丹後の地名

久住(くすみ)
京丹後市大宮町久住


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京都府京丹後市大宮町久住

京都府中郡大宮町久住

京都府中郡五十河村久住

久住の概要




《久住の概要》

三重谷の一番奥で、間人街道(府道53号・網野岩滝線)沿いで、堀越峠を越えると昔の弥栄町等楽寺へ出る。竹野川上流域で高尾山(久住山620m)の南西麓に位置する。
中世の久住村は、戦国期に見える村名で、「披露事記録」天文8年閏6月7日条によれば、松田丹波守晴秀が知行分を守護に押領されたとして訴えており、その1所として「丹後国光富保〈付三重内久住村〉と見える。
近世の久住村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、元和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。慶長検地郷村帳には「明田村之内久住村」とあって高付されず、明田村の技村であったが、延宝3年郷村帳では「久住村」高352・7石とあって、この時期は明田の枝郷扱いであったよう。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年五十河村の大字となる。
久住は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五十河村、昭和31年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

地名の由来は、『丹哥府志』によれば、億計・弘計(のちに仁賢・顕宗天皇)2皇孫が居住していたことに由来し、もとの皇住と書いたという。その2皇孫を祀る木積神社(新熊野宮・高藏大明神・三島大明神とも)があり、同社は「延喜式」では与謝郡のうちとされている。クスミという地名は各地に見られるが、ここの久住は木積神社の木積の転訛と考える、木積→皇住→久住ではなかろうか。問題は木積とは何かということになる。


《久住の人口・世帯数》 107・40



《主な社寺など》
久住遺跡
村内から弥生後期の土器片、古墳時代の須恵器片が発見されているが遺跡は明らかでない。

木積山城
一色氏の部将であった菊井兵庫頭・田中助八の居城であったと伝える。周枳城の出城であり、天正10年同城落城の際には、田中助八は長岡氏に降ったが、菊井兵庫介は城に火を放って主従50余人が焼死したという。
久住の中ノ谷は中世河島備前守が落ちのびた地であると伝える。

 木積(こづみ)神社
木積神社(久住)
集落中央の山の上にある。以前この石柱のある参道入り口には石の鳥居があったが今はない。「丹哥府志」に「木積神社今新熊野宮と称し億計・弘計の二皇孫を祀る。俗に高蔵(高森とする写しもある)大明神、三島大明神といふ」とある。与謝郡「木積神社」の式内社に比定説もある、旧社地は南西方向になる木積山とは方向違いの小字ウシロ谷と伝える(中郡誌稿)。しかし石の鳥居でも10年もしなう間になくなったりするように、いろいろと五十河の中を広く何度も移っているようなので元々がどこにあったかは不明としか言いようがなかろう、江戸期以前については記録もなかろう、木積山があるからその頂ではなかろうか、そうとしかいいようがない。
オケヲケ、イカガ、木積、コモリ、タカクラ、ミシマの間には何か関係がありそうだぞ、と教えてくれる。
『大宮町誌』に、
 〈 木積神社旧蹟  久住・延利
木積神社はもと刈安奥宮にあったが、文安五年(一四四八)八月地震と大洪水があり大被害をうけたので刈安の宮(古久住ロ)に移した。その時の洪水により衣冠姿の御神体二体(億計弘計二王子を祀る)の中一体が押し流され延利の小字一本木に漂流したのでこの地に宮を建て祀っていたが、安政年間皇守(延利)の権現山に移し高森(皇守)大明神と称し、御神体はそのまま引継がれて今日に至っている。また、久住刈安の木積神社は残りの御神体一体を祀っていたが、その後弘化四年(一八四七)さらに、現在の「中の谷」口に奉遷した。明治六年社寺改めの際時の官吏が御神体を持ち帰って白幣に改めたとあるから二王子の御神体の内一体は持ち去られた。(五十河沿革誌による)維新当時はこの例が間々あったが、丹後旧事記等では木積神社は式内社となっている。
 延利の小字一本木の跡は今は全く田地となっているが、村人はこの地を「古宮」と呼んでいる。古宮は旧五十河小学校の南約二○○mの地点で小字一本木五八七番地である。また、木積神社刈安宮跡は人家の奥約五○○mの道の傍にあり、境内は二畝余で土台石数個と石段の跡等をわずかに残していたが、この跡も昭和五五年度の耕地整理により全く消滅した。  〉 

