丹後の地名

善王寺(ぜんのうじ)
京丹後市大宮町善王寺



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京都府京丹後市大宮町善王寺

京都府中郡大宮町善王寺

京都府中郡長善村善王寺

善王寺の概要


《善王寺の概要》



最も峰山町によった鞍禿山の山の麓一帯。東を竹野川が北流する。往古は平岡あるいは原岡と称したという(丹哥府志)。地名の由来は、当地に所在した善王寺の寺名によるという。
中世の善王寺は、南北朝期〜戦国期に見える地名。元弘3年の熊谷直経代同直久軍忠状に、5月5日「同郡(丹波郡)内善王寺松田平内左衛門入道焼城畢」とあり、「丹後御檀家帳」には「一 ぜんわう寺…」と見える。
近世の善王寺村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、元和8年からは峰山藩領。明治4年峰山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年長善村の大字となる。
善王寺は、明治22年〜現在の大字名。はじめ長善村、昭和31年からは大宮町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

長善村(ちょうぜんむら)は、長岡村と善玉寺村が合併して明治22年に成立した。長岡と善王寺の間が丘陵で二分されていることから昭和31年に、善王寺が大宮町に、長岡が峰山町に分村合併して解消した。

《善王寺の人口・世帯数》 1631・547


《主な社寺など》
アバタ遺跡

三本松古墳群

阿婆田(あばた)窯跡からは須恵器の登窯が発見されている。
阿婆田窯趾(『京丹後市の考古資料』より)

『大宮町誌』
 〈 阿婆田窯跡  善王寺小字阿婆田
阿婆田窯跡は奈良時代後半頃須恵器を製産していた遺跡である。須恵器は古墳時代に朝鮮からわが国に伝えられた焼物で、その特色は一、ろくろを利用すること、一、登り窯による高温度焼成をすることである。この技術は縄文、弥生式土器、あるいは須恵器と並行して行われた土師器製作とちがい、はるかに程度の高いものであった。
 五世紀には大阪府の陶邑や千里山丘陵で須恵器が生産され始めたが、やがて地方にも拡大して行った。中郡で現在知られている須恵器の窯跡はまず長岡の大河原窯跡がある。昭和初年長善小学校のグランド造成工事中に、グランド南隅の通称丸山の丘陵東側斜面から発見されたという。現在は全壊であるが、斜面に数ヶ所表土の落ち込みがあるのであるいは他の窯が残っている可能性もあるといわれる。ここで採取された須恵器は峰山高校および長善小学校に保管されている。年代はおよそ八世紀から九世紀にかけてのものとされる。
 次に吉原窯跡がある。吉原小学校の東側丘陵の西側斜面に築かれていたらしいが、現在はその位置も確認できない。ここから出土した須恵器は一五点吉原小学校に保管されているが、年代は七世紀後半頃と推定されている。
 現在中郡で知られている窯跡は新寓窯跡・久住窯跡および前述の阿婆田窯跡・大河原窯跡・吉原窯跡の合計五個所である。しかし、久住・大河原・吉原三窯跡は全壊しているので、新宮および阿婆田窯跡は貴重な存在である。
 阿婆田窯跡は善王寺の西南約六○○mの谷間丘陵南斜面に在る。昭和三九年頃林道工事中に発見され、初め並列した三基が確認された。窯はいずれも花崗岩質の地上に構築され、二基は無段の半地下式と認められ、中央の一基は無段ではあるが奥壁部が地山をくり抜いて作られている。
 その後近年の踏査により小さな池を中心に三方の丘陵斜面に窯が多数発見されている。窯の基数は一四基確認され、ABC三群に分けられるけれども、採取された須恵器では時期差はないと言われる。今後も多少見つかる可能性もあり、丹後地方では舞鶴市城屋窯跡と並ぶ大規模のものとされ、年代は資料が少いため確定はできないが、八世紀後半の特色をもつものと報告されている。 


