段廿五歩   普甲寺
  一町七段廿五歩   成相寺

と見える。たぶんこうした超有名寺院の陶工たちがここにいて、両寺院用のグレードの高い陶器を焼いた専用窯だったのでなかろうか。
末次保はこうして末次神社のあるところだろうが、もう一つ同じようなのが、
新治郷
一 光武保  一町六段百五十三歩内
  八段七十六歩    成相寺
  八段七十四歩    普甲寺
これも近くの須恵器窯趾のある場所ではなかろうか。これらのほかにもいくつか須恵器のコーボーかもの名の保も見えるが、どなたか研究してみて下さい。


愛宕神社
かつては舟岡山にあったが、今はないよう…
『峰山郷土志』
 〈 【愛宕神社(村社、五箇〈現在二箇八幡境内〉、祭神 火産霊命)】
宝暦三年(『峯山明細記』)二社 三尺社、愛宕 上屋・舞殿共に一間半に三間程。小祠 熊野権現 上屋一間四面。境内 山の頂上 長十八間幅八間程、但し山の間数知りがたく。鐘撞堂一間四面程、鐘一尺八寸
愛宕舞殿で六月二十三日早朝から明朝までと、七月二十四日には河部村の神子相模が神事をつとめる。また、七月二十四日には舟岡と愛宕の両所で、五箇村と、他領の二箇村および御領分(峯山領)の久次村の三ヵ村が、いっしょに祭礼を行なう。
明治二年(『峯山旧記』)
愛宕大権現(五箇村舟岡山の嶺にあり)、祭神 愛宕大権現(将軍地蔵大権現)、慶徳寺支配、二箇、五箇、久次、三ヵ村の鎮守、勧請年は不詳、境内に鐘撞堂がある。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
村社 愛宕神社、祭神 火産霊命、由緒 五箇ノ荘でこの神をまつって来たと申し伝えるが、昔は五箇、久次、二箇の三ヵ村で祭礼して来た(注、五箇ノ荘とは五箇、鱒留、二箇、久次、長岡、善王寺、新治も含まれていたという)。
社殿 一間五尺四寸に二間半、境内 九六三坪、官有地第一種
〔境内神社〕熊野神社、祭神 伊弉冊命、由緒不詳、建物
一尺五寸に二尺八寸、社掌 兼勤、藤神社行待政治
(頭注付記)仮拝殿新築の件明治四十一年七月五日許可。上屋記入、大正二年七月十一日届出。
(注)明治四十二年六月五日許可。稲荷、末月、八柱、天王、八柱、大神社、神鉾、天満宮、府岡の九柱を合併。
昭和十一年(『五箇村郷土誌二』)
二箇八幡境内、村社 建物 一間半に三間、境内 九三六坪、神事 太刀振り、鐘堂 一間四方、鐘 一尺八寸(銘に愛宕山とあり)、其の他、二箇神社は後に建てしものなり……
(三ヵ村祭礼の記事省略)
社掌兼勤、金刀比羅神社毛呂清春
二箇神社とは、五箇の愛宕山から二箇八幡境内に移して合併した後の名称であろうか。  〉 

『峰山旧記』
 〈 一、愛宕大権現
 五箇村舟岡山の嶺に有、祭神右同断、慶徳院支配、二箇、五箇、久次三ヶ村鎮守、勧請年暦詳ならず。境内鐘撞堂。同上
 外ニ舟岡明神、末次荒神、天神、薬王寺天王、八大荒神、天神、 茂地 八大荒神、若宮権現。  〉 


高野山真言宗磯砂山笛原寺
笛原寺(峰山町五箇)
大萱川右岸にある。立派な参道があるが、お寺は荒れている。境内はずいぶんと広かったと思われる。山号磯砂山(もと智福山)、高野山真言宗、本尊聖観世音。縁城寺末であったと思われ、もと大伽藍であったが元亀年間頃に堂宇を破壊されて衰退した。

