新治(にんばり)
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京都府京丹後市峰山町新治 京都府中郡峰山町新治 京都府中郡吉原村新治 |
新治の概要《新治の概要》 古代の新治(新沼)郷の遺称地名、鱒留川の中流域に位置する、国道312号が走り、その南を鱒留川が東北に流れる。集落はその西方山麓にある。東南の三軒屋には江戸期に久美浜街道の三軒茶屋があったといわれ、いまも茶屋道具が保存されているそうとか。 治と沼はここだけでなく、比治と比沼のように全国的によく間違うのか、それとも両方の呼び方があったのか、今となれば判断できないくらいによく混用される。従って古代は新沼とも称していたのかも知れない。舞鶴の真名井伝説と似た三本矢の伝説がある。 『中郡誌槁』は、口碑として、次の伝説を伝える。 〈 当村字池ノ谷といふ所は真名井の神苗代の水濁りて用ふるに足らざる(不浄の女其水を覧たるにより)に至り箭を放ちて之を天に訴へられたるに白箭三つ下りたる地に新に池を堀り種子を浸すべしとの神告を受けて此地に池沼を設けられたるにて村名もと新治にあらずして新沼郷なりとの伝説あり又此地の東南に大苗代といふ字ありて是即ち神始めて苗を植へられたる地なりと唱へ今も村民ここを共同の苗代として使用す 〉 新治郷は平安期に見える郷名で「和名抄」丹波郡7郷の1つ。刊本は「新沼郷」とする。訓注はない。 ニイハリと読むよりアラハリ(アラキかも)ではなかろうか、新たに開墾された地の意味かも、あるいはもっと古い地名ならアラ系でアラ村の意味か、そうならアラハリもアラシオも同じではなかろうか。風土記の「比治の里の荒塩の村」とは、今の荒山では比治里とするには離れすぎていて、本当はここ「久次里の新治村」の事かも知れない。アラは光明のことで、この前打ち上げた「弾道ミサイル」の人工衛星の名は光明星であった、古代ならアラ星、この名が半万年の伝統で好きなようであるが、それは古代の丹後国も同じで、アラフルとアラソフルの転化かも知れない、アラシオはおそらく元はアラソホでアラハリに転化してもおかしくはない。丹後国の聖地であり心臓であった、この周辺地域はアラとその類語のタカ系統、それとソフル、クシフル系統の地名が多く残されているように見える。 中世は、新治郷 室町期から見える郷名。「丹後国田数帳」に「新治郷 四十七町二段百五歩内」と見える。「丹後御檀家帳」にも「一 にんはり」と見える。 新治村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、以後、寛文6年から幕府領生野代官所波見村出張陣屋支配、同9年から宮津藩領、延宝8年から幕府領生野代官所日置村出張陣屋支配、同9年から宮津藩領、享保2年から幕府領湊宮代官所支配、同20年湊宮代官所支配から久美浜代官所支配に移って幕末に至った。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年吉原村の大字となる。 新治は、明治22年〜現在の大字名。はじめ吉原村、昭和30年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。 《新治の人口・世帯数》 737・236 《主な社寺など》 桃谷古墳群と耳とう 集落の西方約450メートルの通称桃谷の丘陵端。3基ある。未舗装の道を入るのだが、さっぱりわからない。「あれ(→)が立っとるだけで、何もありませんで」ということだったのであきらめる。 