丹後の地名

国久(くにひさ)
京丹後市弥栄町国久


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京都府京丹後市弥栄町国久

京都府竹野郡弥栄町国久

京都府竹野郡
弥栄村国久

京都府竹野郡深田村国久

国久の概要


《国久の概要》



旧弥栄町と旧丹後町の境で、尾坂山の東麓に位置する。国久はクンシャと呼ばれているが、『丹後旧事記』は、「往昔国業村といふ国業とは百姓の事にて蒼生なり。」という。人民村ということか、もしかして中国からやってきたのかも…

中世の国久保で、室町期~戦国期に見える保名。「丹後国田数帳」に「一 国久保 九町三段二百十六歩 真木孫三郎」とあり、「丹後御檀家帳」には「一 くにひさの里」とある。また永禄7年の某連署今井知光譲状に「国久」と見える(丹後坪倉文書)という。
国久村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、のち幕府領久美浜代官所支配。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年深田村の大字となった。
国久は、明治22年~現在の大字名。はじめ深田村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《国久の人口・世帯数》 86・25


《主な社寺など》

『弥栄町史』に、
 〈 穴居跡 字国久
部落の奥にある。原始人穴居の跡という。幅約ニメートル奥行六メートル位のもの、やや小規模のもの等数ケ所がある。専門家の鑑定によれば穴居跡ではなく古墳であるといわれている。巨大な自然石を穣み上げて作ったすこぶる堅固なものである。  〉 
いずれも横穴式の古墳で、丹後町との境界に岡田古墳、その南に塚田古墳・稲荷古墳、水田地帯に国原古墳がある。このあたりから海岸にかけては横穴式の新しい古墳が増えてくる。内陸はどちらかといえば竪穴式で古いのが目に付く。
西小田古墳群

国原神社
式内社・国原(久爾原)神社には室町期の宝篋印塔と狛犬が現存
国原神社(国久)
もと高田の森にあったものを明治43年杉森神社に合併し、さらに国原神社と改称。「延喜式」神名帳の竹野郡「久尓原神社」に比定されている。
『丹後旧事記』
 〈 久迩原神社。久爾比左村。祭神=大宮宜大明神 豊宇気持神。
大膳職神にして延喜式の竝小社なり往昔国業村といふ国業とは百姓の事にて蒼生なり。  〉 

「丹後国式内神社取調書」
 〈 久爾原神社
○尾張国訓原神社 ○在国原村
【覈】国久村【道】同上
【豊】同字高田山十一月五日【式考】丹後旧事記ニ大膳職ノ神也昔国業村ト云国業トハ百姓ノコトニテ蒼生也トアリ尚可考)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 国原神社 村社 字国久小字石ケ谷鎮座
 (延喜式) 竹野郡 久爾原(ルビ・クニハラノ)神社
 (丹後舊事記) 久爾原神社  久爾比久(ルビ・クララヒサ)村
  祭神 大宮宣大明神 豊宇気持命
 大膳職神にして延喜式の並小社なり、往昔国業(クニワサ)村と云ふ国業とほ百姓の事にして蒼生(アヲヒトクサタミ)なり
(丹哥府志) 久爾原神社 延喜式
 久爾原神社今高田大明神と称す 祭九月十六日
(神社明細帳) 祭神 国常立神 猿田彦命
 口碑に云當村国原神社境内に於て凡人十余丈の古き杉樹あり中古枯木となり元禄九年中大風の爲に打倒し其梢末の地に於て神社を創建し以て国原大神の分社とし之を杉森神社とす次に猿田彦大神は俗に庚申と称し辻堂に於て祭り来りしが明治二年十一月神社調の際當社へ遷し相殿とす
社 殿 梁行 三尺 桁行 二尺五寸
上 屋 仝一間四尺 仝  三間一尺
境内坪数 二十一坪
  国原神社の本社は小字高田にありしが明治四十三年四月是を杉森神社に合併し更に国原神社と改称す、大正三年接続地山林二段一畝二十歩を合し総べて境内地に編入をなせり  〉 