『中郡誌稿』
笛原寺
 〈 (縁城寺年代記)
壬午 応保二  丹州笛原寺聖観音現給
甲申 大永四  丹後笛原寺全堂炎上(九月晦日未刻)
辛未 元禄四  此年笛原寺観音再興
戊申 享保十三 笛原寺大師尊像被盗
甲寅 同十九  弘法大師九百年法事笛原寺大師像を増長院引取供養す此は辻八兵衛より増長院恵寛に命せらる
丙戌 明和三  笛原寺祐快地頭京極備後守の代密厳寺岩屋寺添書を以て六月十一日に大覚寺直末に加へらる
(五箇村誌草稿)笛原寺 磯砂山 真言宗 字五箇小字笛ケ谷にあり(丹後古事記笛ケ浦)弘法大師の開基にして大師自刻の像を安置す日本に三体の中と称す寺は元古観音にありしを百年程前今の所に遷す七堂伽藍ありしと称すれとも回禄の為めに失ひ小字大門の名と礎石を存するのみ境内に八十八ケ所を作り桜を多く植えたり
(実地調査)今も笛原寺衰廃のままにして観るに足るべきものなけれども近傍の字に寺中、妙院、西山内、岡ノ坊、大門、大門尻、観音堂、奥ノ坊、風呂屋敷等ありて古の盛をしのばしむ同寺に至る路傍に礎石数箇ありもと十二個ありたる由即ち仁王門の趾なりと言伝ふ所謂大門の小字ある所以なり又古碑も其傍に立てれと文字読みがたし又何に使用したるか分明ならさる大石あり中凹くして或は手水鉢の破片にあらずらといふ者あり内底に一小孔あり、山下一農家に弘法大師の書像を保管す即ち笛原寺の什なり製作可なり  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【磯砂山笛原寺(真言宗、五箇、本尊 聖観世音、木彫)】『笛原寺縁起』によると、嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)に弘法大師が諸国を巡錫したとき、礒砂山(ぎさざん)(いさなごさん−足占山)に登り、前仏の霊木(前世が仏であった尊い木)を観相(みわける)して、霊地を発見し、その霊木で薬師如来、観世音および自分の像の三体を彫刻して、お堂を建ててまつって「礒砂山笛原寺」と称した。その後、歴代の朝廷や武将の信仰が厚く、寺は次第に盛んとなり、堂塔伽藍を完備し、寺院や塔頭(本寺に所属する院坊)が棟をならべ、常に百人の僧が住んでいて、その誦経の声は山谷にひびきわたっていたが、年を経るに従って衰え、その跡も絶えてしまったのを、二条院の応保二年(一一六二)に再興し、後柏原院の大永四年(一五二四)に回禄(火の神の災い)にかかり、一時中絶したが、東山院の元禄四年(一六九一)、今の地に再建して今日に至ったという(『中郡一斑峰山案内』)。当時、弘法大師は、四十二歳で、厄年除けの祈願であったといい、今も四十二厄年の人の参詣が多い。
『縁城寺年代記』から、笛原寺に関係のある記録を拾ってみよう。
応保二、丹州笛原寺聖観音現レ給フ。大永四、丹後笛原寺金堂炎上、九月晦日未刻、元禄四、此年笛原寺観音再興。享保十三、笛原寺大師尊像盗マル。同十九、弘法大師九百年法事、笛原寺大師像ヲ増長院引取リ供養ス。此ハ辻八兵衛ヨリ増長院恵覚ニ命セラル。明和三、笛原寺祐快ノ代、地頭京極備後守(六代高久)ノ代.密巖寺、岩屋寺ノ添書ヲ以テ六月十一日ニ大覚寺直末ニ加ヘラル(大覚寺は、嵯峨にあり、御門跡)。
この『縁城寺年代記』には、「弘仁六年弘法大師による創建」については記録していないが、享保十三年(一七二八)の弘法大師像の盗難と、同十九年の九百年法会のことを伝えている。大師木像を尋ね出して取り戻したのは、増長院の恵寛であるというから、大師九百年法事のとき、この像を増長院へ運んで法会をいとなむよう、家老辻八兵衛が命じたものであろう。
この享保十九年から約十八年後の宝暦三年頃の様子は、例の『峯山明細記』に詳しく出ている。
 庵一軒、四間に二間半、庵主 是心。弘法大師、観音、薬師堂 三間四面。三仏並びに堂などは村の支配。お勤めは増長院が行なう。堂の鍵は増長院の弟子である堂守の是心にあずけてある。弁財天は笛原寺の旧跡にあって、寺の鎮守といい伝えている。また、笛原寺の旧跡は、検地の中に入っているが、村中の百姓は祟り(たたり)があるといって作るものがないので、田分けの際、除地として、慶徳院に耕作させているが、地所は五箇村総高の内である。
また笛原寺の坊であった寺の跡は、田畑や山になっている。
この頃、現存していたものは、わずかに堂守の住む庵と、お堂と、鎮守の弁天さまだけであった。
天保十二年(一八四一)『丹哥府志」は次のように記している。…
これが、天保十二年頃の笛原寺の姿で、九十二年前の『宝暦明細記』当時とあまり変わっていないし、礒砂山、磯砂山、比治山、足占山の関係や、笛原の名の起こり、および信長によって破壊されたこともだいたいうかがわれる。ただ、…行基以来……とあるのは、弘法以来の誤りではないであろうか。三仏は弘法大師の自作であった。
『峯山旧記』明治二年には、応保二年の聖観音出現の項を次のように記している。
…伽藍を建立して智福山笛原寺という。塔頭、明王院、顕光院、寂光院、慶徳院軒をならべていたが、大永四年九月晦日炎上して、一山塔頭烏有に帰し……その後再興したが、文禄二年「真言倒し」に遭い、わずかに顕光院、慶徳院だけが難をまぬがれ、元禄年中に、顕光院(今の屋敷)に笛原寺を再興させ「磯砂山」と号した。これによって、寺から四、五丁隔てて仁王門の跡があって、礎石がのこり、門の内に顕光院の慶秀法印が永禄八年に建てた石塔がある…。鎮守は弁財天。
山号が、礒砂山から智福山を経て磯砂山となった経路がわかるが、『丹哥府志』の織田信長の代りに『峯山旧記』は細川忠興による「真言倒し」をとりあげている。しかし、二院を残して潰滅したことには変わりない。
なお、この付近に、古観音(観音堂)、寺中、妙院、西山内、岡ノ坊、大門、大門尻、奥ノ坊、風呂屋谷などの字名があり、笛原寺の什物であった弘法大師の画像を保存している農家もある(『中郡誌稿』)。  〉 

