その十
丹後の伝説:10集 |
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舞鶴要塞、ツツ、椋平広吉、金峯神社、天橋立切断計画、他このページの索引天津の鋳物師(福知山市天津) 天橋立悠久の碑(宮津市国分)と天橋立切断計画 鹿籠金山(鹿児島県枕崎市) 刈安峠(=堀越峠)(久住・等楽寺) 金峯神社(綾部市弥仙山) 江西寺(宮津市須津) 質志鍾乳洞(船井郡瑞穂町質志) 白鳥伝説(網野町網野) ダンという地名 勅使の鋳物師(福知山市上天津) ツツは蛇 波せき地蔵(宮津市) 女布神社(竹野郡式内社) 梯木林(舞鶴市多門院材木) 舞鶴要塞地帯の写真撮影について 牧の伝説(永明寺の開祖) 牧の伝説(弘法清水) 弥仙山(綾部市於与岐) 椋平広吉(宮津市江尻) 養父大明神(網野町日和田) 床尾神社(竹野郡式内社) 与謝蕪村と施薬寺 要塞地帯法と舞鶴軍港構内 |
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刈安峠 新宮 井上 保
なにしろ大きなもので、四人がかりて持っていった。
戦時要塞地帯における写真撮影について
大村重夫 戦前から戦時にかけて要塞地帯では陸海軍当局の許可なくしてカメラを所持する事すら不安を感じました。舞鶴でカメラを所持し撮影するには、舞鶴海軍鎮守府指令長官並に舞鶴陸軍要塞部司令官に許可申請をして、厳重な身元調査をされて交付される撮影許可証を所持しなければ、一切の撮影は禁止されて居りました。許可条件として、撮影済みの写真は必ず両司令部に提出し校閲を受ける事、山の稜線、海岸線は勿論の手市街地の撮影でも山や海岸が写って居ればその写真はネガ共に没収される、この事は戦時になって尚厳しくなりました。検閲が通れば検閲済みのスタンプを押印され、始めて公然と人にも見せられると云う、今日考えますと全く馬鹿げた話ですが、当時は許可なくこれを犯せば軍機保護法に触れ、軍法会議にかけられ弁護士も付けられず一方的な判決て゜重刑に処せられました。私は少年の頃より写真に興味を持って居りましたので、当然両司令部へ申請して交付を受け、許可証は常に所持して居りました。当時のアマチュア写員愛好家は、この許可証の交付を受ければ鬼の首でも取ったような喜び様でした。… 軍の最高司令官の許可証があっても自由に撮影できたのではないそうである。まだ物語の続があるのであるが、続きはまたの機会に。 こうした馬鹿げた不自由社会をまた作ろうとする動きがこのごろは多いようである。これは保守ではなく反動と呼ぶのである。保守は何も悪いものではないが、反動は悪い。これは許してはならない。 大村さんはすぐ近くに住んでおられた。カメラ少年だけあって当時もニコンF3を2台持っておられた。終戦のまぎわに足というのか全身というのか大ケガをされて当時も自由には動けない身であった。背負うとずいぶんと軽い人であった。聞くところによれば彼は6全協以前の共産党員であったという、舞鶴ではもっとも古参だと耳にした。ちょっと聞いてやろうと思い、じゃあ火焔瓶でないんですか、と問うと、信じられないでしょうが、本当なんですよ、あの決定があってから裏山へみんな捨てに行きましたよ。ということであった。あの不自由な体でどうやって動いたのだろうか。大変な時代を大変に生きてこられた人であった。
〔要塞地帯法と軍港構内〕
専門委員 吉 田 美 昌 明治30年7月、勅令234号によって舞鶴軍港境域が設定されて以来、同年4月舞鶴要塞司令部が併置されたことによって「要塞地帯法」(明治32年7月法律第105号)と、同時に作られた「軍機保護法」(明治32年7月法律第104号)とによる市民一般への拘束が始まった。 (軍港境域については、軍縮による要港への格下げで大正12年3月勅令57号によって4月1日から廃止となったが、昭和14年の軍港復活で再び生き返り終戦まで拘束を続けた。) この間、舞鶴港は軍港地帯として市民の日常生活の上にきびしい制限があった。とりわけ公私の出版物は事前に検閲を経なければならず、特に写真撮影については厳しいチェックがされ、艦影の入るのはもちろん、湾口を囲繞する島嶼の陵線は軍港の範囲を窺うため有無を言わさず抹消された。 明治34年舞鶴鎮守府開庁を記念して刊行された「舞鶴案内」(舞鶴実業協会編)の緒言によると〃本誌は昨年出版の予定なりしも製図撮影等軍港及要港規則に準拠するの必要あり意外の日子を要し終に今日に及べり。製図撮影及印行は本年7月13日、9月21日、10月25日舞鶴鎮守府司令長官の允許を、9月19日、10月3日、11月22日舞鶴要塞司令官の允許を得たり〃と断っている。 また、大正2年4月舞鶴町発行の「舞鶴」の緒言にも〃本誌編纂は時日の切迫したると、軍港要港及要塞地帯両法規の拘束ある為、叙事撮影共に描いて尽さず、隔靴掻痒の感あり〃と嘆じている。 大正4年版の「加佐郡誌」の編者も、その例言に〃記述は可成正確ならんことを期したるも或は魯魚の誤なきを保せず、且軍港要港及要塞地帯法の拘束あるため叙事意の如くならざる点あり〃と、それぞれが言外に記述に制限があったことをにおわせている。 海軍は軍港造成の一暖として明治35年11月道芝・榎・葛の三隧道を同時にしゅん工したが、中でも道芝トンネル掘削の理由は、余部6か村に入っていた北吸村(現・三宅団地付近)が、軍用地買い上げのため全村移転の破目におちいり隣接する浜村の厚意により現在地に移ったものの、従来から余部上・下、さらに田辺城下への交通路は峠越えして海岸線を生活道路としていたが、軍港構内となったため、これに代る道路として新設されたものである。浜村としても交通事情は同じであった。この道路の主目的は軍用道路で、鎮守府東街道と呼ばれ、金沢9師団とを連絡するものであった。 一般にいわれていた軍港構内とは、北吸の東門と余部下の西門約2キロ間をいい、それぞれ海岸線が切れて市街地へ入る位置に、れんが造りの門柱が立っていたことから地名となり戦時中から町内会名になり今日まで残っている。構内の東門近くの三叉路(市役所前)には、衛兵詰所があり、立哨する海軍の衛兵が検問にあたっていた。戦後は東警察署の派出所になっていたが、昭和39年10月に解体された。市民の通行については軍事情勢などを機敏に反映して、しばしば通行制限や禁止があった。今、明らかな分だけを記してみると ○大正4年5月27日より〃鎮守府構内道路ヲ一般公衆ノ通行ヲ許可セラル。但シ夜12時カラ朝4時迄ヲ除ク〃となったのは舞鶴から軍港のある余部町を通ずるはずの鉄道が明治37年新舞鶴に直通したため、それまで表門といわれた鎮守府正門(西門)が裏門となり、裏門であった東門が逆に表門に代わって人馬の往来が繁しくなったため。 ○大正8年7月21日念願の中舞鶴線が開通したため〃同日ヨリ鎮守府構内鉄道開通ト共ニ構内通路一般ノ通行ヲ禁止セラル〃とした。当時、工廠へ搬入する貨物は新舞鶴駅から人夫が貨車を手押しで軍港引込線まで半日がかりで運ぶという有様であった。余部町会では軍港引込線を利用して工廠入口から新たに路線を引き延ばして、西門の外に停車場を作り軽便機関車を運転する計画を要路に折衝中であったが、中舞鶴線(3・4キロ)が開通し一般営業が開始された。この年11月1日余部町は中舞鶴町と改称した。それまでの余部町は軍港設置の中心でありながら交通の便に恵まれず、その上、構内の通行制限によって受ける不便は大変なものであったが、この日以後構内を歩かずとも列車を利用できた。 軍港構内を走った中舞鶴鉄道の敷設は、時の鎮守府司令長官財部彪(第8代大正6、12、1〜同7、12、5)が、鉄道院(現国鉄)の経営で開設するように国に働きかけ開通したもので、住民の意志とは別に軍事上の目的が主であったが、住民としては地元負担もなく、一片の陳情もせず出来上がったことに感謝して「財部鉄道」と呼んで永くその功を賛えた。 ○大正11年6月〃午前5時ヨリ午後12時マデ鎮守府構内東西構門間、一般ノ通行ヲ許可セラル〃この年軍縮により7月6日舞鶴軍港廃止の勅令が公布され、舞鶴海兵団も廃止となり横須賀に移った。艦艇・諸機関も縮小され交通制限がゆるんだ。 ○大正12年2月15日〃時間ニ制限ナク東西構門間道路一般公衆ノ通行ヲ許可セラル〃この年3月31日舞鶴鎮守府が廃止となり、閉庁式が中舞鶴雪中練兵場で挙行された。華府会議の結果4月1日から要港、工廠は工作部となり、工作部は大量の人員整理を行った。 昭和14年12月1日舞鶴鎮守府復活が公表されてから再び規制がはじまり、第2次世界大戦中は、特に防諜上の見地から軍事機密に対する取り締まりが一段と強化され散索するような風体で構内を歩くことはできなかった。中舞鶴線の車窓からは軍港か見えないように構内は、軍需部(現市役所)から機関学校(現総監部)に至る海岸側を、軍港遮蔽のため板塀が張りめぐらされていたが、終戦後戦災地復興資材として取り壊され大阪に運ばれた。この風景を見るたびに、戦時中東海道線に乗って〃板張りに誰がしたのか見えぬ富士〃と、破られたガラス窓を板でふさいだ車窓をヤジった句が思われてならなかった。 昭和3年11月東門駅(のち北吸駅と改む)が開設された。戦後北吸駅と共に中舞鶴駅は営業近代化のために昭和38年2月から無人化したが、同47年10月31日遂に合理化の波の中に軍需物資の輸送をはじめ兵員や工員を運び、中舞鶴住民の通勤や通学の足となっていた中舞鶴線も廃止となり、53年間にわたる栄光の幕を閉じた。この半世紀は軍港都舞鶴の歴史を象徴させるものがあった。かって8番線までレールが敷かれ、1日平均1、500人の乗降客と貨物150トンを呑んだプラットホームは、今日自転車道やグラウンドに転用されて跡形もない。 美晶さんはたくさん戦争遺物を持っておられた人だった。自宅倉庫にたくさんあって、私などにも気軽にそれを貸してくださった。
