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丹波の

牧(まき)
京都府福知山市牧


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京都府福知山市牧

京都府天田郡下川口村牧

牧の概要




《牧の概要》

由良川と牧川の合流点で、国道9号から国道175号が分岐する箇所の大きな集落。但馬路と丹後路が昔から分岐する所で、こんな自然石の道標がある。江戸期のものか→道標(牧)
鎌倉初期には大野村と称していた当地に、駿河国牧ノ荘の牧氏が先住の河口氏を滅ぼし来住して以後牧村と改めたという。
地内の平石は滅ぼされた河口氏家老松井氏が土着した地で、立原に広い畑地を所有して「松井八反」と呼ばれたという。
牧六人衆あるいは牧・福井六人衆に関する伝えがあり、「丹波志」には、
「一 牧左衛エ門 牧村
 頼朝公ノ時、従駿河国六人来也、所謂六人ト云ハ、牧左衛門・牧清左衛門・牧然回・牧出雲守・牧左京亮・福井氏(中略)六人衆ト云、元加賀国也、北国乱ニ討負、駿河国牧ト云所居住ス、牧氏来時ハ大野村ト云、其前大野村ニ、河口平内左衛門ト云者住之、屋敷跡有、旧栖部出之 河口ト天津村辺ヨリ井田村境児野迄ヲ領、今八千石トモ云、頼朝公ノ時、石積ハ無之也、平内左エ門関東之不従下知、依之兄弟六人行テ、平内左衛門ヲ追出可領知トノ依命、此所ニ来 此時先払ヲ勤シ者今大津村内石无ト云所ノ穢多也今拾七八軒ト成住ス連来ル医師吉田氏今久兵衛先祖也系別ニ出ス 平内左衛門ヲ追立、住此所、改大野村、牧村トス、大野村ノ時荒神社吉備大明神為産神、牧氏来後駿河国一宮ヲ勧請スト云 六人ノ跡 …」などとある。
牧村は、江戸期~明治22年の村。
「丹波志」は、
「牧村 支 佐原 市場 馬場 見介 中筋 岩田 坂津 平石 上ケ  同右
高 七百四十六石
此ニ堂屋敷ト云山ノ内ニ坂津ノ尾ヨリ大呂村ニ越ス拾丁斗」とある。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下川ロ村の大字となる。
牧は、明治22年~現在の大字名。はじめ下川ロ村、昭和24年からは福知山市の大字。

《牧の人口・世帯数》 382・169


《主な社寺など》

牧古墳群
地内には後期古墳が約30基あり、珍しいものでは子持土器・八鈴鏡・鉄地金銅張の雲珠・杏葉・印仏式瓦経などが出土した。


牧正一古墳
牧古墳群の盟主墳で、集落の丹後街道沿いにある。
牧正一古墳(牧)
吉備神社裏古墳とか呼ばれていた古墳で、吉備神社のホコラの裏側にある。発掘調査が行われている。これは第一主体部の羨道部だろうか、一番上にあるのは玄室の天井石か、この石室はまだよいが、全体に形は崩れ調査後は埋め戻されているのでよくはわからない。
案内板↓
牧正一古墳案内板
福知山市指定史跡 牧正一古墳(まきしょういちこふん)
 この古墳は、福知山盆地の北端、由良川と牧川の合流点に近い福知山市字牧に在ります。
 人名のような遺跡名は、この古墳が「正一位 吉備神社」の境内地に位置し、古墳部分を含めて「しょういっつあん」と呼び親しまれていることに由来します。
 昭和十年、偶然に掘り当てられた石室から須恵器や土師器、金銅製馬具など貴重な品々が多数発見され、福知山の著名な遺跡の一つとして守り伝えられてきました。
平成六年から平成八年にかけて福知山市教育委員会が行った発掘調査の結果、古墳時代後期(西暦六〇〇年代の後半)に属する全長三十八mの前方後円墳であることが確認され、後円部・前方部・くびれ部のそれぞれに横穴式石室を持った、極めて珍しい古墳であることがわかりました。
 石室の内部は未調査ですが、第1石室が全長十二・〇m(玄室長四・七m、玄室幅三・〇m、羨道長七・三m)で両袖式、第2石室は全長一〇m(玄室長四・六m、玄室幅二・六m、羨道長五・四m)で左片袖式、第3石室は全長七m、幅一・五mで無袖式と推定されます。
このうち第1石室は京都府下でも最大級に属し、全国的に見ても有数の規模を誇ることから、ここに埋葬された人物の生前の強大な力を想像することができます。
平成一二年八月一日  福知山市教育委員会
牧正一古墳

