京都府与謝郡与謝野町与謝
京都府与謝郡加悦町与謝
京都府与謝郡与謝村与謝
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与謝の概要
《与謝の概要》
ヨサではなく、普通はヨザと呼んでいるようである、(与謝郡の場合も地元ではヨザと呼ばれることが多いようである、ヨザなんですか、ヨサですか、と問うても、どっちでもかまいませんと言われる…、まあサとザに意味上の違いはなく発音上のなれか、古式の読方を伝えているのか)、この小集落も余社・余佐・与佐とも書いた、様々に書かれる漢字から考えても、もともと両方があるような感じだが、その与謝郡の与謝の発祥地か。
福井県敦賀市に「余座」というところがある、ここはヨザ、式内社の椋神社が鎮座、祭神は伊奘諾尊・伊奘冊命、ヨコクラと呼ばれているが、ヨザと読むのかも知れない。
ヨザは本当はもっと広く加悦谷全体をこう呼んでいたのが、谷下側には次々と新しい地名が出来て、ここに最後に残されたものか、何ともわからないが、ここの谷の一番奥の小集落地名と広範囲の郡名とが無関係ではなかろうと思われる、偶然の一致ではなかろう。
加悦谷の一番奥に位置し、加悦街道の与謝峠で丹波とつながる、丹波からは加悦街道とか峰山街道と呼ばれた。古代の山陰道は、今の国道筋とは違っていて、写真の左側、赤石ヶ岳と大江山の鞍部を南北に越えたといい、勾金駅は小字山河、シノ町地区にあったと伝えている。
↑南向きに国道176号の加悦大橋。下は与謝の「峠」という集落。与謝峠を南へ越すと雲原。左が赤石ヶ岳、右が江笠山。
古代伝説の地で、与謝の語源は、伊奘諾命が余社宮で子神等に依事をしたことによるとも、豊受大神が天吉葛に真名井水を盛って皇大神の神饌を調えたことによるともいう。二ツ岩地区の柴神社に伊奘諾命、二ツ岩社に伊奘冉尊命を祀り、同地を地名発祥の地とも伝えた。
余佐郷は鎌倉期に見えて、「元亨釈書」巻18願雑三尼女の項に、「丹州余佐郷」と見え、淳和天皇次妃で、体より芳香を発し「不沐浴、体無垢、天香自然、不用薫染」という如意尼は、「余佐郷」の出身とされている。「余佐郷」とは当地のことを言っているのか与謝郡全体のことか、それともどこかほかの地なのかは不明。
与謝村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。当村二ツ岩地区は与謝蕪村の母方の里にあたるため、蕪村はたびたびこの地を訪れ、自ら姓を与謝と改称したという。二ツ岩には蕪村の母げんの墓がある。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年与謝村の大字となる。
与謝村は、明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名。与謝・滝・金屋の3か村が合併して成立。同29年加悦町の一部となる。村制時の3大字は加悦町の大字に継承された。
与謝は、明治22年〜現在の大字名。はじめ与謝村、昭和29年からは加悦町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。
《与謝の人口・世帯数》
《主な社寺など》
吉佐宮趾
峠か二つ岩地区に吉佐宮があったと伝える。何も宣伝もないが、ここもまた元伊勢の地である。
『加悦町誌資料編』(図も)
