過去を忘れて、戦争へ行こう

満洲天田郷・第二天田郷

満州開拓団
−満洲天田郷・第二天田郷−

附録:731部隊


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福知山城

福知山城天守閣↑がある一角に「拓魂」の碑がある↓。案内板や碑文には次のようにある。
拓魂碑(福知山城)

拓魂碑(福知山城)

満州開拓顕彰碑について
この顕彰碑は、昭和十年代の国策でありました満洲国開拓政策に呼応して福天地方より参加した開拓農民達が中国大陸旧満洲に新しい大地に、新しい村を創りつつあったことを後世に伝えようと願って建立したものです。昭和十五年に策定され、官民一体で推進された文郷計画の「満洲天田郷建設」は郷土史上始めての画期的な大陸集団移住の大事業でありました。
私達はこの計画に参加し、満洲国三江省依蘭県(現在中華人民共和国黒龍江省依蘭県)において、明るく、希望に溢れた農村を着々と建設しつつありました。
ところが昭和二十年八月ソ連の参戦によりこの地も戦場となり、その結果三一一名の開拓団員並びに家族のうち死亡者一四五名、残留者一六名、行方不明二四名、の犠牲者を出し生還者僅か一二六名という悲劇的な終りをつげました。しかしその当時の満洲国建設の大陸政策の下で、狭隘な郷土農村の開放を希い、北満の広野に新らしい理想農村を建設しようとした純粋な愛郷心と、敢然と大陸の土に挑んだ逞しい開拓精神に偽りはなくこの事蹟は郷土史の一頁として銘記するべきであると信じ、この碑を建立したものであります。なお「拓魂」の題字は郷土出身の元総理大臣芦田均先生の揮毫であり、碑文は成美学苑創立者西垣完先生の撰文によるものであります。昭和六十二年四月三日 天田拓親会


満洲開拓顕彰碑文
人類の尊き根本義は真善美に在り、世の推移と時代の変遷に伴ひ人間の思惟と行為は様々の変容を呈し、又各国各人は資質と環境等しからず個有の特性を把持す、而も世代の表象を貫き根本義より発現する力強き行動こそ人類の進歩福祉に必ず貢献し不滅の垂範となる、共栄を旨とし各特性の真義を達悟せる生涯は崇高にしてその業蹟は久遠の光に映へ各自その所を得て究極の平和を樹立すべし、我国に於ては夙にその意義を体し、当時の隣邦満洲国と密接不可分の親交を結び民族の協和と広褒たる満洲開拓の雄大なる入植計画を作る。
拓務省は昭和七年第一次農業移民として東北十一県より武装移民を選抜し三江省佳木斯に上陸せしめ弥栄村を建設せるを濫觴とし、翌年千振郷を加へ爾来政府の施策と相俟って次々と鍬の勇士は北満に永遠の郷土を創設せんとす。
昭和十三年近畿二府五県は吉林省黒石屯に入植する事となり、京都府又京都郷の建設を図る、天田郡よりは二十数名の拓士を送り、経済更生の見地より郡農会中心となりて天田郷建設計画を立て入植地の調査を遂げ三江省長嶺子の地を相し、和田昌純氏を団長として昭和十五年先遣隊を出し、翌年より遂次家族を挙げて開拓に当る。開拓の事たるや非常なる決意と容易ならざる労苦と言語に絶する忍耐を要す。
これら拓士は熱烈なる開拓精神に溢れ、その貢献を認識し、その理想を揚げ希望にもへ忠誠と正義、博愛と奉仕の信念を以って難難を克服し、美はしくも身を捧げて奮励事に処す。
母郷よりも奉仕隊を送りて激励し、相俟ちて稔りの田畑青々として成果を上げ将に理想郷の具現も程近しと思はれしに、昭和十六年世界第二次大戦の勃発に伴ひ兵籍にある者は徴集せらる、多少の暗雲低迷すると雖も残留拓士と留守家族は克く覚悟の臍を固め苦難を超へて経営の継続に心血を灑げるに、昭和二十年八月第二次大戦の終局に際し、無惨にも突如その地は侵略兵の襲撃により席捲さる。
田圃は馬蹄に蹂躙且つ家屋は侵害、身は傷き或ひは殪れ救国に帰還せる者僅か数十名に過ぎざるの非運に立ち到る。一切の理想と営みは一瞬にして虚となる。
吁々爾来敗戦の逆境にある我国の再興は意の如くならず、倫理の衰頽に恐怖をさへ感ぜられしに、今日独立国家として漸く立直り、人亦恒心に緒かんとす。
顧みて当時を追懐し人類の根本義と、我国の特性を再認し偉業を達成せんとせし先覚を想ひ、彼地の遺業の不滅をしのび、義心自ら止み難く茲に有志相謀り、斯かる率先開拓の壮図と、之に挺身せられし拓士家族の芳名を千歳に伝へてその雄渾にして秀美なる魂を表彰し後人の鑑とせんことを期せらる。
老生ために顕彰の誠を託す。
 昭和三十年七月一日  西垣 完



舞鶴からもいくらかは開拓団員や義勇軍隊員を送り出し、帰らざる人もあったのだから、こうした碑が一つくらいはあってもいいし、記念館にも何かあってもいいが何もないようである。記録もあってもいいがそれもない、舞鶴から開拓団の過去をたどるのはむつかしい。さいわいというか福知山には、いくらかは残されているのでここからたどってみようと思う。
現在にも尾を引く「残留孤児」やシベリア抑留問題などは多くはここから発しているが、顧みられることはない。

満州移民は昭和7年から敗戦の直前まで遂行されて全国から27万人が渡ったいう。京都府は全体として送り出しは不振であった(3370人)が、当天田郷開拓団は唯一の成功の模範とされ、のちに京都市編成の廟嶺京都開拓団や平安郷開拓団が送り出されるようになる。
主に福知山市と天田郡で編成されたが、舞鶴や大江町などの周辺からも加わっている、農民なのかどうかは不明、舞鶴の人はシベリア抑留後に帰国されたようだが、奥さんが満州で亡くなられたようである。


当時の農村は貧しかった、天田郡の場合だと1戸当たりの平均耕作面積は6反余、これでは喰えない。あくまでも平均で0反の農家も多かった。耕地を地主から借りて小作するが、その小作料には収穫の6割も取られた。多くの農家は饑餓線上にあった。しかしこれといった根本的な打開策は何もなかった。上から下までああだこうだと言い合っているだけで、根本の土地不足をどうするかはない。寄生大地主の土地を働く農民に農地解放しよう、とかを言えばソク刑務所で虐殺であった。大地主政権下で解決できるはずもない農業問題であった。
自営可能とされる1戸あたり1町歩程度の耕地面積とするためには、今の農家数では多すぎる、何戸の農家を満州へ送り出して母村からなくせば、その空いた土地を分け合って母村では全戸が自営可能になるか、この計算はすぐはじかれた。それに基づいて計画が一応は立てられた。あくまでも机上計算の官僚主義で、知識もやる気も何もないいつものお手盛りメンバーが会議の名を変えただけのものをああでもないこうでもないと繰り返すだけ。
後には(昭和15)、軍部からの要請が強まり、貧しい農村をどうするかという問題からではなく、「大東亜新秩序」の一翼を担うといった観点へと変質していった。簡単に言えば植民地へ兵隊だけでなく民間人も多く送り出してしっかり支配し収奪を強めるためのものへと変化していった。

農村で大昔と変わらず自分の村の大問題を考える力も実行力もないし、近くに軍需関係の景気よい所もあり、そこで働いて兼業することができた。上で満州へ行こうと笛を吹いても踊ることが少なかった。オマエらの都合で勝手なことばかりをぬかすな、何が農村更正か、そんなに言うならオマエらが行けばよかろう、あほくさい、であった。
先祖伝来の土地を狭くとも受け継いだ長男は動けない(長子相続制)、二男三男がないのだが、そうした者の声を聞くような制度もないし気もない資産を持つ特権者中心の村で、日本全体の縮図と言うか根元みたいなもの、日本社会の最初の問題であるし、最後の問題でもある社会で、そうした所が上からおりてきた話をいくら言っても全体としては動いたりはしない。

農村に絶望しきった貧しい農民青年たちのやりきれない気持ちの一部は「満州開拓」に一縷の希望を見ることに行き着いた。この腐った村でこのまま一生死ぬほど努力しても未来はない、同じならいっそう満州でかんばってみよう。ユメを失えばそれまでだ、満州でがんばってみよう。
天田・第二天田開拓団はそうした農村青年たちの自主的運動というのか、大きくは帝国主義に嵌め込まれてしまってその先兵になっているが、一応はそれとは別の個人的な開拓熱意、新しい村作りとして出発したものであった。これで自分もよくなるし、村もよくなるだろうと。
そうしたグループ仲間の運動以上にはなってはいなく、彼らの笛にも踊る農民はごく限られた。彼らの「リクツ」や「ユメ」は、いかに貧しくても思い通りにならないとしてもよその土地へ行って泥棒していいわけではない、満州は満人の土地だろが、の「現実」には答えられない。手前のユメ話をしただけの侵略される側のことは考えない手前勝手な話で、ワレラ「選ばれし者」が「天皇陛下のために」一生懸命にカンバルから良いのだ、劣等感ひっくり返した思い上がりだけ、自分の村がもし反対にそうした「選ばれし者」に「天皇陛下のために」土地を取り上げられたらどうかくらいは考えるのが当然だろうが、それはないようである。彼ら(ワレラだが)の限界というのか甘さというのか焦りであったものか、開拓団は「食い詰め者」がやるメチャクチャだの陰口を彼らは嫌ったが、しかし主観的にはどう考えていようが、客観的に見れば「食い詰め者」かとどうかは別として、一定根拠をもっていたことになる。(多くは後には日中平和のために活躍しておられる)。また国策ですすめた国は彼ら開拓民の箇々のユメや思いなどはどうでもよいことであった、彼らの野望の捨て石としか考えてもいなかった。

ずっと上の方で笛を吹いている者どもがその程度であったので、下の方がそれ以上になるはずはなく、当時はみなが狂っていたし、今だってだいたいはこれくらいの考えしかない、自業自得で困れば「自衛」戦争しますよ、人殺ししますよ、地方の危機なので「地方創生」ですわ、の今の時代に立ってその子孫が何も彼らを偉そうに責められたものではない。困れば何するかわからない盗用などはアタリマエ、モラルが低いですねー平均的勝手な日本人が考えそうな限界だろうか。外国によって日本は困っていると信じさせられていたが、ウラでは悪魔の飽食、すなわち日本人の飽食がすでにはじまっていて、満州側では受入体勢がほぼ作られつつあった。

彼ら積極派農村青年たち(といっても中心は3名)の強い運動が実り昭和15年1月、福知山市と天田郡は皇紀二千年の記念事業として「満洲天田郷建設」を正式決定する。先だって分村や分郷計画などもいろいろと作られたが応募者少なくすべて実施には至らず失敗に帰していた。今度はと、あらゆる組織あげての送出の大運動として取り組まれた。
昭和15年4月30日、天田郷先遣隊が福知山を出発した。先遣隊の定員は25名としていたが、応募者は夜久野、金谷、三岳、細見の各村からの6名だけであった、奈良県の訓練所で訓練を受けた。オイオイこれではナンボナニでも、1年延期しようか、の声もあった。すでに他の開拓団に入植していた同郷の開拓団員2も加え、団長以下9名が渡満した。農業以外の職業に就いていた農業未経験者も含まれていて、すでに農業開拓者ばかりではなかった。

入植地は第一次武装移民の弥栄村や第二次武装移民の千振村に隣接する三江省依蘭県の「長嶺子」であった。これら先行移民は完全な武装移民で彼らは軍人であり、機関銃や迫撃砲を備えた軍と同じ軍備と統制されていて、開拓団というよりは軍の部隊であった、半年もしないうちに幹部の更迭などを求めて大騒動が発生し団は崩壊直前にまで追い込まれ、500名足らずの団から100名を越える退団者が出た。土龍山事件を待つまでもなく、最初から強い抗日パルチザンに何度も攻撃された。
のちの平安郷開拓団も同じ依蘭県のだいたい近い所に入植している(廟嶺京都開拓団は吉林省樺甸県)。武装移民時代からの入植伝統ある地であった。農民から土地と武器を奪っての入植地だから「匪賊」は強く、依蘭県土龍山で蜂起したので「土龍山事件」(依蘭事件、謝東文事件(昭9))と呼ばれるが、蜂起武装農民軍は約1万、第2次移民団を襲い、入植地の七虎力(のちの千振村)を一時放棄させている。関東軍は、数ヶ月をかけて徹底討伐し、約5千名もの現地人を殺害したと言われている。この事件(戦争)の衝撃は大きくニューヨーク・タイムスにも報道されるほど、千振開拓団は退団者が相次いだたというが、それを天田開拓団の人達が知っていたかは不明。無人の「新しい大地」ではない、ここは現地人から武力で奪った大耕地であり、入植地は単なる窃盗団とは違う抗日パルチザンの活躍地であった。失礼ながら開拓民よりはレベルの高い意識と道理と熱意を持っていそうな敵がウヨウヨの地であった。彼らにグルっと取り囲まれていた。どこからいつ何時狙撃されるかわからなかった。銃を手にしていなくとも狙撃されることがあった。
だいたいの位置は、関東軍最大、アジア最大といわれた虎頭要塞とハルピン市のちょうどまんなかあたりのソ連はここからくるであろうと予想される最前面地域、西隣りには軍の飛行場がある関東軍基地周辺地であった。虎頭のあたりを走る列車は窓のよろい戸を降ろして外を見ないように命じられていた秘密要塞で、ウスリー河の対岸に目の前にイマンというソ連の町が見え、シベリア鉄道も遠望できた。山と山はすべて地下壕で結ばれている、当要塞建設に使われた中国人1万人が死んだそうである。当要塞に拘わらず軍事基地建設にかり出された者は誰一人帰って来ず、工事完了後、秘密保持のために工事従事者全員が殺されたのだろうとも言い伝えられているという。何ということをしてくれたのであろう。エゲツナイことを書いていくのは本当に苦しい。誰か代わってもらいたいが、その誰もいない。日本人が行った加害と被害の悲劇の両面と向き合うことによって、魂の浄化がなされるものと祈りながらあえぎあえぎ書き続けるしかないようである。満鮮国境もよろい戸がおろされたという)
←『生還者の証言−満洲天田郷建設史』より

開拓団は敦賀から「はるぴん丸」で、清津(今は北朝鮮)着、そこから図們、牡丹江、佳木斯と鉄道、ここからは松花江を船でさかのぼり依蘭。ここからトラックで仮宿舎の洋梨片屯に到着。5月12日であった。
着くと巡査から「銃○挺と弾薬○○○発」が届けられた。鍬ではなくテッポウ、もう最初から兵隊であった。
既耕地が1/3であった、それは既耕地がどうかに関わりなく、すべて現地人よりタダ同然で取り上げた土地であった。畑地は500ヘクタールを超え、水田も300から500ヘクタールか見当もつかず、休閑地も幾100ヘクタールはあり、、若干の農業土木の施工により3万ヘクタール内外は美田となりそうな湿地があったという。水田はすでに植え付けられていたが、(タダ同然の代価で)「好意で譲ってもらう」。水田は苦力(クーリー・当初はインド人労働者を指した呼び名であったが、後に中国人労働者に「苦力」という漢字をあてた。アジア系の低賃金単純労働者)を雇って9ヘクタール作付けした。畑も同じように苦力を雇って在来農法で彼らにやり方を教えられながら馬二頭だての梨杖(リージャン)で「民族協和」して行ったという。農耕馬などもそうした「好意で譲ってもらった」。
今の全舞鶴市の水田1620ヘクタール、畑368ヘクタールと比べてみても途方もない広さであったとわかる。舞鶴の農家は約3千戸だが、この広い入植地はたった9名だけであった。いろいろ雑用も多く実際に耕地に出られるのは幾人いたことであろうか。耕地は広すぎ、開拓民は少なすぎ、もし周辺に土地を奪われた超低賃金の苦力のムレがいなかったら、もう完全にお手上げであったと思われる。日本人が行ってがんばって広い満州の荒野を美田にした、そんなことではないのである。
仮宿舎の「洋梨片屯」は現地人の村を立ち退かせたものかと思われるが、新たに宿舎の建設にも同時に取りかかりる。本隊50名を迎えるためのもの、一部に囲壁をめぐらせ、道もつくる、苦力100名ばかりを使って9月に完成し10月末に移転した。
農作物は豊作であった、本隊受入準備の見通しがつき、団員の家族や補充先遣隊員が加わり開拓団は総員21名となった。

