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花浪駅(はななみえき)山陰別道
京都府福知山市瘤木附近か
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京都府福知山市瘤木
京都府天田郡下川口村瘤木
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花浪駅の概要
《花浪駅の概要》
延喜式に見える丹波国内の駅馬の置かれたところは、大枝・野口・小野・長柄・星角・佐治・日出(白出)・前浪(花浪)の八駅である。日出・花浪以外の駅は山陰本道の駅と思われ、日出と前浪は本道からの別道で、丹後国府に向かう丹後枝路の駅かと思われる。この二つの枝路の駅は馬の数(五疋)が本道(八疋)に比べて少ない、この先の丹後国には勾金駅(五疋)(加悦町あたりに比定されている)があった。
今に至れば「大枝」(老ノ坂)「佐治」(佐治神社)以外はいずれもこうした地名は失われているし、駅の遺蹟も発見されておらず、現在のどの地点にあったものかは明確ではない。
フツーは日出駅については、氷上郡から塩津峠を越えて天田郡に入ったのたではないかと考えて、今の兵庫県氷上郡市島町段宿あたりに比定されている。丹後別道は塩津峠を越えて、市内南側の山麓を通り、その後今で言う大江山山塊を越えて丹後国へ入ったと考えられ、この大江山塊を越す手前側に花浪駅が置かれていたと考えられている。丹波(花波駅)から丹後(勾金駅)への大江山越の道は今もたくさんあって、当時もたくさんあったものと思われるが、どのルートが官道だったのかは不明である。どのルートを行ったとして大変な難路でなかったかと思われる。
延喜式の写本によって、「前浪」とあったり「花浪」とあったりするが、前浪という地名は現在も過去にもほかの史料には見えず、「花浪」の誤記でないかとされる。
その花浪駅はいずこであろうか。
ハナナミという所は現在もあって、瘤木に花並(はななみ)山と花並峠があることから瘤木の辺りと考えられている。
瘤木集落の入口付近に「京都府教育会天田郡部会」が昭和九年に建てた「此之附近花並之駅址」の石碑↓
高さ50センチばかりの石碑が建てられている、本当に当地かは不明なのだが、花並峠(はななみとうげ)は、
瘤木から長尾へ越す花並峠は幅1メートル足らずの山道で、明治の中頃までよく利用されたという。 この付近から北部にかけた地域は、鎌倉期から近世までは金山(かなやま)郷と呼ばれ、近代に至るまで錫・亜鉛・銅・鉄などを産して、天目一箇神を祀る社が多い。
華浪山は下川口村瘤ノ木より、金山村行積へ越える峠なり。十三峠ともいふ。寛永元年大嘗会主基名所に天田郡花並里とあるのは此所だと思ひます
(『天田郡志資料』) |
花並山(はななみやま)は、瘤木集落の北方の標高約100メートルの山。鉱物はこの一帯各地に産し、瘤木の集落付近には廃坑が三ヵ所あり、そのほか大呂・天座・田和・上佐々木などにも多くみられる。中世、この地方は佐々岐庄金山郷とよばれ、鎌倉末期に常陸国から来住した地頭那珂氏は、姓を金山と改めている。金山氏およびその一族である桐村氏は戦国時代まで長く当地方に勢力を張ったが、その経済的基盤は鉱物資源にあったと考えられている。江戸時代には瘤木の鉱山から銀を産出しており、幕末から明治にかけては亜鉛を産出したという。
瘤木集落↓あまり耕地もなさそうな嶮しい山並が迫る狭い谷間にある、たぶん鉱山の村ではなかろうか。もしここが花並駅なら、この道が丹後別路の官道であったことになる。
ずいぶん古くから知られた鉱山地帯だったようで、『続日本紀』の天平神護2年(766)7月26日(己卯)条に見えて、華浪山として白鑞という鉱物が採れると、次のように見える。