『中郡誌槁』
 〈 木積神社
(丹哥府志)木積神社(延喜式には与謝郡の部に出つ)
木積神社今熊野宮と称して億計弘計の二皇孫を祀る俗に高森大明神、三島大明神といふ
 付録天満宮 金毘羅大権現 七夕大明神
(延喜式神名帳)丹後与謝郡木積神社
(丹後旧事記)木積神社、丹波郡皇住郷、木積嶽、祭神新熊野宮、延喜式小社
 合神 弘計億計尊二社
(丹波丹後式内社取調帳)(与謝郡の部)
木積神社
          (越前国己乃須神社)
(覈)皇住村(明細)弓木村祭日八月朔日(道)岩ケ鼻。石田村山王社と云は誤なるべし(式考)丹後旧事記に木積山丹波郡主基村云々とあり又同書に皇住村とあり皇住村の西北に当り木積峠と云あれと古説も旧記もなく據なし且竹野郡境にて取かたし岩ケ鼻村山王社は江州日枝より遷すといへば木積神社にあらず石田村は貞享五年辰三月譲渡証文に木ずみ山ノ東云々とあり是一の証なり(豊)弓木村字宮ノ谷五十猛神例祭九月十一日
(村誌)木積神社 社格は村社并社地東西二間南北二間境内面積八十五坪社地は除地本村中央にあり昔時三島大明神と称して木像たりしが明治六年大明神を廃せられ社寺御改正之際神体を白幣に改められ木積神社と改称し村社に列せられ祭神不詳祭日十月十二日なり社地樹木は松雑木而己花木はなし
(実地調査)今の木積神社は字の中央民家の東北にあり旧地は北方字ウシロ谷の奥にありてりと云ふ然れば木積山とは方位異れり(木積山は当字の南より西に跨り聳ゆ  〉 

木積神社は与謝郡内に多く祀られていて、与謝郡古代史と関係深い神社である。観音寺の神名帳には名が見えず、当時は衰えていたのかも知れない。
「与謝郡式内社・木積神社」は別ページへ


曹洞宗永平寺派金剛山本光寺
本光寺(久住)
『大宮町誌』
 〈 金剛山本光寺 曹洞宗(永平寺) 久住小字矢谷
本尊 釈迦牟尼仏
 文政七年(一八二四)九月三○日の再建の記録によると、住昔当寺の後方の谷間に僧舎があって金剛寺と称していたが、無住の時もあったので、寛文八年(一六六八)心巌和尚は現在の地に移して一堂を建立、宮津智源寺三世可山悦禅師を請じて、金剛山本光寺とする。
 七世活山和尚は本堂を、八世瑞琳和尚は庫裡を再建した。一二世泰瑞和尚は等楽寺(弥栄町)に移って宗家を継ぐ、次の一三世観光和尚の文化一○年(一八一三)八月三日に火災にて全焼したので、同和尚は堂宇を再建のため勧進、文政四年(一八二一)より工を起して、同七年(一八二四)九月三○日に上棟した。
 当院は万歳寺などと同じく、網野町木津の竜献寺古文書(承応元年(一六五二))によると、同寺の末寺となっている。久住村本光寺とあるので、前記の寛文八年(一六六八)以前に本光寺と称されていたことは明らかである。
 現住職 高橋修憲(兼)(弥栄町外村万願寺住職)
 境内に庚申を祭る青面金剛の塔(宝永五年戊子(一七○八)五月吉日)が建立されている。  〉 

