丹後の地名

等楽寺(とうらくじ)
京丹後市弥栄町等楽寺


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京都府京丹後市弥栄町等楽寺

京都府竹野郡弥栄町等楽寺

京都府竹野郡弥栄村等楽寺

京都府竹野郡溝谷村等楽寺

等楽寺の概要


《等楽寺の概要》



東楽寺とも書かれる、旧弥栄町の中心・溝谷から府道53号線(網野岩滝街道)に沿って東側へ入った集落、金剛童子山(613m)の南西麓、溝谷川上流域に位置する。等楽寺という七仏薬師の古刹があり、等楽寺の門前村として発達した。
当村にはかつて11の枝郷があって山間部に散在していたが、明治中頃までに岩野(いわの)・ミイガクゴ・芦谷(あしだに)・二俣(ふたまた)・オサズが、昭和20年以降六谷(ろっこく)・中尾引(なかおびき)・吉津(よしづ)・畑(はた)・高原(たかはら)などが廃村となり、現在堀越(ほりこし)の集落だけが残る。
近世は、等楽寺村で、江戸期~明治22年の村名。枝村に堀越などがある。宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年溝谷村の大字となる。
等楽寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ溝谷村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。


《等楽寺の人口・世帯数》 104・40


《主な社寺など》

金剛童子山
金剛道寺山(溝谷満願寺より)
標高613・4メートル、竹野郡第一の高山で、丹後半島のほぼ中央に位置する。別名熊野山。東麓を字川の上流野間川の急流が流れ、西麓には船木・溝谷・等楽寺の集落が点在し、竹野川流域の平野が開ける。北は来見(くるみ)谷を挟んで小金(おがね)山、南は高尾(たかお)山が続く。
役小角が修行したと伝え、修験道の行場があった。登山路は役行者が山を開いた頃草庵を結んだ所とされる上山寺が基地とされ、往古修験系寺院二十数坊を数え、丹後町との境界の吉野山から金剛童子山への修行路が開かれていたと伝わる。

『丹哥府志』
 〈 【金剛童子】(霰村の西)
往昔役小角丹後に於て業を勤められし跡と申伝へて、大和の業場と略相似たる所あれども、慥に記したる記録もなければ、後の世に擬して拵へたるものかも斗り難し、されども上山寺の開基より率合すれば殆ど千年余りにもなるなり、且記して後の考証に備ふ(宇川の庄上山寺条下を参考にすべし)。
 金剛童子道筋
上山(宇川の次、久僧村より南の方山に登る凡一里余吉野山上山寺といふ寺あり、上山寺条下に詳なり)吉野(紅葉のよし野といふ、上山寺より一里斗もあり)霰村(吉野村より霰村へ下る)。宮川(霰村の西南、是より又山に登る)。休堂(宮川の上、此處に古代五輪石灯篭かと覚敷もの数多残る)。かねかけの業場(休堂より五十丁斗登りて此業場に至る、此上にかねかけ松あり)。御手洗の池(かねかけより五十丁斗登りて池に至る、池の広サ五、六間四面もあり、諺に此池を汲めば必ず雨ふるよって旱する時は村人此池に来りて雨乞をなす)。行者堂(三間四面、昔の本尊洞養寺の納む)。西の業場(堂の西南にあり、縣崖数十丈の上に突出したる大なる岩あり、岩の端へ出て数千丈の下を覗く、心不正の人は必ず責を蒙る、是を以て業とす)。  〉 

行者堂は七堂伽藍を完備したが、天正頃細川氏の真言倒しで空海作の仏像一体を須川の洞養寺に移したといわれ現存する。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 金剛童子 直立二千〇三十四尺郡内第一の高峰にして往古は霊場として噌へられ中腹には宇多天皇の朝僧行恵禅師の開基なりと称する生蓮寺の廃墟あり
(宇川上山寺記)昔役の小角野間の庄今の金剛童子に業場を開きし頃草庵を結びし處なり云々以上の外トウキンガ岳は直立二千尺、ハトガが岳は一千三百尺あり  〉 