開拓団2年度となる昭和16年。
福知山・天田郡には、8千戸の農家があり、150名はさしあたりは送りたいとしていたようだが、これがまったくと言っていいほどに進まない。
開拓団は
「渡満のすすめ
満人から日本大人、日本大人と尊敬されて誰れもが気をよくしております。満人は本当に従順な可愛いい人種です。少しも恐ろしいとか、不安だとか彼等から感じたことがありません。一人で三十人位の苦力を使うことも有り勝ちですが、素直でよく命令通り働きます。入植前、何を怖がっていたのかと夢のようです。早く来て良かったとつくづく思っております。」などの誘い手紙や、団員が母郷へ帰って、村のためらう者を説いて一本釣りする。
こうして団員26名、家族12名、合計38名となった。
積極的に100ヘクタールづつと計画したが、水田50ヘクタール、畑100ヘクタールを作付けた。あわせて30戸の新部落建設を行った。
母郷からは、現地からの要請を受けて「勤労奉仕隊」が編成された。母郷の青少年で編成された「お助け隊」で2班にわけて30名ばかりが、農耕や建築に汗を流したという。この年は冷害で作物は穫れず積極策は失敗であった。運転資金が底をついた。

3年度となる昭和17年。
新たに15名の団員と家族招致で人数がさらに増えた、児童数も15名となり、「天田在満国民学校」開校。当時の写真が残されている。
『図説福知山・綾部の歴史』より
第1天田郷の人々
↑『図説…』は、第1天田郷の人びと(昭和17年4月) 子供も含め100人ほどいる。軌道に乗り始めたころだろう。としている。
「勝った勝った」の時代とはいえ、絶対に勝つ、絶対に安全、大勝利大安全間違いなしと信じ切っていた様子に見える。国民皆がそう信じていた。
第1天田郷での朝礼
人は増えたが作付け面積は絞って堅実に行ったが冷害で収穫は見込みの半分で終わった。馬屋や浴場、囲壁、道路などの完成を見た。第二次勤労奉仕隊の受入れ、16〜20才の母郷の青少年たちだが、割当でイヤイヤ組もあったものか、あんなお坊ちゃんならいらん、もっとやる気のある者を送ってくれと現地からは言われたりしていた。

入植4年度となる昭和18年。
最後の入植者1名を迎えた、村民同士の現地婚が始めて生まれた。開拓団の総戸数44戸、141名となった。
1戸あたり水田1.7ヘクタール、畑2ヘクタール、馬か牛が1戸当たり1頭くらいしかいなく、これが精一杯であった。全体で水田54ヘクタール、畑62ヘクタール、総合計116ヘクタール。この年は豊作だった。4年目にしての初めての大豊作、大成功だった。団員たちはそれぞれ自立し個人経営への道を歩み始めた。

満州第二天田郷の建設
戦争勃発とともに、軍事面が忙しくなり、満州開拓は忘れられようとするが、天田郡は拓務省から「特別指導郡」の指定を受けた(昭17)。
18年には「天田東亜開拓報国会」が結成され、第一の成功を受けて、第二天田郷建設に向けて動き始めた。
第二天田郷の入植地は第一天田郷に隣接する依蘭県西?(手偏に玄)村西三家子屯と決定。地区内には現地人の集落があったが、移転(強制撤去)させた。その先遣隊10名が昭和19年3月第一天田郷に到着し、現地訓練に入った。さらに第二陣、第三陣と送られて、この年のうち第二天田郷は団員24名、家族32名そのた2名、計57名となった。畜力・労力とも不足で水田0.6ヘクタール、畑1.6ヘクタールを播種。地区の通称「砂山」にはとりあえず20戸の部落建設にとりかかった。団員の家族招致でさらに増えた。
前途洋々かに見えた満州開拓団であったが、洋々であればあるほど実は危機が迫ってくる。日本では開拓団と呼んでいるが、それは日本ではそう大本営語で呼んでいるというだけのことで、不当にも土地を取られた側では何と呼んでいただろう、彼らの呼び方こそが正当な呼び方であって、それならば洋々たる未来はない運命である。

昭和20年4月末でも第二天田郷入植者56名が出発している、さすがに危険を肌で感じるほどにヤバイ状況になっていたか、父の後を追って渡満しようとする娘たちあてに「満州へ来るな」の手紙を送った団員(第二天田郷)もあったという。それでもやってきた娘達を見て「来たんか!」と父は声を張り上げたという。軍飛行場(長発屯飛行場)が8キロばかり西にあり、「特定重要機密情報」が一部もれていたのではとも言われる。聞けばあまりに何も知らされずつんぼ桟敷に置かれている身を気の毒に思いソっと知らせてくれたのかもわからない。上はそうした気がまったくなく自分さえよければいいの連中だが、下級兵士は同じ農民の出身者だから、情報を流してくれたかも…
5月になると青壮年団員の応召が相次ぎ、6月には関東軍は秘密裏に撤退し、その穴埋めとして開拓団員は「根こそぎ動員」となった。小学校の校長先生にも赤紙状が届いた。「校長までとられるようなら、もうなにもかもが終わりだ」と言ったとか。団員達がワレに帰り、フト気が付いたときには、なにもかもが終わっていた。これが「大東亜新秩序」の本当の中味であった。

死の逃避行
ソ連の進攻は8月9日だが、そのことは開拓団には知らされたのかどうかよくわからないが、8月11日、日本刀を腰にさし、5日分の食糧携帯した15名が出征していった、機械化機動部隊相手にカタナ!関ヶ原の合戦ですらテッポウだろう。絶対権力が批判を暴力で封じ込め続けてきたため、もう批判精神そのものが消えて、国民の頭までが大退化している。
関東軍は南方へあるいは本土へ引き抜かれ、あるいは朝鮮国境に撤退した、この時に武器類も一緒に持って行ったので、満洲にはもうまともな武器がない、この期の新京での招集令状には、各自、武器となる出刃包丁類とビール瓶2本を携行すべし、と書かれていた、出刃包丁は棒先にくくりつけてヤリとし、ビール瓶は火炎瓶とするのだそうである(T34戦車はこんなものでは燃えない)。笑えてくると言うのか泣けてくると言うのか、自称指導民族ニッポンスンバラシイですね国がワラにすがる、もう勝ち目はまったくない、悪あがきせずに即時無条件降伏すべきであろうがそれすらできない。

第一開拓団は、大人の男子が8人とあとは女子供ばかりの107名となった。第二開拓団も120名ばかりが残された。
残された者は中心を失い、何をすればよいかわからなかった。
囲壁から出ないように、隣との壁に穴を開けて行き来できるようにして、枕元には鉈や鎌を置いて寝た。
8月13日。避難しろと、知らせが来る、飛行場からの知らせという、すぐに中止命令、指揮命令系統が違うが、危険を冒して兵隊が知らせてくれたと言う。飛行場を自ら爆破して兵隊達は引き揚げた。まだこのころは虎頭要塞は一応生きてはいた、守備隊に10倍する2個師団のソ連軍に包囲まれていてもう時間の問題と見たものか。兵隊がいなくなると満人達の態度が一挙に変わった。チャンス到来と解放派もあったろうが、窃盗派がある、「五族協和」というが、配給チケットなどは彼らにはない、土地を奪う者が彼らに何物かでも与えるわけがないが、彼れらには何もなかった、特に衣服が欲しかったようである、関東軍の被服廠がよく襲われ、避難民の衣服をはいだり、墓へ埋めるとすぐ掘り返して屍体からも奪ったといわれる。
日本国内でも昭和12年ころからすでに衣服はなかった、あっても驚くほどに高くなり、安ければ質が悪かった。物資不足は特にこの衣服に見られた。

どこからくるものか、避難命令は3度来て3度とも中止された。
依蘭県副県長より電話で「すぐ依蘭へ避難すること、服装は防寒用、食糧は持てるだけ持って」というものであった。
第二天田郷は第一天田と合流すべく移動を始めるが途中で引き返して依蘭へ向かえの命令があった。
8月15日、第一は農耕馬を銃殺して、5、6里ある依蘭へ徒歩で避難を始める。真夜中に依蘭に到着した。依蘭は避難民と兵隊でごった返していた。行動を共にする予定だった第二は、待ちくたびれたようで、10分前に船に乗って出ていた。第二を乗せた「海星丸」は鈴なりで方正着。再度出航してハルピンへ向かう。途中戦闘があった。
8月16日。第一は松花江対岸の開拓団へ避難しようとするが、空襲を受けて断念し、ほかの開拓団跡へ避難する。
8月17日。第一、ここで休息。
8月18日。第二はハルピンに着いた。第一は出発、どこへ? 依蘭に戻り河を小舟で渡ろうとするが、空襲と艦砲射撃にあって断念、近くで戦闘が続く、河に沿って逃げる、途中で小舟で牡丹江を渡河できた。年寄りたちは自決を言う、1家族がはぐれた。ハルピンへ逃げると決まる。300キロも先である。満人部落の前を通ると中から鉄砲を撃ってきた。馬太屯開拓団で泊まる。兵隊も混じっていたが途中でいなくなった。
8月19日。第二はハルピン市内の花園日本人難民収容所へ収容された。第二は幸運だったのだろう、渡満2ヶ月ほどの現地に疎い団員も多かったから神の助けか命拾いをしたようである。しかし当収容所で病人がでた、下痢だったが、医者も薬もなかった、9歳と4歳の子を残して母親がこの世を去った、最初の犠牲者だった。ここでは越冬ができないと、ハルピンの新香坊収容所へ移転した(9月)、ハルピン最大級ですでに数千人が収容されていた、しかしコウリャン粥しかなく栄養悪く衛生悪く発疹チフスでバタバタと体力のない者から死んでいった、軽いカゼでもヤバかった。
新香坊嚮導訓練所
←ハルピン郊外の新香坊にあった嚮導青少年義勇軍訓練所(『少年たちの満州』より)。
義勇軍の中から選ばれた優秀エリート養成の訓練所。2年間で内地中学校5年分を学び、この上級には「指導員訓練所」(内地の短大)があったという。


10月にはいると第二からも14名が亡くなった。新香坊での全体で死者は3千余、そのうち1〜5歳の子供が1千余という。子供が500〜200円(米15キロくらい)で売られたわけはこうしたところにあった、満妻や満妾がそれとなく上からも進められたといわれる。餓死病死凍死かそれともこうするかどちらを選ぶかであった、どちらもイヤだが選ぶしかなかった。アンネ・フランクはこの発疹チフスで亡くなったとかいわれる、アウシュビッでも流行したというがシラミが媒介する病気で、彼らとは立場が違うが日本では「敗戦病」とも呼ばれた、同じ環境下が同じ病気が発生したものだろうか。引揚時にDDTをぶっかけられたというのはこのシラミ退治のためのもの。
アンネの場合は被害者、平和に暮らしていた落ち度ない市民が一方的に迫害を受けた、ワレラの場合はそうではない、平和な何一つ落ち度の農民ではなかった、アンネと同じ立場にあったのは満州現地人であり、ワレラは当人がどう思っていようが客観的にはナチであった加害者であったので、その返り血を浴びた、この違いはよく心得ておかねばならない、原爆であろうが、空襲であろうが、動員学徒勤労生であろうが、シベリア抑留であろうが、落ち度ない市民が迫害を受けたのではない、ナチである加害者であったから、反撃を受けたである、一般市民は加害に加わったわけではない、仕方なく知らずにやったのだ、ワシラは被害者だったは通らない、一部ナチキチガイだけが戦争していたのではない全国民あげて戦争を遂行していた、皆がキチガイやったで、ワシもキチガイやった、と当時の人が言うとおりであった。今でこそキチガイ状態と認識できるのであって当時はそれこそがお国のためであって絶対正義、それ以外は非国民であった、ドっと流されて皆が流されたため流されたことすら気が付かない、子供にいたるまで皆がオニになっていた、キチガイの程度が強いほど愛国者である集団発狂状態の「何一つ落ち度のない平和な国民」であったたろうか。それはワシはそう思とる、というだけのものであろう。
適正な規模の反撃であったか、公正な戦争責任の追究であったかなどは別として、火を付けてまわったワレラが自ら招いた運命であった、日本国民が本気になって戦争を避ける選択をしていればこうした悲劇は生まれなかった。これでは仏罰があたる、と思っていた日本人もいたが、その罰であったかも知れない、いくら心がけよく暮らしていても良い事ばかりがあるわけはない、ましてや仏の教えに反することばかりしていたのでは良い結果になるはずもない。加害者が野放しにされる世界ではないと教えられたということになる。戦争は市民にも大きな責任がある、というか上はうまく逃げてしまうので、責任が弱い市民にこそその重い責任が降りかかり、己が命で購わされるものだとよく心に置いておかねばなるまい。原発と同じ、大モウケは金持ちに、被害と費用と損失と問題は弱い国民に、である。キモに銘じてユメユメ忘れぬことであろう。一将功なりて万骨枯る、たぶん一将も功ならずただ万骨が枯れることになりはてた。

チフスは高熱が10日ほど続くので、頭がおかしくなったりもする、突然に倒れて、全身に小さな赤い斑点が現れ、数日で死んだ。チフスで発熱すれば死亡、が当時の常識であった。
持てる者と持たざる者との格差は大きくなり露呈する、死ねばもろともなどと言っていたが、その仲間同士ですら、口論こそしないが関係は冷たくなり、互いに目の色が変わってしまった、もう隣人愛はなかった、「天皇陛下のため」と言えばナニでもOK社会では人としての最低のモラルも簡単に失われた、オニに堕ちていった、飢える子供が見ているすぐ横で白いご飯を飽食する家族、暖房の効いた部屋で酒盛に興じる役員の姿があった、みなオニであったが、こんなのはまだカワイイ程度でシベリアラーゲリでは逃亡者が戦友を殺してその肉を食ったということまで当時はあったという。日本人はと言うのか人はと言うのか恐ろしい面もある。こうした自らのオニの姿からは目を背けたまま、美化ばかりしているので後の(今の)収容所列島にそのまま引き継がれてしまい役得で頭の狂った連中どもが死者にバンザイするという。
ハルピンに押し寄せた日本人開拓団員は8万とか言われ、当時ハルピンにいた日本人の数に匹敵するほどだった、都市の日本人居留民と開拓難民との間には大きな格差があり、多少は助けてくれた者もあったが、自分の身がかわいく、難民農民側にはそれほどアテにできるような者でもなかった。
第一は歩いて歩いて避難を続けた、話す者なく笑う者なく、幽霊の行進であった、列から遅れると鉄砲つきつけられた。近くの山には大勢(1500名ばかり)の開拓団員が集合して生活しているという。
(19日にソ連との停戦協定成立)
8月20・21・22日。メリケン粉団子を食べながらここで過ごす。先遣隊が移動先の様子を見に出た。
8月23日。1500名の開拓団や兵隊とともに安全地帯とされた吉林省向けて出発。はてしなく行列が続いた。
8月24日。小興安嶺を通過した。
8月25日。団員中の産婦がローソクの光の中で女子を出産。その子はそのまま草叢に捨ててしまった。
8月26日。方正にソ連軍が入っていて、捕虜になって出るように言われて一同方正へ向かう。6才の女の子を山の中に捨ててきた、林の中では1才くらいの赤ん坊が泣いていた。途中の満人部落でソ連軍に武装解除された。
8月27日。岩手開拓団の奥さんが団から遅れて匪賊にあい、何もかも取られたが、気の毒にと満人の女が食糧を運んでくれたという。
8月28日。方正に着いた。