「吉佐宮趾」の伝承
与謝段ノ坂地区に「吉佐宮趾」という石碑が建てられてあったが、明治新政府になった時に「これをお上に見られたら大変な事になる」と村人が急いで地中へ埋めたと言い、今もその話が伝わっている。与謝地区の農地圃場整備の際に地域の人が捜したが見つからなかったという。
「吉佐官」とは、倭姫命世記」(鎌倉初〜中期成立)に、崇神三十九年、天照大神は丹波の吉佐宮にうつり、四年間まつられるとある。
御間城入彦五十瓊殖天皇(中略)卅九年壬戌、遷二幸但波乃吉佐宮一、積二四年一奉レ斎(後略) 吉佐宮は崇神天皇の皇女倭姫命(豊鋤入姫命)が天照大神をお祭する地を求めて大和国笠縫邑より諸国を廻られた後に伊勢国五十鈴川上に奉遷したとあり、但波(丹波)には四年間祀られた。
昭和五年発行の『京都史蹟』一ノ七に掲載されている小野定治「麿子皇子伝説と赤石山根本寺趾」には次の様に記されている。
山麓供御の里に皇子腰掛石と伝ふるものあるが丹後旧事記巻九に与謝村端郷に供郷の里あり此辺の田地の字名を神田地(ミトシロ)と云ふ、何れの領地か知らず、云々、とあり同地に曾て富趾を仄めかせる古文書現はれた事ありミノコ勢旗の遠祖も皇子賊退治の先導したと伝へるが一説に元伊勢より斎宮に扈従し太神宮御遷幸の旗持ちであったと云ふ。与謝郡語原地字与謝小字与謝に近く皇子ケ渡リ(神戸(ミコ)ゲ渡リ)と地名ある等々綜合すれば、吉佐宮趾に就て諸説紛々たるを見る時一顧の価値あるを思はしめる。
以上の記事を裏付ける様に天保十年(一八三九)に書写された「与謝邑全体之図」には、「九百七十二俣御神田地(ミトシロ)中一反五セ」と田地が画かれている。
「供御(くご)」とは天皇、皇后、皇子の飲食物をいう。「供御人」とは神社又は朝延に供御を献ずる義務と特権をもつ人間。
江戸後期の村絵図に「吉佐官趾」伝承を物語る地名の記載がある事は伝承として注目される。尚、『与謝郡誌』 では、吉佐官址の比定地として、寛文期刊行の『神社啓蒙』、正徳〜享保期刊行の『和漢三才図会』等に見られる与謝郡河守(現福知山市大江町)、明治期に編纂された『日本地理志料』の文殊村、また、宝暦〜文化期に成立した地誌類『丹後旧事記』・『丹後州宮津府志』の橋立明神(現宮津市文殊)、明治初期に刊行された『皇大神四年鎮座考(吉佐宮考)』の籠神社(現宮津市大垣)などが記されている。尚、宮津市の籠神社と大江町の皇大神社は、ともに元伊勢と称されている。 |
勾金駅
古代山陰道丹後支道の勾金駅、丹波花浪駅(福知山市瘤木附近?)の次であった。
【勾金】延喜式の古駅なり、本州惟一の駅所にして、丹波天田郡花浪より勾金を経由して、国府に通じたりと想はるれば、此駅跡は加悦の辺に求むべし、或人云与謝村に金屋の字遺る、勾金の遺名か。
(『大日本地名辞書』) |
丹後国勾金駅
延喜式二八兵部に、丹後国勾金(まがりがな)の駅の駅馬は五匹と定めてある。
双峰から山郷(さんご)へ下った四ノ町附近がその駅址と伝えられているが、ここからは天田の前(花)浪駅へ通じていた。前浪駅はその場所がはっきりしていないが福知山市瘤ノ木附近といわれている。また但馬国府へ通じる道には春野駅がおかれていた。
勾金駅は養老六年(七二二)初代の国司小野馬養がはじめて入国した時に置かれたもので、勾金とは与謝と縁の深い大伴金村が安閑天皇のために建造した勾金橋宮の名である。金村は金屋の国守神社に祀ってあり、鏡山古墳は金村の墓といい伝えられてきている。ここから府中の国府までは、その道中に十七の辻堂がおかれていた。
