丹後の地名

杉谷(すぎたに)
京丹後市峰山町杉谷


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京都府京丹後市峰山町杉谷

京都府中郡峰山町杉谷

京都府中郡丹波村杉谷

杉谷の概要




《杉谷の概要》
峰山の、京丹後のというか、町の中心部でKTR峰山駅から市役所あたりまでの小西川谷に沿った両側で、重要な町の施設はたいがいがここにある。
北を杉谷山丘陵いい三つの古墳群がある。南に愛宕山古墳群がある。長径73メートルの円墳で四世紀後半築造のカジヤ古墳や、前方後円墳の西谷山一号墳(四世紀後半・全長70メートル)・杉谷山七号墳(同60メートル)・同一○号墳(同60メートル)・八幡山一号墳は前方後円墳で全長63メートル、三号墳は東向きの前方後円墳で全長60メートルある。八幡山古墳群は今は杉谷ではないが、山続きのものである.。谷の両側がオールマウテン、オール前方後円墳である。丹波の中心に何が眠るか、カジヤ古墳以外は発掘調査されていない、いずれもそこそこ大きな古いものである。後の丹波国造家につながっていく勢力の奥津城ではなかろうか。
安の稲代稲荷大明神・祇園牛頭天王の天正4年再興棟札に「杉谷村」と見えるが後世のものとする説もある。元禄の頃には杉谷となっている。現在、須賀神社の鎮座するあたりを須賀谷といい、これが杉谷となったとも言われる、スガは川底に堆積した砂鉄と思われ、豊富な鉄資源があったのかも知れない。あるいは安ヶ谷、スヶ谷のことかも知れない、一つ川上側に安があるが、そのスというのはソではなかろうか。
杉谷村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。峰山の城下町に続く村で、村域の一部は城下町になっている。
明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年丹波村の大字となる。
杉谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ丹波村の大字。大正7年丹波村から峰山町へ分離編入されて同年からは峰山町の大字。平成16年から京丹後市の大字。
須賀神社の案内板
↑須賀神社境内の案内板。
これによれば、当地には古来6つの鼻(丘陵が突き出した先)があった。久曾(きゅうそう)鼻は嘉吉年間(1441~44)の竹野川洪水の折、舟が九艘漂着したことにちなむと伝える、それはアテにはならないが、クソというのは久次や咋石嶽と同じクシで、クシフル鼻のことで、有田鼻とともに極めて古い地名と思われる、法華鼻には妙見が祀られていた、荒神鼻は須賀谷とも称して須賀神社がある、杉谷の起こりという、杉谷鼻は当地の中央にあって最も突出し、杉谷の代名詞ともなり、古くは須賀鼻と称していた、中西鼻は赤土粘土があって、領主・京極高之の焼物の御用に供せられていた、この焼物を道倫焼といった。有田鼻は瓜田神社が祀られていて、一色時代には藤戸信濃守の出城があったという。

《杉谷の人口・世帯数》 1104・429

《主な社寺など》

カジヤ古墳
カジヤ古墳の案内板(杉谷)
こんな案内板が立てられている↑
 〈 カジヤ古墳
 カジヤ古墳は峰山町杉谷小字カジヤに所在した古墳で、長径約七三メートル、短径約五五メートル、高さ約九メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳であった。昭和四七年二月に土木工事に伴って石室が現れ、また鏡・車輪石等の遺物が発見されたことからその存在が明らかになった。そのため峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見された。
 副葬品は第一、三、四主体部から検出されたが、このうち第一、四主体部が主要な被葬者だったと考えられ、類似したものを副葬している。特に第一主体部の副葬品は質、量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われる。
 副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなるが、特に注目されるのは、石製腕飾類が一括して出土したことで、丹後地方では初めての例である。近畿地方でも鍬形石・車輪石・石釧がセットで出土した例は少なく、また腕飾類と筒型銅器を伴出した例は当時二例目であった。腕飾類は精巧な造りで工芸品としても優れている。また銅鏡もボウ製鏡としては優品に属する。
 このようにカジヤ古墳の副葬品は畿内色がきわめて濃く。被葬者が畿内と密接な関係があったことを示している。畿内との交流
深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値は極めて高い。  〉 