方正で越冬
第一は方正のあったどこかの開拓団の空家が用意されたが、もう何もかもが持ち去られていて何も残されてはいない、畳もフトンもなかった。近くにあった日本軍の基地には食糧がタップリと備蓄されていて、それを奪った満人が売りに来た。カネさえあれば心配はなかったが、そのカネがなく、売れる物もなかった。
ソ連兵がきて50才以上の者を全員どこかへ連れ去った(シベリア抑留が始まっていた)。病人が続出して週に1人くらいの死者か出た、子供は病気になればもう快復する見込みがなかった。
ソ連軍が引き上げた、やれやれと思っていたら、いなくなると今度は満人窃盗団が来る、満人保安隊が警備してやるというので喜べば、窃盗団とあまり変わらないものであった。
このまま凍死するよりはと、満人の所ヘお嫁に行く人が何人かあった。
発疹チブスの大流行で、107名の団員がとうとう27名となる。
中共軍が来てからは満人達もおとなしくなりようやく落ち着いてきた。

昭和21年5月19日。第一はハルピンへ向けて出発する、引揚げられそうだの情報があった。病人はみな残された。満服を着た日本人女たちがしゃんぼり出発を見ていた。途中遅れた団員がいなくなった。珠河に到着。中共軍の話では2、3年たたなければ帰国させてくれないという、カネはないし、病気になれば追い出される、こここで覚悟を決めて満人の主婦になろうの声も多かった。子供たちも殺すよりはとやった。
珠河には2ヶ月ほどいた、汽車が開通し無料、ハルピンへ出た。新香坊収容所に入った、義勇軍の訓練所だった所という、1ヶ月は無料で食べさせてくれた。ハルピン居留民の日本人からの寄附であったという。
ここには第二も先についていたし、集団入水自決をした生き残りの高橋村開拓団の人もいた。ここでは発疹チフスが異常と思われるほどに大量発生し命を落とした人が多かった(女性や子供も含め3000人という)。
一説にハルピン南郊の平房(ピンフアン)の6q四方いう広大な敷地に731細菌部隊(関東軍の対ソ攻撃手段として、主としてペスト菌だという、ペスト菌に感染したノミを生産した部隊、約3000人。ソ連軍の侵攻スピードがあまりに速かったために、細菌戦を仕掛ける余裕はなく、工兵一個中隊、爆薬5トンで爆破し、マルタや当時を知るクーリーなどの中国人勤務者などをすべて殺し一切の証拠を隠滅して逃げた。(ソ連軍は17日に平房に入った、人は間一髪で逃れていたが、大量のネズミやリス、サルなどかうろついていたという。施設は超頑丈に作られていて破壊しきれなく、あの有名な煙突などが今に残されている)。細菌戦としてはノミを使って発疹チフスを蔓延させるのがベストといわれていた。これが皮肉にも開拓民を襲ったのかも知れない。人間の意図通りにはいかぬ細菌の恐ろしいところである。
何も開拓民だけではなかった。
『新版 悪魔の飽食』

 〈 第七三一部隊が滑走し戦争が終わった翌年、一九四六年の六月末から九月末にかけて平房付近全域を猛烈なペストが襲った。義発源、東井子、後二道溝という村ではペストが発生し、百三名の死者を出した。第七三一部隊施設から逃げ出したネズミとノミによるペスト流行である。  〉 
ペストは西欧では黒死病として恐れられ、14世紀に大流行して1/4の人類を殺した。その記憶があるので、あちらではどんな極悪のアホでも絶対にペスト菌だけは手を出さなかった。731施設が爆破された10年後でも、周辺にはペストノミが生き残っているといわれ、防疫靴下をはいていないとヤバイと言われた。

NHKの番組『731部隊』によるとチフス菌も生体実験を行ったと証言されている。チフス、コレラ、ペストなどを研究、生産していた)があって、そこで培養していた毒性が強められた菌(人体を通すと菌の毒力は強まるという、人間の抗体に打ち勝った強い菌だけが残る、これをさらに何人にも繰り返して最強の凶悪菌を作るわけのようだが、この菌は感染した人体から生体解剖して取り出すしかない、死亡してしまうと雑菌が繁茂してネライの菌が取り出せない)が、証拠隠蔽しようと爆破したとき、あたり一面に飛び散ったためとも言われた。
平房で表門衛兵勤務に付いた兵士の証言

別に爆破がなくても実は731ができてからは、突如として急性伝染病が流行することがあちこちであった。人や家畜がバタバタと死んだ。
『新版 悪魔の飽食』

 〈 「私の通学していた哈爾浜高等女学校(のちの富士高女)でもぞくぞく病人が出たので、にわかに夏休みを繰り上げたくらいでしたが、休み明けの慰霊祭には二十名の遺影が並びました。これは強烈な記憶でした。噂では『スパイが病菌を水源にまいた』ということでした……突如はじまって短期間に終息した嵐のような出来事でした」  〉 
「スパイ」というのはもちろん731細菌部隊関係者である、こうした細菌を持つ者はほかにない、何かほかに目的地があって菌を撒いたのだが、目的外の所でも発生したということだろう。開拓団の羊などが死んだのは731の姉妹部隊で、家畜や植物専門の100部隊であろう。国境の川で菌を大量に流し下流のソ連領で感染するようにしたというから獣医も狂ったバケモノだったことになる、開戦前のことで不可侵条約守らないなどと言い出すのもド恥ずかしいようなことである。これらは細菌部隊と憲兵や特務機関が連携して行ったとされる。また731の勤務者(予防注射されていた)ですら、所内でよくチフスなどに罹っていたという、特に「下っ端」はみな感染した、部隊にいる限りはいつ死ぬかわからぬと覚悟していた、手当はしてくれるが、助からぬと判断されると生体解剖であった(誓約させられていた)、兵役に志願するのが逃れる唯一の方法はあった。731には、そうしたことでかなりの殉職者があり、弔うお寺を所内に作る計画もあったという。
上の者はヤバイことには決して直接には手を出さないから安全であった。ノモンハンの時はハルハ河にチフス菌を流したが、この時も菌の運搬に当たった者が感染して死亡している。細菌戦の欠点は味方も汚染することである。核やガスも同じである。いずれも最も帝国らしい醜悪な非人間兵器だが、帝国というものは味方も深く傷つけヘッサラである。解毒対策も一応は立て、安全安心ですとかぬかすが、そんなことはムリな元々が矛盾したハナシである、結局は上はヘッサラ、下はボロボロで使い捨てである。
関東軍、陸軍は人も武器も南方に引き抜かれて手薄になった対ソ戦で実際に、この「新兵器」で細菌戦を仕掛けるつもりでいた。昭20年5月からの大増産で、理想的な形でばらまけば、全人類を滅亡させられる細菌量に達していたと言われる。しかし菌をばらまく飛行機がない!さすが低国であった、超アクドイがだいぶに抜けている。



附録:関東軍731部隊(関東軍防疫給水部)とは

NHKの番組『731部隊』より↑
731といえば、この3本の煙突(真ん中は上が破壊されている)だが、この煙突は「実験」で死亡した、殺しただがその「マルタ」を焼くためのものでは本来はなくて、暖房用(センチラルヒーティング)のボイラー用のもの。死体焼却炉は別にあった。しかしマルタはボイラーで焼いて、灰は川へ流せの大本営命令があるから、ここで焼いたものもあるのか。部隊撤退時には多くの書類がここで焼かれた。中国は世界遺産に申請したとか。
同番組ハバロフスク裁判での川島清少将(731部隊第4部部長)↑の証言記録。第4部は細菌製造部である。彼は731古参幹部で言うことはほぼ正しかろう。


731だけ石井四郎とかのマッド医師ども、高度知識人、スンバラシイ専門家どもだけに限られた問題ではない、天皇が認定している正式の陸軍の部隊で年間300億円とか(この証言は正しいよう)もの予算(関東軍の非常予算に組み込まれていたため議会のチェックは受けない)が組まれているものだから、日本が国家あげて行った組織的な「日本国ぐるみ」のものであるということ、細菌などは箇々の部隊が勝手に上に隠して製造するとか作戦に使うとかはムリなものである。国家あげて゛サリン゛を作り使っていた、ナニとか宗教団体どころではない極悪国家であった。国だけではない、今は知らん顔してトボケているが内地の大学医学部や医科大学、民間の医学研究所などからも相当数、それもかなり高名な者までもが当731に派遣されて「研究」に当たっていた。もうガタガタであるが、もっとガタガタでもう絶望感すら感じられてくるのは、その事実を隠そうとしたり知らぬフリするどこかの一般の国民である。当時は隠されていて知らなかったでも通るが、現在はもうそうは言えないのである。これらの当時の国や医師どもとどこがどう違うのだろうか。やった者どもは悪魔、それを隠そうとする者、向き合おうとしない者もまた悪魔であろう。いや戦時の悪魔医者よりももっと悪魔性のある平時下の大悪魔かも知れない…、731とは別の者ではない、そんなリッパなものではない、かも知れないのである。隠せば731共犯者と見られてもいたしかたはなかろう。共犯者だからとぼけているのだ。知っていてウソを言ったり隠したり公文書改竄を行う者は、国民よりも一部のお友達優先国政を行う者と共犯者である、グルで国政を傾けている、トップがダメだと下はさらにワルイ、もうメチャクチャであるがそれはともかくも、このリクツは成り立つ。
日本のファシストどもと日本の人民は違う、区別して見なければならない、とは言われるが、本当に区別できるものだろか、区別できればいいが、人民さんもけっこうファシスト顔負けをやってはいないだろうか。厳しく自己点検を行わないと、警戒し疑惑の目で見ていてもいつその悪魔に落ち込んでしまうかわからない、不安定な脆い者でしかない。当時の日本人と今の日本人が資質が大きく違うとは言えまい、そう変わるものではない、善悪判断なしにすぐに群れる、上に対する批判心がない、自分達はエライモン、タダシイモンだとすぐ信じ込む、都合悪いことは皆で隠し、一面しか見えない…、もう731そのものではなかろうか。侵略戦争に対する批判もないままに、憲法改正といい、再軍備の合憲化、ヘーキである。狂いはもう早くから始まっている。ワレラもまた731共犯者かも知れない。
だからうるさく言わざるを得ないのである、ファシストと同列とは言わないが、人民側であっても言い過ぎるということは、ワタシの経験でもまずないのである。
森村氏も「731部隊の真のおそろしさは、生体実験など、それの犯した所業自体だけでなく、われわれも731隊員らの延長線上にあるという事実である」とされているが、日本の医学界というのか厚生関係にはときたま信じられないような妙な事件が発生している、もう一つ信用できないのだが、この恐ろしさに気付かないと、もうすでに半分は731になっているのかも、気付くようなものでないと当館の展示もたいした意味もないことになる。
「お国のためにやったことで、悪魔呼ばわりは当たらない」は、通るまい。そうしたことは何の理由にもならない、戦争はどこの国も「お国のため」戦っているのであって個人が勝手に戦っているのではない。「お国のために」は今なら「総理のために」と置き換えられて、ヘッサラで公文書の改竄が行われた、東大での超エリート官僚によってである、これは許されることであろうか、「お国のため」なら何をしてもよいのか。「お国のために」「会社のために」「エライさんのために」が行き着いた所が731であった。そうした狭い視野はもう捨てるべきであろう。世界平和のために、とか人類発展のために、とかの目標であるべきだろうが、それでもまた踏み外す。「…のために」はもう捨てよう。若い人なら知らず、エエオッサンならば、特にこうしたクソどもはみな本当は「自分のために」やっているものである。
逆に中国やロシアが日本国内で同じことをやれば、どう見るのであろう。彼らとて「お国のためにやったこと」そのシベリア抑留を悪魔呼ばわりするなら、731などはやはりそれ以上にさらに悪魔呼ばわりされるのである。
医者はビョーキを治すのが仕事、それが健康な人間をビョーキにする、などは悪魔呼ばわりされてされても何の申し開きができるのか。殺人犯でないか。
ロスケめがひどいことさらしてからに皆さん見て下さい、とラーゲリの復元展示するなら、もっともワシラはもっとひどいことしましたで、と731のマルタ収容特別監房7・8号棟も復元しなければ公平でなく歴史の真実を隠すことになろう。正義がワレラにあるのかどうか判断してもらえばよかろう。
被害は出来る限りドデカク、加害は知らぬ顔、これが当館の姿勢か。そんなアホげな努力はやればやるほど、その見下げ果てた俗物根性を全世界が笑う。戦争には被害と加害の両面があって、被害ばかりを言って加害を隠すと、メダルの一面だけとなり、真実の片面を欠くことになり、最終的にはこうした手前勝手に行き着くことになる。自分さえよければいい、他国のことなど知るか、ということであり、それはまさに731心理であり戦争国の心理であり、70数年前の舞鶴市民の心理である。今でもそれをやるならば反省なき国そのものだが、それでは戦争の歴史に学ぶことにはならず、政治的プロパカンダ目的のヤシのニセモノの茶番館類に落ちてしまう。やりたければテメエのゼニで勝手にやればいいが、公的なものとしては道を踏み外すこととなろう。

「見るな、聞くな、言うな」が鉄則の超厳重秘密施設で、近くを通る列車は窓カーテンを降ろさねばならなかった、日本軍の飛行機ですらこの上空は飛べなかった(上空を飛ぶ物は友軍機といえども撃ち落としていいとされ迎撃用戦闘機(隼)まで用意されていたという)。7棟・8棟に収容されていた特に「マルタ」は極秘であった、常時2〜300人が収容されていたという。ここから部隊員が逃亡したりすると「敵前逃亡」とされ、銃殺であった。外部から731を探っていると日本人記者でも殺されたという。こんなHPなど書こうものなら当然マッサツされる、読んだ者も同然。当時ならばということだが、今はさてどうだろうか…似たようなことかも…
日本が中国で行った「二大悪行」とされるものが南京とここである。アウシュビッツと並び称される悪行ともされる。(南京は教科書にあるが、731はない。アメリカへのソンタクか、属国の歴史教科書とはこんなものか…)
日本はそんなワルイ悪魔の国ではないと、勝手に信じ込んでおられるむきには信じられないかも知れないが、信仰はそのくらいとして、実際を見てみよう。正義で安全でワレラ国民の命と財産を守ってくれると信じられている日本丸やアメリカ丸という大船は本当はどんな船なのか。これか根本から疑われるとツライ人も国民の中にもけっこう見られる。自分の両親を疑うようなハナシとなり、そうした人達には当面は当ページは地獄であろう。当館もその類かも知れないが、日本のヒヨワでヨウチな精神は「やめてくれ。ヨソの悪口を言ってくれ」とよく言ってくる。どこの悪口かと言えば、チャンコロやロスケや三国人の悪口を望まれている。そうしたければ、自分でやればいいではないか。
嫌がるもう一つは体制に迎合して市民を守るという基本精神を忘れたどこか市政当局者のような立場の者である。当館はそのどちらの立場にもあるので、こうした物が展示されるということは当面はないであろう。しかし将来のワレラの子孫の厳しい批判からは逃れられまい。墓の中で大恥をかくこととなろう。ド卑怯者どもには当然の運命である。
『沈黙のファイル』

 〈 「ゴーッという爆発音に驚いて外に飛び出しました。昼間なのに空が光り、五階建てビルより高い黒煙が何本も噴き出していました。以前からそこに日本人がいることは分かってたけど、何をしているのか全然知らなかったんです。子供はもちろん大人も近づくことはできなかったし、汽車に乗って近くを通る時も窓のカーテンを下ろさなければいけなかったから」
爆発が四日間ほど続いた後、部隊から逃げ出したネズミの大群が村に押し寄せた。トウモロコシの貯蔵かごに茶色や白のネズミがひしめき合い、大豆畑は食い荒らされて丸裸になった。
「ネズミの大群は冬眠のためいったん姿を消しましたが、翌年春には再び姿を見せるようになりました。村を歩くとそこら中にネズミの死体が転がっていて、そこにノミがいっぱいたかっていました」
小麦の収穫が始まった四六年七月末、村で最初のペスト患者が発生した。靖の父如山(四〇)、姉(一四)、弟(一〇)も相次ぎ高熱を出した。
「三人のわきの下、耳の下、足の付け根など体中のリンパ節がはれ、首は頭と同じ太さに膨れました。ものも言えず水も飲み込めない。手当ても何もできず、ただうめき続けるのを見守るしかなかったんです」
発病三日目の朝、姉は苦しげに顔をゆがめ目を見開いたまま息絶えた。父はその日正午、姉の後を追った。
「残った弟のまくら元で『どこが痛いの』と懸命に話し掛けました。でも弟は『お兄ちゃん』と呼ぶこともできず真っ黒な血を吐いて死にました。父の死の二時間後でした。弟の悲痛なうめき声と表情は忘れられません。遺体を埋葬しようにも伝染病だということが分かって、村の人はだれも手を貸してくれませんでした。遺体が腐って、臭いが家の中に充満しました」
ペストは三つの村で猛威を振るった。死者は半年間で百十七人。七三一部隊が発生源と分かったのはそれから間もなくだった。
極秘に細菌兵器の開発を進めていた平房の七三一部隊の跡地を靖に案内してもらった。施設の大半は破壊され、今は学校や工場が立ち並ぶ。片隅の草むらに七三一部隊の壊れかけたボイラー室の壁と、高さ三十メートルの煙突が二本ひっそりと立つ。壁面からぐにゃりと曲がった鉄骨が突き出している。  〉 