『弥栄町史』
 〈 金剛童子山
海抜六百十六メートル、郡内有数の高峰で、昔霊場として唱えられ、中腹高原部落には、宇多天皇のころ(千八十年前)僧行恵禅師の開基なりと伝える生蓮寺跡があるが、今はただ観世音菩薩を祀るお堂を残すのみである。
頂上には役の行者小角が行場を開いた跡という所に一つのお堂がある、ゆえに一名行者山ともいう。中竹両郡及び日本海の一部を一望のうちに納め、眺望絶佳の仙境で、石南花その他高山植物が群生している。ここの楓は欠刻が九つで、他に類のない羽扇状の楓である。
高原部落安達克之氏所蔵の、高原山生蓮寺由緒記によれば、
「当国船木の庄高原山生蓮寺は、其の濫觴を窺がうに、人皇五十九代宇多天皇の御宇、中郡三重の城主大江越中守成吉公、常に観世音菩薩を信仰し、供花唱念の勤めを怠らなかった。或夜夢のお告げで、高原山は救世大悲有応の霊区也。汝、等楽寺行恵禅師と共に、寺を開基せば末代の利益広大ならんと。夢覚めて奇異に思い、直ちに行恵禅師の元に至り、此の事を告げたるに、禅師驚きて曰く、我れ亦同じ夢を見たと。そこで相携えて高原に登り、実地踏査されたるに、沢ありて多くの蓮の花が咲いていた。山の状態は広遠で、下界を見下し峻峰小原山に続き、眺望極めて良い。成吉公弥々浄信の念を増し、土民を励ましその成功を急がれたが、久しからずして、五間四方の堂宇を建造し、僧房浴室等も落慶した。多くの蓮自然に繁茂するに依って、生蓮寺と名づけ、地名に基いて高原山と号し、救世の霊告に因て観音院とも名づく。則ち尊像を安置し供養の法会を営む。禅師住して此に止まり、朝夕勤行怠らず。天下太平、風雨順時、百毅豊饒、万民快楽の御祈願をされ、その霊験日に月に顕れ、大悲の慈光普く輝す者なり。
由緒此の如しと雖も、年月移り変り兵乱等のため屡々炎上し、唯大悲の尊像のみ現存す云々」
とある。
古くから有名な観音院であったが、宮津城主の指示により、この所にあった大水鉢を成相山に移したのが、今なお現存している。  〉 

『西丹波秘境の旅』
 〈 丹後の金剛童子山は、よく鉱山に祀られる金剛童子を祀るが、この山は砂鉄の産地である  〉 


曹洞宗 太平山等楽寺 
等楽寺

本尊薬師如来。開山中興は法運。
往古は大伽藍を備えた真言宗寺院であったという。七仏薬師の一と伝わる。
『宮津府志』
 〈 太平山 等楽寺   在竹野郡等楽寺村
  禅曹洞宗 智源寺未
 本尊 薬師如来   中興開山法運和尚
  按スルニ当寺本尊又七仏中之一也説見ユ上ニ。相ヒ伝フ当寺ハ往古大寺伽藍之地也。寛印供奉等之碩徳来住于此則古者密宗ニ一而中古以来爲ユ禅刹ト歟。  〉 

『丹哥府志』
 〈 【太平山等楽寺】(曹洞宗)
寺記云。太平山等楽寺は寛印供奉掛錫の地なり、依て寛印供奉を中興開山とす、本尊薬師如来は七仏薬師の一なりといふ。昔は大伽藍なりしよし寛印供奉などの住寺掛錫せられし事もありと伝ふ。  〉 

↑等楽寺縁起

↑紙本着色等楽寺縁起
いずれも『京丹後市の伝承・方言』より。
等楽寺縁起は、麻呂子親王が与謝山の鬼神退治の祈願に七仏薬師尊像を造仏、その霊験と親王の武勇で鬼神はことごとく消滅したので、のち七仏薬師を本尊とし七ヵ寺を建立し、等楽寺はその第五番となったと伝える。
しばしば火災にかかり、現在の堂宇は明治13年の再建。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 等楽寺 曹洞宗 等楽寺区にあり
 (丹哥府志) 太平山等楽寺 曹洞宗
  寛印供奉掛錫の地なり、よつて寛印供奉を中興開山とす、本尊薬師如来は七佛薬師の一なりといふ、昔は大伽藍なりしよし、よつて寛印供奉などの住寺掛錫せられし事もありと伝ふ、
 (同寺調文書) 用明大旦の皇子麿子親王の開基せられしものなり、屡々火災に罹れり、現今の堂宇は明治十三年の建立にして七佛薬師如来を安置す、  〉 

