丹後の地名

二箇(にか)
京丹後市峰山町二箇


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京都府京丹後市峰山町二箇

京都府中郡峰山町二箇

京都府中郡五箇村二箇

二箇の概要




《二箇の概要》

鱒留川の中流域で同川と国道312号が並行して走り、集落は国道沿いの二箇と、北西部の苗代(なわしろ)がある。二箇と苗代の間にある「月の輪田」は、稲種を天照大神に奉ったと伝える。また、苗代の「清水戸」は苗代古歌に「いざなぎや種をひたする清水戸五穀始まるこれぞ苗代」とうたわれている。ずいぶんと古い土地と思われ、元伊勢伝説の地。
中世は石清水八幡宮領二箇保の地で、室町期〜戦国期に見える。長禄元年11月8日付の円通寺領重書現存目録に「一所 豊後国大野庄内上村并〈丹後国二ケ保 吉田保 伊与国山口庄>」(三聖寺文書豊後国大野荘史料)と見えるというが詳細は未詳。「石清水文書」では多く益富保と併称して二箇益富保とされている。同文書中には文明11年12月日、明応9年12月日、文亀3年4月日の「八幡宮領丹州二箇益富保勘定状」が残されている。文亀4年2月18日付の石清水八幡宮善法寺雑掌宛て室町幕府奉行衆下知状に「石清水八幡宮領丹後国黒戸庄并二ケ益冨保等事」と見えるという。二箇保は明徳2年12月29日付足利義満寄進状や丹後国田数帳にみえる成久保・末成保が八幡領とあり、のちに二箇保と称されたと考えられている。
二箇村は、江戸期〜明治22年の村名。枝村に苗代がある。はじめ宮津藩領、寛文6年から幕府領、同9年から宮津藩領、延宝8年から幕府領、同9年からは宮津藩領となり、享保2年以降宮津藩領230石余・幕府領402石余に分割されて幕末に至った。
当村は長岡・五箇・久美浜を結ぶ北国街道(久美浜街道)と峰山城下へ出る街道との分岐点に位置していて、「二箇や大野はいつ通っても、将棋・すごろく・賽の音」とうたわれ、宿場としてにぎわったという。幕末から明治10年頃にかけて当村には二箇座と称する木偶人形の一座10数人がいたという。
幕府領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、宮津藩領は同4年宮津県を経て、同9年いずれも京都府に所属。同22年五箇村の大字となる。
二筒は、明治22年〜現在の大字名。はじめ五箇村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《二箇の人口・世帯数》 462・156

《主な社寺など》
苗代2号墳
名地谷窯趾・名地谷遺跡

月輪田(つきのわでん)
月輪田(峰山町二箇)

月輪田(峰山町二箇)

月輪田(峰山町二箇)
↓月輪田から磯砂山をのぞむ
月輪田(峰山町二箇)
月輪田は国道312号から西へわずかに入った二箇と苗代の間のタンボのなかにポツンとあり、三日月田(みかづきでん)ともよばれる。往古、清水戸に浸した籾種を月輪田の苗代で育て多くの田に植えつけたという伝承がある。苗代には「いざなぎや種を浸する清水戸五こく始まるこゝぞ苗代」といぅ古歌が伝わるという。小さな田小さな田、というのか、荒地というのか、雑草茂る凹地、崇りを恐れて刈り取るものもないのだそう。
月輪田(峰山町二箇)
丹後建国1300年記念で田植えがなされた月輪田。「紅かんざし」という赤米が植え付けされていた。
咋石山↑。あるいはこの山が豊受大神の故地、比治山かも知れない。


清水戸(せいすいど)
清水戸(峰山町二箇)

清水戸(峰山町二箇)

軽水戸(峰山町二箇)
苗代集落の公民館の手前にある。五尺四方、深さ三尺、石をもって囲い一方に杉垣をつくる。現在は放置されているが、この水で茶を煮るとたいそう美味であるといい伝えるそう。