平岡城
中世城址として武藤右京進政情の平岡城址、城主不詳の小谷城址がある。
『中郡誌槁』
 〈 城趾
(丹哥府志)武藤右京進政清の城墟
元応元年武藤右京進政清丹波郡平岡に於て初て城郭を築く一色氏に先だつ凡二十年一色氏の来るに及びて其陣代となる戦功あるによって熊野郡佐野庄を賜はる今其庄に武藤村あり右京進既に佐野に遷りて後金谷右衛門是城に居る右衛門は金谷五郎とて万松院義晴の小姓なり其子続て居る太平記曰元弘三年五月八幡の役に奥州の国司北畠源中納言顕家敗走して武蔵国の住人越生四郎左衛門に討る蓋丹後国住人武藤右京進の為なりといふ武藤右京進先陣して敵首を取り太刀甲を添へて実検に出す高野師直大に是を観賞すと云々
(丹後旧事記)平岡城、金江右衛門五郎金江土佐守、丹波郡平岡の城と申は元応年中武藤右京之進政清の普請也(一色義季金江右衛門を置く右衛門五郎は一本)万松院義晴の小姓なりし人也平岡の城責の時一色家断絶の所に記す(下文の如し)天正十年なり
(丹後旧事記)又平岡の戦は御差図に随ひ土俵を以て川水を塞ぎあり三方に勢を伏せ八ケ所の砦に旗指物を風に翻し城内の固は金江右衛門五郎、同土佐守、兼井兵庫、横田伝太夫、加納下総守、石子紀伊守、山口弾正、持口七ケ所厳重に守りける長岡山長尾城には楠田掃部正、笠縫団太郎、山岡民部、白杉主税、岩淵日向守楯篭り平岡に軍始まらば長岡勢の後に迫り長尾の城へ敵寄れば平岡より横鎗を入れ両城一手に戦はんと相図を定め待つ処に寄手の大将玄蕃頭興元麻野吉左衛門、稲富伊賀守其他沢田弾正、正源寺大炊之助、沢村佐方一族城際に押寄せ相戦ふ城中には金江厚く持口に觸渡しけるは味方八方に砦を堅め要害能しと談ママしながら纔か二千余人の小勢なれば恐るべきは敵の付人なりかならず容易に討つて出る事なかれ近附敵を鉄砲にて打すくめよ砦の人数より裏伐出づべし敵の色めくを見て凱声を合はせ馬を并べて打つて出よと進止あるに依って城兵敵の寄するに驚かず只弓鉄砲のみにて是が為に大軍打ちすくめられ在家をこぼち竹策を付けて堀を越え塀に乗らむとす折よしと石子紀伊守、加納下総守鉄砲を以てしきりに打ちかけ火矢を以て竹策を打崩せば敵の大勢堀に沈み凡三百余人一度に死す菊井横田は二百余騎西の木戸を開き横間よりきつて出づる興元佐方の兵是に驚き観音寺の本陣へ引退し又吉原の加勢大谷刑部左衛門成家百騎斗轡はみを揃へて駈立突立つ大将成家八尺の樫木の棒を馬上に振りて打つて出る長岡興元たまりかね本陣さして引きたりける薄暮を限りに軍終りてと注進すと義海大江右の趣を聞きて金江石子加納が方へ連書を送り今日の手柄を申し遣し興元かく負けなば田辺の加勢を乞はん今宵逸見五郎同八郎に千賀常陸守を差添へ夜討に遣し可申と存する也城内よりは必ず人数を出さるる事御無用と申送りける(一色の末派府中中村一色三郎右衛門当にて記す寛永甲子とあり何の頃か焼失し火に入たる紙数前後乱れて五十七枚是也)
(村誌)古跡、本村東方にあり元応建武の頃丹波郡平岡城主金江土佐守の古城跡あり事しげければ略之又曰く本村南方に古城跡あり永禄年中一色式部太輔義直の旗下石河紀伊守領す云々(一本本村寅卯の方に当り字城ノ岡城主武藤右京進政清城墟あり今に於て山に井あり深さ幾ばくか不詳、北方に一ノ城跡あり小谷城と称せしが城主未詳) 
小谷城跡


善王寺跡
中世末の「丹後国御檀家帳」、「せんわう寺」とあり、後の地名の由来となっている。善王寺は、かつて集落の南方山手にあったと伝え、現在板碑などが散在するという。
『大宮町誌』
 〈 善王寺跡  善王寺小字寺の谷
 善王寺跡は善王寺の西南、字寺の谷通称奥の谷にある。大萱へ越す旧道を見おろす北側の高台であり、およそ三段の台地からなっている。上の台地は東西七五m、南北二○ないし四○m、中の台地はその東に接続して一段低く東西四五m、南北二○m、さらに上の台地の南に接してやや狭い下の台地がある。上の台地には巨松が茂り、その西寄りに六m四方程の屋敷趾があり礎石数個を残している。その中央には今石地蔵五、六体を並べ祭っているが、昔毘沙門堂のあった旧蹟であるという。
 「村誌」
   本村中央より未申に当り七堂伽藍の古跡あり。(中略)平家万延元年新に建てて安徳山善王寺と称し、平家の衰滅と共に寺院も衰ふと云々。元亀元年辛未年六月二十日信長公発行の時、七堂伽藍(今以て其礎存せり)民家残らず空敷焼煙となり、其後追々民家集り繁茂に及びぬ。寺名を村名の呼び名とす。
 「丹哥府志」 毘沙門堂
  昆沙門党は元善王寺といふ大伽藍地の跡なり。文禄二年長岡越中守忠興国内真言宗の寺四十八ヶ寺を滅す。蓋非道の祷数多俗説あれども詳ならず。元亀二年将軍信長延暦寺を焚焼す。其僧遁れて丹後に匿る。密に僧徒を集めて信長をいのる。天正十年夏六月将軍信長明智光秀の為に弑せらる。其祷の験なりとて益々種々の祈をなす。遂に事露れて忠興が為に滅せらる。
 善王寺は万延元年安徳山善王寺を新たに建立し栄えたが、後衰え幾変遷して七堂伽藍のこの大寺院もついに文禄二年(一五九三)細川忠興の軍によって人家もろとも焼失したと伝えている。所謂「真言倒し」に遭ったのである。その後慶長年間伽藍跡を開き屋敷跡を田地にしたと伝えるから、寺の谷の今田地となり植林されている所も善王寺の境内であったのであろう。七堂伽藍の真言宗の大寺の栄えた様を想像すると善王寺の名を村名に残した村人の心情も当然と思われる。
 現在も善王寺跡附近には「字不断堂」「字仁王堂」という所があり、その南西小川を隔てた台地を「脇の坊」と呼び、その他弁天堂跡・尼寺跡等も口碑に残っている。 

