丹後の地名

生野内(いくのうち)
京丹後市網野町生野内


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京都府京丹後市網野町生野内

京都府竹野郡網野町生野内

京都府竹野郡郷村生野内

生野内の概要




《生野内の概要》
赤坂今井墳丘墓のすぐ下の集落で、網野街道から谷間へ入る。同墳丘墓は弥生時代後期末(3世紀前半)築造の大型方形墳丘墓で、東西約36m、南北約39m、高さ3.5m、弥生期の墳丘墓としては国内最大級の規模を誇る。これと近隣地にある集落である。
KTRの宮津線と府道17号・網野峰山線が並行して東西に走っている。福田川の支流生野内川流域に位置する。
生野内村は、江戸期~明治22年の村名。丹後国竹野郡網野郷のうち。往古は公庄村とで1村を成したという(丹後旧記)。はじめ宮津藩領、寛文9年より幕府領、宝永2年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年郷村の大字となる。
生野内は、明治22年~現在の大字名。はじめ郷村、昭和25年からは網野町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《生野内の人口・世帯数》 127・38


《主な社寺など》

式内社・生王部神社(にうべじんじゃ)
生王部神社(生野内)
集落へ入ったところの小高い丘の上に鎮座する。このような漢字で記録されているのでややこしい、あちこちでこうした誤記らしき地名などが見られるが、水銀ハンターの先学達もどうやら当社は見落としたようである。現在は普通はイクオウベと読んでいるが、本当はニウベと読むのではなかろうか。
延喜式の竹野郡生王部神社には、「イクワウヘノ」と「ニフヘ」と二つ訓注がある、イクワウヘと読むのはただ漢字を読んだだけのもので小学生レベル、ニフヘと読んだ人は博士レベルの人ではなかったろうか。また「生王、恐當作壬生」の頭注もある。正解の読みはニフヘだと思われる。
『続日本紀』慶雲4年5月癸亥(26日)条に、陸奥国信太郡の生王五百足という人の記事がある。「生王」という記録はこれだけでしかないと思われるが、これは「壬生」のことと言われている。
平城宮跡出土木簡に「若狭国遠敷木津 壬生国足調 …」と見えるものがあるが、今の高浜町にも壬生氏がいたようである、この地は当時は遠敷郡、すなわち小丹生郡であった。
近くでは平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野郡舟木郷 生部須□□ 斗」と見える。生部はミブベ、オウシベ、イクベなどと読まれている。
『入唐求法巡礼行記』の慈覚大師(円仁)は下野国の壬生氏の出だといい、全国あちこちにこの氏はいたようで、どうした系統と簡単には絞り込めない。
また「室尾山観音寺神名帳」の「竹野郡五十八前」に、
正四位上 壬生(ミブ)明神
が見えるが、これが当社ではなかろうか。ミブの訓注は誰がいつ付けたものか、当否も不明である。
生王部は壬生部の誤記、そう見ると朱の産地であったろう当地周辺の古代がよく見えてくる。
尚、「壬生」をミブと今は読んでいるが、「壬」はミとは読めない、ニンとかジンと読む。京都の壬生寺と新撰組が有名で、ここではミブと読んでいるので、その思い込みもあって「壬生」とあればミブと読んでいるのかも知れないが、それは新しい誤読である。本来はニフであるが、NとMはどんな言語でもよく互転し、いつの頃からかミブと読まれるようになっていったと思われる。
『和名抄』には「壬生郷」が見える、すべてをあげると、
壬生郷(安芸国山県郡)
壬生郷(安房国長狭郡) (訓注・爾布)
壬生郷(遠江国磐田郡) (訓注・爾布)
壬生郷(筑前国上座郡) (訓注・爾布)
壬生郷(美濃国池田郡)
で、訓注のあるものはすべて爾布(ジフではなくニフ。日本がジャパンになるようにNとJも転訛するがニは呉音で百済系渡来人達が伝えたといわれ、ジは漢音で遣唐使遣唐僧たちが伝えたという)である。壬生は本来はニフと読む。普通は丹生と書くが「丹」はニとは音読できず、壬生と書くのがニフに当てる漢字としてはいいのかも知れない(「生」もフとは読めないが)。古来からの一等国、神国日本は文字すら知らず、中国とは海で隔てられているため自然に入ってくることはない、これではダメだと誰かが意識して学び持ち込み普及しなければ文字はないままであったことであろう、「クソの遅れたチャンコロやチョーセン」に文字を学んで半分くらいは自分が間違えつつ記録し半分以上は彼ら外国人によって記録してもらってきたわけである。さらに言えば、近くに彼らなければ、日本は文字どころかコメも喰えなかったであろう。
壬生部は乳部とも書き「古代において皇子の養育料を出す御名代部」とされているが、それは漢字の意味をとったためではなかろうか、乳部はニュウベと読むと思われ意味を表した漢字で書けば丹生部だろう、本来の意味は水銀採集と関係した部民のことと思われるが皇国史観から抜け出られない日本の歴史学は断固反対を唱え続けることであろう、後にそうした役割も果たした時もあったのかも知れないが、本来の意味ではそれは間違いであろう。
丹生は千変万化する語で、当地周辺のかなり広くひろがる範囲、東側は仲禅寺から西側へ木津の売布神社や久美浜の女布などを含む地の水銀調査から当社の正確な読みも確定してもらいたい。なおその近くに三分(さんぶ)という村があり、二分村もあったというが、これらはあるいはニブ、ミブかも知れない。
当社の祭神は水銀の女神、元々からここに鎮座していたかは不明だが、赤坂今井墳墓を擁する当地周辺が古代の朱の産地であったことを証明する社である。おそらくは南方の権現山頂上に鎮座していたのではなかろうか。今からでもこのへんを掘れば大金持ちになれるかも。普通の山にしか見えないが…
福知山の雲原から兵庫県に入った但東町薬王寺に式内社の「大生部兵主神社」が鎮座するが、大生部(おおいくべ)というのも壬生部のことといい、新羅系、秦氏系渡来人といわれる。天日槍の国だもん、そうじゃろうが、そうだとすれば当地周辺もそうしたことか。
以前は「生野神社」と呼ばれていたというから「生野」も丹生のことかも知れないことになる。
生王部神社(生野内)
境内には立派なスダジイの神木がある。本殿前のものは巨木で樹齢約300年、樹高約14m、幹回り約6.7mあり、府の植物50選、府の自然200選、京丹後市の天然記念物に指定されている。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 生王部神社 村社 字生野内小字生尾鎮座
 (延喜式) 竹野郡 生王部神社
 (神社明細帳) 祭神 生玉部神 日本根子天津御代豊国成姫命
   由緒 創立年月日未詳明治六年二月村社に列せらる、明       治十五年八月廿一日生野神社を生王部神社と改称       許可なる
 一社  殿   梁行一間二尺九寸 桁行一間六尺三寸
 一境内坪数  百六十七坪
 一氏  子   四十一戸
  境内神社
   若宮神社
    祭神 不詳
    由緒 往古本社境内に大川社鎮座有之所年月不詳當社        へ合祭になる、
 (丹後旧事記)
  生王部神社       生野内村
   祭神  稲倉持神       延喜式並小社
    生野山大慈寺と云ふ坊官あり織田信長迄四百五十石の    神田あり
 (丹哥府志) 生王部神社
 當区は元公庄に鎮座せる郡立神社の氏子なりしが故ありて明治七人年豊岡県管轄時代に分離して生王部神を氏神とすといふ  〉 

