丹後の地名

公庄(ぐじょう)
京丹後市網野町公庄


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京都府京丹後市網野町公庄

京都府竹野郡網野町公庄

京都府竹野郡郷村公庄

公庄の概要


《公庄の概要》



福田川中流域東岸で、西は郷、南は生野内、網野街道(府道17号)から外れるた位置に立地している小さな集落で、公庄村と生野内村はもとは一村であったといわれる。
同名の地名は福知山市大江町にもあり、同じように郡立(こおりたて・こりたて)神社がある、わたしはこれは古代の郡役所(郡衙・郡家)が置かれた地名ではないか、郡立神社はそこの守護神だと、密かに考えていたのだが、加佐郡の場合は郡域のあまりにも端っこになる、そんなことで留保せさせるを得なかったのだが、もう一度ここで考えてみて、それもありえると思わざるを得なくなった。「郡上八幡」とか、「郡上」と書いておなじようにグジョウと読む地名も見られる。郡所、郡庄とか、そんなことかも知れない…
当地には浅後谷南遺跡という、弥生から平安に続く大遺跡があり、考古学的には、円面硯が出土したことから付近に官衙的建物の存在が推察されている、そうだから、私の説もまるきっきりの妄想とは言えなくなってきた。本体はどこかにまだ埋まっているか知れない。加佐郡の場合もそうだが、郡衙の位置がこれまでに想定されている場所と違う、竹野郡は竹野神社あたりに国衙郡衙と普通は想定されてきた。しかし赤坂今井墳墓と網野銚子山古墳のちょうど中間に位置していて、当初のものがここにあってもいいと思える。近代の郡役所も網野に置かれていた。
『丹哥府志』は、「丹後旧記云。元明天皇和銅六年夏四月丹波五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時先づ加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く蓋し始終を示すなり、其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。
愚按ずるに、公庄といふ村の名は此両所にかぎらず往々是をきく、いまだ必ずしも郡分に限らず、但神の名に郡立といふは少し珍らしく覚ゆ、され共実に元明帝を祭ると旧記の據審ならず」としている。
神社はコホリと読み、地名はグン、ちょうど切り替わる律令国家誕生前後の時期に当たったようだから両者があってもよいか。
しかし郡家(ぐうけ)などいうが、私の子供の頃はまだコオリという人もいた、いったいいつコオリ→グンになったのかはわからない。
隣には「郷」という地名も残る、サトでなくゴウ、これもまたいつから読み方が変わったかわからない、いずれもいまだ知られない歴史を秘めていそうに思われる。郡評論争ですらつい最近になって行われたようなことで、この時代の詳細はいまだ明らかではない。
公庄村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文9年幕府領、宝永2年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年郷村の大字となった。
公庄は、明治22年~現在の大字名。はじめ郷村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《公庄の人口・世帯数》 41・13


《主な社寺など》

浅後谷南遺跡

郡立神社
郡立神社(網野町公庄)
和銅6年(713)の官立でないかと思われる神社、丹後国立国と同じ年で、この社も1300年の歴史を持っているのかも知れない。
元々からここにあったかは不明だが、周囲はちょっと広くてあるいは、ここに郡衙あったのかもわからない。神楽
丹後建国1300年の記念事業をするんだなどと張り切っておられる様子だが、それもいいが、こうした大事な歴史を持つ古い神社を見落としていてはそれもネウチが半減する。
またそこのお堂の薬師地蔵はふるさと自慢百選にしておられるが、それもいいが、その背後に鎮座のこの神社を見落としていては、ふるさと自慢もネウチ半分である。
もともとはすべての郡衙に守護神として祀られていたと思われる、国衙の印鑰社のようなものか、「室尾山観音寺神名帳」の時代になると、加佐、与謝と竹野郡だけに郡立神社が見えるのみ、そして今に現存しているのは当社のみである。奇跡のようなことでなかろうか、大事にして大いに宣伝しないと…(うるさいことでごめんなちゃい)