カジヤ古墳峰山保育所や簡易裁判所のあたりにあった(今は消滅)、丹後最大の円墳。大きいだけでなく、丹後的ではない様子をしていた。また、当古墳の南側丘陵尾根上から、弥生中期(第Ⅲ様式)の台状墓(三基)と弥生後期(第Ⅴ様式)の方形周溝墓(二基)が発見されている。カジヤ古墳は長径73メートル。墳丘の最高所は標高56メートル余、基底部は46-47メートルの間にあり、裾部には幅3-5メートルの平坦面をめぐらしその上に約9メートルの高さの墳丘を築いた丹後最大の円墳。墓壙は主軸を東西に4基平行にあり、一基が竪穴式石室で他は木棺直葬である。竪穴式石室内には割竹形木棺が埋納されていた(昭和四七年発掘調査)。

おもな出土遺物は方格変形獣文鎮一面・石製腕飾類(石釧・車輪石・鍬形石)・筒形銅器・鍬先・剣・ガラス玉・刀子・のみ・土師高抔など。とくに鏡・石製腕飾類・筒形銅器がセットで出土しており、こうした例は畿内の古墳では少ない。副葬品は畿内色がきわめて濃く、カジヤ古墳の被葬者が畿内中心部と密接な関係にあったことが考えられる。
碧玉製腕銑類のような宝器的、呪術的なものを副葬しているのに対して、鉄器類・玉類が墳頂部から出ており、画然と分れている。石室の構造および副葬品から、築造年代は四世紀後半と考えられる。なお、筒形銅器付着の布は絹製品で、織りは平織、縦糸は横糸より太目のものを使っている。

須賀神社
旧称三宝荒神、祭神進境命。江戸時代には牛頭天王を祀った。
須賀神社(杉谷)
『峰山郷土志』
 〈 【須賀神社(無格社、峰山、杉谷荒神鼻、祭神 進雄命)】宝暦一二年(『峯山明細記』)
荒神社、境内  五間幅五間、右社持ちの祉人、神子御座なく候。
明治三年(『神社取調書』)
荒神改須賀社、(朱書)三宝荒神。
これによると、三宝荒神を明治二年六月に「須賀社」と改称されたもので、慶応四年三月の太政官告示にもとつく改正である。荒神を須賀社とした例は、安村にもあり、寛政六年十一月に遷宮した八大荒神を、やはり須賀神社と改称している。
杉谷村はもと、安村稲代神社の氏子であった。ところが稲代神社に、天正四年(一説、七年)、祇園牛頭天王を木津から勧請してから、安村祇園の名が高くなり、稲代すなわち稲荷大明神を圧倒して、稲代の氏子は祇園の氏子と、自ら誤ってしまった。
杉谷村が荒神鼻にまつったのも、この牛頭天王であり、明治維新の際、これを改修して素盞嗚命(進雄命)として氏神にした。
その後、明治九年九月、これを格づけるため、京都祇園八坂神社の分霊を勧請し、それと同時に、伏見稲荷をいただいて境内にまつった。こうして、元の氏神である安村祇園稲荷と、同じ体裁が整った。
明治十二年十二月(村総代から府へ提出した『稲荷社計立御届』)
字荒神森三九六番地、稲荷社 一間に一間二尺、荒神社 一間に一間一尺六寸、境内 一畝二十二歩。
明治十七年(『府・神社明細帳』)
無格社、須賀神社、祭神 進雄命。本殿一間一尺六寸に一間二尺、拝殿 二間に二間半、境内 五二坪 民有地第一種杉谷村共有。境内神社 一社、稲荷神社、祭神、保食神、一間一尺六寸に一間二尺…
 受持 稲代神社祠掌金田年彦……。両社とも由緒は不詳。
『杉谷村誌』によると、明治九年九月、八坂と伏見から、祇園と稲荷を勧請して氏神としようとしたが、勧請の手続が不備のため、官庁の帳簿に登録されていなかったので、やはり従来からある須賀神社が氏神となり、稲荷は境内社となったといわれている、また、追加として「猿田彦神社」があり、「社殿 二尺五寸に四尺五寸、民有地 二坪、明治十年頃、平井与右衛門、同忠治郎から村へ寄進した」ということが記されている、しかし、明治十七年『明細帳』の原本は境内神社として稲荷神社一社よりあげていないところをみると、明治十七年以前は、独立した神社であったものを、その後、寄進したのであろう。
同拝殿は、大正六年一月二十九日の大雪に倒れ、修繕の見込みなく、そのうえ参道の邪魔にもなるので、同年二月二十六日抹消を届け出て、とりのぞいた。
なお、昭和二年三月七日、震災による倒壊後の復旧については、『同明細帳』の頭注に、次のように付記されている…  〉 