(『丹後路の史跡めぐり』) |
シノ町という小字は山河の谷の入口附近にある。
今の与謝峠から山河の谷(中央左右に伸びる谷筋)を見ているのだが、古代の山陰道は、今の国道176号の谷ではなく、山河の谷を通っていたという。勾金駅があったと伝わる「シノ町」は、上の写真のド真ん中に位置している。背後の丸っぽい山は宇豆貴丸山といい、その手前側の麓の山ぎわである。谷から出た場所になる。
あるいはこのあたりに与謝郡駅家郷もあったかも知れない。
「大江山生野の道の遠ければまだ文もみず天橋立」の官道が通っていたよう、少し走ってみると↓
諸説ありで、今の与謝野町、以前の加悦町の金屋集落のシモに後野という集落があるが、そこにはイナナキ(口偏に馬)という小字がある。「いななき橋」という橋もあるそうだが、そのイナナキとは駅舎の馬の鳴声ではなかったかともいい、その辺りともいう。
式内社・宇豆貴神社
江戸時代には「臼木大明神」と称したという。もと「平ノ神社」と称し平に鎮座していたのを安政2年(1855)現在地に再建したと伝える。金屋のうつ山寺とか浮木山三縁寺とか、このあたりはこうした地名があったのではなかろうか。
宇豆貴神社。与謝臼木村。祭神=臼木大明神 宇都志日金折命。延喜式竝小社。
(『丹後旧事記』) |
「丹後国式内神社取調書」
宇豆貴紳社
【覈】伊根浦雄島ノマス【明細】与謝村祭日九月九日【道】未分明与謝峠ノ麓ニ与佐村ノ内ニ臼木明神ト云アリ或ハ宇津木トモ云フ其里ノ氏神ナリト云ヘリヨク聞正スベシ【式考】与謝村宇豆木ハ宇豆貴ナラン【豊】同上字宇津木九月十八日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志) |
宇豆貴神社
與謝村字與謝小字宇豆貴、村社、祭神伊奘諾命、神社覈録に延喜式神名帳所載の宇豆貴神社なりと云ひ神祇志料には與佐村にあり臼木明神祭九月九日といふ安政二年七月社殿再建明治六年村社に列せらる、氏子二十戸例祭同上、境内宮守祠あり
(『与謝郡誌』) |
宇豆貴(うすぎ)神社 与謝小字宇豆貴
伊邪那岐命と海神の宇都志日金折命(うつしひがねおりのみこと)の二神を祭る。
江戸期に臼木大明神という。 延喜式内社で昔平ノ神社と称し、平の地に鎮座していたという。一八五五年(安政二年)現在地に再建した。境内社に宮守社がある。
(『加悦町誌』) |
与謝の神社 与謝にある七神社のうち、上王子・下王子・ニッ岩・字豆貴の四神社について、大江山の鬼退治にきた武士達が、この与謝に二つの陣屋をつくった。その一つが上の陣、他の一つが下の陣で、上王子を上の陣屋、下王子を下の陣屋と称した。上王子、下王子は兄弟の神として祭っている。
鬼退治に来た武士達が、大江山へ登ろうとすると、鬼達が大石を投げたので、武士達はウシ木という木でつくった鞭でこれを受けとめた。ところで、大石は二つに割れ、今の二ツ岩ができたといわれる。
また、石を受けとめた鞭が折れ、その鞭を土の中にさしたところから芽が出て、木となり、それが森をつくり、その森の中に村人が祠を立てた。これが今の字豆貴神社という。
(『加悦町誌』) |
菊部神社
菊部神社
