丹後の地名

岩木(いわき)
京丹後市丹後町岩木


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京都府京丹後市丹後町岩木

京都府竹野郡丹後町岩木

京都府竹野郡豊栄村岩木

京都府竹野郡八木村岩木

岩木の概要




《岩木の概要》
岩木集落(京都府竹野郡丹後町)
竹野神社の少し手前、竹野川下流の東岸、バック東方に依遅ヶ尾山(540m)を望む。地名の由来として父を垂仁天皇、母を丹波道主命の5女の1人真砥野媛とする磐撞(いわき)別命の御料地であった地であることによると(丹哥府志・丹後旧事記)いう。これは先代旧事記の話である。
磐撞別命は記紀では山背大国不遅の女・綺戸辺弟苅羽田刀弁の子となっていて、近江の鉄穴のあたりにいて継体天皇の祖になる、その通りなら今の天皇さんの血の繋がった先祖ということになる。どちらがどうなのかはわからないが、丹後系の人かも知れなく、そして何か鳥取氏とも丹生とも関係する人のように思われる。
しかし名は後で地名が先かも知れない、入口に岩山があって、ここが岩木だろうと誰でも思える所である。中世以前から城があってそれを岩柵と呼んだのではなかろうか、とも思われるが、当地には丹生神社があってまんざらまるっきりのエエかげんな話とも思えなくなってくる…。
中世の岩木村で、戦国期に見える村名。「丹後御檀家帳」に「一 かくおん寺 里村にあまたあり此辺岩木村と見る 家百五拾斗」とある。「かくおん寺」は現存せず未詳だが、「丹後国田数帳」には「一 楽音寺庄 十一町七段 伊勢下総守」とあり、同帳武元保の項にも「九町七段百廿六歩 楽音寺 押領」と見える。「かくおん寺」とはこの楽音寺であろうかという。なお丹後国御檀家帳に「かくおん寺のくろ田」ともみえるがこれも不詳。
岩木村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦9年再び宮津藩領となる。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年八木村の大字となる。
岩木は、明治22年~現在の大字名。はじめ八木村、大正14年豊栄村、昭和30年からは丹後町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《岩木の人口・世帯数》 239・62

《主な社寺など》


丹生神社

丹後の注目神社である。鎮座地の「新道」はシンドと読むようだが、本当はニイドとか読むのではなかろうか、丹生土で、あるいはここが産地かとも思える。しかし現在の鎮座地は小高い山頂で、丹後ではなじみの花崗岩風化の砂山で、この地質なら丹後ならどこでもあるものである。大宮町の新戸(シンド)古墳もあるいは丹生と関係があるかも知れない。伊根町からこのあたりまでは碇高原とか吉野山上山寺とか、朱に関係しそうな地名はある。丹後古墳には大量の朱が出土するものもある。
丹生神社(岩木)
ニブさん、ミブさんと呼ばれている「丹生神社」。宝蔵寺の裏山の山頂に鎮座する。
摂社
向かって左に摂社ということらしいが、三社祀られている。郡誌も町史も見落としているが「乳道」はニュウヂと読むようで、丹生地のことらしい、鎮座地の新道も本来はニイヂではなかろうか、丹生地のことか、そうすると「新造」も何かそうした丹生関係の名に思われる。
丹生神社(岩木)
まったくの花崗岩の砂で、こうした所に朱があったのだろうか。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 丹生神社 村社 字岩木小字新道鎮座
(神社明細帳)  祭神 岡象女神
  創建不詳、弘化元辰四月十六日火災に罹り其後嘉永二年酉六月建替
 社 殿 梁行 五尺四寸五分
     桁行 四尺六寸五分
 上 屋 梁行 二間半
     桁行 三間二尺
 籠 屋 梁行 二間七寸
        三間半五分
 境 内 神 社
   新造神社  祭神 不詳
   天満宮  祭神 菅原道具公
   稲荷神社  祭神 倉稲魂神  〉 

『丹後町史』
 〈 丹生神社 岩木新道
岡象女神を祭る。
弘化元辰四月十六日、火災に遇い、嘉永二酉年六月再建。
境内には新造神社(祭神不詳)天満宮(菅原道真公)、稲荷神社(倉稲魂神)がある。  〉 


曹洞宗金竜山宝蔵寺
室町期の宝篋印塔が現存する、もとは真言宗という。
宝蔵寺(岩木)

『丹後国竹野郡誌』
 〈 寶蔵寺 曹洞宗  字岩木小字宮ノ越にあり
 (同寺調文書) 本尊を阿弥陀如来とし、貞享三年丙寅三月創建、橘州和尚を開山とす、其後火災に罹り堂宇の悉皆焼失したるを以て現時の堂字を再建せり
 (丹哥府志) 金龍山寶蔵寺 曹洞宗  〉 

