丹後の地名

桑飼下
(くわがいしも)
舞鶴市桑飼下


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京都府舞鶴市桑飼下

京都府加佐郡加佐町桑飼下




桑飼下の地誌

《桑飼下の概要》


桑飼下は舞鶴市の西南部。由良川右岸に位置し、南は綾部市。
かつて自然堤防上に一間幅の道路を挟んで街村型の集落をつくり、宿屋・雑貨屋があり、牛市が年一回開かれていた。伊智布西神社から由良川に至る自然堤防上に縄文から平安時代にかけての遺物・住居跡が発見された。小字原に一色義季の居城と伝える原城跡がある。
明治40年由良川の水害により20戸が流失、21戸が減水とともに倒壊したため南部の山すそに集落が移転した。
桑飼下村は江戸期〜明治22年の村名。桑飼下は同22年から岡田上村の大字名、昭和30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字。

《人口》127《世帯数》53。

《主な社寺など》
式内社・伊知布西神社と桑飼下縄文遺跡碑
縄文後期の桑飼下遺跡
原谷城址
杉ケ迫に式内社伊智布西神社
原谷に原谷神社
山腹に秋葉神社

《交通》


《産業》


桑飼下の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 下桑飼村
市布施明神産宮なり、原谷は三宝荒神氏神となす。一色兵部の跡あり、内宝の廟所石塔あり、沼田の魚切りと云う事田中に池がありて、春雨の夜、種々の川魚池の流れを慕い来る、松明振り立て嚇鎌を以て伐る事この在の老若ともに得て面白き事斜めならず。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免八ツ二分
桑飼下村 高三百拾七石六斗
     内拾三石六斗弐升八合三勺 万定引
     六拾五石御用拾高
 古城 一色兵部
 市布施明神 氏神
 三宝荒神 同村原谷 氏神  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎桑飼下村(桑飼上村の次)
【市布施神社】(延喜式)
 【付録】(神明社、稲荷社、祇園社、三宝荒神、毘沙門堂、若宮社、山神社、愛宕社、地蔵堂、辻堂)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 桑飼上、桑飼下の二ケ字はもと岡田下村字久田美共に、宇谷庄を成していたものである。  〉 


=伝説など=
《郷土史・岡田上》
 〈 寺坂吉右ヱ門と原谷の話
元禄十五年十二月十四日、大石内蔵之助以下四十七名の赤穂浪士が吉良邸に討入り、見事主君の仇を討った話は、今も語り伝えられているが、その中に全くの軽輩であって、吉良邸で華ばなしい活躍や切腹と云う大事を貫いた人達とは別に、地味な与えられた任務を果たした人に足軽の寺坂吉右ヱ門がある。彼は義士吉田忠左ヱ門組下の足軽であったため、一時は同志から外されかけたが、大石のとりなしで四十七番目の義士として加えられた人である。かれは討入り前に大石に呼ばれ、戦列から離れて、具に戦況を見とどけ、雪の南部坂を一気に駈けて亡君の妻遥泉院のもとへ事の次第を報告した話は戯曲としても知られている。
 しかしながら、寺坂のその後の行動は杳として、再び歴史の舞台に登ることはない。さてその寺坂が事件の直後桑飼下の原谷を通り、出石に向かったと云うのである。原峠を下って来た寺坂は、原谷の山口甚左ヱ門家(現吹田市、昔庄屋役を務めた人)に立寄り、一杯の茶を所望したのち、けさ市原の芦田家を出たこと、これから出石に行くと語ったと云う。原谷の古老は郷土の歴史として是非共調べて欲しいと云うのである。江戸の事件と原谷の寺坂、いったいどのように結んだらよいのだろうか、出石に行くとしたら、もっと最短距離が選べた筈である。必然性のないこの話、一先ず記憶にだけは留めていた。
 「舞鶴市史」の編さんが近世初頭にと進むにつれ、京極藩主の頃から士分に扱われていた大江町市原の芦田与右ヱ門(当主正氏)家を筆者は訪れていた。
 ここで一瞬驚き、原谷の一件が甦ったのはこのときであった。芦田家初代為玄(ためとう)より五代に為直(平山)と云う人があった。この人は三代目為知に男子が無く、豊岡藩士の矢野から養子を迎えているが、夭折してしまい、さらに懇請によって家老の石束源五兵衛(毎公)の二男が同家を継いでいる。つまり大石リクとは兄弟の間柄である。芦田家に残る掛物の一つに大石内蔵助の三十六歌仙の自筆あり、また火事の際大石遺品の紛失の記録もあった。近隣からは大石が山科からここへ訪れたことも聞くことが出来た。このような豊富な芦田家資料からは、寺坂の行動の謎解きは糸のほぐれるようであった。彼が第一の使命の亡君の仇討を遥泉院に報告した後は、第二の使命但馬の大石リクのもとへと足を運んでいたのである。途中芦田家に立寄ったことは、ことの報告であったかも知れないし、身の安全をも考えていたのであろう。原谷の一件は寺坂の行動を知る貴重な傍証資料である。そして第三の使命赤穂の同志の家族への注進を終えた寺坂は、吉田忠左ヱ門ゆかりの伊藤家に十一年間身を寄せるが、芦田家−原谷の伝承を知らぬ後世の史家は江戸から姿をくらまし、姫路に潜居した寺坂を臆病者と評価しているものもある。