『郷土と美術』(昭和16)

 〈 五箇村素描  滴翠館記  永野耕人
笛原寺大師の夜祭
「先生、お大師さんへ参りませう」
  五箇谷の夏の夕であった。磯砂山の上に遂さつきまで映えてゐた残紅が、消えて行って名物の蚊が家の周囲に攻撃の羽音をそろえる頃だ。住宅の門口から近所の二年生のよっちゃんがさそって呉れた。今日は笛原大師の夜祭である。私は縁端近く蚊取線香の煙に巻かれてぼんやりしてゐた食後の腰を上げて、子供と一緒にお参りすることにした。
 五箇史蹟案内は笛原寺について左の様に述べる。
 「笛原寺、磯砂山と号す。現在五箇小字大門好井に在り。二篠天皇応保二年丹州笛原寺聖観音現給(縁城寺年代記)とあり。実に七百有余年の古刹なり。初め字五箇笛ケ谷の山上(古観音堂、本堂屋敷あり)に建立、真言宗にして後醍醐帝元享十年の條「笛原寺五箇」とあり(丹後雑史)丹後諸大寺と交年千部経を修する資格を有し、当時尚七堂伽藍厳然として梵唄の声山谷に響きたり。大永四年兵火に炎上、元禄四年本堂原地に再興せらる。後荒廃して現地に移る。本尊は観音、脇仏は薬師、弘法大師なるが現在は専ら大霊場として崇敬せられ、大師直筆の自像は優秀なる実物なり。陰暦毎月二十一日遠近より参詣あり。特に陰暦三月及七月二十一日には賽者雑踏立錐の地もなし。先年改造移転の堂塔玉垣も昭和二年の大震に惜くも倒壊せしが、衆生の尊崇是れが爲減することなし。霊光四方に洽く法燈長しへに赫かん。大門の地名も当時仁王門の跡に因みしものならん
  御詠歌
 笛原の雲雀の声も殊勝なり
        空にたな引く紫の雲
青い美しい月であった。本道から大門への小路へ這入る。路は田圃の中を一直線に続く。其道を引きも切らず文字通りの老若男女がひきもきらず行く。中には遠く村から参拝らしい老婆が草鞋ばきで急ぐのも見受けられる。大門の部落へ入ると、さすがに今日はどの家も燈火が明るく、中には楽しい祭の夜の集ひらしく、はなやかな笑ひ声も漏れて来る。
 私は、ふとこの辺であったと思ふ路傍に目をむけて見た。遂其處に大きな丸みを持った石が月光に照らされてゐた。これが昔の仁王門の礎石だ。私は暫らく其の石の側近く立止まって思ひに更けつた。あゝ仁王門の石よ、汝過ぎし日の月の夜を語れるか。私は空に壮大な仁王門の姿を描いて見た。石の下あたりからチゝと淋しく虫が鳴く。
 再び歩みを移すと、もう子供等は先へ行ったらしく見えなかった。大門の部落をぬけると、道は暗い山の方へ上る。右側には谷川のせゝらぎが、月の光りにちらちら光る。少し行くと、つきあたりの山の麓がぼつと赤く灯に滲んで、山の松の木が闇に浮んで一部が浮き出して見える。其處から玩具らしい笛の音に交って平和な梵唄の音が響いて来る。私はふと山の祭りと云ふ白秋のであったかの童謡が口に浮んで来た。
  笛や大鼓にさそはれて
  山の祭に来て見たが
  日暮れはいやいや里こひし……
それはほんとに原始的な平和と和楽の感じであった。
 寺の境内は大きな松の木を中心として、田舎の祭らしい店屋の夜店がならんで、カンテラの光りや、アセチリンの青い光りがいりまぢって、人がこみあってゐた。その中にまぢつた見知りの子供の顔が私の方を見て挨拶するのもある。
 私は仮の本堂の方へお参りする。本堂は線香のにほひがいっぱいにたちこめて、純朴な田舎人らしい老人たちが正座して、例のなごやかな御詠歌を唱和する。その声をぬふ如く手鈴の音がひゞく。出征軍人の家族らしい人が御燈明を献ずるのもあって、その度に、「誰々様みあかし……」と呼ぶ。
 私はその前を去って旧本堂の跡へ行って立った。昭和二年の大震に倒壊したと云ふその本堂跡には礎石のみ淋しく月の光りを浴びて、其處にも虫の声が地をはって響いてゐた。
 帰りの道に振り返ると、赤々と空を染める祭の灯の中に、私は忽然として尊き御姿を見た。莞爾として立ち給ふ大師のみ姿を!! (この項終)  〉 