堂後谷(どうごや)に中世藤戸(堂後)信濃守の杉谷城址。
杉谷丘陵西北の通称城山には中世の吉原山城の出城で、藤戸信濃守の城跡と伝える杉谷城址がある。
『峰山郷土志』
 〈 【杉谷、堂後(どうご)城趾】『丹後旧事記』に、杉山城とあるのがこれである。吉原山城に大きな出城が二つあった。東の堂後城、すなわち杉谷出城、西の安村出城(寺の城)がそれである。堂後城は、今の織元、室町の東の丘、御堂ノ尾の先端で、城主は一色方の部将堂後信濃守(一説、藤堂信濃守)といい、天正十年九月二十日、細川勢の沢田出羽守に攻められ、一端吉原山の本城に退いたが、翌二十一日討死した(『峯山旧記』)。『杉谷村誌』によると「--当時の井戸の跡が残っていた。城主の姓は藤戸であったようだが、堂後谷(どうごや)の地名を取って堂後と名付けたものであろう。…後、検校が住まったので検校屋敷ともいう」とある。御堂ノ尾、堂後谷の名は、御堂殿(全性寺参照)に関係のある名であろうか。もと、人家は、丸山や、この御堂ノ尾の丘地にあったようで、金の鎖七曲が埋められているという伝説さえ残っている。堂後から、谷を隔てて、薬師山、丸山、なりいえ、安村出城と、吉原山城東南正面の防備線が一望の中にある。  〉 

 杉谷城跡


《交通》


《産業》


杉谷の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎杉谷村(峯山の東)  〉 

『峰山郷土志』
 〈 【杉谷】吉原の庄の総社であった安村の稲代稲荷大明神および安村祇園牛頭天王再興の棟札(天正四年七月二十八日)が、偽作でないと仮定するならば、棟札に書かれている嶺山…町中…杉谷村などの名称は、天正四年前から存在していたことといえる。天正四年は一色の時代で、細川興元が吉原山城に入ったのは、六年後の天正十年であり「嶺山」の名は興元によってつけられたという。
天正四年、当時町中と呼ぶほどの市街が生まれていたかどうか不明で、こうした点からも、この棟札の偽作説が強い。ことに、慶長六年『拝領郷村帳』にも「吉原庄之内安村、西山村、小西村」とあって、杉谷村の名はみえたい。延宝八年(一六八〇)三代高明の『郷村帳』になって、はじめて、吉原庄の内を杉谷分、安分、小西分(西山を含んでいる)に区分して、慶長十三年に改出した新田を杉谷、峯山、安、小西に高入れしている。しかし慶長の頃「峯山」とか「杉谷」の名が生まれていたかどうか。峯山は、元和八年初代高道が支封されて入国したとき、嶺山を改めて峯山にしたというが、『町年寄所持古帳抜書」(『峯山古事記』付録)の中に「慶長十九年十二月納、嶺山町浦年貢帳、杉谷分六ツ八歩五厘、安村分六ツ四歩五厘」とあるから、まだ嶺山の文字が用いられていたようだし、杉谷の名も延宝八年以前からすでに存在していたことになる。杉谷はまた杉山と書かれたものもあるから、いずれにせよ杉に縁のある名称といえよう。
享保四年四代高之の『郷村帳』は、吉原の庄の庄名を用いないで、「杉谷村、峯山町村、安村、小西村小西分西山分」とし、まさ宝暦三年『峯山明細記』も吉原の庄の文字はみえない。ところが文化十三年七代高備になると、再び吉原の庄五ヵ村として、杉谷村、峯山町村、安村、小西村、西山村をあげている。しかし、享保以来、杉谷村も峯山町村もそれぞれ独立していたことには変わりない。また、杉谷が『郷村帳』の上で、吉原の庄五ヵ村に加わっていたことは、峯山市街が生まれる以前からのことで、吹矢、鉄炮町、出町をつなぐ線で、安村と杉谷村の耕地が接蝕していたことによっても容易にうなずかれよう。城趾、および峯山編入については、すでに述べたから省略する(峰山町の項参照)。  〉 