『弥栄町史』
 〈 太平山等楽寺 字等楽寺
本尊 薬師如来 曹洞宗
丹哥府志による(竹野郡誌所載)と、
「寛印供奉樹錫の地なり。よって寛印供奉を中興開山とす。本尊薬師如来は、七仏薬師の一つなり」
と。同寺に伝わる縁起書によれば、
「用明天皇の皇子麿子親王、当国與謝山の鬼神退治の勅命を受け、軍兵を率い発向、丹州竹野郡に至る。親王自ら七仏薬師の尊像を作り、鬼神退治を祈念し給う。茲に霊験現れ、親王の武勇により鬼神悉く消滅し、人民安穏に居住す。其後七仏薬師の像を本尊となし、七ケ寺を礎立し給う。当寺は第五番なり」。
ゆえに当寺は麿子親王が開基されたようである。
その後しばしば火災に罹り、現在の堂宇は明治十三年再建されたものである。  〉 

成相寺(現宮津市)にある鋳造湯舟はもと当寺にあったものとされ、縁城寺年代記(縁城寺文書)に「正応三年四月竹野郡等楽寺湯舟、七月興法寺湯舟鋳造 大工山川貞清」とある。
成相寺の湯舟
『宮津市史』
 〈 鉄湯船
            一口  字成相寺  成相寺
 鋳鉄製 径一六九・五 高六六・五センチ
 鎌倉時代 正応三年(一二九○)    重要文化財
           一口   字文珠  智恩寺
 鋳鉄製  径一七二・五 高六三・五センチ
                    重要文化財
 鎌倉時代 正応三年(一二九○)
 現在それぞれ手水鉢として使用されているが、本来湯船として制作されたものである。湯船は寺院の大湯屋において寺僧の施浴に用いられたものである。
 成相寺および智恩寺に所蔵される二口の湯船は、ほぼ同形同大で、鋳鉄製、口縁部に鍔をつけ、底部をわずかに細くした盥形で、底部中央に流口の穴をうがっている。
 内側面にそれぞれ鋳出銘があり、成相寺のものには
  丹後国船木庄
  等楽寺温屋
  御鋳大工山河
      貞清
  正応三年
 庚寅卯月日
 大願主
 物部家重
一方、智恩寺のものには
 興法寺
  湯船鋳畢
 右以大願主并
 十方檀那之合
 力所鋳舩如件
  正応三年庚寅七月廿日
  大願主□□□□
  大工山河□□
  毎月八日阿□心経
  大願主□□□
とある。これによって、成相寺のものは弥栄町等楽寺、智恩寺のものは同興法寺の旧蔵であったことが知られる。ここにみられる大工山河貞清は、一族とみられる大工山河貞継が元亨四年(一三二四)に播磨書写山円教寺の焚鐘を鋳造した際、「河内国」と称していたことが記録されていることから、河内鋳物師と考えられており、このほかに正応五年(一二九二)に慈光寺の鐘を鋳たことが銘文から知られ、また『醍醐寺新要録』には、永仁四年(一二九六)に醍醐寺の焚鐘を鋳たことが記されている。
 鉄湯船は、ほかに建久八年(一一九七)銘の東大寺大湯屋のものが知られるだけで、これらは中世鋳物資料として、極めて貴重な遺品である。  〉 

『宮津市史』
 〈 寛印供奉          字中野・大乗寺
寛印供奉丹後に来る。はじめ山城の国桂の里に於て、婦人の丹後に帰るに逢ふ。寛印供奉其艶色に迷ひ、遂に戒を破り其婦人を携へ、与佐郡波路村に来り住す。寛印供奉後に其非を悔ひ、偽て病と称し穀を絶す十余日。一日婦人に告て曰。予の病殆ど危し。今服せんと欲するものは唯枳木貝(けんぼなし)のみ。其枳木貝といふもの黒崎山といふ処にありときく。よく吾為にとり来れといふ。婦人喜んで黒崎山に赴く。寛印供奉其不在に乗じて懺悔を語り、村の人に寛印供奉既に死したりと偽はらしめて、魚祭魚(このしろ)を焼き火葬の体をなす。寛印供奉は是より遁れて、竹野郡等楽寺といふ寺に隠れ居る。後に大乗寺に来て伽藍を再建す。かの婦人は黒崎より帰りて寛印供奉の既に死したるを怨み、遂に与佐の海に溺れて死す。一説に、其婦人は与佐の海の悪龍なり。其龍婦人に化して寛印供奉の障碍をなせりといふ。  (丹哥府志)  〉 

生蓮寺廃寺
廃村となった高原に寛平期開基と伝える生蓮寺があった。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 生蓮寺  等楽寺区小字高原にあり
 (溝谷村誌稿) 宇多天皇の朝、行恵禅師の開基にかゝり観世昔菩薩を安置す、今は僅かに其堂宇を存するのみ、  〉 