枕崎の北一里半に在り、此山は寛文の比より貴鉱を出し、遂に藩庁の経営に帰し、年々千貫匁の金銀を産出し、天和年中に至り盛を極めぬ、蓋薩藩の一大富源なりき、坑区は三万坪、分ちて鹿籠麓の二区とす、其麓は天保二年の発見にして、土俗後木場と称す。○鹿籠金鉱は、其脈粘板岩砂岩の互層、或は石英斑岩、或は輝石安山岩を貫通し、主脈は方今本樋及び竹水を樋推す、樋石は石英粘土にして、輝銀鉱及び之に随伴せる黄金を散布し、近年の産額、約金六貫匁、銀五貫匁、海内屈指の金山とす。
…この筒については種々の説がある。ツツを星と解する吉田東伍の説がある。たしかにユウヅツ(夕星)とは言うが、単独に星をツツと呼ぶ例は見当らない。また船の胴の間と中の間の仕切りをツツアナと呼び、そこにフナダマサマを祀る。そこではツツはツツアナのツツをいう、という説がある。これも説得力はない。このほかに底筒之男、中筒之男、上筒之男の三神を「底つ津の男」「中つ津の男」「上つ津の男」とみる山田孝雄の説がある。「津の男」という意味である。これに同調する古代史家もいる。しかし助詞のツと体言のツとが重なったものを「筒」の一字で表現するのは無理であると田中卓はいう。その通りであると私も考えるが、田中卓自身は、「ツツの男」を対馬の豆酘(厳原町)を本拠としていた海人のことだと解している。しかし私は田中の言うように対馬の豆酘という固有の地名から筒の男という言葉が生まれたのではなく、その逆に、筒の男の意味をもつ地名の一つが豆酘であると解するのである。
「日本書紀」によるとイザナキ、イザナミの二神が国生みをしたあと、イザナミは火の神のカグツチを生み、そのために産道を焼かれて死ぬ。イザナキは妻の死を悲しみ、怒って火の神のカグツチを斬る。その斬った剣の先から血が滴り落ちて生まれたのが、一書によれば雷神であり、あるいは経津主神の祖である。経津主神は剣の神である。また別の一言によれば、磐裂神、次に根裂神、次に磐筒男命と記されている。磐裂神は雷神が岩を裂くこと、根裂神は雷神が木の根を裂くことからの命名である。これによって磐筒男命が雷神または剣神の類縁の神であることがうかがわれる。 ところでこの雷神が蛇神でもあるのは、黄泉国にいるイザナミの死体のまわりに八つの雷がいたという「古事記」の表現からも推察できる。「日本書紀」にはイザナキ・イザナミが野槌を生んだとあるが、「俚言集覧」「和漢三才図会」などには、野槌は三尺ばかりの蛇で柄のない槌に似ていると記されている。一時ツチノコといって騒がれた蛇のことである。ツツもまた円筒形であるところから、筒之男の筒は雷=蛇であることが分かる。 それでは筒之男命が墨江大神と呼ばれたのは何故か。 「日本書紀」の雄略天皇二十二年七月の条に「丹波国の余社郡の管川の人端江浦嶋子」とある。また「丹後国風土記」逸文には、与謝郡筒川の村の「水の江の浦嶼の子」となっている。浦島伝説をもっとも精彩ある筆致で伝えたものは「万葉集」巻九にある高橋虫麻呂の長歌である。 春の日の霞める時に 墨吉の岸に出で居て 釣船の とをらふ見れば 古の 事そ思ほ ゆる 水の江の 浦島の子が 鰹魚釣り 鯛釣り矜り 七日まで 家にも来ずて 海界を 過ぎて漕ぎ行くに…………墨吉に 還り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠しと そこに思はく……水の江の 浦島の子が 家処見ゆ ここでは墨江(墨吉)と水の江が混同されているが、つまりは同じことを言っているのである。京都府与謝郡筒川(本庄浜村)には宇良神社があり、竹野郡網野には網野神社があって、いずれも浦島子を祀っている。『地名辞書』によると、丹後国竹野郡水江は網野にある淡水湖で、筒川にあるのではないが、浦島子が筒川と網野の両方の土地に来住した人であるから、両地にそのことをかけたのである、と説明している。ここで注目すべきは墨江と筒川の地名が出てくることである。これは墨江大神である筒男之命と関係がありはしないか。 そこで「筒」の名のつく地名を『地名辞書』から拾ってみることにする。 筑前糸島郡雷山(らいざん)の項をみると「糸島郡の南嶺にして、山頂に雷神社あり、山下を筒原(つつばる)と曰ふ。雷神或は筒神と唱ふ。蓋住吉の筒男神に同じかるべし」とある。さらに「山中に此雷神の造りたりと云ふ 今日でも石田郡石田町に海神社があり、その鎮座地は海神山と呼ばれている。もとは筒城宮と言ったという。社地から一キロほどはなれた低平地に これらのことから雷神=剣神=海神=筒神という等式が成立する。一方、筒川という地名が墨江の関わりをもつということから、これらの地名に関与するものが墨江大神である筒男之命を奉斎する海人族であったことが分明するのである。こうして対馬の豆酘もとうぜん筒之男の筒であり、蛇(=雷)を意味すると考えられるのである。田中卓は筒之男は豆酘の男であるとする。それに対する諸家の反論は、豆酸には住吉神が祀られていないということであった。しかし豆酘には式内社の スミノエも面白いがまた次の機会に… ツツのツは何か蛇と関係がありそうである。ツタ(蔦)・ツナ(綱)・カヅラ(葛)のツラ・ツル(蔓)などはみな蛇だと思われる。塩土神は紀の一書では塩筒老翁と書いている。紀の一書に赤土命とあるのは中筒男命だそうである。 そうするとツツ=ツチでツチも蛇だと思われる。どこそこでツチノコという蛇が見つかったとかいう話が何年かに一度は聞かれる。実際にそんな物がいるのかどうかわからないが、ツチノコは蛇の一種のようである。そうならば、ツチノコのツチも蛇だろう。そうするとイカヅチやカグツチのツチも蛇だろう。イカヅチ(雷)は蛇だというのは聞くが、カグツチが蛇だという話は私は知らない。しかし蛇だろう。三断したというのだから何か長いものなのではなかろうか、もし人間のようなものなら三断するのはすこし変な感じがする。カグツチは金属の蛇の意味だと思う。土という地名も意外に蛇と関係があるのかも知れない。
質志鍾乳洞
京都府指定天然記念物 質志鍾乳洞は、高屋川上流の標高約400メートルに位置し、洞窟の延長は約120メートル、入り口から最深部までマイナス25メートルと規模はおおきくありませんが、京都府では、唯一の鍾乳洞で、昭和2年(1927)に発見されました。当時は鍾乳石や石筍も多くありましたが、現在までにその多くは折損、破壊されました。 はるか昔(約2億6000〜7000万年前)このあたりは海の底にあり、貝殻やサンゴといった石灰質の生物の死骸がつもって堅い石灰岩がつくられました。その後陸地になると、二酸化酸素を含む雨水により、石灰質は何万年もかかって溶かされ、この鍾乳洞ができました。 このため、鍾乳洞やその付近には古い地層が露出しており、よく探すといろんな化石がみつかります。その代表的なものに、2億年以上昔の化石であるコノドントや、フズリナ(紡錘虫…単細胞の原生動物)、ウミユリ(棘皮動物)などがあります。 また洞内は洞窟動物の格好の住家で、昭和14年には生物学者の吉井良三氏により、日本で始めての新種甲虫が発見されました。ほかにトビムシ類も生息しており昼間は天井にぶらさがるコウモリをみることもできます。 質志鍾乳洞公園
大寂山・江西寺
鉄道「岩滝ロ駅」のプラットホームにたって、山の方をみるといやでも目にうつるのがこの江西寺である。踏切りをこえて旧須津部落の中央を、まつすぐに寺への道を境内にあがると、まったくびっくりするほどの景観で、よくもまあこの地所を占有したものだと、感心させられる風光である。寺伝によると浜の枯木浦に創建されたのが大同年間(八○六−八〇九)で、現在の地所へあがったのは慶長三年(一五九八)といわれる。おそらく、はじめは天台宗で、現在地へ移るときに禅宗となったのではなかろうか、やはり細川の真言倒しにつながりがありそうに思える。以来、寺を焼くこと二回、古い資料は求められないが、この寺に見るべきものが三点ある。すなわち一は無名の草花昇風一双と、与謝熱村えがくところの屏風半双である。ことに前者は無名ではあるが、光琳派のきわめて現代的な感覚で、見るものに美しいもののよさを感じさせる。蕪村の屏風は、保存上の関係からか、かなりいたんでいる。そのほか仏画に小野篁や兆殿司の筆と伝えるものもあるが、それよりか山門上に安置される「木像地蔵尊」一体は、みごとな手法で、あるいは室町初期までものぼりうる作ではなかろうか。伝、仏工定朝の作だとされている。やがて境内をさるべく、堂外にたっとき、またしても見とれるこの景観、江西寺とは中国の揚子江辺になぞらえてつけられたとのこと、まことに阿蘇の海−枯木浦をのぞむこの風光は、いかにもと感じさせる場所である。
滝山施薬寺と浮木山三縁寺