「室尾山観音寺神名帳」「竹野郡五十八前」
 〈 正四位上 郡立(コリタテ)明神  〉 

『丹後旧事記』
 〈 郡立大明神。竹野郡公庄村。和銅六年夏四月割丹波国以国置神座郡検地初竹野郡終依両郡庄定奉貢公供。又新郡丹波郡比治島人領賜封五百戸類聚抄に見えたり元明天皇崩後郡立大明神と奉崇神号。
和銅の国造は加佐郡より検地し竹野郡に終る依て竹野郡公庄邑に元明天皇(天智の女天武の母)を奉崇郡立大明神といわひ祭る。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【郡立大明神】
丹後旧記云。元明天皇和銅六年夏四月丹波五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時先づ加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く蓋し始終を示すなり、其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。
 愚按ずるに、公庄といふ村の名は此両所にかぎらず往々是をきく、いまだ必ずしも郡分に限らず、但神の名に郡立といふは少し珍らしく覚ゆ、され共実に元明帝を祭ると旧記の據審ならず。》
『丹哥府志(巻之五)』(丹後史料叢書第七輯)→376《◎生野内村(郷村の東南、是より峰山へ十一町余)
丹後旧記云。生野内村公庄村の二村は元一村の分れて両村となるよって互に郡立大明神を祭る。或云。生野は元おのと読む、和名抄にいふ小野是なり、後の世にいくのと呼ぶ。
【生王部神社】(式内)
【生野山正寿院】(真言宗)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 郡立神社 村社 字公庄小字竹クラベ鎮座
 (神社明細帳) 祭神 日本根子天津御代豊国成姫命
  由緒 創立年月日不詳、和銅六年丹波国を割丹後五郡を置加佐郡より検地し竹野郡網野郷に終る、此處に公庄を定め元明天皇郡立神社と祭り来ると伝ふ、明治六年二月村社に列せらる
一社  殿  梁行五尺    桁行五尺八寸
一拝  殿  仝一間牛    仝 三 間
一上  屋  仝二間四尺二寸 仝 二間一尺五寸
一境内坪数  千百十三坪
一氏  子  十七戸
 (丹後舊事記) 和銅の国造は加佐郡より初て検地し竹野郡網野郷に終るなり依て両郡に公庄を定め、元明天皇に奉穀貢、竹野郡公庄の地に元明天皇を崇め奉り郡立大明神と神號也
 (丹後舊記) 元明天皇和銅六年丹波五郡を割き丹後の国を置く、始め郡を分つとき加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、よつて両所に公庄村を置く、終始を示すなり其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式にいふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ、
 (郷村誌稿) 字公庄の氏神にして仝区の中央なる竹倉部の山麓にあり、日本根子天津御代豊国成姫命を祀る、明治六年二月村社に列せらる祭日は舊九月十三日なり  〉 

『網野町誌』
 〈 郡立神社 公庄小字竹クラベ(竹倉部か)鎮座
 祭神 日本根子天津御代豊国成姫命(元明天皇ー女帝の論号・在位七〇七~七一五)
 由緒 創建年月日不詳、和銅六年(七一三)丹波国を割丹後五郡を置、加佐郡より検地し竹野郡網野郷に終る。此処に公庄を定め元明天皇郡立神社を祀り来ると伝ふ。明治六年二月村社に列せらる。
補注
(イ)『丹後旧事記』=和銅の国造は加佐郡より始て検地し竹野郡網野郷に終るなり、依て両郡に公庄を定め、元明天皇に奉穀貢、竹野郡公庄の地に元明天皇を崇め奉り郡立大明神と神号也。
(ロ)『丹後旧記』=元明天皇和銅六年丹波五郡を割き丹後の国を置く、始め郡を分つとき加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、よって両所に公庄村を置く、終始を示すなり、其終る処に一社を建つ、けだし帝を祀るなり、延喜式にいふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。
注 現加佐郡大江町由良川左岸に「公庄」あり、熊野神社を祀る。
○「郷村誌稿」=字公庄の氏神にして同区の中央なる竹倉部(たけくらべ)の山ろくにあり、日本根子天津御代豊国成姫明を祀る。-後略-
※(ロ)によれば延喜式内社は「郡立神社」ということにもなり、混乱がある。(生野内参照))  〉 

名越神社

『丹後国竹野郡誌』
 〈 名越神社 無格社 字公庄小字竹クラベ鎮座
 (神社明細帳) 祭神 瀬織津比女神
   由緒 不 詳
 (郷村誌稿) 無格社なり殿内に古き幡一流を祭れり又一つの巻物あり久岡良左衛門之を蔵せり其紀に曰く、寛政六年甲寅八月十四日該村久岡新左掛門之元祖僧名了雲と申すは法名陽山了雲の父也、彼れが兄の法名周岳道照居士は則俗名芳造也、此童子仝村字北谷へ行き椎の木末に?しき物あるを認め竹にて振り落し掌に止めて窺ひ見れば、菊桐の御紋ありて其傍に名越大明神と染付ある御幡なり、童子は何心なきや鎌にて切削んとする處へ仝村重助の妻来りて之を留め直ちに御幡を了雲宅に持ち帰り而して橋木村明徳締定律師を招受し此始末を委敷陳述しければ、希代の奇瑞と仰せらるヽに応し近村より参拝を爲す者群集せり、就中不思議なる哉三日を経て了雲へ夢の御告に予は難風に吹流され海の瀬に止まりしが、天の指図により計ずも此處へ来りしなり、我を信心する輩は疫の難を救ひ取らんとの御誓言あり、依て直ちに社を建てしは此由来なり、今に於て一村中無病なるは偏に明神の加護なりや末世に至る迄疑を生すべからざる也と、  〉 