『網野町誌』
 〈 生王部神社(式内) 生野内小字生野内鎮座
 祭神 生王部神・日本根子天津御代豊国成媛命・稲倉持神
 由緒 創建年代不明、明治六年二月村社となる。

明治五年八月五日「生野神社」を「生王部神社」の社名に改称し京都府に屈け出た。明治一五年八月二一日改称許可になっている。近世には「生野神社」だったものか。しかし、中・近世の古い文献などに、「生王部(イクオウヘ)」「壬生部(ニフヘ)」「生玉部(イクタマヘ)」と宛てられたり訓まれたりしている記録もあり、社名の考証はむずかしい。このほか「生野明神ハ公庄村郡立(こおりだて)明神ノ方ナルヘシ」の説もある。また『丹哥府志』には「当区は元公庄に鎮座せる郡立神社の氏子なりしが故ありて明治七・八年豊岡県管轄時代に分離して生王部神を氏神とすといふ」の記事もあり、当社を観るとき-後述の公庄・郡立神社-と併せて考える必要があろう。(公庄の項参照)
○境内神社
若宮神社 祭神 不詳
  由緒 往古本社境内に大川社鎮座有之所年月不詳当社へ合祭。(式内社調査報告書竹野郡誌)
稲荷神社  〉 

『大日本地名辞書』
 〈 補【壬生部(ミブベ)神社】○神祇志料、生王部神社、按、延喜式(貞享本)竹野神社の傍注に爾布倍とあり、こは旧本社の傍注たるを彼所に誤りてしるせしなり、此に拠らば生王は壬生に作るべきに似たり、姑附て考に備ふ、
今生野内村生野尾にあり、生野明神と云ふ(神社覈録・神社道志流倍・豊岡県神社取調帳)   〉 