*府内初の1墳丘3石室*福知山の牧正一古墳*新たに1基確認*代々の首長か*
 福知山市牧の前方後円墳、牧正一古墳(六世紀後半)を発掘調査していた福知山市教委は十四日、これまで確認されていた横穴式石室二基に加え、さらに一基の石室が見つかったと発表した。一墳丘に三基の埋葬施設を持つ前方後円墳は少なく、京都府内では初めて。市教委は、石室の規模が大きいことなどから「被葬者は中丹地域の有力な豪族で、三基の石室には代々の首長が埋葬されたのではないか」とみている。
 現地は由良川と牧川の合流地点近くの「正一位吉備神社」境内で、後期古墳分布地帯。全長三十五㍍、前方部幅二十三㍍、後円部径二十一㍍の中規模の前方後円墳とみられる。
 墳丘を縦断するトレンチで調査した結果、南西の後円部の第一石室(推定全長十三㍍)と北東の前方部の第二石室(同十㍍以上)は北部では最大級であることを確認したほか、これまで見つかっていなかった第三石室の天井石部分と側壁一部が、後円部側で発掘された。第三石室は先の両石室の中程に位置し、大きさは推定で全長七㍍、幅一・二㍍、高さ二・二㍍。市教委は、墳丘土層の断面から、第一、第二がほぼ同時期に構築され、その後第三石室を設けたとみている。
 近畿で三基の石室を持つ前方後円墳は奈良県北葛城郡の二塚古墳、滋賀県八日市市の八幡社46号墳など数例しかなく、京都府内で復数石室を持つ例は京都市の天塚古墳の二基まで。
 牧正一古墳は一九三五年の府道拡幅工事で第二石室が見つかって以来、二回の調査が行われ、等高線などから北東に面する前方後円墳と推定。石室二基が見つかっていたほか、第二石室から直刀、馬具、子持台付壷(つぼ)など約三十点が出土している。福知山市教委は来年度、引き続き、石室や墳形の形態確認調査を行う。
(『京都新聞』(96.3.15))
こうした新しい時代でも前方後円墳が作られたのか、近くにそうした前期古墳群があれば別として、最下限でしかも単独にポツン、オカシイなと思っていたが、やはり双円墳ともされている。しかし双円墳は新羅とか伽耶地方の墳形のため、日本式の「前方後円墳」だと推定してこう呼んでいるのかも知れない。昭和10年頃より今の学会や社会の方が右翼国粋主義的なのかも知れない、そろそろ卒業しようぜ、世界から取り残されるぞ。渡来人の古墳群と思われるで、前方後円墳とするのはあくまでも推定でそうも見られるというものである。
牧正一古墳(牧)
「後円部」から「前方部」を見る↑、向こう側は方か円か?

牧正一古墳は、由良川と牧川の合流点に近く、氾濫原に張り出した丘陵突端にあり、一帯を眺望できる好位置に立地する。周辺には、弁財古墳・道勘山古墳群などの後期古墳群や、古墳時代後期の拠点集落と目される石本遺跡などが存在する。この古墳は、昭和一〇年(一九三五)に石室が発見され、京都大学により調査がなされ、馬具や子持台付壷が出土した。その後、平成六~八年(一九九四~九六)に遺跡保存のため範囲確認調査が実施された。墳丘は削平され、旧状を留めていないが全長三五㍍の前方後円墳に復元されている。本来五㍍程度の高さの墳丘であったと推定され、腰高で葺石の存在もあって、遠方からも視認されるものであったと思われる。
内部主体は、前方部(第二石室)と後円部(第一石室)のそれぞれに横穴式石室が確認されていたが、くびれ部にも石室が確認され、一墳丘三石室という特異な古墳であることが判明した。石室は、第一石室が両袖式で全長一二㍍(玄室幅三㍍・長さ五㍍・残存高二・五㍍)、第二石室は左片袖式で全長一〇㍍以上、第三石室は無袖式で全長七㍍(玄室幅一・二㍍)の規模を測る。特に第一石室は、畿内の大王墓に匹敵する、周辺地域では類をみない巨大な石室である。牧正一古墳の被葬者は、由良川と牧川の合流点において、丹後・但馬・丹波を結ぶ交通の要所を押さえた大首長の姿が浮かび上がってくる。
ところで、古墳は墓であり、当たり前であるが墓に葬られた人びとの生活したムラが付近にあったはずである。古墳時代の集落の存在が予想されている遺跡は、半田遺跡・猪崎遺跡など、いくつかあるが内容の判明している遺跡は少ない。牧正一古墳から東へ二五〇㍍程行くと石本遺跡がある。この遺跡は、北近畿タンゴ鉄道牧駅の山側に広がり、牧正一古墳と同じ古墳時代後期の集落遺跡である。昭和五九年に発掘調査が実施されているが、これは集落外縁の一部を調査したにすぎない。しかし、多量の土器や木器など豊富な出土遺物と、竪穴式住居一五棟など密度の濃い遺構から見て、大きなムラがあったことが予想されている。ムラの周りを囲む大きな溝も見つかっている、この溝から多量の須恵器・土師器・木器の他、刻目を入れた鹿の角、漆塗りの鞍などの遺物が出土したのである。鞍は実用品ではなく、儀礼用のものであろう。刻目を入れた鹿の角は、まじないの道具か楽器か、どちらにせよ何らかの儀礼にかかわる道具である。このムラでは盛大な「まつり」を執り行なっていたのである。牧正一古墳の主が、まつりごとを執り行なっていたのであろうか。石本遺跡には、古墳の主の居館が存在する可能性もあり、今後の調査が重要である。また、古墳とムラの関係がわかる、数少ない貴重な資料である。(崎山正人)
(『福知山・綾部の歴史』)


弁財一号墳
弁財一号墳(牧)
永明寺の裏側、その墓地あたりからは石室がよく見える。表面には拳大の石がたくさん転がっていて葺石があったのではなかろうか。ロクな路はないが案内板がある。弁財一号墳案内板
弁財(べんざい)一号墳
この古墳は径約二〇メートル、高さ五メートル、頂上には厳島神社(祭神市杵島姫命で弁財天)があります。古墳時代の後期(六世紀後半~七世紀前半)に属するもので、袖無しかまた片袖の横穴式石室があり、玄室は長さ五・五メートル、奥壁幅一・八メートル、高さ二メートル以上、羨道は長さ三・八メートル、入口幅一・四五メートルの細長い石室のようです。
出土品は利器類(鉄刀片など)装身具(金銅鈴など)馬具類(鏡板付轡など)土器類(須恵器・台付長頸坩など)などがあります。
なかでも八鈴鏡は当地方の出土品としては貴重なもので直径一六・九センチメートル、まわりに八つの鈴がついており真中の鈕を中心にコケシ形の神像が四方へ出ていてその間に左走りの獣が配されている上質の白銅鏡です。
これらの出土品は現在京都国立博物館に保管されて随時見ることが出来ます。又この近くには「弁財二号墳」「道灌一号墳~四号墳」「八幡古墳」「樋ノ口一号墳~十一号墳」などたくさんの古墳群があります。くわしいことは福知山市史第一巻でお調べください。
昭和五十六年(一九八一)六月 牧文化財保存会