『中郡誌槁』
 〈 (丹哥府志)毘沙門堂
毘沙門堂は元善王寺といふ大伽藍地の跡なり文禄二年長岡越中守忠興国内真言宗の寺四十八ケ寺を滅す善非道の祷をなすとなり善王寺は其一なりといふ非道の祷数多俗説あれど詳ならず元亀二年将軍信長延暦寺を焚繞す其僧遁れて丹後に匿る秘に僧徒を集めて信長をいのる天正十年夏六月将軍信長明智光秀の為に弑せらる其祷の験なりとて益種々のいのれをなす遂に事露れて忠興が為に滅せらる
(峯山明細記)毘沙門堂一間半に二間境内長三十六間程幅十二間程村支配
(村誌)毘沙門堂 字不断堂本尊毘沙門天王 由緒不詳 境内東西十三間南北十六間面積四百四十一坪
(丹後旧事記)永井増補府志に曰慶長七年寅二月より平岡の城の堀を埋め山をきり開きて田地となし并に善王寺の伽藍跡寺中の屋敷跡を開きて田地とす此寺は文禄年中(元壬辰年一本)長岡家内室の頼に依て一国の真言家孕めを祈る忠興此企を聞き無道の祈を仕たる寺に四十八ケ寺を倒し寺領を取揚僧を放ちける也是を民俗真言倒しといふ
(村誌)本村中央より未申に当り七堂伽藍の古跡あり(中略)(平家万永元年新に建て安得山善王寺と称し平家の衰滅と共に寺院も衰ふと云ふ)元亀(辛未)年六月二十日信長公発行の時七堂伽藍(今以て其礎存せり)民家残らず空敷焼煙となり其後追々民家集の繁茂に及ぬ寺名を村名の呼名となす
(実地調査)村の南方山手に善王寺の趾あり其西北に毘沙門堂跡あり此あたり一体に寺跡と伝ふ今の毘沙門堂は其れより北三要寺の上にあり 

臨済宗松渓山三要寺
三要寺(善王寺)
この寺が善王寺の地名となった善王寺の後身という。
本尊は薬師如来で七仏薬師の第六と伝える説(丹哥府志)と、釈迦牟尼仏とする説(峯山明細記)がある。
『大宮町誌』
 〈 松渓山三要寺 臨済宗(天竜寺)  善王寺小字西八反田
本尊 釈迦如来
 「峰山旧記」「長善村誌」には、永和三年(一三七七)真海法印を開基、真言宗安得山善王寺と称し、境内に毘沙門天を祭っていたと記され、天正七年(一五三八)に書かれたと伝えられる「丹後国御檀家帳」に「せんわうしに坊数あまたあり、同地下に家数あり」の一節がある。この当時、善王寺の大伽藍があって数多くの僧房があり、寺の下の方にも相当の人家があったことがうかがえる。
 文禄二年(一五九三)領主細川忠興は丹後の真言宗四八ヶ寺を打壊し寺領を没収した。当寺もその大難にあい衰微し住民も離散した。
 その後、慶長年中(一五九六−一六一四)寂翁和尚が、曹洞宗に改めて小渓山長福寺と改号した。竜献寺(網野町木津)の古文書(承応元年(一六五二))に善王寺長福寺の名があるのは、当寺が竜献寺末であったことが知られる。寛文年中(一六六一−一六七二)河辺村万休院九世崙山和尚が再興したが、峰山藩三代藩主高明により元禄八年(一六九五)藩内曹洞宗一一ヶ寺を臨済宗に改宗させられたので、享保元年(一七一六)に臨済宗天竜寺派全性寺(峰山町)末となり、松渓山三要寺と改称した。臨済の祖は祖海和尚となっている。
 寛政年中(一七八九−一八○○)、本堂・薬師堂を焼失したので再建した。弘化二年(一八四五)一八世三蜂和尚の代に、寺屋敷が湿地のため、現在地西八反田に移転した。明治一一年ころ天竜寺直末となる。
 昭和二年三月七日丹後地震に、本堂は全壊し庫裡は全焼して、過去帳その他重要文書類はほとんど焼失した。現在の本堂は翌三年仮復旧のまま今日にいたっている。庫裡は同五二年九月改築した。
 内陣に薬師如来と十一面観音を安置、堂内に弘法大師の像を祭るのは真言宗の古刹の名残りであろう。
 現住職 北島顕経
 自然石の名号塔は弘化二年七月、他の一基には宝暦五年(一七五五)七月一二日とあり、半鐘の銘は宝暦四年(一七五四)の鋳造である。

毘沙門堂 臨済宗三要寺の境外仏堂  善王寺小字不断党
本尊 毘沙門天
 毘沙門天は四天王の一つ、多門天ともいって北方の守護神で、日本では七福神の一神とされている。善王寺の地には昔から昆沙門天を祭り、堂を小字不断の地に建立していた。
 永和三年(一三七七)奥谷に真言宗安得山善王寺が建立された際、その境内地(通称古毘沙門)に移されたが、文禄二年(一五九三)細川忠興の「丹後の真言倒し」により本寺が焼失したが、不思儀にも毘沙門天像は安泰であったといわれひそかに仮堂を建てて祭った。
 弘化二年(一八四五)三要寺(元善王寺)が、現在地に移転した際、荒廃した毘沙門堂を再びもとの不断堂の地に再建した。昭和三年三月丹後地震に堂が倒壊したので、三要寺二○世謙洲和尚の発議により、同一三年五月再建、毘沙門天像は室町時代以前の作と伝えられている。七月二日の夜祭はにぎやかである。 

