丹後の地名

谷内(たにうち)
京丹後市大宮町谷内


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京都府京丹後市大宮町谷内

京都府中郡大宮町谷内

京都府中郡三重村谷内



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谷内の概要


《谷内の概要》

谷内(京丹後市)

三重谷でなく、何と呼ぶのか中郡中央盆地の一番の奥(南側)に位置する集落である。竹野川・国道312号・KTRが狭い谷間を並行して走り、集落は竹野川右岸山麓にある。
近世の谷内村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年からは幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年三重村の大字となる。
谷内は、明治22年〜現在の大字名。はじめ三重村、昭和26年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《谷内の人口・世帯数》 292・101

《主な社寺など》
谷内遺跡
大谷古墳
大谷古墳の案内板(三坂)


大谷古墳案内板
立て看板
   竹野川上流部の平野部を眼下に見おろす丘陵の先端に営まれた、全長32M、後円部径26Mの規模をもつ、帆立貝式の前方後円墳である。後円部の中央に営まれた組合式石棺の中から、保存状態の良い人骨一体分と、副葬品としての鏡、勾玉、ガラス小玉、剣、斧などの遺物が発見された。古墳時代中期前葉(五世紀後半)の築造になる。竹野川上流部一帯を支配下に治めた初代首長の墓である。出土した人骨は、鑑定の結果40才代の女性のものと判明、この古墳が全国的にも数例しか確認されていない「女王の墓」であることが立証され、注目を集めた。古墳は、工業団地造成事業に伴い昭和六一年に発掘調査され、調査後に削平されたが、広く一般の見学に供することになったものである。
昭和六二年一二月一五日 大宮町教育委員会 



ウソーと思わず声に出るが、誠に小さな石棺で、女王様はかわいらしい人だったよう、今の体格なら小学生の低学年から中学年くらいで、かなり痩せた子しか納められそうにもないサイズである。石材は花崗岩のようである。ガンガンと石を叩かせてもらえればよくわかるのだろうが、そうしたことはできない。しかし一代しかないのはどうしたことであろうか。


真言宗本城山岩屋寺
岩屋寺(谷内)

国道312号から、鉄道をくぐって南方へ500メートルばかり入った鳶ヶ尾という山中にある、通称坊ノ奥。山号本城山、真言宗、本尊不動明王(伝智証大師作)。
縁起や寺伝などによれば行基の開基で、行基が谷内集落より南方約1キロほどの竜洞滝で修行中、不動尊を感得して岩屋寺本尊とし、近世初期まで滝の岩上に安置してあったという。
元の寺地は現在地より西方の山奥約五〇〇メートルの所で、塔頭成就院(現成勝院)は寛永9年(1632)田辺の円隆寺塔頭成就院、宮津の如願寺塔頭成就院の開山宥栄が、三番目の成就院として造立し、それを本城七右衛門の敷地喜捨により現在地へ移したとされている。慶安2年(1649)京都大覚寺末となり、現峰山町字橋木の縁城寺とともに名刹となったという。

境内の案内板→岩屋寺の案内板  朝日山 岩屋寺
 神亀三年(七二六)僧行基により開創された真言宗の古刹である。
 爾来、今日まで千二百有余年法燈連綿として、現在に至っている。
 寺の宝として弘法大師の作と言われる五大力明王画像等の重文級のものや、源頼光の大江山鬼退治絵巻など、めずらしいものが数多く残っている。
 又、巨岩古木に囲まれた奥の院附近は、行基ら名僧の修行した白糸の滝や森林公園として景観を楽しみながらのハイキングコースがあり、日本海を眺望できる絶好の場所である。 大宮町 