弁財一号墳(牧)
弁財一号墳からのながめは抜群。この奥にまだたくさん古墳があるが、路もわからないため行かないことにした。


一宮神社

広く長い馬場の奥に鎮座する。駿河一宮のことで、浅間大社(名神大社・静岡県富士宮市)を勧請した社という。鎌倉期に当地にやってきた牧氏の故郷の神社である。中世から当地のみならず付近の十二・立原・野花・上天津・下天津・夷・上大内・下大内の総社で、当社の棟込太鼓は市無形文化財。

一宮大明神 古川口郷 金谷郷 牧村ニ建
祭神 大山祇神 祭礼 九月十九日湯立 六月十九日
古薦河国ヨリ勧請スト云伝
社記云
本社五尺 上雨凌有 拝殿三間ニ二間鳥居一宮大明神ト扁セリ
境内   馬場四間ニ七十五間
茂正按薦河国風土記ニ云富士郡ニ一宮神社有即不二神社也祭神大山祇ノ命也
社僧同村真言宗高野山下楊柳山大谷寺西方院ト云
牧村立原村十二村上天津村産神ナリ
神体享保年中損繕フ本地十一面観音ト云
(『丹波志』)

村社 一宮神社     下川口村字牧鎮座
 祭神 大山祇神
 社殿 梁行二間四尺三寸、桁行二間二尺  拝殿神楽殿あり
 境内   九百二十歩.外に巾六間長八十五間の馬場あり
 末社   天満神社  巌島神社
 祭日   十月十九日  七月十九日  御輿渡御
 氏子   二百二十六戸
(丹波志) 駿河風土記に云、富士郡に一宮神社あり。即不二神社なり。祭紳大山祇神、本社も古駿河より勧請せり云々。
(曾我井伝記)建久四年(一八五三〉五月(十六日)右大将頼朝公、富士野の狩の時国々の大小名着到の帳場に於て国郡御調べありけるに丹波国は平家の領国にて着到せず。重て使者を以て吟味を正されたるに内大臣宗盛の小性を囲ひて、川口ノ庄、川口平内左エ門といへる平家の残党、聊の屯を構へ、平家の胤を存せんと見えたりけり。依て此由申上ぐるに、右大将聞召して、駿河国牧勘右ヱ門を選び、其一党と共に討手を差向けらる。勘右ェ門一家の譽なりと喜び、手兵を率ゐて丹波国に趣きけり。兼て道々夜討と申合せ、川口ノ庄に私に入込みたり。さて夜半の頃、屯の外囲を取巻き、数多の高張提灯を一度にさし上げて門戸を打破り、平内左エ門と呼はりければ、思ひかけぬ事とて死にもの狂ひに駈け出づるを、すはこそとて片はしより討取り、一人も残さず平げけり。乃ち牧氏此所を領して子孫ありと。当社勧請のわけを知るべし、而して牧氏は同村の名家にして現に京都帝国大学法学博士牧健二氏は其後裔なり。亡父亀右ェ門氏は予もよく知りたり、代々庄屋、村長其他公吏たること多し。
(『天田郡志資料』)

牧の一宮神社は駿河の国から勧請され、牧・立原・十二・上天津などの産土神と『丹波志』にはそれぞれ記されている。
(『福知山市史』)

牧一宮神社の秋祭り-(平成30.10.7)

祭礼数日前の新聞記事
『京都新聞』(2018.10.4)
*後継者不足で獅子舞終演*
*他の行事も存続の危機*
福知山市牧の一宮神社で長年親しまれてきた獅子舞が、7日の祭礼で最後の演舞となる。担い手の高齢化と後継者不在が原因て、他の祭礼行事も存続か危ぶまれている。
 同神社の祭礼行事は、府登録無形民俗文化財の練込太鼓が知られている。獅子舞や馬駆けなどの行事も福知山市の無形民俗文化財に指定されている。
獅子舞は、江戸時代から舞われていたと伝わり、1955年に地区住民から獅子頭の寄贈を受け複活した。93年には、創建800年祭を記念した振り付けが考案され、笛や太鼓を含む5人体制で演じる現在の形となった。ゆったりとしたリズムのはやしに合わせて、ユーモラスで迫力ある動作をする獅子の姿が、祭りの見ものとして親しまれてきた。
しかし、獅子舞を演じる住民たちか60代と高齢になり、激しい動きの伴う獅子舞を続けることが難しくなった。牧地域の自治会は、数年前から後継者を探してきたが人数が集まらず、今年を最後の演舞と決めた。
同地域では過疎高齢化が進み、他の行事でも深刻な担い手不足となっている。自治会では昨年から、チラシやポスターで神輿の担ぎ手なとを地区外から募集しているが、今のところ希望者は集まっていない。自治会の芦田育美さん(68)は「祭礼は昔ながらの懐かしい雰囲気が魅力。来年も神輿の担ぎ手などを募集するので、興味があれば参加してほしい」と訴える。
獅子舞なとの祭礼行事は牛後1時から同神社の境内馬場で行われる。
いずこも同じことのようで、なさけない年寄りとしては何も手助けできない、神輿などかつげば背骨が折れてしまう。せいぜい動画でもとカメラかついでかけつけるくらい。その簡単なご案内。
地域社会にとっても若い力がいかに欠かせないものかが今更ながら痛感させられる。ゼニ儲けばかりに呆けて次世代を忘れてはいけない。当たり前が忘れられる。何も牧のことを言っているのではない。