沼田の魚切り
 こんな珍しい漁法が桑飼下にあったことが、今から約二百六十年前に書かれた「加佐郡寺社旧記」(上)に紹介されている。原文には「沼田の魚切と云うこと 田中に池がありて 春雨の夜種々の川魚池の流れを慕いて来る 松明を振り立ておどし 鎌を以って伐ることこの在の老若ともに獲て面白きこと斜めならず」とある。同区の古老の話によると、場所は今の桑飼下公民館前の湿田であったといい、当時は由良川へ排水する小さな溝が通じていた。春雨の降る増水期には夥しい魚群がこの湿田まで遡上して来たが、やがて水が引きそめる頃、田のあちこちに魚の背が見えそめるのが常であった。村人たちは錆びた鎌、鋸、鉈などを手に手に、魚の背にこれを打込んで魚獲をあらそったが、錆びたもの程手ごたえがあり、引揚げるのが容易であった。松明を振りたておどしは今行われる夜振り集漁のことであり、春雨の夜についても当時は旧暦を使用していたから、五月の頃をさし、魚が産卵のために遡上した光景を偲ぶのに充分である。  〉 

桑飼下の小字


桑飼下 シゲツ 地蔵田 桜堂 西ノ分 蛇ケ鼻 蛇ケ鼻上ノ切 蛇ケ鼻東ノ切 蛇ケ鼻東 蛇ケ鼻西 小島 八反ケ坪 サルタ 清水縄手 小助田 江モチ 原谷 原口 小原 原谷土取 堂ノ奥 原谷家ノ前 ワダミ ワダミ川ベリ 勝負迫 ダン 寺屋敷 コマノダン 姥ガフトコロ フダバ 山ノ神谷 勝利迫 タナ田 滝ノ尻 桑迫 由良谷口 タキノ上 池ノナル 赤尾尻 原峠 堂ガタワ 蝮谷 中深田 大工田 角田 原縄手 ソトワザキ 丁田 丁田頭 赤田 トユノクチ 長畠 タイトダ 一黒薮 横枕 桜木 三倉谷 四ツ町 金町 池ノ尻 ウナマヘ 上タイトダ 岸ノ下 オツボ子 家地 渡シ場 ハ子 麻町 畠中 家地ノ下 宝来堂 川ベリ 沼ノ尻 迫田 井町 沼 アン山 小田中 トタイ ババノ下 ババ 笠垣 宮辻 竹ノコシ 桑原 魚井場 坊主畠 池ノ上 宮前 宮ノ下 宮ノ上 荒神谷 中ノ切 横竹 荒神前 宇谷 稲詰 芦谷 コウ田 矢田坂 小迫 小谷 滝谷 ユズリハ イモジ谷 ソウケンジョウ マゴイ林 馬ケ谷 由良谷 一束頭 タキノカタ フ子 森ケ谷 中ノ谷 栃ノ木 赤ハゲ 笹ノ尾 宮ケ迫 杉ケ迫 境山 枇杷谷 狐尾 大谷 コフリ町 ジンドリ トウジンバタ 江ノ口 サオリ 中河原 宇谷舟戸 サオリ下 フコ田 ナゴサ トゼウ 桧前 土橋 野中 アンバクゴ 秋森 田中モリ タツマチ 砂田 クドハタ 大岩 シバイ 矢田 セバサコ 南谷 和田前 石橋 大ナル ナガト イシラ 小口田 中島 上オツボ子 大々田 原ナハラ 大イトウ田 大滝 八ケ坪 岡バチ 横土井 庵ノ下 家ノ下 赤尾 スミ田 四十歩 迫田口 下タイトダ 宝来堂トタイ 沼ノ上ジ



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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