與謝村字與謝小字山河、村社、祭神大山祗命、往昔字平の地に鎮座ありしを応永年中菊部坂に移転して菊部明神といふ。嘉永四年七月社殿再建、明治六年二月村社に列せらる、氏子三十五戸、境内末社猿田彦社あり。例祭同上。
(『与謝郡誌』) |
菊部神社 与謝小字山河
大山祇命(伊邪那岐命の子)を祭る。
一二九四〜一四二七年(応永年中)平の地から菊部坂に移し、菊部大明神という。一八五一年(嘉永四年)社殿再建、境内社に猿田彦社がある。
(『加悦町誌』) |
武神社
境内を国道176号バイパスが横切っている。
武神社
與謝村字輿謝小字段之阪、村社、祭神素盞嗚命、天正三年社殿造営寛永十七年再建明治六年村社に列せられ氏子十六戸境内末社に供御神社あり。例祭同上。
(『与謝郡誌』) |
武(たけ)神社 与謝小字段ノ坂
素戔嗚命を祭る。出雲の主神で風の神といわれる。
一五七五年(天正三年)社殿を造営、江戸期の一六四〇年(寛永十七年)再建した。境内社に供御(ともご)社がある。
(『加悦町誌』) |
柴神社
柴神社
與謝村字與謝小字ニッ岩二十番地鎭座、村社、祭神伊邪那岐命、往古餘社といふ地に諾冊二尊を祀りしも元和年中諾尊を此に遷し嘉永三年五月再建明治六年村社に列せらる。例祭同上、氏子四十四戸、境内稻荷の小祠あり。
尚同小字百八番地に無格称ニッ岩神社ありて前項餘社に諾冊二尊を祀りしも一柱を他に移して柴明神と號し当社をニッ岩明神といふ。外に無格社愛宕神社あり。
(『与謝郡誌』) |
柴神社 与謝小字二ツ岩
伊邪那岐命を祭る。
初め「余社」という地に二ッ岩社と称して、伊邪那岐命、伊邪那美命の二神を祭っていたが、江戸期元和年中に伊邪那岐命だけ柴神社へ移し、二ツ岩社は、大きな岩を神格化したものであり、夫婦(めおと)岩ともいわれ、ここが地名余社(与謝)の起源だと伝えられている。
その後柴神社は、一八五〇年(嘉永三年)五月再建された。境内社に稲荷神社がある。
(『加悦町誌』) |
あるいはこの何とも不思議なカッコウの二つの花崗岩が与謝の郡名発祥と関係があるのかも…
上宮神社(上王子神社)
上宮神社
與謝村字與謝小字峠、村社、祭神億計皇子尊、由緒沿革下宮と異らず.但し二王御避難の地は丹後旧事記、丹後一覧集等に與謝郡三重谷なりとて久住村に比定し丹哥府志には三重村筒川村と分れて御潜坐ありと云ひ丹後細見録又殆んど同様の記事あり丹後考には須津村の宮ケ谷なりと云ひ或は外垣の木積谷なりとも云ひて一定せず境内風神社の小祠あり、氏子二十九戸、例僚同上。
尚小字中里に無格社稻荷神社あり。
(『与謝郡誌』) |
上宮神社 与謝小字峠
億計王(意祇王)(のちの人皇二四代仁賢天皇)を祭る。
五世紀の末市辺押磐皇子(市辺忍止歯王)の子で、母はハエ(くさかんむりに夷)媛。記、紀の伝えにょると、父が従叔父大長谷王(のちの雄略天皇)に殺されたので、弟の弘計王(袁祇王)(のちの人皇二三代顕宗天皇)と共に丹波余社郡に避難する。
与謝峠を越え、与謝に滞在したと伝えられている。
峠には億計王が、段の坂には弟の弘計王が住んでいたという。二皇子は里人に牛の飼養や、新しい稲の栽培法などを教えたという。
その後播磨に至り、清寧天皇(人皇二一代雄略天皇の子)に迎えられて、弟の弘計王が、帝位についた。顕宗天皇が亡くなると、兄億計王が位につき、仁賢天皇と称した。里人は神殿を建て奉祀した。
(『加悦町誌』) |
下宮神社(下王子神社)
下宮神社