毘沙門堂(三要寺)

毘沙門堂案内板

『中郡誌槁』
 〈 (村誌)三要寺(臨済宗 本山天竜寺派 字西八反田)本尊釈迦牟尼如来 薬師如来
由緒当寺はもと永和年中頃真言宗安得山善王寺と云ひ開基真海法印後世慶長中寂翁和尚同国竹野郡木津村禅曹洞宗龍宮寺末派にして小渓山長福寺と成る後享保中転宗す祖海首座禅臨済宗嵯峨天竜寺末派松渓山三要寺と号す 境内東西十六間南北十九間 面積三百二十三坪
 按、河辺村万休院(曹洞宗)過去帳に同寺中興崙山和尚三要寺を再興したること註記に見ゆ同村の条参考すべし
(丹哥府志)松渓山三要寺(臨済宗) 本尊薬師如来(七仏薬師第六)
(峯山明細記)一禅宗(全性寺末寺)松渓山三要寺 本尊釈迦 境内長十三間程幅十間程寺四間半に八間半撞鐘無御座候 薬師堂一間半四面右間数等相違無御座候
(三要寺過去帳跋)夫松渓山三要禅寺者元曰小渓山長福禅寺干時享保元丙申年有故改号兮孰尋往昔誰敢得知焉幸有境裡有大字名号石塔一基在即誌永和三年三月二十日兮是以為其始也
 


浄土真宗本願寺派了徳山浄善寺
浄善寺(善王寺)

『大宮町誌』
 〈 了徳山浄善寺 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 善玉寺小字西前田
 本尊 阿弥陀如来
 万治元年(一六五八)三月教祐師が開創し開基となる。宝暦一○年(一七六○)阿弥陀如来像を安置したものが現在の尊像である。
 寛政六年(一七九四)四月五日、聖徳大師の像と同派の七高僧の画像を祭り、文化二年(一八○五)三月、本堂を再建し、八世石岡正己師は檀中より出て、当寺の復興と教化に尽力したので、中興の祖と仰がれた。
 現住職 木本正信
 梵鐘は第二次世界大戦争に供出し、昭和四一年一一月再鋳する。

愛染庵 峰山町新町 日蓮宗本昌寺境外仏堂  善王寺小字姫御前
 本尊 愛染明主・大黒天
  「峰山旧記」によると、峰川藩主京極四代高之の祈願によって、享保三年(一七一八)九月建立し、峰山新町本昌寺の日望師が開基、境内に妙見堂があると記している。ここの本尊は峰山吉原城三の丸にあった慈眼堂に祭られていたもので、堂内の南に愛染明王、北に大黒尊天を安置している。本昌寺の末庵となっている。境内の鳥居に「天保二年(一八三一)了徳山二○世日照代」とある了徳山は本昌寺の山号である。
 通称愛染さんと呼ばれ五月一日が祭である。愛染明主はもと印度の神で、仏教護持の神として密教と同時に日本に移入され、無病息災・福利増進・愛欲をつかさどる明王として祭られている。
 大黒天もインドの神で、仏教守護の神であり、台所の神・福徳の神ともなり、大国主命と混同されている。七福神の一神である。
 なお、当庵南に隣接する妙見堂の妙見大士は、北斗七星の本地と称される神で、天災地変を防ぎ延命長寿・諸願成就の菩薩となり、日蓮宗で祀る。愛染明王と同じ五月一日が祭日である。 

『中郡誌稿』
 〈 (村誌)浄善寺(真宗本願寺派 字本連口)本尊阿弥陀仏
由緒創立万治元年三月其他不詳 境内東西十二間南北九間面積百十五坪
(村誌)愛染庵(日蓮宗本昌寺境外仏堂) 本尊(愛染尊王 大黒尊天) 由緒抑も当庵は旧藩主郭内慈眼堂に鎮座す然る処旧領主高之公本昌寺日望に命し享保三(戌)九月該地に移さしめ永世本昌寺末庵たらしむ爾来毎年四月一日を奉祭祀者也 境内東西十四間南北十七間面積二百五十六坪 境内仏堂 一宇 妙見堂 本尊妙見大士 由緒不詳
(峰山明細記)愛染堂二間四面 新町本昌寺支配 堂守庄右衛門 庭八間四面程山共 村支配 大祭礼四月朔日新町本昌寺より相勤散銭米等不残当日之文本昌寺へ相納候、常式散銭米を庄右衛門方へ相納申候鍵は庄右衛門方へ預り申候 一米二表愛染御燈明料并道引ク料として御付被遊右米村中の預りに仕利米二斗四升づつ毎年村より差出し燈明料道引ク料仕候 