『丹後町史』
 〈 金龍山 宝蔵寺 岩木小字宮ノ越 曹洞宗
本尊、阿彌陀如来、貞享三内寅年(一六八六)三月創建、宮津智源寺二世橘州宗曇和尚を開山、其の後火災に罹り、堂宇は皆焼失し、現時の堂宇を再建した。檀家約七〇戸。  〉 


城山


《交通》


《産業》


岩木の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 一 楽音寺庄  十一町七段  伊勢下総守

― 武元保 廿二町三段七十二歩内
 三段         禅居寺
 三町九段三百対三歩  三上小五郎
 三町九段三百対三歩  県弥次郎
 三町七段百八十歩   武部次郎
 五段百八十歩     成松名 成吉越中
 九町七段百廿六歩   楽音寺 押 領  〉 

『丹後国御檀家帳』
 〈 一 かくおん寺  里村々あまたあり此辺岩木村と見る
 井上宗右衛門殿 大なる城主也国のおとな衆   家百五十斗
 (松梨)
 まつふしつしまとの  西村源右衛門殿
 山本彦右衛門殿    浦田源左衛門殿
かうおや宿めされしかへしする人  かうおや
 小森助右衛門殿    八郎右衛門殿
 弥 九 郎 と の    長  泉  寺
(朱書濁点)     かうをや
  「〃」
 つし総左衛門殿    岡 兵 衛 殿
 孫 左 衛 門 殿   七郎右衛門殿
                (朱書)
                「やうへ」
 九郎右衛門殿     ひ ゆ く 殿
 助 左 衛 門 殿   三郎右衛門殿
 八郎右衛門殿    七郎左衛門殿
 治 郎 兵 衛 殿    助 兵 衛 殿
 彦 左 衛 門 殿    小谷治郎左衛門殿
 むかい左衛門殿    かちや左衛門殿
 又  介  殿    おりとの左衛門殿
 さかや与太郎殿    木の下彦六殿
 〆 
            かうおや
一 かくおん寺のくろ田  くろ田与三殿
 孫 三 郎 殿     孫  七  殿
 〆  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎岩木村(願興寺村の次)
【丹生大明神】
【金龍山宝蔵寺】(曹洞宗)
【磐撞別命】
垂仁天皇の皇子磐撞別命、母を真砥野媛といふ、真砥野媛は丹後道主命五女の一人なり、召されて后妃となる、竹野郡磐撞の里に由緒ありと申伝ふ、磐撞今中略して岩木に作る。
【井上惣左衛門城墟】  〉 

『丹後旧事記』
 〈 磐種別尊。日本旧事記垂仁天皇第三の妃真到野姫の御子稲別尊の兄なり。順国志竹野郡磐種の里より貢を入れる。  〉 


『丹生の研究』
 〈 丹後の丹生
…次に岩木の丹生神社は、丹後半島の大山である依遅尾山(540m)から西に続く山すじの一つが竹野川の河原にひろがる水田地帯に没入しようとする先端に乗り、裾に岩木の人家をまとわらせている。祭神はミズハノメと伝承されているが、それは丹生氏がここまで運びこんだニウヅヒメが、後に大和系の変化を受けて水の女神に変ったものと認めねばならない。この点では土佐にたった一つ残っている丹生神社(高知県土佐市宇佐町井ノ尻、後述)と同一ケースである。また土佐の場合は隣地の竜に所在する独鈷山青竜寺(真言宗)の護持を受けながら、高野明神を祀った形跡をもたないが、丹後のこの丹生神社もまた社地に隣接する宝蔵寺(現在は曹洞宗、もとは真言宗)に保護されながら、丹生高野両所明神への変化は認められなかった。だから、これと並んで山陰道にもうひとつ現存する丹生神社(兵庫県香住町浦上)がニウヅヒメ祭祀をそっくり残しながら、高野明神を女性神の形に変えて伝えている(後述)のとは事情がちがうように見てとれた。なお現地採取の試料は水銀含有0.0005%であり、附近からは0.0010%の水銀を含有していた試料もえられた。

 この方面には調査の旅をわずか4度くりかえしたにすぎないが、私は越前の中央部から若狭にかけての一帯、さらに舞鶴湾の周辺をふくめて丹後半島に及ぶあいだで、水銀の鉱徴を示す紅色土壌を至る所で目にした。きわめて特異な朱砂地帯であるといってよかろう。このような地方で古くから朱の採取と使用が見られたことは確実であり、そのうちの若干部分には丹生氏の植民が行われたにちがいない。  〉 