1号墳は完存、古墳後期。封土は楕円形と推定される。両袖式の羨道付石室で、天井石はすべて取り去られている。玄室の内法は長さ5メートル、幅は2.1−2.5メートル。羨道は両側とも石積みが1、2段しか残っていない。長さは4.5メートル、崖の端に達し、幅は玄門近くで1メートル。遺物はボウ製鏡1面、金環8、勾玉12、管玉9、小玉635、切子玉3、丸玉33、金銅空玉1、耳とう1。武器は金銅装大刀2振、鉄刀8、刀子11、鉄鏃30数本。須恵器70余、そのほか馬具・鈴などが出土した。特記すへきは耳とう(漢字では玉偏に當)で、古墳出土品としては最初でこれしかない。2号墳は平地にあり、円墳で径約3メートル、半壊して封土上円部のみ存在。3号墳は丘陵端にあったが全壊。須恵器多数、鉄刀片数点を出土した。『丹後文化圏』に調査報告書が抄録されている。 『古代への旅−丹後』 〈 桃谷古墳 峰山町新治小字桃谷 新治にある桃谷古墳は、七世紀初頭に築造されたとみられる、両袖式の横穴石室であり、玄室部の長さ五m、幅二・一〜二・五mで、天井石は古くからはずされているが、石室の形状をよく残しており、今も現地で見学できる。 一九五一・五二年の発掘調査により、乳文鏡、金銅製太刀などの鉄製武器、馬具、金銅製空玉の玉類、大量の須恵器が出土した。とくにガラス製の耳とう(中国の漢代に流行した一種の耳飾り)の出土は全国で類例のないものであり、中国からの伝来品の可能性も強く、古丹波の支配者と大陸・朝鮮半島の関係を考える上で注目される資料である。 〉 『丹後文化圏』「峰山桃谷古墳発掘調査報告」(図も) 〈 耳とう 1個 J 1(第7図) 半透明紺色のガラス製である。胴が細く、両端のひろがった漏斗形で、一端の方がすこし大きい。長さ14ミリ、小頭径8ミリ、大頭径11ミリ、胴径4.5ミリ、中央の孔は全体が均一の大きさをしている。これも山崎一雄博士の調査によれば次のとおりである。 重量1.2グラム、比重約2.5、アルカリ石灰ガラスと判断される。コバルトを含有するために淡い紺色を呈する。 〉 〈 耳とうは朝鮮の楽浪古墳をはじめ、中国各地の漢六朝代の古墳からしばしば出土し、わが国では京都の嵯峨清涼寺釈迦立像内からでたメノウ製品がしられている程度で、わが国古墳出土品としては最初の例であろう。とくに漏斗状をなすガラス製品は中国出土品と全く一致する。耳とうとは本来耳朶に孔をあけて、これを挿入し、耳とうに縦貫する孔に紐を通して、垂飾をつけたもので、その由来は蛮族の風とされていた。縄文文化にみる土製、骨製の耳栓といわれる遺品も、同じ用具とみなすことができるが、本品はもちろんそれとは系統を異にし、中国製品の将来されたものである。もともと2個で一対をなすべきものが本墳では1個しかなくて、しかも他の玉類と群在している。耳飾りとしては、別に金環があるので、本品は本来の用途に使われたのではなく、勾玉などとともに頚飾のなかの一品として、珍重されたのではないかと推測される。 〉 途中ヶ丘・扇谷・竹野の「陶けん」といい、ここの「耳とう」といい、函石浜の「貨泉」といい、時代はかなり違うが元々は中国のもので、朝鮮半島にあった漢の楽浪郡の漢人(中国文字を漢字というが漢人とは今の言葉でいえば中国人のこと、60年ほど以前はチャンコロと呼んで極端に差別していた)が持参していたものではなかろうか、その子孫かその周辺の者かが戦乱などを避けて丹後へと渡来してきたものかも知れない。丹後の成り立ちを考える上ではずせない出土品である。 