『弥栄町史』
 〈 国久神社 元村社
 字国久小字石ヶ元鎮座
 丹後旧事記によれば、
久爾原神社 国業村鎮座
 大膳職神にして延喜並小社なり。
 祭神 国常立尊 豊宇気持命
 丹哥府志によれば、
久爾原神社一名高田大明神と称す。 祭日九月十六日
由緒 当社に伝わる由来記によれば、
 「応永十二年の春(五百七十年前)大和の国宇多郡より此神霊を請ひ来りて高田の森に安置す。此の森に高さ八十丈、周り十五囲に余る大杉あり此木の本に神社を営み、遷宮せしめ国原大明神と崇め奉る。此の国原大明神の神霊は天神七代の元神国常立尊なり。日本開闢の神なり。尊崇すべし。諸神の内にても感応第一の神なり」
とある。
 明治四年五月村社に指定される。大正三年小字石ケ元杉森神社の境内を拡張整備し、お山の上段に新宮を造営し杉森神社と合社して今日に至っている。
社殿 梁行 一メートル三十五センチ
   桁行 一メートと二十二センチ
上家 梁行 四メートル五十四センチ
   桁行 三メートル六十四センチ
境内坪数 千百三十五坪
杉森神社(現在国久神社に合祀)
 祭神 国常立尊 猿田彦命
    八柱大神 谷垣姫命
由緒 杉森神社の由来記によれば「国原神社の境内の神木に高さ八十丈(二十三米)周り十五囲の老大杉あり。中古枯木となり、永禄九年大風の為折倒れ其梢現在氏神の地に落ちたり。故に神霊茲に遷り玉うなりとて、茲に社を建て国原神社の分社として杉森大明神と改め奉祀せるものなり。頃は天正元年四月十有六日」とある。次に猿田彦神は元辻堂にあったが、明治二年十一月神社改めの際当社に遷し合祀した。さらに大正三年氏神国原神社の社殿造営の際両社を合併して祀った。国久区に伝わる由緒記を左にかかげる。
   杉森神社由来記(原文漢文)
 夫れ当区氏神の由来を尋ねるに、応永年中の頃当処には幾多の人家之無き事慥なり。氏神と崇むべき社も之無く、時の人何卒氏神と崇むべき社を造営し何れの神を勧請せんと按ずるに、于時応永十二年の春大和国字多郡より此の神霊を請い来りて高田の森に安置す。此の森に凡そ高さ八十丈大きさ十五囲りの余る大杉あり。此の木の本に社を営み遷宮せしめ国原大明神と崇め奉る。此の国原大明神と崇め奉るは天神七代の元神国常立尊なり。大日本開闢の神なり。尊崇すべし。諸神の内にても感応第一の神なり。天より降り玉いて日本国中へ人民を弘め玉いし神なり。亦此春奈良春日神社内の神木一夜の内に六千本許り故なくして枯る。翌春応永十三年夏旱水大飢饉、秋大洪水、冬大地震、諸国一統難渋人大いに死す。当村は此の神霊安置の加護により風水の災難を除き福豊を得たる者也。
 其後百六十年を経て此の氏神の大杉枯れ果て、大風の時其梢朽ち折れ今の氏神の地に落ちたり。故に神霊氏変に移り玉うなりとて茲に社を建て、国原大明神を引き遷して杉森大明神と改め尊崇し奉る。今の氏神是也。
頃は天正元年四月十有六日遷宮也。此の由来記今西喜左衛門の懇望に依て書き写し与うる者也。
 于時嘉永五子の師奔
   久国良悟焚香拝写  〉 

曹洞宗岩雄山久国寺
久国寺(国久)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 久国寺 曹洞宗 字国久にあり
 (福昌寺文書) 開山然巌春泰大和尚宮津智源寺第二世橘州宗曇大和尚の法子にて福昌寺住職たり末寺久国寺に隠居して久国寺を建て又開山となる、
 (丹哥府志) 岩雄山久国寺 曹洞宗  〉 

『弥栄町史』
 〈 岩雄山久国寺 国久
本尊 釈迦如来 曹洞宗
福昌寺文書(竹野郡誌所載)に、
「開山然巌春泰大和尚宮津智源寺第二、世橘州宗曇大和尚の法子にて福昌寺住職たり。末寺久国寺に隠居して久国寺を建て又開山となる」
とあり。現在は無住  〉 