 〈 七三一部隊。その撤収命令を出したのは大本営の対ソ作戦担当参謀、朝枝繁春だった。
「あの時は決死の覚悟だった。ソ連に七三一部隊の人体実験の証拠を握られると、まかり間違えば天皇陛下まで責任を問われかねない。それだけは絶対阻止しようと満州に飛んだ」  〉 


 〈 十日正午すぎ、偵察機や連絡機が慌ただしく離着陸する満州の首都・新京の飛行場に着くと、一八〇センチを超す長身の男が滑走路で待っていた。太い八の字の口ひげ。金地に二つ星の襟章。七三一部隊の創設者の軍医中将、石井四郎だった。
朝枝はつかつかと石井に歩み寄り、声を張り上げた。
「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします」
石井は背筋をぴんと伸ばし、直立不動の姿勢を取った。
「貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください」
石井は母校京大などから優秀な医学者を集め、ハルビン郊外の平房に世界最大規模の細菌兵器開発基地をつくり上げていた。
朝枝が「細菌学の博士は何人ですか」と聞くと、石井は「五十三人」と答えた。朝枝は「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」と指示した。
「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」
石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。
「ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね」
朝枝は、思わず声を荒らげた。
「何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」
新京から北東へ約二百キロの平房では石井の指示で七三一部隊の撤収作業が始まった。
研究者らは細菌培養の実験器具を粉々に割った。窓から大量の書類を地面に放り投げ、燃やした。人体実験材料の中国人捕虜ら四百人余は一人残らず殺した。関東軍の工兵隊員らが駆け付け、研究棟や特設監獄、毒ガス実験室などを破壊し始めた。
「十一日の昼すぎだったと思う。『石井部隊長の演説があるから集まれ』と連絡があって線路わきに行くと、高さ約四メートルの石炭山の上に石井部隊長が立っていた」
元隊員の越定男(七七)はその光景を今も鮮明に覚えている。
隊員ら約五百人が直立不動の姿勢で見守る中、石井はすさまじい形相でしわがれ声を張り上げた。
「部隊の秘密はどこまでも守り通せ。帰国後は公職に就いたり、隊員同士で手紙を出し合ったりしてはいけない」
右手でわしづかみにした軍帽で額の汗をぬぐい、石井が隊員たちをにらみつけた。
「もし秘密を漏らす者がいたら、この石井がどこまでも追いかけるぞ」  〉 
ここで生体実験用のマルタ(いろいろな「容疑」で勝手に捕まえてきた中国人(7割)、ロシア人(3割)、ほかにも蒙古人、朝鮮人など(アメリカ人もいたという)。なんでロシア人がこれほどと思われるかもしれない、ハルピンは元々がロシアが作った国際都市で、何万とかの白系ロシア人やそのsympathizerが多かったという。マルタの年齢は2〜30代で、ほとんど20代、女も子供もいた。ハルピンは「反満州国のスパイの巣窟」とされ、マルタに不足をきたすことはなかった)として殺された者は少なくとも3000人といわれる(川島証言による。元隊員達はもっと多かったと一致して証言している。マルタはここでは最良の食事を与えられた健康体、だいたい2日に3人の割で実験材料として「消費」されたという)。

中国の寧波や金華、常徳の上空からペスト菌やコレラ菌をばらまいた(日本政府はいまだに認めていないそう、実行犯の証言があり、記録フィルムまで残されているからどうにも否定しようはない、東京地裁は事実認定した)、井戸に菌を撒くなど地上散布作戦もしたが、その被害者の多くは日本兵であったという。天皇がこうしたことを嫌っていたため、シドニーやハワイ、ミッドウエーなどでも潜水艦で特攻し使う計画はあったが、細菌兵器がこれらの都市で実際に使われたとする記録はないという。石井などは731の研究データーや標本などを米国のみに提供する、ソ連には渡さないとの交換で、アレはなかったものとして戦犯追訴を免責されたそうだが、731のノーハウやデーターは現在のアメリカ軍B・C部隊に受け継がれ、その基礎となっているといわれる。しかしナニともカニとも、いかなドクソのファシストといえども731は美化礼賛のしようもない、この戦争の身の毛のよだつヘドのでる本質部分だが、日帝の超悪事のあとを米帝が利用し引き継ぎ支配しようとする、この時代でもよく見られた暗黒史であった。
障害者は殺してこそ社会のためになる、とかの事件があったが、あの殺人者の考えよりもまだまだワルい。どこまで思い上がったキチガイであろうか。京大の医者たちが(石井部隊長の嫁さんは時の京大総長の娘で、731の学者の大半は京大閥で固められたという、しかしここだけに限られるわけではない)、「満州猿」を捕まえて生きたまま実験し解剖した連中が医者と呼べるかどうかだ、こうした人とは思えぬ所業を隠れて行っていた、決して行ってはならないことであった、戦後も長く隠し続け、やがては日本医学界の重鎮として返り咲いた。あれはお国のためだった、良心の痛みもツミの意識もまったくないということであろう。(2名だったかは自殺している)。満州「猿」生体実験論分に京大は同校出身者へ博士号を与えていた。別に京大だけの問題でなく、一般に軍事と医療・科学・学問、それだけでもないが、軍事ダーダー風潮に流され、上にダーダーで、歴史に学ばず、隠すしかノーがなく、広い観点に立つ批判心がなくシャキッと拒否できない、その行き着く先がどうしたものとなるか、京大ですらもこんな情けない大悪魔に落ちていたということを示すものであろうか。天下の秀才が集まる京大がそうだというなら問題は深刻である、いわんや天下の凡才が間違わないはずがない、ここは必ず間違うぞ、と見なければなるまい。日本人は信用できない、と見られても仕方ない。日本人だけで何かをしでかすのはヤバイのとちゃうか、毛色の違うのはすべて排斥して「純粋な愛国日本人」だけで何かやってはなるまい、と思われる。個としての善悪の判断力が弱く、近代人としての個性がない、だからムレに引きづられ、ムレ全体で間違え日本国全体が間違う。ファシズムになりやすいがその責任者は誰かと言えば真空である。いやワシやない、いやワシやない、と今も見られる通り、若干は責任も感じているのか。当館も国際チームを組む方向が求められる。
これが我国スンパラシイ日本である。日帝や米帝が大宣伝とはまったく違ってどんな姿をしているかがうかがえる。その尖兵として、その植民者として、バンザイバンザイと送り出したことになるが、知らなかった、とか言われるが、チトはウワサで知ってはいたであろう、ウスウス知ってはいが、知っていたから逃げて帰ってきた、長くつきあいを閉じ目を閉じた、その大事なツボは当館もしっかりと目を閉じている。戦争は終わってはいないのである、皆さん来て下さいと宣伝するようなものでもないということになる、一体どこの皆さんに呼びかけるのであろうか。

731は舞鶴ともわずかには関係がある。
『731』(青木冨貴子)には、

 〈 七三一部隊の運輸班員だった越定男も著書に貴重な証言を残している。満州から故郷の長野へ無事帰り着いた越は、家族を長野に残して東京へ出た、と記しているのである。
 「家族を送り届けたら、直ちに東京へ来いという指令を石井隊長から受けていたので、そこに家族を残して東京へ出向いた。……東京に着くと直ちに金沢へとんでくれという話であった。七三一部隊は、舞鶴から汽車で金沢に行き、金沢の野間神社に仮の本部をおいていたのである。釜山まで、貨車で運んだ荷物は相当なもので、これを舞鶴から金沢へ運び、いったん金沢陸軍病院の倉庫へ移したことがわかった」
野間神社には幹部が一五名ほどいたと越は記している。その顔ぶれが誰だったか記されていないが、幹部は進駐軍の動きを見ていたようであった、という。  〉 

『新版 続 悪魔の飽食』

 〈 終戦の直後、一九四五年八月十九日のことである。金沢市小坂町東一番地所在の野間神社に、軍属服を着た数人の男がやってきた。
応対に出た宮司に、男たちは次のような口上を述べた。
 「自分たらは舞鶴港に引き揚げてきた陸軍のさる部隊の者だが、金沢市内に入ったところ、どこにも泊めてくれる宿がなく、難渋している。食糧等は豊富に持っており、迷惑を掛けることはないので、しばらく当神社の一隅に宿をお貸し願えないか」
野間神社は金沢市出河北郡の総社(郷社)として知られた由緒ある古社である。石造りの大鳥居をくぐると境内には亭々とした松柏がそびえ、苔むした石灯籠と青銅葺きの屋根をさしかけた手水舎がある。急傾斜の石段に導かれて、白木造りの本殿と朱塗りの小祠の前に出る。
軍属服の男たちが訪ねてきたのは、本殿横の社務所兼宮司宅であった。
宮司の記憶によれば、男たちの言動は穏やかで、軍人臭がなく、内地に引き揚げてきた宿無し部隊≠フ困窮がうかがわれた。当時金沢市内には陸軍第七連隊が駐屯していたが、命令系統や部隊所属等のちがいにより、世話になりにくい事情があるのだろう、と宮司は判断した。
金沢は戦災を免れた数少ない地方都市の一つである。復員基地の舞鶴の近くであったので、宿を求める人間が市内にあふれ、終戦直後、一部隊をそっくり収容できる旅宿はなかった。
困っているときは相身互いである。神社が敗残皇軍=@の一時宿泊所になるのも終戦の混乱ゆえである。宮司は、男たちの申し出に承諾を与えた。男たちは部隊名を名乗らなかったが、総員二十人余り、社務所二階を開放して宿泊所に当てた。
宮司の承諾を得た後、部隊の行動は迅速であった。その日の夕刻にかかるころ隊員を乗せたトラックが野間神社に到着した。トラックは一台だけではなかった。何台もの車両が、隊員と相前後して神社大鳥居の下に横づけとなった。時ならぬ郷社への部隊到着は、付近の氏子たちを驚かせた。
トラックから下ろされてきた品物を見て、氏子たちは目をむいた。
まず、数十個の叺や袋に入った米があった。麦、豆、塩もあった。大樽に入った味噌や、陶器入りの醤油があった。十袋や二十袋ではない。山のような量である。食糧不足に悩む国民をよそに、軍隊には豊富な物資があると聞いてはいたものの、道路上に積まれる食糧の山は、氏子たちの羨望をそそった。
中でも氏子たちの目に豪勢と映ったのは、紙袋に詰まった砂糖や、ぶどう糖の粉末であった。甘味に飢えていた氏子たちは、ぶどう糖の堆い集積に目を見張った。  〉 
河北郡は金沢医科大学のある所で、同医科大にも731の重要なデーターが保管(隠匿)されたという。野間神社では、どうもコイツらアヤシイぞ、と氏子たちに感づかれ、一月ほどで追い出されたという。
これらの「荷物」の中には生体実験などのデーター類があった。それは平坊から鉄道で釜山へ、そこから舞鶴へ陸揚げされたようである。特別にチャーターされた船か、引揚船ではなく、時期はそれよりもずっと早く(終戦直後のよう)、引揚の記録にはない。(森村氏によれば海軍駆逐艦という)
人よりもこれが先に帰国してきたようである。後にこれら資料やサンプル、標本類はアメリカに渡り、朝鮮戦争ではアメリカが使ったとの報道もされた、菌はMADE IN JAPANだったというから731はアメリカに引き継がれ生き続けたようである。半島に空から菌を撒いて有菌地帯、というか有菌ベルトを作り補給を断つという計画が実施されたという。日本に原爆を落とした心理と同じで、黄色いのなどは人間と思っていない、ベトナム戦争の時も「東洋人の命は重要ではない」とか本音を語った米政府要人がいた、そんな者が死ぬことなどは、虫でも死ぬのと同じ、ヘでもないようである。731と同じである、では何の為に米国はここに大軍隊を置いているのか、「平和と繁栄のため」とかの大宣伝文句は「米国の」の前提が隠されていそうである。今も北朝鮮が恐れるのはアメリカのこの恐ろし過ぎる心理であろう。テメエも黄色いくせに黄色いのを人と思っていない、どこぞのスンバラシイ国、こちらの方はもっとさらにコワすぎる。
舞鶴引揚史の知られていない暗黒史の一つか。やがてこれらは日本に返還され防衛省にある、ということだが、防衛省は知らないといってるそう。
学者たちの運動が実りたくさんの押収資料が日本へ返還されてくるが、ところが日本政府は全部これらを隠してしまい、誰の目にも届かないものにしている。アメリカはそこは民主国家で日本人が行っても見られるのだが、日本へ返還されるともうこのザマである。プライバシーを理由に見せない、シブシブ黒塗り、さらに都合悪いと隠蔽、さらに削除、シュレッダーである、こんな政府のもとでは資料は返してもらわない方がいいかも知れないようなことである。公金を使っているものにプライバシーは理由にはなるまい。そして先進国とか言っている、世界が笑うことだろう。

生体実験はほかには九大事件がある。撃墜されたB29の搭乗員9名が九州大学で生体解剖された。看護婦までも逮捕され裁判が行われた、5名が死刑(後に恩赦)。そのほかでも行われたとの証言があったが、アメリカによりすべて調査が打ち切られている。
ドイツは人体実験を行いニュールンブルグ裁判で裁かれ、何人かは死刑となり執行された。細菌兵器はヒットラーが反対で、ドイツにはなかったという。ヒットラーさえ嫌がるようなものであった。
後にアメリカがイラクが細菌兵器を持っているとして攻撃を行った、日本は最初に支持して大恥をかいたが、実はナニもなかった。米帝(自分は持っている)ですらも嫌がる、こんな手前勝手な者どもすら嫌がるような、人間ではないモノが手をそめるような嫌な兵器である。

福知山市の長田野工業団地に「ミドリ十字」の工場がある。今は何か名が変わっている(日本血液製剤機構)が、石井の片腕とか囁かれた関係者たちの創業になる。(実は朝鮮戦争で必要となりGHQが作った゛やらせ゛ものという、薬害エイズ事件とか安全よりもモウケ優先でいろいろ問題を起こした)。医者らしくもないウサンクサイ流れもある日本医学の世界である。ヘンな所で天田開拓団は、731と再会したことになるのかも。。


もともと疫病が流行りやすい土地柄と状況であった、兵隊も戦死者の10倍も病気で死んだと言われる、731も防疫給水部とあるのは、それから兵士を守ろうとした防衛的なものであった。最初はそうしたものであったが、しかしは防衛と攻撃は紙一重というより、実は境はない、同じ物の裏表で、防衛はいつでも侵略に切り替わる。

さて本題にもどして、
8月いよいよ引揚となった。第一は無蓋車で出発、9月の半ばに葫蘆島へ到着。「葫蘆」とはヒョウタンのことで、そうした形の島で、清朝時代から築港の動きは見られたが本格的には張学良になってからであった。この港を拠点にした満鉄併行線を敷設しようとしていたが、満州事変で中断したままだったのを修築したものであった。元々は大豆積み出しの貨物港であったが、港湾で国民党支配下にあったのはこの港だけであったため、長い長い埠頭に引揚船を着けた。
10月初めに乗船し、佐世保に上陸。10月10日に故郷に帰った。
「福知山駅に着いた、神社の秋祭があって、すれ違う人達はきれいな着物を着て歩いていた、私達母娘は着た切り雀。まるで乞食。行くあてもなかった。」
「にぎやかな家族だったのに、誰もいなかった。それなのに故郷は何も変わっていない」
アレは一体何だったのか、何もなかったかのようであった、これでいいのか、の気持ちがわいた。
第二はこのころ病人を残して葫蘆島に到着し博多に上陸した。164名のうち死亡75、残留7、行方知れず12で、帰還した者は70であった。