與謝村字與謝小字北、村社、祭神弘計皇子尊、安康三年十二月市邊押磐命雄略帝に殺され玉ふや億計弘計二王子難を此地に避け給ひ後播磨に徙り清寧帝に迎へられて帝位に即き給ふにより里人御殿を奉崇して祀ると云ひ明治六年村社に列せらる氏子三十四戸、例祭同上。
(『与謝郡誌』) |
下宮神社 与謝小字北
弘計王(袁祇王)(のちの顕宗天皇)を祭る。
兄と共に丹波に難を避けて、与謝に滞在した。兄の億計王より先に天皇の位につき、天下はよく治まったが、即位後わずか二年で亡くなった。里人は天皇を尊崇し、神殿を造って奉祀した。この顕宗、仁賢の両天皇は、馬飼い、牛飼いとして世を忍び、庶民の間に住んでいた関係で、よく下情に通じ、さらに、儒教の造詣もあったので善政が行われた。
(『加悦町誌』) |
億計・弘計王の王子神社
【概要】
『日本書紀』によると、安康天皇が亡くなられたが子がなかったので、履中天皇の子である市辺押磐皇子が次の天皇になる事が望まれていた。允恭天皇の五番目の子であった大泊瀬王(後の雄略天皇)は、それを恨んで「蚊屋野(現滋賀県蒲生郡日野町附近)に鹿や猪がいるので狩に行こう」と市辺押磐皇子を誘い、そこで射殺し、帳内の佐伯部仲子も殺し同じ穴に埋めた。
その子億計・弘計二王子は、今度は自分達が殺されるのを恐れて、臣の日下部使主によって丹波国余社郡へ難を逃れた。更に、播磨国赤石郡に逃れ、縮見屯倉首に仕え、名前を丹波小子と改め、牛や馬を飼う。その後、履中天皇の孫であることが分かり、清寧天皇の子がなかったので皇位に就くことになったが、兄弟譲り合って、弟の弘計王が先に顕宗天皇として即位した。ついで兄の億計王が仁賢天皇となった。
書紀は、仁賢八年十月、百姓の申すには、「国中事件はなく、官吏はその任務を尽くし、国中仁に帰し、民はその職に安んじている」とし、この年五穀は豊作で、蚕も麦も善く収穫した。都も田舎も清らかに平和で、公民は益々豊かになったと記している。
尚、「丹波国余社郡」は、現在の丹後(国)与謝郡であり、二王子は峠を越えて現加悦町与謝に住んだと伝えられている。小字峠の上王子神社(上宮神社)には億計王(後の仁賢天皇)、小字北の下王子神社(下宮神社)には弘計王(後の顕宗天皇)を祀っている。その他、二王子の潜在地として」 温江村の大虫神社、現大宮町三重谷の長者五十日真黒人の家、須津の真鈴の宮、岩ケ鼻の日吉神社、外垣の木積神社、難波野の麓神社、本庄の浦島神社、栗田の久理田神社などが伝えられている。
(『加悦町誌資料編』) |
根本寺趾
根本寺趾
与謝村字与謝の小字峠の東方赤石ヶ岳の中腹に寺趾あり上中下三段となり上を鐘撞と云ひ凡百間四面の平地中段は幅三四十間乃至六七十間艮百二十間の不等四辺形を為し下段は横凡五六十間奥に約百間、石垣並に礎石等残ると云ひ焚鐘埋没せりと伝ふ。役行者の流れを汲める山岳仏教の盛んなりし時代相当大伽藍ありし模様なり。
(『与謝郡誌』) |
『加悦町誌資料編』(図も)
赤石山根本寺
麿子皇子伝説と赤石山根本寺趾 小野定治
加悦谷の水上に聳ゆる赤石山は一に根本寺ケ岳とも呼び、形宛ら富士に似て、其宝永山にも比すべき隆起に近く往古根本寺と称する巨刺があつたと伝へられ、薬師縁起及口牌に依れば、同寺は用明天皇の御字麿子、金丸、金室、の三皇子が当時三岳大江山等に跋扈せる兇賊を討たんとし、手づから七体の仏像を刻して祈願を籠め一度□処に安置し後丹後国中左の各寺に頒ち所謂丹後七仏薬師と呼ばるゝに至ったと伝ふ。