臨済宗天竜寺派護国山慶徳院
慶徳院
はじめ曹洞宗であったが、峰山藩3代藩主高明の命で臨済宗に改宗したという。寺宝に霊源和尚筆達磨、裏山に長禄・寛正頃居したという石河中務丞の五箇城址がある。

『中郡誌稿』
 〈 慶徳院
(丹哥府志)護国山慶徳院(禅宗)
(峯山明細記)一禅宗(峰山全性寺末)護国山慶徳院
本尊釈迦 境内屋鋪長二十五間幅十五間程 寺客殿五間ニ七間 庫裡四間ニ六間 弥陀堂一間四面 鐘撞堂八尺二寸四面 鐘二尺二寸 山畑七十五間ニ十間程 山林薮等は険阻にて間数難相知候
右境内寺間数等相違無御座候  慶徳院
(五箇村誌草稿)慶徳院 護国山臨済宗 字五箇にあり元苗代慶徳谷にありしといふ曹洞宗なりしを名僧霊源峯山藩主京極家の命を請ひ改宗霊源は白隠の弟子にして大徳なり峯山全性寺に住し後隠居してここに居る
(村誌)慶徳院東西十五間南北二十五間面積三百十五坪臨済宗京都天竜寺末にして村の西方にあり天正元年の創立涼岳宗清首座開基
 按、下に付する所の二通の書面により寛延中慶徳院増長院と笛原寺管轄に付て大に争ふ所あり今遽に是非を決すること能はされとも宝暦明細記に増長院支配となりあれば増長院の勝利に帰せしか此文書所述によれば慶徳院は往古風呂屋敷谷(今の笛原寺のある所と川を隔たる地にして少し川下の小字なり笛原寺の観音も古は今の対岸にありたるなり)にあり寛永七年に今地に移りたるが如し然れば古は笛原寺の一院にあらざりしか
(縁城寺文書)
  奉願口上之覚
一当院者往古風呂屋敷と申所に観音堂と相並有之処二箇村久次村総檀中遠方殊山中之儀大雪之節往還難儀と申三ケ所相談之上にて観音堂者古道場たる故其通に仕当院は寛永七庚午年住持祖朔首座移当院世代拙夫迄十一代之事に御座候右観音堂は従往古村中修補仕縁日勤行等従当院相勤候
一…略…
一…略…
 按、此一通粗雑なり下書にして読みがたき処もあり署名もなけれども勿論増長院より前書に対するものなり  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【護国山慶徳院(臨済宗、五箇、本尊 釈迦牟尼仏)】「撞銘」によると、
それ当山の古記録並びに口碑を案ずるに、大永年間の創建にして、開基涼岳宗清禅師と伝う。当時智福山と号し、当山の檀家四ヶ村(注、二箇、五箇、久次、鱒留)にわたるという。洞宗竜献末、四天王随一と称す。元和九年峰山領主京極主膳守(注、異説がある)、臨済宗御帰依に付き、当山また洛西嵯峨天竜寺鹿王院主賢溪和尚に届請して、開山宗祖改宗派をなす。寛永七年住持祖朔元小字風呂屋谷に在る幢を現今の地に移す。享和十二年二月二日、三峰祖要本堂を再建、文化、文政の頃、中興静山、庫院を改築、これより先、宝暦二年九月、住持祖省大鐘を鋳造し護国山と改称……。
とあり、また、『峯山明細記』には「全性寺末…」としており、『峯山旧記』もまた、昔、笛原寺の塔頭で、風呂屋の谷にあったが、笛原寺の没落後、寛永七年(一六三〇)祖朔首座によって今の地(五箇村城山の中腹)に引きうつし、曹洞宗に転宗して竜献寺の末寺に加わり、承応年間、竜献寺が廃された後、元禄八年に臨済宗に改宗して全性寺末となったという意味のことを記している。しかし、『村誌』は「臨済宗天竜寺末にして…天正元年創立、涼岳宗清首座開基」といい、『中郡一斑峰山案内』は天正元年説をとっているが、改宗については「峰山藩主の命により…」といっている。
鐘の銘による大永(一五二一)と天正(一五七三)は五十二年のひらきがあるが、開基の年月は別としても、智福山は
真言宗笛原寺の山号であるから(礒砂山、磯砂山)、当時、慶徳院が風呂屋の谷(現在寺地の川向うという)にあった頃、笛原寺の塔頭の一院であったことを物語っている。しかし、元和九年(一六二三)に峰山藩主(初代、高通)が臨済宗に帰依したから、曹洞宗から臨済宗に改宗転派したというのは、年代においてどうであろうか。元和の頃、竜献寺は、京極の本家宮津藩の下で栄えていた。元和とあるのは、やはり元禄八年(一六九五)の誤りではなかろうか。
