丹後の地名

内記(ないき)
京丹後市峰山町内記


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京都府京丹後市峰山町内記

京都府中郡峰山町内記

京都府中郡新山村内記

内記の概要


《内記の概要》



竹野川右岸の竹野郡境にある村、東は小原山の山並みに囲まれ、集落は南北に走る間街道沿道にある。「丹後国風土記」逸文奈具社条に見える「哭木村」が訛って内記となったと伝える。「丹後国風土記」逸文の羽衣伝説に、「丹波の里の哭木(なきき)の村に至り、槻の木に拠りて哭きき。故、哭木の村と云ふ」とみえる哭木村の遺称地とされる由緒古い地名である。地内の式内社・名木神社(天酒大明神)は、その天女・豊宇賀能売命を祭神としている。
名木神社境内
その「槻の木」はもうないだろう、杉の木(檜かも)やムクロジ↑がある。そこから↑磯砂山が見える。ムクロジの樹皮はなにとなくケヤキ(槻)に似ているような−

名木も奈具も同じことと思われ、磯砂山の天女を祀る地だから、イサナコとも関係があろうか、両村とも磯砂村と呼んでもいいようなことであろうか。ナコ=ナキ=ナグのようなのだが、これがわからない、お手上げである、こうしたこともわからない、史家は何も偉そうにはできないことを思い知らされる。しかしけっこうこの地名は各地にもあって、たとえば大阪市旭区には荒生村というのがあった。これでナギウ村と呼んだ。あるいはarの類語にnarkがあったのでは、などとも考えているがわからない。またサナキは鉄鐸のことであって、天目一箇神が造ったという。そのナキかも知れない。何とも高難度の問題で、風土記が書かれた時代にはすでに意味がわからなかったようである、いつかとんでもない秀才があらわれてこの社名の意味と丹後の古代をいっきに解き明かしてくれる日がくるのを待つより手がない。
内記村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年新山村の大字となる。
内記は、明治22年〜現在の大字名。はじめ新山村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《内記の人口・世帯数》 176・61

《主な社寺など》

桃山古墳群

式内社・名木神社。(内記宮ノ奥)
名木神社(峰山町内記)

「室尾山観音寺神名帳」の「丹波郡二十九前」にも、「従三位 奈岐明神」と見える、丹波郡式内社である。
祭神は豊宇賀能(口編に羊)命で、一名を天酒大明神という、「風土記」見える天女8人のうちの1人と伝えられている。
かつては同じ祭神を祀る名木・波弥・多久・矢田・揆枳の五社の神輿が同日に名木社に集まり、いっしょに祭礼を行ったという。

峰山高校の郷研の『古代丹後文化圏』の「槻木は梛(なぎ)の木で、梛は各地でも神木となっている有名な木だから、平和を祈って、名木としたのであろう」の説はいろいろ面白いと思う。槻は普通はケヤキの一種とされている、ケヤキは杉だから、槻木とは杉木の一種とみられるが、社名から梛の木と見てもいいかも知れない。ただ南方系の木で、丹後に本当にあったかは不明である。ネットによれば、京都市内に梛神社がある、ここは元祇園と呼ばれる、竹柏とも呼ばれるように竹のような葉で、雌雄異株。古くから神社の境内に植えられ、熊野神社では神木とされ、その葉に供物を盛る。また、その葉が切れにくいことから、男女間の縁が切れないように、女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があったという。
吉野祐子氏によれば、梛は幹の様相、木肌の感触から蛇に見立てられた木であり、ナギとは蛇の古語だという、鏡の中に梛の葉を入れるのはそれが蛇だからだという、鴛鴦の羽根と一緒に入れておくとよろしいという呪術だそう。また豊宇加能売の宇賀とは沖縄では蛇をいい、穀神とされるそうである。
これによれば、豊宇賀能売命とは豊ヘビ之女命ということになり、豊受大神は人の姿になる以前は、天女というより本当はヘビでなかったのかと思われるような想像ができて、ナコナキナクとはハミかも知れないの風土記以前の古代がボヤと浮かび上がってくる。
私の地元の与保呂は「豊受大神の丁」といわれ、今ではもう忘れられてはいるが豊受大神由縁の地のようである、その氏神にはヘビにまつわる有名な伝説がある。追いかけてみて、どうも豊受は古くはヘビだったかも知れない、と以前から思っていたことである。
魚釣りではカイコのサナギをエサに使うこともある。マユの中でカイコ芋虫はサナギになって、やがて羽根をもつ成虫に変態する。このサナギ、たぶん小(さ)ナギ、そのナギとはヘビ。
仁徳記に、「…奴理能美が養へる虫、一度は匍ふ虫に爲り、一度は鼓に爲り、一度は飛ぶ鳥に爲りて、三色に変る奇しき虫有り。…」
とある、蚕は(桑もか)元々は中国のもので、こうして渡来人が持ってきたものだが、サナギを「鼓」とも言っている様子。成相寺山は鼓ヶ岳と言うが、ここにはヘビがいた、そのヘビは麓の海に入って天橋立になったという伝説がある、ツツはヘビ。