『丹後旧事記』
 〈 生王部神社。生野内村。祭神=稲倉持神。延喜式竝小社。
 生野山大慈寺と坊官織田信長迄四百五十石の神田あり。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【郡立大明神】
丹後旧記云。元明天皇和銅六年夏四月丹波五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時先づ加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く蓋し始終を示すなり、其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。
 愚按ずるに、公庄といふ村の名は此両所にかぎらず往々是をきく、いまだ必ずしも郡分に限らず、但神の名に郡立といふは少し珍らしく覚ゆ、され共実に元明帝を祭ると旧記の據審ならず。  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 生王部神社
○生王壬生誤乎 ○【姓録】三富部火明命後也 ○百木説ニ古本ニ生王部トアリテニフヘト訓リサレバ壬生部ノ誤歟又印本ニイクワウヘトヨメルハイヅレニマレヨルシカラヅ又或訓ニイクタマヘト訓リコレニ依トキハ生玉部也天慶七年四月廿二日筑前国高良社古文書ニ下妻郡少領 ○王壬部玉照神ト申モ見ヱタリコトハ誤字ニモアルベケレドモ考ニ備フベシト云へリ △信友按王壬部壬生部ノ中可考又姓氏録ニ壬生部
【覈】生野内村ニアリ【道】生野内村生野明神ナリト云ハ信ジ難シ公庄村郡立明神ノ方ナルベシ【豊】所在同上字生野内十月廿四日生玉部神社ト書ケリ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 


高野山真言宗生野山大慈寺(だいじじ)
大慈寺(生野内)
集落の一番奥にある。
かつては驚峰山大悲寺と号した真言宗の寺院。本尊・聖観音。
神亀2年(725)聖武天皇の夢告により行基が開創、自刻の聖観世音像を安置し大悲寺の号を下した。その後堂塔伽藍を整え僧300人を止宿せしめたという。元亀2年織田信長による丹後真言倒しの厄にあって以来衰え、本堂のほかに1、2宇残るのみとなったという。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 大慈寺  真言宗にして字生野内にあり
 (同寺調文書) 本尊観世音、由緒人皇四十五代聖武天皇の御宇神亀二年六月不思議の御感夢に依り即ち行基菩薩に命じて此地を開創し自刻の正観世音菩薩を安置し大悲寺と號を下し給ふ、其後堂塔比甍仏前仏後金銀を餝り神殿に幣帛珠玉を荘り僧坊重軒住侶三百餘人止住す云々、時に乱世に及び二十ケ年間僧俗安住する能はす既に堂塔僧坊或は焼失或は破却一山の僧殆んど滅亡す、只残る物は本堂外一二宇然れ共其建物を自力維持する能はぎるに至り依て十方檀越の戮力を懇求す、此時の勧進募緑帳の序文に一軸古物焼残りたるもの現存す発端二三行欠けたれども其大意如斯
略  〉 