国久城址
『弥栄町史』
 〈 国久城 字国久城山
城主 巻源治郎
国原神社境内続きの城山にある。
三層より成り、最上層約三畝歩位あり、今なお谷の奥から用水を引き入れたという水路の跡が残っている。丹後国御壇家帳という古文書に、国久の城主巻源治郎と出ている。また永禄七年甲子二十一日附の古文書には今井駿河守知光とある。丹後旧事記その他丹哥府志等に、国業村と出ているのは国久のことらしく、国業とはすなわち農業のことで昔から農業で生活した村であったことがわかる。  〉 


《交通》


《産業》


国久の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 竹野郡間人郷
一 国久保  九町三段二百十六歩  真木孫三郎  〉 


『丹後国御檀家帳』
 〈   一城の主也
一くにひさの里   巻 源 次 郎 殿
かうおやまきとの内
 いちい平右衛門殿  ふ も ん 寺
  〆  〉 


『丹哥府志』
 〈 ◎国久村(小田村より川を隔てて西にあり、西小田村の南)
【久爾原神社】(延喜式)
久爾原神社今高田大明神と称す。(祭九月十六日)
【岩雄山久国寺】(曹洞宗)  〉 


『京都の伝説・丹後を歩く』
 〈 国久の送り狼 伝承地 竹野郡弥栄町国久
 昔、国久の人が京都に働きに行っていて、大晦日に給料をもらって帰ってくる時に、日が暮れてしまった。大変困ったことだと思っていたところ、非常に背が高い、鬼のような人が出てきて、「どこへ帰るのか」と尋ねた。その人が「どうしても今夜中に家まで帰って、家内そろってお正月をしたいのですが、日が暮れてしまって、夜通し歩くのは恐くて、どうすることもできず、困っているところです」と答えると、「わしについて来い。送ってやる」と言った。そこで、「そんなに親切に言ってくださるのなら、ついて行きます」と言って、後について行った。鬼のような男は大変速く歩いたが、後について行く自分も全然疲れないのだそうだ。そうして、国久に着いたのだそうだ。その人が「ありがとうございました。何とお礼を言えばいいかわかりません。あなたのお名前はなんというお名前ですか。どこの方ですか」と言うと、「わしの名は言うほどのものではないが、節分の晩には豆をまくな」と言って、帰っていったそうだ。
 それから、その国久の田宮という家の子孫は、今でも節分の豆まきをしないのだという。            (『弥栄町昔話集』)

 伝承探訪
 この話の伝承者は、国久の隣りの小田緊落の石田志奈子さん(明治四十五年生まれ)である。同じ弥栄町須川の木下晴子さん(明治四十年生まれ)の伝えでは、主人公を送ってくれたものは恐ろしい狼であり、その求めたお礼は「節分の豆まきと窓ばさみをするな」ということになっている。同町等楽寺の吉岡政治さん(明治四十五年生まれ)の伝承にも、夜遅く狼が二、三匹、後を付けて家まで送り届けてくれた話があるが、これには節分の豆まきにふれることはない。あるいは加佐郡大江町高津江の伝承にも、「送り狼」の話が見出されるが、そのお礼には、雨戸を開けてそれまで履いてきた履物を渡したとしている(『大江の昔ばなし』)。
 元来、「送り狼」は、お産の神でもある山の神、その遣わしめたる狼(山犬)が、夜、無事に産婦を家まで送り届ける話である。大江町北原の伝承には、確かにその話が見えている(『大江の昔ばなし』)。一方、節分に豆まかぬ由来を説くものは、「鬼聟入」の昔話である。この国久の「送り狼」には両者の複合の跡が見出される。
 昭和四十五年三月の弥栄町昔話採集調査には、わたくしどもは、田宮家のご当主・幾蔵さん(明治二十一年生まれ)からも、直接、このお話をうかがっている。それによると、それは明治の初め、自分の先祖の実話だと言われる。その先祖が正月過ぎ、京都からの帰り道、何か恐ろしげな者が、火をともして送ってくれたが、その別れに節分に豆まくなと言ったという。しかし、今回、その総領で町の収入役をつとめる田宮吉蔵さん(大正十五年生まれ)にうかがうと、その体験は幾蔵さんの父、つまり吉蔵さんの祖父のものと言われる。わが家だけが節分に豆をまかぬ不思議を尋ねると、父母が祖父惣太郎の実話として、そう語ったよしである。
 それにもかかわらず、これはあくまでも伝承の一つと言わねばならぬ。隣町・網野町島津の安達家にも、同町三津の末次家にも、同じく鬼に送ってもらった先祖の話が伝えられており、それぞれがかたくなに、節分には豆をまかぬことを守っておられる。
 弥栄町の民話の発掘と再話につとめられる芦田行雄さんによると、節分の夜における鬼と田宮家の先祖の出会いは、同溝谷の北のはずれ、黒部境の月見の松の下とされる。国久に近づく旧街道が、小さな峠にかかる寂しい道筋である。話はますます真実味をおびてくるではないか。  〉 