磯砂山
もともとからここに鎮座あったものか不明だが、境内からは祭神のふるさとの磯砂山が見える。左の高い山。威小蛇山の意味か。
イザナギ・イザナミもヘビのことでなかろうか、中国伝説と同じなのかも…。古代はワイルドな世界であった。

『中郡誌槁』
 〈 (延喜式)丹波郡 名木神社
(丹哥府志)名木神社(延喜式)天酒大明神といふ風土記に所謂天女八人の一なり祭九月十六日
(峯山明細記)内記村
一社二ケ所但神主無御座候何茂村支配に御座候内一社(小祠)天酒大明神上屋一間半に二間は境内二十五門に二十間但山地右祭礼九月十五日河部村神子相模相雇神事相勤申候但社鎰林香寺へ預り置申候
(村誌)名木神社社地東西三十五間南北三十間面積九百四坪本村より亥の方にあり祭神は豊宇賀乃(口編に羊)命祭日十月十五日社地中雑老木少分有之
 按、丹波の多久、矢田、撥枳の諸社神と同一祭神なり
(同上)須賀神社、天仁木神社(省略)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【名木神社(式内社、旧内記、祭神 豊宇賀乃メ命)】「延喜式』による丹波郡九座の一つで、波弥神社と同じく、天酒大明神と称し、『丹後風土記』中の比治山の天女をまつった。「名木」の社号の起原は、比治の里、荒汐村を出た天女は「丹波の里、哭木の村に至り、槻木に拠りて哭けり。故、哭木村という…」とあるところからでたもので、哭木の文字をきらって、名木としたといわれ、村の名は内記の二字を当てはめたということである。
これについて、峰高郷研編『古代丹後文化圏』では「槻木は梛の木で、梛は各地でも神木となっている有名な木だから(和ぐ−なぐ−は凪ぐに通じ平和を表現する)、平和を祈って、名木としたのであろう」という意味の解説をこころみている。天女は哭木村を去って、竹野郡の舟木ノ里の奈具ノ村に至って、ようやく心が和いで、この村にとどまったとあるから、これも一つの見方であろう。なお、天女の泣いていた場所は、内記の字西尾(または西野とも)という竹野川の東岸で、梛の神木も見当たらないし、明治二年の記録にある槻の木も今はなく、ただ白いつつじの株が残っている。かつて、この天女天酒大明神である豊宇賀能売命をまつる名木、波弥、多久、矢田、撥枳の五社の神輿が、同じ日に、この場所に集まって祭礼を行なったといい伝えられている。名木神社の資料としては、文化七年『丹後旧事記』に「哭木村、祭神天酒大明神、豊宇賀能売命」として、例の『丹後風土記』の伝説をあげ、今では「なき木」の言葉をきらって、内記村などと記していると、のせている。また『竹野郡誌』に玄旨法印細川幽斎(藤孝)の「天正十一年順国紀中哭木神社にて」詠んだという和歌を載せている。「蝉の羽の薄き衣にほしわびて、森の梢のつゆになくなり」長岡藤高(藤孝)。
宝暦三年(『峯山明細記』)
小祠 天酒大明神、上屋 一間半に二間程、境内 二十五間に二十間、但し山地。右祭礼 九月十五日、河辺村神子相模を雇って神事を勤め、社の鎰(かぎ)は林香寺へ預かって置いた。
林香寺はこの社の別当であったろう。
天保十二年(『丹哥府志』)
祭神 天酒大明神…祭 九月十六日
明治二年『峯山旧記』は『明細記』、『丹後旧事記』の説をとり、祭りは『丹哥府志』と同日。外に天王と荒神の二社をのせている(別記)。
明治六年二月十日、村社に列格。
明治十三年(『神社明細帳』)
祭神 豊宇賀能乃メ命、社殿 二間に二間半、境内 九〇四坪、官有地第一種、社掌…大宮売神社…嶋谷民付…
一、境内社、春日神社、祭神 天児屋根命、菅原道真、軻遇槌命。由緒不詳、建物 三尺五寸四面…
なお、由緒の中に、『丹後風土記』の天女伝説以外に、荒山村字有田谷(ありただに)というところに小さな池があって、天酒大神が天降られた池であるといい、この女神を丹波郷の者がつれてかえり、つくった酒を、西尾(西野とも)にもって来て売ったので、里のものは天酒の媼(おうな)と呼んだ…との古老のいい伝えをあげているが、『中郡誌稿』は、これを否定している。
また、境内社春日神社の記録は、他にはみえない。
〔現在〕本殿 三尺二寸に五尺五寸五分、上屋 一二尺八寸に一二間二尺四寸、社掌 多久神社、今西義雄兼勤
『神社取調』名木神社の項に「多久都玉命三世天仁木(てにき)命また天伎命、天爾伎命ともいう」とあるが、これは名木神社の祭神ではなく、天仁木神社は別に存在していた。
【天仁木神社(無格社、内記、祭神天仁木命)】『峯山旧記』にいう「天王」がこの神社の前身のようであるが、とは、何天王のことであろうか。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
天仁木命、由緒不詳、社殿 四尺に四尺一寸、境内 三三坪、民有地第一種
昭和二十八年廃社、同年二月十日、法人解散、二月十四日、清算結了登記、建物は名木神社神庫として同地に存置。
【須賀神社無格社、内紀、祭神 素盞鳴命)】『峯山旧記』の「荒神」とはこの社であろうか。荒神を明治初年に須賀神社と改称した例は多い。
明治十七年(『府・神社明細帳』)由緒不詳、社殿 四尺に四尺一寸、境内 一五坪、民有地第一種…
昭和二十八年廃社(以下天仁木神社に同じ)。