山号は朝日山なのだろうか、奥に朝日山や朝日滝があるそうだが、朝日山に鬼退治伝説があり、真言宗なら金属が深く関わった寺院と思われる。

『中郡誌槁』
   (丹哥府志)本城山岩屋寺(真言宗) 本城山岩屋寺は行基菩薩の開基なり本尊不動明王は智証大師の作なりと伝ふ其傍に弘法大師の作なりとて如意輪観音並に地蔵尊あり堂の前に蔵なり蔵の内に安置奉る正観音は恵心僧都作なりとかや別に宝物とて書図の伝はるもの尠からず…略…
(村誌)岩屋寺(東西二十六間南北二十五間)面積六百五十坪、真言宗山城国嵯峨大覚寺末、開基行基菩薩、本村南の方にあり神亀三丙寅三月創立
(村誌)朝日山本村より南方十一町を隔て龍洞滝と唱へ一流二ケ所に湛て落水せり尤二丈に不満と雖も殆ど絶妙なり上の滝を昇龍と云下の滝を降龍と称す往昔行基菩薩爰に練行して不動尊を感ずる滝と云方今岩屋寺に安置する本尊正しく行基感得の像を写して自ら刻み玉ふ所なり尤寛永年中迄滝の岩上に安置せしと云即ち鋳楼堂の遺跡等判然たり
(縁城寺真言会名簿)法印宥栄(谷内村岩屋寺成就院正保二年四月二十四日)逆修
(実地調査)本寺屡火災にかかり近くは明治二十三年全焼し現今仮堂なり其時丹哥府志記載する所の観音二体とも焼失す旧記も皆無にして故事尋ぬべからず棟札も明和以前のものなし丹哥府志記載の蔵宝類は現存す然れども甚しく破損せり五大明王十六善神毘沙門天地蔵尊等観るべし外に楊柳観音(伝金岡)不動尊(智海)等あり二巻の般若経は鎌倉以後のものと覚ゆ以上の寺宝によりても当寺の由緒ある古寺なることは知り得べきに堂宇の廃頽旧記の焼失は惜むべし現寺地より数町奥を奥の院と云即ち小瀑布のある所也古へ堂は此地にありたりと云鐘つき場などいふ字あり 

『大宮町誌』
   朝日山岩屋寺 真言宗(高野山金剛峰寺) 谷内小字鳶ガ尾
本尊 不動明王
 「岩屋寺略縁起」によれば、聖武天皇の神電年中(七二四−七二八)行基が諸国巡化の際、当地の朝日山に登り大岩石の間より落ちる滝の霊地で発願し、不動明王が現れたのでこれを祀り、堂宇を建立したと伝えられ行基を開基とする。貞観年中(八五九−八七六)三井寺開山智証大師が本堂・鐘棲を、承暦年中(一○七七−一○八○)比叡山恵心僧都が観音堂および鎮守祠を造営され、その他高僧の修練の霊場であったといわれている。
 その後寺運に消長があったが、文禄二年(一五九三)領主細川忠興が丹後の真言宗の寺院を打壊した、いわゆる丹後の真言倒しに当山が難を免れたのは、深い山中の古刹であったためではなかろうか。峰山町橋木の縁城寺とともに郡内の名利である。
 田辺(現舞鶴市)の円隆寺に塔頭成就院を開山した宥栄法印は、時の藩主京極高広の信仰も厚く宮津如願寺に塔頭成就院を開山した。寛永九年(一六三二)当山に第三次の成就院を建立するに際し、当地の本城七右衛門は現敷地を寄進したので、本座を旧地より東の山麓の現在地に移して、本城山岩屋寺成就院と称し、宥栄法印を中興開山とした。慶安二年(一六四九)嵯峨大覚寺宮尊性法親王巡錫の際にその末寺となる。
 縁起によれば、宥栄法印の寛永一三年(一六三六)に本堂・山門・庫裡・鐘棲ことごとく造営するとあるが、「三重郷士志」は、同法印が寛永九年に同院に入ってわずかの年月に大伽藍が完成したと考えられず、「光研(当山一○世)見聞備忘録」の記事のように、それは草庵であり、万治元年(一二六五八)の後、二世宥瑤法印が本堂を、次の祐弁法印が庫裡を建て以後百年余りの間に大伽藍を完成させたのではなかろうかと述べている。
 再建は着手の明和六年(一七六九)(棟札)より完成の文化五年(一八○八)(棟札)の四○年間にわたっており、明和七年(一七七○)には、この再建のために、本尊不動明王を京都へ出開張の願いが、久美浜代官所に出されている。
 明治二三年七月一八日火災にて、本堂・庫裡・物置を焼失し、観音堂・経蔵・山門・土蔵は免れた。寺宝の聖観音・如意輪観音・歓喜天・大日座像等その他軸物も焼失したものが多いが、由緒ある古刹としてなお多くの寺宝がある。同四一年三月棟上げ、本堂・庫裡等再建された。
 鐘楼は二世宥瑤法印の延宝六年(一六七八)の建造で、梵鐘も同時の鋳造である。境内仏堂の観音堂は、元禄一六年(一七○三)宮津藩主奥平大膳大夫が建立し、聖観音を本尊としたが、明治の火災にて本堂に移していて焼失した。
 現住職 大同徳和
 寺宝の主なもの、本尊不動明王像・地蔵尊像・毘沙門天像・弁財天画像・五大明王画像・不動明王画像(智海筆)・十六善神画像・楊柳観音画像・菅公告文画像・不動明王画像(湛海写)・大江山鬼退治絵伝(二巻)、この内画像七幅は府の補助により修復されている。
 四月二八日はお不動さんの祭である。.