死因の最大は「収容所」での越冬であった。越冬せずに帰国できればよかったが、この時満州にいた日本人は民間人だけでも160万もあった。関東軍はもとより政府もみな逃げ出していて彼らはまったくの無保護の状態に置かれた。内地も壊滅、饑餓の状態であり、彼らを輸送する船も準備もなかった。確保できる船腹でフル運転したとしても4年間はかかるという計算であった。満州へ行け行けと勝手なことを言いながら、いったん状態が悪化すればナニもしない、できもしないの無政府状態になった。満州国のNHKは「大陸の日本人の皆さん、その場所に留まり、そのまま生活を続けて下さい」と放送していた(政府方針)。日本へ帰ってくるな、ということで、そこに土着して満州人となれ、全員が残留孤児になれである。勝手の極地を行く話であった。
シャナイな、と元の開拓団へ引き返した人もあったが、そこはもう現地人に接収されていた、思えば満州はもともと彼らの土地で、日本人のものの考えは虚構でありヤシであった、十町歩もユメではないはユメでしかなかった、もう日本人の土地はなかった。帰ってくるなと言われても帰るしかなかった、ナニもかも失って帰るしかなかった。自分を捨てた頼りない当てにもならないインチキ国だが帰るしかなかった。
「満州開拓」何か立派な行動かのように考えていたが、相手側からみれば、あるいは一般的に考えても、実は侵略者でしかなかった、その国からも捨てられた棄民だったことを思い知らされた。




第一、第二合わせると総数241名中、帰還できた者126、死亡117、残留16、不明18であった(『生還者の証言』による)。
福知山城の碑の案内によれば、全員で311名、生還者126名、死亡145名、残留16名、行方不明24名という。→
残留者のうち4名は中国の家族とともに帰国した、6名は中国での現住所がわかるという。

敗戦直後に満州にいた開拓民は27万人、死者は8万人とか言われる、率は3割弱だから、そうした平均値の2倍近い死亡率であった。
3割も死者がでると軍隊では「全滅」と呼ぶそうで、よほどの激戦でもそれほどには死なないと言われる。
現に匪賊に撃たれて死んだ団員は1名だけか、これは「警備隊」の近くにいたから誤射か流れ弾に当たったかの気の毒なことで、自身が武装していたのかは不明、武装していなくともいかに現地人に親切に接する人であったとしても狙撃されることは避けられない土地であった。自決もなかったようであり、ほぼすべてが病死衰弱死であったと思われ、食糧医薬などがないいかに苛酷な生活状態に置かれ続けたかを物語っている。食糧なども当初は持って逃げてはいるが、手で提げているので重くて持ち続けられなかった、途中で捨ててしまったと証言にも多い。スーパーで買い物した袋よりすっと重いものを下げて子供をつれ、路なき路を急げ急げと300キロとか歩くだから、食糧すら捨てざるを得なかった、食糧がないと衰弱し病気への抵抗力もなくなる。それにしてもこの普通より2倍に近い死亡率の高さは何によるものであろうか。日本国政府が何もしなかった、それはその通りだがあんなものはアテにするのが間違いであろうか、現地民との接触がなく日本人だけの社会であって、現地人からの援助が得られなかったことも挙げられるかも知れない、普段から助け助けられる関係を作る努力がない、これも大きな要因かも知れない、しかし植民地へ入植したものであって、相手から出て行けと思われている者だからそれも難しい。
もともとからイザは考えないやり方であったと言える、今の原発のように。

青少年義勇軍がそのカッコウから兵隊と間違われ銃殺されたとか、間違っても日本兵のようなカッコウはしないこと、近くにいないことである、現地人の永年の怨恨の第一のマトであり、彼らは現地を知り尽くしている、こちらはナニもわからないのだから、戦っても勝ち目はない、日本兵らしい者を目にして保護してくれるだろうとか考えて近づかない、いつどこから撃たれても不思議ではない。武器を持つ者の近くには行くな、そこは安全どころか命がヤバイ、そんなカッコウもするな。兵隊を見たら反対側へ逃げることである。

中国現地では民間人の慰霊はできるが、関東軍兵士に対しての慰霊は住民に強い不快感を与えるとして、してくれるな、あるいはあまり目立たぬように、誰も人がいない夜に静かにやってくれと、言われたという。
元開拓団の民間人の慰霊です、「皆様の犠牲の土台に日本は復興し今は平和と繁栄を築いてまいりました。生き残った者として心からご冥福の祈りを捧げます」と、黙祷を捧げるそうである。バンザイすると帰ってくれと言われるとか。「この一行は民間人犠牲者の慰霊団で、決して関東軍兵士のためではない」と当局が説明してくれて、周辺の市民たちも認めてくれるという。「残留孤児」や韓国の慰安婦問題などやこうした問題は多くが残されたままで、まだまだ戦争は終わってはいない。
シベリア抑留は関東軍兵士が多い、開拓団の「根こそぎ動員」でにわか仕立ての兵士にならざるを得なかった気の毒兵が多いが、しかし兵隊は恨まれた第一の者であったし、今も強く恨まれていると知っておくべきだろう、そうした気の毒兵とは知られてはいないし、応召の下っ端兵は皆そうした気の毒兵であって区別はできない、青少年義勇軍ですら、関東軍の意見で満州では「青少年義勇隊」と呼んで軍とは呼んではいない。軍では現地で受け入れられまい、関東軍ですらそれくらいのことは知っていた。

日本人開拓民も民間人を保護せずに自分だけで橋まで壊して逃げた関東軍をひどく恨んでいる。
世界に向けて発信したいと言うなら当館は兵隊中心から民間人中心の展示に切り替えていくべきかと思う。関東軍が作った館であってももう少しは工夫があろう。

「日本人がこれまで満人をいじめたから、満人が私たちを殺すというなら、やむを得ないが、いままで関係のないソ連軍に殺されては浮かばれない」と、だいたいはこう考えていたようである、だから満人を悪くは言わないが、それでウラミをロシアにぶつける。当館もそうだが、ロシアだって2000万人とかを殺されていた、誰に、ワレラの盟友によってでなかったか。直接の下手人ではないが、黒幕みたいなもの間接的にはそれに関わったでないか。満州国は他国の領土に勝手にデッチ上げた傀儡国家である、どの国であってもいずれは黙っているはずもなかろう。







(参考)
『図説福知山・綾部の歴史』

 〈 「鍬の戦士」たちの夢と悲劇 ●満州天田郷の建設

 昭和七年(一九三二)、主に軍需資源の供給地とするため、中国東北部に日本の傀儡国家である満州国が建国され、一二年度から関東軍や拓務省によって日本の農家を大量に同国へ移民させる計画が進められた。その主目的は、日本人人口の増加による同国の治安維持および対ソ連戦への備えであったが、同時に当時、経済不況で疲弊していた農村を救済する更生政策の一環でもあった。こうした移民の総数は、敗戦時には二七万人にのぼったという。
 昭和一三年、天田郡細見村が、経済更生運動の一環として満州国に模範分村を作る計画を立てたことから、天田郡・福知山市から一六名が第七・八次満州農業移民本隊に参加し、吉林省黒石邨・青溝子開拓団先遣隊として渡満した。これを機会に移民への気運が盛り上がった天田郡では昭和一五年一月、天田郡経済更生委員会会長大槻高蔵を中心に各市町村の首長や農会長・技術員による合同会議が開催され、皇紀二六〇〇年記念事業として満州天田郷建設が決定された。これは、年内に天田郡・福知山市から合わせて五〇戸の開拓団を移住させるもので、送出本部を天田郡農会におき、団長には福知山市農会主任和田昌純が就任した。和田は内原満蒙開拓訓練所(茨城県)で研修を終え、満州の現地視察を行ない、入植地を三江省依蘭県道台橋村長嶺子に決めた。
 五月、さっそく先遣隊八名は現地に就き、農具・種子・牛馬の購入や共同宿舎などの建設、農作業にとりかかり、明くる年の本隊受け入れに備えた。しかし、なかなか思うように後続部隊の送り出しが進まず、そのため労働力・資金不足のほか、冷害でも苦労した。それでも一八年には天田郷の戸数は四〇戸、人員は一三三名になり、共同経営から個人経営に移行し、四年目にして大豊作となって、開拓団の基礎が固まった。
 一八年七月には、天田東亜開拓報国会が結成され、新たな構想と機構で隣接する依蘭県吟玄村西三家子邨に第二天田郷の建設が計画された。このときの移民奨励組織は強力で、第一天田郷の成功もあったことから、第二天田郷の入植者は一九年一〇月で二四世帯、五八名になった。
 ところが翌二〇年に、関東軍の南方戦線への移動に伴い現地応召がなされ、団員の大部分が入隊したので、開拓団は労働力・防衛力の担い手の大半を失い、危機に陥った。八月九日、ソ連軍は突如対日宣戦を布告し、同時に国境を越えて満州に進撃を開始したので、婦人・子供・老人たちなど残された開拓団民の悲劇的な逃避行が始まった。第一・第二の天田郷三一一人の内、帰国できたのは団員八六人中五二人、家族二二五人中七四人で、残留者一六人、行方不明者一八人であった。
 こうした悲惨な結果と残された問題については、天田郷建設に指導的役割を果たした上垣松之助による『生還者の証言−満州天田郷建設史−』に克明に記されている。忘れてはならない郷土史の一頁である。(塩見行雄)  〉 


『夜久野町史』

 〈 満蒙開拓団
昭和四年(一九二九)六月に「拓務省」が設置され、満州の開発と移民が計画されるようになった。当初は現地中国人との軋轢も大きく、騒乱の発生もあって計画は停滞していた。昭和十一年八月、拓務省は二〇ヵ年で一○○万戸の開拓移民送出計画を立て、閤議決定され、国策となって翌年度から実施された。結局敗戦までに三三万人が移民したが、これら移民団の多くはソ連との国境近くに配置され、治安維持の役割も負わされる事になり、敗戦直後、帰国に際して大きな障害となった。
昭和十二年一月、拓務省により京都府庁に近畿二府五県の担当者が集められ、満州移民の奨励策が協議されている。これにより、第七次先遣隊(全国で三〇人)と第六次本隊(全国で六〇人)の募集・宣伝が進められることになり、一月二十九日の京都市公会堂ほか府下八ヵ所で講演会などが計画された、ここでは.経済更生村を中心に、土地問題の解決と窮乏する農村経済の建て直しの解決策として、満州移民が位置づけられていた。これを受けて、天田郡などでは二月十日を「移民デー」として、紀元節祝賀会に合わせて講演会などが計画された。
昭和十三年、細見村福知山市三和町)村長の長沢延之助ば経済更生運動の一環として満州国への分村を計画し、九月に農村更生協会主催の満州移民地視察団に参加し現地を視察した。この報告を受けて細見村の分村計画が動き出すとともに、天田郡産業組合青年連盟の有志らが天田郡の分郷計画を立て「満州移民協議会」を結成し、実行に向けて参加者を募った。当時の、農村の窮乏する経済と農地不足による逼塞感、行き場のない閉塞感を打破する策として、青年らの共感を得ることになった。
昭和十四年二月には、国の進める満蒙開拓団として細見村一〇人、福知山市二人、下夜久野村一人、天田産業組合青年連盟三人の総勢一六人が、兵庫県で一ヵ月の訓練の後、各地からの人々とともに満州へと渡り、黒石屯(第七次黒石屯近畿開拓団本隊}と青溝子(第八次青溝子開拓団先遣隊)の開拓にあたった。

満蒙開拓青少年義勇軍
戦局の拡大にともない兵役が優先され、移民に応募する者は必然的に減少することとなった。昭和十三年には五万人の満蒙開拓青少年義勇軍派遣の計画が進められ、二月に第 期七〇〇人が京都府へ割り当てられて先遣隊五〇人を二月十五日までに募集することとされた。「満州の一画に楽土を開拓、ここに雄々しくも京都府を建設しよう」と募集され、一〇人が五月から訓練を受け、六月に渡満した。満蒙開拓青少年義勇軍は、一五歳から一九歳までの青少年を募集し、茨城県中津村内原に設けられた内地訓練所で訓練を受けた後、満州での開拓に携わることになる。京都府でも、昭和十三年から毎年、募集・編成されているが、昭和十九年には夜久野から指導者として二人が参加している。応募者は全国で総数約八万六〇〇〇人を数え、昭和十九年の終わり頃からは現地で召集された、そのうち終戦後の混乱のなかで死亡した者は二万四〇〇〇人であった。京都府内からは最終的に第五期までが動員されているが、その犠牲は非常に大きなものとなった。

満州天田郷建設
昭和十五年一月二十六日、天田郡・福知山市の市町村長、農会長らの合同会議において、皇紀二千六百年記念事業として満州天田郷建設事業が決議され、天田郡・福知山市の独自の事業として実施されていくことになる。おりから、拓務省は新たに満州特設農場を計画した。勤労奉仕隊として全国で三二〇〇人の中堅農士を募集し、前後二班に分け、各三ヵ月ずつ農作業に従事するというもので、満州の状況を周知し、本格的な入植のきっかけとするものであった。京都府の割り当て五〇人に対して、天田郡・福知山市の他からも多数の応募があったが、天田郡・福知山市の四二人(うち上夜久野村二人・下夜久野村二人、中夜久野村一人)は全員が参加することとなった。満州天田郷建設計画は、昭和十五年中に五〇戸の移住を計画し、二月二十一日から三月十五日まで募集され、先遣隊に応募したのは六人(うち上夜久野村二人、中夜久野村一人)であった。
予定よりも人数が少なかったため、昭和十四年三月に渡満していた天田産業組合青年連盟の一人に参加を要請し、彼は弟をともなって近畿開拓団を退団し、満州天田郷建設に参加することとなった。これに福知山市農業技師であった和田昌純が隊長として加わり、先遣隊は九人となった。こうして、四月三十日、一行は福知山市一宮神社で祈願祭を行い、郷里を後にした。
満州天田郷は、満州国三江省(黒竜江省)依蘭県道台橋村洋梨片屯に近い長嶺子にあって、肥沃な土地で開拓の成功が期待されるものであった。
この時期の状況が、昭和十五年七月・八月刊行の『京都府農会報』五七六・五七七号に報告されている。
「天田郷開拓組合現地報告Lと題されたこの報告は、現地の「満人」との交流や、肥沃で広大な農地を強調する内容となっている。
先遣隊は五月十二日に現地に入り、宿舎の建設や耕作・播種など、稲作を初めとする農作業に追われることになった。現地で平野指導員が合流したものの、広大な土地はあっても人手不足が根本的な問題であった。順調な進捗と今後の可能性を郷土へ知らせ、新たな人植者の増援を要請した。少人数により多忙を極めたが、郷土で開拓に参加する人々を積極的に募り、また家族を招致した。九月に二人が妻をともなって戻り、順次新たな入植者もあったが、予定された人数には遠かった。
昭和十六年春頃の状況は、団員二九人(戸)と、その六家族の計四三人であった。同十七年には、団員四〇人(戸)、二一家族の計一〇五人。十八年には、団員四〇人(戸)、二八家族の計一三三人と、開拓者の間での婚姻もあって新しい村がようやく形となっていった。この内、夜久野からは一八人が団員として、家族も含めると四八人が満州天田郷建設に参加したのであった。
昭和十八年春頃には、第二天田郷の構想が本格的に検討されたようである。七月には天田郡東亜開拓報国会が結成され、十八年から五〇戸を送り、三ヵ年で二〇〇戸を送り込む計画が立てられ、天田郡翼賛壮年団などの関係団体も巻き込み、啓蒙活動や募集活動が行われた。
昭和十八年の暮れには第二天田郷も第一天田郷に近接した場所に決まり、いよいよ入植者募集が本格化するが、長引く戦争に多くの若者が戦地に送られ、農村も労力不足となり、新たな入植者の確保は困難な状況であった。
加佐郡や各村の翼賛壮年団の中心人物が自ら参加することになり、下夜久野村二人、中夜久野村一人を含む一〇人が第二天田郷先遣隊として、昭和十九年三月満州に向けて出発した。第一天田郷の成功もあってか、その後の募集に比較的順調に進められ、五月以降、下夜久野村の二人を含む入植者が続々と渡満し、十月には団員二四人(戸)、一〇家族、五八人となった。
第二天田郷では、三岳村の分村計画も含まれており、昭和二十年には三岳村の建設も行われ、五月には三岳村を中心に一六人戸五七人の新たな入植者が加わった。
しかし、戦局の悪化は、建設と経営が進められてきた満州天田郷の前途に暗い影を落とし始めた。ソ連との国境に近く、いわば最前線にあって、当時の情報統制の中、なにも知らされず、なんの備えもできなかったのである。さらに、昭和二十年五月に応召がはじまり、次々と壮青年が出征することになったため、新たな建設事業は困難となり、残された女性で農事を行うことが精一杯であった。八月九日、突如、ソ連は対日宣戦布告とともに、国境を超えて満州国へ進撃を開始した。戦車を中心に機械化された圧倒的な火力の前には、なすすべもなかった。さらに.関東軍は開拓民を放置して、すでに移動を開始していたのであった。開拓民は、おとりとして取り残されて八月十一日には学校長までもが出征させられ、村に残された者は大人男子八人、女性と子どもが一〇七人という状況であった。八月十五日には、村を捨てて全員で避難し帰国の途を探すことになる。
この後、女性や子どもらは一年以上にわたり、人間性を踏みにじられ、子どもを失うなど、筆舌に尽くしがたい辛酸をなめ、ようやく帰国できた者もあった。総員一六四人、死亡者七五人、現地残留者七人、行方不明一二人、帰還でぎた者七〇人も、失ったものの大きさはいかばかりであったろうか。戦争の悲惨さを伝えていくことが、我々に課せられた責務であることを改めてここに記しておきたい。  〉 