牧はアイソがよいところ、私の知る限りではトップクラス、みなに心がある、もてなしの心がある、アリガトの心がある。よい所である。当方までよい子になりそうな地域。若者よこの郷土に誇りを持て、こんな所は日本には多くはない。

祭礼にはそれぞれの催しが同時進行する。

獅子舞


練込太鼓


祭囃子と稚児の屋台曳き



御神輿巡行


大人の神輿の担ぎ手、若そうなのが見えない。女性が見える、この人も最初から最後まで担いでいた。というのか、このワンセットのみで、交代要員がないのかも…

馬駆け





吉備神社
吉備神社(牧)
牧正一古墳にある神社で、牧氏以前に当地の支配者・河口氏の氏神という。正式には正一位吉備神社という。元の鎮座地は今の一宮神社の地。河口氏の館跡には永明寺を建てられた、居城は愛宕山にあったという。この辺りは大野の里と呼ばれていたが、牧氏の来住後は牧村と呼ぷようになった。河口氏は吉備が本貫なのかも知れない。
吉備神社 古川口郷  金谷郷 牧村ニ建
祭神 吉備大臣 祭礼 九月廿九日
正一位吉備大明神ト篇セリ 往古牧村本居也
本社 拝殿一間半四方

(『丹波志』)

曹洞宗光泰山永明寺(ようめいじ)
永明寺(牧)

幽霊伝説←こうした伝説の残るお寺だが、明るくて、今は出そうにもない。その伝説というのは、
永明寺の開祖






一、光泰山永明寺 曹洞宗 牧村
氷上郡伊中村円通寺末寺開山大極梅和尚
境内上畑七畝廿一歩村除
本堂七間五間半開山堂三間二間半 庫裏小間四間半 衆寮
禅堂三間四面 鐘楼門 末寺栄昌庵薬林寺同村ニ在
一、楊柳山大谷寺西方院 真言宗 牧村
高野山西院谷自性院末寺 開山行基菩薩
境内上畑二畝村除西ニ山畑有北岸ニ薮有
本堂護摩堂二間四面方丈六間ニ四間半 庫裏六間半ニ三間 門一宇
村産神一宮大明神 社僧務
(『丹波志』)

光泰山  永明寺  (曹洞宗) 下川口村字牧
本尊 如意輪観世音菩薩
開山 大極和尚   中興 良尖和尚
創建 後上御門天皇文正元年(二一二六)  再建 後桃園天皇安永八年(二四三九)
(縁起文書)夫当山は当国氷上郡円通寺の四世竹馬禅師の附法、大極和尚草創の霊蹤なり。本尊は如意観音にして唐賢問子の彫刻也。熟々当山の濫觴を考ふるに往昔当村に河口平内左ヱ門尉藤原祐方と申す旗元あり、近村二十ヶ村を領し過ぎし保元の頃より平入道清盛の幕下に属し世々当村に居館せり。然るに寿永三年平家の一門不残西海に落命したまひ、源頼朝公日本惣追捕使として大将軍の勅命を蒙り四海一統、源家の指麾に随ひて建久四年に富士の牧狩あり、河口に出陣すべき命あれども旧領を守りて命に不応、依て頼朝公其旗元、牧左エ門尉及福井四良太夫に命じて征伐せしむ。合戦数度にして河口の一門悉く討死、或は降て土民となりぬ。然して牧、福井の両人河口の釆地を腸ひ其跡に入て世々近付の領主たり。今当村に子係現在せり。爾未鎌倉三代を経て北条九代の末に至りて天下大いに乱れて牧、福井の子孫も旧領次第に侵され纔に当村、一村を保つに至る。こゝに当国氷上郡円通寺の附法に大極大和尚と号し善知識あり。傑然として出塵の志深く、造寺親且の世縁離れ只樹下石上に一向蝉観澄したまふ、頃は文安元年、足利八代将軍源義政公の治世に当り漂然として当村に行化したまひ、結草爲屋、畳石爲坐、牧川の辺に安禅し、朝には法性自爾の流水を観し、暮には無明煩悩の熱気を払ひ掛錫したまふこと数年。されば近村遠里、其徳を慕ひ帰依すること世尊の如し。不思議なるかなこゝに牧、福井の両士、或夜の夢に一人の高僧、枕辺に立ち従容として告げて曰く、汝不知乎、今、牧川の辺に住める僧こそ実に観音の応現なり、汝、今の屋舗に久く留まるは子孫滅亡の災あらん。速く此地を去って址に精舎を建て彼の僧を入れて開山とせば霊魂永く得脱し子孫も亦長久なるべし。吾は是れ如意輪観世音なりと、告げてかき消す如く失せ袷へば、忽然として夢醒めぬ。於是、牧氏夢相を福井に語るに相倶に同じければ両士拍手恐怖し、感喜身に徹し、有難さいふばかりなし。急ぎ旧地を去って村民に命じて俄に経営せしめしに、近村の諸民翕然として随喜し、相倶に投財伐木担石其力を助け不日にして、方丈、庫裡、悉く落成す。斯くて村民、禅師を迎へて強ひて当山に晋山せしむ。即ち光泰山永明寺と号す。
禅師所持の本尊、如意輪観世昔を本堂の本尊とす。されば禅師の高徳、近国に轟き丹、但、播の三国は大極の一波と称するに至る。然して当山に永住の後、禅定に入つて遷化したまふ。是を当山の開山とす。其後遥に春秋ゑ経て天文の頃に至りて四海又乱れ干戈須曳も止むときなし。さしも輪奐たる精舎も雨に朽ち風に倒れて、伝来の什宝も好賊の爲に奪はれ禅師の席を嗣ぐべき人もなく、既に断滅に及んとせしが、村人深く之を歎き一人の禿丁を入れて、夕燈旦茶の給使とし、再ひ講堂を再建し、残仏を是に納む、於戯時なら哉、慶長の頃より、天下漸く治り元和の始に至て第五世正柳和尚、席をつぎ開山の古に復し給ひぬ。それより第十世にして玉瑞和尚跡をつぎたまふ。此師智行兼備、檀家の帰依いと厚く庫裡、方丈、講堂等悉く再建せらる。之を当山の中興とす。其後幾星霜を経て明和中、天火忽に起り、諸堂、門?尽く焼失す。第十六世良尖和尚に至て再び志を励まし協力して諸檀に進め、方丈、諸堂等共、再建せらる。此師の徳行のこと近年なれば世の知る所也。抑当山開闢より荒廃四度にして漸く本に復し、今予に至て既に第十九世に及べり。良惟れば、往古、牧福井等の感見せし夢中の高僧は、即ち是如意輪観音なれば古今時異ると雖、本尊の霊験、古に渝ることあらじ。冀くば、参詣の人々至信に信仰あらば利生鏡に影の写るが如くならんと爾云
  明治廿三年四月写乙  川口村字天津住士族七十一翁 笹尾源兵ェ義達
             丹波園天田郡元牧邑当時下川口村住 牧甚左ェ門所持
檀家  三百余戸   財産 田一町一反八畝二十八歩  山林十町三反七畝十四歩