蕪村の寺として知られている 蕪村についてはいろいろな伝説があるが、地元で語り伝えるには、母げんが与謝の人で、大阪毛馬村の丹門屋に奉公していたところ、絶世の美人であったために主人の手がつき、享保元年(一七一六)帰郷して蕪村をうみ、その後蕪村を連れ子して宮津の畳屋へ再婚したという。与謝にげんの墓が残っている。若い頃は貧乏をしていて借金のかたによく絵を画いて渡したが、後に京都より帰った時に「書きなおす」といって集めてみな焼いてしまったという。また借金取りが来ると、 首くくる繩もなし年の暮 と障子に張り出してあったので、みなあきれはてて帰ったという話も残っている。母が再婚した先の養父となじまなくて家をとび出したというから、この頃与謝に戻って施薬寺に小僧として入ったのではなかろうかと思われる。というのは後年の彼の知識天才ぶりからみて、幼い頃からみっちりと学問をしこまれた基礎がなくてはならないからである。おそらくこの寺の和尚は相当博学の人であったであろう。そうして十七才の時京都へ出て苦学し、その後江戸へ出て俳諧と南画を学び全国各地を巡り歩いている。ともかく宝暦四年(一七五四)から七年までの四年間丹後へ来ていた事は事実で、その間与謝の谷口反七万に滞在している。本来谷口という姓であるが丹後へ来てから与謝姓に改め「生丹后子」などという名をつかったりしている。 夏川を越すうれしさよ手にぞうり この有名な句も加悦に句友僧を訪ねた時につくられたものである。丹後から京都へ帰る時妻をめとってつれて帰っているが、蕪村はこの時四二才であった。 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二五日六八才で没し、妻ともは文化十一年 (一八一四)三月五日に没しており、法名を与謝清了尼という。洛北金福寺には夫妻の墓が江森月居や高弟の芦蔭舎大魯、松村月溪(呉春)、寺村百池などの墓に囲まれて立っている。…
虹のおぢさん・
慈光寺をでて、江尻桟橋の方へ少し行ってから「地震の椋平さんはどこでしょうか」ときけば、子供でもたれでもおしえてくれる。府中には、その古い名所旧蹟ばかりでなく、この椋平広吉さんという世界的な有名人がいる。すなわち「椋平虹」による地震予知の創始者として、いろんな意味で知られる椋平広吉さんである。この人は過去四十年間、夜も昼も「椋平虹」の観測と、地震の予知に命をささげでいる人である。肉親からも、郷土の人々からも、「きちがい」といわれ、「あほう」とあざけられながら、この逆を一途につきすゝんできた人。それは一人の英雄であり、聖者でさえある。 幸か不幸か、この人には学問がない。従って、自分の研究に理論的な裏つけと装飾ができないが、しかしこの人の観測と予知の経験データーは、理論以上の理論であり、もっとも貴重な研究資料である。 地震国日本は、ここ数十年間だけにでも、幾度かの大地震があり、数十万人の尊い生命が失われ、傷ついた。もちろん、物質的な損失はいうまでもない。だから地震を学問とする学会は、世界でも有数の団体である。けれどもこの学会は、一人の椋平さんを研究者として扱うことすらしないで、精神異状者とし、狐つきだとさえいっている。これでは日本人が恐ろしい地震から救われないのは当然である。謙虚な真実さのない学問は、人類にとって有害ではあっても、利益ではない。 この椋平さんに、一ツの趣味がある。へタクソな文学である。小説をかき、歌をつくる。青年時代から「 椋平さんを訪う人は、そのごきげんのよい日ならば、めいわくをかけないようにして、「椋平虹」がたれにでも観測できることや、地震の話などを聞いておくと、ときによい話のたねとなるであろう。 近頃の単なる色遣いだけは派手で内容空っぽの観光向けのパンフではなくて、この小冊子は岩崎英精の筆になる。さすがにすごい椋平広吉像である。 『郷土と美術』(S15)に、 奥丹後大地震と其の予知に就て
東京帝国大学理学部地震学会々員 椋平廣吉 回顧すれば昭和二年三月六日午後六時二十分、福井縣毛島半島上空に椋平虹(地震前兆虹)を観測して、計算の結果「現象時刻三分間、色ハ最モ淡ク、NNW二粍傾斜弧、長サ三米、幅一米、丹後府中村観測起点ヨリ一六・四二粁北北西六度ノ處(即チ丹後網野沖合)ニ明日午後六時三十九分頃大地震ノ起ルオソレアリ」と予測し、知人に速報したのにかゝはらすその価値なく、三千の尊き我が郷里同胞の生霊を奪った大地震、想ひ起しても身振ひするあの深積雪の夕刻六時二十八分丹後半島一帯に大動揺をきたしたのであった。 六日午前九時頃、峰山町に積雪調査に行き、地温高きに驚嘆した私は、同町民多勢集ってゐた裁判所横手に於て、 「皆様、四十三日間降り積った雪は何の前兆でございませう、私は近日中に丹後地方に大きな地震でも起るのではないでせうかと思ひます。若し私の研究してをります気象変化による地震予知方法で観測出来、時間が正確に測定出来ましたなら当町役場に電話で速報しますからその節には避難して下さい。どうかお願致します」 と、稜表した時、人々は雪や石を私に投げつけ、「気違ひ、狂人、馬鹿野郎」とわめきましたこと、只今、遠く距れた和歌山縣田辺町にあって、この稿にペンを走らせつゝ想ひ起し、十四年前の惨事を追憶致すのである。 亦、六日午後七時二十分頃、府中村江尻一色彌太氏(常時水産講習所技手)方に行き、「明日午後六時頃、丹後中心に大きな地震が起りますよ、家より外へ逃げてゐて下さい」と、警告を發したのも一つの記録となってをり、處が七日午後六時二十八分天地も転倒すべき大昔響と共に、あの大地震が起って、地震予知の必要性を深め、現在まで熱意をもって研究を進め、国家のため社会のために自然の異変を事前に予測して幾分なりとも損害を軽少すべく努力してゐるのである。学者達は実際問題の研究を棚の上に置いて、学理ばかりに手をつけてゐるため現在でも予知の鍵を握ることが出来得ないといふことを私は特に痛切に感ずる。 さて横道に脱したが、この大震の原因は何か? 気象の変化によるものであって、前記の如く四十三日間も大雪降り続き気圧の変化が迅速であったので、当日は支那方面から優勢なる高気圧が我国内地に拡大しで来た。それと日本海西岸に浅薄な低気圧があり、特に中部は著しく發達、飛騨高原では七七九粍以上の高気圧があり、京都測候所で七七五粍二、宮津測候所で七七四耗八を示し午前十時頃はなほも上昇して宮津測候所で七七六粍四となった。また冬日としては珍らしい気温十三度七を計り、人體には不気味なる暖かさを感じたことである。そこへ發震時刻前には少し気圧低下して七七四耗八となり、気圧の中心は東方へ動いた時、こゝに大地震が起ったのである。即ち私の主唱せる丹後半島気圧地帯(学者の謂ふ日本海地震帯の一部分)に併行して気圧が大変動しつゝ直進した爲に災禍を及ぼした訳である。 某学者は断層線の垂直的移動とか、周期的地震だとか、大正十四年五月二十三日丹但大地震の餘震が最も早く停止した爲め再發したのだとか区々に發表してゐるやうだが、併し余り富らね学説に過ぎぬと思ふ。 最後に丹後の人々に特に附言したいのは、安政年間より気圧の変化によって起った大地震がこの三月七日のもので第二回目であり、将来非常に地震予知には参考資料となることである。これを以て本誌震災記念稿として擱筆しよう。 丹後の皆今様の健在を紀州より祈る。
新庄の部落には、古くから五組ほどに分かれて、右の神々を祀る「講」のような形態があり、新庄ではこれを「ダン」と呼ぶ。「ダン」とは、村を小区分に分けた地域集団をいう。
(京都府何鹿郡の例)(『日本方言辞典下巻』小学館) 『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)に、 …綾部市味方ではカイチと同様な地域集団をヒライと呼んでいる。カイチと同じ性格を持ち、称呼の異るものとして味方のヒライの外、ダン(且、段、談)がある。何鹿郡佐賀村私市のダンは、段という字を当てて二、三の組で一個のダンが形成されている。ヒエダノダン、ナカノダく
西のダンの三つに分れていて、葬式一切、道普請はダンの仕事である。綾部市段寺でもダンといえば集落という意味を持つ言葉とせられている。其の他、この地域でダンと呼ばれている地名は多い。
綾部市安場、東の段、西の段 綾部市小呂の岡の段 綾部市佃の中筋ダン 綾部市高津のダン 何鹿郡志賀郷村の鶴井の段 何鹿郡志賀郷村の内久井のダン 天田郡下夜久野の額田の旦 天田郡豊富村談 などである。 ではなぜそうした組み分けの単位を「ダン」とよぶのかと考えると、やはり原義は谷なのかもしれないとも思われる。谷ごとに分けたのかも知れない。
『何鹿郡誌』は、 金峯神社
東八田村字於輿岐区小字大又なる彌仙山上に鎮座、無格壮にして木花咲耶姫命を祭る。古くは修験道の練行地たりしものゝ如し。明治初年迄は女八禁制の霊地にして、麓なる三十八社籠紳赴より上部は此の麓を侵すもの一人もなかりき。参拝人は麓の谷川にて石を拾ひ、(己が年数だけの石を拾ふ)山上に運びて祠辺に積み、祈願すれば、願成就すと言伝へて、此の風習今も存す。毎年卯月八日は賽客殊に多し。三十八社籠神社は安産の神といひ伝ふ。 三十八社籠神社の籠は何と読むのだろう。やはり本来はカゴではなかろうか。この山は大本教の聖山でもあるという。 「弥仙山三社大祭」 「子授け伝説」
『角川日本地名大辞典』に、 みせんやま弥仙山〈綾部市・舞鶴市〉。
釈迦ガ嶽・金峰山ともいう。舞鶴市街地の南東約10q、綾部市北部の於与岐町かとの境にある山。標高674m、地質は閃緑岩からなる。トンガリ帽子のような鋭角の特異な尖頂を有し、古来、信仰の山として開けた。聖武天皇のとき僧行基が開山した(須弥山大権現御社再建勧化録)とも伝えられる。麓と山腹と山頂に社があり、それらをつないで参詣道がある。国鉄舞鶴線梅迫駅で下車し、伊佐津川を上流にさかのぼり於与岐町大又から登る。 東北にある弥仙山(674m)は修験道で開かれた山で、山頂に金峰コンポウ神社が鎮座。下村にある鎮守の八幡宮は於与岐の総社で、今も宮座が存続している。中川原に臨済宗東福寺派法雲山栖竜寺がある(角川日本地名大辞典・於与岐町)。 『何鹿の伝承』(加藤宗一・昭29)に、 於与岐の禰仙山
