丹後の地名 若狭版

若狭

旧・大飯町(おおいちょう)
福井県大飯郡大飯町


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福井県大飯郡おおい町

福井県大飯郡大飯町

旧・大飯町の概要




《旧・大飯町の概要》
昭和30年1月15日、佐分利村・本郷村・大島村が合併し、町制施行して成立した。町名の由来は、古代以来の郡名による。
町域は佐分利川の流域と青戸入江を隔てた大島半島の大部分からなる。佐分利川沿いに平野が広がる。舞鶴若狭道・国道27号・JR小浜線が海岸を東西に並走する。
平成18年(2006)3月3日、当町と遠敷郡名田庄村が合併し、おおい町(読みは同じだが、漢字から平仮名に変更)が新設され、旧大飯町は廃止となった。

-旧大飯町の沿革-
古代の製塩所
大島半島の小浜湾側の山すそ斜面・平地には縄文時代から平安期までの遺跡が数多く発見されている。縄文時代遺跡として最初に形成されたと考えられているのは青法遺跡で、早期から中期初頭の土器が出土している。中期になると半島先端部からも遺物が発見されており、宮留遺跡からは中期から晩期まで、また、脇の前遺跡では中期後半、浜禰遺跡では後期末の縄文土器が出土している。ほかに前記・中期の土器が出土している遺跡としては大島の日角浜の寺内川遺跡があげられる。大島半島の突出部にある吉見浜遺跡は、大飯原発に破壊されたが、縄文晩期の土器が出土している。
弥生時代遺跡は、宮留遺跡・浜禰遺跡・吉見浜遺跡から前期末の土器、宮留遺跡・青法遺跡からは中期の土器、吉見浜遺跡からは後期の土器が出土している。
古墳時代から平安期にかけては、薄手の丸底土器が多く出土し、盛んに土器製塩が行われていたことがわかる。町内の遺跡としては浜禰遺跡・宮留遺跡・長浜遺跡・脇今安遺跡・日角浜遺跡・河村遺跡・浅尻遺跡・吉見浜遺跡などから製塩土器が出土している。古墳時代になると製塩土器の大型化、敷石炉の出現などにより製塩も最盛期を迎える。宮留遺跡・浅尻遺跡など現在の集落と重複するように分布している。
この時期は古墳の建設も盛んに行われており、ヒガンジョ古墳群・神田古墳群・西村古墳群などの群集墳、赤礁古墳・畑村古墳・日角浜古墳・浦底古墳が知られている。平安期には支脚を伴った製塩土器も出土する。

調塩の木簡
平城宮出土の木簡には「佐分郷」「青里」の地名が書かれたものがある。多くは調塩の札であるが佐文郷では塩がとれないため小堀・木津方面から作業・交換によって入手したものと考えられる。条里制の遺跡は岡田・本郷・鹿野に残っている。「延喜式」神名帳には、町域では4社が見える。福谷の伊射奈伎神社、父子の静志神社、山田の大飯神社、川上の許波伎神社であり、すべて小社。

中世
〔大飯の荘園〕現在大島に伝わるいくつかの仏像から平安期に豊かな文化が開けていたことが推定される。若狭国惣田数帳案に記載されている当町域の地名は「佐分郷」「本郷」「岡安名」であり、すべて公領であった。また、佐分郷と本郷に寺田をもつ満願寺も見えている。佐分郷は平安末期には若狭の最有力在庁官人稲庭時定が支配していたが、鎌倉初期に時定が没落させられたあとは守護領とされていたものと思われる。建久7年(1196)の若狭国御家人注進状案に見える佐分四郎時家は郷内の恒国名を所領としていたが、守護はこれを押領している(東寺百合文書)。さらに鎌倉後期になると、佐分郷地頭である北条氏得宗家の代官は岡安馬大夫が支配していた岡安名領主職をも押領している。

〔本郷氏の支配〕鎌倉初期に本郷の地頭になったのは本郷朝親である。本郷氏は以後、10数代にわたってこの地を支配した。居城は初代から11代までが高田城、それ以後は達峰城に移ったと伝える。南北朝の動乱期には北朝方につき、応安の国一揆の際も、鎌倉以来の若狭の御家人たちが反守護の立場を取り没落したのに対し、本郷氏は守護に味方しており、室町期には佐分氏とともに将軍直属の奉公衆となって支配を継続した。さらに、一色氏に代わり、武田氏が守護となっても奉公衆本郷氏は自立性を保ったが、16世紀以降は武田氏にも服するようになり、佐分利川上流の石山には武田氏家臣武田上野介が配されている。武田氏滅亡の時本郷氏は織田信長に属しているが、のち本郷を退散して大津に行き、その後の消息は不明である。

近世
〔江戸期の村々〕江戸期の当町域は小浜藩領であった。「元禄郷帳」に見える当町域の村々は、川上・三森・安井・川関・久保・石山・福谷・佐畑・小車田・鹿野・篠谷・神崎・広岡・岡安・万願寺・父子・野尻・芝崎・岡田・小堀・本郷上下・本郷市場・下薗・尾内・山田・犬見・長井・大島の28か村を数える。なお、「旧高旧領」では、篠谷村は笹谷村、本郷上下村は上下村、本郷市場村は市場村と見える。
〔野尻銅山〕野尻銅山は宝暦9年(1759)より小浜藩の手により採掘が開始された。採掘の指導者として生野鉱山から経験者を招いた。鉱山の経営が軌道に乗ってくると、本郷港は鉱山に使用する坑木などの荷揚げで活気づき、200人もの男女がこの仕事のために本郷に居住していた。銅山は明和6年(1769)に休山し、天保12年(1841)に再興している。その後、廃藩になるまで酒井家と大坂の住友の合弁で事業が進められていた。