【錦野(『峯山古事紀』)】に「天酒川の東、吉沢へ越える所なり。道倫様御遊跡なり」とある。西ヶ尾、または西野と呼ぶ地がそれである、
白つつじ この内記の小字西野の名木神社御旅所に白つつじが一株ある。昔、多久、矢田、名木、波弥、撥枳神社の御輿は、日を定めてこの御旅所に集まって祭礼を行なったという。
錦野玉支(峯山三十勝の内)宮田遯叟(則誠)
先公嘗所息 雑葉玉支開 先公かつていこいしところ 葉にまじって玉支ひらく。
縦許芻蕘者 更無芟取来 たとえ芻蕘の者を許すも さらに芟り取り来ることなけん。
〔大意〕錦野はかつて高之侯(道倫)が御遊されたところで、葉まじりに玉支(つつじのことか)が咲いている。しかし、この処は、比治の天女の一人天酒の女神(豊宇賀能売命)が槻の木の下で哭いていられたという故地で、木の枝を折りとっても神のたたりがあるといい伝えられているから、たとえ草刈りや木こりの者に立入りを許可しても、けっして、つつじの花を刈り取って来るものはない。  〉 


白杉主税介の内記城址。
『峰山旧記』
 〈 一、内記村城阯
白杉主税介居し右と同じく天正十年九月興元に逐はれて岩淵日向守と共に楠田を頼りて長尾城に遁れ、長尾落城の節岩淵と共に出でゝ、興元に降れりと云ふ。同上  〉 

内記城趾

臨済宗天竜寺派全性寺末虎丘山林香寺
林香寺(峰山町内記)