菊岡神社バス停「姫御前」こんなバス停が近くにある、この右手の山裾にある。
細川幽斎の娘で一色義俊の妻菊の方の最後の地と伝え、菊岡神社が祀られている。

『大宮町誌』
 〈 菊岡神社
 菊が岡は善王寺小字姫御前(ひめごぜ)、愛染明王の堂のある山の北西の林中にあり、姫宮神社とも呼んでいる。社殿の傍に石碑があり、その高さ一m一○p、碑には次の如く刻まれている。
 弓の木城主一色義俊夫人菊の方自刀之地
   世のうきは大野の里の忍草
     しのびてぬるる袖の悲しき
  この碑は昭和五三年峰山町米川小牧某建立のものであるが、社前には嘉永五年の燈籠一対もあり、古くより尊崇されている。
  「一色軍記」によれば一色氏滅亡を左の如く述べている。
(梗概)
 天正一○年(一五八二)正月、織田信長よりの廻文が到着し、丹後に於ける明智・細川・一色の三家、今もって不和であるから急ぎ同道して出頭せよとの命であった。一色家では信長の実力の前には致し方なく上京することに決したが、当主一色義俊は三家同道せよというのを幸いに途中田辺城に入りこみ。細川父子(藤孝・忠興)に近寄り機を見て二人を打果たそう。そして先年無念の裏切によって討死した父義道の仇を討って切腹しようと覚悟を固め、正月二二日居城弓の木城を出て田辺に向かった。これより先、細川藤孝は娘を和睦のかためとして一色義俊の妻としておくり、丹後を細川・一色両家を以て仲良く治めようと約し、表面は親類の交際をしながら、内心はたがいに機を見て相手を亡ぼそうと謀りつつ二年が経過していた。戦国女性のならい、計略の犠牲にされた細川の姫菊の方はよにも哀れな人身御供だったのである。
 さて、正月二二日の夕方一色義俊は百五十余人の部下を従え田辺(舞鶴)の城に到着すると、細川方では婿君御入来というので大いに饗応し、諸将を始め武士達に酒をすすめて酩酊させ、機を見てかねての計略通り争いを起こし、遂に一色俊義を闇討同様に討ち果たした。一色方は辛うじて義俊の首級を持ち帰り、弓木城に籠城し、峰山城主一色義清を一色五郎義清と改名して総大将とし、義俊なお存命の如く装い、細川忠興・興元の大軍と戦った。しかしながら無勢に多勢ついに力及ばず、天正一○年五月二八日弓木城は落城した。一色五郎義清はせめて花々しく最後の一戦を交えんと討って出で、宮津城に押し寄せたが、衆寡敵せず今の大手南角の屋敷で切腹しこに一色家は滅亡した。その塚は大手橋の東側近くの神社の境内に在る。こうして名家一色氏は南北朝初期より数えて二四○余年でその幕を閉じたのである。峰山城へは代って細川興元が城主として入城した。(注) 一色義清自刃、弓木城落城を九月二八日とする説がある。(細川家記)
 天正一○年一○月一日一色義俊の妻細川の娘菊の方は、弓木城落城の後しばらく府中村に身を隠し夫の菩提を弔っていたが、我が身のはかなさを思い今は自害して果てようと覚悟をきめ、峰山城の兄興元に最後の別れを告げようと、大内峠を越えて峰山城に出向いた。途中大野川原のほとりで
  世のうさは大野の里のしのぶ草
    しのぶに濡るる袖ぞ悲しき
と詠んで自らの薄幸を歎いた。峰山城にたどりついて兄に面会を求めたが不幸にも興元は留守だったので、家臣達は細川家の真意をはかりかね入城を拒絶した。姫は泣く泣く元来た道を引き返し、楠田掃部の長岡落城の跡など見るにつけてもしみじみ世のはかなさが身にしみた。かくして菊の方は姫御前の山蔭に分け入りその若い命を自ら絶った。これを聞いた興元は不潤に思いねんごろに荼毘に付したのであった。
 この薄幸の姫の死を哀れんで土地の人はその霊を斎き祀り姫宮神社を建立して姫の菩提を弔っているのである。姫御前という地名もこの菊の方の故事から天正以後生まれたものであろう。(丹哥府志・丹後旧事記等による) (注) 「細川家記」によれば義俊は天正一○年九月八日宮津城で殺されたとある。
 (附記)右の菊が岡の物語には異説がある。それは「丹州三家物語」及び「青山家日記」の所説である。

菊岡神社 善主寺小字姫御前
 祭神 菊岡比売命
 姫宮神社ともいう。「中郡神社明細帳」には由緒不詳であるが、「丹哥府志」、「一色軍記」によると、一色義俊の妻雲菊の方の墓所があり、同女を祀るという。
 戦国戦乱の時代、天正年間(一五七三−一五九一) に、細川藤孝・忠興父子は、丹後を支配していた一色氏を攻略し、ついに藤孝の息女菊を、弓木城主一色義俊に嫁がせて、和睦を図りながら宮津の居城に、義俊を招いて殺害し、弓木城を攻め落した。天正一○年(一五八二)のことであった。
 菊の方は嫁いで一年、亡き夫義俊の菩提を弔い、自害を覚悟して、嶺山(峰山)城主兄興元を訪ねたが、兄は留守のため、留守居は菊の方は城主の妹であるが、いまは敵将の妻であるとして追い返した。菊の方は仕方なく平岡の地にたどりついて自害したといい、その自害の地を菊ヶ岡と呼び、この地を姫御前と称したと伝えられている。戦国の世、政略の犠牲となった薄幸の菊の方を祭神としている。
 境内に「弓木城主一色義俊夫人菊乃方自刃の地」の碑(昭和五三年一○月吉日)が建立されている。石燈籠二基に嘉永五年(一八五二)八月とある。 
菊岡神社(善王寺)