『網野町誌』
 〈 名越神社 字公庄小字竹タラベ鎮座
 祭神 瀬織津比女神
 由緒不詳とされるが、「郷村誌稿」には次のような説話が記されている。
-当社殿内に古い幡(旗)一流(一本)が祀ってある。また一つの巻物があって久岡良左エ門がこれを蔵しているが、それには次のような話が書かれている。
 寛政六年(一七九四)八月一四日、この村の久岡新左エ門の元祖の僧了雲の兄芳造が幼いころ、字北谷へ行ったとき、椎の木末にあやしい物が見えたので、これを竹の棒で振り落してよく見ると、(その布には)菊桐の紋章があってその傍に『名越大明神』と染付がある「御幡」であった。幼子は何心もなくそれを鎌で切り裂こうとしたところへ同村重助の妻が来て、これを押し留め、すぐに御幡を久岡宅へ持ち帰った。橋木村の明徳締定律師を招いて事の次第を話したところ、希代の奇瑞と仰せられたので近村から参拝に人々が群集した。不思議なことに三日経ってから了倶(ママ)に夢の御告があった。それは「わたしは難風に吹き流れて海の浅瀬に留まったが、天の指図によって計らずもここへ来たのである。我を信心する者たちの疫の難を救い取ろう」という御誓言であった。そこで直ちに社を建てたのが名越神社の由来である。今でも一村中無病であるのは偏に明神の御加護であろうか、末世に至るまで疑ってはならないことである。と。(原文を読み易くあらためた)
注 名越考
六月祓は、名越祓・夏越祓(なごしのはらえ)とも称した。ナゴシには、「邪神をはらひなごむる」という悪霊の鎮撫を意味する場合と、夏と秋の交代の折り目にあたって行う夏越しの意味がある。(『日本民俗文化大系4・"神と仏"』宮田登 小学館)  〉 

公庄城跡
東方の山頂に、天正頃の一色氏家臣森忠左衛門の居城という公庄城址がある。本丸跡・堀切跡などが残る。森忠左衛門は天正10年(1582)細川氏に下ったという。


《交通》


《産業》


公庄の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎公庄村(郷村の次)
【郡立大明神】
丹後旧記云。元明天皇和銅六年夏四月丹波五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時先づ加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く蓋し始終を示すなり、其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。
 愚按ずるに、公庄といふ村の名は此両所にかぎらず往々是をきく、いまだ必ずしも郡分に限らず、但神の名に郡立といふは少し珍らしく覚ゆ、され共実に元明帝を祭ると旧記の據審ならず。》
『丹哥府志(巻之五)』(丹後史料叢書第七輯)→376《◎生野内村(郷村の東南、是より峰山へ十一町余)
丹後旧記云。生野内村公庄村の二村は元一村の分れて両村となるよって互に郡立大明神を祭る。或云。生野は元おのと読む、和名抄にいふ小野是なり、後の世にいくのと呼ぶ。
【生王部神社】(式内)
【生野山正寿院】(真言宗)  〉 

『網野町誌』
 〈 <郷と公庄>
 丹後旧記に「元明天皇和銅六年(七一三)、丹波五郡を割き丹後の国を置く、始め郡を別つとき、加佐郡河守庄より始めて、竹野郡網野庄に終る。よって両所に公庄村を置く、終始を示すなり、其終る処に一社を建つ、蓋し帝を祀るなり、延喜式にいふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ」とあり。現在は生王部神社は生野内部落の氏神であるし、郡立神社は公庄の氏神であって、二社は社地を異にしていますが、もと一社であり、両部落も又一村であったと言伝えられています。
 郷は網野郷に属し、竹野郡誌に「次に中古、竹野郡の郡役所、即郡家はどこにあるかといふに、文献上には少しも證とすべきものはないが、其位置などより推して網野郷であると考へる。勿論今の網野町は古の網野郷の一部で、郷村などは網野郷の遺称であり(中略)郷村にある郡立大明神も、或は郡家に関係がなかったろうか」と述べられています。郷の地名の起源については今尚この説以上には明らかではありません。
(中略)鉄道宮津線の開通するまでは、網野町方面の人たちは、峰山町のことを「まち」と云い、「まちへ行く」と云えば峰山町へ行くことでありました。ミネヤマを省いてマテと云っただけで意が通じましたように、「あみのごう」の前半を略して「ごう」と云うようになったのではないでしょうか。  〉 