『峰山郷土志』
 〈 【虎丘山林香寺(臨済宗、内記、本尊 薬師如来)】明治二年『峯山旧記』によると、「虎丘山林光寺、本尊 地蔵菩薩…慶安元年(一六四八)、久山和尚によって創建され、曹洞宗であったが、その後元禄八年(一六九五)−一説、寛文八年−臨済宗に転じて全性寺末となった。境内薬師堂−とある。
宝暦三年(『峯山明細記』)
禅宗……本尊 地蔵、境内 長十三間横十間、堂 長七間横四間、撞鐘御座なく、薬師堂 二間に二間半、境内 五間四方。
これらによると、『峯山明細記』は、虎岳山とし、『峯山旧記』は虎丘山。また『丹哥府志』は林立山とあり、寺号も、『中郡誌稿』は林泉寺、大正元年の『中郡一斑峰山案内』は林香寺となっている。活字の間違いもあったろうから、論拠は弱いが、林光寺が、明治二年以後に林香寺と改められたといえる。ことに、明治二年まで本尊は地蔵菩薩であったのが、明治二十四年『明細帳』には本尊薬師如来となっている。
明治二十四年『明細帳』によると……、
本尊 薬師如来、慶長十一年(一六〇六)創立……もと曹洞宗、寛文八年臨済宗天竜寺末に転派(注、全性寺末)、明治十年事故あり、更に、大本山天竜寺直末と公称。創立より二百八十六年経過……とあり、全性寺末を離脱したことを物語っている。…  〉 


《交通》


《産業》


内記の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎内記村(丹波の郷の東)
風土記に云。天女既に和奈佐の家を出て後槻木によって哭、此處を哭木といふ。今内記に作る。
【名木神社】(延喜式、祭九月十六日)
名木神社今天酒大明神といふ、風土記に所謂天女八人の一なり。
【白杉主税介城墟】
【林休山林光寺】(臨済宗)  〉 


『峰山郷土志』
 〈 【内記】 内記の名の起こりは、やはり比治山伝説の天女豊宇賀能売命が…荒汐ノ村を出て丹波の里哭木ノ村(ナキキ、ナキ)に至り、槻の木によりかかって哭いていたことに始まり、はじめは哭木の文字が用いられていた。ナキキとも読み、あるいはナキともいい『丹哥府志』はナキと仮名をつけている。
『延喜式』には、丹波郡名木ノ神社とあるから、村名も名木を用いたのであろが、慶長六年『拝領郷村帳』には、内木村とある。しかし、いずれも哭木という文字のあらわす意味をきらって、名木、あるいは内木に改めたのであろう。ただ内木の場合は、内と木が音読と訓読をとりまぜている。内木村は元和八年初代高通の『村高帳』をみると『内記』と改まり、宝暦『峯山明細記』にも、内記とあるが、文化七年の『丹後旧事記』に「名木村、白杉主税介」と、一色当時の城主をあげている。文化の頃、やはり一般に名木を用いていたものか、それとも、一色当時は名木村であったことを意味するのであろうか。
「内記」とは、中務省に属する官職名で、文書秘書課なのであるが、その内記を村名とした由来は、明らかでない。しかし、この村名は、他にも多く用いられている。内記村は、峯山領で、管轄関係については、荒山村と同じである。