『京丹後市の考古資料』(写真も)カジヤ古墳出土物
 〈 カジヤ古墳(かじやこふん)
所在地:峰山町杉谷小字カジヤ
立 地:竹野川中流域、支流小西川右岸丘陵上
時 代:古墳時代前期後半
調査年次:1972年(峰山町教委)
現 状:消滅(峰山保育所、簡易裁判所)
遣物保管:市教委(丹後郷土資料館寄託、府登録文化財)
文  献:B001、F084
遺構
 カジヤ古墳は、竹野川支流の小西川と鱒留川に挟まれ東西に伸びる丘陵から北に分岐した丘陵上に立地する。宅地造成目的の土取作業中、石室および遺物が発見され、発掘調査が実施された。古墳時代前期の竪穴式石室1基を含む4つの埋葬施設が検出された。
 報告によると、墳丘の3分の1ほどは調査前に削り取られていたが、元々の墳丘は73×55mの楕円形を呈していたものと見られる。墳頂部は盛土が施されているが、基本的に地山整形により高さ9mの墳丘を造り出し、墳丘裾部に幅3~5mのテラスおよび幅0.3mのⅤ字型溝を施し区画されている。葺石、埴輪など外表施設は確認されていない。
 第1主体部は、埋葬施設の半分が消失していたが、残存長3.2×0.75m、高さ0.7mの竪穴式石室である。二段墓壙の壙底から基礎施設を作らず不整形な自然石(安山岩、花崗岩、砂岩)が積まれ、控え積みには大小の礫を置いている。天井石は大型の一枚もしくは二枚の板を置きその隙間を礫で埋めたもので、天井石の上部は楕円形状に礫が敷き詰められていたと考えられている。床面には、棺床と見られる掘り込みがあり、割竹形木棺と推定される。木棺内からは朱が検出され、木棺底には荒砂および小礫が検出された。
 第1主体部と主軸をほぼ平行にして南側に築かれた第2主体部は、平面規模6.34×1.6mの二段墓壙である。中央部分と西端の2ヶ所で小口壙が掘られ、棺底から凝灰岩片が2点検出されている。
 第3主体部は平面7.6×3mを測り、木棺部分をさらに掘り窪める二段墓壙である。棺は長さ4.44m、最大幅0.24mで、割竹形木棺と推定されている。棺内にはこぶし大の仕切り石が積まれ、ガラス小玉が出土した仕切り石の西側部分に東頭位で遺体を納め、東側は副室として使用されていたようである。
 第4主体部は、第1主体郡と同様、調査前に半分は失われていたが、平面5.2以上×4.1mの規模を持ち、木棺部分をさらに掘り窪めた二段墓壙である。木棺部分の規模は長さ4.7m以上、最大幅0.7mを測る。中央部と東側で朱が多く確認されている。西側が幅広く、東側が低いため、西頭位であると推測される。また、墓壙北側西隅に用途不明の柱穴が1ヶ所確認されている。
遺物
