丹後の地名

光明寺(こうみょうじ)
京丹後市峰山町光明寺


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京都府京丹後市峰山町光明寺

京都府中郡峰山町光明寺

光明寺の概要


《光明寺の概要》



菅峠を越えて峰山の町中へ入ったところに位置する。
光明寺町は、明治初期~22年の町名。明治2年峰山町内の町名改正が行われ、当町はその2、3年後に成立したという。泉町・白銀町はずれから菅峠に至る松縄手の道筋を往時所在した寺名をとって光明寺町と命名。明治17年からは峰山15か町の1町。同22年峰山町の大字となる。
光明寺は、明治22年~現在の峰山町の大字名。平成16年から京丹後市の大字。
光明寺という寺院は、吉原の浄土宗安泰山常立寺は、もと真言宗で「玉葉山光明寺」であったという。しかしこの寺があったのではない。地名もとの光明寺は天保4年に、東本願寺派の布教所として役僧民部が創立したもので、当初は足矣(そくい)庵と呼んでいたが、4年後の天保8年に藩許を得て「光明寺」と公称していたものである。

《光明寺の人口・世帯数》 54・27

《主な社寺など》


《交通》


《産業》


光明寺の主な歴史記録


『中郡誌稿』
 〈 (峯山町誌稿)丹後国中郡峰山町 本市街古時何郷に属するや分明ならず往古吉原と称す峰山と改称するは何れの年間か又詳ならず(慶長七年検地以前には峯山の称見当らず其後称するならんといふ)中古町名北町表町四軒町不断町上町中町下町古殿町(丸山町又茶園場と云)田町出町等の称あり文化四丁卯年更に一ケ町を増置白銀町と唱ふ明治二己巳年町数を分合改称し吉原町(北町表町を合)織元町(中町を分つ)室町(同上)呉服町(下町を分つ)浪花町(同上)富貴屋町(田町を分つ)境町(同上)御旅町(出町を改む)泉町(白銀町の内を分つ)光明寺町(菅村地内菅峠に在る民家を峯山町に属す)四軒町不断町上町古殿町白銀町と共に十五ケ町となる(付云吉原町の内字桝形以北元北町と称する辺元和八年以前は赤坂村の農家あり今桝形と唱ふる所小峠にて赤坂村と峯山との境界のよし京極氏陣屋を建築するに際し民家を今の赤坂村へ移すと云又元田町は延宝年中組屋敷を町家とし元出町は其後に置るならんと孰れも古老の伝記にあれども詳ならず  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【宗教法人真宗大谷派峰山教会(旧光明寺)、同堺、本尊 阿弥陀画像】
天保十二年(『丹哥府志』)
足矣庵、金毘羅の南、一向宗
明治二年(『峯山旧記』)
浄土真宗、京都東本願寺下、本尊 阿弥陀如来。松縄手の南、菅峠の口。天保四年八月(一八三三)、本願寺の役僧民部が、藩の許可を得て創立し、足矣庵と称したが、同八年七月、許可を経て「光明寺」と改めた。本願寺の末寺で、初住は恵了である。

以上の諸記録を総合すると、光明寺は天保四年に藩の許可を得て、東本願寺派の布教所として役僧民部が創立したもので、はじめ足矣(そくい)庵とよんでいたが、四年後の天保八年七月に藩許を得て「光明寺」と公称し、初住は恵了であった。場所は、現在菅峠の新、旧両道の分れ道の東の山下で、ここまで続いていた縄手の松は明治十七年と、四十年の新道開設と、道路改修のため切り取られ、一本だけ残っていたのも、最近、枯れ模様となったので、ついに伐採した。当時は、金毘羅下から松縄手の両側は杉谷村の水田であった。現在、この町名を光明寺と呼んでいるのは、この足夷庵が改めた光明寺の名をとったもので、常立寺の前身である玉葉山光明寺が、一時、この地に移転されていたためではない。また、移転説の起りは、玉葉山の光明庵が白銀町の地先の庵ノ段に移され、文久元年、再び常立寺境内に引きとられた、この光明庵と誤られたものであろう(常立寺の項参照)。光明寺は、明治二年、僧恵了が没し、恵心が継いだが、維持困難となって廃寺の手続きをとり、明治四年八月、峯山県から五両のお手当をもらって、京都の本山(東本願寺)へ引きとられた。光明寺の建物については、いい伝えによると、切畑山(来迎山、権現山)にあった妙見堂で、はじめ山頂の南側にあったが、蛇や風雨の害に居たたまれず、北側八合目に移し、堂前の池に緋鯉を飼って、参詣人をなぐさめていたが、後、この建物を菅峠に移して光明寺に改築し、明治六年頃、安村の和泉谷口の民家に買いとられたという。この民家は震災のため倒壊した。明治十三年一月十二日、復旧を願い出た光明寺は、府の許可を得て、富貴屋町の角に「真宗大谷派本願寺別院」として復活し、明治十八年十一月十八日から丹波、丹後、但馬三国を管轄したが、同二十三年六月、この峯山別院の本堂を、三河国岡崎町に移し、峯山は説教場と改称された。しかし、これも、六年後の明治二十八年四月になって、別院の名儀だけが岡崎町に移っただけで、建物はそのまま峯山に存続し、信徒の修養道場に使用され、人々はやはり、「別院」とよびつづけていたが、昭和二年三月七日の震災で焼滅し、焼跡から掘り出された半鐘が、ただ一つの遺物となった。銘によると、明治十九年五月の鋳造で、真宗大谷派峯山別院什物と明記されていたという。弘化二年に鋳立てたという半鐘の行方はわからない。
昭和二年四月十八日、別院の焼跡にバラックを建て、武田拙成、三木了薫らが相次いで主任となって、「簡易幼稚園」を開設し、同年十二月、字堺の現在地に説教場を新築し、その落成と同時に、説教所の付属事業として、翌三年七月以降、「東本願寺峰山幼稚園」と公称した。説教所の府許可は、三年九月で、この間の役僧は秋元斎である。なお、幼稚園の経過については、峰山幼稚園の項をみていただきたい。昭和二十一年十月十四日、宗教法人峰山教会と改め、同二十九年一月十六日(昭和二十六年四月三日公布新宗教法人法により)宗教法人真宗大谷派峰山教会と改称した。…  〉 


光明寺の小字一覧


光明寺 奥山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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