『中郡誌稿』
 〈 月輪、清水戸、
(丹後旧事記)国康が曰(稲代神社の条保食神の事を説きたるつづき)扨稲種を奉りし田今にあり二箇と苗代村との間に三ケ月形の小き田あり月の輪と云地頭も崇る故除地にし玉ふ若又作らされは二箇村苗代村たたり有故に今は二箇村義右衛門と云人身を清浄にして別火を喰て作らるる也精米にして一斗二三升斗の有藁すべも右の田の中へ入て来年の肥しとす不浄肥しを入るか女這入はたたる也右の米は伊勢御師宰福出雲太夫へ御初穂に上るかかる芽出度事を安の紀伊に言聞せても誠にせず打過しけるは愚なると言もはかりなし事長けれは略し畢す
(五箇村誌草稿)苗代(付)月の輪の池 五箇村は我日本国農業の始なることは日本農史に明かなり、太古籾種を苗代(小字)の清水戸に浸し月の輪の田に苗を作り多くの田面に植えつけしといふ、いざなぎや種を浸すね清水戸五こく始まるここぞ苗代(苗代の古歌)
(実地調査)苗代田面の中に半月形の除地あり水自然に湧きおもだかなど生ふ今はさまでに崇敬せらるるやうにも見えず清水戸といふは苗代の部落中にありて三尺四方斗りの井戸なり水少しく白味を帯び聊かにごり居たり甚だ冷かなり村民此水を以て茶を煮るに味甚だ佳なりといふ
清水戸の歌を試に村民に歌はしめしに御詠歌に似て自ら異なれる節にて唱ふ其外田植歌として左の如きを伝ふ 鶴の子のそだちはどこだ八幡の森の松の枝 日はてるともみのかさモチャレしの原の露雨にまさる サスガニ古風ナリトイフベシ 

『峰山郷土志』
 〈 【月の輪田(つきのわでん)(三日月田、二箇と苗代の間)】『丹後旧事記』によると、小松国康(『丹後旧事紀』の校閲者)曰く…として、稲代神社のところで、『日本書紀』神代の巻の保食神のことを説明した次に、稲種(いなだね)を天照大神に奉った田は、今も二箇と苗代村の間にあって、三ヵ月形の小さな田で「月の輪」といい、地頭(領主)もたたりがあるというので除地(年貢地から除外する)とし、また、作らないと両村にたたりがあるので、今は二箇村の義右衛門(野木姓)が身を清め、別に炊いた食物を食って稲を作り、精米にした一斗二、三升の米は、伊勢の御師幸福出雲太夫に御初穂として奉り、藁は全部田の中へ入れ、来年の肥にあてた。不浄な肥料を入れたり、女人の立入りもたたりがあってできなかった。このようなありがたいことを、安村の紀伊(稲代神社の禰宜安田紀伊のこと)にいいきかせたが、真にせずにそのまますておいたのは、この上もない愚なことであるーと。
小松国康のこの説をみると、どうも稲代と苗代を混同しているように思われる。でなければ文化七年当時、この二箇、苗代村一帯は、安村稲代神社の神領か、あるいは縁故地で、安田紀伊の管轄ということになる。谷も流れも全く違う吉原と五箇谷を誤って混同したものか、それとも故意に作りあげたか、かえって面倒である。しかし、二箇の八幡神社付近の勝負庵(現在−菖蒲寺)の旧地という小字稲谷(稲代谷とも)は、昔、はじめて稲をつくった所であるといっている。話は一層複雑である。
月の輪の田は、今、繭草が一面繁っているが、誰もたたりを恐れて刈り取るものもないという。
付近に二本松稲荷、柿木地蔵があるというが、故事は明らかでない。 


『峰山郷土志』
 〈 <【清水戸(せいすいど)】苗代、『五箇村郷土誌』によると−五尺四方、深さ三尺の井水で、少し濁っている。石をもってかこい、一方に杉垣をつくる。大昔、豊受大神がはじめてわが五箇村で農作を試み、籾を浸した所であるという。
【清水戸(せいすいど)】苗代、『五箇村郷土誌』によると−五尺四方、深さ三尺の井水で、少し濁っている。石をもってかこい、一方に杉垣をつくる。大昔、豊受大神がはじめてわが五箇村で農作を試み、籾を浸した所であるという。
お日はてるとも みのかさ持ちゃれ しの原のトンヨナ しの原の露 雨まさるトヨナ
この町(田)に植えたる早稲はなに早稲トンヨナ なにわせにゃ葉広のわせ倉の下づみトヨナ
こうした田植歌は、大正の末期から昭和の初め頃までは時々聞かれたと思うが、田植ともなると、美声を競うこの唄声に合わせて、早苗を植える風景が田園いっぱいにくりひろげられたものである。 