 第1主体部の棺内からは、鍬形石2、筒形銅器1が出土している。さらに、土取中の不時発見のため出土位置は不明だが、おそらく棺内からの出土と見られるものに方格渦文鏡1、石釧2、車輪石1、管玉6がある。また、棺外からは鉄剣3、刀子1、ヤリガンナ5、鉄のみ1、鍬先1、不明鉄製品1が出土している(巻頭図版12-2)。
 方格渦文鏡は、面径13.5cm、鈕孔1.5㎝、縁厚0.5㎝を測る。鋳上がりはよく、ボウ製鏡としては優品の部類に入る。
 筒形銅器は長さ12.95cm、口径2.4cm、底径3.1cmを測る。中間に突帯があり、その上下2段に2対づつ計8個の透かしがある。中央部表面に布目状有機物が、下段透かし内部に木質状有機物が残り、布で巻かれて副葬されたものと見られている。
 車輪石は長径15.7㎝の卵形を呈す。表面に凹面帯を放射線状に刻み、稜部分と凹面の中央に線を描き出す。石釧は2点ある。完形のものは外径7.4㎝、内径6.0㎝、高さ1.7㎝を測り、上半部の外側斜面に放射線状に細線をきざみ、その外側に細線をめぐらす。下半部ではくりこみが見られる。上半部に朱の付着が認められる。鍬形石は、2点あり、緑色凝灰岩製である。板状部がカープを持って張り出し、裏面中央に太い刻線があるものと、板状部があまり張り出さず、長方形をしているものである。
 鉄剣は3振あり、ほぼ完形で、長さはそれぞれ36.5cm、37.5㎝、32.5㎝を測る。
 第3主体部では、棺内からガラス小玉22、鉄剣1、棺外から刀子1、鉄刀2が出土している。
 第4主体部では、棺内から長径19.6cmの車輪石1、長さ18.0㎝と17.4㎝の鍬形石2点が出土しているほか、ほぼ棺底の位置から高杯が出土している。車輪石は第1主体部出土のものと比べやや角ばり、稜線のみが描かれている。鍬形石は板状部が張り出さないタイプのものである。
意義
 カジヤ古墳は、竹野川中統域の丘陵先端部分に築かれた古墳時代前期の不整形な楕円形墳である。緊急調査のため、出土状況が不明な遺物も含まれるが、古墳時代前期後半の竹野川流域を治めた首長墓と位置づけられる。
 墳丘は埴輪、葺石を持たず在地的要素の強いものであるが、中心的埋葬施設には竪穴式石室を採用し、石製腕飾類を副葬するなど畿内的な要素が強い。
 しかし、二段墓壙に石室を築き墓壙底をU字形に掘り窪めて粘土床を設ける要素は、幾内地方の前期古墳に類例がみられるが、棺床に粘土を用いていない点、基礎施設を設けず直接石室の石積みをする点など相違点もあり、畿内的な埋葬施設の中に在地的要素も内包している。ほぼ同時期の首長墓としては、野田川流域の蛭子山古墳(与謝野町)が挙げられる。蛭子山古墳は葺石、埴輪を持つ精美な南方後円墳を採用するが埋葬施設は舟形石棺を直葬しており、カジヤ古墳と好対照をなしている。  〉 