楽浪郡というのは今の平壌付近にあった漢の4郡の1つで、漢の武帝は前109年衛氏朝鮮の抗命を理由に出兵し翌年これを平定し楽浪ほか3郡をおいて朝鮮を直接支配下に編入したもの、西暦313年まで存在した。真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称され、東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中華文明受容に大きな役割を果たしたとされる。 十方院の裏山の目谷山嶺に新治城跡がある。文亀頃の城主は新治蔵人、天正頃の城主は加納下総守で、天正10年落城したという。 『中郡誌槁』 〈 (二)城趾 (丹哥府志)加納下総城墟…略… (丹後旧事記)新治城》(古書の荒張ハ非也) 中瀬兵衛 加納下総守 荒木佐助 加納討死落城の後荒木中両人ともに長岡の家士となり荒木河部村神野の砦に有て後に入城の人なり後改て山城守と号慶長美濃の軍に岐阜の二番鑓なり(十冊本) (同書)新治村 加納下総守 荒木佐助 新治城は城の丹後守頼景の居城跡にして建武の頃新治新蔵人篭城の跡也加納下総守討死後荒木佐助居す荒木は後に長岡の家士となる(十冊本) (村誌)古跡、新治城墟本村の北方字目谷山嶺にあり 梯形をなし石壁存せず今に至り銀水池と称し水涸たるも形を存す(下略) (明細帳)一古城跡と申伝候山壹ケ所城主吉田備後と申伝候但此内山裏小西村安村境 (実地聞書)村誌に記す所を古城といひ更に其南方山の尾をも城跡なりと称し其東麓今宮社のある谷に古屋敷跡と唱ふるありて新治氏の居館跡なりと言伝ふ又当村小北瀬左衛門及下川専二郎両氏に新治氏系図写を蔵す審査するに両通全然相異り年暦も合はず今採録せず(新治氏の事跡遂に明にすることを得ず遺憾なりと謂ふべし) 〉 『峰山郷土志』 〈 新治城 『一色軍記』では、アラハリの城とよんでいる。城は目谷山にある。『御檀家帳』に、「城主、新治殿、今は石川殿の御子息」とあるのは、五箇城主のところに「石河小太郎殿、石河殿御子息、惣領殿也」とあって、現在の新治殿は、その弟であったろう。また、この天文七年頃、城があったこともわかる。しかし、それから約四十四年後の天正十年、新治落城の時の軍記物では、加納下総守(討死)、中瀬兵衛、荒木佐助は捕えられ、あるい降って細川の家士となって、荒木は関ヶ原の合戦に功名を立てているが、石川の姓はみえない。山下に池があり、今は土砂が流れ込んで狭くなっているが、この池には片眼の魚が住むといい、また、他の魚を放しておいても片眼になってしまうともいう。天正の合戦に、片眼を射られた侍が、この池でその眼を洗ったためだといい伝えられている。 新治城は、もと正嘉元年(一二五七)七月、丹後守頼景の居城(後、丹波郷へ移る)で、建武の頃、新治蔵人が籠城した跡であるともいい、嘉慶二年(一三八八)、山名勢を引きうけ、一色方の吉田備後が奮戦したという新治水尾城(小西と安の境)もあるから、吉原山城の三大砦(新治、長尾、平岡)の一つとして重要地点であったろう。 〉 「丹後新治城跡」 目谷山に片目の魚とか、目に特に片目に関係があるし、氏神さんも足立さん、大蛇の鱗に梛の木のお寺さん、蛇と目の地のようである。ここの城主は元はこの地の鍜冶屋さんでなかろうか。 氏神は九柱(くはしら)神社(旧名九丹大明神)。 『峰山郷土志』 〈 【九柱(くはしら)神社(式外社、吉原、新治、祭神 底津少童命、底筒男命、大直日神、中津少童命、中筒男命、神直日神、表津少童命、表筒男命、八十柱津日神、例祭 十月十日)】九柱神社のもと神職であった安達家に保存する資料を、年代順にならべてみよう。 