神社
八幡神社 三柱神社 住吉神社

『中郡誌稿』
 〈 (三)社寺
(丹哥府志)八幡宮(祭八月十五日)
     付録 金毘羅大権現 稲荷大明神 高良大明神 三宝荒神 山王 地蔵堂 庚申堂 月の輪(地名未考)草庵
(村誌)社 八幡神社 無格社 社地東西五十四間南北十間 面積五百四十坪
本村の東方にあり誉田別命を祭る 祭日八月十五日
三柱神社 無格社 東西四間南北八間半面積三十四坪
 本村の西方にあり奥津彦命を祭る 祭日十月二十八日
日吉神社 無格社 東西二十二間半南北四間面積百一坪
 本村の北方にあり素盞鳴尊を祭る 祭日九月十五日
寺庵 臨済宗天竜寺派五箇村慶徳院末 村の中部にあり宝暦五年乙亥開祖玄峯宗宝禅者
(五箇村誌草稿)神社 八幡神社 字二箇にあり、山王神社 苗代にあり
寺院 慈明庵 曹洞宗(按、曹洞宗とは臨済宗の誤に非るか)小字苗代にあり、勝負庵 曹洞宗字二箇にあり 

『峰山郷土志』
 〈 【八幡神社(境内社愛宕神社)(村社、二箇、五箇、祭神 誉田別命)】二箇(苗代を含む)は御料所と宮津領にまたがり、峯山藩との関係がなかったので、宝暦の『峯山明細記』など、藩記録に直接とりあげられることは少なかった。神社関係では、五箇の舟岡の愛宕の項に「他領二箇村、御領分久次村(と五箇村)右三ヶ村、一所に祭礼つとめ来り候」とある(『同明細記』)くらいで、明治二年の『峯山旧記』にもほとんどみあたらない。しかし、天保十二年の『丹哥府志』には次のように記されている。
八幡宮 祭八月十五日、付録金毘羅大権堀、稲荷大明神、高良大明神、三宝荒神、山王、地蔵堂、月の輪、(地名未考)草庵。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
村社 八幡神社、祭神 誉田別命、由緒不祥、社殿 六尺一寸に一間、上屋三間二尺三寸に二間三尺二寸、境内 五百四十坪、官有地第一種。
境内神社 金刀比羅神社、祭神 大物主命、由緒不詳、建物 二尺四寸に三尺、社掌欠員。
(頭注付記)拝殿、新築 明治四十一年七月十日許可。
昭和十一年(『五箇村郷土職二』)
愛宕神社と並ぶ(注、五箇村社)。祭神 応神天皇、本殿 二間半に一間半、拝殿 一間半四面、例祭十月十日、神事 神輿渡御、三番叟。
由緒として、石清水八幡の文書である「足利義政の教書」があげられている。
石清水八幡領、播磨国継庄丹后国板浪別宮、同国山田東方中郡二箇村、竹野郡平、黒部、熊野郡佐野、早任当知行之者、入江法印鳳浩領掌不レ可レ有二相違一之状如レ件
康正二年三月十八日
右近衛大将源朝臣 花押
康正二年(一四五五)ぱ丙子年に当たるが、年号の下に丙子が書かれていないこと、丹波郡としないで中郡とある点…など、なお研究の余地があると思うが、この御教書によると、足利の中期にはすでに石清水八幡に属し、入江法印鳳清が領していたことになる。八幡宮は軍の神であるから、当時丹後の守護であった一色氏か、あるいはその部将によって勧請されたのではなかろうか。境内に二箇神社がある(『同誌』、愛宕神社の項参照)。社掌は毛呂清春兼勤(峰山)。 

 〈 【三柱神社(無格社、二箇、祭神 奥津彦命)】天保十二年『丹哥府志』にある三宝荒神とはこの社であろうか。一般に荒神とよんでいる。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 三柱神社、祭神奥津彦命、社殿 三尺二寸に三尺、上屋 一間四尺に二間二尺、輿庫 一間一尺五寸に二間二尺五寸、境内 三四坪、民有地第一種……(注、輿庫とは八幡神社の神輿の保管庫である)
大正十一年(『五箇村郷土誌』)
建物 二間半に一間半、境内 二〇坪余、例祭 旧十月二十八日、神事 前夜子供が参籠する。 