岩屋寺旧蹟 谷内小字本座
 岩屋寺は高野山真言宗に属し、朝日山成就院ともいう。本寺はもと四五町奥の小字本座にあったが、幾度もの消長を経て、寛永年間本寺中興の祖と称せられる宥栄法印始めて現在地に成就院を建立し、引続き今日に至っている。本庄の奥の院は秘境にあり、幾多の名僧の修業の場として信仰厚く、三重森本等の有志の人々が籠堂を建て碑を造って昔の記念として残している。
 奥の院
 岩屋寺から渓流を上り蒲ヶ谷口より右に登り植林の所を過ぎ行くと本座の旧蹟である。山門の石段・石垣・礎石が雑草の中に残る。さらに登ること数十間、百仞の大磐石が中空に屹立している。これを鎮座石または、臥竜石という。その右の端を村人は剣岩ともいっている。鎮座石の左側の渓谷に面して直立した高さ一○m余の巨岩があり禅定石という。貞観の昔比叡山の高僧知証大師の座禅した石と伝え、俗に智証大師の坐禅石という。当寺の奥の院開山堂はこの岩の下にあったが荒廃し、明治一九年三重の糸井左亮、森本の広野久右衛門が一宇を建立したが、間もなく岩屋寺が火災に罹り、明治二三年この一宇を移して仮堂とし、同四一年三月現在の本堂が建つにおよんで今の庫裡に充てたのである。永浜宇平はこの霊蹟の荒廃を嘆じ、また、一宇を移築して籠堂として保存に努めたがそれも荒廃し、昭和四八年一一月谷内の川村寿男により今の鉄筋木造の休憩所が寄進され、一隅に自作の観音像を安置している。
 さらに奥に進むと三段の滝があり、下の滝を降竜の滝、上の滝を昇竜の滝という。中の滝は形が変化して今は崩れている。また、上の昇竜の滝を別名竜洞の滝または、影向の滝とも呼び、下の降竜の滝を別名朝日の滝または、白糸の滝とも呼んでいる。二つの滝の間はおよそ一八m程で、影向の滝は昔行基菩薩練行の砌、生身忿怒の不動明王を拝し、恭敬歓喜してただちにその種字(梵字)を岩壁に写した所である。なお、影向とは仏がその身をこの世に現わすことをいう。… 

岩屋寺に伝わる「大江山鬼退治絵巻」の一部↓(『京丹後市の伝承と方言』より)
未完成のようで色が塗られていない部分があり、詞もない。



お寺のうしろの「崇山(あらたやま)森林公園」は、平成14年に完成した府下で一番新しい生活環境保全林だそうで、頂上の展望台からの見晴らしはよく、日本海が見えるという。林内に自然や歴史の名所(白糸滝や不動尊や牛取岩)がある。
崇山森林公園案内板

『大宮町誌』
   崇が峰遊園地  谷内小字鳶ケ尾
 谷内の岩屋寺奥の院に近く、その北側の川に崇が峰遊園地がある。崇が峰は標高三四三mの山であるが、遊園地はその中腹に設けられている。この川は別名荒田山とも書き雅名を見鏡山・美鏡山・鏡山ともいうが通称鳶ヶ尾の別名である。
 崇が峰遊園地は展望広く開け中郡平野を一望のうちにおさめ遠く日本海の水平線を望むことができる景勝池である。南には百仞の巨巌(乾坤岩)が聳え、その巌上より落ちる竜炎の滝はあたかも銀河九天より落ちる趣きがある。乾坤岩は高さ一五m、幅三三m、厚さ一○mの岩であり、附近に奇岩牛食い岩もある。少し下ると旧岩屋寺の鐘楼趾・奥の院等も近く、霊域不動明王鎮座の影向の滝および白糸の滝があり、往昔行基菩薩その他の高僧練行の聖地である。かように眺望佳絶しかも聖地に近く、心身共に洗い浄められる遊園地である。崇が峰という名について一つの伝説がある。この山は古く無辺身菩薩が祀られていて霊威崇かであった。奈良朝の昔麿子親王が丹波丹後の凶賊土蜘妹を退治するため三坂の横枕を通過しようとした時、その馬が尻ごみしてどうしても進まなかった。そこで従者の干塩が無辺身菩薩の霊威と感じ急ぎ馳せてこの像を麓の開山堂に移し、その視線より避けたので漸く馬が進んだという。この故事により爾来人々はこの山を崇が峰と呼んだと「三重郷土志」は伝えている。
 昭和四八、四九二ヶ年にわたり、谷内清掃事業団の手により山を伐り開き、桜・紅葉等を植樹し、見晴らし台・散策道等も整備されたので素晴らしい遊園地となった。かくして大宮町の人々はもとより近郷の人々の最適のハイキングコースとしてここに来遊する者年毎に多きを加えている。 


