丹後の地名

和田野(わだの)
京丹後市弥栄町和田野


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京都府京丹後市弥栄町和田野

京都府竹野郡弥栄町和田野

京都府竹野郡
弥栄村和田野

京都府竹野郡鳥取村和田野

和田野の概要


《和田野の概要》



竹野川西岸の旧弥栄町に入ったところの広い集落、丹後織物工業組合・丹後織物信用組合・丹後中央信用金庫弥栄支店などがある。旧弥栄町と旧峰山町にまたがる背後の丘陵部には大田南5号墳など多くの古墳が分布する。
往古は恒枝・吾野とも呼んだという。氏神・春日神社(旧称・椙森神社)の長享2年の記録に「竹野郡恒枝保」と見える。地名の由来は大永年間当地に居城を構えた和田野大和守にちなむという。
近世の和田野村は、江戸期~明治22年の村名。宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年鳥取村の大字となる。
和田野は、明治22年~現在の大字名。はじめ鳥取村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

《和田野の人口・世帯数》 788・268

《主な社寺など》
丹後王国の道
大田南古墳群から遠所遺跡へ続く府道を「丹後王国の道」と呼んでいるが、その西側の丘陵上は全国の注目を集めた遺跡や古墳がゴロゴロしている、古墳時代初期の王を葬った「王家の丘」である。

 竹野川西部の丘陵には約2㎞にわたって北から板野・寺谷・愛宕山・古天王・柿のさが・太田古墳群・大田南古墳群や遺物散布地が分布している。
王家の丘
青竜3年鏡(5号墳出土)
この尾根は「王家の尾根」とか呼ばれる。たいして広い尾根ではないが、この丘陵は栄光の丹波王朝の「高天ケ原」か「黄泉の国」か、記紀神話では死者の国は地下世界だが…。それにしても荒れ放題のひどい状況のよう、もうすこし大事にしたい。

当地出土の「青龍三年銘方格規矩四神鏡」。直径17.4㎝。同笵鏡があと2面見つかっている。
青龍3年は卑弥呼朝貢の景初2年(238)より4年早い年号である。

大田南古墳群
坂野丘遺跡


春日神社(旧名・椙森神社)
藤原氏が入っているのだろうか。ここもそうだが天児屋根命が付近のあちこちの神社で祀られている。鉄支配で入ったのかも知れない…
春日神社(和田野)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 春日神社 村社 字和田野小字上地鎮座
 (神社明紳帳) 祭神 天津児屋根命
 創立不詳、宝暦九辛酉年八月慶応二丙寅年再建、該社前古は同郡鳥取郷八ケ村の氏神なりしが、其村々遠隔なるを似て分離せしと云其年暦不詳、其當時神輿渡御有しと見えて近傍に神幸所あり、方今人家十戸許稠密せり、今に至りて此地を穢す事を禁すとて、該戸の者共自宅にて産することをせざるなり
明治四十三年四月十二日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる
  按、同神社神寶の箱書に椙森神社長享二年三月十六日竹野郡恒枝保とあり、故に往古は椙森神社といひしものと見ゆ、
  一社  殿  梁行一間一尺   桁行一間一尺五寸
  一上  屋  仝 三間一尺五寸 仝 四間 五寸
  一籠  屋  仝 二    間 仝 三   間
  一境内坪数  千百二十三坪
  一氏  子  百二十八戸
  境 内 神 社
   須賀神社
    祭神 須佐之男命
    創立不詳、天和三癸亥年十一月再建
   稲荷神社
    祭神 倉稲魂神
    安永六酉年九月
   保食神社
    祭神 宇気母智神
    創 立不詳
   宇賀神社
    祭神 豊宇賀乃売神
    創立不詳  〉 