 〈 【日吉神社(無格社、苗代、祭神 素盞嗚命)】天保十二年『丹哥府志』の山王とはこの社であろうか。一般に、山王社とよばれている。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社 日吉神社……社殿 二尺二寸に一尺八寸、上屋 一間三尺三寸に一間三尺、境内 一〇一坪、官有地第一種……祠掌 安村稲代神社……金田年彦、兼勤。
大正十一年〔『五箇村郷土誌』)
建物瓦葺中央本殿、両端摂社 二間に三間(五穀の神と、八幡宮が本殿の両端にあり)、境内一〇一坪、例祭 十月十日、神事 神輿渡御、あまざけ祭といって氏子が参籠する 

二箇座
『峰山郷土志』
 〈 【二箇座】二箇座は、十数人でつくった木偶(でく)人形(あやつり人形)の一座で、幕末の頃から、その名を京阪地方に知られていたが、明治十年頃、丹波ノ国夜久野の興業に行く途中、夜久野が原で狐に化かされ、人形から衣装まですっかり泥まみれになり、遂に再起できなかったという。狐の仕業であったというばかりで、その真相はつかめなかった、郷土に生まれた農民芸術の一つとして、惜しい限りである。木偶人形の一つが、苗代部落の池田某に保存されているというが、現在、存否は確かでない。また、熊野郡の友重に「友重座」があり、夜久野には「夜久野座」があったというから、それぞれ連けいがたもたれていたと思う。また、丹後の人形師井上亀治郎(二箇)があった。
なお、二箇座の生まれた動機とも思われる一つに「竹本陸奥太夫」がある。峰山全性寺の不二庵跡の右上の崖下に、陸奥太夫の碑がある。その碑文によると−陸奥太夫は享保十年(一七二五)大阪に生まれ、俗名を治兵衛とよび、少年の頃から音曲が好きで、もっぱら浄瑠璃を習うこと五年、非常に上達したが、その後、修業のため奥羽地方を遊歴し、家々の門前を語り歩いた。聞く者は皆上手であると彼をほめた。そこで陸奥太夫と号し、明和の中頃(一七六四〜一七七一)四十歳前後で丹後に来たが、同好者が多いので二箇村に住んで門下生を教えた。ある時、門下生に向かって、「私は拙い技にかかわらず、皆さんから大切にして頂いていることを喜びかつ愧じている。しかし、心の中に忘れることのできない願いがある。それは、社友の皆さんにお頼みして、高倉会(こうそうかい)を作り、自分の技術を試すことができたならば、私の一生にとってどんなに楽しいことであろう。」と語った。門下生は皆これに賛成したが、その春、寛政九年(一七九七)二月二十日、陸奥太夫は病のため七十二歳で世を去った。遺体は二箇村墓地の臨川山の丘上に葬り、明治十年十一月峰山の門弟一同で碑を臥竜山上(全性寺の山号)に建て、浄瑠璃大会を催し、薫盥(香り高い手洗鉢)と名づけて一つの曲を奏して碑前に手向けた(延陵の剣の故事なぞらえて)−とある。
碑文は丹後の金谷幡恒の作で、終わりに銘がある。
鏗兮曲節 颯兮清風 鏗たり曲節 颯たり清風。
嘉哉斯子 禄在其中 嘉いかな斯子 禄その中に在り。
サッと清風をまきおこして鳴りわたる曲節の妙音、その非凡な妙技の中に、彼が天から授けられた無上の俸禄がある…という幡恒作の銘も、また、よく陸奥太夫の人格と神技をよみつくしている。こうした人形浄瑠璃「高倉会」結成の彼の意志がいつか芽生えて二箇座となったものであろう。浄瑠璃の愛好者は今も多い。 


《交通》


《産業》


二箇の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 丹波郡
一益冨保 廿四町弐段三百五十八歩内
 十二町一段百七十九歩       八幡領
 十二町一段百七十九歩      大方殿様
一成久保 十一町二段百十二歩  八幡領
一未成保 十一町三段百十二歩  八幡領
 