「綾部市弘報」第七号昭和二十八年十一月十五日によると、何鹿郡の霊山、丹波富士といわれる、弥仙山の所在地、東八田村字於 わたくしは、むかし、むかし、そのまた、むかしの猿むかし、禰仙山が、丹後の由良ケ獄の神さんが、小供、小供しい、背くらべ競争をされた時代の、お話をしてみたいと思います。 大むかしは、どこの山の神さんでも、腕くらべやら、ときには、恋のだて引まで、しられたものであります。大和の国の、三山といわれる香具山と、耳梨山の神さんが、女山である畝火山をとりやつこされて、戦争までされたことは、有名な話しであります。『万葉集』という、日本のもっとも旧い歌の本のなかに、「大化の改新」(六四五)の大立者、天智天皇が、まだ、 中大足(後の天智天皇)三山の御歌 香久山は畝火を愛しと、耳梨とあい争ひき、神代よりかくなるらし、古もしかなれこそ、うつ せみも嬬(恋人)を、争ふらしき。 返 歌 香具山と耳梨山と会戦しとき、立ちて見にこし印南国原。 わたつみの豊旗雲に入日さし、こよいの月夜、明らけくこそ。 (万葉集 巻ノ一) 橘千蔭の『万葉集略解』によると、香具山を女山とし、畝火と耳梨を男山として、畝火か負けて、香具山と耳梨が、逢引(ランデブー)をたのしんでいると、いうように解釈していますが、かかるせんさくは、ともかくとして、弥仙山の神さんは、さすが恋げんかまでは、しられなかったようだが、由良ヶ獄(加佐郡由良村)の神さんと、背くらべの競争を、猛烈に、されました。しかし、わるいことには、どちらの神さんも、背だけは、甲乙のなかったことでず。それだけに、また、一寸でも高くなって、相手を負かしてやろうと、それは苦心されました。これをみかねて、麓の人々は、麓の谷川から、小石をひろって、すこしでもお山を高くして、神さんを喜こばせようと、セッセセッセと、小石を山の頂に運びをした。 この名残りか、いまでもつづいて、禰仙山の参詣人は、自分の年数だけの小石をひろって、お山の頂上の祠(金峰神社)に積む、ということです。 太古ウッソーたる原生林に、とざされていた時代、丹波の国はじめが、この禰仙山脈から開けたことは、この伝説からも推しはかれる。「狩獲経済時代」から、つぎの時代「氏族制時代」の豪族は、山を征服したものからうまれる。四道将軍の一人、彦坐の命が、丹波を征伐にきて、(前八八年より)ここを一つの拠点として、丹後の青葉山を中心としていた、豪族「土グモ」賀耳と対戦したのも.ここと伝られている。 山嶽信仰は、あらゆる信仰に先行する原始信仰である。山嶽地帯のオヨギ一帯が、ずつと後世国土統一なってからも.一番はやく、神仏習合のせり合の場となったことは、自然のことだろう。文武天皇、大宝のむかし(七○一、七○三)人民の英雄.役の小角や、さらにくだって行基、さらにくだって空也等によって、ここら一帯が、仏教を思想的武器とした、文化の中心となる。「修験道湯は大和より古い」と、いう麓の人々の傳承は、うなづかれることができる。 金峰神社を奥の院として、麓には東照寺、西照寺あり、奥保寺、高屋寺、於成寺、向坊、蜂覆坊などはいづれも、奈良、平安時代の盛観であるが、武士の時代になって、これらは、天正七年(一五七九)を最後として、兵火に焼かれてしまい、いまは、法城ヶ谷・高野谷、宮谷・宮ノ口などの地名に、その名残りをとどめているだけだ。 また、オヨギ 一ノ瀬にある八幡宮は、元明天皇 和銅三年(七一○)の創建と伝られており、(この年に都を奈良に移した)オヨギはもちろん、味方、下八田、淵垣、中村、安国寺、梅迫、上杉、八ヶ村に及ぶの総社であったことは、一の鳥居が、いまなお「綾部市味方町」に跡をとどめていることによってもしられる。 最後につけ加えたい傳読がある。禰仙山には、むかしから龍がすんでいた。それをオヨギの吉崎権平が討とり、その上アゴが、地元の栖龍寺にあったが、同寺は焼けて今なく、下アゴが梅迫雲源寺に伝られているということだ。 参考文献「何鹿教育」昭和三年七月 三宅中二 「於与岐区誌」昭和八年 相根久左ェ門 吉田紋兵エ、吉崎久兵エ、同鹿蔵、相根丑之助 「丹波史年表」昭和十二年 松井挙堂 「史林」一九五三年九月 竹田聴州 『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも) 弥仙山のたけくらべ
綾部市於与岐町 幼いころ母の胸に抱かれて聞いたふるさとの昔ばなしは、いまも懐しくよみがえってくる。綾部市の山奥に村人たちの素朴で大らかな心温まる話が伝わっている。 綾部市東八田と舞鶴市の境界に弥仙山がある。一年中美しい花で彩られる山で、村の人たちはこの山を崇拝し、自慢にしていた。年中行事で弥仙山参りという風習も残っている。村人の楽しみのひとつで、村中そろって山頂の氏神「弥仙さん」へ参り、その年の豊作のお礼をしたり、家族の健康を祈願していた。 仙弥山の北方に、美しい富士山の形をした山がある。舞鶴市と福井県高浜町にまたがる青葉山で、姿が富士山に似ているところから、若狭富士と呼ばれ、これも信仰の山として知られていた。弥仙山は、この青葉山よりも低く、朝日は青葉山のほうが早く当たるし、夕日も弥仙山よりも長く青葉山の頂に残っていた。いくら背のびをしても弥仙山のほうが低い。弥仙の山の神さまにとっては、これがしゃくだった。そこで毎年お参りする村の人たちに頼むことにした。 数日後、山の神さまは村人の一人太郎兵衛のまくら元に立ち「これからは、村の人たちが山へ登るたびに小石を持ってきてくれぬだろうか」と頼んだ。太郎兵衛は、さっそく村の人たちと相談し「これからは山へ登るたびに小石を持っていこう。自分の年の数だけふろ敷に包んで背負っていけば、いつかは青葉山よりも高くなるわい」と春、夏、秋、冬の年四回、石を持ってお参りすることを申し合わせた。いま弥仙山の山頂には大きな石小さな石、色とりどりの石がうず高く積み上げられているが、地図で調べると、弥仙山五九九メート化 青葉山は六九九メートルで、弥仙山が百メートルも低い。お参りする人たちは、いまも「弥仙山がんばれ!いまに青葉山より高くなるぞ……」とせっせと石を運び続けているという。 (カット=野口ひとみさん=綾部市東八田校) 〔しるべ〕弥仙山は伝説の宝庫でもある。山頂がとがったこの山のかっこうは、神秘な気配が感じられ、昔の人々が信仰の対象とした気持ちもうなずける。綾部市内から東北へ十五キロ。
橘の伝来と木津
但馬の国司、田道間守という人が、垂仁天皇の命をうけ、常世国へ、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに出かけたということは「日本書記」の垂仁天皇九十年に記されています。 香菓というのは橘のことでミカンの原種である。また常世国とは、南支那方面であろうとの説もあります。 田道間守が、十か年もかかって香菓を持ち帰ったのは今の浜詰の海岸で、函石浜に近い清水岩あたりだと言い伝えています。 この浜に上陸したから、陸路を木津圧地内の 祭典をあげられた田神山には村人がその後豊宇気の神を祭祀しましたが、これが現在の式内 本土に初めて橘が到来した土地であるのでこの地を「タチバナ」と言い 後に橘を音便で読んで「キツ」と言い、「木津」と書くようになったのだそうです。 (原話 井上正一)
今、島津の床尾神社は、春日神社の脇宮(境内社)としてお祀りされていますが、実は由緒深い式内の社格をもつお社であります。 むかしは、床尾山頂に北面して鎮座されて居ましたので、丹後半島沖を航行する船に不浄があると、掛津沖に差しかかった時、船が動かなくなり、その不浄を改めぬかぎり進めなかったといいます。幕府への上納米を積んだ千石船なども、たびたびこの難に逢ったそうです。 このため村人が相談の結果、この神社を山の下の低地に移し、社の向きも、もと北面であったのを南面に向きを替えて、再建し、海上が見えなくされました。以後日本海を航行する船舶にいぜんのような事故はなくなったそうです。 (原話 島津の老人) 南側の床尾山といってもたいして高い山でないのか、ここの境内からはよく見えない。床尾神社のすぐ北側が離湖という湖である。春日神社の境内は砂だらけであるが、離湖はもっと大きくてこの辺りもその湖岸であったろうと思われる。 ここから東へいけば2キロ足らずで遠所遺跡があり、その先は1キロ足らずで鳥取集落(弥栄町)(竹野郡鳥取郷)に達する。離湖の浜砂鉄があるいは原料であったかも知れない。 『丹後の民話』(萬年社・挿絵=杉井ギサブロー・関西電力・昭56)に、(挿絵も) 白鳥伝説
この話は垂仁天皇の二十二年のことと言いますから、今から千八百年も前のことであります。 垂仁天皇にホムチワケノミコという皇子さまがありました。大きくなられても物が言えません。それで天皇はこのいたわしい皇子がかわいく、たいへんうれえていられました。 ある年の九月のある日、天皇が皇子を連れて宮殿の前に立たれますと、その時、白い大きな鳥が鳴きながら空を飛んで行きました。皇子さまはこれをごらんになると、はじめて口を動かしなされて、何か片言のようなことをおっしゃいました。どうやら、「あれは何の鳥か」と言われたようであります。天皇さまはたいへん驚かれ、そして喜ばれて、宮殿に帰ってから臣下の者たちに「誰かあの鳥を捕えてくる者はないか」と、お尋ねになりました。そのときアマノユガワタナ(天湯川仮挙命)という方が前に進み出まして、「私がかならず捕えてたてまつります」と申しましたので、天皇はこの人に鳥を取る役をお命じになりました。 この鳥は鵠(くぐい)といって、今コウノトリと言われている鳥であります。ユガワタナはこの鳥の飛んで行った方を追ってゆき、ついに出雲の国まで行って捕えたとも、但馬の国で捕えたとも言いますが 丹後の網野の言い伝えでは、ユガワタナの神は但馬から松原付(今の網野)へ来られ水の江に網を張り、日子座命(網野神社の祭神のうちの一柱)のご神霊においのりして、ついにこの白鳥を捕え、都にのぼって十一月二日に天皇にたてまつったのであります。 ホムチワケノミコはこのクグイをもてあそばれていたが、ついに物を言うことができました。天皇はたいへん喜ばれユガワタナに厚く賞与され、鳥取造という姓をたまわりました。 網を張った土地だというので、それ以後この地を網野というようになったのだといいます。 【 註 】 網野にはこのユガワタナを祀った神社が、境内社をふくめて四社もありますが、丹後では網野以外には祀られていません。 但馬では但馬三江駅の近くにある久々比神社の祭神がこの神を祀り、この神社は延喜式内社であり、社殿は国指定の重要文化財となっています。このほか豊岡市森尾の安牟加神社、八鹿の和奈美神社も祭神はこの神であります。八鹿地方の伝承でユガワタナの神がここの水河に網を張って白鳥を捕え、天皇にたてまつったので、その後この地を網場と言うようになったのだとも言い伝えています。 網野に接して鳥取部落があり、そのほか鳥取県鳥取市などの地名もみなこの物語に関係があるということです。 (俵野・井上正一様より)