『弥栄町史』
 〈 春日神社  字和田野小字上地鎮座
当社は昔鳥取郷八ケ村の氏神であったが、その村々が遠隔であったからそれぞれ分離したものという。当社の社宝の箱書長享二年三月十六日(約四百八十年前)竹野郡恒枝保椙森神社とあり、それで和田野は昔は恒枝保といい神社は椙森神社といったようである。現在神社の近くに神幸所の跡と言われる所がある。今は人家が密集しているが、神聖な場所としてこの地を穢すことはできないと出産を禁止したという言い伝えが残っている。
明治四十三年四月十二日神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定された。
社殿 梁行 ニメートル十ニセンチ
   桁行 ニメートルニ十七センチ
上家 梁行 五メートル九十センチ
   桁行 七メートル四十センチ
籠堂 梁行 三メートル六十三センチ
   桁行 五メートル四十五センチ
境内坪数千百二十三坪
氏子百三十余戸とある。
境内神社
須賀神社 祭神 素盞嗚命
創立不詳であるが牛の神として名高く一月十八日の祭日には遠近からの参拝者がすこぶる多い。
稲荷神社 祭神 稲倉魂神
創祀安永六酉年九月(百九十年前)

保食神社 祭神 宇気母智神
創立年代 不詳
若宮神社 字鳥取宮の森鎮座
神社明細帳によれば、
祭神 天種子命
創建不詳元禄年間再建
この御神は当村氏神天児屋根命の御子神につき勧請せしもの也とある。

秋葉神社 字鳥取小字稲葉鎮座
祭神 秋葉大権現
創立不詳鎮火の神として遠州総本社から勧請した神である。
天武神社 字鳥取小字宮の森鎮座
創立祭神ともに不詳
愛宕神社 字木橋小字西谷鎮座
神社明細帳によれば、
祭神 迦具津智神
寛政巳酉年十一月十七日
山城の国愛宕神社より神璽を勧請し鎮祭するものなりとある。
愛宕神社 字和田野小字城鎮座
神社明細帳によれば、
祭神 迦具津智神 崇徳天皇
創祀年代不詳 山城国愛宕神社より神璽を勧請修祭する。
竈神社 字和田野小字城鎮座
神社明細帳によれば、
祭神 澳津彦神 澳津姫神
創立不詳であるが慶安三年二月二十五日再建した記録がある。  〉 


曹洞宗長安山西方寺
西方寺(和田野)
往古は縁城寺の末庵阿弥陀堂で、承応3年(1654)以後現在地に移ったと伝える。天和2年の丹後国寺社帳に名がみえる。

『丹後国竹野郡誌』
 〈 西方寺 曹洞宗 字和田野にあり
 (丹哥府志) 長安山西方寺 曹洞宗
 (同寺調文書) 本尊阿弥陀如来、往古は中郡橋木村眞言宗発信貴山縁城寺の末庵阿彌陀堂と称し、小字岡本に在りしが承應三年丹後国宮津町曹洞宗智源寺の末寺となり、其後現在地に移転し安永六年和尚地の格式を得本堂を再建し、開山台山道秀大和尚住職す、其後本山智源寺へ転住せられたり檀家百二十餘戸
 (植野氏蔵古記録) 伏見天皇正応元年八月日取調の古書によれば當地を恒枝保といひ、小字岡本り地に円頓寺と云寺あり、花園天皇御代延慶元年に発信貴山縁城寺阿弥陀堂之末庵にて眞言宗なり、後光明院天皇承応年中宮津智源寺の末庵となり曹洞宗となる 下略  〉 

『弥栄町史』
 〈 長安山西方寺 和田野
本尊 阿弥陀如来 曹洞宗
同寺調べの交書によれば、
「往古は中郡橋木村真言宗発信貴山緑城寺の末庵阿弥堂と称し、小字岡本に在りしが、承応三年丹後国宮津町智源寺の末寺となり、其後現在地に移り、安永六年(約二百年前)和尚地の格式を得本堂を再建し、台山道秀大和尚開山とし二世は舜国魯然和尚」とある。
植野氏所蔵古文書によれば、
「伏見天皇正応元年八月(約六百八十年前)調べの古文書に、当地を恒枝保(邑)といい、小字岡本の地に円頓寺という寺あり。花園天皇の延応元年発信貴山縁城寺の末庵にて真言宗なり。後光明天皇の承応年中(約三百十年前)宮津智源寺の末庵となり曹洞宗となる。」とあって、現在の堂宇は天明八年再々建せるものである。  〉 