散位で従七位上の昆解(こんげ)宮成は、白臘(しろなまり)に似た鉱物を入手して献上した。(宮成はつぎのように)言上した。「丹波国天田郡の華浪(はななみ)(福知山市瘤木にある花並山のことか)より出土したものであります。いろいろの器物を鋳造したところ、その品質は唐の錫に劣りませんでした」と。そこで〔その証拠に〕真の白臘で鋳造した鏡を呈上した。その後、〔宮成に〕外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人の〔労役〕で十斤余りを得た。ある人は、「これは鉛に似ているが鉛ではない。どういう名前か知らない」といった。〔そこで〕その時、鋳工たちを召して宮成と一緒になってこれを精練させたところ、宮成はどうすることもできず、悪いたくらみをなすことができなかった。しかし、それが白鑞に似ていることを根拠に、〔宮成は錫であると〕強く言いはって屈伏しなかった。宝亀八年、遣唐使の准判官の羽栗臣翼がこれをもって、楊州の鋳工に見せたところ、〔どの鋳工も〕みな、「これは鈍隠(鉛)だ。こちらでにせ金をつくる者が時々これを使っている」と言った。
(「白鑞」という鉱物がよくわからないが、フツーは鉛と錫の混じったもので錫分が多いものと推測されている。錫といえば錫だし鉛といえば鉛であったのかも知れない。4対1というからどちらと言えばどうとも言えるようなものだが、錫に近いものか。
昆解宮成という人、昆解氏というのは何とも日本語とも思えないが、百済系渡来氏族とされる。
『続日本紀』によれば、宝亀六年(775)八月に従五位下昆解沙弥麻呂が宿禰の姓を賜わる。沙弥麻呂はさらに延暦四年(785)五月に鴈高(かりたか)宿禰と改賜姓、『新撰姓氏録』右京諸蕃下には「鴈高宿禰。出レ自二百済国貴首王一也」とみえる。鴈高は万葉集にも歌われた地名だが、大和春日山の南に連なる高円山付近の地名で、昆解宿禰氏の本拠はその地だったのであろうとされる。また承和二年(835)五月には右京人丹波権大目昆解宮継・内竪同姓河継らが広野宿禰の氏姓を賜わり、『続日本後紀』は両名を「百済人夫子之後也」と伝えている。宮成もこの昆解氏の一族と見られている。カリというのだから金属と関係がある地の氏族ではなかろうか)
ハナナミとは何か。花の波だろう、というのがフツーである。山腹に藤の花などが全面に咲き乱れていて、それが風に吹かれる様があたかも花の波のように見えたのだ、と。これでは何とも素朴、漢字の意味を言っただけのもの、地名の漢字は当字だという基本すら忘れられいる様子だが、もちろんそうした意味ではなかろう。
ハナナミは丹後にもある。和泉式部の
はななみのさととしきけば物うきに
君ひきわたせあまのはしだて
で有名だが、この「はななみのさと」は、彼女の夫の赴任先・丹後国府のあった所で、今は板列(いたなみ)と呼んでいる所である。板列八幡神社か板列稲荷神社のあるあたりがそこではなかろうか。
板列はイタナミと読んでいるが、本来はハンナミでハナナミのことである。板列の北東方に波美川があり、里波美、中波美、奥波美の集落もある、ハミの転訛か美称化したものがハナナミと思われ、ハミとはヘビで天橋立をハミと呼んでいたものと思われる、天橋立とその北方の付け根の一帯をハミとかハナナミと呼んだものではあろうか。現在の朝鮮語でもヘビはペムというそうで、ハミはその古語か転訛ではなかろうか、ハブという毒蛇やハモという鰻の仲間や、ウワバミとかババメとか古い言葉もある、みなヘビのことかと思われる。
ハナナミは播磨にもある、播磨風土記で有名な女性が切腹したと伝わる花波の神を祀る託賀郡法太里の花波山。兵庫県西脇市に板波(いたば)町というのがあるが、ここがハンナミではなかろうかとワタシは推測するが一般にはそうは見ていないようである。花並神は近江の神とあるが、滋賀県坂田郡伊吹町に板並(いたなみ)という所がある、あるいはここの神かも知れない。
八岐大蛇を持ち出すまでもなく、ヘビと鉱山は関係深く、伊吹山の北麓だから、金属と関係しそうに思われる。
我国では女性や少年が切腹するのは特に珍しいことではなかったようでそうした話はけっこうある、最近の満蒙開拓団などでも女性が切腹している。侵略国の武運などは長久であれるはずもない、すぐに悪運は尽きるものである、その時の自害の手本となるかも知れない、勝つものと勝手に決め込んでいる様子だが、そうとは何も決まってはいない、それでも戦争大好きの与党などはしっかりと己が腹を切る作法など学ばれるとよろしかろう。