『中郡誌槁』
 〈 (丹哥府志)金剛山本光寺 禅宗
(丹後各郡寺帳)洞宗本光寺
(村誌)本光寺 東西六間半南北五間境内面積三百六十一坪寺地は有税地なり曹洞宗永平寺派なり村の西方にあり開基は寛永五戊寅年可山大悦大和尚開基創建す
(実地調査)今の寺地の北方丘陵に阿弥陀ノ林、本光ノ尾、寺屋敷等の字あり本光寺の旧地歟又南に字体泉寺といふ字もあり  〉 


《交通》


《産業》


久住の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎久住村(延利村の北、是より竹野郡等楽寺村へ出る、古名皇住、今久住に作る)
【木積神社】(延喜式に与謝郡の部に出す)
木積神社今新熊野宮と称し億計、弘計の二皇孫を祀る、俗に高蔵大明神、三島大明神といふ。億計、弘計の二皇孫爰に住居せられしより村を皇住村といふ。
【金剛山本光寺】(禅宗)
【木積山城墟】
木積山の城には菊井兵庫頭、田中助八といふもの二人居る、天正十年木積落城の後田中助八長岡に降り家臣となる、菊井兵庫頭は城に火を放て主従五十余人火中へ飛込み皆焼死すと申伝ふ。
 【付録】(天満宮、金毘羅大権現、七夕大明神)  〉 

『中郡誌槁』
 〈 (日本書紀通釈)日下連は大彦命の裔なりまた日下部連日下部宿禰日下部首は開化天皇皇子彦坐王の裔なりここなるは彦坐王の方なり(中略)日下部氏の丹波に由緒あることは浦島子も丹波与謝郡人日下部首祖筒川嶼子とありまた氏族誌に日下部氏興・但遅麻国造・同宗故其族多居・本国補・朝来養父等郡領後世猶有(下)称・国造・帯・衛府官・者子孫蕃衍有・朝倉磯部絲井日下小泉三方高田軽部土田八木山本建屋稲津石和田太田垣等族・云々とある但馬も丹波の隣国なればよしあり今難をここに避玉へるも日下部氏の族などによられしならんさて古事記には此時の事を到・山背苅羽并食・御粮・之時面黥老人入来奪・其粮再其二王言不・惜・粮然汝者誰人答曰我者山代之猪甘也ともいふこともあり其より丹波国に入まし与謝郡を経て丹後国丹波郡(今中郡といふ)に打越まさんとて其郡なる三重郷に到り坐る其峠を大内峠といふ(此峠を王落峠と出いて俗説をいへるはつたなし)三重村にて御身をしばし忍坐しし事丹後旧事記に見えたりなほ其国人の云伝ふるをきけば此大内峠を下り果たる処に五十河村といふありそこに当昔五十日真黒人と云へる長者あり此二王子をいたはり奉りて己が家に隠しおきて養ひ奉しとなり五十河と五十日と字のたがひはあれど俗に今もいかが谷といふと云へり、其長の許につかはれましける時の古事を下文に因・事於人・飼・牧牛馬・とは記ししならん今は此国にては五月五日の幟の絵に牛飼童の牛に乗れるかたをかきて牛飼様殿ウシカヒサンド名けて語と伝ふるとんな近き頃まで其習慣ありて童謡などにも残れりと云り是は二王子後に都に遷座て帝位に即玉ひし後に当昔いましけん時のさまを慕ひまいらせてかかるものにも御かたを書きていひ伝ふることとはなしたりけん扨より播磨国には到座るなり云々
 按、右述る此地古へ億計弘計二皇子避難居住し給ひしといふ伝ありて地名も古は皇住と書きたりといふ説出来たるなるべし恐らくは此地に式内木積神社あり木積山もあり木積の木(コ)音と久住の久(ク)音との音通なる所より転訛し又積を住に訛りて久住と唱ふるに至り更に付会しめ皇住の文字を填充するに至りしならん歟丹哥府志、丹後旧事記共に三重五十河村に同様の記事を出し、今孰れを二皇子の避難地と定め難けれども、実地の地理につきて考察するに現今の三重村及五十河村の地は地形上一区域をなし往古は此一区域を三重谷と称し其北部を別に五十河とも呼びたるなるべし依て思ふにかかる場合確固なる証蹟の存せさる以上は何れを皇子避難の地と定むるに由なきも此一区に出でざることは慥なるが如し但し五十河、三重両村今中郡に属すれども往古与謝(即ち余社)郡に属せしことは前記三重村の条に説きたるが如し五十日真黒人諸書に其の名見えず或は想ふに日下部氏の一属にして異名にはあらざるか、尚三重参考、
(実地調査)皇子旧跡と称するは当字の南字クラスミといふ辺なり就て検するに此のあたり古墳土器地上に散布し古墳の跡たることは明かなるも皇子遺蹟としては徴証なし  〉 