また、「全性寺末…」の件も、他の十ヵ寺と同様、好んで転宗したのではなく、藩主三代高明のお頼みにより改宗して、全性寺の格付けのため末寺となったことが事実に近いのではなかろうか(ただし、京極主膳守は初代高通で、三代高明は主膳とはいわなかったようである)。
ことに、慶徳院の開山賢渓和尚は、全性寺開山鉄岑和尚の師匠に当たり、全性寺に一大事が起こったならば、慶徳院と若松屋寺田惣右衛門が相談して、解決するようと遺言したというから、全性寺末の問題は、藩の一方的な措置であったと思われる。
『縁城寺文書』の中に、寛延元年(一七四八)、笛原寺の所属について、増長院と慶徳院が論争したことがのっている。その結果、増長院が勝ったようであるが、当時、慶徳院からさし出した願書の中に、
当院は昔、風呂屋谷という処に観音堂と並んでいたが、二箇村、久次村総檀中から、遠方のうえ山中で、大雪の時は往来が難儀であるからと申し出があり、三ヵ村(二箇、久次、五箇か)相談の上で、古い道場である観音堂を残して、寛永七年祖朔首座が今の土地に引き移した…。
とあり、笛原寺観音からわかれて、今の土地に移った事情がわかる。鐘銘に「四ヵ村」とあるが、この相談の場合は三ヵ村で、鱒留村が加わっていないのは、不思議である(笛原寺の項参照)。
また、五箇谷は、もと一ヵ寺であったが、藩の命により鱒留村に全徳寺を分派し(年代不詳)、明治五年、久次村の檀徒が分離して神葬祭を行なうようになった。
慶徳院の石段は、米寿にちなんで八十八段あり、山門の扉は、もと峯山藩主の御館の扉であったものを、廃藩の際譲りうけたものであるという。
寺宝に、霊源和尚筆達磨、盧洲筆維摩居士一幅…などがある。
宝暦三年(『峯山明細記』)
境内屋鋪 長二十五間幅十五間程、客殿 五間に七間、庫裏 四間に六間、阿弥陀堂 一間四面、鐘撞堂 八尺二寸四面、鐘 二尺二寸、山畑 七十五間に十間程、山林険阻で間数知りがたく…。
昭和二年三月七日の震災被害は、半壊傾斜を補修した程度であった。
〔現在〕本堂五間に七間、享保十二年二月三峰和尚改築。庫裏 八間に五間、文政年間、静山和尚改築。山門 三間に二間半、不詳。鐘楼堂 一間半四面、明治三十五年三月活堂和尚改築。鎮守堂 三間に二間半、不詳。庚申堂 五尺四面、不詳。位牌堂 三間四面、大正年間、良堂和尚改築。土蔵 二間半に二間、昭和十一年改築。地蔵堂一て、解決するようと遺言したというから、全性寺末の問題は、藩の一方的な措置であったと思われる。
『縁城寺文書』の中に、寛延元年(一七四八)、笛原寺の所属について、増長院と慶徳院が論争したことがのっている。その結果、増長院が勝ったようであるが、当時、慶徳院からさし出した願書の中に、
当院は昔、風呂屋谷という処に観音堂と並んでいたが、二箇村、久次村総檀中から、遠方のうえ山中で、大雪の時は往来が難儀であるからと申し出があり、三ヵ村(二箇、久次、五箇か)相談の上で、古い道場である観音堂を残して、寛永七年祖朔首座が今の土地に引き移した…。
とあり、笛原寺観音からわかれて、今の土地に移った事情がわかる。鐘銘に「四ヵ村」とあるが、この相談の場合は三ヵ村で、鱒留村が加わっていないのは、不思議である(笛原寺の項参照)。
また、五箇谷は、もと一ヵ寺であったが、藩の命により鱒留村に全徳寺を分派し(年代不詳)、明治五年、久次村の檀徒が分離して神葬祭を行なうようになった。
慶徳院の石段は、米寿にちなんで八十八段あり、山門の扉は、もと峯山藩主の御館の扉であったものを、廃藩の際譲りうけたものであるという。
寺宝に、霊源和尚筆達磨、盧洲筆維摩居士一幅…などがある。
宝暦三年(『峯山明細記』)
境内屋鋪 長二十五間幅十五間程、客殿 五間に七間、庫裏 四間に六間、阿弥陀堂 一間四面、鐘撞堂 八尺二寸四面、鐘 二尺二寸、山畑 七十五間に十間程、山林険阻で間数知りがたく…。
昭和二年三月七日の震災被害は、半壊傾斜を補修した程度であった。
〔現在〕本堂五間に七間、享保十二年二月三峰和尚改築。庫裏 八間に五間、文政年間、静山和尚改築。山門 三間に二間半、不詳。鐘楼堂 一間半四面、明治三十五年三月活堂和尚改築。鎮守堂 三間に二間半、不詳。庚申堂 五尺四面、不詳。位牌堂 三間四面、大正年間、良堂和尚改築。土蔵 二間半に二間、昭和十一年改築。地蔵堂一
…  〉 