『三和町史』

 〈 満蒙開拓青少年義勇軍
農村の窮乏化がつづくなかで、失業と耕地不足に悩む農民は、満州の広野に土地をもつことにあこがれるようになった。開拓農民は加藤完治の内原訓練所で軍隊なみの訓練をうけ開拓地におもむいたが、その経営は多難をきわめる一方で、同農民は自活する予備兵力ともみなされた。しかも、移民に土地をあたえるため中国人農民の土地を取り上げたことが、日満農民の反目を招いた。日本人の開拓移民はおもに満州東北部に集中し、土地取り上げもこの地方でははなはだしかった。これに憤慨した満州の中国人農民は依蘭東方の土竜山で反乱をおこし、連隊長をはじめ日本軍人・官吏が殺された。この事件は昭和九年に『ニューヨークタイムズ』(一九三四・七・二)などで世界に伝えられ、一時日本農民の移民計画は頓挫した。十一年八月拓務省(昭和四・六設置)は、二十カ年一〇〇万戸開拓移民選出計画を樹立し、十二年度から実施(満州移民計画)した。計画どおりには進まなかったが、敗戦時の総数は二七万人にのぼった。
拓務省では昭和十三年に五万人の満蒙開拓青少年義勇軍を送る計画をすすめ、二月京都瘡へは第一期七〇〇人の割り当てがあった。京都府では同年二月満蒙開拓青少年義勇軍募集要綱を発表し、満州の一画に楽土を建設し、ここに京都村を建設しようという計画がすすめられた。第一期の応募者は規定によって十六歳から十九歳までで、京都府からは六一人が志願した。このなかには細見尋常高等小学校長池田義雄らのすすめで細見村から四人が応募した。しかし、一般には「笛吹けども踊らず」で、京都府への政府割り当ては全国各府県中の最小の四五〇人であったが、十三年末でも二六五人とその割り当てを消化しえないでいた(『大朝』昭和十三・十一・九)。十三年十二月には新聞報道で満蒙開拓戦士の近況が伝えられたが、寧安訓練所には白波瀬一夫(川合村)がおり、冬期問には室内作業と学科が行なわれ、実弾射撃訓練や獣狩りなどもあったという(『大朝』昭和十三・十二・十四)。ついで、十四年三月府下第七期満蒙開拓青少年義勇軍募集一五三人のなか細見村から七人が採用され内原訓練所にむかった(『大朝』昭和十四・三・十五)。
このようにして、義勇軍送出は第一期(十三年一一月)から第八期(十四年六月)までに府下で五二一人、福知山市九人、天田郡で四〇人にのぼった(『京都府公報』昭和十四・六・三十)。このうち三和町域からは一期四人、二期一人、三期一人、四期五人、七期八人、一三期二人、ほか七人の合計二八人にのぼった。全国的には敗戦までの義勇軍送出人員は八万七〇〇〇人弱におよび、戦争末期には隊員から多くの戦死・抑留者を出した。
敗戦後の混乱については記録も多くは伝わらない。ここでは、川合村出身の白渡瀬一夫(現在大阪市地区在住)の思い出を要約してのせる。十三年七月に内原訓練所に入所し、十六年三月吉林省敦化県大蒲柴河で開拓団建設に従事した。十八年十二月には一時帰国し、上川合の山内きみえと結婚して渡満。妻は十九年十月に清津−京城−釜山−下関をへて戦中最後の帰郷をした。本人は十九年三月に召集となり、十月間島省春化に転属し、ソ満国境の警備にあたった。二十年八月のソ連参戦により、中隊はほぼ全滅。ソ連軍の捕虜になるよりはと戦友と逃避行をつづけ、北鮮古茂山−満州延吉捕虜収容所−間島−熱河省錦州−コロ島をへて二十一年十月に博多へ入港し帰還した。

満州開拓移民
満州移住計画は拓務省が中心になって計画をすすめ、これにはとくに不況対策にとりくんでいる経済更生村などに働きかけがあった。昭和十三年九月農村更生協会主催の満州移住地視察団が現地にむかった。この視察団には分村計画が内々進められていた細見村から村長長沢延之助が加わった。一行は全国代表二五人でうち五人を京都府で占めているという熱心さであった(『大朝』昭和十三・九・七)。
細見村ではこのあと大陸に模範分村計画をたてた。計画によると村の総戸数五六〇戸、裕福で貯金成覇も優秀であるが、大陸雄飛のため約一〇〇戸(五〇〇人)を大陸へ移動し、満州国細見村を建設するという案であった(『大朝』昭和十三・十二五)。
十三年十二月府職業課で第七次満州農業移民本隊四八人を選考決定した。このうち三七人は兵庫県国民高等学校で訓練を受け、十四年三月十五日敦賀出帆で渡満した。一行中二〇人は第七次本隊として吉林省額穆県黒石屯近畿移民団にむかったが、細見村からは細見伊左衛門・樋口定雄・長沢竹次郎・長沢四郎・大槻敏雄・田中隆一・西岡勝・大槻太次の八人であった。また、第八次先遣隊補充員として同省同県青溝子にむかったのは、細見末吉・藤田茂・西山実井・細見健治の四人であった(『京都府公報』昭和十三・十二・十六、『大朝靭』昭和十四・三・十)。
細見村では府から十四年度農業移民計画樹立補助一〇〇円、十五・十六年度に農業移民奨励費補助一〇〇円を受け計画を作成した。十四年八月にも京都府は満州視察団を送ったが、これは府から分村計画村として指定されている村の指導者が中心で、細見相から村長水谷洸、同村経済更生主事大崎友平、青年団長吉見武が参加し、弥栄村(三江省樺川県)などを観察した(『京都府農会報』合併号、昭和十四・十〜十五二)。
十五年二月には拓務省の計画で満州特設農場に奉仕班を送ることになり、五月細見相から四人、川合村から二人、菟原村から一人が参加した(『大朝』昭和十五・五・七)。また、同月府社会謀と天田都農会共催で満州開拓講習会が開かれ、座談会の席上で長沢村長は次のように語っている。
 渡満すれば数年ならずして成功するやうに考える認識不足者があるが、甚だ心得違ひである。少くとも七、八年後でないと一かどの農家として立てないから、堅忍不抜の意気に燃えて長期建設の信念でやらねば嘘だ。…青少年義勇軍は福知山市から十名、天田郡から四十名、拓士は福知山四名、天田郡十五名が活動している姿は神々しい感じがする。二月二十三日私が月下氷人の役を承って天田郡細見村長沢しかへさん(二三年)が、黒石屯所在の竹野郡竹野村出身木佐市太郎君(三〇年)に嫁ぎ、初旬渡満の予定です (『大朝』昭和十五・二・二十五)
天田郡先遣隊から十五年六月長嶺子の開拓便りによると、川勝順治(細見村千束)の談話として樋口群二(川合村)が依蘭県公署開拓科畜産所で働いていた(『大朝』昭和十五・六・二十九)。ちなみに、樋口群二は昭和十七年まで同所に勤務している(『天田郷建設史』)。
十五年末には現地の建設が進んで後続部隊送出の要求は矢のような催促で、同年十一月には満州天田郷建設本部(会長大槻高蔵)から一五〇人の団員編成に参加し渡満を訴えていた(『天田郷建設史』)が、事業の前途に危供を抱き、逡巡して成果があがらなくなっていた。また、戦時体制への移行・農村不況からの脱出など満州開拓に専念する余裕はなくなっていた。十六年五月には天田郡経済更生委員会が三江省依蘭県長嶺子に建設中の第二天田郷に勤労奉仕班二〇人(三和町域からは八人)を送った(『大朝』昭和十六・五・二十四)。また、十九年にも勤労奉仕隊に町域から三人が参加した。
このように、満州の地の第二天田郷建設は干害・冷害などの多くの苦難を克服してすすみつつあった。ところが、二十年にはいり敗戦の色が濃くなった八月九日にソ連軍が対日宣戦戦布告とともに国境を越えて怒濤のように進撃してきた。満州の土地はたちまち阿鼻地獄の戦乱のちまたと化した。それからの残酷悲惨な逃避行の状況は『生還者の証言−満州州天田郷建設史』などが語るとおりであった。満州開拓による新しい村の建設の夢は、無残にくだかれた。それはまた軍部支配のもとで進められた侵略政策の一つとされる痛憤のできごとでもあった。青少年義勇軍と農業移民をまとめると表174のとおりである。  〉 


『和知町誌』

 〈 満州農業移民
農村の窮乏化が続く中で、失業と耕地不足に悩む農民は満州の曠野に土地を持つことにあこがれるようになった。開拓農民は加藤完治の内原訓練所(昭和十三年、現・茨城県東茨城郡内原町に設けられた)で、軍隊なみの訓練を受けて開拓地に赴いたが、経営困難で自活する予備兵力として扱われた。しかも日本人移民に土地を与えるため、中国人農民の土地を取り上げ、日満農民の反目を招く結果となった。日本人の開拓移民は主に満州東北部に集中し、土地取り上げもこの地方でははなはだしかった。これに憤慨した満州農民は、昭和九年、依蘭東方の土竜山付近で反乱を起こし、連隊長をはじめ日本軍人や官吏が殺されるという事件があった。この事件は、『ニューヨーク・タイムズ』(一九三四・七・二)などで世界に伝えられ、日本農民の移民計画は頓挫した(岩波新書『昭和史』)。十一年八月、拓務省は二〇カ年一〇〇万戸開拓移民送出計画を樹立し、十二年度から実施したが計画どおりには進まなかった。

満蒙開拓青少年義勇軍
満蒙開拓政策の一環として昭和十二年、満蒙開拓青少年義勇軍を送ることが重要国策の一つとなった。成人の農業移民と並んで、数え年一六〜一九歳の青少年が茨城県内原訓練所で訓練ののち、全国で約八万七〇〇〇人弱が「鍬の戦士」として大陸に送られた。京都府は十三年一月、満蒙開拓青少年義勇軍募集要項を発表した。十三年度義勇軍送出(一〜六期)は京都府三二三人、うち船井郡二三人であった。和知からは七人(上和知六、下和知一)が応募し、十四年六月までにさらに四人が応募し、二十年までに三四人が渡満したようである。戦争末期に召集された隊員からは、多くの戦死・抑留者を出した。

満州開拓移民
満州移住計画は拓務省が中心となって計画を進め、これには特に経済更生村などに働きかけが強かった。十三年九月、農村厚生協会主催の満州移住地視察団に加わり、全回二五人のうち府下五ヵ村代表が参加したが、上和知村長・堀幸治郎、天田郡細見村長・長沢延之助らが彼地に赴いた。別途、拓務省主催の視察団に上和知小学校長・今西誠一も加わった(『大朝』『日出』昭和一三・九・七)。
十四年一月、上和知村経済更生委員会は移民計画を立て、促進を図ることになった。安定農家以外の剰余人口を、満州移民により解決しようとするもので、移民計画によれば表196のように将来の適正規模を想定し、六一戸の剰余戸数を十三年度から十七年度まで五ヵ年間に移住させようとするものであった。
ついで十四年四月、八次先遣隊補充として江辺精一が、また七月には本隊補充として蒲生百太郎が応募した。江辺精一は六月吉林省額穆県青溝子開拓団に入植した。
その後分村計画は、堀修一(大迫)、井詰冨三郎(西河内)が手続き中であった(『村報』昭和一四・七・一四)。十四年八月には、京都府から満州開拓視察団員を派遣した。これには、分村計画村として指定される村の指導者を中心とする二二人が参加した。上和知村からは杉本徳之助(産業組合長)、堀力蔵、吉田重雄(村議)が加わった(『府農会報』昭和一五・一)。
しかし、あと移民熱は笛吹けど踊らず=A天田郡細見村などを除いて尻すぼみに終わった。
表197は、十四年分村計画樹立村の概況をまとめたものである。
十四年十一月現在、上和知村出身第八次移民先遣隊四人 (ほかに一人本隊参加手続き中)で、吉林省額穆県青溝子に入植中であった(『村報』昭和一四・一一・三〇、堀村長談)。
このあと開拓地において農業移民は、干害・冷害など悪条件を克服して建設を進めていた。ところが二十年に入り敗戦の色濃くなった八月九日、ソ連が対日宣戦布告とともにソ連軍は国境を越えて怒涛のように進撃してきた。満州の天地はたちまち阿鼻地獄の戦乱の巷と化した。軍隊は早くも退却しており、それからの残酷悲惨な逃避行は語るも悲しい。満州開拓による新しい村の建設の夢は、無残に砕かれた。それはまた、軍部支配のもとで勧められた侵略政策の一つとされる痛憤の出来事でもあった。義勇軍に応募し、満州で亡くなった者は表198に見るとおりと思われる。家族の状況の詳細は明らかでない。  〉 