『郷土と美術91』(1988・1)
 〈 金工史の視点から 古代丹後の伝承地名を歩く 小牧進三
丹後の丹生神社と丹生地名
 実のところ、この丹生神社が丹後国に二社鎮祭している。たかが二社とは言え、この社が鎮座する以上松田寿男氏が説くとおり、この丹後にかって丹生氏が存在し、朱砂採掘を行っていたことを示す無言の立証となる。
 その一社は、丹後半島の北端、丹後町の岩木の丹生神社と、他の一社は、青葉山の北西大浦半島の突端、大丹生の丹生神社がそれである。
 丹後町岩木の丹生神社は、用明天皇の時代麻呂子親王による士クモ退治伝説が横たわる。
 竹野神社の近接地、高城山(城山)に対峙する小字、新道(しんど)に鎮座し、ここでも土クモが動めく。
 とおりがかりの中年婦人からこの社は現在岩木集落の氏神であることを知ったが、突然訪れても、社名標示もない椎の潅木に覆われた社地から丹生神社だと知るには、かなりの時間がかかる。
 たまたま摂社にかかる乳道(にゅうじ)荒神と記された小さな墨書文字から乳道は、丹生地であり、朱砂産出を示す地名から丹生神社であることを知る。
 この岩木出身で近くの吉永に住む古老、道家宗春翁八十八才からの教示によると、この社は現在、ニウさんの呼称は消え、ニブさん、ミブさん、比較的若い世代になると、タンショウ(丹生)さんと呼ぶという。古代朱砂採掘の民である丹生氏は、岩木集落において今日タンショウさんと呼ばれ風化しつつある。致し方のない歴史のはざまが、ミブ、ニブ、タンショウと語る古老の口もとで去来し、浮沈している。
 ところが、古老道家宗春氏が、平然とつぶやいた、ミブさん、ニブさんのたったふたことをききつけかつてない衝撃をうけた。
 このミブの言葉は、平城宮跡出土木簡に、丹後国竹野郡・生部(みぶべ)・須・・と記された墨書文字が語る「生部・壬生部」そのものを指すミブの古語であったからだ。
 五世紀初頭の仁徳天皇記に壬生部を定めると記され、皇徳天皇記にみえる「乳部(みぶ)」がそれで、言葉のふるさを物語っている。
 ついでニブは「新撰姓氏録」(八一五弘仁十三年)に記された平安初期の高官、息長丹生直人の「丹生」そのものを表現する言葉であった。やはり丹生氏は、この岩木で、ミブ、ニブという日常会話の中に生き、今日も健在であった。平安京の地名壬生より丹後岩木のミブがよりふるい落差がある。岩木のミブは、木簡記載のとおり奈良朝にさかのぼる。京都の壬生は湧水地水分(みぶ)より生まれた地名でその性格がまるで違う。「神社明細帳」によると、この丹生神社は、水神である 象女の女神を祀り、弘化元年(一八四四)四月十六日火災にかかり嘉永二年(一八四九)六月再建と記し創建年代不詳となっている。
 しかし日本の丹生の記録は、延久四年(一○七二)『参天台五台山日記』承保三年(一○七六)『百錬抄』を最後に採掘記録が史上消滅。丹生氏の活躍も、平安末から鎌倉期にかけ衰退した。時代の推移である。
 この事情から「神社明細帳」で創建年代不詳とされているが、この丹生神社の創建は、松田寿男氏が述べるとおりまず平安期にさかのぼり丹生氏による創始と察しられる。
 丹生の言語が今日に生き、乳道(丹生地)地名も現存する。丹生氏のかつての土着がこの岩木にあったことは、もうまぎれもない。
 いまから二十年前の昭和四十二年十一月五日のこと、松田寿男氏は、網野町字郷の史家後藤宇右門翁の案内で、はるばる東京からこの岩木の大地にたたずんでいる。そして岩木の朱岩から水銀を見事検出された。これによって岩木の地が、古代朱砂の採掘地であったことを証された。それは、丹後町の岩木の古代を語る鮮明な一頁でもある。  〉 


岩木の小字一覧

岩木(いわき)
千田(せんだ) 二股(ふたまた) 杭堺(くいざかい) 峠(とうげ) 深田(ふかだ) 腰細(こしぼそ) 庭田(にわだ) 三升田(さんじょうだ) 池野(いけの) 古川(ふるかわ) 田口(たぐち) 前川原(まえがわら) 外田(そとだ) ミイカテ 下ミノ口(しもみのくち) 上ミノ口(かみみのくち) 坂谷(さかたに) 寺墓(てらはか) 谷内(たにうち) 新造(しんぞう) 上地(かみじ) 竹ノ森(たけのもり) 大谷(おおたに) 木綿ケ岡(もめんがおか) 中石堂(なかいしどう) 山ノ上(やまのうえ) 外久保(そとくぼ) 大林ノ下(おおばやしのした) 岡路(おかじ) 笠(かさ) 西地(にしぢ) 有ノ岡(ありのおか) 谷路(たにじ) 宮之越(みやのこし) 藪地(やぶぢ) 堂ノ下(どうのした) 岩ケ下(いわがした) 油出(あぶらだし) ヲ市(をいち) 金ケ鳴(かねがなる) 谷田(たにだ) 千田ケ谷(せんだがや) 牛ケ谷(うしがたに) ヲロデ 城山(しろやま) 大林(おおばやし) 柳谷(やなぎだに) 初林(はつばやし) 水ケ元(みずがもと) 本山(もとやま) 宮ケ谷(みやがたに) ミノ口(みのくち) 

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後町史』
その他たくさん



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