『中郡誌槁』石碑(菊岡神社)
 〈 (峯山明細記)(ひめこせ)姫宮二尺程之社上屋八尺四面 境内山間数確と難相知候 右祭礼九月朔日河部村神子相模相雇神楽相勤申候 宮寺(ひめこせ)庄右衛門
(村誌)無格社(字姫御前)菊岡神社 祭神菊岡比売命 由緒不詳 境内東西七間南北六間

(丹哥府志)菊カ岡
菊か岡は一色義俊の妻菊の方の墓なり菊の方は細川藤孝の女なり事は姫御前村の条下に出す
(同上)○姫御前村(菅村の南峯山海道長岡村の枝合)
増補府志云一色義俊の妻は細川藤孝の女なり天正十年弓木落城の後遁れて府中村(与謝郡なり)匿れ義俊の菩提を念頭に弔ひける今は浮世に長らへて果なく思ひければ自害せんと覚悟を定め一度兄玄蕃殿へ遭申さんとて峰山へ赴ける途中大野の里にて
 世のうきは大野の里の忍ぶ草しのぶにぬるる袖ぞかなしき
既にして峯山へ行ければ峯山の留守居志水伯耆守田辺の聞へ如何哉とまつ返しければ元来し道へ立ちかえり楠田掃部落城の跡なと思ひまいらせて遂に自害しぬ今此処姫御前といふ
(丹後旧事記)右と同文略之、永井増補府志曰玄蕃頭の仰に依て御死骸を火葬し塚を築く其地を菊の岡と名付くと也此姫菊の方と申せし故なり其後忠興興元此姫の年忌を弔ひ給へば火葬せし地なりとて火葬岡といふ所ありと伝ふ、青山日記に藤孝息婦満信の妻後の山より落行米田監物追駈日藤の森にて捕へ連帰り云々 

瞽女(ごぜ)という盲目の女性遊行芸能者が少し前までは全国にいた。このゴゼは御前だろう、一年のほとんどが旅で明け暮れ、目的の村に着くと「瞽女宿」という泊まりつけの家に荷をおろしては、家々を門付けし、夜になれば、村人が集まり瞽女の本領である段物や口説、民謡などをきかせ、喜捨の米や祝儀が収入となった。という。
中にはより宗教者的な者もあったかも知れず、それが祀られたとも考えられなくもない。
あるいはコソがコセになったのかも知れない。

住吉神社
住吉神社(善王寺)
社頭の案内板社頭の案内板
 〈 住吉神社
由緒
人皇六十代一條天皇ノ朝ニ当リ、丹後国大江山ノ山賊退治追討ノ時、勅命ヲ奉シ源頼光朝臣主将トシテ発向アリシ時、藤原保昌ヲ丹後守ニ任ゼラレタリ。
藤原保昌ハ摂津国多田庄平井ノ里ニ生レ、常ニ勝軍ノ守護神トシテ同国住吉村住吉神社ヲ崇敬セラレ、殊ニ大江山山賊退治大願成就ノ祈誓アリテ神助ヲ蒙リ、其ノ功ニヨリ丹後守トナリタマヒシ奉賽トシテ住吉神社ノ御分霊ヲ奉遷シ御勧請セラレタルモノナリ。藤原保昌ノ奥シタリシ和泉式部ハ峯山桜ヶ岡ニ住シ常ニ参籠セラレ崇敬厚カリシトゾ。
徳川幕府ノ頃ニ到リテ、当時有名ナル佐文山御社号額字ヲ寄セラレタリ、当時有名ナル神社ナレバナリ。
元和八年峯山藩トナリテ以来モ藩主京極家累代ノ崇敬社タリ。
御祭神
底筒男命、中筒男命、上筒男命、息長帯比売命
御例祭  十月十日
 住吉神社宮司 山田稔穂謹書 

『大宮町誌』
 〈 住吉神社(元村社) 善王寺小字竹下
 祭神 底筒男命・中筒男命・上筒男命・息長足姫命
 息長足姫命は神功皇后である。他の三筒男命は、神功皇后の三韓征伐の際、皇后を守護したといわれ、摂津の住吉(大阪市住吉)に祀ったのが住吉神社である。そのため海上守護神、武の神として崇敬され、除災招福・寿命長久の神としても、庶民に親しまれている。
 「中郡神社明細帳」には、祭神と由緒は元禄三年(一六九○)再建のみで他は不詳とあるが、大正一四年一二月三日の「神社明細帳に関する件報告」(村社住吉神社社掌上田幸吉、中郡長古我良平宛)には、一条天皇の時大江山の山賊退治に、源頼光を将とし藤原保晶を先導として、これを平定(正暦三年(九九二))その論功によって、保昌は丹後守に任ぜられたという。(治安二年(一○二二))
 藤原保昌はかねてから守護神として住吉神社を尊崇し、ここに山賊退治を祈願して、その大願が成就したので、住吉神社の分霊をこの地に祀ったという。
 善王寺村が元和八年 (一六二二)峰山藩となって以来、藩主累代に崇敬されて、佐文山の社号を寄せられたという。
 元禄三年(一六九○)社殿が再殿されている。宝永元年(一七○四)八月に再建の棟札と、文久二年(一八六二)七月の「宮普請勧定帳」が残されている。昭和八年五月社殿を拡張し、昭和五三年一○月に本殿を改築した際、社前に石燈籠二基が寄進された。
 神職 山田稔穂(兼)(峰山町長岡八幡神社神職)
 釣燈籠一対(明和六年(一七六九)九月)と同一対(寛政一二年(一八○○)九月)がある。祭に神楽と楽台を奉納する。
 例祭は九月一三日であったが、現在は一○月一○日である。
 〔境内神社〕
 秋葉神社
 祭神 火産霊命
 由緒 不詳 