長徳四年(九九八)五月九日、神祇管領正三位卜部朝臣兼敬から、九反(くたん)大明神、水無月太神の巫女朝日中務に与えた、恒例の神事神楽などに着る赤色千早舞衣の神道裁許状。 長元四年(一〇三一)九月、巫女朝日中務から新治進之丞、小北藤内に宛てた、祭礼湯釜神楽(ゆがまかぐら)につき、恒例の如く御初穂米相違なく御裁可していただきたいという書状。 同年同月、新治進之丞、小北藤内から、朝日中務に与えた九反大明神、水無月太神、山王大権現三社の恒例による湯釜神楽を行なって下さいという覚書。 元禄十三年(一七〇〇)十月ニ十四日、神道管領から巫女伊勢に与えた赤色千早舞衣の神道裁許状。 享保三年(一七一八)二月十三日、同九反大明神巫女伊勢に与えた舞衣の裁許状。 寛政元年(一七八九)三月二十六日、同卜部良倶から、九反大明神、水無月大明神、今宮権現、長岡村正八幡宮、森本村大社大明神、明田村心木大明神、三重村愛宕山大権現、逆鉾大明神、三方大明神、九社の神子相模の舞衣の裁許状(注、中郡の御料所内)。 享和三年(一八〇三)五月、長元四年九月に新治、小北連名で、朝日中務に宛てた覚書および神主安達杢之丞の礼状を、久美浜代官塩谷大四郎、寺社記録取調の時、新治次左衛門に預けたが、その写しに添えた次左衛門の預り証、二通。 同別演 此度、御代官塩谷大四郎様御支配の節、寺社御改めなされ候につき、神子朝日相模方の記録相改め候ところ、当村郷の司新治氏よりつかわされ候書物出候につき、年暦相考え候ところ、後一条院六十三代の御時、長元四未とし(年)より享和三年亥としまで年数七百七十三年に相当たり、本紙の儀は私預り、余り古び候ゆえ写相添預り置候 以上 享和三年亥五月 新治次左衛門 これらの記録によると、九柱神社は、もと九反大明神と称し、境内社として水無月太神、山王大権現(寛政の今宮権現はこれか)が、少なくとも長元四年以前からまつられていたことになる。しかし、三十六年前の長徳四年(九九八)には、山王大権現の名はみえない。いずれにせよ、この長徳、長元の資料が正しければ、九反大明神、水無月太神は、一千年前の神社となる。がしかし、なぜ延喜式内社として官帳に登載されずに落ちたのであろうか。しかも、郷土でもっとも古い歴史をもつ新治郷(新沼とも)の新治のことだから、一層不思議である。 では、「九反大明神」とは、どの神をさすのであろうか。九座一神の豊宇賀能売命(豊宇気持、保食)と同神ではなかったろうか。また、この谷の奥に、日本最初の耳とうを発掘した桃谷古墳がある点などから考えても、何だか割り切れないものがある。 久次村の真奈井大明神(比沼麻奈為神祉)の一の鳥居は、九柱神社の南、新治村境にあって、神輿はここを通って、遠く菅河原の履掛明神境内の御旅所へ渡御したとのいい伝えもあるから、この式内社比沼麻奈為神社か、それとも、天正年中に、久次から吉原山下に移され、さらに赤坂へまつられたという式内社咋岡神社が、新治郷を代表した総社ではなかったろうか。しかし、一の鳥居のあったという場所は、新治の鳥居という字で、九反大明神とともにまつられていた水無月太神の神輿の渡御の道筋に当たり、同社の鳥居があったから、この字名となったのではないか、今後の研究にまちたい。 また、新治村は、天領(御料所)であった関係で、峯山藩の『宝暦明細記』の記載はない。 延享三年(一七四六、『新治村明細帳』) … 主な年中行事としては、祈年祭三月上旬、神幸祭七月三十日(水無月祭)、例祭十月十日、新嘗祭十二月中旬。 