(郷土史料)楊柳山西方院大谷寺は、真言宗にして牧村にありき、 ○奥寺の址、上天津にあり、平使(ヒラツカイ)といふ所なり。行基菩薩の開基せし寺と伝ふ。今も礎石、阿禰陀堂さては仁王田などの字となりて残れり。○大谷山大谷寺址、下天津にあり、境内には七幅神を祀りしと云、 ○観音堂址、牧村にあり、今堂屋敷といふ、小山にして牧村よりは七八丁上る所なり、其昔大呂村と争ひ起りしとき、大呂材より講堂を破壊しければ、牧村の者は本尊を負ひて大谷に安置せしに何れの頃にか、若狭の方へ盗み去られしと云
(『天田郡志資料』)

牧の光泰山永明寺は、縁起 (『天田郡志資料上巻』によれば、開創は室町時代中期までさかのぼり、本尊の如意輪観音の信仰が、当地の豪族福井・牧両氏の外護により発展していったと伝えている。
木造十一面観音立像(牧 永明寺)
永明寺のすぐ近く、真言寺院であった西方院にあったものを近年この寺に移したものである。
観音像の頂上にはふつう仏面を飾るのであるが、この像は天部面を飾っている。肉身は粉溜とし、衣部は黒化している。右手には水瓶を持ち、左手は下げ、手のひらを人の方にむける与願印を結ぶ形をとっている。像高一一○センチ、一木造りとし、肉厚薄く扇平で、衣にひだを彫らず、両足を開いて立つ姿をとっている。顔は藤原仏に近いが鎌倉時代の作と思われる。光背・台座等は後補である。
なお、同寺には同じ西方院のものであった木造地蔵菩薩像(像高六四・五センチ、一木造)が寄せられているが、威徳寺(宮垣)に同形の地蔵があり、この像も同じく藤原後期の作と思われる。
(『福知山市史』)
山門にある仁王像も大谷寺のものという。↓




宗教法人念法真教福知山念法寺
念法寺(牧)

福知山念法寺



《交通》
国道9号・国道175号


《産業》


牧の主な歴史記録


牧の古墳(字牧)
 牧古墳群は現在確認されているもの二九基(内消滅三)遺跡一である。ほとんどが古墳時代後期に属する横穴式石室をもつ古墳であると推定される。
 そのうち発掘された古墳のなかで特徴的なものについて述べる。
正一一号墳・正一二号境 吉備神社境内地にあって、その構造及びその副葬品について詳細に報告されているものとして当市内有数のものである。府道牧・筈巻線拡張工事中に偶然発掘されたこの古墳は、昭和十年三月、京都大学の梅原博士や、府嘱託赤松俊秀氏、当時京大助手小林行雄氏、羽館易氏等の実地研究があり、その結果が、京都府史跡名勝天然記念物調査報告書に詳細に載せられている。この書に報告された本古墳は、字牧の段丘末端の台地の地盤の上に石積みをし、その上に盛り土をしたもので、横穴式であって塚は道に沿って南西から東北に軸を置いた二つの丘形をなし、二つのほぼ同大の円丘が近接して営まれたものとされ、これは古新羅の古墓に往々見受ける双墓と相似ているといわれる。
 注 双円墳-双墓とも云われる。あたかも二円丘が連接している外観を呈するものである。この種のものは、長野県では 下伊那郡龍丘村上川路字上ノ坊馬背塚・植科郡清野村妻山将軍塚・同郡寺尾村天王山古墳があり、他に岐阜県稲葉郡前宮村大字前渡荒井山古墳・滋賀県大津市石山国分町大塚古墳・蒲生郡平田村中羽田古墳・京都府熊野郡下佐濃村大字長野古墳・同天田郡下川村大字牧古墳・大阪府豊能郡井口堂村新家稲荷山古墳・兵庫県川辺郡火打村勝福寺裏山古墳等をあげることが出来る。なおこの種の墳丘は、南鮮における新羅の古墳に特に発達したものであり、現在慶川付近の平地に山丘のそびえ立つように累々と存して偉観を呈している。(昭和三十五年 吉川弘文館発行 原田淑人編 日本考古学入門)