節分に豆まきしない、というのは鍜冶屋だからと思われる。

『京丹後市の考古資料』
 〈 西小田古墳群〔にしこだこふんぐん〕
所在地:丹後町西小田、弥栄町国久小字北浦
立地:竹野川下流域左岸丘陵上
時代:弥生時代後期、古墳時代中期、後期
調査年次:1986年(府センター)
現状:全壊(道路拡幅)
遺物保管:市教委
文献:CO62
遺構
西小田古墳群は、竹野川左岸の丘陵上に位置する5基からなる古墳群であり、4、5号墳が発堀調査されている。ともに盛土を持たない小規模な古墳である。
4号墳は一辺9m、高さ1mの方墳と推定される。埋葬施設は、2段墓墳の木棺直葬墳である。墓壙の規棋は、長さ3.6m、幅1.6mを測り、長さ2.Om、幅0.4mの木棺を納める。5号墳は、一辺11m、高さ1.5mの方墳である。長さ3.5m、幅1.5mの墓壙には、長さ2.8m、幅O、6mの木棺を納める。
ほかには、弥生時代後期の土器棺墓および土壙墓が検出されている。出土土器から見て5号墳は5世紀後葉、4号墳は7世紀前葉の吉墳である。
遺物
5号墳の墓壙上面からは、胴の張った須恵器のハソウが2点出土した。また、滑石製勾玉も1点出土し、棺内の中央付近で鉄剣が1点出土している。4号墳からは須恵器の杯身が1点出土した。
また古墳築造以前のものとしては、弥生時代後期の擬凹腺を持つ甕を身、鉢を蓋とする土器棺のほか、高杯、器台、把手付鉢も出土した。
意義
古墳が築かれた丘陵は弥生時代にも墓域として利用されており、4.5号墳は墳丘規模10m内外の盛土を持たない在地型の小坦模な木棺直葬の古墳である。4号墳が築かれた時代は、近隣の徳光地区に高山古墳群が築造されている。高山古墳群では横穴式石室が採用され、副葬品も豊富であるが、当古墳は木棺直葬で.副葬品に乏しい。当時期の階層構造を考える上で貴重な事例と評価できる。  〉 



国久の小字一覧


国久(くにひさ) アカサカ アワリガキ イリグチ イシガタニ イナバサキ イシガモト イモダニ エノエ オカダ オウタ オウタニ オクジ オカイナキ オウビラ カワムカイ キタウラ キコリダニ キリノキダニ コマガエ サカダニ シモジ スイシヨヤマ ツカダ ツルガダニ ツカモト テンペイ テラダニ ドウドヤシキ ナガドウリ ナカジマ ナカジ ヌカガタニ ネンブツデン ノマダニ ハチマンデン ヒロオサ フモンジ フジノキ フコウ ホリキリ マメダ マエダ ミヅミチ ミヨウガダニ ムカイガキ ヤスンバ ヨコマクラ ヨコミチ ワセダ ワダノタニ エヒラケダニ 谷柿(たにがき)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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