京丹後市の考古資料浅後谷南遺跡(図も→)

 〈 浅後谷南遺跡(あさごだにみなみいせき)
所在地:網野町公庄小字宮社
立地:福田川中流域右岸扇状地上
時代:弥生時代後期、古墳時代前期~平安時代
調査年次:1997~98年(府センター)
現状:全壊(国営農地)
遺物保管:府センター(一部、京都府所蔵、府センター保管;府指定文化財)
文献:C121.C131
遺構
浅後谷南遺跡は、福田川中流域右岸丘陵裾に広がる標高15~25mの水田および微高地に位置する集落遺跡である。
調査域の南側(A地区)を中心に、主に弥生時代後期、古墳時代前期~平安時代の多数の溝や古墳電時代中期の竪穴住居跡4基、歴史時代の掘立柱建物跡15棟、土坑などが確認されており、それらから多量の弥生土器や古墳時代前期の土師器や中期、後期の土師器、須恵器が出土したほか、各時代の多種多様な木製品も数多く出土した。また、調査域の最も南にあたる溝からは、古墳時代前期の2箇所の浄水施設が検出された。下流側の浄水施設1は、一本造りの導水管と上流側の堰状施設からなる。上流側の浄水施設2は、堰状施設と水を溜めるための大型槽からなり、水を汲むための昇降に使用された梯子も出土した。浄水施設1と2は、形態こそ異なるものの、流水をせき止めることにより貯水、沈殿を行い、上澄みを槽に貯めるという機能は全く同じものである。
また、ほかの溝からは、古墳時代中期にあたる複数の大型建物部材を転用した3箇所の護岸施設と5箇所の堰状施設も検出されている。
このほか、調査域の北側(B地区)からは、古墳時代後期の竪穴住居跡1棟、掘立柱建物跡6棟、複数の溝および掘立柱建物跡と思われる柱穴286基ななどのほか、飛鳥~奈良時代の掘立柱建物跡1棟、平安~鎌倉時代の柱穴が多数見つかっている。
遺物
遺物は、弥生時代後期から平安時代にかけての土器や木製品などが大量に出土した。土器では、特に古墳時代の土師器に資料的価値が高い。
木製品には、特に古墳時代のものとして、鍬や刀子などの農工具、祭祀用の形代(舟形、刀形、剣形、鳥形、斎串など)、火鑽臼、有頭棒、堅櫛などが多数出土したほか、高床式建物の部材が転用されて護岸施設や堰状施設に使われていた。このほか、一つの竪穴式住居跡からは、滑石製刀子やミニチュア土器が出土し、なんらかの祭祀的遺構と考えられる。
特徴的な浄水施設1の本体は、全長3.5mの一木造で中間部に水貯め用の槽(約O.6~1.1m)を作り、その前後に樋(幅約O.3m)を持つ特異な形態をしている。槽の下流側の出水口は絞り込みの造作が施されており、底の盛り上がりとともにすべての水が容易に流れ出さないようにしている。また上流側の端部では.横板と杭を用いて簡易な堰止めを作っており、この本体の北側に密接して足場用の板が設置されている。付近からは、古墳時代前期の布留式土器や桃の果核が出土しており、4世紀前半の年代が与えられる。
古代から中世の遺物としては、須恵器、土師器、円面硯.黒色土器、緑釉陶器、瓦器、青磁、白磁などの土器群、多種多様な木製品(鳥形、刀の把手、糸車の枠木、下駄、横槌状の未完成品、刀子など)、墨書土器、八稜鏡、銅製錘などとともに、鞴の羽口や椀形滓などの鍜冶関連遺物が出土した。挑を中心とした果実の種子も出土している。
意義
古墳時代の浄水施設は、畿内では纏向遺跡(奈良県桜井市)、南郷大東遺跡(奈良県御所市)、服部遺跡(滋賀県守山市)神並、西の辻遺跡(大阪府東大阪市)など各地の拠点的集落遺跡から検出されており、浅後谷南遺跡の性格を考える上で大きな示唆となる。すなわち、畿内政治集団の関与がなくては成立し得ない祭祀遺構であり、遺跡の立地が古代丹波の中心地から赤坂今井墳墓を経て、潟港である浅茂川湖に通じる交通の要衝に当たることの意義を強く感じさせてくれる。そして、多くの事例が農耕儀礼に伴う流水、湧水祭祀的な側画と水利、潅漑などの実用的な側面を持つものと考えられており、本遺跡の浄水施設は、丘陵から谷部の平野に広がる扇状地内の湧水点に設置され、きれいな清水を取水し水の祭祀に使ったものであろう。
遺跡から大量に出土した弥生時代後期から古墳時代にわたる土器群は、集落の遺構の切り合い関係から層位的に前後関係が把握でき、確実な前後関係をおさえることができたことにより、丹後地域における土器編年確立のための基準資料として大きな意味を持つことになった。
遺跡の北部で出土した平安時代後期の鍛冶関係の遺物からは、鉄器生産に関する集団の存在が考えられ、遠處遺跡などで見られた官営での集中的な鉄器生産が各集落での生産へと変化していく過程を示すものとして貴重である。また円面硯が出土したことから付近に官衙的建物の存在が推察されている。  〉 