養父大明神の化身
日和田の部落は、山の中の谷なので、獣がよく作物をあらわしました。この獣たちを封じるために、村人たちが相談し、但馬から獣の神様を迎えることにしました。 その神様は兵庫県養父郡養父村に祭洞されている養父神社であります。 日和田のこのお宮は、氏神の威徳神社とは別の山にあって 祭神は養父大明神ですが、なぜか大川神社とも言われています。祭当日は毎年陽暦八月二十五日でありました。 この神の化身は、大きなカメで、作物をあらす獣を食べる神様だといいます。 むかしは参拝者が多く、遠く、熊野郡・竹野郡・中郡のほか、但馬方面からも参拝され、帰りには境内の熊笹を折って持帰り、獣の被害の多い所へ立てたものだそうです。 日和田での例祭にはその祭事に弓・槍・鉄砲など用いて盛大に行われたそうですが、今は住民が離村し、お宮も字木津の加茂神社境内に移されています。 (原話 出ロ和久・高尾道幸・沖野浩一)
*経塚遺構を確認*
*12世紀後半〜13世紀初めごろ* *梯木林遺跡発掘調査* 多門院地区の丘陵から、十二世紀後半〜十三世紀初めごろの経塚とみられる遺構を確認しました。 高速道路の建設に必要な土取り工事に先立ち、府埋蔵文化財調査研究センターが、今年五月から発掘していたもので、調査面積は約千平方b。 遺構は、標高約百bの東西に伸びる尾根の東側から見つかりました。長径一・五b、短径一・二b、深さ約三十aの石を積んだ楕円形の穴で、その中から直径約三十a、高さ約四十aの甕が蓋付きで出土。蓋は十二世紀末から十三世紀初めごろの特徴を持った須恵器の鉢を伏せたもの。甕の中からは土師器製の皿一点が出土しました。 お経の入った筒を見つけることはできませんでしたが、昨年一月に確認した同じような経塚遺構(天台南谷遺跡)などから、今回のものも経塚であると考えられます。 当時、この丘陵の南側には若狭に抜ける街道があったとされるほか、近くには国の重要文化財・毘沙門天立像(平安時代)を安置する興禅寺などがあることから、これらとのかかわりが注目されます。 今回の発掘ではこのほかに、石積みの残骸と見られる遺構や土坑(穴)を各一基、さらに甕の破片や宋銭八枚も見つかりました。なお、丘陵の西側半分は現在調査中です。 《市教育委員会社会教育課》 この梯木(はしき)というのはたぶん天へ通じる梯子の木という意味であろう。漢字があっているのがすごい。箸木長者というような伝説も他の地にはあるようである。峰山町にも橋木という所がある、この漢字もあっている。同地には竹野郡式内社の発枳神社がある、真言宗の古刹・発信貴山縁城寺もある、これらの漢字はどうだろうか。発枳はハチキとかカラタチと読んでいるが、本当はハシキと読むのではかろうか。多門院の梯木林は『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)も同書に唯一口絵写真入りで取り上げているが、これは史家の直感で何か感じるものがあったのではなかろうか。平安期の遺跡といった新しいものであるはずもなく、ここも太古からの聖地であろうと思う。もっと古い遺跡であっただろうと思うがはじめから気が付いてもいないようだから検出は無理かも知れない。教育委員会にも坂本蜜之助なみの直感が欲しいものである。ここはおそらく倉梯郷の発祥にかかわる地であり、この麓には峰山町橋木と同じように式内社や真言宗の大寺があっていいのであろう。後に詳しく取り上げてみたい。 『倉梯村史』は、 地名の起原として曰く、
「天香語山命倉部山の屋上に神庫を創営し給ひて種々の神寳を収蔵し長梯を用ひて其の庫に到るの科となす。故に高橋と言ふ。今猶峯頭に神祠あり、天藏社と称す」 依て其址を按ずるに今多門院小字材木に小丘ありて梯木林と言ふ。古老傳へて曰く、古くは倉部山とも称し頂上に小祠ありしが何時の頃か南面の山麓に移したりと。現存の天藏神社と併せ考へて或は此所なるか。往時は當地方一帯を高梯と称せしがごとし。 右が現在の梯木林、林はもうない木は切られて、何メートルだろう少なくとも2メートルは削平されていて平で広くなりすっかり荒地になっている。高速建設工事のついでだから、もうこの山を全部取ってくれと村から要望が出ていたそうである。この山には古墳や何やら古い遺跡もあるそうだがそんなもはいいから取ってくれ、邪魔でかなわんということだったらしい。古来の聖地もたまったものではない。郷土にとってはこれがいかにかけがえのない貴重な文化遺産かという意識はないようである。現代人の悪いところだと思う。たいへんに傲慢で野蛮である。自分たちが最高の知識をもっていると勝手にうぬぼれている。自分たちの頭ではたしいたものと見えなくても将来は何か大変な発見があるかも知れない先祖と子孫に責任を持って地域の文化遺跡を守らねばならないという意識が必要なのである。これが大変な遺跡で現代人には単なる邪魔な山としか見えなくとも大事に子孫に引き継がねばばならないと言う者もなかったのであろうか。史家や文化にたずさわる者たちはみな昼寝をしていたのであろうか。さして猿と変わらぬではないか。文化を引き継げるから人間なのだろうが。こうしたあちこちに小さく取り残されたような小山を邪魔山とか迷惑山と呼び、地域の発展にとっては邪魔だから取り除いてくれという要望が近頃はよくあるようである。しかしよく考えてみようではないか。お前さんたちを育てた地域の自然だろうが、先祖達を育てて今後も子孫達を育てつづける古里が誇る豊かな自然の一部であろう。自分の親を邪魔者とか迷惑者と呼ぶにも等しい。きょうびの腐った政治屋どもや行政と同じではないか、老人は迷惑者、病人は邪魔者、儲からんから公立病院は潰す。そんな者は一日も早く殺してやるというに等しい。やはり少し、いやかなり異常なのではなかろうか。 梯木林に今は携帯電話の中継アンテナが建てられている。幸いにもこの山は自分で自分を守った。堅い岩で全部は取れず、ほとんどが残ったようである。谷の反対側に鎮座する天藏神社の真向かいにあって、この岩山は一目見ればビリビリと感じるものがある。ひょっしするとこれが天藏であり、天藏神社はここにあって、倉梯山(高橋山)というのは本来はこれてないのかと考えたりしたが、その直感は『村史』の記述する通りであって、案外にあたっていたのかも知れない。この山が「庫梯山、倉部山の別称也」と残欠が伝える本来の倉梯山であろう。材木(ざいき)という地名もそうした巨木を意味するのかもわからない。いつか詳しく見てみたい。 『丹後風土記残欠』は、「高橋郷。本字高椅。高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高橋と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。また、その山口(二字虫食)国に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母祠と云う。」と伝える。その山口神社はこのすぐ下に鎮座している。この岩は土取の結果でてきたというのであるが、全体はそうかも知れないが、一部が出ていたのかも知れない。 右写真のように天藏神社の鳥居より見れば梯木林と元は天台宗・真言宗と伝え末寺11ヶ寺が軒を並べていたと伝える興禅寺(赤い屋根)が一直線に並ぶ。ここの地名である多門院や堂奥の元になった毘沙門堂もある。卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(桜井市箸中)のハシも何か関係があるだろう。箸墓は三輪山の蛇と関係がある。黒部にも蛇が棲んでいたのではなかったか。今後の解明を待つ大変に重要な所だと考えて大切にしていただきたいと願う。 八木という地名はヤギと読んでいるが、あるいはハチキでこのハシキのことかも知れないと考えているが、どうであろうか。間人はどうであろうか。峰山町の橋木は現在は丹波郡側に所属しているが、竹野郡であったろうと思われる。そうするとその北の木橋も同じ意味であろう。ここに遠所遺跡がある。縁城寺というのも同じ意味をもつものかも知れない。船木というのも同じ世界樹伝説による地名かも知れない。 『倉梯村史』の長雲寺(舞鶴市森)の記事に、 臨済宗。元、森の西南船越にあり。元正の御字…一二○○年前…の草創にして宝永三年…二二八年前…南堂和尚現地に移転再興せりと言ふ。傳へて曰く、當初は船越山浄溜離寺と称し、遠く天平七年…一二○○年前…(又曰く神護景雲元年…一一六七年前…)越智泰澄大師北国渡船の途次霊感によりて草創せりと。本尊薬師如来は泰澄大師が附近の山林より霊木を選び、三拝一列彫刻せしものと傳へ今尚拝木の地名を残せり。
『倉梯村史』の伝説編に、 金屋の大松