『網野町誌』
 〈 生野山大慈寺 真言宗 生野内
本尊 聖観世音菩薩
<由緒・伝承>
(同寺調文書)夢の中で不思議なお告げを受けた聖武天皇は、神亀二年(七二五)六月、行基菩薩に命じて生野内を開創させ、行基は自刻の聖観世音像を安置し鷲峰山大悲寺の号を下した。その後、堂・塔・瓦・仏前仏後に金銀を飾り本堂には奉献物がおごそかに供えられ、また僧坊が軒を並べ僧三〇〇余人を止宿させるほどの大寺となった。だが、戦乱の時をむかえて僧は安住することができなくなってしまった。
すなわち、堂塔も僧坊も焼失破却され、一山の憎はほとんど姿を消し堂宇も一、二を残すだけとなってしまった。しかし、これらの建物も寺の自力では維持することが不可能となり、多くの檀家に協力を懇請した。
『竹野郡誌』には〝此時の勧進募縁帳の序文に一軸古物焼残りたるもの現存す発端二三行欠けたれども其大意如斯〟として、応永一七年(一四一〇)九月、永享一一年(一四二九)五月、文明八年(一四七六)六月の記事があり、また旧記には年代順に次のように記録されている。
・大永二年二月一四日子の刻、丹後国大悲寺金堂炎上
・天文七年一〇月一八日より丹後国大悲寺千部経あり
注 「縁城寺年代記」には〝天文七年三月七日より九日迄大悲寺関白より一千年忌法要″とある。
・天文九年大悲寺火事
・弘治元年九月一〇日大悲寺柱立閏一〇月九日わたまし
注 わたまし=渡座・転座
・天正八年長岡殿入国八月二〇日神社仏閣寄附田皆落ちる
注 「結城寺年代記」には記載なし。
・慶長五年長岡殿九州へ降る京極殿入国
・寛永七年二月~○日丹後国真言宗諸寺京極丹後守の領地払同五月帰山其内京極主膳守領分は無事なり
注 「結城寺年代記」には〝寛永八年辛未丹後諸真言退散山伏共ニ二月十日ヨリ内ニ京極丹後守御ハライ同五月帰山其内縁城寺ハ京極主膳之頭領地ナレバ無事也〟とある。
・寛文七年縁城寺の末寺に属す
・安永元年縁城寺を離末するなり当寺古代は鷲峰山大悲寺と云ひしも一旦縁城寺に属し其後離末の際改めて生野山大慈寺と改称す
「縁城寺年代記」寛政元年乙酉三月大慈寺当山離末願来ル十一日ニ離未ス
注 「縁城寺年代記」と勧進募縁帳(『竹野郡誌』所収)とでは、右のように離末の時期に相違がある。
「宇川・上山寺蔵年代目録」
・寛永四年本堂建つ住持文盛の代
・享保七年観音再建
・享保九年開聞より一千年の法事あり
『京都府の地名』日本歴史地名大系26
 大慈寺は元亀二年(一五七一)の織田信長の真言宗寺院焼き打ち、文禄二年(一五九三)の細川忠興の真言宗僧国外追放、寛永八年(一六三一)の京極高広の真言宗寺院山伏の領外追放などで被害を被ったと伝、えられている。
注 大門敷地は生野内区内の中央にあり現在の辻堂敷地で、本堂の敷地は寺の南方に続く字奥の坊というところであると伝えられ、現在でも石像を掘り出すことがあるという。
 昭和三七年(一九六二)ころから大慈寺は無住となり、総本山・高野山金剛峰寺宗務所よりの辞令により、直ちに増長院(峰山町・富貴屋)服部賢淳住職が兼務を拝命した。本尊、檀家精霊の回向は増長院で行われ、盆の施餓鬼会、棚経などは関係寺院とともに大慈寺で行われている。現在の檀家数は三五戸である。  〉 


 郷村断層(生野内断層)
大慈寺より土道を入っていく。
生野内断層
当時の断層↑。↓は今に保存されているもの。
生野内断層

郷村断層

 別ソウの小字
式内社・ニウベ神社といい、真言宗の大寺院といい、これは別所の地名、伝わらない知られていない栄光の過去があることであろう。


《交通》


《産業》


生野内の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 生野内村(郷村の東南、是より峰山へ十一町余)
丹後旧記云。生野内村公庄村の二村は元一村の分れて両村となるよって互に郡立大明神を祭る。或云。生野は元おのと読む、和名抄にいふ小野是なり、後の世にいくのと呼ぶ。
【生王部神社】(式内)
【生野山正寿院】(真言宗)  〉 