『丹後王国の世界』(写真も)


 〈 浅後谷南遺跡の導水施設
赤坂今井墳墓から約2km北西に行った福田川中流域にあるのが浅後谷南遺跡(京丹後市網野町公庄)です。ここからは4世紀の導水施設が見つかりました。
導水施設は、長さ3.5mの一木作りの木樋と溝で結ばれた堰(貯水池)からなり、溝からは鳥形・鏡形などの木製祭具や多量の桃核が出土したことから水に関わる祭祀遺構とされています。
このような施設は、水の祭祀に使う浄水を採取するためのもので、ヤマトの纏向遺跡(奈良県桜井市)を初現として畿内地方の拠点的集落から見つかっています。浅後谷南遺跡の導水施設もヤマトからもたらされたものと思われます。4世紀代のヤマト政権と丹後との密接な関係を表わす重要な遺跡です。  〉 


このあたりのようだが、何もない。なおこの遺跡の南にすぐ浅後谷南墳丘墓群がある。その直下から写した。

公庄の小字一覧


公庄(ぐじょう)
竹倉部(たけくらべ) 出合(であい) 友安(ともやす) 薬師下(やくしした) 薬師谷(やくしだに) 薬師岡(やくしおか) 北谷(きただに) 南谷(みなみだに) ゴリン元(ごりんもと) ユリ 浜屋敷(はまやしき) 竹ノ下(たけのした) 宮大門(みやだいもん) 上屋ノ下(うえやのした) 中屋ノ下(なかやのした) 下屋ノ下(しもやのした) 谷口(たにぐち) イネノ上(いねのうえ) 寺岡(てらおか) 萩花(はぎはな) 水道(すいどう) 公庄谷(ぐじょうだに) カダコ谷(かたごたに) 権三郎谷(ごんざぶろうたに) 岩ケ谷口(いわがたにぐち) 三町田(さんちょうだ) 草苅谷(くさかりだに) フタマタ谷(ふたまただに) ウルシ谷(うるしたに) 峠ノ奥(とうげおく) 道林屋敷(どうりんやしき) 清治郎分(せいじろうぶん) 松ケ下(まつがした) 入ノ口(いりのくち) 宮谷口(みやだにぐち) 小長(こおさ) 中長(なかおさ) 二町田(にちょうだ) 宮谷(みやたに) 社谷(しゃたに) 石橋(いしばし) 溝落(みぞおち) 坂下(さかした) 下川原(しもかわら) 下野村分(しものむらぶん) 野村下(のむらした) 中川原(なかかわら) 丁谷(ちょうだに) 岡(おか) 田畠(たはた) 宮ノ前(みやのまえ) 宮ホテ(みやほて) 立畠(たてはた) 藪畠ケ(やぶばたけ) 大畑(おおはた) 四角畑(しかくはた) タモノ木(たものき) 上屋敷(かみやしき) 大下(おおした) 袖口前(そでぐちまえ) 一ノ谷(いちのたに) ハセガヘ 中屋敷(なかやしき) 下屋敷(しもやしき) 小谷(こたに) 奥小谷(おくこたに) 矢田地(やだち)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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