五箇城跡
慶徳院の裏山にある。丹後国御檀家帳の「五ケの御城」。
白米城伝説と黄金千両伝説がある。

『中郡誌槁』
 〈 (五箇村誌草稿)城山、城跡見るべく石塁存す事は丹後古事記に詳なり(天正年中)守城水つき白米を以て馬を洗ひ敵をはかり山麓(今北国街道)より敵の攻むるに巨石大木を投じて防ぎしが城遂に落つと伝ふ
(実地調査)城趾は慶徳院の山続きにて街道より仰き見るへし  〉 

『峰山郷土志』
 〈 五箇村城趾(慶徳院裏山)
五箇城は、嘉吉年中(一四四一)、一色の重臣加悦城主石河直義の弟の小治郎が築いたといわれ、長禄−寛政の頃(一四五七〜一四六五)加悦城主石河中務丞が家来を派遣してこの城を守らせていたが、明応七年(一四九八)五月、若狭の武田元信が丹後に攻め入り、一色左京亮は戦に敗れ二十八日普甲山中で自殺し、その身内十三人も討死したが、石河中務丞も、同じ日に奥郡に乱入した敵軍に追われ、丹波郡の安徳山善王寺にかけ込んで切腹した。
大永−享禄−天文の頃(一五二一〜一五三二)、石河直経の子小太郎が居城したが、『縁城寺年代記』によると、同十三年三月二日、午後四時、大谷、進藤、五箇城討ち取り、同月二十九日午前四時に、彼の両人心替りして伊賀尉夜討と号して生害−とある。この記事はいささか解釈に苦しむが、小太郎の家臣に謀叛人が現われたため城責めにあい、用水路を断たれた城兵は、水の欠乏に悩みながら、白米を馬の背にかけて水の豊富をよそおい、敵の目をあざむき、岩石を落して葡い登る敵兵を防いだが、力つきて落城した。水は遠く久次の大谷から引き、今も溝の跡が残っているという。
城主石川小太郎については、例の『天文七年御檀家帳』に「五ケの御城石川小太郎殿」とあり、その弟が新治の城主であったことは、新治のところで述べた。それから三十八年後の天正年間、一色の部将山岡民部介の居城となったが、天正十年(一五八二)、一色義清の吉原山落城の際、長尾城(長岡村)に加勢中、細川興元軍の猛攻にあって、民部介は九月二十日(一説、五月)、城の西口において討死し、その日、五箇城は、細川方の松井佐渡守のために、留守中を攻め落とされてしまった(『峯山旧記』)。今、この城趾を高城といい、「朝日さす夕日さす白椿のもとに黄金千両、白金千両」の伝説を残して、そそり立つ岩壁に堅城のおもかげをのこしている。
北国街道は、この山下を通っていたもので、岩石や大木を投げ落して、敵軍をなやましたのも、白米で馬の背を洗って敵の目をあざむいたのも、この天正十年の落城の時であったとも考えられる。
ふもとに金谷(かなや)という地名がある。豊太閤の命により、京都法興寺の大仏の鐘を鋳た松本久兵衛(藤原姓)はここに住まっていたといい、今も土中から金屑がほり出されるという。  〉 