左の脇腹から右の脇腹へ一直線に切り開き、はらわたをとりだして、あたりへ投げつける、本当は神へ捧げる、ワタシのハラの中はこんなものです、よく見て下さい、ということであるらしい。「よく切れるよいカタナだ」とか言いながら、それでもなかなか死ねないらしいが、最後はそのカタナを口にして前へ倒れて絶命する、.痛い、苦しい、これが神に見放された者が最後にとる切腹だ。口ばっかりの腰抜けどもににできるわけもない。覚悟があるわけもない。そうした者ばかりの国となってはいないか。
瘤木より由良川を5キロばかり下ったところに波美(ハビ・福知山市大江町)という所がある。大江中学校のあたりから南へ向けて突き出したような台地状の地で、これがヘビに見えたのかも知れないが、花浪峠と関係ないとも思えず、古くはハビ・ハナナミの地はかなり広い範囲を指していたかも知れない。
享保2年から4年まで京都代官所が丹後国内の幕府領支配のために、京都代官所の波美村代官出張陣屋が波美村新井家に設置されていた。あるいはこの附近が華浪駅であったかも知れない
花並山はもっと広く、丹波と丹後の間に横たわる今の大江山塊の全体を指していたのではあるまいか、瘤木川の一谷北を流れる川を花倉川、立原から大呂へ越す峠をハンサカと呼ぶがこれらもどこか花並を連想させる名のように思われる。
花浪駅の主な歴史記録
『福知山市史』
前浪五疋(華浪山考)
前に触れたように、天平神護二年(七六六)には天田郡華浪山から産出した白鑞を献じ、その質の真偽が問題となり、遣唐使に託して中国の専門家の鑑定を乞うたということは、わが国の正史に見える天田郡関係の最も古い事件の一つで、日本上代鉱業史の一挿話でもある。ところが、今問題にしている延喜式の駅名に前浪というのがあり、これこそおそらくは前記花浪を指したもので、行書で写す時に間違ったものであろうという説もある。
まず日本地理志料には次のように述べている。「前浪五疋、日本地理資料には天田郡雀部ニシテ有二三獄山一、一ニ名ク二富国山一、右来出シ銀俗称二宮垣銀山一ト、金山郷ノ名、蓋シ本ヅクカ于此、天平神謹二年紀ニ天田郡華浪山出二白白鑞一豈言二
此山一ヲ耶、花浪里、見ユ二主基方風士記ニ一、因ツテ謂ラク、兵部省式、丹波国前浪駅馬五匹、以テ二馬匹ヲ一推セバ之ヲ、蓋シ属ス二丹後ノ別路ニ一、前ハ恐ラクハ花字之譌ナラン、亦タ在二此間ニ一耶、姑タ附シテ備フ攷ニ又丹波志云、今天田郡夜久郷、領ス二今西中、井田、額田、高内、千原、末、大油子、小倉、板生、直見、畑十一邑ヲ一、按スルニ夜久ハ与駅同音ニシテ、兵部省式ニ所謂前浪駅ハ或ハ是ナラン 耶、姑ク附シテ備フ考ニ」
「日本地理資料」は前浪駅を天田郡雀部とし、そこに三獄山があるとしているが、この場合の雀部は旧三岳村、佐々木の誤りであろう。
次に吉田東伍博士の大日本地名辞書には「今詳ならず、古史に見ゆる鉱山也、蓋天田郡に在りて、後世金山と云ふは即是なるべし」として続日本紀の文(前掲章節)を掲げ、「是より先文武天皇三年の条にも令ム二丹波国ヲシテ献ゼ錫ヲと見ゆ、共に同山の所出なるべし」と書いている。そうして一方延喜式の丹波の駅名に日出・前浪の二つがあり、これらは山陰道から丹後の国府へ通ずる別路に当たるという。(注、一体当時の山陰道コースは今の亀岡から篠山・柏原・佐治・和田山を通ったもので、後の山陰街道とはこの地方に関する限り異なっていたのであった。又丹後の国府は与謝郡府中村〔天ノ僑立の基点付近〕にあった)そういうわけで、この二駅は当時の山陰道の本路から分かれて、丹後の国府へ向かう道筋にあったはずであるというのである。別に主基方風土記に天田郡花並里というのが詠まれていることも引例して、この前浪駅の名は花浪とかいたものの誤写であることに疑いない。延喜式の前浪駅といい、花並里というのは、華浪山の下の駅里の名であり、今の金山・天津などの位置ではないかともいっている。もちろん博士は、当時のことについての別の資料を参考としてかく断じているのであろう。
はなゝみの里としきけば物うぎにきみひぎわたせあまのはしだて
