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丹波の

和泉(いずみ)
京都府南丹市美山町和泉


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京都府南丹市美山町和泉

京都府北桑田郡美山町和泉

京都府北桑田郡宮島村和泉



和泉の概要




《和泉の概要》
町の中央部でムラというよりも都市化したマチといった所(ちょっとオーバーか)、由良川が南東部で支流棚野川と合流する。由良川右岸を府道12号(綾部宮島線)が走り、沿道に集落がある。
古代は弓削郷、中世は野々村庄。
和泉村は、江戸期~明治22年の村。宮島11ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。棚野川上流にある獺走(おそばしり)堰から当村まで水路が引かれたが、このため村の負担は巨額に達し、負債は大正2年まで及んだという。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年宮島村の大字となる。
和泉は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮島村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。


《和泉の人口・世帯数》 222・97


《和泉の主な社寺など》

和泉遺跡より延喜通宝などの古銭が出土しているという。
村域内に神社はなく、宮脇の道相神社および市場の菅原神社の氏子。


臨済宗妙心寺派寿松山栄久院
永久院
小高い小字宝天頭に永禄年間竜室宗虎和尚の開基にかかる臨済宗妙心寺末寿松山栄久院がある。同寺の過去帳に竜室宗虎について「慶長元丙中年三月十五日示寂」とあるという。寺内に安置する地蔵尊は、かつて当地にあった曼陀羅山般若寺の本尊という。

壽松山榮久院 和泉地内寳天頭にあり、臨濟禪宗妙心寺末にして、永録年中龍室宗虎和尚の開基せるものと傳ふ。和尚は慶長元丙申年三月十五日示寂と本寺の過去帳に明記せり。境内に數百年を經周圍一丈二尺高七十八尺に逹せる老松あり。寺内に安置せる地蔵尊は嘗て和泉にありし曼陀羅山般若寺の本尊なりしなりといふ。尚この地にはもと大迫山権現寺もありしといへど、今は何れも廢寺となりその址は僅に小字の地名として存するのみ。 (『北桑田郡誌』)


赤い屋根が地蔵堂で、


木造地蔵菩薩半跏像 一躯
  美山町字和泉小字宝天頭六六
  栄久院地蔵堂
仏像の姿勢を大きく分けて立像、坐像、倚像とあるが、この半跏像は坐像の一種で、立膝の姿と考えてよかろう。普通、坐像というのは坐禅の形をした結跏趺坐像が多い。町内でもこの種のものは原の地蔵堂のものとここだけである。美しい仏像で半跏ふみさげの形をとっていて鎌倉後期のものといわれている。大地の恵みを神格化したのが地蔵菩薩で、末法思想の盛んだった平安中期以降急速に広まった。もともと近くの曼陀羅山般若寺にあったものを移転して祭祀したとい地蔵菩薩像われている。
(『美山町誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


和泉の主な歴史記録


子供達の記録
井根を作り田を開いた人々
  庄太郎じいさんに聞いた和泉新田のはなし

  美山町・宮島小 六年 中川稔章 小野治美
              宇都宮 恵 樋口万里恵 工藤重行
          五年 樋口也寸志 大家義輝 秋野陽子
              塩井智子
私たちは「むかしの和泉」のことを聞きに行きました。話してくださったのは、木戸庄太郎さんというおじいさんです。私たちがたずねた時、おじいさんはちょうど田を見にまわって草を刈っていられました。お話をお願いすると「この草原にみんなすわりなさい」といって水路の通っているところに行って腰をおろさはりました。みんなで水路のはたにすわって「和泉の水路作り」の話を聞きました。
現在、和泉は道をまんなかにして、川ぶちに十ヘクタールの田んぼがあります。そして和泉の田んぼはよい田んぼで、お米もあまるくらい取れるようになっているのです。
でも、江戸時代には川ぶちしか田んぼはありませんでした。山側はあれ地で、家のまわりに少し畑で作っていただけでした。だから米があまりとれないので、和泉の人たちのくらしはらくではありませんでした。それでなんとか山側のあれ地にも田を作りたいとのぞんでいました。この時代に宮島をおさめていたのは園部の殿さまでした。和泉でもこの殿さまに年貢米として十分の四をおさめていました。さらに江戸時代の終りごろには、いろいろなきまりが乱れてきたので、今までの倍も年貢の米がとられることになりました。
田の少ない和泉では、農民が食べる分の米がなくなってしまいました。病気になったり、食べものがなくて死ぬ人もありました。人々はあつまって、あれ地を田にすることを相談しました。そして殿さまに水路をつくることを許してもらったのです。今から一二〇年ほど前のことです。
棚野川の水を鶴ヶ岡の砂木でせき止め、その水を和泉の新田までひいてくる。“みぞ“つくりです。よその村から、たくさんの借金をして、必要な道具をつくりました。水路は長く砂木、栃原、今宮、静原を通って和泉までくるのです。この水路の長さは四キロメートルにもなります。そして今は上司までいっています。
この四キ口の間を、土をほって巾一メートルぐらいのみぞをつくり、出た土をモッコでかつぎ、みぞ土手にし、みぞの中を赤土でたたいてかため、岩石の所はのみとかなづちでわり、苦しい作業で大変だったそうです。自動車も一輪車も火薬も、砕岩機もなくて、全部人の力だけでできたのです。和泉の大たちは田ができ、いねが作れるのをたのしみに、苦しくても共同で力を合わせて作業したのだと思います。初めて和泉まで水が来た時、どんなにかうれしかったことでしょう。
私たちも今の大人の人たちのように水路を大切に守っていきたいと思います。
水路ができると、あれ地を田に作りかえます。これも大へんな苦労でした。でも水路を作るために、となりの村などにたくさんの借金をしたので、早く田をつくってお金を返さなくてはなりません。十ヘクタールの田がっくられました。でもそのうちの八ヘクタールの田はお金をかりた所へわたされたのです。その田をつくらせてもらって、取れた米の半分は、田の持ち主にわたさねばなりませんでした。
和泉の人たちの願いは、早くお金を返して、この田を自分たちの田にすることでした。みんな努力して米をつくり、一生けん命に働いて大正時代から田をかいもどすことができました。そして今は全部かいもどしてそれぞれの家で米をつくっています。
この山側の田を和泉では「新しい田」と書いて「新田」と呼んでいます。私たちのお父さんの四代前の人々の力で和泉に田がふやされたのです。それも自分たちのもっているお金を全部出しあって、しかも和泉へお金をかして下さった人たちがあったからできたのです。
和泉では八月二四日の夜、新田をつくるために苦労してがんばって下さった祖先をくようするために、みんなであつまってお寺でお経をあげたり盆おどりをするのです。今年は雨が降って盆おどりができなかったのですが、若草子ども会で燈ろうをつくって流しました。
お話しをしてもらったあと、おじいさんは「和泉には、このことを書いてのこした古いものは何もないですよ。わたしも、わたしのおじいさんに聞いたものです。それを今みんなに話してあげているのです」といわれました。わたしは和泉の子はこういう話を聞かせてもらったら大事にして、またみんなに話せる大人にならなくてはならないと思いました。