水無月祭 今から約六十年前、明治三十年頃の水無月祭(川裾まつり)の神事は、まず六月二十四日(旧暦)が、愛宕神社の祭日に当たって村は休業、その午後、村中総役で鱒留川原に仮祭場を建て、藁を敷いた上にアンペラをひろげる。六月二十八日(または二十九日)朝八時頃、九柱神社の境内の神輿の前で、御神体の遷座祭が行なわれ、神子の舞があり、御輿堂から若者十四、五人で神輿をかついで川原の仮祭場に行く。仮祭場では、神主が祭文をとなえ、また神子の舞があって、当日は朝から夜にかけ遠近の参詣者でにぎわう。人家はずれから仮祭場まで御神灯がともり、土産物店がならび、名産の「新治あめ」を売る、神輿は、翌朝の未明に若家主がかついで宮へかえったという。 その後、旧暦九月八日の九柱神社祭日にも若者がかつぐようになった。当時、川原の水無月祭場には、二抱えもある数本の老松があった。神輿はいつ頃出来たか不明であるが、震災で大破したものを、昭和二十二年七月大修理した。屋上の鳳凰は、いつの時代からか三日月に葦を配し、修理後、三日月だけが残った。 現在は七月二十九日の夕、遷座祭、翌三十日午前八時神幸祭、神輿渡御を行なう。奉仕は青壮年約五十名。行列は大太鼓、矛、神輿、宮司、供奉の順である(新治委員記)。 神にまつられた新治蔵人一族 明治十七年『京都府神社明細帳』によると、今宮の祭神は、郷主新治蔵人定照で、元暦の頃源範頼に従い、摂津の一ノ谷に平家の軍勢を攻めて功を立て、将軍頼朝から本箇(ほんこ)(新治)と大野の二荘を賜わり、建久元年夏、新治村に築城し、寛元二年(一二四四)、病没したが、里人はその徳を慕い、今宮神社にまつったという。 また、若宮神社は、定照八世の孫内蔵介照家をまつったもので、照家は、天正年中、一色義道、義俊、義清に仕え、弓木山の戦の後、新治城にたてこもり、天正十年五月二十八日(一説、九月)、討死した。里人はまた照家をうやまい、宮にまつって若宮神社とあがめた、照家の家族、郎党は、居城を捨てて加佐郡河守村に世を忍んでいたといい、天輝山浄仙寺は、その香華院であるといい伝えられている(平安の道の項参照)。 その他、社宝として、長元四年勅使が斎場で使用されたという菱形の草履、枕などがある。また、棟札があって、文化五年水無月太神、九柱大神遷宮のものであり、「安達相模謹白……丹後国中郡新沼村」とある。文化五年に、すでに九柱と称し、村名も新沼であったかどうか、再考を要するであろう。 … 〉 式内社がないのがおかしいという、しかしそれより九反が何の意味かわからない。このあたりの地名か祭神名か。この社の裏の谷が桃谷になる。 曹洞宗智源寺末仏土山十方院 建武年間に摂津国有馬郡の通玄寂霊(永沢寺開山)が分寺としてこの地に永谷(ようこく)寺を建てたのに始まるという。永谷寺は戦国の兵乱に焼かれたが、寛永年間に宮津の智源寺開山心庵によって再建され、十方院と改称したという。 天和2年(1682)の丹後国寺社帳に「洞宗新治村 十方院」とみえ、延享2年(1745)の新治村明細帳に「禅曹洞宗 十方院 但前ニハ仏土山永谷寺」と記される。 分寺の証として授けられた大蛇の鱗10枚と一葉観音が今に伝わる。一葉観音とは梛の葉で、これを病人の掌にのせると葉の動きでその生死が占われるという。ナギは蛇の古語で梛の木は蛇を連想される姿をしている。 『峰山郷土志』 〈 【仏土山十方院(じっぽういん)(曹洞宗、新治、本尊 釈迦牟尼仏)】 いい伝えによると、十方院は建武年間(一三三四頃)、今の兵庫県有馬郡小野村、永沢寺(ようたくじ)開山である通玄寂霊和尚が当地を巡り、分寺を建立して「永谷寺(ようこくじ)」と名づけ、分寺の証として、永沢寺に由緒の深い大蛇の鱗(母指の爪くらいの大きさ)十枚と、一葉(いちよう)観音を授けた。