大阪の役…元和元年三一九年前…に當地方より出陣せし戦士の墓として作られしものにて墓標に大松ありしも今は枯死せりとぞ。 『倉梯村史』の伝説編に、 堂奥大神宮と神木
昔堂奥字谷口に大神宮を奉祀せる社ありて広き参道あり手洗の池も備はり、一層勝れし神木もありしか、切りて牧野侯の城閣の櫓太鼓を作り残木を以て矢野山法起菩薩の神庫を作れりとなん。 『舞鶴の民話5』に おけがうろ(森)
舞鶴球場より西へ山すそ田道をたどっていくと、小さい峠があり、それをこすと船越の谷である。ここにこんな話が残っている。 法道の仏術によって、空中に船を走らせ、よい香を追っていくと船越の地についた。泰澄と法道の二人、ここにて四方をみれば、いずこともなく空より、あらわすことのできない音声がきこえてくる。「この地に温泉がわき出るなり。お前たちに守護させるなり。両人これをうけたまわれ」空を仰ぎみると、るりの光明がかがやいている。三拝合掌していう。「命によりこれを守護いたします」 あたりをみると深い林と谷、近くに滝のおちる音がする。法道はすぐに谷にいき、杖にて滝壷をまぜまわすこと三十五度、水がいつのまにやら暖かく湯煙をあげた。尚又泰澄まじない祈って、法道仙人に向かって問うた。「この温泉、いついつまでもきえることなきゃ」法道「五百年以後に至って人心清らかなれば変わりない。もしも不浄なる心あれば冷泉となる」いつまで温泉であったか記録はないがかなしいことに今は冷泉となっている。人の心が汚れているのだなあ。だけどこの地は、名だけは温泉をさす「 この地のそばの山を 『舞鶴の民話4』に 金屋の大松(倉梯)
秀吉が死んだ。あとは徳川家康につく方と石田三成に組する側とに分かれた。福島、黒田、加藤などの武将は三成をきらって家康方についた。田辺藩主細川忠興も家康方についた。慶長五年六月、会津の上杉景勝が、家康の上洛中に叛旗をひるがえした。上杉は石田三成と通じあっていたので、上杉は家康をひきつけておいて、三成が背後から旗上げさせるというのである。しかし家康はこの策は承知の上であったらしい。家康は関東に下るとき、伏見城を守る鳥居と水杯をかわしている。又、福島、黒田、細川など味方の武将に 「三成が旗上げしたら、第一に御自らの妻子は人質として連れていくだろう。もしそれにひかれて家康への合力がにぶるなら、このさい自由になさい」 と言っている。諸候はいかなることがあっても、家康方につくことを誓っている。家康が上杉退治のため会津に向かって出発すると、石田三成は家康に叛旗をひるがえしたことはいうまでもない。三成は旧秀吉部下の主戦部隊である。福島正則や細川忠興には密書を使わし、三成軍につくように再三いってきている。忠興は三成がきらいで、正使が最後の通知をしてきた。 「妻の玉に城内においで願いたい。ざもなくば人数を押しかけて玉を頂だいするであろう」 「忠興は妻の玉を愛している。忠興は東国に出発している。留守には、玉をはじめ、小笠原少斎、河北石見の家老がいるが、三成の軍が攻めてくれば、家老をはじめ従う武士たちは切腹するとも内室の玉を守る」と最後の覚悟をきめたのである。従う武士たちは多く田辺からやってきているのである。三成の正使の云い分をことわった以上、今晩にでも三成勢が攻めてくると思われた。玉は使えている侍女たちに遺品をあたえて退去させた。小者には暇を出し、諸士にはそれぞれの配置につかせた。 敵が押し寄せて来たのは夜更けであった。黒い潮のようにかたまってきた。松明が無数に燃えていた。その勢いは強く、家老小笠原は抜刀したまま奥へ走りこんだ。玉はすでに白装束に着かえていた。玉の胸にはサソタマリアの十字架が首からかけられていた。三成の軍勢の勝どきの声と共に城になだれこんできた。諸兵は戦い戦った。赤い血はあたりに飛んだ。玉は眼をとじ、合掌し「サンタ、マリア」と口にとなえた。玉の白い胸には少刀があった。握った刀を突き刺した。白い胸から鮮かな血がふきこぼれた。家老は玉の死とねの上に戸などさしかけ、上に火薬を散乱し火をつけた。家老も共に切腹して果てた。諸士も討死にした。 慶長五年(一六○○年)関ヶ原戦役によって、家康は覇権を握り、三年のちに幕府を成立させ征夷大将軍となった。慶長十九年、元和元年の再度にわたる大阪の役で完全に豊臣氏をほろぼしたのである。田辺から忠興に従ったもの、留守にいて玉と共に戦って死んだ者多数あり、金屋からも出陣し死んだものあり、その霊をなぐさめるため墓をたて、松を植えた。月日と共にその松はぐんぐん大きくなり、諸士の霊が育てたのか、遠くから眺められたという。誰いうとなく「金屋の大松」といっていた。しかしその大松も落雷のためその姿は今はない。私は墓標のあったところに、野に咲くコスモスの花を供えて、若くして散った昔の武将の霊安かれ、と両手をあわせた。
天橋立の悠久を念じて
一九三七(昭和十二)年、わが国は中国と戦ってしました。政府は大江山のニッケル鉱石を軍事用に供するため海上輸送しようと考え、天橋立の切断を地元に強く求めました。地元民は心の古里として大切にしている天橋立が切断されることに賛成ではありません。しかし戦争であるからしかたがないと考える人も多くありました。加えて政府や軍部の考えに反対することは、生命に危険が及ぶことも覚悟しなければならないほどの異常な時代だったのです。 地元民の期待と不安のうちにたったひとりで交渉の席に着いたのはときの宮津町長・三井長右衛門でした。彼は戦争の遂行と天橋立の歴史と自然を守ることの相反する難題を前に思い悩みましたが、最後に切断すれば再び元の姿にもどることはできないと、天橋立を愛する心のほとばしるまま、生命も捨てるほどの決心で政府の要求を断固として拒否しました。この勇気ある行動により天橋立は切断の危難を免れたのです。 この場に立って、静かに先人の労苦をしのぶとき、眼の前に展開する世界にも稀な美しい景観を、次の世代に伝え継ぐ責任の重さがひしひしと迫ってきます。 こま碑が自然を守ることの大切さを広く末永く訴え続けてくれることを祈念してやみません。 天橋立を愛する者相集まってここに碑を建てる 賛同者世話人 北絛喜八撰 一九九七(平成九)年十一月吉日 設計施工、碑石寄贈 寿園、山寺 清 宮津市民たちが、その子孫達にも世界の人々にも末永く誇れる立派な仕事であったと思う。人として生まれた以上はこういう仕事をしないといかんと思わされる。ゼニだけ持って帰ったらいいのではない。その地に住む人々の生命だけを守ればいいのではない、その郷土自体の自然環境の生命と健康も己が命と引き替えに守る義務がある。どこぞの首長さんたち、市民のみなさんたち、深く心に刻もうではないか。 自分さえよければいいと天橋立の切断を目論んだのは実は軍部や政府、大資本だけではなかった。実はそうした地元民にもやはりいたようである。 『京都府の地名』に、 (橋立切断計画)
… 享保年間(一七一六−三六)内海に面する溝尻村は、漁業不振と内外の海の通運の便の打開という理由から、宮津藩に橋立切断の許可を求める訴願を出したが、それを阻止したのは智恩寺であった。 一、橋立は天下無双之絶境、六里松之称古今不変之 儀不及申上候、然る処纔一村之困窮御救ひ之為と して橋立裁断候義被仰付候者、諸国往来之者迄嘲 哢可仕儀に奉存候、乍然当御代之御為筋と被仰付 候上者不及是非候、然共到後代其時之住持叫応之 御断りをも不遂申候段無調法之沙汰に可罷成候儀、 於住持迷惑に奉存候事、 一、天浮橋者橋立之儀と諸書に詳に候殿御存知之事 は不及中土候、然は二神降下之神跡を仮初にも人 手に懸けて截断申儀天下之聞え不吉第一に奉存候、 (中略)自余之境内道橋等とは格別に存罷在候、 これは智恩寺住職妙峰の差し出した口上覚の一部であるが、藩は寺の言分を認めて落着した。しかしその後、洲崎が突き出て潮路も不自由になったため、元文四年(一七三九)溝尻村から再び切抜きの願が出され、切声洲崎の分を堀浚えすることで藩側と協議が整った。寛延二年(一七四九)から三年にかけても同様の事件が起こった。藩側は「橋立之儀は智恩寺之境内に候へば智恩寺住持合点無之候而は相成不申候間、溝尻村より直に智恩寺え願出可申」と責任を智恩寺へ転嫁した。寺は元文四年の例にならって掘浚えの願書を出したところ、二○日余り過ぎて藩側からは「切戸さらへの儀披露候処、殿様御下知にて橋立に手をつけ申儀不同心に被恩召候段被仰出、橋立之儀向後互に申分無之候而珍重候段被抑聞則拙僧方えも手紙被遺」との返事があり、結局藩は許可することは神罰を受けるのではないかと恐れて手を引いてしまった(「橋立一件始終之記録」智恩寺文書)。 橋立は明治維新以後国有地化された。 『両丹地方史』(75.11.16)に、 (橋立切断計画)