『丹哥府志』
 〈 ◎二箇村(五箇村の次、宮津街道)
【八幡宮】(祭八月十五日)
 【付録】(金毘羅大権現、稲荷大明神、高良大明神、三宝荒神、山王地蔵堂、庚申堂、月の輪、草庵)
○苗代村(二箇村枝郷)) 

『峰山郷土志』
 〈 【二箇、苗代】二箇の名の起こりは、昔、この街道筋にあった二軒の家からともいい、また、この地を三家(さんか)の里といって、家が三軒あったなどといい伝えられている。存在していた家の数か、それとも、苗代と佐古田、または苗代と本五箇などから、ここへ移住して来た部落数か。とにかく、そうした数にちなんだ名であろう。二家−ニケ−二箇と書きかえられたとも聞くが、二家の名はいつ頃であったであろうか。『田数帳』にも、『御檀家帳』にもそれらしいものはない。
元和八年、新治、益富とともに宮津領になり、寛文六年に幕料、同九年、宮津領、延宝六年(一説、八年)幕料、同九年、宮津領、元禄十年、領主交替、享保二年領主交替により村高の内四百二石余を幕料に、二百三十石余を宮津領に分割。……以下、新治村参照。
『村誌』によると、「二箇はもと苗代村と称し、後改めて(年号不詳)二箇村という」とあるが、『丹哥府志』には苗代村は二箇村の枝郷とある。現在の二箇部落は、苗代から出たものと、二箇橋を渡った川向うの佐古田から移ったものであるというから、交通路の改修にともなって次第に人通りの多い北国街道へ集まったとみられよう。宮津藩文書によると、元禄年間は「二ヶ村」、享保頃は「二箇村」の文字を用いている。
「二箇や大野はいつ通ってみても、将棋、すごろく、賽の音」とうたわれ、宿場として賑わったのは、そう昔のことではなかろう。新治村はずれから耕地の中を抜けた旧道は、現在の部落の裏小野木屋敷跡の西を経て、五箇の舟岡の下に出ていたとも考えられ、今、舟岡から久次を経て山すそ伝いに苗代に出、さらに山下を一直線に新治の九柱神社前に達する道は、も一つ古くから使用された通路であったろう。いずれにせよ、長岡、二箇、五箇、鱒留を結ぶ北国街道と、新治を経て峯山城下に出る街道の分岐点であった。また、この道は、交通、軍事、政治上からみても、奥丹後の本街道であったことは事実で、その両端の新治、二箇、鱒留を丹後の守である宮津藩が握り、さらに御料所として幕府直轄の代官所の知下に入れたこともうなずかれよう。
享保二年以後、二箇村(苗代を含む)の村高六百三十二石余の内、四百余石が御料所、二百三十余石を宮津藩へ持ち出して、一村が二領にまたがったわけであるが、これは石高に対する年貢などの関係であって、土地について色別け区劃を行なったものではない。
また、苗代部落が峯山領に色分けされた徳川中期の「丹後但馬図」のことが、『中郡誌稿』に出ているが、それはおそらく誤りで、裏付けになる記録はない。苗代は二箇と同じく峯山領ではなかったようである。… 