『私の海外引揚げ』(舞鶴市)
父と妹二人を亡くして帰国
         大阪府和泉市…
            …
昭和十三年、私達は第六次開拓団員として満州へ出発、ついた所は北分省黒馬金+リ、そこは見わたすかぎり縁一色、冬になると雪で白一色、野原には花、きヽよう、おみなえし、ふくじゅう草など色々な花がさく。又、キジ、うさぎ、シカもいた。
父は一年も先に来て家を建て、大地をたがやし、作物をつくり、私達家族を迎えに来てくれた。そんな、大自然が、大すきだった。でも学校が遠く、毎日通学する事が出来ない。そのため月曜から土曜まで寄宿生活、日曜日が楽しみだった。低学年は泣いた。私は九才だった。
昭和二十年八月十五日戦争は終った。そのため満人(中国人)が、おそって来る。たゞちに引揚る事になった。
大地をたがやし、やっと、安定した生活が出来るようになったやさき、住みなれた九年間、色々な思い出がある。が、何もかも捨て黒馬金+リを出た。日本へすぐ帰れると思っていた私達、そうはいかなかった。
病気上りの母、父、兄、妹二人、母と妹は馬車に乗り、私達はリュックを背負い歩いた。最初に、「こうのうちん」で一ケ月、「ハルビン」で二ケ月、次に「ぶじゅん」についた。もう十一月、雪もちらほら、防寒服でふるえながら広い講堂へ入った。えいあん学校だった。食べる物は、あわ、こうりやん、カンパン、これで栄養失調になった。体にはシラミがわき、ハッシンチブスにかかった。毎日、何人かが亡くなる。妹二人も亡くなり、大きな体の父も病気には勝てなかった。母、兄、私と三人になってしまった。
冬も過ぎ、春も過ぎた。知り合いは皆んな先に帰った。やっと、私達の帰れる日が来た。この船に乗れば内地につくという最後の乗物だった。でも何日乗っても日本は見えない。どっちを向いても海、二十一年七月朝、だれかが、かんぱんで、日本だ、内地が見えるという大きな声に目をさました。みんなかんぱんに出た。だが、日本の港はまだ遠い。かすかに山が見えた。それから三日目についた。
そこが舞鶴だった。「内地って山ばかりだなあ」大きな山が印象に残っている。内地についたら着るんだと、手も通さずにもって帰ったワンピース一枚をリュックから出し、いつでも下船できるよう着替え準備した。身体検査や手続きがあるため、二日ぶりに日本の土をふんだ。
「引揚げ者の皆様、長い間御苦労様でした」と何度も何度も放送された。日本の人は着物姿、私達はモンペにワンショウをつけ、ちょっとはずかしいなあ、お宿に案内され、一夜をした。ムギ御飯とはいえ、おなか一ぱいごちそうになった。細くなった体をきれいにあらい、その夜はぐっすりやすんだ。あくる日は、わが古里へと立っていった。その時の舞鶴の皆様には、大変御世話になりました。ありがとう御座居ました。
九年間の思い出、いろんな事がたくさんありました。これは、ほんの一ぶです。母と共に思い出し作文にしています。どなたか読んで下さる人があればいいのにと思っています。

運命!!
 生と死の間をさまよって
        島根県安来市…
             …
敗戦から四十年、これから先き、何年生きながらえていけるかと思うと心細くなり、子供や孫に生と死の間を彷徨ったあの敗戦当時の悲惨さを語り伝え、今日こうして生きている喜びを、尊い生命を自ら断った同胞、戦友達の犠牲によって戦争のない平和な、自由の国に住めることを感謝し、幸せを噛みしめて生活しております。
牡丹江から東へ一九〇キロ、ソ満国境まで僅か二キロ、憲兵隊などの厳重な身体検査と、監視下の汽車の旅をすること十時間、東支鉄道当時そのままのロシャ風の駅、街全体が傾斜の石畳を敷きつめ、ロシヤ革命によって逃げのびた白系露人が、永住の地と定めたためか、教会堂はじめ、建築物がすべてロシヤ建で、五月の薫風に乗って、春訪れば、鈴蘭の花が丘に咲き乱れる国境の寒村、綏芬河で過ごした三年間は、私の人生で最も楽しい青春の思い出の街でした。
山本元帥の戦死、アッツ島玉砕、サイパン島陥落と、敗色濃き昭和十九年八月、虎林(原隊は東安)電信第七連隊に入隊し、三十数度の猛暑の中、防毒マスクを覆り、電柱を背負い、汗みどろになり、ぶっ倒れ、零下三十余度の厳寒での、ほ伏前進等の訓練に耐え抜いた幹部候補生の教育を終え、昭和二十年六月、奉天市北陵の森にある関東軍陸軍通信教隊に配属されたが、原隊は牡丹江に撤退、虎林から奉天までの車中で、歩兵の幹部候補生達と、牡丹江駅で手を振り別れを惜しんだ。彼等は八月九日、ソ連軍の侵駐により敵戦車に体当りをして戦死したとの報を聞く。八月十五日の玉音放送で敗戦を知り、翌十六日部隊を脱走して満鉄独身寮に落ちついた。
八月二十日の武装解除と同時に、各地に暴動が起こり、在留邦人は昼間でも一人歩きができないほどの混乱、無秩序ぶりであった。夫を軍隊にとられた満鉄社宅の婦人たちは、私達のいる独身寮へ続々と避難して釆たため、寮内は満室となり、ごった返しになった。着るもの、食べるものがないため、私達脱走兵が暴動に加わり、糧秣、衣類を掠奪して帰り、それで生活をした。国境から避難して来た開拓団の難民の惨憺たる姿には、奉天在留の私達邦人の涙をそそり、敗戦国民のみじめさをいやというほど昧わされた。即ち、身に一物も纏わず、腰に縄をぶら下げて、わずかに陰部をかくし、毛ジラミに悩まされ、発疹チフス、栄養失調で路上に倒れる死の逃避行に、何ら手のくだしようもなく、無気力状態で見守るだけであった。
十二月初旬、両親や妹弟が綏芬河から新京に避難して来たことを知り、無蓋車に乗り三日がかりで迎えに行き、涙の対面をして再び奉天に帰り、日用品を城内まで買いに行き、それを売り、ひたすら帰国の日を待った。応召前住んでいた綏芬河の同胞は、八月九日未明のソ連兵の奇襲により殺害されたり、天長山要塞にこもって餓死、生き残った者は、道なき深山を飢えと危険に耐え抜き、我が子を殺害、または置き去りにして、悪戦苦斗すること一ケ月有余、新京に辿り着く。その苦難は筆舌に尽くし難く、その行程数百キロ、無事を一同抱きあって喜んだと聞き知る。
翌二十一年六月十日、引揚げ第一陣として奉天駅に集結し、無蓋貨車に押し詰められ、途中、幾度となく椋奪に遭い、虎の子のリュックを椋奪されたりしたが、生きて祖国の土を踏めるという希望だけが支えとなって、ころ島まで約一週間がかりで到着した。輸送船の配船の都合と、中国軍の命令でころ島で使役として働きながらも、私達青年は、ここで早くて数ヶ月間労役に服さなければならないのだろうかと、不安の日を送った。
やっと二十三日頃(記憶なし)リバティー号に乗船し、ほっとしたのも束の間、船中で「男性は全員去勢され、また、数年はアメリカへ奴れいとして送られる」との流言が飛び交い、日本に到着するのが恐ろしくなった。甲板で、思い出の歌として、いまも聞く度に昔を偲ばせる「湖畔の宿」を口ずさみ、自分の運命を悲しんだ。六月二十八日未明、海上遥かに、舞鶴の山が小雨に霞んで望み見た時、今までのさまざまの苦労や、悲しみも吹き飛び、感慨無量のものがあった。新緑濃き山に囲まれた、波静かを舞鶴港に入港した時、波止場で日本女性が化粧もけばけばしく米兵と腕を組み、時には接吻している光景を見て、これが日本の真の姿だろうかと驚いた。
私は、軍通信にいたことと、露語通訳をしていたことがどうして判ったのか、特別室に召喚され、ソ連の軍装備、満洲から持ち去った軍隊、満鉄等の通信機器の状況を聴取された。
舞鶴市民の温かい応得によって、生気を取り戻し、自分の運命の強さに感謝し、日本再建のため、全精力をぶっつけて生き抜こうと決意した。


『「歴史の証言」−海外引揚50周年記念手記集』
(山口県長門市の仙崎港は引揚港であった、そこの記録である)