現地の案内板↓
久住の地図
 〈 久住(くすみ)
久住区はどんなところ?
「久住」という地名は、「披露事記録」天文8(1539)年閏6月7日条に「丹後国光富保 付三重内久住村」とあるのが初出です。またこの記事から、室町時代の「丹後国郷保荘惣田数帳」にある「光富保」は、久住区に位置することがわかります。
この地区から西へは、大谷川沿いに河辺区へ抜けることができるほか、北へ峠を越せば弥栄町堀越区へと抜けることができます。
この地には、久住遺跡において弥生時代後期から人々が生活していた痕跡が確認されており、中の谷遺跡では、祭祀に使うミニチュアの土器が出土しています。また五十河真黒人(いががのまくろうど)という長者がいたという伝説が残っています。
 寺は、本光寺(曹洞宗)があります。神社は、木積神社のほか愛宕神社があります。  〉 


久住の小字一覧


熊谷口 熊谷 才川 丸ゴ谷 道明谷 馬ケ崎 杉盆(すぎぼん) 岩立 岡ノ垣 下田 岡谷口 岡谷 要谷(ようだに) 鳥井縄手 礼泉寺(れいせんじ) 大下 泓(ふけ) 藏住(くらずみ) 前田 百合貝 馬ケ渕 京所(きょうどころ) 日ケ谷 立ノ前 向田 堂ケ谷口 梨ノ木谷 栃町 太持(だいもち) 石ケ谷口 石ケ谷 二ケ谷口 滝ケ尻 臼ケ谷 青谷 青谷口 中村 滝谷 永長(ながおさ) 田中 堂谷口 彦四郎 和田山 一ノ谷 二ノ谷 和田山口 京ケ坂 久保田 中ノ谷 笠張(かさはり) 中ノ谷口 重敷(じゅうしき) 足ケ谷 摺鉢 成畑(なりはた) 盆坂 細登 廻手(まわしで) 四反田 扇野(おぎの) 阿原 鈴谷(すずだに) 小鈍土(こどんど) 児ケ渕(ちごがふち) 荒畑 才ノ谷 才ノ谷口 宮ノ谷 堰口(いねぐち) 堂屋敷 矢谷 大門(だいもん) 柏崎 加連墓(かれんぼ) 盤上田(ばんじょうでん) 中田 古久住(こぐすみ) 古久住口 古宮屋敷 菅谷 小谷 賢行分(けんこうぶん) 郷路(ごうろ) 下大谷 宮ノ奥 古小屋 百合道 奥迫田 忠兵衛屋敷 刈安(かりやす) 川原 猪尻(いのしり) 峠 古西郎谷 後谷 菖蒲ケ谷 一杯水 大成 堂ケ谷 寒谷(かんだに) 木床(きどこ) 大谷 堂谷 奥谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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