自然と文化財 丹後地方史研究友の会 中嶋利雄 一、自然はおのずからにあるものではない。 天橋立濃松、橋立明神の傍らに自然石の蕪村の句碑なるものが建っている。 橋立や松は月日のこぼれ種 これが蕪村の句かどうかは知らないが、日本人の自然親としてはこうであろうと思う。とはいっても橋立が「こぼれ種」によっておのずからに木が生え、茂り、こんにちの美しい景親が生まれたと考えるなら、これは歴史の真実に反する。 近い過去からこんにちまでの経過をたどってみても、天橋立保勝会(一九二二)天橋立を守る会(一九六五)丹後の自然を守る会(一九七二)が結成されて、この自然を守る運動はつづけられている。 京都府は昭和四五年度から四か年計画で老松樹勢の回復、施肥補植薬剤撒布(二千万円)、昭和四五〜四八年度に侵蝕防止対策(一億三三〇〇万円)昭和四九年度より四か年計画で二〇〇〇万円の経費を具込んで保存事業を継続している。 自然景観がこんにちあることのなかに、人為の工作はかくのごとく加わっている。そのことは自然が人間の生活要求と深い関係をもっていることを示しているといえる。 二、天橋立切断のもくろみとそれに対する抵抗 橋立は世の人に守られて順調に生きつづけてきたのではない。頻々と破壊の危機に出会つている。天僑立智恩寺の文書に「橋立一件始終之記録」というのがある。 御領命溝尻村近年不漁に付 御役所江御願申上 候處橋立截断候様可被仰付旨当寺江訴有之則 當寺より願書指上候條左之通 此事享保年中當寺先々住妙峰住持之節也 奉願口上覚 (長いので略) 享保、元文、寛延と切断のくわだてはつづき、慶応四年(一八六八)にも又おこっている。十五年戦争下、昭和十二年大江山ニッケル精錬所が内海沿岸に建設されるに伴って軍人商大臣伍堂卓雄は軍需製品運搬に差支えるからといって橋立を切れと迫った。三井町長はクビをかけて反対したという。戦後は橋立の横に自動車の通れる道路をくっつけて北部住民の便をはかれという声があがって阻止につとめた経緯もある。時に住民の生活要求から、また時に軍需産業の立場から橋立の直面した危機の様相には一様でないものがある。それを阻止したものも智恩寺住職とか宮津町長とかさまざまの人が表面に出ているが、それら人士の個人的見識に敬意を表することにやぶさかでないが、忘れてならぬのは、この地自然と文化財方のながい歴史の中に根づいたこの景勝を守り育てる意識の根深さがこれらの人々の意識と行動を与えてきたということである。 三、京都府の文化財理念 (以下略) 『大江山鉱山』(和久田薫・2006)に、 (橋立切断計画)
製錬工場の建設 ルッペ製錬工場の立地に決まったのは、吉津村の須津地区(現宮津市須津)と、岩滝町にまたがる地域だった。その理由は、近くの野田川から工業用水が得られること。副資材の無煙炭、石灰石の搬入や生産したルッペの搬出に有利な宮津湾に近いこと。そして鉄道の沿線であり、そうした条件を満たした上で、大江鉱山から最短距離にあったことである。いわば工場敷地として格好の場所だった。 しかし、一つ問題があった。名勝天橋立の存在である。工場建設予定地は橋立の内海(阿蘇海)の沿岸にあるが、外海である宮津湾とは南端の狭い水路二カ所で結ばれているだけで、大型船は内海に入れないのである。従って工場が出来ても、その岸壁に大型貨物船を直接横着できないから、ひんぱにハシケを使って運ばなければならない。これは工場にとってかなりのリスクであった。(現在でも、このハシケによる運送費用は大変な額になるという) この件に関わって、戦後うわさになったのが「天橋立切断計画」で、昭和一二年、宮津に来た伍堂卓雄商工大臣が、製錬工場にとって邪魔なので天橋立を切り取ると言い出した。これを聞いた地元町村長二三名が断固反対した。そのため伍堂も「この非常時に橋立の一本や二本は何だ」という捨てゼリフをおいて東京へ帰ったという話である。そしてこのエピソードは、週刊誌、新聞、著書などにも書かれた。 だが、昭和一二年段階では、大江山ニッケルの製錬工場をどこに設置するかは、軍部も一切確定しておらず、大石信氏(宮津市在住)の詳しい研究などによって、伍堂が商工大臣として宮津に来た事実がないことが明らかにされており、また、今のところこの出来事を裏付ける資料は全く発見されていない。それがもし、昭和一五年以降の話であったとしても、天橋立の風致は多くの先人の力で守られてきており、たとえ戦時下とはいえ、天橋立の切断は簡単に行われることはなかったのである。 (『宮津市史』通史編下巻、二〇〇四年) 郷土史の重鎮たちに比べると何か認識が軽い、…と思う。次に肝心の『宮津市史』を引いてみよう。もしここが軽ければ橋立は守れないかも知れない。世界遺産に大穴あけないよう決意を固めてもらいたいな。 地域の戦争を知らず、歴史を知らずでは世界遺産はおろか、地域づくりすらもあやしい話になる。世界遺産をめざす限りは全世界で共有できる世界観と価値観を持つことががどうしても必要になる。地方の観光に偏った地方観光の価値観ではまず難しかろうかと思うのだが…
「天橋立切断計画」と大江山ニッケル
昭和十二年に政府の要請により天橋立の切断計画があったという話が戦後伝えられている。この話は、昭和四十四年(一九六九)七月十五日に発行された『広報みやづ』一五四号に岩崎英精が「紙上文化財めぐり−文殊と須津−その五」で書かれたのが最初であろう。その内容は次のようなことである。 昭和十二年、現役軍人林銑十郎内閣のとき、おりから大江山ニッケルの精錬工場(現日本冶金の工場)を建設するというので伍堂卓雄商工大臣が宮津に来た。そして、本船をニッケル工場の岸壁に横着するのに邪魔だということで、天橋立を切り取ると言い出した。これを聞いた当時の与謝郡町村長たち二三名は、三井長右衛門宮津町長を先頭に断固反対した。ことに三井は命を捨てても反対と強い姿勢を変えなかったので、伍堂も「この非常時に橋立の一本や二本がなんだ」との捨てセリフをおいて東京に帰った。 この切断計画は、その後も週刊誌、新聞紙上、著書等で書かれることになる。ただし、現在のところ、この内容を裏付ける文書資料は一切発見されていない。大石信「伍堂卓雄来津に関する資料−天橋立切断の一件に関して−」(未定稿)で明らかにされているように、伍堂章雄が林内閣の商工大臣として宮津に来たことを明示する資料は現在のところ確認できていない(林内閣は昭和十二年二月二日から五月三十一日までの短命内閣であった)。また、十二年の段階で大江山ニッケルの精錬工場をどこに設置するかは一切確定されていなかった。 ここで大江山ニッケルの軌跡を述べておきたい。大江山にわが国最大のニッケル鉱床が発見されるのが昭和九年で、同年九月三十日昭和鉱業株式会社の全額出資で資本金二〇〇万円で大江山ニッケル鉱業株式会社が設立された(本社は大阪市)。しかし、この段階では大江山の鉱土を純ニッケルに変える精錬技術は発明されていなかった。昭和十三年秋、海軍中将伍堂卓雄がドイツから帰国し、「クルップ・レン法」という精錬技術の情報を大江山ニッケル鉱業の社長森矗昶(のぶてる)にもたらした。この技術は、純ニッケルを作り出す技術ではなく、鉄とニッケルが混合したフェロニッケルをルッペ(粒鉄)の形で回収する技術であった。大江山ニッケル鉱業が、さまざまな試験を経て石川県七尾工場でやっと「ルッペ」精錬に成功するのは昭和十五年三月である(『日本冶金工業六十年史』)。 ニッケルの精錬技術が確定される以前、宮津市域にニッケル精錬工場にたいする期待が広がっていたのは事実である。『橋立新聞』は、昭和十四年一月十九日、宮津商工会が、大江山ニッケル精錬工場誘致問題は、町当局の方針樹立を待って商工会としての態度を決めることを決議した、と報じている(昭和14・1・21)。 また、同紙は、その後、大江山ニッケル鉱がいよいよ採掘に着手し、一日一〇〇トン見当を掘り出し、現場から丹後山田駅までトラックで運搬し、省線により七尾に向け輸送を開始した、と伝えた(昭和14・6・15)。 さらに同紙は、鉱山側の意向として、(1)地元に精錬工場を建設することは希望するところであるが、宮津町では電力の関係から条件の悪い立場にあり、現在の電力では一日六トン程度の精錬しかできずほとんど問題にならないが、福井県小浜港はすでに埋め立ておよび敷地等決定をみた模様で、七尾には精錬工場を持っており、結局は各港に精錬を分配することになるのではないかとみられ、また宮津港は積出港として有望視される、(2)加悦鉄道を与謝村に延長し、省線丹後山田駅へ運搬すべく加悦鉄道の買収交渉中であるが、トラック運搬も可能で一日三〇台のトラック運転も計画されており、丹後山田駅では貨物用プラットの拡張工事をおこなう、と伝えている(同)。 その後昭和十五年六月、大江山ニッケル鉱業の全株式は日本火工株式会社に引き継がれるが、同年七月十日、陸軍省整備局戦備課富塚少佐より日本火工本社にたいし同課に出向くように要請があった。陸軍省戦備課に出向いた森直利会長以下の幹部にたいして、富塚は大江山ニッケルの資源開発を軍事上焦眉の課題として生産体制の整備を要請した。これにたいし、森は銀行融資の問題等いくつかの障害の除去を要請し、軍はこれを了承した。このようにして、陸軍省が登場し、大江山ニッケル鉱業はニッケルの国産化に全力をあげることになった。七月二十二日、大江山ニッケル鉱業は大江山の鉱土を精錬工場まで直送し、輸送・生産一貫体制をとるため、加悦鉄道株式会社の営業権を取得した。さらに八月には、ニッケル鉱土輸送用の、加悦駅〜鉱山間二・八キロ丹後山田駅〜工場間二・九キロの鉄道線路が完成した。九月二十七日には、社名が「大江山ニッケル工業株式会社」に変わった(『日本冶金工業六十年史』)。 大江山ニッケル工業は、昭和十六年七月橋立支社を開設し、八月には吉津村と岩滝町にまたがる土地に「ルッペ」精錬工場の建設工事に入った。岩滝精錬工場が竣工式をおこなうのは昭和十七年十一月二十八日である。その後昭和十八年十二月二十四日、大江山ニッケル工業は日本冶金工業株式会社に吸収合併される(同)。 大江山ニッケルの軌跡は以上である。すでに大石信が明らかにしているように、昭和十二年の時点でニッケルの輸送のために天橋立を切断する計画があったという説は、資料がないということと、まだ精錬工場の位置はおろか精錬技術の開発がなされていなかったという事実、林内閣の時代は日中戦争勃発以前でまだ「非常時」とはいえなかったこと、などにより疑問がある。また、昭和十二年の時期(日中戦争以前と思われる)は、府の都市計画京都地方委員会が「天橋を中心とする観光道路並景勝緑地計画」(栗田村役場文書)を作成し、新たな天橋立の観光整備を打ち出した時期でもあった。ただし、切断案が林内閣の時代ではなく、たとえば昭和十五年以降の時期とするならば、ニッケルに関心を持つ元大臣である軍人伍堂がこの地を訪れ、与謝郡の町村長になんらかの打診があったという想定までを否定することはできない。しかしその場合でも明確なことは、天橋立の風致は明治以来与謝郡・京都府・地元住民をはじめとした多くの先人の力で守られてきており、たとえ戦時中とはいえ、天橋立の切断は簡単におこなわれる筈はなかったということである。 「」がつけてあり、そんな計画などはなかったかのような書き方である。悠久の碑とはずいぶんと違うがどうなのだろうか…