『中郡誌槁』

 〈 (丹哥府志)住吉大明神 (祭九月十三日)
(峯山明細記)住吉明神三尺程の社上屋二間四面舞殿一間半に二間境内長十四間程幅八間程村支配右祭礼九月十三日河部村神子相模相雇神事相勤候
(村誌)村社(字宮筋鎮座)住吉神社(祭日九月十三日)祭神(底留之男命 中留之男命 上留之男命 息長足姫命)
由緒元禄三申年再建明治六年二月十日村社に列せらる其他不詳 境内東西十八間南北十二間面積百五十六坪 境内社一社秋葉社 祭神天吉葛命由緒不詳 


余部のバス停
「余部」あるいは「余ル部」と書かれる地名が、口大野と善王寺の両地区にまたがってある。府営口大野団地のあるあたりで、バス停名が「口大野団地前」となっているが、以前は「余部」であった、古い地図ならそう書かれている。
右は落書きだらけの私の古い地図、人文社の道路地図だが、何年発行とも書かれていない、平成2年くらいのようである。三叉路のところに「余部」バス停がある。
口大野の元集落という谷川千軒の伝承のある地の川下で古墳後期の土器散布地でもある。

この地名は古代の「余戸郷」の遺称としか考えようもないのだが、『和名抄』にはその記載がない、丹後で余戸郷があるのは加佐郡だけであって、丹波郡にはどうひっくり返しても見つからない、しかし現在でも余部と呼ばれている以上は、ここに、大野郷と新治郷の間あたりにあったにちがいなかろうと考えざるを得ないのである。この地名を考察した文献は見当たらない。
 その後、ワタシより50歳も若い当地の「永浜宇平二世」氏が尋ねてこられて語るところによれば、今でもアマルベで通じます。少し下った所に「岡の宮」という所があり、大きな樹があります。そこは大野神社の故地といわれています。とのことであった。


《交通》


《産業》


善王寺の主な歴史記録

『丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 丹波郡大野郷
一 恒吉保  十八町一段二百九十二歩  飯尾大蔵左衛門 

「丹後国御檀家帳」
 〈 一せんわう寺      桜本坊 かへしする人
 せんわう寺本坊「也」
  山  本  坊     あ か い 坊
 せんわうしニ坊数あまたあり、同地下ニ家数あり、い
 つれも御参宮のときハ御持候
   〆 

『丹哥府志』
 〈 ◎善王寺村(長岡村の次、宮津街道、古名原岡)
【住吉大明神】(祭九月十三日)
【松渓山三要寺】(臨済宗)
本尊薬師如来(七仏薬師第六)
【毘沙門堂】
毘沙門堂は元善王寺といふ大伽藍地の跡なり、文禄二年長岡越中守忠興国内真言宗の寺四十八ケ寺を滅す蓋非常の祈をなすとなり、善王寺は其一なりといふ。非常の祈数多俗説あれども詳ならず、元亀二年将軍信長延暦寺を焚焼す其僧遁れて丹後に匿る秘に僧徒を集めて信長をいのる、天正十年夏六月将軍信長明智光秀の為に弑せらる其祈の験なりとて益々種々のいのりをなす、遂に事露れて忠興か為に滅せらる。
【武藤右京進政清の城墟】
元応元年武藤右京進政清丹波郡平岡に於て初て城郭を築く一色氏に先だつ凡廿年、一色氏の来るに及びて其陣代となる、戦功あるによって佐野庄を賜る、今其庄に武藤村あり。右京進既に佐野に遷りて後金谷右衛門是城に居る、右衛門は金谷五郎とて万松院義清の小姓なり、其子続て居る。太平記曰。元弘三年五月八幡之館に奥州の国司北畠権中納言顕家敗走して武蔵国の住人越生四郎左衛門に討たる、蓋丹後国の住人武藤右京進の為なりといふ、武藤右京進先陣して敵首を取り太刀甲を添へて実検に出す、高師直大に是を観賞すと云々。
【曲玉】(出図)
文政の初、村人より石を取り出すとて古の墳墓を掘てその内より太刀及いはいべなど多く出る、其中に曲玉あり凡数三拾余、今十一、二家に残る、一は真珠、一は馬瑙なり、一は水精なり、一は青玉なり、一は瑠璃なり、また数珠程の小さき玉あり其数幾許ある事をしらず、誠に立派なるものなり、何人の塚なる事を詳にせず、陵ならんともいふ。 