それが今、秘宝として保存されている。一葉観音とは、梛(なぎ)の葉のことで、病人の掌にのせると、この葉の動きによって、直ちにその生死が占われるという。梛の木は昔から神木とされている常緑樹である。また、参考品として、一切経の半数が保存されている。 永谷寺は戦国時代に兵乱のため焼失した。一説では、織田信長のため焼かれたともいうが、真言の関係もないようであるから、天正十年一色氏滅亡の時の戦いに、新治落城と運命を共にしたものではなかろうか。寺はその後、宮津の智源寺の開山である心庵盛悦和尚によって再建され、「十方院」と改称された。智源寺は、寛永二年(一六ニ四)、京極丹後守高広(初代宮津城主)の時の創建であるから、十方院が再建されたのもこの寛永年間であろうが、いずれにせよ、四、五十年間中絶していたことになる。また、百五十年あまり絶えていたという説もあるが、百五十年前とすると、どうも焼討ちに会うような事件が見当たらない。開山の心庵盛悦和尚は、明暦三年(一六五七)に没している。 永谷寺が最初建てられた場所は、寺谷ともいい、また、蛇塔(じゃとう)(切畑権現山の中腹)ともいっているが、寺谷、古屋敷、奥屋敷と移動して、昭和三年の震災後、再び古屋敷(現在地)に建立されたようである。 開山の没後、ちょうど三百年になるが、十方院は一子相続で、他から住職を迎えたり、また、他寺へ転住させた例はない。なお、網野離湖の曹洞宗竜献寺が没落した承応、元禄の頃、安村溪禅寺、菅村常泉寺がしばらく十方院の末寺となっていたとも伝えられる。 寺宝の中に、皇室から賜わった「薄墨の綸旨」という一札がある。これは文化三年(一八〇六)六世徳純和爾に下されたものである。 永平寺住持職事、勅請に応じ、宜しく国家安全、宝祚長久を祈り奉るべきもの、依って天気執達件の如し。 花押(書き判)の文字は読めないが、安全長久の祈願を仰せつけられた綸旨で、薄ねずみ色の大奉書くらいの純和紙(上包みも同じ)であるところから、「うすずみの綸旨」の名が出たものであろう。 十方院は、智源寺末とはなったが、開山は同じ心庵和尚であるところから、智源寺の義堅和爾は、十方院に対し「門首職の免状」をもって、末寺六十三ヵ寺中の門首職(最上位)を与えている。明治二年であるから、神仏分離がさけばれ、寺院にとっては大打撃の頃であった。 免状 当山門首のこと、先年以来、歴代各々其の志ありといえども、ついに就せず。 今般王政一新宗規確定のおりから、総本山より申し諭さるるところなり。則其の寺(十方院をさす)は、開祖古仏?履(埋める)の地なり。依って今回、門首職に任ず。しかる上は、当山の録務、加護、念祖、家訓、堅く相守るぺぎものなり。 同年十二月、十方院は常恒会助成金として二拾両を智源寺に納めており、常恒会地として、寺席の最上位にあったことが立証される。 昭和二年三月七日震災被害、全、半壊。 … 〉 《交通》 《産業》 新治の主な歴史記録『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』 〈 丹波郡 一 新治郷 四十七町二段百五歩内 十一町一段二百廿二歩 新治殿 六町七段二百廿五歩 図師分 小倉筑後守 十町 向御所 十九町三段十八歩 不知行 同御領 〉 「丹後国御檀家帳」 〈 一 にんはり 新 治 殿 御一家也城主也 御婦ハ石川殿の御しそく もたせられ候 志万源三郎殿 西 宮 蔵 人 殿 中嶋左京進殿 摩 利 寺 〆 〉 『丹哥府志』 〈 ◎新治村(峰山の西南) 【九丹大明神】(祭九月八日) 【仏土山十方院】(曹洞宗) 【加納下総城墟】 加納下総の臣中瀬兵衛、荒木左助、加納下総戦死の後長岡玄蕃頭の家臣と成る、慶長五年関ケ原の役に濃州岐阜の城に向ひ、大手の二番鎗とて福島正則、長岡忠興の為に賞せらる、又新治蔵人といふ人の塁なりともいふ。或の説に、丹後守頼景任国の頃此處に居る後に丹波の郷へうつるといふ。 【付録】(今宮権現、古代の城主を祭る) 〉 『峰山郷土志』 〈 【新治(にんばり)】若狭と山陰をつなぐ北国街道が、大野、善王寺、長岡を抜けて、鱒留川を渡って二箇に出ていた。新治は川を隔てた西の山ろくで、この街道の三軒屋から分かれた道が一直線に新治の中央に出て、嶺山、新治、二箇をむすぶ道と、今の下道(したみち)(当時の本道)に接続していた。『和名抄』にいう新治(一説、新沼郷)の新治(アラハリ−ニンハリ−にんばり)はこの村で、村の名も新沼村といったともいうが、明らかでない。明治十二年の『神社書日上』に、「京都府下丹後国中郡第二組、新沼村鎮座」とあるが、何の根拠から沼の文字を入れかえたのであろうか。 新治村は、その後、五箇の庄に属し、他村と同じく一色、細川時代を経て、慶長五年京極丹後の守高知の所領となったが、元和八年、高知の没後、遺領を三子に三分した時、鱒留、二箇とともに宮津城主京極丹後守高広の所領になり、高広は寛永二年に完成した宮津の舞鶴城に移って統治に当たった。 その後、寛文六年、高広の子高国が領没収となったため、天領すなわち幕府直轄の御料所となって、生野代官所加佐郡波美村出張陣屋の支配下に入り、同九年、宮津城主永井右近太夫入国ととも宮津領に復したが、延宝八年(一説、六年)、芝の増上寺事件で永井領は没収され、再び生野代官所与謝郡日置村出張陣屋に属し、同九年、宮津城主阿部対馬守の所領にかえり、元禄十年、城主奥平熊太郎となり、享保二年城主青山大膳亮に替わったので、新治、鱒留および二箇のうち四百二石五一四が、熊野郡湊宮代官役所にお蔵入れ、残り二百三十石余が宮津領となった。享保二十年、湊宮代官所は久美浜に移り、宝暦九年、宮津城主は本荘(松平)資昌となったが、やはり二箇村のうち二百三十石余がその所領で、二箇村残り四百二石余と、鱒留、新治両村は引きつづき久美浜代官所支配の御料所のまま「御一新」を迎えた。 明治元年五月、代官所領は久美浜県と改称され、明治二年、峯山、宮津、田辺の各藩は、藩籍を朝廷にお還えしして、それぞれ峯山、宮津、田辺藩知事(旧領主)として行政に当たり、明治四年四月、藩名を改めて県となり、藩知事はそのまま県知事となったが、その十一月、久美浜県その他を合わせて豊岡県となり、明治九年八月二十一日、豊岡県が廃止され、京都府と兵庫県に分割して吸収された。 『丹後国田数帳』には「新治郷四十七町二反百五歩の内、十一町一反二百二十二歩、新治殿」とあり、天文七年「御檀家帳』には、「にんはり 新治殿 御一家也、城主也 いまハ石川殿の御しそくもたせられ候」とあって、地名はにんはり、地頭は新治と書いて「にんはら」と読み、振り仮名をつけている。新治村の古い郷主を新治蔵人であるというが、『御檀家帳』の読み方に従うならば、ニンハラ・クランドとなり、もう少し文字を忠実に読んで、ニイハリ・クランドと呼んだのではなかったか。 新治(沼)郷の名は『和名抄』によるもので、薪治蔵人の伝記以前から存在していた。