和田野城趾
愛宕山に和田野城跡があるが、城主は不明。
『丹後国竹野郡誌』
 〈 和田野城
(実地聞書)宇和田野愛宕神社の山にして三層より成る今城山といふ南中郡境より吉野、溝谷
深田の平野を一眸の下に見得る景勝の地なり
(一色軍紀) 和田野城    篠山五右衛門
(丹後旧事記)和田野村    篠山五右衛門
 嫡男又篠山五右衛門といふ後長岡の家士となる、
 城趾
(実地聞書)宇和田野西方寺の後方山頂に三層より成れる城趾ありて殿様屋敷といひ伝ふ
(橋木、縁城寺過去帳) 祐昌・大永五年 和田野大和守
(丹後旧事記) 和田和泉守といふもの居れり
(実地聞書)右の外字鳥取小字表に城屋敷あり二段より成り、父同字城山は鳥取人家の後方の
山にして屋敷二層よりなり水道の跡令尚存す、
木橋字城に二層より成る城趾あり上層は円形にして約二反歩もあらん、天正三年迄木橋吉岡
家の祖吉岡伊豫守の居城なりしと伝ふ
(吉岡長右衛門氏系図抜萃)
 吉岡伊豫守は木橋城主にして長享二年正月逝去し、其子伊豫守高善落城して民家に下る、現
代長右衛門は伊豫守より十七代なりといふ  〉 

『弥栄町史』

 〈 和田野城 字和田野愛宕山で三層よりなる。吉野溝谷深田を一望の内におさめる景勝の地である。丹後旧事記に城主篠山五左衛門とある。
和田野城 今一つあり。
字和田野西方寺の後方山頂に三層よりなる城趾がある。今に殿様屋敷という。橋木縁城寺の過古帳に、大永五年に和田野大和守の名があるがこの城の城主と思われる。  〉 
矢田城跡

《交通》


《産業》


和田野の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 竹野郡木津郷
一 恒枝保  十四町五段九十歩内
              此外一宮領可有之
  二町七段百八十歩   斎藤弥次郎
  二町七段百八十歩   円頓寺
  九町九十歩   田所分  三上因州  〉 

恒枝保
『丹後国竹野郡誌』の西方寺の項によれば、正応元年(1288)8月日付の植野家蔵古記録に、当地を恒技保といっとあり、椙森神社(現・春日神社)の神賽の箱書にも「長享二年(1488)三月十六日竹野郡恒枝保」とあるそうである。
村内に大永年間(1512~28)和田野大和守が居城したという城跡があり、この頃城主の姓をとって恒枝保を廃し和田野と改めたとの説がある。また縁城寺の寄進状文書には、弘安3(1280)年「恒枝村」や、正和元年(1312)の「つねえた」、応永23年(1416)文書に「恒枝保」、正長2年(1429)の「恒枝保」が見える。


『丹哥府志』
 〈 ◎和田野村
【春日大明神】
【長安山西方寺】(曹洞宗)
 【付録】(天王社、寄宮、荒神)  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 坂野丘遺跡(さかのおかいせき)
所在地:弥栄町和田野小宇坂野
立地:竹野川中流域左岸丘陵上
時代:弥生時代中期末葉~古墳時代後期
調査年次:1978年(弥栄町教委)
現状:消滅(鳥取小学校)
遺物保管:丹後郷土資料館
文献:BO09
遺構
坂野丘遺跡は、竹野川中流左岸の沖積地に突出する丘陵最先端部に立地し、コの字型独立小丘陵の東半分の位置を占める丘陵上に築かれた弥生時代の墳墓である。1978年、小学校用地造成に当たり発掘調査を実施したところ、外表施設の痕跡はほとんど確認できず不明ながら、独立丘陵の頂部から時期の異なる埋葬施設4基、北西部丘陵斜面のテラス状平坦面から埋葬施設1基が検出された。なお報告書図版からは、調査を実施した丘陵頂部から尾根先端部にかけて階段状の地形が観察できる。そのため、本来は5基程度の台状墓詳であった可能性が高い。最初に作られた第1主体部は、削平を受けていたが推定長5.9m、幅3.1m.深さ2.4mの規模を測る。墓壙を掘削後、約25㎝の厚さで土を敷いた後、棺床築造のための土壙を掘っている。第2主体部は、長さ5.5m、幅3.0m、深さ1.2mを測り、第1主体部に半分ほど切りあう位置に造成されている。棺床部の土壙長壁から棺側部と見られる炭が検出したことから木棺直葬と考えられている。また、棺内からは朱が検出されている。丘陵斜面に作られたテラスに造成された第3主体部は長さ2.74m、幅1.64m、深さ0.31mの二重墓壙である。
そのほか、丘陵頂部から西側に伸びる尾根上で溝状遺構と土壙2基を検出している。
遺物
 第1主体部では、墓壙内破砕土器供献された横手の把手を貼り付ける水差形の壷1、甕1点が出土した。
第2主体部からは、棺外から擬凹線を施す複合口縁の甕1、棺内からガラス勾玉6、ガラス小玉500以上、碧玉製管玉326、および鉄剣1が出土している。ガラス勾玉は最大のもので長さ2.95㎝、厚さ0.95㎝を測り、小玉は径7.5~8.5㎜、長さ4.0~5.5㎜を測る。風化が進み灰白色を呈するが、小玉の中には緑色の色素が遺存しているものがあること、2個結合した状態のものが含まれること、孔内に心棒を思わせる固形物が多く認められることは注目される。鉄剣は残存長21.5㎝で刃部の多くは久損している。茎部を覆う木柄が残され、刃部表面には布痕が付着している。
第3主体部からは高杯1、甕1点出土しているほか、溝状遺構から弥生土器片、土壙肩部から蛤刃有斧1点が出土している。
また、第2主体部出土の朱にっいては、ろ紙クロマトグラフィーによる化学分析が行われ、水銀朱を主体とするものであることが判明した。さらに同主体部出土の管玉、ガラス玉の材質分析では、管玉の材質は石英安山岩質または流紋岩質凝灰岩、ガラスの材質は鉛ガラスと判明している。