『京丹後市の考古資料』
 〈 アバタ遺跡(あばたいせき)
所在地:大宮町善王寺アバ田ほか
立 地:竹野川中流域左岸谷部(扇状地上端)
時 代:弥生時代後期、古墳時代後期
調査年次:1989年(府教委) 
現状:消滅(国営農地)
遺物保管:丹後郷土資料館 文献:C074
遺構
 アバタ遺跡は、狭隘な谷部に位置し、弥生時代後期と古墳時代後期の二時期に短期間営まれた集落遺跡である。谷部に位置するため遺構の遺在状況は悪い。集落内の流路および古墳時代の住居跡を検出した。流路跡は幅5m、深さ2.5mを測る直線的なもので、弥生時代後期に掘削されたと考えられる。古墳時代後期に幅は半減し、深さも1.5mほどになり、蛇行しながら流れているがやがて埋没する。下層と上層から出土した土器および木製品は良好な一括資料である。
 古墳代の住居跡は、柱跡、周壁溝の一部および住居を放り囲む溝状遺構を検出した。
遺物
 流路内の下層から弥生時代後期の土器(1〜14)、木製品(30〜35)が良好な状態で出土した。土器には、壷、甕、鉢、高杯、器台と器種に恵まれる。木製品には、穂摘み具(30)、桶(31〜33)、柄(34)、敲き具(35)などがある。桶身は、半円形の底板と組み合うもので、31は、精巧な逸品である。後期中葉の一括資料である。流路内の上層からは、古墳時代後期の土師器、須恵器、竃形土製品および木製品が出土した。須恵器から5世紀未から6世紀前半(TK47〜MT15)に位置づけられる。木製品には、鋤先(37)えぶり(36)などの農具がある。
意義
 狭隘な谷部に位置する小集落ながら、弥生時代後期と古墳時代後期の木製品を含む貴重な一括資料を提供している。 

『京丹後市の考古資料』(図も)
 〈 阿婆田窯跡(あばたかまあと)
所在地:大宮町善王寺小字阿婆田
立 地:竹野川中流域左岸丘陵裾 時代:奈良時代
調査年次:1988年(府教委)、1989年(府センター)
現 状:C支群消滅(国営農地)、ほかは半壊
遺物保管:府センター、丹後郷土資料館
文 献:C081、C082、F058、F124、G014
遺構
 阿婆田窯跡群は、竹野川左岸の谷底平野に面する丘陵裾に立地する。それぞれ約150〜200m離れるA〜C支群の3群からなり、合計11基の窯跡が確認されている。調査が実施されたC支群では、急峻な丘陛斜面より、8世紀前葉〜後葉にかけて操業した半地下式または地下式の6基の窯跡が検出されている(巻頭図版29−4)。遺構の検出状況と出土遺物の新古関係によりI期(4〜6号窯)→U期(3号窯)→V期(1、2号窯)の順に換業したと推定される。また2、3号窯については、1927年に発生した北丹後地震に伴う地滑りによって竈本体の一部分が下方にずり落ちた状態でみつかっている。
遺物
 C支群の各窯跡より須恵器杯、皿、椀、鉢、壷、横瓶、甕、環状平瓶、紡錘車などが出土している。供膳形態の杯の大きさは、I期に大小2つ、V期に大中小3〜4つに分化する。2号窯出土須恵器は、壺、鉢、甕等の貯蔵形態が含まれ、ほかに環状平瓶がある。また出土した甕の内面に残る当て具痕跡には、横々なパターンのものが見られ、車輪文もみられる。
意義
 阿婆田窯跡C支群は、出土土器の形態から見てI期(8世紀前葉)に成立し、V期(8世紀中尭〜後葉)にかけて操業したものと考えられる。特にV期は、I、U期と比べて法量分化が著しく、生産の画期がみられる。V期の画期は、丹波(中)郡内において正垣遺跡(84)や枯木谷遺跡(85)のような公的な様相をもつ遺跡の成立時期に近く、隣接する与謝郡において丹後国府や国分寺が成立する時期にあたり、関係が注目される。 


善王寺の小字一覧


立臼(たてうす) 中ノ谷 寺中ノ谷 西八反田 鎌田 西和田 東和田 深田 北野 東前田 西前田 奥元連(おくもとれ) 本(もと)レ 口元連 稲木場 石風呂 鍬風呂 タモノ木 法安(のりやす) 愛染 畑ケ田 姫御前 丁田 横枕 黒下タ(くろじた) 矢倉田 矢倉田尻 岸手 西小杉尻 西小杉 小杉尻西 森垣 東小杉 小溝 一本木 日野木 村中 湯田 東八反田 P戸川 不段堂 末谷口 末谷(すえだに) 末谷奥 仁王堂 脇の坊 イガミ谷口 イガミ谷 石ノ穴 大塚谷 滝谷口 滝谷 ツバ谷 本野(ほうのう) 松尾 大屏風 衣谷(ころもだに) 妙ケ谷 大将軍(だいじょうご) 小谷 小谷口 竹下タ(たけじた) 宮ノ下 ヨジ サコ 城ノ谷 狭間(はざま) 城の岡 前ケ谷 前ケ谷口 辻 中ノ坪 宮ノ下東 宮ノ東 寺尾口 寺尾 アバタ 池田 油谷(あぶらたに) 小池 小池口 赤坂口 赤坂 赤坂谷 三本松 西余ル部(にしあまるべ) 東余ル部 現米田(げんまいだ) 下タ現米田(しもたげんまいだ) 上川原 樋田(とよだ) 三橋(みつばし) 大橋 上クゴ田 下クゴ田 大橋下岸手 大橋クゴ 下現米田


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『大宮町誌』
その他たくさん



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