五箇城跡


 五箇城跡の山裾に金谷(かなや)という地は、方広寺(現京都市東山区)の鐘を鋳た松本久兵衛がここに住んだと伝える。


《交通》


《産業》


五箇の主な歴史記録


『丹後国御檀家帳』
 〈 一五ヶの御城      石川小太郎殿 石川殿の御子息
                    惣領殿なり
御そうしや
 真下重郎右衛門      宮垣太郎左衛門殿
  〆  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎五箇村(鱒留村の東、宮津街道)
【熊野権現】(祭七月廿四日)
【磯砂山笛原寺】(真言宗)
神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛といふ、人皇八代孝元天皇の仕へ奉り丹波与謝郡比治の里笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓五箇の庄なり。順国志に云。比治山の麓比治真名井ケ原の辺りに磯砂山笛原寺といふ大伽藍あり、伽藍の後山を比治山足占山といふ、豊宇賀能売命の天降り玉ふ處なりといふ。元亀二年将軍信長公延暦寺を焚焼せし時其僧遁れて丹後に匿る、於是丹後の寺院これが為に廃寺となる挙て数ふべからず、笛原寺の破壊せるもの蓋此時なり、今其跡に一堂あり行基以来の薬師観音の二像又弘法大師の像を安置す、堂の傍に坊あり僧徒一両人住居せり、其坊より四五丁斗の隔てて山門の跡あり礎石残る、其傍に古碑あり今読べからず。
【磯砂か嶽】(古名比治山、出図)
風土記に云。比治山の頂に井あり真井といふ、天女八人天降った其井に於て浴すといふ。今山の半腹に池のたわといふ處あり蓋此處なり。頂に東西南北の碑あり。
【笛の浦】(一に府江原と記す)
笛連の府跡なりとて山中に海部の名あり、海部は其父直の姓なり。
名寄 名に高き波立よりて聞しかは  笛の浦にも風き吹なり
【足占山】(一に天女足占山といふ)
風土記に天女八人此山に天降ると言ひしより、此山を天女の足占山といふ。
続古今集 藤原の保昌丹後守となりて下りけるに和泉式部も下らん事思ひよらす聞き遣しける、
行ゆかすきかまほしきは何方に  踏定むらん足のうら山 (権中納言定頼)
道の記 松倉の出張を出て凡海上七里斗行に足占山近かしと見えければ、かならすや旅の行衛はよしあしの  問はて文見る足のうら山 (玄旨法院)
【真名井の滝】(いさなごケ嶽の半腹にあり、出図)
滝五段に分れて一の滝、二の滝、三の滝、四の滝、五の滝といふ。
【護国山慶徳院】(禅宗)
【山岡民部城墟】
 【付録】(愛宕権現、舟岡大明神、稲荷大明神、八代荒神、米次荒神、滝場天王、谷宮大明神、薬王寺毘沙門)
○茂地村(五箇村の枝郷)】  〉 

『丹後旧事記』
 〈 天正府志に曰く当国丹波郡は與謝、竹野の二郡を割て置し新郡なり今五ケの庄本箇の里に道主将軍の城跡有里民府の岡と云此里に御饌都の神天降る跡とて咋の岡といふ邑あり、又此所の西の山を咋石ケ嶽といふ、今是を久次か村久次ケ嶽と云は非なり咋の仮名也御饌都の神天降るの事日本紀神代の巻に宇気持神死る時の伝あり又崇神天皇の朝に豊宇賀咋の命天降有ける事は風土記元々集に委し延喜式に比治真名為の神社とあり神社啓蒙に比治比沼同事也とあり比治は土形の里の仮名書なり升富村の古名なり此里の西の峠を今に至り比治山峠といふ、  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【五箇】『五箇村郷土誌』は、五箇の名称について、文化七年『丹後旧事記』の「五箇は本岡村、本箇(ほんこ)ともあり…」および『地名原義』から「ゴカは古閑(荒野、高野)の意、今、本街道筋の部落をフル五箇と称す」という例をあげている。フル五箇とは古五箇である。また、五箇の所属については、丹波郡七郷一のうちの口枳郷ともいい、あるいは神戸郷であるともいう。
また、『田数帳』にある丹波郷の中の成友保四町四反四十四歩宇野弾正−が笛ヶ谷にあたるというが、五箇という名は出てこない。それが、『縁城寺年代記』の天文十三年(一五四四)になると「大谷進藤五箇城討取……」とあって、五箇の名がはっきり出ている。慶長の『検地帳』は、五箇郷(内、茂地村)とあり、丹波郡の村の中で、字丹波と字五箇だけが郷名を用いているが、七郷の郷とはちがい、一つの大きな村をあらわしているにすぎない。しかし、これも元和元年峯山領となって以来、五箇村と改まっており、文化十三年に五箇村は、久次、菅、長岡、善王寺、口大野村ノ内百七石とともに五箇谷六ヵ村に加わっている。また、五箇の庄については、久次と同じである。
こうして考えていくと、五箇の語源は、いろいろあるが、まず二箇と同じく「数」にちなんだのではなかろうか。前に述べたように、北国街道の要所にあたり、道にそって人家が五軒あったともいうが、あるいは、茂地、笛ヶ谷、大ヶ谷、山崎、本箇の五部落を併わせて五箇と称し、その中心の本箇を古五箇とよんだものか、それとも、本箇とは、箇村に限らず、他の村でも、本村(元村)を指す場合、または、その村自体の代名詞としてこの「本箇」を使用したもののようである。なお『丹後旧事記』の本岡村と本箇について考えると、行書、ことに草書の場合、岡と箇はよく類似しているし、音読すると、岡(こう)と箇(こ)はほとんど同じである点から、本箇を本岡と誤ったのではあるまいか。しかし、善王寺の城を平岡城と呼んでいる。本岡の名がなかったともいえない。
笛ケ谷 一帯の地を笛の浦または笛の原(府上原(ええのはら))といい、笛連王(ふえのむらじのきみ)の館の跡で、山中に海辺の名のある名所である。
「名に高き浪立寄りて聞しかば笛のうらにも風は吹なり」(無名)−と『丹後旧事記』にあるが、『丹哥府志』は笛連の府の跡であるといって、山中に海部の名がある。海部は笛連の父の海部ノ直の姓であるといっている。
大ヶ谷は、今、大萱と書き、笛原寺の奥で、茂地(もち)部落とともに磯砂登山口に当たり、部落の中程に稚児ケ淵がある。  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 下山横穴群(しもやまおうけつぐん)
所在地:峰山町五箇小字舟岡
立 地:竹野川中流域、支流鱒留川左岸丘陵斜面
時 代:飛鳥時代
調査年次:1898、1907、1924〜1926、1932年(不時発見)、1980、1993年(峰山町教委)
現 状:調査範囲は消滅(学校敷地、道路)
遣物保管:東京国立博物館、市教委
文 献:A006、B011、8053、F003、G024
遺構
 下山横穴基群は、鱒留川左岸の丘陵に分布する11基からなる横穴群である。古くは1898年に発見され、その後も遺物の出土が知られていた(1〜6号横穴)が、すでに消滅してしまった。その後、1980、1993年には残された7〜11号横穴が発掘調査された。11号横穴以外は、横穴墓前面が削平を受けていて残存状態が良くなかった。平面プランは、長方形に近い10号横穴を除くと、11号横穴のようにフラスコ形と思われる。
遺物
 発掘調査時に出土した遺物のほか、過去の出土遺物として東京国立博物館所蔵資料、旧五箇小学校旧蔵資料がある。須恵器杯、平瓶、土師器椀、甕、刀子、銑鏃のほか人骨があり、土師器は赤色塗彩するものが見られる。いずれも7世紀中葉に位置づけられる。人骨は武庫川女子大学の池田次郎教授により調査され、成人男女各1と未成年1(8号横穴)、成人男性(9号横穴)、成人男性2(10号横穴)の埋葬が推定されている。
意義
 本横穴墓群は、7世紀中葉を中心に築造されたものである。また古くよりその存在が知られ、学史的にも重要な遺跡と評価できる。竹野川中流域では、左坂・里ケ谷横穴群(87)、有明横穴群(88)、大田鼻横穴群(86)が集中して分布することが知られるが、もう一つの分布地域として鱒留川流域が挙げられる。八幡山横穴(峰山町杉谷)は、出土遺物から見て6世紀末葉〜7世紀初頭の築造と思われ、最も古く位置づけられる。下山横穴群は、これに継ぐ時期のものと推定される。なお本地域では8世紀に下る横穴墓は発見されておらず、造営時期の下限については今後の課題といえる。  〉 