矢田城跡・大田南遺跡(やたじょうあと・おおたみなみいせき)
所在地:弥栄町和田野小字大田
峰山町矢田小字坂尾、新宮谷
立地:竹野川中流域左岸丘陵上
時代:鎌倉時代前期(大田南遺跡)
鎌倉時代後期~室町時代後期(矢田城跡)
調査年次:1992~96年(弥栄町教委)
現状:調査範囲は消滅
遺物保管:市教委
文献:B050、B066、B078、B085
遺構
矢田城跡は、竹野川中流域左岸の丘陵上に位置する城跡である。古墳時代の大田南古墳群に重複しており、古墳を利用して造成されている。大田南2~9、24号墳の調査に伴って、墳丘上より古墳と重複して城跡の遺構が見つかっている。立地から見て、東南-北西方向の丘陵上に位置する郭群(2~5号墳相当部)、と丘陵最高所の9号墳相当部の郭群に大別することができる。遺構は、掘立柱建物、柵列、堀切のほか、9号墳相当部より集石遺構、土塁、焼土跡が見つかっている。
大田南遺跡は、む6号墳墳頂部より見つかった経塚である。楕円形状土壙に土師製円筒容器3点が並べられ、さらに土壙壁より横穴が掘られ、土師器片口鉢を蓋とする土師製容器が置かれていた。
遺物
矢田城跡は、2~5号墳相当部より14~15世紀代の常滑焼、東播系、越前系の摺鉢、小柄、砥石などが出土している。また9号墳相当部からは、15~16世紀の土師器皿、鉄製鉈、砥石、凹石、北宋銭などが出土している。両者で時期が異なる傾向が見られる。
大田南遺跡では、土師器片口鉢、土師製容器、土師製円筒容器3点のほか、筒型容器の一つより土師器皿が出土している。
意義
矢田城跡は、出土遺物の時期から見て、南北朝期に築城され、戦国期に9号墳相当部を中心に手が加えられた山城跡と見られる。近辺では、白井家文書、坪倉家文書から、若狭武田氏の侵入に伴って16世紀前半に丹波郷や吉沢城、堤籠屋城において合戦があったことが知られている。矢田城跡9号墳相当部出土の土師器皿は、この時期に近いものであり、両者の関係が考えられる。
大田南遺跡は、土師器皿から見て13世紀中葉に築造されたものと推定される。最初に掘られた楕円形土壙内に土師製筒型容器を置く点は、丹後地域のほかの経塚遺構に見られない特色とし評価てきる。  〉 