右は和泉式部集に見える歌であるが、同書のこの歌の前の方を見ると、式部が丹後へ下るというので宮から絹扇に天橋立を描いたものを下され、「秋霧のへだつる天の橋立をいかなる隙に人渡るらむ」といとも旅路を心配した歌を賜ったので、式部がお返しとして「思立つ空こそなけれ道もなくきり渡るなる天の橋立」を詠んだのかと思われるところがあって、そのすぐ後にこの花並里の歌が来ているところを見ると、この所が丹後への道筋にあったことが一層うなずかれる。
又次のような歌もある。
もろ人のさかゆく道はながを山まだ行すゑぞはるけかりける(夫木集)
この歌に詠まれている「ながを山」については、字大呂から字長尾の北へ越す峠を「はななみ峠」と呼んでいるし、そのすぐ先の長尾を詠み込んでいるから、平安時代の丹後路は天津を通らないで野花・大内・大呂・長尾・野条・雲原のコースをとったものと考えられる。そういうコースを考えるならばその中に現に同名の地がある以上、問題の華浪山も前浪駅も花並里も大体その付近であったと思われる。
ただここに華浪山を鬼ヶ城のこととなす説があることを紹介して、今後の研究の資料としたい。地名の考証などはそう簡単に断定出来ないもので、まだまだ討議が繰返されなければならない。
まず「丹波考」に、鬼ヶ城の洞窟を説明した後に、「思ふに、こは古の鉱坑なるべし、神護景雲年中、丹波国華浪山 此山の名なり にて鈍隠を掘出しゝことあり」とある。又「曽我井伝記横山硯」には、(和名抄に華浪山とあり、この山の名は藤の花盛り、花の浪立つ風より起りし名なりと古事に見へたり。 藤浪山の名も或書に見たりと覚ゆ 」(以上二書の文は山口加+米之助氏の郷土史料にも引用されている)「丹波考」の着眼は一応は考うべきも、「曽我井伝記」の説は採らない。山口氏が藤浪山と書いたものをある書で見たように思うというのは、かの久寿及び寿永の大嘗会の扉風歌に詠まれている藤浪社を見たのではなかろうか。しかしそれについては京都美術大学教授下店静市氏はこれを何鹿郡の地名としている。なお華浪山即鬼ヶ城説には、例の前浪駅(華浪の誤写説をとるとして)が丹後への別路であるというのを、由良川の向かい(東)側の道を考える一方、華浪を音訓混読して「かなみ」とし、その山麓安井に河波氏がいることと連関させるなど、多少無理な新説も生まれている。
丹後への駅路
吉田博士の「日出・華浪は山陰道の別路である」との説を子細に検討するとぎ、星角から華浪(字長尾の付近)への最短距離、つまり、多紀郡からの近路を考えることも大切である。
そこで多紀郡内の名柄駅を今の篠山町の北郊、郡家説をとるとすれば、そこから西方宮田か大山をへて、山陰本街道の柏原・石負(星角駅)へ出て、竹田川の谷を北行するのが常道であろう。もっとも郡家の西方宮田から黒頭峯の西、佐仲峠を越える道、あるいは西の峠もあるが、平安時代の時代相を考えると、五百メートル近い峠は避けたと考えられる。しかし大山宮から国領へ越すのは比較的楽で、かつ石負へ回るよりは極めて近路である。いずれにしても、黒井まで出ると、竹田川沿いの不安定な道をさける場合には、おそらくそこの城山の西の低い峠を越え、与戸・酒梨、それから日出嶺を越えて、邨岡氏や竹岡氏が日出駅と想定する段宿へ達することになる。
日出駅から前浪への道
日出駅を今の市島町竹田の段宿と想定し、それから天田郡をへて丹後へ向かうにはどこを通ったものであろう。竹田から今の福知山方面に向かうには、塩津峠という低い峠があるが、それから北に神田ヶ岼といって、土師川が山麓に迫る断崖があり、おそらく主街道「大道」とはなり得なかったのであろう。たとえそこを通り堀に出たとしても、今の福知山市街地は、そのころは、由良川が自由蛇行をくりかえして、荒れるにまかせていたところであり、また荒河から天津をへて由良川に沿って丹後に向かおうとしても、下天津で再び神田ヶ岼と同じような断崖に遮られて到底通行は出来なかったはずである。そこで旅人は竹田から一ノ貝へ入り、一ノ貝峠を越えて荒木へ下り、荒木から正明寺・鴫谷・今安・大門を経て小田へ出、それから大内・大呂・瘤木へ向かい、花並峠をへて、長尾・行積・雲原へと登り、与謝峠を越えて丹後の加悦庄へ下り、与謝海の北を通って丹後の国府のあった府中へ達したのであろう。