第一 善名称吉祥如来 赤石山根本寺後瀧山施薬寺
第二 宝日智音自在如来 河守山清園寺
第三 金色宝光妙行成就如来 竹野山願興寺
第四 無憂景勝吉祥如来 是安山神宮寺
第五 法界雷音如来 溝谷山等楽寺
第六 法界勝恵遊戯神通如来 常吉山日光寺
第七 薬師瑠璃光如来 志楽山多禰寺
寺趾は与謝村供御の里を去る東南約二十丁の山腹にあり。最も上部を「鐘撞堂」と呼び約百間四面の平地次は「大均(オホナル)」と呼び三四十間より六七十間、長百二十間の不平等四辺形、下段を「伊根溝ケ均」と呼び五六十間に百間と注せられ大均には曾て石製香炉様のもの発見せられた事があり今尚丈なす叢中の所々に石仏の散見せらるゝあり石崖の一部亦残って居る。
本尊薬師如来は兵火の難を避けて瀧村に降下し、地蔵菩薩は地元金剛寺に赤牛の背に倚って降った。と云はれ、菩薩は国宝の資格ある名作だと云ふ。
其年代は戦国時代と云はるゝも不明であるが皇子の討伐に際し湟嚮導したと伝ふる白狗が、延喜式名神大社に列せられたる犬虫神社の祭神犬鏡大明神であり、瀧村施薬寺の薬師と共に其大門が各約半里を距つる路傍に同一形式に依る頗る巨大なる礎石を遺存せる事は一考の価値ある事と思ふ。同寺は更に平安初期桓武帝御脳あり、平癒祈願の為親しく勅使御差遣あり、高僧空霊上人の秘薬献上に依り帝忽ち快癒あらせられ上人を僧正に陞叙し施薬寺の寺号を賜ふと。
又桓武皇子淳和皇なきはは妣後如意尼与謝ノ郷ノ人也と諸書に見え郷域を地理志科に、金屋、瀧、与謝雲原宜二諸邑一蓋其故区也とあれば当時往来の状知るべく、尼の郷に就て異説無きに非るも、虚構の感深からしむる説で与謝村宇豆貴に弘仁仏存するより見れば、仏法に帰依厚かりし尼の故郷に就暗示を得るが如くである。 (後略) (『京都史蹟』巻一ノ七) |
根本寺飛仏伝説
金剛寺「本尊延命地蔵願王大土略縁起」に「…夫レ根本寺焼廃ノ時当寺本尊地蔵菩薩願王大士ハ、其ノ時僧侶ノ人救ヒ去ル無キニ依テ赤キ牛ニ跨リ三度空ニ挙テ当寺エ飛乗リ玉フ。此ノ時金環ノ声三里ニ響クト云、今、赤石岳ニ其ノ時ノ牛ノ蹄ノ跡石有リ、俗ニ牛ノ瓜ト云是ナリ」と飛仏伝説を伝えている。 (金剛寺略縁起)
本尊は町指定文化財
(『加悦町誌資料編』) |
つりがね堀り 与謝・赤石ケ獄の中腹に根本寺があったが、現在その寺跡が残り、上下段になっている。その上の段に、金のつりがねが埋っておるということで、一九二一年(大正十年)頃五日間ほど毎日これを堀るが、いつも先端の竜頭が見えたところで夕暮となり、作業ができず、翌朝見ると再び下に沈んでいる。こういうことで堀り出すことが不可能であったという。
(『加悦町誌』) |
金剛寺
宝積山金剛寺
與謝村字與謝にあり、本尊地蔵菩薩は飛鳥朝の名工鳥佛師の作にて個と赤石ヶ嶽の根本寺にありしを兵火の際に炎上に飛び去りて此に降臨したりといふ、応永年中天寧寺元哉和尚開創、天保十三年二月再建、當寺境外佛堂出口に鶴一音堂、阿禰陀に阿禰陀堂あり。
(『与謝郡誌』) |
宝積山金剛寺 与謝小字北
一四〇三年(応永十年)天田郡天寧寺の元哉和尚によって開山され、一五七三〜一五九二年(天正年間)兵火にかかり、一八四二年(天保十三年)二月に再建した。