五箇の小字一覧


五箇 尼(ニ)屋敷 アザミ原 アラ谷東側 アザミ 赤ハゲ イ子河原 石町 イカダハナ 石ケ谷 家岡 井ノ上 家の谷 岩谷ロ イ子ノ谷 イ子川原 岩谷 家ノ谷口 磯砂山 ウラノ谷 ウチコシ 打越 岡ノ谷口 大デコ 大勝負谷 大ガヤ 岡ノ谷 大訓谷 岡ノ坊 奥ノ坊 大ベライ 御滝谷 金谷 笠松谷 カマノ谷 掛橋谷 掛橋口 上ミ市ノセ 掛橋 カマガ谷 観音 観音堂 カミヤガ谷 上家ケ谷 狐塚 切石 切石ノ谷口 栗谷 黒岩 訓谷 車谷 小栗谷 小勝負谷 小訓谷 三反田 新宮 下岡 下家ケ谷 下川原 下山 蛇ノ溝 ジヤバ 勝負谷 スキク川原 スキダ 千本成下 千本成 滝谷 大門 大門尻 大工屋敷 滝本 土クマ ツユナシ 天神ケ森 天王下 出合下モ東 出合下モ 出合 出合下タ 鉄砲屋敷 出合上 寺中 出合川原 天王 トリガケ 堂ノ向 堂ノ角 堂ケ谷 峠谷 長ザミ ナリトモ 中尾尻 長船 成畑ケ 成畑ケ下 ナガラ谷 中岡 ナタガフチ 長柄 二反田 西畑 西山内 西谷 野田 野畑ケ ノマ田 野田谷 墓ノ谷 早刈 畑谷口 畑ケ谷 東谷 平尾 東谷奥 東谷口 比治山 船岡 深田 笛谷 風呂屋谷 フチノ上 府岡 フロヤノ谷 ホウコウダ 細田 細川原 ホケコ 細谷口 細谷 松木谷 丸山 マガリタ 丸岡 真名井山 妙蓮 宮ノ谷 宮前 宮ノ下 ミソリ谷 妙井 三島 妙王院 ムクロジ谷 メイコ 持薮ノ上 ヤケドウシ 焼橋 山ノ上ミ 山崎 薬師ハナ 焼通 ヨ船谷 横谷 涌 脇谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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