新田水路と減反
     美山町・宮島小 六年 樋口万里恵
和泉地区で夜、農業耕作地の話がよくあって父が行きます。このごろ、どこの部落でも夜、公民館で話し合いがあるそうです。
このあたりは。田んぼを減らして転作することをすすめられていると五年の時、社会科で学習しました。和泉区は川ぶちでは、大野ダムを作る時、買い上げられた田が冬、水がひくと砂をかぶってみえます。山側の方でも米を作らず、杉苗を作ったり畑にかえられた所に野菜作りをされていたり、休耕田になっている所があります。でも今年は政府から、耕作米の一〇パーセントの減反がいわれているので、その話があるのだそうです。
家では「うちも豆でも作ることにするか」と話がまとまりかけています。「今年、豊作やったらぎょうさんお米がとれるんやろ」と言うと「京都は京都食管法があるさかい、それで農家は守ってもらうのや」と父が話してくれました。
夏休みに私達、和泉班で新田水路が作られた時の事を、調べました。今から百二十年ほど昔は和泉には道から下に田が十ヘクタールしかありませんでした。田が少ないので、取れた米は、年貢にほとんど出していて、人々の生活は大変苦しいでした。それで江戸時代の末、このあたりを治めていた園部の殿様にたのんで、山手の荒地に田を作ることにしました。昔は道具も充分になく、手のみや、げんのうを使った、人の力だけの苦しい水路造りだったそうです。
昔から和泉で働いてお金をもうける仕事は、山での炭焼きか田を作って米をとる仕事しかありませんでした。いねや水路が完成して、新しい田が出来て、たくさんの借金を少しづつ返しながらそれでもだんだんくらしが良くなってきたという事です。けれども、この水路をずーつと守るのは大変な仕事だったそうです。
今は、谷にかかった水とゆが、古くなったのでセメントのひに変え、風水害でこわれた溝土手は、コンクリートでかためたりして大切に守られています。
区では.水利という役があって、順番に水路のことを世話される人があります。少しの水でもこぼれないように、どの田にも十分水が行くようにと気を配られているのです。毎年、古い田の水路も新田の水路も夏になると大きなみぞこにいっぱい水が流れています。それは、春になると日役に出て、みぞこのそうじや補修をされるからです。水路を守るために一年に一〇アール当り五千円、臨時費を七千五百円ぐらい出しています。今は田が畑になっている所もありますが、それにも水代はいります。田や水路を作った時のことを考えたら、減反になっても水路は守らなくてはいけません。特に今年は、水路がひどくいたんだので、大工事をする事になっています。費用もたくさんいります。でも、みんな「水路は守らんなんから」と言っていられます。
私の家の人は「やっぱり、この地域では米作りをするのが一番いいし.田を荒らしてしまわない内に米作りがしたい」と言っています。
わたしも早く荒されてしまった田や豆の畑が、水田に返って、どの田んぼも米作りが出来るようになると良いと思います。  (『由良川子ども風土記』)



和泉の伝説





和泉の小字一覧


和泉(イズミ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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