内記村城趾 『峯山旧記』によると、白杉主税介の居城で、天正十年九月十八日(一説、五月)、細川興元に追われて荒山砦の岩淵日向守と共に、楠田掃部守を頼って長尾山城にのがれたが、長尾落城(九月二十日)のとき、岩淵と興元方に降ったという−とある。  〉 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 桃山古墳群(ももやまこふんぐん)
所在地:峰山町内記小字桃山
立 地:竹野川中流域右岸丘陵上
時 代:古墳時代後期
調査年次;1986年(府センター)
現 状:消滅(国営農地)
遺物保管:市教委
文  献:C061
遺構
 桃山古墳群は、竹野川右岸、小原山から張り出す丘陵尾根の末端部に所在する2基の古墳群である。
 1号境は、丘陵部先端に造営された径19m、高さ3mの円墳である。基底部は地山整形、墳項部は若干の盛土を施す。地山と盛土層の境には、炭化混じりの黒色土層が認められ、古墳築造に際し山焼きを行った可能性がある。墳頂部は、径11mの平坦面があり、木棺直葬の埋葬施設2基が検出されている。第1主体部は、南北方向に主軸を持ち、長さ6.5m、幅4.5mの規模を測る。木棺は長さ5.3m、幅4.5mであり、棺底部の両側には比較的大きな石が置かれる。この石は棺台の可能性がある。副葬品は、南北に置かれた石付近および南側木棺端部分から出土した。木棺部南端小口部分では、須恵器杯蓋、杯身、高杯、ハソウが正位と推定される状態で、南側の石付近では須恵器杯身のほか象刀、轡、帯金具、鉄鏃などの鉄製品が置かれ、北側の石付近では勾玉、管玉、小玉などの装身具類のほか、刀子が出土した。木棺の小口部分および側板では、微量の赤色顔料を検出している。また墓壙上からは、須恵器ハソウや提瓶のほか、鉄鏃1点が出土しており、墓壙上祭祀に伴うものと考えられている。
 第2主体部は、第1主体部に平行し規模は長さ4.5m、幅2.2mを測る。木棺痕跡は確認されていないが墓壙の南側から須恵器杯身、杯蓋が重ねられた状態で出土した。さらに墓壙の北側から中央部にかけて短刀、鉄鏃が出土している。
 2号墳は、径11m、高さ1.5mの円墳である。1号墳と同様に盛土が施されており、墳頂部からは長さ4.4m、幅2.3mを測る埋葬施設1基が検出されている。組合式木棺の両端には、小口を押さえる粘土塊が見られる。
遣物
 1号墳の出土遣物は、須恵器、土師器、鉄製品、玉類などがある。鉄刀は、約100cmの片刃刀である。轡は環状鏡板付轡であり、素環の鏡板に兵庫鎖を立聞としている。鉄鏃は柳葉形であり、癒着のため細部は不明であるが、逆刺のあるものとないものがある。玉類は、勾玉が瑪瑙製、管玉が線色凝灰岩製と碧玉製、小玉がガラス製で、濃紺色を呈するものが多い。また墓壙上の須恵器群の中に含まれる無蓋高杯は、櫛描による波状文を巡らすものが含まれる。胎土、焼成、法量、細部の形状などは、太田2号墳出土の須恵器と一致し、同じ窯で焼成されたものと推定されている。
 2号墳は、棺内より鉄鏃2点、刀子1点が、墳丘盛土内より須恵器杯身が出土している。
意義
 桃山古墳群は、出土した須恵肝がTK10型式のものであり、6世紀中葉に1号墳→2号墳の順に築造されたと考えられる。1号境は、径19mの円墳ながら木棺を直葬し、埋葬施設に鉄製品、玉類、馬具など多種の副葬品を持つ。これに対して2号墳では、副葬品の要素が貧弱となる傾向が読み取れる。6世紀中葉は、丹後地域の横穴式石室導入期にあたる。横穴式石室を導入せず、木棺内に多数の副顔品を伴う1号墳は、在地集団の動向を示している可能性があり興味深い。  〉 


内記の小字一覧


内記 尼ケ谷 アラ田 小豆谷 家ノ谷 上野 上野岡 沖田 扇ノ木 大ベラ 扇谷 岡 奥 オイノオク 上門側 上筋 北村 狐塚 黒吹 桑ケ谷 久保 久保田 毛吹ケ谷 小脇 コウノシ 荒神山 先西野 サイノ神 下門側 柴先 新宮谷 菖蒲谷 下地 上(ショウ)ノ谷 清水 下道 四十田 砂田 スワ 杉ノ本 惣山 高山 土穴 塚ノ本 中ノ坪 中溝 中岡 梨ケ谷 中ケ長 中筋 中柴原 ナガレ尾 二反田 西野 野間谷 端抜 墓ノ下 ハヌケ谷 東谷 深田 古川 二又谷 細谷 丸山 宮ノ奥 明ケ谷 三又谷 向杉ノ本 薬師 山ノ下 矢田上ノ岡

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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