近現代
〔行政区画の変遷〕当町域は明治4年小浜県、敦賀県、同9年滋賀県を経て、同14年福井県に所属した。この間明治8年安井村と川関村が合併して安川村、同12年上下・市場・下薗の3か村が合併して本郷村になった。同22年市町村制施行により、川上・三森・安川・久保・石山・福谷・佐畑・小車田・鹿野・笹谷・神崎・広岡・岡安・万願寺の14か村が合併して佐分利村、父子・野尻・芝崎・岡田・小堀・本郷・尾内・山田・犬見の9か村が合併して本郷村が成立し、長井村は現小浜市域の6か村と合併し加斗村となり、大島村は一村で存続した。昭和30年加斗村のうち長井が本郷村に編入となり、同年佐分利村・本郷村・大島村が合併し、町制施行して大飯町が成立した。


原子力発電所と町議会
関西電力が三方郡美浜町・大飯郡高浜町に発電所を建設した。さらに関西電力は当町大島半島の先端に117万kwの原子力発電所の建設計画を発表した。このような急激な計画の進展に対し、住民は安全性に対し疑問をもち、また、昭和46年に放射能漏れの事故を起こしたことなどから、原子力発電所誘致反対運動を激化させていった。当町では町長が議会に諮らず、独断で誘致を決定したとして町長リコール運動が展開された。このあと行われた町長選挙では原子力発電所反対の立場をとる候補が当選し、関西電力は仮契約書を破棄し、原子力発電所建設は白紙に戻された。その後、建設計画は再び動きだし、昭和51年には大飯1号機が、翌年には2号機が完成した。


史跡・文化財
国重文に木造不動明王坐像(大島、常禅寺)、木造毘沙門天・吉祥天・善膩師童子立像(大島、清雲寺)、木造阿弥陀如来坐像・木造多門天立像(大島、長楽寺)、木造千手観音立像附紙本墨書千手千眼陀羅尼経(万願寺、意足寺)があり、県天然記念物に伊射奈伎神社のウラジロガシ(福谷)、依居神社のモミの木(岡安)、堀口家のサザンカ(神崎)、県文化財に木造釈迦如来坐像(長井、竜虎寺)、木造阿弥陀如来立像(大島、奥の堂講社)、県無形民俗文化財に本郷踊(本郷)、六斎念仏(父子)、六斎念仏(鹿野)、大火勢(福谷)がある。




旧・大飯町の主な歴史記録


『大飯町誌』
大飯原子力発電所
当町に所在する関西電力(株)大飯発電所は、加圧水型軽水炉で電気出力一一七万五、〇〇〇キロワットが二基設置されており、その規模は我が国最大級である。
 この原子力発電所の誘致の経緯を見ると、昭和四十一年(一九六六)六月、永谷刀禰町長死去に伴う後任町長選挙に当選した時岡民雄が、過疎からの脱却と、大島地区住民の百年の悲願であった大島陸路の建設を実現するため、関西電力大飯原子力発電所の誘致を決定し、四十四年(一九六九)四月、町議会においても誘致決議がなされた。四十四年調査工事に関する仮協定が締結されたが、四十五年時岡町長の再選と同時に、吉見地区の調査工事並びに原電道路、青戸の大橋の建設工事が開始された。そのころから住民の間で、原発設置に対して反対する運動が始まり、「大飯町住みよい町造りの会」が発足、いろいろ反対運動が展開、町内はあたかも賛成と反対の二派に分かれたかのような状態になった。
 四十六年七月仮協定が破棄され、反対派の住民により、町長リコール署名運動が開始された。これにより時岡は、これ以上の紛争の拡大を避けるため、自ら辞任を決意した。
 四十六年八月、永谷良夫が無投票により町長に当選、原発諸工事の一時中止を求め、当時の町議会は一〇対四でこれを否決した。
 四十七年三月、国の原子力安全委員会は、大飯発電所の安全性を認可したが、なおも町長と町議会とは一時中止に関しての対立が深まり、一部住民の反対運動もますます過激化していった。
 同年三月、こじれた論争による町の紛争を収めるため、町長・町議会の両者は、中川県知事に両派の紛争あっせんを依頼、解決を図った。翌月四日発電所の建設を前提として、県・町・関西電力(株)は基本協定に調印、工事の一時中止に踏み切り、一応解決をみたのであった。四十七年十月から建設工事が始まり、一号機が五十四年三月、二号機が同年十二月にそれぞれ営業運転を開始し現在に至っている。
 一方、五十六年八月、関西電力(株)から大飯発電所一、二号機の運転実績と、我が国の将来におけるエネルギー情勢を考慮して、大飯発電所三、四号機増設計画に係る事前調査の申し入れがあり、同年十月町議会の促進決議がなされ、これを踏まえ町は各種団体や各集落ごとの町政懇談会を開催し、町民の意向を把握するとともに、国等の動向を見極め、同年十二月調査の同意を決めた。五十七年五月、県知事から自然公園法等による調査の許可を受け陸・海・空における環境影響調査が進められ五十八年六月に調査は終了した。
 また、五十九年十一月第一次公開ヒアリングが開かれ、六十年一月、県知事の同意を得て、電源開発調整審議会の計画に組み入れられている。六十一年十一月には原子力安全委員会によるダブルチェックとして地元意見を聴く会(第二次公開ヒアリング)が開催され、六十二年五月建設工事が開始された。





関連情報


原子力発電所建設反対運動
原発銀座からの問い
小浜市が原発推進の財源に頼らない自治体運営を進めたものは何か




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『大飯郡誌』
『大飯町誌』
その他たくさん



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