本尊は地蔵菩薩像で、藤原末期の作であり、加悦町では最も古い仏像である。本尊は赤石ケ嶽にあった根本寺から移したものと伝えられている。文化年間のものといわれる地蔵菩薩縁起がある。境内に砂野家寄進の観音堂があり、境外仏堂として、与謝小字出口の観音堂に観音菩薩を祭り、小字阿弥陀堂に阿弥陀堂がある。)525(金剛寺の由来 赤石ヶ獄の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字牛のつめという地名がある。
(『加悦町誌』) |
金剛寺の由来
赤石ケ嶽の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字〃牛のつめ〃という地名がある。
(『加悦町誌』) |
一本の松 与謝の金剛寺にある松で、江戸期、当寺の住持が加悦へ嫁にきた中郡峰山の女を離縁させようとした。
女は離縁するなら、寺を焼くか、私を連れて逃げるかの何れかという。住持は寺を焼くことはできず、寺の裏から奥滝の大田和の方へ連れて逃がした。途中住持は、小字三年坊で、刀を抜き女を驚かしたが、女はその刃をつかみ反抗した。
住持は刀を引き鞘におさめようとしたが、この時女の指が切れ落ちた。住持は驚きの余り、気が狂い、刀で女の腹を刺した。その女の死体を付近の谷に落し、男松を一本切って帰り、これを境内に植えた。
(『加悦町誌』) |
つりがね堀り 与謝・赤石ケ獄の中腹に根本寺があったが、現在その寺跡が残り、上下段になってい
る。その上の段に、金のつりがねが埋っておるということで、一九二一年(大正十年)頃五日間ほど毎日これを堀るが、いつも先端の竜頭が見えたところで夕暮となり、作業ができず、翌朝見ると再び下に沈んでいる。こういうことで堀り出すことが不可能であったという。
(『加悦町誌』) |
六兵衛屋敷のサクラ
与謝郡加悦町与謝
昔、加悦に住んでいた六兵衛さんが金剛寺の若くて美しい一人娘を嫁にもらった。六兵衛さんはこのきれいな女房を心から愛し、また仕事にも励んだので、お金もたまり、いつしか「六兵衛屋敷」といえば与謝の国でもだれ一人知らぬ人はいないほど、大そう立派な屋敷の主にまでなっていた。ところが、永い間のムリがこたえたのか、奥さんはふとした病気がもとで、六兵衛さんの懸命な看病もむなしく息を引きとった。六兵衛さんが深く悲しんだのはいうまでもない。
そこで六兵衛さんは、奥さんのなきがらを屋敷の庭に埋めて塚を作り、生前に好きだったサクラの木を一本植え、丹精こめて世話をする。やがてサクラの木はぐんぐん大きくなり、だれもが「このサクラの木は亡くなられた女房どんによう似て美しいのう」とうわさするほどになった。
このうわさを聞いた金剛寺の住職さん、こちらもたった一人の実の娘をなくしてからすっかり沈んでいたところ、さっそく「六兵衛さんや、わしは悲しくて気が狂いそうじゃ。どうかあのサクラの木をわしのところへいただけんもんかいのう。一生懸命に世話をするからのう」と頼むので、気のやさしい六兵衛さんは、その願いを聞き入れた。
サクラの木が金剛寺に移されてから幾日かたったある春の夜、強い風で満開の花は一夜で散ってしまった。が、そのとき住職さんは「六兵衛屋敷へ帰りたい」と泣いて訴える女の声を聞き「それほどまでに愛しあっていたのなら……」と、すぐさまもとの六兵衛屋敷へ戻すことにした。
それからはこのサクラの木、以前にもまして美しい花を咲かせるようになったが、散りそめるときにはその花びらに美しい女房の顔が浮かび出て、六兵衛さんや村の人々の涙を誘ったという。