以上、この地方の中世の主街道を想定するならば、延喜式内社の荒木神社、市寺・正明寺・今安の式内社天照玉命神社、大門などの地名の由来、存在の地理的理由も理解することが出来るであろう。それから先の花浪とか長尾などは、夫木集に羇旅の歌として読み込まれている。やや後代ではあるが、大呂の天寧寺が、現在から考えると不可解な僻地で栄えたのも、当時なお主街道に沿うていたのであった。地形編で図示した豊富谷の特殊地形に、荒木・正明寺・鴫谷・今安を通る構造線は、くしくも地人相関の理を示しているのである。
大江山生野道
前項に述べたところは、上古において佐治川の谷から拝師郷へ越えた丹後行の主駅路も、これは駅馬を官設していたことを示しただけで、亀岡から園部・須知・檜山・生野をへて福知山に達する人ももちろんあったはずであり、京都から今の綾部・福知山・河守・宮津などへ向かう人々は平安時代といえども後者の道を経由したのであった。
京都から山陰に向かうには、まず老ノ坂(昔の大江山)の峠を越えなければならない。そうして丹後方面に向かう人は必ず生野を経たものである。このことは当時の和歌に、大江山と生野とを合わせて詠み込んだものがすこぶる多いことによって知られる。平安時代の女流歌人である和泉式部は、はじめ橘道貞に嫁いで小式部内侍を生み、道貞の死後丹後守藤原保昌の妻となったのであった。そういうわけで和泉式部が丹後に下っている留守中に都で歌合せがあって、式部の娘小式部内侍が歌を詠むことに苦心していた時、日ごろ小式部が母の式部から教えられていることと邪推していた中納言定頼が、小式部をからかって「歌はどうしました、丹後へ便をやりましたか、使はまだ帰りませぬか、教えてもらう人がなくてさぞお困りでしょう」と嘲弄的な言葉を述べて立ち去ろうとした時、小式部は彼を引きとどめて、直ちに次のように歌って定頼はもちろん一座の人々を驚嘆させた話はあまりにも有名である。.
和泉式部保昌にぐして丹後国に侍りけるころ都に歌合のありけるに小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかゞさせ給ふ、丹後へ人は遺はしけむや、便はもうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむなどたはぶれて立ちけるをひきとゞめてよめる
権大納言義詮(新拾造集)
百首の歌奉りし時羇
大江山こえ行く末もたび衣いく野の露になほしをるらむ
前参議忠定 (新後拾遺集)
名所の百首の歌奉りける時
夏草はしげりにげりな大江山越えて生野の道もなきまで
保季朝臣 (千五百番歌合)
はるばると猶行く末やおほえ山いくのゝ道の雪の曙
初冬雪
(順徳院御集)
大江山いく野の草のかれかれに嵐の末につもる初雪
(元真集)
別れにし程に消にし玉したのしばし生野の野に宿りける
(千載集・主基方稲舂歌)
天地のきはめも知らぬ御代なれば雲田の村の稲をこそつけ
注 雲田は生野に相接した萩原にあって天鈿女命の降臨の地と伝えるところである。
丹波守に侍りけるこそ相語ひける女のもとに又人のものいひたるよし聞て遺しける
(夫木集)
まことにや人のくるには絶えにけん生野の里の夏引のいと
源頼光鬼退治の舞台として、一般に考えられている丹波・丹後の境の大江山は、平安時代には「与謝の大山」といった。「大江山」とは呼んでいなかったのであった。当時京都から山陰に向かう時の出口であり、最初の難所が大枝山(転じて大江山)越えであったこと、丹後方面へ向かう道では、生野が最も印象的な宿場であったのであろうか。この両所が歌枕となったもののようである。
江戸時代宮津藩主が参勤交代に行くとぎ、朝宮津を出立すると、その夜は生野で泊ることを常例とした。 |
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『福知山市史』各巻
その他たくさん
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