 室は共に道路と直角に南東、北西の方向を保ち、その長さは少なくとも約八メートルあって、割合に狭長であり、その奥の三・六メートル余が玄室の部分に当たり、平面形は片袖式ではなかったかと推測される。室の立面形は上部が失われているために明らかではないが、その架構は大石を並列して側壁の下辺を固めたものである。なお、玄室の底部には割石が敷かれていて、その間にさらに粘土が加えられており、敷石の中には上に朱色の認められるものが見られたことは、埋葬の原形を推察する一資料である。この二墳のうち、多くの遺物が発掘されたのは東北の一号墳で、その遺物について整理された結果は次の通りである。

一、利 器 類
  直刀身一口、刀子一口、鉄鏃約七本
一、装 身 具
  金銅環二個
一、馬 具 類
  杏葉一個、雲珠残欠一個
一、土 器 類
  子持台付頸柑一個、子持台付壷形品一個
  台付長頸坩一個、坩一個、ハソウ一個、高杯
  三個、蓋付マリ四個、台付マリ二個、杯破片
  共一三個、器蓋二個、器台破片共六個
 この外台付マリ・大形の器蓋・長大な器台の破片など若干があった。
 右のうち、まず利器については、直刀は身が二つに折れているが、接合すると長さ約六○センチ、幅は茎に近いところで約三センチであり、刀子はまた二片に折れているが長さ一一・五センチで、鉄鏃はいずれも茎の長い尖根式で、鋒先部は後藤守一氏のいわゆる片丸鑿箭式に属し、完全な三本はそれぞれ一六・七センチ、一五・五センチ、一三・六センチで箆被ぎには柄の木片が残存し、その一本には表面に樹皮を巻いたあとをとどめている。
 次に装身具としては、わずかに金銅環二個であるが、共に同型一双で環径は約二・七センチで作りは太い。青灰色に錆びているが、内側にはかすかに鍍金のあとが見られる。二個が相対して出土した状況から耳飾りとして使用したらしい。
 次に馬具類であるが、そのうち杏葉は扁円形の縁取金具と、その中の井桁状の飾りの大半を残すにすぎない。これらの本来の作りは、鉄地金銅張りで同じ鋲をもって板に造り付けたことを示している。その大きさは長径約一○センチである。雲珠も同じ作りの残欠で、この方は座に金色の割合によく残ったところがあり、脚は八個で相対する二個は直方形、他はハコゼ型であり、右の形から馬の尻繋に使用されたものであろう。
 次に土器類は大小三○個を超えるが、そのうち珍しいものは、二個のいわゆる子持土器である。一方の台付長頸坩は高さ約四○センチの大形で須恵器の硬いもの、そのラッパ状に下の開いた三段透しの長い器脚にはかなりの焼きゆがみを見受けるが、長頸坩自体は整美な作りを示し、器の肩部に九個の小さな長頸坩を付けて飾ったものである。もっともこの小壷は金部本体からはなれていて三個しか発見されなかった。
 第二の器は高さ約二三センチで、前者よりは横の張りが大きく、かつ台部が著しく低い。この器では右の外形に対して壷の下辺に当たるところに、底のないのが珍しい。飾りにつけた器は、壷形の腹部の上辺に作られた、やや鍔状の突起に付せられているが、もと一二個あったもののうち、九個残っていた。右の九個の小器は杯・高杯・壷・長頸坩等種々の形のものにわたっている点は、この種の器の中でも珍しい例とせられよく引例されている。
 注 河出書房版 日本考古学講座、古墳文化と大陸文化、斉藤忠等
 その他の器は、器台だけが素焼である以外、すべて普通に見る須恵器である。そのうちハソウ(高さ約一五センチ)と、台付長頸坩(高さ約十五センチ)は共に焼きの堅い薄手の作りで、後者には灰釉が見られるが、形のゆがみが多い。次に高杯のうち二個は上部に蓋受けを作ったものである。いずれも器脚がラッパ状に開いた高い式に属し、また焼きが硬く、同じくゆがみのあるものを含んでいる。端は口の短いすわりのよい形をして完形を存し、高さ約一五センチで腰部には格子状の切目文が印せられている。蓋付マリは簡単な作りの器に鈕付の蓋をかぶせたものであるが、蓋と器が合わないものがあるので、どちらか一方が失われたものであろう。これも作りが薄手で焼きが硬い。杯は上部蓋受けを作ったものが八個分と、簡単なものが破片を加えて五個分ある。梅原博士はこれらの多数の遺物の出土によって「近畿における横穴式石室の内容を察知するに役立つものがあった」と述べている。後述の報恩寺の古墳奉安塚からも、この古墳と全く同種の土器が出土したが、子持土器は見当たらなかった。本古墳は外形において珍しい双円墳の形をとっており、作られた切断面によって墳丘築造の上の実際の資料が得られたのであり、子持土器が現われたことも一大収獲であった。最後に、この古墳の築造年代については、その構造と内容から考えてわが国古墳制の後期に属するもので、奈良朝に先立つ時代にこの地が早く開発されたことを物語るものである。(京史調報告第二○輯)