『京丹後市の考古資料』
 〈 苗代2号墳(なわしろにごうふん)
所在地:峰山町二箇小字相之目
立 地:竹野川中流域、支流鱒留川左岸丘陵上
時 代:古墳時代前期
謝査年次:1997年(府センター)
現 状:消滅(国営農地)
遺物保管:市教委 文献:C121
遺構
 苗代古墳群は、鱒留川左岸丘陵の尾根上に所在する。国営農地開発事業に伴い、1〜6号墳を調査したところ、古墳時代前期から中期中葉に営まれた古墳群であることが判明した。
 古墳群中最大の規模となる2号墳は、19×16mを測る。墳丘は地山整形で達成されており、墳頂部から6つの木棺墓、3つの土器棺墓が検出された。木棺墓は第1主体部を中心に切合関係にある。古墳築造の契機となった第1主体部は、墓墳規模5.7×2.5mの二段墓壙で、組合式木棺が収められていた。棺内から勾玉1、棺外からカリガンナ2点が出土している。第4主体部は、割竹型木棺が採用されており、ヤリガンナ1点が出土している。第5主体部は、棺内からヤリガンナ1、管玉1、勾玉1が出土している。第7、8、9主体部は、いずれも大型の甕2個体を組み合わせ棺として利用している。
遺物
 鉄器、玉類のほかに棺に使用された土師器がある。第1主体部出土の勾玉は翡翠製であり、画面穿孔により孔が開けられ、丁寧な仕上げが施されている。第5主体部の勾玉は緑色凝灰岩製であり、片面穿孔が施されている。また、一緒に出土した管玉はガラス製である。
 第7主体部出土の甕は、器高34p前後の2個体で、ともに丸底で二重口縁を持つ。第8主体部の甕は器高59.2cmを測る大型甕であり、内傾して立ち上がる口縁部を持つ。第9主体部の甕は「く」の字に届曲した口縁部を持ち、頸部に退化した綾杉文が部分的に観察される。
 鉄器は全体でヤリガンナが4点出土した。いずれも二つに折れた状態で出土している。
意義
 苗代古墳群は、鱒留川流域に築かれた古墳時代前期の古墳群である。2号墳は地山整形で、多数の埋葬施設を持つ。当地域では弥生時代後期から複数埋葬を持つ墳幕が多く築かれるが、本例もその伝統を引くが、土器の供献はない。
 土器棺について、第7主体部出土のものは神明山古墳出上のものに近似する。第8主体部出土のものは形態的特徴から東部瀬戸内系の影響を、簡9主体部出土のものは山陰系の影響を受けている。文様の特徴などから、古墳時代前期後半以降の可触性が考えられている。苗代古墳群全体では、2号墳築造後に築かれた3〜6号墳が、順次、中期中葉まで築造されている。 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 名地谷1号窯跡・名地谷遺跡(みょうちだにいちごうかまあと・みょうちだにいせき)
所在地:峰山町二箇小字名地谷
立 地:竹野川中流域、支流鱒留川左岸丘陵裾
時 代:平安時代
調査年次:1997、1998年(府教委)
現 状;調査範囲は消滅(国営農地)
遺物保管:丹後郷土資料館
文 献:C117、C128、F217、F225
遺構
 名地谷窯跡、遺跡は、丘陵裾に造成された平安時代前期の窯跡群である。南西隣の氏陵裾では、青谷窯跡の存在が知られる。名地谷窯跡は単独で立地し、不時発見により発掘調査が実施されたものである。窯体部分のみが確認されており、窯体内より最終操業時のものと思われる須恵器が出土している。
 名地谷遺跡は、窯跡の立地する谷の奥部に立地する。窯跡焚口、前庭部と思われる段状遺構が見つかっているほか、炭を多く含む落込状遺構SX02が丘陵裾部に分布している。
遺物
 窯跡、遺跡ともに須恵器椀、鉢、壺が出土している。椀の底部は、糸切り手法とともに、ヘラ切り手法が混じるという特徴が見られる。また窯跡出土椀の底径は、遺跡出土椀の底径と比較して大きい傾向が見られる。須恵器鉢の形態は、窯跡、遺跡出土資料では大きく異なる。しかし鉢はいずれも篠窯跡群(亀岡市)のものと類似し、篠窯品を模倣したものと推定されている。
意義
 出土資料については、岸岡貴英が詳細な検討を行っている。窯跡は、出土した椀の技法から見て10世紀前葉、遺跡は、出土した鉢の形態から見て10世紀中葉〜後葉のものと推定されている。窯跡、遺跡の位置する丹波(中)郡は、室町時代の『丹後国惣田教帳』に記される郷、保の分布から、平安〜鎌倉時代にかけて国衙領が多く存在した地域と推定されている。以上の点から岸岡は、名地谷窯跡を国衙の支配体制下において維持された須恵器窯跡と評価する。
 市域において数少ない平安時代の須恵器窯跡であり、青谷窯跡とともに貴重な資料である。 


二箇の小字一覧


二箇 青谷 相之目 井ノ下 稲谷 上岡 奥畑ケ 小谷山 上丁田 中割谷 笹ケ谷 佐古田 四十田 下辻 下丁田 夏目 西吉田 入道替 野田 八反田 東吉田 前川原 名地谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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