『日本の古代遺跡・京都Ⅰ』(写真も)

 〈 丹後の前期古墳のなかで、カジヤ古墳は、棺におさめられていた多数の碧玉製腕飾り類によってとくに有名である。その組み合わせ関係は、丹後では他に例のない畿内的なものであり、被葬者の性格を特徴づけている。  〉 

 〈 扇谷遺跡の立地する丘陵北側を東西にはしる道がある。峰山駅のほぼ正面に通じるのであるが、これを西にしばらくいくと、峰山警察署の前に出る。この南側丘陵上にきずかれたのがカジヤ古墳である。一九七二年(昭和47)の発掘調査は、土砂採取中の不時の発見によるものであったため、調査終了後に古墳は削り取られてしまった。
 カジヤ古墳は標高五七メートルほどの丘陵端部に築造された古墳時代前期の古墳で、墳丘は東西で約七三メートル、南北で約五五メートルの楕円形を呈し、高さ約九メートルの規模をもつ、丹後では最大級の円墳である。墳丘の大部分が地山を削り出すことによって整えられ、基底部に幅のせまいⅤ字形をした溝がめぐらされている。葺石や埴輪などの外表施設はみられない。墳頂部は約三八×二四メートルの広さがあり、そこに竪穴式石室一、木棺直葬三の計四基の主体部(埋葬施設)がつくられていた。
 それぞれの主体部から出土した各種の遺物は方格渦文鏡一、碧玉製腕飾り類として鍬形石四、車輪石二、石釧二、そして、筒形銅器一、管玉六、ガラス小玉二二といった宝器、装飾品にくわえて、土師器高杯や、直刀、剣、ノミ、ヤリガンナなどの鉄製武器、農工具類があわせて発見されている。こうした遺物の組み合わせ関係は、丹後ではみられないものであり、カジヤ古墳の被葬者が、古墳時代前期の段階で畿内の中心勢力とつながりをもちはじめていたことをしめす重要な資料である。しかし、古墳の構造や埋葬主体部のあり方などには、あくまでも丹後的な様相が色濃く反映されており、在地の豪族であろうと推定される被葬者がおかれていた当時の状況を考える大きな手がかりとなる。  〉 
警察署は今はここにない、交番が置かれている。京丹後市役所のその向かい南側の山裾である。

『京都考古学散歩』
 〈 杉谷山古墳群 峰山町の市街地から東方の竹野川の支流小西川の南北の丘陵は標高一○○メートル前後のなだらかな独立丘陵状を呈しているが、この丘陵上には多くの古墳が存在している。北側の丘陵にはその頂部から、南・北・東の三方へ連なる丘陵稜線上に三グループの古墳群がある。南へつらなる丘陵上にある七基の古墳を西谷山古墳群、北へ連なる丘陵上の四基を大谷山古墳群、東へ連なる丘陵上の一三基を杉谷山古墳群と名づけている。西谷山古墳群の主墳ともいうべき一号境は丘陵頂にあり、全長七○メートルの前方後円墳である。杉谷山古墳群の主墳は七号墳で全長約六○メートルの前方後円墳である。杉谷山十一号墳から土師器壷棺が出土していることや、数基の古墳の墳頂部付近から土師器片が出土している他には、これらの内部構造を明らかにするものはない。しかし、立地や墳形から古式古墳であろうと推定されている。  〉 


杉谷の小字一覧


杉谷 有田 岩垣ノ奥 糸手 石ケ下 井禰ノ尻 壱番割 井禰ノ内 石ケ鼻 岩垣 岩垣東奥 地ノ谷 糸出 イバラ山 奥ノ谷 忍鳥 扇谷 奥山 尾坂谷 奥山口 上近江 カジヤ 岸田 九斗二升 久曽鼻 久曽谷 元服田 元服谷 越首 コモ池 荒神鼻 金刀比羅裏 ホ屋ケ尾 さホ 下近江 下ノ割 砂田 杉ノ木 杉谷鼻 谷替 立長 タアガ 津久田 寺替 堂ゴヤ 堂ノ元 塔ノ入 樋田 堂ノ上 塔ノ水イリ 中ノ谷 中ノ割 中芝原 中西鼻 西谷 西谷口 舟山 備前垣 法花鼻 前田 丸山 溝谷 御堂尾 御堂ノ上 向山 向ハゲ 薬師 行政

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『峰山郷土志』
その他たくさん



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