弁財一号墳
 昭和三十年に発掘されたもので、字牧小字弁財の厳島社の社地にあって、この付近で最もよく保存された古墳の一つとして知られていたものである。
 牧集落の北端に近く、永明寺の境内の北側、裏手の小字寺浦の畑地のなかにこんもりとした森をなしている。径約二○メートル、高さ約五メートルの墳丘がよく原形をとどめ、頂には小祠(厳島社)が建っている。この墳丘の南側中位辺に石室の入口が開いている。横穴式石室の構造で内部には土砂が天井部までつまっていた。いまこの墳土のまん中に、しゃがんで人が往来出来る程度の隧道がほりぬかれている。それは石室の東側壁に沿って掘られたため、東壁上半と羨道部の天井石は露出しているが、石室の西半分は全く土砂が取りのぞかれていないし、また、東半部でも玄室の天井部にはまだ封土が付着していて壁面を出していない。床面も奥壁下の約三・三平方メートル位が掘り下げられただけで、他はまだ厚さ六〇~七○センチの土砂が入口まで残っている。
 したがって、石室の構造はまだ明りょうになし得ないが、袖無しかまたは片袖式の横穴式石室で、玄室は長さ五・五メートル、奥壁幅一・八メートル、高さ二メートル以上、羨道は長さ三・八メートル、入口幅一・四五メートルの細長い石室のようである。したがって、石室内は大半が土砂のつまったままで残っている
ので、遺物もまだ現存するものが多数あるのではないかとみられる。
 石室をつめた土砂の中から多数の土器片と石鏃一個が発見されたのは、石積みの間から自然に流入したというよりはむしろ、内部をつめるために人為的に入れられたものと考えられる。
 出土品
一、須恵器七個(台付長頸坩五、高杯二、ハソウ二)
二、鉄刀片一、鉄矛身一、刀子片一、鉄鏃片多数
三、鏡板付轡二組、鉄地金銅張雲珠六、鉄地金銅張杏葉一
四、革金具一一個、銀製鉸具一、鉄製鉸具片二、三個分
五、八鈴鏡一面、金銅鈴二個、金環二個
六、帯状鉄板四、五片
七、鉄釘三本
(京都大学考古学教室 樋口隆康講師の報告書による)
 これらの出土品は文化財保護法第六三条第一項の規定によって昭和三十六年二月国に帰属することになり、現在京都国立博物館に所蔵されていて八鈴鏡、馬具類などとして陳列されている。
 今ここに、京都国立博物館だよりに記載されている、弁財一号墳出土の八鈴鏡についての解説を転記しておく。
 日本人は鈴が好きであったのか、五世紀末から鈴訓(スズクシロ)・馬具などに鈴のついた器物をかなり沢山作った。鈴鏡もその一つで、五つか六つの鈴を鋳出したものが多いが、これは八鈴である。内辺の文様は相当硬化しているが、四神四獣で紐を中心にコケシ形の神獣が四方へ射出され、その間に左走の獣が配されている。鋳上りは余りあざやかでないが、これは疲れた型を使用したためで薄手つくりのかなり上質の白銅鏡である。直径は一六・九センチである。埴輪に、腰に鈴鏡を下げた王女像などがあり用途の一つと推測される。
 道勘山一号墳
 この古墳は字牧小字樋ノ口の道勘山にあって大正八年に発掘されたと言う。現在は封土の除去された横穴式石室が完全に残っている。
 西に口を開いたこの石室の構造は両袖式で、玄室の奥壁での高さ三・二メートル、幅一・九メートル、長さ四・六五メートル、羨道は長さ三・二メートル、入口の高さ一・四メートル、幅一・二メートルである。
 玄室の石積みは下辺に割合大きな腰石を使い、上部に至るほど小さな石をもって順次アーチ状に積まれており、天井石は五枚使用されていて現在に至るも微動だにしていない。この種のものでは牧最大のものである。
 昭和二十年中川淳美氏(元福知山市文化財審議委員)が、この古墳の封土を調査中、メノウの勾玉一・金丸玉一・耳飾りの金環三・同じく銀環一・極小型の銀環二・轡の部分一・刀剣二・青色のガラス玉一一の外須恵器の瓮三・横瓮五・提瓶三・壷一・マリ四・台付の椀一・高杯二その他破片多数を採集した。
 なお、注目すべきことに印仏式瓦経二枚分の破片を検出した。それらは比較的やわらかい焼成で、土中のための磨傷もはなはだしいが、その一枚分を復原すると、大体縦一七・三センチ、幅約一七センチ、厚さ一センチ余の方形に近い形のものとなった。その両面には簡単な陽刻の線で仏像が三段五列にあらわされ、それらの仏像は定印らしい印相を結んだ如来形の坐像であり、一尊ごとに、胸部に一宇ずつの経文が刻まれている。造形に際しては、おそらく二つの女型を用いて、乾燥していない粘土板の両面からプレスして仏像を表わし、のち経文を一宇づつ陰刻して焼き上げたものと考えられる。仏像は表裏とも三段万列の仏体を配列しているから、経文は一枚で三○字が彫られていることになる(景山春樹・印塔の瓦経「史跡と美術」二九一号)。
 この印仏瓦経は、昭和の初め太田睦郎氏の報告による、兵庫県朝来郡山東町楽音寺付近出土のものと酷似しており、両者の型式、大きさが全く同一であり、楽音寺と牧とは相へだたること、およそ二○キロで、両地共に同じ旧街道に沿うていたことから見ても、おそらく同時の製品で、互いに深い関係をもつ一連のものではなかろうか。梅原末治博士は、牧での出土状態から、「経塚の場合に往々見受けられる古墳を利用しての埋経の例とす可きであり」、この種の遣物は「写経の巻子におけるいわゆる装飾経に相当するものと見られ、そこに通じた時代相が認められるのが注意を怠く」と述べている。(梅原末治・瓦経についての二三の覚書「同」二二○号)
 なお、田岡香逸氏は、楽音寺出土のものについて、その経瓦に書写された経文は法華経としてほぼ誤りでなく、その製作年代を藤原時代としている。また、わが国で経塚築造が盛行するのは、十一世紀の始めごろ、いわゆる末法に入るころであり、浄土教の興隆による欣求浄土の思想に基づいたものであるが、一つには当時の社会不安のもたらすところであって、このことから彌勒出世の時に備え経典を埋蔵して永く後世に伝え、その功徳によって仏縁を結び、極楽往生を決定するものと信じ、経塚が盛んに営まれるようになったのである。と述べている(田岡香逸・楽音寺の経瓦について「同」二六七号)。なお、この古墳から室町時代の舎利容器と思われる骨壷や、陶製の骨壷・茶壷二個、開元、煕寧、皇宋等の年号のある中国古銭・天目茶碗三個及び宋代の陶器の破片が出土したことは、古代、中世、近世のおよそ三時代にわたって同一の場所が用いられたものと推定される。