 〈 オテジ谷古墳・オテジ谷遺跡(おてじだにこふん・おてじだにいせき)
所在:弥栄町和田野小字坂野
立地:竹野川中流域左岸丘陵上
年代:弥生時代中期(遺跡)
古墳時代(古墳)
調査年次:1989、1993~94(弥栄町教委)
現状:全壊
遺物保管:市教委(オテジ谷古墳出土品:市指定文化財)
文献:BO49 B058
遺構
オテジ谷古墳は、三方にのびる丘陵稜線の交わる場所に単独で第かれた一辺20m、高さ1.5~1.7mの低平な方墳である。墳丘は、旧地形の高まりを利用しながら部分的に0.6m前後の盛土を行へ方形に整えている。葺石、埴輪はみられない。墳頂部の一辺10m四方の平坦面中央部には、1基の埋葬施設を設けており、長さ9.1m、幅2.4~2.7mの大きな二段墓壙に長さ6.6m、幅0.8mの長大な割竹形木棺を納める。棺内からは、鉄製素環頭大刀1点と竪櫛が出土している。
オテジ谷遺跡は、オテジ谷古墳から南と北にのびる丘陵尾根上にそれぞれ1基の竪穴住居が独立して発見されたものである。南側の住居を1号住居、北側を2号住居としている。1号住居は東西4.7m、南北3.9mの楕円形を呈する。床面からは、3ヶ所り柱穴と中央に土壙が検出され、弥生土器と石器が出土している。2号住居は東西4.93m、南北4.63mの円形を呈する。床面からは、5ヶ所の柱穴と中央に土壙が検出され、弥生土器と石器類が出土している。また、住居の周囲には板壁を支えたと思われる小ピットも検出されている。
遺物
オテジ谷古墳の埋葬施設から出土した鉄製素環頭大刀は、全長75.5㎝、環頭部長5.4㎝、茎長11.2㎝、刀身長58.9mを測る完形の優品である。また、竪櫛は大小2点あり、大きな方の竪櫛は全長20㎝、歯の長さ15.8㎝を測り、保存状櫨がよく黒漆の皮膜が歯の先端部まで残っている。
1号住居出土土器は、弥生時代中期後半の壺3~5個と鉢1個であり、石器は太型蛤刃石斧と刃器である。2号住居出土土器は、1号住居の土器と同時期の壺2個であり、石器は磨製石斧と敲石である。
意義
オテジ谷古墳は尾根上に単独で立地する一辺20mの方墳であり、出土遺物から古墳時代中期中葉すなわち5世紀中葉の年代が与えられている。副葬品は少ないが、鉄製素環頭大刀は優品であり、被葬者像を考える手掛かりを与えてくれている。オテジ谷遺跡の2基の竪穴住居は、それぞれ独立したもので、平地から25mの比高差がある幅の狭小な尾根上という特異な立地条件の場所に建てられている、このことから集落とは考えられず、何らかの要因による避難場所的な意味合いを侍つ住居であると考えられている。  〉 

鳥取小学校のある丘であるが、坂野丘遺跡も注目されている。

『舞鶴市史』
 〈 坂野丘遺跡は、弥栄町和田野の沖積平野部に突出した丘陵先端部に位置し、丘陵基部には古墳時代後期の坂野四号墳があった。墳丘のほぼ中央部に切り合った二つの土壙墓(第一・二主体)と北西突出部に土壙(第三主体)、さらに丘陵基部坂野四号墳に連なる鞍部に溝状遺構と土壙二(基)をともなう墳墓である。第一主体の墓壙は上面で長さ五・九メートル、幅三・一メートル、床面の長さ四・四メートル、幅二・二六メートルである。深さは中央部で表土下二・四メートルである。そのほぼ中央部分には長さ三・六メートル、幅一・一三メートルの棺安置の土壙が、ほぼ二五センチメートルの深さで確認され、その土壙肩部から畿内第四様式比定の把手付壷・甕が出土し、棺床から朱が検出された。第二主体の墓壙は第一主体部と切合って検出され、東西を長軸としたものであった。上面で長さ五・五メートル、南北一・七メートル、床面で長さ四・○メートル、幅一・七メートル、深さ一・二メートルである。そのほぼ中央に長さ約三・○メートル、幅八○センチメートル、深さ二五センチメートルの棺を安置したと考えられる土壙があり、棺の側部と思われる炭が土壙長壁にそって直線状に認められている。土壙肩部から弥生後期の甕口縁部片が、また棺内西寄り部分からガラス製勾玉六、ガラス小玉約五○○、碧玉製管玉三二八、鉄剣一口が、おびただしい朱と混りほぼ一塊となって出土している。被葬者は頭を西方に向けて埋葬されていたのであろう。墳頂部のほぼ中央に位置するのは第二主体部であり、この被葬者こそ弥生時代後期の下流域一帯を支配した一大首長であったと思われる。  〉 