満州引揚
埼玉県川口市 …
(博多引揚げ)
船がゆっくり、満州からの引揚者を乗せて博多港の岸壁に近付く。
「日本へ着いたぞ……」誰かが大声で叫ぶ。この声は、ひどい疲労に身を横たえる人々の耳をつんざく。皆夢中で飛び起き、ひしめきながら甲板に駈け登る。
荷物同様に押込まれた、俘虜第何号の人間達は、汽缶室の後の低い天井裏までぎっしり重なっていたが、ひたすら本国へ着く祈りを胸に、室温の異常な高さにも、じっと耐えていた。引揚船とは名のみの貨物船である。
一つの洗面器でおむつを洗い、又それで食事の配給を受けて食う。まるで犬猫である。どの顔も疲労と垢で薄汚れであった。
港の空が仄かに白みかけ、初夏の潮風が、いとも爽やかに吹いていた。
着いた、着いたんだ。やっと日本へ帰れたんだ、帰れたんだ。
美しく、そしてなだらかな山の姿が、青く港の建物の後ろに控えていた。夢にまで見た母なる国の山だ。やっと、やっと長い道程を経て、辿り着くことが出来たのだ。
へたへたと甲板に座り込み、狂気の如く大声で泣く人、相擁して泣く者、私も夫や子供の手を握り滂沱の涙を流した。狭い甲板は暫し、嬉し泣きの声に渦巻いていた。
皆それぞれが、筆舌に尽くせぬ辛酸をなめ、明日の命も分からぬ異国で、この日を待って生き抜いて来たのだ。この日を待てずして、幾多の同胞の命が断たれたことか。毎日、毎日どれだけの饅頭塚が出来たことか。皆黙して語らぬが、その胸には押さえ切れぬ悲しみを見、そして耐えて来たのだ。そしてやっと生き残れ、祖国の土が踏めたんだ。私も気が狂うほど嬉しく、唯泣きながら、その喜びは五体を駆けめぐっていった。
私は、戦争もまだ勝利を収めていた昭和十八年春、渡満した。誰しもこんなことになろうとは、夢想だにしなかったであろう。
虱だらけの体に、青い目の兵隊からDDTを吹き込まれ、青畳の宿舎に入った。懐かしい日本の青畳の香が一面に漂い、人々は畳に鼻をすりつけ、その香に咽び泣いた。
一夜明け、手続完了後私と夫は、お互いの背に一人ずつ子を背負い、二日後やっと山躑躅の真赤に咲き競う、故郷上州の小さな駅に降り立った。
三年前の春この駅で、十九歳のふくよかな若妻としての私は、赤いスーツに身を包み、涙ながらに見送りの人々との辛い別れをしたのである。しかし、今は見るかげも無くやつれ果て、目ばかりが異様に大きく光っていた。そして二人の背にくくりつけられた子は、表情とてなく、その虚ろな瞳はやっと生きているだけであった。二人共、強度の栄養失調であった。
変り果てた我が娘と、その連れ合い、初めて見る孫達の姿に、出迎えの家族は唯々嬉し泣きに泣いた。でも「どんな姿でも良い、命があって帰れたんだからね」と、再会を心から喜んだのも、今は遠い、遠い日の物語となった。
(終戦後)
昭和二十年夏、太平洋戦争も日々熾烈をきわめ、不安な日々が続く。終戦の僅か前の七月に、夫にも召集令状が来た。会社でも、街でも、日本人の男の姿が目に見えて消えた。
私は当時、錦州省錦県市という小都市に住んでいた。応召した夫の留守が不用心なので、やはり会社の留守家族の奥さんと同居し、銃後を守った。
私には一歳の娘がいて、当時はまた八ケ月の身重でもあった。でも毎夕娘を背に、少し遠い小高い丘の上の錦州神社へ、夫の武運長久を祈りに日参していた。山の途中の道には大向日葵が見事に咲いていた。そして地平線の彼方に沈む燃えるような落日の素晴らしさには、我を忘れて見入ったものだった。そしてこの素晴らしい夕暮に、いつも響くラマ塔の鐘の音。
大陸の大夕焼やラマの鐘
八月十五日だった。天皇陛下の放送があるから聞くようにとのこと。ラジオのスイッチをひねったが、雑音に掻消され、何のことだか皆目分からなかった。
斯くて数日が過ぎた。一緒に住む彼女が「皆が日本は戦争に負けたって言っているよ」と言う。
「そんな馬鹿な、日本が負けるなんて、そんなこと絶対ないわ」二人は話をしながら外のざわめきに、ふと二階の窓から下へ眼をやった。その異様な雰囲気と、おかしな光景に首を傾げた。
会社の社宅前の十字路には、道路びっしりの中国人が五百人とも千人とも分からぬが、皆手に手に、或る者は風呂の蓋を、或る者は毛布を、家の前では大声で奇声をあげながら二人の男が、一枚のシーツを割いている。
何だろう、と彼女とこの異様な光景に見入っていた。その時、玄関の呼鈴がけたたましく鳴った。出ると直ぐ裏に住む王という中国人が、ロシア兵を伴い立っている。兵隊の手には、ピストルが握られている。二人は一瞬たじろいだ。兵隊は、早口に何か分からぬ言葉でまくしたてる。
王という男は、余りうまくない日本語で「今、直ぐこの家を明けないとこのピストルで撃つ。早くしろ」という。
兵隊は、私と彼女の胸にピストルを当てた。血の凍る思いがした。「日本は戦争に負けたのだから、直ぐ逃げないと殺す」と、王という男は付け加えた。王さんの家族とは結構仲よく付合っていたのに、この威張りようは、どうしたのだろう。
私と彼女は、日常整えていた荷物と、暑いと嫌がる子にオーバーを着せて背負い、綿入れのネンネコを着た。まさに真夏に冬支度である。慌てて駆け出る際に、お互いの夫の靴を片方ずつ形見として持ち、夢中で近くの大きな建物、専売公社へと逃げ込んだ。近くの女子供も皆青ざめて、荷物を抱えて駆け込んできた。
すかさず暴民たちは、大喚声をあげて、この日本人の家々を襲い、手当り次第のものを略奪したのである。
その夜が来た。又、二、三人のソ連兵が、ピストルを手に、避難先の専売公社へ土足のまま侵入して来た。言葉が通じないので、手真似で、僅かな持ち出した荷物の中から目ぼしい物を抜き取り、最後に女を要求した。女が駄目なら、腕時計で良いという。
彼等の、その毛もくじやらの手・足と言わず時計が無数にはめられていた。後で聞いた話では、彼等は一時前までは囚人だったらしい。
一夜其処でまんじりともせず潜み、会社の上司の家の辺りが暴民の略奪にも逢わず、割に治安が艮いとのこと、元満軍の人達に守られ、彼女らと命からがらその家に辿り着いた。
この家の主人も応召し、留守を奥さんが二人の子と守っていた。三人の女達と子供は、不安に戦きながらも、ひたすら夫達の還りを待ちつつ一ケ月の時は流れた。
と、ある日、突然まだ明けやらぬ刻、軍服姿の夫が帰って来た。誠に夢のような出来事だった。
夫は、ソ満国境で終戦となり、召集解除で戦友と馬車で奉天に向かう途中、土民の襲撃を受け、裸にされ、土民の鎌で切りつけられ、尚も命を狙う土民から逃げて、逃げて、体中に泥を塗り、丸二日間高梁畑に身を潜めていた。そして二日たっても、まだしつこく夫を狙う土民達のナーベンチー、ナーベンチー(何処へ行った、何処へ行った)というその声を耳に、もう駄目だと生きた心地がしなかったという。
そんな夜、少し離れた道路を走るトラックらしき車の上から聞こえる言葉が、微かだがどうも日本語らしいのを知り、勇気を出して夫はよろよろと、そのトラックに駆け寄ったそうである。暗い夜道のこと、相手もびっくりしたが、天の助けとはこのこと、旧日本軍のトラックだったのである。彼等は、終戦のため接収される武器を運んでいたのであった。
トラックには、自分と同じ裸の兵士たちが、何人か助けられて乗っていたらしい。一緒に逃げた戦友は、逃げ切れず河へ飛び込んだもの、袋小路に追い詰められ殺された人など、本当に気の毒であった。こんな所で命を落とすなんて犬死にも等しく、あわれであった。
これも皆、旧日本軍が、そして日本人が余りにも酷い仕打ちを土地の人民に与えたための、彼等の心からの憤りの現れだったのであろう。全く植民地での満人への差別は想像にも絶し、人間として恥ずべき行為を平然となし、何ら反省だにしなかったのである。
夫が復員してこの家の主も還り、私は長男の猛を産んだ。秋風のたち初めた十月十七日であった。誰一人、おめでとうとは言わない。又一人、厄介者が増えたと思ったのであろう。子供など草原で独りで産め、そして産んでもその子の育つことなど、誰も考えても見なかった。
日頃上層部から、いざという時は日本人らしく、自分の命は自らが断てと、自決用の青酸カリを渡されていた。私も、いざという時の覚悟は何時でも出来ていた。
しかし、この家の奥さんに取り上げて貰った嬰児は、すくすくと育った。産後は一日たりとも床につくことは無かった。
そして又、昼夜を分たぬソ連兵の女狩りに、怯えて暮す日々でもあった。私も含め若い女達は、頭の毛を男のようにバリカンで刈り、毎朝鍋墨を顔に塗り、男の服装をし、腰には薄汚れた手拭いを下げた。しかし、胸に手を入れられたらアウトである。
従って、ソ連兵が町内のバリケードの中に入ると、見張りが合図の鐘を鳴らす。皆一斉に二階の者はロープで降り、床下に隠れる。こんなことでは女達は落着く暇とてなく、其処で考えついた策は、略奪に遇わなかった家の者が衣類を、他はなけなしの金を出し、元遊廓にいた女性に兵隊の方の慰めをお願いしてからは、素人の女の犠牲者も少なくなり、私達も少しでも心落ち着ける時間が持てるようになった。
それぞれの夫たちが復員し、上司の家も大世帯で生活が苦しくなって来た。そんな時、夫の遠い親戚で女・年寄りで心もとないから是非来て欲しいとのこと、其処へ移ったが、色々な事情で此処を去る。
何処へ引越すにも荷物も僅か、着た切り雀、いとも簡単である。日産土木という建築会社の社宅に夫の友人が居り、家に来いよと誘ってくれ、其処に落着いた。ここは皆略奪に遇った裸同志が集って、共に助け合って暮らしていた。私の所は、一軒に五世帯入っていた。
ここへ来たお蔭で、仄仄とした心で日々生きることが出来た。死ぬ時は一緒よ、同胞だもの。豆一つ煮ても、栗粥一つ炊いても、一本の芋でさえ分け合って食べた。ひもじいのは、お互いさまだ。
そして皆して働いた。或る者は散髪屋になり、汚い中国人の頭を刈り、或る者は労働に、夫はボロマイ(略奪に遇わない人から頼まれて、その衣類を売り捌き、その手間を貰う商売)をし、私は、ヤンジョロ売り(煙草売り)、肉売りと、何でも出来ることをした。しかし私は、子守りかたがたの商売ゆえ、うっかりしている問に中国人や兵隊に、箱ごと全部掻っ払られることも、しばしばだった。でも皆して働き、その日、その日の口を糊するのに懸命であった。
しかし、何時日本へ帰れるのだろうかと、夜布団の中で親兄妹を想い、枕を濡らす日々でもあった。きっと、きっと誰の胸にも望郷の思いが、一杯に溢れていたと思う。もう一冬この異国で越せば、日本人の大半は飢えと寒さで死ぬだろうと皆言っていた。大陸の夏は暑く、また冬の寒さは誠に厳しい。
そんな或る日、夫の以前可愛がっていた会社の下請けだった一中国人が、今、ボイラーマンとして働いているから、自分が当番の日に手引きするから、石炭を取りに来いと言ってくれた。石炭の無い寒さに震えあがっていた折柄、早速夫とその友人達は、大きなリュックサックを背負い、闇に乗じて背負えるだけ石炭を取って来た。もし見つかれば、打殺されても文句は無いのである。
何回か、こんな危険な石炭を取りに行き、お蔭で皆して暖を取ることも出来たし、月一、二回位の風呂にも入ることも出来た。大勢がその垢を流し、鼻汁のようにどろどろした風呂でも、人の心の温かさをしみじみ感じて何と心地良かったことか。今でも時折、あの風呂のぬくみを思い出す。
皆で日本へ帰る日までを合言葉に、一日一日を本当にしっかり、精一杯生きたのである。
(戦後の或る日)
ソ連軍・八路軍と入替り、中央軍(中国の兵隊)が入り、治安も大分良くなった或る日、私は夫と、前に住んでいた錦県駅近くの会社の社宅跡へ行ってみた。すっかり暴民の略奪に遇い、無残なコンクリートの建物だけが其処にあった。人っ子一人通らぬ俺びしい廃墟と化し、雑草が背高く繁り、とても不気味であった。床板も天井板も何一つ無い。勿論衣類のかけらも無い。あの日此処で家族楽しく暮したなど、とても、とても信じられない。子供の「臍の緒」を入れた箱が中身もなく放り出されていた。アルバムも無く、数枚の色焼けた写真が散らばっていた。私は夢中でこれを拾い集め、何か恐ろしいものにでも追われるように、その場を去った。
ある冬の寒い日、下の子供が発熱した。私は病院へ走った。病院とはいえ、小さな日本人経営の医院である。玄関から裏庭まで、十四、五名の開拓地から逃げて来た女たちが、陽だまりを求めて、一様に虱を取っていた。髪は乱れ、その青黒い不健康な顔は、どこか余程悪いと見え辛そうだった。私がその中を通り抜けようとした時、突然その一人が血の出るような叫び声をあげ、私の一歳になる娘に取縋り大声で泣き出した。
私はびっくりし、その惨めな身なりの彼女らの話を聞いた。真に胸を決られる思いがした。「私はね、開拓地から山越えをして逃げる途中、足手まといになる吾が子を捨てて来た。あゝ、今も、あの子の泣き叫ぶ声が聞こえる。この人もだ。こっちの人は満人に子供をくれた。あゝ、今あんたのこの子を見て、余りにも似ていたので、もうたまんなくて」と、はらはらと熱い涙を流した。
私も同じ子を持つ母親だ。どんなにか、どんなにか辛いことだろう。互いに手を取り合い、傍の女たちとさめざめと泣いたのである。あの状況の中、多くの人が断腸の思いで吾が子と別れ、命からがら逃げて来たのであろう。
彼女達の夫は、ソ連兵に連れ去られ、女だけは監禁され、夜となく、昼となくロシャ兵におもちゃにされ、それに食糧は、一日たった一個の栗のおにぎり、全員ひどい性病に侵され、歩行さえ困難だとも言っていた。
あのどす黒い、その顔中涙して子を恋うる彼女達、何という悲劇なのだろう。何という残酷なんだろう。戦争が憎い。憎い。
私だって、夫が復員しなければ、吾が子を一人はおろか、二人共中国人に預けたかも知れない。いや、預けたと思う。
今でも目を閉じると、あの時の光景が、そして彼女達の顔が彷彿と浮かぶ。誠に戦争は恐ろしいものである。罪の無い善良な人々をかくも苦しめ、生涯拭い去ることの出来ぬ悲しみに追いやるのだ。
私はこの人達に比して幸せなんだと思いつつ、安らかに眠る吾子を見ながら、余りのショックに数日は、夜眠ることも出来なかった。
暗い、暗い戦後の異国での私の体験は、枚挙にいとまがない。
(さらば 満州よ)
敗戦を知ってから、最初にソ連、次に八路、八路が撤退してから、中央軍が入って来た。その都度、軍票を出すのである。この軍票(お札)でないと、物の売買は出来ない。少しお金を貯めても、次に侵入してきた軍の軍票でないと、役に立たないのである。こんな不安な生活をしながら、異国での月日は流れ去った。一体いつ日本へ帰れるのか、日々望郷の念は募るばかり、あせりさえ見えてきた。
戦後、九ケ月たった或る日のことである。民会から帰った役員から、引揚げの日の近いことを知らされた。それに、錦県は引揚港「葫芦島」に最も近いから、引揚げは最初であるそうである。皆、半信半疑である。この間、元軍人の男達は、大量にソビエトに連れ去られており、ましてや 元憲兵などは、特に姿を潜めたまま、出て来ることも出来ない。
我々もソ連へという一抹の不安も無きにLも非ずだが、それでも、やっと内地へ帰れると思うと、嬉しくて、嬉しくて手の舞足の踏む処を知らず、言葉にならぬ喜びに、互いに異臭を放つ体で抱き合い、泣いた。男たちは、先ず老酒で乾杯した。
夢にまでみた帰国が、実現するのである。持って帰れる金は、一人千円である。荷物は手で持てるだけ。私は早速帯芯を求め、大きな袋を縫った。急にせわしくなる。されど、私達は二人の子を一人ずつ背負えば、おむつ、乾パン、米、これが限度である。毎日大童である。ポロマイをして、いくらか懐が豊かになった夫は、千円という金の無い人に与えたりして喜こぼれた。父母に逢える、故郷に帰れる、何をしていても喜びで一杯、心は既に母の許へ飛んでいた。夫は思い残すことの無いようにと、毎日、本場中国料理を食べに出かけた。女はそれどころではない。
帰国前、張宝仙という親しい中国人から、お別れの食事に招待された。張さんは、夫の会社の下請けで、ユージャン(ペンキ屋)の職長だった。敗戦前なら、日本人と交際出来るのを自慢していた中国人も、戦後は仲間たちから白い眼で見られる。それでも敢えて出来る限りの家庭料理を用意して、別れの席を設けてくれた。
この張さんの家には、敗戦前にはよく招かれていったものだ。彼はマーチョ(馬車)の鈴音も高く、若い私達を迎えに来てくれた。彼の家では何時でも、一家を挙げて歓待してくれた。あの張さんの家の本場の家庭料理の味は、どんな立派な中華飯店にもない独特の味で、私には今もって忘れられぬ味なのである。その頃は、纏足の老タイタイ(お婆さん)やタイタイ(奥さん)も、私の和服を珍らしがり、一枚一枚めくっては、テンホー、ブダリー(素晴らしい、誠に素晴らしい)を連発していたものだ。
だけど、今は打って変った乞食のような私の姿に、さめざめと哀れみの涙を流しながら、しきりにブルンバー(寒くはないか)と、気をつかってくれた。さぞや、私の姿が哀れだったのであろう。
私には、念入りな刺しゅう入りのスカーフを、夫には、真新しい支那服をお別れにとプレゼントされ、もう再びは逢うことのない悲しい別れだった。心からの謝意を表し外に出た。いつまでも、いつまでも中国語で叫びながら戸口に立つ張さん一家の姿が、あの日のままに、私の脳裏に焼きついて離れない。
敗戦の翌年の五月八日、引揚げの日である。私達は、錦県駅前の広場へ集合することになった。まんじりともせず錦県最後の夜は明け、せかされるままに、色々の思い出多いこの社宅を出て、隣組一同整列して駅へ向おうとした。物かげから無数の目が、日本人の出て行くのを、今や遅しと窺っている。中国人だ。出発した途端、どっと、何もないこの家々に砂糖に群がる蟻のように、手当り次第のものを略奪したであろう。日本人と同じように、彼等の生活も苦しかったと思う。
駅前広場では、ぞくぞくと引揚げの日本人が集合して来た。皆、本当に内地へ帰れるのかという一抹の不安を持ちながらも、どの顔も、どの顔も、明るく晴れやかな、久しぶりの日本人の笑顔、笑顔である。この駅はよく子供を抱いて、出張の夫を送り迎えた馴染みの駅でもある。
広場には中央軍の兵士が、整列した引揚げ日本人の囲りに立ち、一切中国人の近寄ることを禁止した。遠巻きにそれを見守る現地人。大陸の五月は、もう渡る風も初夏のものだった。うんざりする程この広場で待たされ、皆「俘虜第何号」という、大きな襟を肩に掛けさせられた。
子供が急にむずかり始めた、その時だった。一人の中国人が、警備の目を潜り、そそくさと列の中の私達の許へ駆け寄った。
 「狩野さん、狩野さん……」
 「おお張か。お前、こんな所へ来て大丈夫なのか……」と、訝る夫。
彼は滂沱の涙を流しながら、
 「狩野さん、ザイチェソ、ザイチェン(さようなら、さようなら)もし、又逢える日が来たら、私はあのラマ塔のそびえる城内で(シエ商)を営んでいます」。シエ商とは、靴屋のことである。
彼は所書きの記してある紙片を私に渡しながら、子供の頭を撫で、
 「ショーハイ、ツーバー」(子供よ、お食べ)と、タイタイ手作りの袋一杯の菓子をくれた。
 「謝々、謝々」(有難う、有難う)
思えば、張さんには長い間、本当にお世話になったわね。自分たちの配給も食べずに取って置いて、この子の牛乳に入れろと尊いお砂糖をたくさんに、持って来てくれたこともあったわね。いろいろ本当に有難うね。でも、もう、これでさよならね。謝々。
色焼けた骨張った中国人の手、これが本当に、これが最後の別れなのである。互いの熱い涙がはらはらと、固く握った手にこぼれた。
張さん、私は貴方を忘れないわ。貴方の心、そして貴方の家族の温かい心を、永久に忘れない。人の心に国境は無い。さわるとポロポロと崩れやすい支那菓子。今でも私は、街角の店でこの菓子に出逢うたび、胸が痛くなる程彼のことを思い出す。
広場での長い時が過ぎ、やっと用意された無蓋車に押込まれ、何処までも果てしない原野をコトコトと、大勢の俘虜を満載した貨車は、無表情に港葫蘆島へ向けて走り続けた。
疲れ果てた人々は、帰国の喜びと不安を胸に、これ又無表情に、この目で見る最後の大陸の景色を、物憂そうに眺めていた。
しかし、この人々の胸には、きっと皆それぞれ苦しかった日々のこと、或は戦前の平和で楽しかった日々のことなどが、去来していたことであろう。
この大陸の五月、それは美しい青空が果てしなく続き、爽やかな風に、平原には黄や赤の花が咲き乱れていた。されど私は、二人の幼児のむずかりに、ゆっくり、この地、限りない思い出のあるこの地への、別れを告げる暇もなかった。
葫蘆島で一泊したが、祖国日本へ帰れる溢れる喜びに、私はその夜まんじりともせず朝を迎えた。そして私達日本人は、俘虜第何号として、一人、一人、あちらの兵隊に肩を小突かれるように、あの中国大陸と、一貨物船を繋ぐ一枚の板の上を、はね飛ばされるようにして船上の人となったのである。
私は、はね飛ばされながらも、心の中で大声で叫んでいた。
「さようなら、ザイチェソ、我が愛する満州よ」と。
(あとがき)
今年は終戦五十周年である。終戦のあの日から随分と長い歳月が、あっという間に過ぎ去って行ったことになる。この頃は何となくあの頃の記憶も、やや薄れ勝ちなのは年のせいなのかも知れない。
しかし私は幸いに、こうして命あって平和な日本に帰れたが、その夢の果せぬまま、異国に果てた多くの人々の心を思う時、誠に、断腸の思いがする。残念である。今は唯、同胞よ、安らかに眠れと祈るのみである。
異国での僅か三年という暮しではあったが、これは長い私の人生に、色々の意味での素晴らしいものを与えてくれたと思う。もう再びこの地を訪れることも無いと思う。
私は、中国、そして中国人が好きだ。あれ程酷い仕打ちを日本人に受けても、その日本人の子弟をかくも愛し育ててくれた。素晴らしく大きな愛の心を持っている国民だと思う。日本人は、大いに過去を反省すべきは、当然であろう。
何回も孤児が母国を訪れたが、肉親に逢えぬまま、再び機上の人となるものが多い。さぞ辛かったであろう、そして、さぞや肉親を恋うたであろう、その長い歳月を思うとやり切れぬ思いに私は、いつもテレビの前に泣き伏す。折しも降る無情な雨を見つめる孤児たちの、その悲しい瞳を見ていると、或いは我が子もという思いに駆られ、体が震えるのを覚える。
多くの犠牲者を出して、戦後は末だ完全な終わりを見ない。五十年経し今も。
そして、あの日若かりし私も早や古稀を迎え、あの日一緒に引揚げて来た夫も、この引揚げの私らを涙ながらに抱きしめてくれた両親も、今はもうこの世の人ではない。
日々満ち足りた平和というものに、すっかり塗された私は、ともすればあの苦しい日々の記憶も薄れ勝ちとなり、こんなことではいけないと自己反省をしつつ、生ある中はもっと真剣に生きねばと思っている。
 最後に私は、声を大にして叫びたい。
 もう、戦争は絶対に、絶対に、嫌だ。




731関係の参考文献

『第三部 悪魔の飽食』


『新版 続 悪魔の飽食』


その手前に「三本煙突」が見える。





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関連項目



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舞鶴引揚記念館:シベリア抑留
舞鶴引揚記念館:満蒙開拓青少年義勇軍
舞I引揚記念館:満州開拓団
満州天田郷・第二天田郷(このページ)
舞鶴引揚記念館:岸壁の母
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引用文献
『生還者の証言−満洲天田郷建設史』()
『裂かれた大地』(京都満洲開拓民)
『凍土の碑−痛恨の国策満州移民』
『青少年の移民−満蒙開拓青少年義勇軍』
『移民たちの「満州」満蒙開拓団虚と実』



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