『弥栄町史』
 〈 生蓮寺 字等楽寺高原
宇多天皇の御代(千八十年前)、行恵禅師の開基で、観世音菩薩を安置している。
従来無住で地元部落で管理してきたが、高原部落全部離村し、今はただ堂宇を残すのみである。  〉 


字家の上に一色氏部将伊藤弥左衛門の等楽寺城址。

『弥栄町史』
 〈 等楽寺城
字等楽寺小字家の上にあり、二層よりなり上層平地も極めて狭く、小規模のものである。現在水道貯水揚となっている。丹後旧事記によれば、「等楽寺城主 伊藤弥左衛門とあり、日置城落城後茂呂介之進一族同居す」とある。  〉 


《交通》


《産業》


等楽寺の主な歴史記録


『丹哥府志』
 〈 ◎等楽寺村(外村の次)
【大宮大明神】
【太平山等楽寺】(曹洞宗)
寺記云。太平山等楽寺は寛印供奉掛錫の地なり、依て寛印供奉を中興開山とす、本尊薬師如来は七仏薬師の一なりといふ。昔は大伽藍なりしよし寛印供奉などの住寺掛錫せられし事もありと伝ふ。
【伊藤彌右衛門城墟】
○堀越村(等楽寺村の端郷、是より久住村へ出る))  〉 


等楽寺の小字一覧


等楽寺(とうらくじ) アカダニ アナヂゾウ アシダニ イネノウエ イエノシタ イブネ イケノオク イケノシタ イケノムカイ イエノウエ イジンボ イジリダニ イシハラ イノオク イエノムカイ イチオダ イエノウシロ イエノマエ ウリヤブノ ウシロガタニ ウマセ ウエジ ウスガタニ オクジ オサツ オテトウラク オテダニ オオムカイ オカダ オバラサカ オカガキ オオハタ オオシモ オオサキ オクヤシキ オテ オオモン カメイシ カワラダ カンジヨノ カキモト カマガタニ カジダニグチ カジダニ カジヤダニ カンドウデン カワクゴ カワラジ カツラダニ カキノキダニ カミタカハシ キヨウダ キモリ クロダニ クマタニグチ クマタニ クソガユリ クバラグチ クバラ クロユワ クロタキ クチジ コンジンデ コダ ユキハタ コンゴオザン コシマエ コバヤシ ササハラ サイデン サイノモト ジゾウガオカ シモカワハラ シロノシタ ジヨウブダニ シモタユリ シンベエダニ シミズノシタ シミサガムカイ ジヨオデ シタグラ シングウデン シモガキ ジヨウデサガ シイノキ シイノキムカイ シヨウブ シンガオ シミズノウエ ジントウマエ スガマチ ソオモン タニジ タニジグチ タカハシ タニジリ タキミチノシタ タニノオカ タノシタ タキノウエ タキダニ タニノキリ タキノオク タニジオカ タカハラザカ タカハラ チオシガグチ ツカダニ ツチザコ ツボタニ テラノシタ テラノウシロ テラダニ トヨガタニ トクワ トウラクノウエ トヨガタニ トオゲ ナカノ ナカノガキ ナルダ ナカノトシ ナハテ ナカジマ ナカオビキ ナカセ ナシノキダニ ニシガオカ ニタンダ ヌマノタニ ヌマノタニグチ ハシギダニ ハサゴ ハナ ハトカ ハタ ヒエダニ ヒロハタ フダバ フタマタグチ フナサカ フルシエ フカゴ フルヤ フルヤオカ フタマタ ベツソウ ホソダ ホオソオヤマ ホンドウ マンバ マエダ マガリ ミイガクゴ ミゾグロ ミカンダニ ミカンタニツボ ミヤノタニ ミヤノシタ ミヤガナル ミヤノオ ミズノオテ ムカウノボリ ムカイジ ムカイヤマ ムカシマタ モリノシタ ヤダニ ヤダニグチ 池ノ上(いけのうえ) 池ノ間(いけのま) 奥屋前(おくやまえ) 滝ノ口(たきのぐち) 滝ノ下(たきのした) 巌平(ダケヘイ) ホホヅキ ミカガツボ 岩野(ユワノ) ユワノシタ ユリガオ ユリノシタ ヨシズ ヨドノマエ ヨシマエ ヨスキガオ レンバ ロハザコ ロクマエ ロツコク ロツコクザカ 

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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