北方の字鶴ケ岡に鶴賀城祉、城主は山口右馬之丞。
『中郡誌稿』
   (村誌)山口右馬之丞城墟 天正年中の頃迄之に居し本郷の守護たる由本村北の方字鶴ケ岡にあり此地東方に突出の切岸あり頂上に平面あり又御殿の跡と称する所あり平地にして面積百七坪余あり此外南屋敷二番屋敷三番屋敷四番屋敷と称するあり或は貮百坪又は八拾坪あり此四番屋敷の内に鶴ケ井と呼ぶ冷泉あり去る弘化年中の頃迄は水底五丈余ありたりとぞ現今埋もりて一丈五尺余周囲三間也且此池の寅の方森山の周辺に水途あり十町余此水域内外に巡り平日の用水なりとぞ又西御殿と称する地あり平坦にして百四拾坪余あり此屋敷の内坤に森ありて五輪の塚あり往古より今に至るも村民此森に入らず若し入る時は忽ち病を発すと云其北に北屋敷といふあり是は老臣川村経基の館跡と言伝ふ平坦にして面積百六拾五坪余あり同西に連り切岸あり平面にして貮百坪余あり其麓に川村氏の墳墓あり又同し亘りの南渓に亀ケ井といふあり現今池となりて里民の用水とす凡ひ旱天にも不蓋池底七尺周り一丈五尺且つ此水今に至りて不浄の輩汲用する時は俄然として濁水に変し其日不清云々
(実地聞書)本村に本城といふ旧家ありて今は廃絶に帰したれどももと谷内城主の家なりしと云此家より会て本郡赤坂村田中氏へ養子に来りしものありて祐天上人筆の南無阿弥陀仏の一小幅を伝へたりと 


若宮神社
若宮神社(谷内)

奥大野の若宮神社の分社という。
案内板↓若宮神社案内板   若宮神社(元村社)
祭神 若宮比売命
 当宮、若宮神社は江戸時代の中期、宝永五年(一七〇八)に谷内、奥大野村界の鍜冶屋の地(谷内小字カジヤ壱五番地)に奥大野より若一王子権現を分宮して、分宮(わけのみや)と称し、遷座し祀ったとされている。若一王子権現の本地は熊野権現で、その神は伊奘冊命、事解男命、速玉男命の三神である。権現号を廃した明治初年(一八六八)に、若宮神社と称し、若一王子を改めて女性の神、若宮比売とした。若宮比売は五穀豊穣の神豊受大神である。
 天保十二年(一八四一)と安政二年(一八五五)に社殿の補修と再建がなされた。その後、鍜冶屋の社地は村落から遠いため、現在地の小字網代(壱四六番地)と隣接地を新社地として、明治二十八年(一八九五)三月に上屋を建築し本殿をこの地に遷座した。
 百余年の歳月を経たこの社殿も、老朽化が激しく、氏子より再建の気運が高まり平成五年(一九九三)伊勢神宮遷宮に伴う古殿舎材の一部を平成六年(一九九四)に譲り受けた。平成十年(一九九八)十一月建設委員会を設立し、平成十二年(二〇〇〇)五月に着工した。
 土地造成、石段等の改修を行い、神殿は伊勢神宮の譲受材を使用して修復、復元した。本殿、御輿藏、稲荷神社、秋場神社、手水舎、案内板については、谷内区所有の檜材をもって全面改築し、平成十三年(二〇〇一)十一月正遷座祭を執り行い、完成するに至った。 


《交通》


《産業》


谷内の主な歴史記録


『丹哥府志』
   ◎谷内村(常吉村の東、是より三重村へ出る)
【若一王子権現】(祭七月廿日)
【本城山岩屋寺】(真言宗)
本城山岩屋寺は行基菩薩の開基なり。本尊不動明王は智証大師の作なりと伝ふ、其傍に弘法大師の作なりとて如意輪観音並に地蔵堂あり、蔵の内に安置し奉る、正観音は恵心僧都の作なりとかや、別に宝物として書図の伝はるもの尠からず。
宝蔵目録
一、五大明王(弘法大師)。一、十六善神(理満七郎)。一、大般若経第五百九十三巻(弘法大師)。一、仝 第五百八十八巻(武蔵坊弁慶)。一、不動尊(生駒宝山)。一、菅公告文之像(狩野山楽)。一、毘沙門天(宅摩法眼)。一、地蔵尊(石山観賢)。一、弁財天(巨勢金岡)。一、不動尊(覚?上人)。一、頼光妖賊退治の図(巻物二軸) 