『網野町誌』
 〈 坂野丘墳丘墓は径二一メートルの円形の墳丘をもち、中央に深さ二・四メートルと想像以上に深い墓壙を掘る。中央に朱を塗った棺を置き、棺外に弥生時代中期後半の壷や甕を副葬する。この墳丘は数回使用され、二回目の埋葬は深さ一・二メートルと浅く、幅○・八メートルの細長い棺に遺骸を入れ埋葬する。棺外に弥生時代後期前半の甕形土器片があり、棺内はガラス勾玉六、ガラス製小玉約五○○、碧玉製(石英の一変種で緑色した鉱物)管玉三二八、鉄剣一と豊富な副葬品をもつ。  〉 

『京都新聞』(96..)
 〈 *丹後王国の風景③*丹後郷土資料館特別展*驚き誘ったガラス*弥生墳墓-玉と鉄*
 一九七八年、現在弥栄中学校が建つ坂野丘で、一基の弥生墳墓が発掘された。弥生後期の墓からはガラス勾玉六、ガラス小玉五百個以上、碧玉・緑色凝灰岩製菅玉三百二十八個と鉄剣という大量の副葬品が出土し、人々の驚きを誘った。
 当時、大量の副葬品を持つ弥生の墓は、九州の甕棺墓や支石墓が古くから有名だったが、それ以外の地域では、ごく一部の遺跡が知られる状態であり、弥生の墓に副葬品は少ないという常識の中での発見であった。現在でも坂野丘は有数の弥生墳墓の位置を占めるが、以後、丹後で鉄器、ガラス玉類などを副葬した弥生墳墓の発見が相次いでゆく。
 大宮町三坂神社墳墓群の一つの木棺からは、素環頭鉄刀、鉄鏃、ガラス勾玉・菅玉・小玉、水晶小玉と朱約一㌔などが出土した。この墳墓群の中でもぬきんでた墓の規模と副葬品の質・量である。また、各墳墓に副葬される鉄製武器・工具の量も多い。そのころ、原料を海外に求めなければならない貴重な鉄やガラスを豊富に確保できる人々が、丹後に生きていたことは確かである。
 前記遺物のほか、丹後町大山、峰山町金谷、大宮町左坂、野田川町西谷の墳墓から出土した土器や玉類、弥栄町奈具岡遺跡の水晶玉作り資料も展示している。
 現在までに、丹後出土の弥生ガラス玉類は一万個を超え、北九州以外の全国合計をはるかにしのぐ数字である。一個一個は小さな製品であるが、残りのよいものは、今も、現代ガラスには見られない青や緑の光沢を放っている。  〉 


和田野の小字一覧


和田野(わだの) アソウデン アサマチ アリタシモ イエノシタ イセリガキ イツチヨウダ イワサキ イネジリ イノクラ イモノタニ ウシガモリ オオマガリ オカモト オヨガタニ カサデン カンジヤガエ カキガソエ カミジ カキノサガ カミオオダ カクレバタケ カミハズ カンダガハナ クルマダ ケブダニ ケヤキダニ コツカデン コシマエ ゴタンダ コワダ コウジンダニ コイケ サンダオサ サワ サンジヨウクリ サカノ シリキレ シタハズ シバハラガダニ シングウダニ シモオテ シモオオダ シバノワリ シモジ シロシタ スナゴ スモウデン タデワラ タキガオク タカグロ タンタカタニ チカノブン デアイ テラダニ トウゲ トチユウ ナマズガマ ナヌカデン ナカワラ ナカオオダ ナカガワラ ナガシヤク ニタンオサ ハツソクワリ ハズレガハナ ヒキバラ ヒチタンダ ヘイダニ マガリマチ マタニ マツノキダニ ミヤノタニ ミジカシヤク ミヤシタ ムラシタ モツキ モリブン ヤマサキ ヤマノシタ ユウデン ヨツマチ ワタリゴエ 大田(おおだ) 岩鼻(いわばな)


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京都府与謝郡与謝野町
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京都府福知山市
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京都府南丹市

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市町別
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福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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