生野内の小字一覧


生野内(いくのうち)
ツカ元(つかもと) 畷(なわて) 高札場ノ下(こうさつばのした) 矢ノ下(やのした) 矢谷(やたに) 田中(たなか) 東谷(ひがしたに) 東谷下ノ小谷(ひがしたにしものこたに) ヒロクケナル 東谷シヨカ谷(ひがしたにしよかたに) シヨカ谷(しよかたに) 東谷小谷(ひがしたにこただに) アケシ谷(あけしたに) 石ケ谷(いしがたに) カシケ谷(かしけたに) 細谷(ほそたに) 藪ケ谷(やぶがたに) 南ノ坊(みなみのぼう) 奥坊口(おくぼうぐち) 道口(みちぐち) 大谷(おおたに) ハシラケ谷(はしらがだに) ハヅレ口(はづれぐち) シル谷(しるたに) 大谷奥(おおたにおく) 硫黄谷(ゆおうたに) 畑ケ谷(はたがたに) 明ケ谷(みょうがたに) 小ハヅレ(こはづれ) ハヅレ 作畠(つくりばた) 山内(やまうち) ヒヂリ 地デン(じでん) ウルシ谷(うるしたに) ウルシ谷口(うるしたにぐち) カイジリ 地蔵鼻(じぞうばな) 大クゴ(おおくご) 梅木谷(うめきだに) 上大クゴ(かみおおくご) 下大クゴ(しもおおくご) 宮ノ下(みやのした) 宮小谷(みやこだに) 柘榴(ざくろ) コルケ谷(こるけたに) 五反田(ごたんだ) 土谷(つちたに) 別ソウ口(べっそうぐち) 小別ソウ(こべっそう) 別ソウ(べっそう) 別ソウ上地(べっそうかみじ) 別ソウ小谷(べっそうこたに) 別ソウクゴ(べっそうくご) 別ソウ奥地(べっそうおくち) 別ソウ奥小谷(べっそうおくこたに) 別ソウ奥(べっそうおく) 浜分下町(はまぶんしたまち)  浜分(はまぶん) 長道(ながみち) 岸ケ谷(きしがたに) 岸ケ谷小谷(きしがたにこたに) 姥ケ谷(うばがたに) 小敷谷奥(こしきたにおく) 小谷道下(こたにみちした) 古谷口道下(ふるたにぐちみちした) 公庄境(ぐじょうさかい) 古谷道上(ふるたにみちうえ) 古谷口(ふるたにぐち) 小谷口(こたにぐち) 小谷上地(こたにかみじ) 古谷(ふるたに) 古谷クゴ(ふるたにくご) 古谷一ノ谷(ふるたにいちのたに) 古谷小谷(ふるたにこたに) 古谷小谷奥(ふるたにこたにおく) 古瀬畑(ふるせばた) 月切口(つききりぐち) 当田(とうだ) 小目切(こめきり) 小目切アケジ(こめきりあけじ) 狸谷(たぬきだに) 狸谷花(たぬきだにはな) 小目切東小谷(こめきりひがしだに) 小目切クゴ(こめきりくご) 小目切奥(こめきりおく) 小目切小谷上地(こめきりこたにかみじ) 小目切上地(こめきりかみじ) 当田下ノ田(とうだしものた) 当田クゴ(とうだくご) 当田小谷(とうだこたに) 大別当(だいべっとう) 豆腐屋田(とうふやた) 中目切(なかめきり) 妹(いもうと) 妹小谷(いもうとこたに) 仲田(なかた) 妹上地(いもうとかみじ) 日ヤケ小谷(ひやけこだに) 日ヤケ田(ひやけだ) 仲田小谷(なかたこだに) 日ヤケ谷(ひやけたに) ツエノ谷(つえのた二) 三重田(サンジユウダ) 地蔵田(じぞうだ) リキンボ ヨモキ谷(よもきたに) 池ケ谷(いけがたに) 小池ケ谷(こいけがたに) シヨリ谷(しよりたに) 大沢(おおざわ) 別当(べっとう) 向地(むかいじ) 家ノ上(いえのうえ) 家ノ上小谷(いえのうえこだに) 郷蔵向(ごうくらむかい) 堂ノ向(どうのむかい) 岡谷尾(おかだにお) 岡ノ下(おかのした) 寺ノ下(てらのした) 桂ケ谷(かつらがたに) 峠坂(とうげざか) 作畑(つくりばた) 奥場口(おくばぐち) 椿(つばき) ウルシ谷奥(うるしだにおく) 岸ケ谷尾(きしがたにお) ウルシ谷坂(うるしたにさか) 山内口(やまうちぐち) 田中(たなか) 屋敷上(やしきうえ) 幸右□□□□ 溝ノ上(みぞのうえ) カイジリ 宮ノ下(みやのした) 宮小谷(みやこたに) 七日帰ヘリ(なぬかかへり) 当金柿(とうきんがき) 丑上ケ(うしあげ) ユルケ谷(ゆるけたに) 柘榴谷(ざくろたに) 槌谷(つちだに) 岸ケ谷(きしがたに) 岸ケ谷小谷(きしがたにこたに) カリウカ谷(かりうかたに) 砂入(すないり) 小敷谷長通上(こしきたにながとおしうえ) 小古瀬(こふるせばた) 畑八郎兵エ小谷(はちろうべえこたに) 日ヤケ(ひやけ) 小シヨリ谷(こしよりたに) 大シヨリ谷(おおしよりたに)  大ヅエ(おおづえ) 地蔵田東小谷(じぞうだひがしこたに) 目切(めきり) 東谷家ノ上谷(ひがしたにけのかみだに) 明シ谷(あけしたに) 東谷(ひがしたに) 岡谷(おかたに) 岡尾(おかお) ハシマケ谷(はしまけたに) シル谷(しるだに) ヒロク谷(ひろくだに) イホフ谷(いほふたに) 作鼻(つくりばな) 奥ノ坊口(おくのぼうぐち) 西ケ谷(にしがたに) カリウカ谷(かりうかたに) 小敷田(こしきだ)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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