『中郡誌稿』
   (実地聞書)川口氏曰く慶長以前には谷内奥大野などの名見えず蓋し同一区なりしならんと按するに谷内は今三重村に属するも地勢大野に続けり或は其説の如くならん又曰く口大野は三百年以後に奥大野より出たるものと言伝ふ或は然らん歟と是又村誌記事に参考すべし 

『京丹後市の考古資料』
   谷内遺跡(たにうちいせき)
所在地:大宮町谷内小字松葉崎ほか
立 地:竹野川中流域右岸扇状地
時 代:縄文時代早期、弥生時代後期〜鎌倉時代
調査年次:1985年(府センター)、1987年(府教委、府センター)、1990年(府教委)
現 状:調査範囲は消滅(ほ場整備)
遺物保管:府教委、丹後郷土資料館、市教委
文 献:C057、C058、C064、C067、C080
遺構
谷内遺跡は、竹野川右岸、中郡盆地の最南端、竹野川中流域の扇状地上に立地する遺跡である。府営ほ場整備事業に伴い発掘調査が実施された。
 検出した主な遺構は、弥生時代後期の円形竪穴住居跡1棟、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての流路跡および古墳時代中期の竪穴住居跡群などである。円形竪穴住用跡は、直径7mを測り、屋内に4本の柱を設置し、中央に土壙を配置する。出土した遺物から後期後半に放置づけられる。古墳時代中期の竪穴住居跡SH15は、4.6×4.9mの方形の平面形をもつ。主柱は、4本と考えられる。床面から遊離した状態で、完形の一群を含む土師器60個体が出土した。
遺物
 縄文時代早期から平安時代まで多岐にわたる。
 縄文時代早期の押型文土器が23点以上出土している。文様には、山型文、楕円文、菱形文が認められる。内面には、条線があり、早期末葉に位置づけられる高山寺式土器である。このほか、採集資料として、安山岩製の局部磨製石斧(1)がある。
 流路跡からまとまった遺物が出土した。下層からは主に弥生時代後期の遺物(8〜18)が、上層からは古墳時代前期を含む遣物(19〜24)が出土している。8は、約半分が折損する木製穂摘具である。
 SH15の埋土からは、丸底壷、球胴の甕、高杯をはじめ多数の土師器(25〜38)が出土した。壷、甕の器壁は厚い。
 このほか、平安時代の椀に『冨』の墨書を残すもの(39)や鉈尾などがある。 



谷内の小字一覧


深田 細長(ほそぼそ) 能代(のうじろ) カジヤ 宮ノ谷 網代(あみたい) 高砂(たかさご)広尾(ひろお) ヒラス コモ谷 寺ノ岡 トヒケ谷(とひがたに) 坊ノ奥 トビガラ 矢谷(やだに) 東ノ奥 和田森 和田溝尻 ジヨナカ鼻 和田森上 アラタ 蒲(がま)ケ谷 本座(ほんざ) ササ畑(ばた) ハゲノ下 釜ノ谷 堀ノ谷 ヒヘラ谷 鯉首(こいくび) ロンデ セバト 寺ノ下 西の奥 高畔(たかあぜ) 片木山(かたぎやま) 小座(こざ)ノ谷 サイ向 後ノ谷 山添谷 寺ノ道 ヤクラ鼻 山添 高場(たかば)ナヘ 石原(いしわら) 下坪(しもつぼ) 前垣 明(みょう)ケ谷 丸山 ナマス釜 栃谷 竹原 アンハカ谷 アミカケ 早竹(はやたけ) 筈(はず)ノ木 湯ノ口 家の前 明神 石町 嶋崎 カニミゾ コザコ 古苗代 外和崎(そとわざき) 縄畔(なわあぜ) 藪の下 嶋皆(しまがへ) 砂原 竹ノ下 大田 塚本 平田 古川 中田 松葉崎 出合 塩前(しょうぜん) 大川原 向川原 石堂の下モ 泊り掛 トレノ岡 ダケ ゴハ谷 鳥ケ奥 タン 若宮 椎ノ木 柿ケ谷 申(さる)ケ谷 足が谷 石原谷口 石原谷 向ノ岡 溝江(みぞえ) 小林口 小林 森屋 前がへ 清水谷 後地(うしろじ) 清水 山ノ口 世戸(せど)ケ谷 小谷 山ノ口大谷 モモ栗谷 寺の谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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