この郷名にちなんで姓や村名も生まれたとみることもできよう。。 〉 『京丹後市の考古資料』(図も) 〈 桃谷1号墳(ももだにいちごうふん) 所在地:峰山町新治小字桃谷 立 地:竹野川中流域、支流鱒留川左岸丘陵裾 時 代;古墳時代後期 調査年次:1951年(京都大学) 現 状:調査後保存 逸物保管:京都大学考古学研究室保管 文 献:C033 遺構 桃谷1号墳は、鱒留川左岸に点在する谷部の一つの丘陵裾に所在する。細い谷のかなり奥まった部分に位置し、河川および平野を見通すことはまったくできない。周辺には数基の古墳が点在するが、1号墳は独立墳的な様相を示す。地元では古くから石室の存在は知られていたようであるが、1951年、遺物の存在が確認され、発掘調査が実施された。 墳丘封土は流出しており、また丘陵裾の切り離しなどは明確に確認されず、墳丘規模は不明であるが、丘陵裾を利用して石室を構築した円墳もしく結構円形墳の可能性がある。 埋葬施設は、花崗岩の割石を用いた両袖式横穴式石室である。天井部は調査前に失われていたが、全長9.5m、玄室長4.86m、奥璧幅1.82m、前壁幅2mを測る。谷部に向かって開口しており、開口部は丘陵裾より約3.5m高い。出土遺物は、すべて石室内より出土し、奥壁付近と玄門付近により集中して出土している。 遺物 石室内出土遺物は、乳文鏡1、勾玉12、管玉9、切子玉3、丸玉33、小玉630、金銅空玉1、耳トウ1、耳環8、金銅装大刀2、鉄刀6、刀子11、鉄鏃30以上、鞍2、靭金具6.革金具7、辻金具4、須恵器70以上、土師器1など豊富である。 鏡は径8.6cmの薄手のボウ製鏡である。文様は櫛目文帯、複波文帯が見られ、内区は5個の乳に蕨手文がつく。耳トウは長さ1.4cmを測る。紺色で半透明。両端の広がった漏斗形を呈す。材質はアルカリ石灰ガラスと判断されている。金銅装太刀は圭頭金具が出土し、圭頭大刀と判断されている。 意義 桃谷1号境は、鱒留川流域に築かれた古墳時代後期の古墳である。竹野川中流域での石室調査例は少なく、特に鱒留川一帯の古墳時代後期の様相を知る上で欠かせない資料である。副葬品は多量で、装飾具が多いことが特徴である。耳トウは、古墳出土例としては珍しい。石室の様相、出土遣物の構成などから見て、6世紀末葉〜7世紀初朝に築造されたと考えられる。 また桃谷1号墳の発掘調査は、戦後に行われた本格的な発掘調査として、調査方法、記録作成など、後の後期古墳の調査に影響を与えている。さらに地元峰山高校の教員、生徒が発掘調査へ参加、協力を行い、以後の丹後地域の考古学研究活動の出発点となったことは特筆される。なお出土須恵器は、1969年刊行の『世界考古学体系』の中で「桃谷式」として紹介され、須恵器編年の型式に用いられた。学史的にも重要な古墳である。 〉 新治の小字一覧新治 荒川原 穴虫 石田 一町田 生ブ 池田 岩崎 上野 エミヤ 大苗代 大クゴ 大芝原 薪谷 大谷 川スソ 上大場 北山 蔵之谷 桑形げ 五反田 コエジ 桜木 三田長 笹カ 庄尺 下大場 下和田 水神 惣内柿 田中屋敷 立稲木 滝谷 寺谷 土中 峠山 峠 中川原 梨谷 梨子谷 乗定 八反田 姫草 深田 ボケノ木 本土中 方谷 目谷 モゝ谷 焼山 山形 六反田 和田 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 『峰山郷土志』 その他たくさん |
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