(『京都丹波・丹後の伝説』) |
《交通》
《産業》
与謝の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎与謝村(金屋村の次)
【上王子大明神】
【下王子大明神】
【宇豆貴神社】(延喜式)
【菊部大明神】
【宝積山金剛寺】(臨済宗)
【付録】(紫大明神、小林大明神、観音堂、地蔵堂) |
『加悦町誌』
与謝の神社
与謝にある七神社のうち、上王子・下王子・二ツ岩・宇豆貴の四神社について、大江山の鬼退治にきた武士達が、この与謝に二つの陣屋をつくった。その一つが上の陣、他の一つが下の陣で、上王子を上の陣屋、下王子を下の陣屋と称した。上王子、下王子は兄弟の神として祭っている。
鬼退治に来た武士達が、大江山ヘ登ろうとすると、鬼達が大石を投げたので、武士達はウツ木という木でつくった鞭でこれを受けとめた。ところで、大石は二つに割れ、今の二ッ岩ができたといわれる。
また、石を受けとめた鞭が折れ、その鞭を土の中にさしたところから芽が出て、木となり、それが森をつくり、その森の中に村人が祠を立てた。これが今の宇豆貴神社という。 |
『丹後路の史跡めぐり』
上王子と下王子
双峰より赤石巌をはさんだ与謝峠の頂上に近い峠部落に上宮があり、峠を下り切った所に下宮がある。これを上王子、下王子ともよんでいるが、安康天皇の代四五六年、眉輪王の乱の時丹後に逃れて来た億計命が上宮に、弘計命が下宮にかくれ住んだ所という。
億計を嶋郎(しまのいらつこ)又は於爰天皇(おおけ)、弘計を来目稚子(くめのわくご)又は遠爰天皇(おけ)という。のちの仁賢天皇と顕宗天皇である。二皇子のことを丹波の小子(わらわ)ともよんでいる。
二人は与謝郡の内を転々とするが、加佐の大内郷にも滞在の話が残っている。二人が丹後へ逃れてから二五年後の清寧天皇の二年十一月(四八一)播麿国赤石郡神出村の屯倉首忍海部細目(みやけのおびとおしのあまべのほそめ)の館へ行ってかくまわれ、国司伊預来目部小楯(いよのくめべのおだて)が大嘗の供料のことでこの館へ派遣されて新築祝いの席へ出ていた際、二人が歌った歌によってはじめて身分を知り急いで朝廷へ報告した。
ちょうど清寧
天皇がなくなって二皇子の姉飯豊青皇女(いいとよのあおのひめのみこ)がかわりに政務をとっていた時であったので、使いを出して二人を宮中に迎えた。二人は互いにゆずりあった末、弟が位について顕宗天皇となり、億計は皇太子になった。
顕宗天皇は位についてから父の仇、雄略天皇の墓をこわすことを命じたが、兄にいさめられてとりやめたという。下宮は「げぐう」ともいい、豊受大神を記ったところと伝える。与謝には皇子渡(みこわたり)という地名もある。与謝峠は峰山藩の参勤交代の通路になっていた。このあたり余社、与社、与座ともいい、天照大神の御神体が一時留ったためにその名がつけられたとも伝えられており、やがてこれが郡名となったものである。 |
与謝の小地名
与謝
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無茶苦茶に多くて500はあるという、古くから土地が利用されてきたのだろう、ここにそのすべてがあるのか数えてみて下さい。
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