岩田一号・二号墳
 字牧小字岩田に両袖式の横穴式石室が存在する。測量によると羨道の幅約七○センチ、その長さ約二メートル、玄室は奥に比べて口の方がやや広く奥壁の幅約一メートル、口の方は約一・一メートル、高さ約二メートルで、奥壁は大石二個、小石一個を用い、天井は大石三枚でおおわれている。この古墳から胴部の丸い壷、背の低い同体の平たい形の壷、蓋付の盤、金環数個その他多くの土器破片が出土した。

寺浦遺跡
 字牧小字寺浦の台地及びその西方に続く厳勝寺の台地の畑の中に、土錘の散布が見られた。これらの土錘は割合小型のものである。土錘が、古代人の漁猟のために網の裾につけた近代の鉛のおもりに相当するものとするならば、これらの台地が牧川の氾濫区域に接近した台地であるので、土錘分布地域と考えられる。
 前記牧実氏も九○余個の土錘を採集し、永明寺にも十数個保存してある。これらの土錘がどこで作られたのか、牧においてはまだ窯跡が確認されていない。
(『福知山市史』)


牧六人衆
源平二氏の争いは、西国を拠点としていた平氏の敗走によって、東国からの新しい支配者と、亡びゆく者とが織り成す有為転変の中で、この地方にも幾つかの伝承を残している。川口地域に古くから伝えられている「枚六人衆」の伝承もその一つで、牧氏が鎌倉時代の後期に、この地域でかなりの勢力を持っていたことは、『醍醐三宝院文書』などによって実証できる。
 「牧六人衆」に関する古記録は、「永明寺縁起」・「楊柳山西方院縁起」・『曽我井伝記横山硯』・「天津村由来記」・『丹波志』などがある。このうち「西方院縁起」は天保四年(一八三三)、当時、同院の住職であった龍源が伝聞古記を集めて綴ったものであり、『丹波志』は、寛政年間(一七八九~一八○一)に編さんされたことが明らかであるが、他の記録の記された年代は不明である。しかし少なくとも書体などから推定して、江戸時代の中期以前ということは考えられない。
 人名・地名や記録された内容も、ややまちまちなこれらの記録をまとめてみると、次のようである。
 往昔、河口荘に河口平内左衛門(「天津村由来記」は溝口平内左衛門)という武士が居館を構え、河口から夜久郷井田村児野までの二十ヶ村を領して、保元の乱(一一五六)のころから平清盛の幕下に属していた。元暦二年(一一八五)平氏が滅亡し、源頼朝が征夷大将軍となり、源氏の世となってからも平氏に心を寄せ、平氏の残党をかくまっていた。
 建久四年(一一九三)五月、頼朝が富士の裾野で巻狩りを催したとき、曽我祐成・時致兄弟が、父の敵工藤祐経を討つという騒動があり、その様子が西国にも伝わった。主だった武士たちは続々と見舞いに駆け付けたが、河口平内左衛門は参上しなかった。これを幕府に対する逆意とみた頼朝は、駿河国牧の住人、牧左衛門尉(『曽我井伝記』は枚ノ甚左衛門)・福井四郎大夫等六人に河口の討手を命じた。牧左衛門尉は家門の誉れと、六月下旬、一族郎党を率いて丹波に赴き、平内左衛門の館を夜襲して首尾よく河口氏一門を討ち取ることができた。
 牧左衛門尉は河口氏の旧領を賜り、愛宕山に居城を築いて、河口氏の館跡に菩提寺を建立した。今の永明寺である。また、河口氏の氏神であった吉備神社を現在地に移し、その跡に駿河国から一宮神社を勧請して氏神とした。この辺りは大野の里と呼ばれていたが、牧氏の来住後は牧村と呼ぷようになった。
 鎌倉幕府の滅亡後、牧氏は次第に所領を侵され、わずかに牧一村を残すのみとなり、ついには農民となってその子孫は今もこの村に数多く現存している。
(『福知山市史』)





牧の小字一覧


牧(マキ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん
立派な案内板が村の真ん中に掲げられている、これはよい。コピーさせてもらった。
 


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