勅使の鋳物師
伝承地 福知山市上天津勅使 天津小学校の建っているところの聚落を 今から七百年ほど前に源頼政がいた。その当時は平家が全盛で、平家にあらざるものは人にあらずとまで言われていた。平氏であればどんな人でも高位高官にのぼれたのに、源氏の頼政はただ一人少しも出世ができなくて、ながらく正四位下に止まっていた。あるとき悲しい気持ちを歌に表わしてみた。「のぼるべきたよりなき身は木の下に椎を拾いて世を渡るかな」これは「いつも椎の実で日陰で暮さねばならぬのかなあ」ということで、椎の実と四位の身を結びつけたものである。この話を聞いた平氏の総大将清盛も大変哀れに思ったのだろう。天皇に申し上げたところ従三位となった。それで頼政は、源三位頼政と呼ばれるようになったのである。頼政はこんなに和歌にも優れていたのであるが、また当時ならびない弓の名人でもあった。 近衛天皇の御代、御所の屋根のうえに毎夜のように怪物が現われて、変な鳴き声をたてたことがあった。天皇はご病気中のことだったので、特にこの怪物の鳴き声にお気をわずらわしになって、ご病気はだんだんと悪くなられるばかりだった。天皇にお仕えしている大勢の役人たちは、皆心配でならない。御殿に集まって相談したけれども、何といっても姿の見えぬ怪物のことだからどうしようもなかった。 するとその中の一人が、「源三位頼政は日本一の弓の名人故、彼に退治することを命じたならば、あるいは怪物を射殺すかもしれぬ」と言い出した。何分にも皆名案がないので、その案に賛成したという。そして早速、頼政を呼び出して怪物退治を命じた。 頼政は再三退治する自信のないのを申し上げて断わったのだが、許されない。一日長引くとそれだけ天皇の御悩が悪くなられるので、頼政はついに引き受けることにした。 それから間もないある晩のこと。頼政はただ一人持ちなれた弓矢を持って御所に参上し、御殿の裏に身をひそめて待ちかまえていた。それは真っ暗な晩だったという。しかしさすがは宮中である。所々にはほのぐらい灯籠があって美しい庭を照らしていた。やがて夜も更けて、今の一時頃、御殿の一方にむらむらとした黒雲が現われたと思うと、ものすごく悲しい鳴き声が聞こえ始めた。身の毛もよだつようだったが、怪物の姿は少しもわからない。頼政は静かに目をつぶって、源氏の氏神である八幡さまにしばし祈りをささげた。そして弓に矢をつがえ、満月のように引きしぼって黒雲の真ん中をめがけて「ひょう」と一矢を放つと、たちまち百雷が一時に落ちたような音がして、真っ暗闇となってしまった。今まで火のついていた灯籠は皆消えてしまったそうだ。しかし幸運にも一個だけ輝いていたという。頼政はそれを目当てにその光の下に進み出た。また、御所の役人もあまりの大音にびっくりして駆けつけてきた。そして、その光から火をたいまつに移して、頼政が弓を射た方向に行ってみると、頭は猿のようで、体は虎のよう、また尾は蛇のようである。獣かと思うと翼をそなえている。そして手や足は虎のようにたくましく鋭い、得体の知れない怪物であった。ヌエというものであった。人々はあまりの恐ろしさにおののくばかりであったという。そして頼政の優れた武勇にいまさらながら感心したという。 天皇は頼政の武勇はもちろん、消えぬ灯籠についても大変感心なさって、どこの誰の作かを調べさせなさった。それは天津の鋳物師の献灯であったそうだ。天皇は直ちに勅使をこの鋳物師宅に遣わされ、大変な褒美を賜った。 こんなわけで遠くの人も近くの人も、勅使のこられた村、勅使の下った村と呼んでいたのがついに勅使となり、地名を平束(平使の意)といわれるようになったという。勅使の金屋段の古い仕事場跡には今もかねくそがたくさんころがっているし、鋳物師の後は町に出て祖先の業を継いでこの仕事に励んでおられるそうだ。 (『福知山の昔ばなし』) 【伝承探訪】 郷土史家芦田金次郎さんによれば、川船の便もある福知山は鋳物師には良い土地であるという。金山郷・金谷郷などの地名も残り、鉱山の跡も多いと言われる。由良川の左岸に位置する上天津勅使の集落も鋳物師の村であった。『丹波志』はかって鋳物師が住し、京から勅使が下ったことを記す。近くの金屋段地区は、献上の灯龍を鋳造した鋳物師が住んだ所と伝えられている。 さてこの伝説は単なる地名の由来を説くものではない。源頼政の鵺退治譚に従って、勅使の鋳物師のすぐれた技術を言いたてる伝承である。自らの由緒を語るものと言っていい。勅使の鋳物師が献上した灯龍だけは消えず、そのため無事鵺退治を果たしたと、その功績を説きたてるのだから。 かつて柳田国男は、この伝説に触れて、漂泊する鋳物師について論じた、それによれば各地の金屋を称する鋳物師の村は、頼政の鵺退治の折り、彼らが献じた灯龍の功績によって、諸役免除の特権を賜ったとする由緒書を持ち伝えているというのだ。いわば彼ら鋳物師はこうした伝説を持ち歩いて、自らの由緒ただしさを主張したのである。全国を巡り歩く彼らは伝説の伝播者とも考えられているのだ。「勅使の鋳物師」に類する伝説が、兵庫県西脇市の鋳物師の由緒を語る伝承として残されるのもそれを示しているだろう。 今JR福知山駅もほど近い鋳物師町に住まわれる足立小右衛門氏は、勅使の鋳物師二十三代の末裔である。福知山が城下町となったころ、勅使の鋳物師がこの地区に住みついて鋳物師町が作られたという。その足立家には今も「御鋳物師」なる菊の紋章入りの幟りのほか、多くの古文書が伝わる。江戸時代、朝廷への鋳物輸送の際には、この幟りを立てて行列は進められた。これもまた勅使の鋳物師の誇りを語るものと言ってよかろう。丁重に保存された幟りを拝見したとき、その誇りをかいま見る思いがした。
弘法清水
伝承地 福知山市牧 牧の平石に清水池と呼ばれる池がある。昔、この池のほとりの一段高い所に、貧しい一軒屋があり、その家に一人の老婆が住んでいたという。 ある年の夏のこと。みすぼらしい旅の僧が、このあばら屋の門口に立って、「わしは旅の僧じゃが、きょうは道に迷い、行き暮れて、もはやたそがれ時、まことにすまぬが、今宵一夜の宿をかしてはくれまいか」と仮寝の宿を乞われたそうな。正直者の老婆は、「旅のお坊さんのお宿をすることは、冥利につきますが、この頃は日照りつづきで、ご覧のように、この下の池にも水がなくなってしまいました。炊事の水にも事欠くありさまでございまして、遠い不動の滝まで水汲みにまいらねばなりません。その上、このような貧しい暮しでございますので、蚊帳も一つしかございません。お泊め申してもかえって、ご迷惑をおかけすることになってしまいます」と丁重に断わった。旅の僧は、「迷惑は承知だが、行き暮れて泊る所のあてもなし、せめてそなたの残りの食べ物なりとふるまってくれまいか。蚊帳はなくても自分のこととて辛抱いたすので、今宵の宿をぜひとも」と重ねて頼んだ。 老婆は断わりきれず承知したが、残りご飯を食べさせるわけにもいかず、遠い不動の滝まで、夕食の支度のための水を汲みに行った。通いなれた道でも、もはやたそがれ時、老婆が水を汲んで用心しながら帰った時には、日はすでに西の山に沈んでいたという。 それから夕食の支度をして、粗末ではあるが、夕げを差し出したところ、坊さんはたいそう喜んで召しあがった。さて、眠る時になったので、老婆は一つしかない蚊帳を吊って、「どうかこれにてお休みください。私は蚊やりをたいて過ごしますからご遠慮なくどうぞ」と、僧をもてなし、自分は蚊やりをたいて、一夜を過ごした。 あくる朝、旅の僧は出立ちの用意を整えてから老婆に、「ゆうべは、宿の無心を聞いて下さってありがたいことであった。まことに迷惑をかけたが、これからはいくらひどい早ばつがあっても、この清水池は涸れまいから、遠い不動の滝まで水汲みに行かなくてよろしかろう。また、もう蚊もいなくなるから、蚊帳も要らなくなるだろう。どうぞ達者でお暮しなさい」と、ねんごろにお礼を言って、どこともなく去っていった。 この老婆や、その住んでいた家のことについては、その後どうなったか、くわしいことはわからないが、家跡といい伝えられている所は、今も夏の盛りでも蚊はいないという。また、平石の清水池は、今もなお尽きることなく涌き出ている。牧の人々は、この旅の僧を「あれはきっと弘法大師であった」と今も語り伝えている。 「福知山の民話と昔ばなし」 【伝承探訪】 探しあぐねて通りがかりの主婦に尋ねると、かつてこの辺りにも弘法さんの清水はあったと近所の老媼を紹介してくれた。その婦人に案内されて、草を踏み分け山道深く分け入ると、淀んではいるが確かにそこに井戸はあった。そして婦人は弘法清水の伝説を語りながら昔語りをしてくれるのである。かつてはこの奥に平石の聚落はあったが、それも廃村になり、ここ牧村まで移り住んだという。なるほど朽ちた家屋と思われる跡さえ残っていた。鹿や狐が出て、ひとりで来るのは恐かったとも語られる。かつては川まで行かなければ水も出なかった土地だと言われるのだ。 そんな所に昔旅の坊さんが水を飲ましてほしいと訪ねてきた。遠い所まで行かなければと言うと、年寄りがそこまで下りていくのはかわいそうだと、杖で足元をひと突きすると水が出たそうな。こう話される。これは全国に広く分布する弘法清水伝説の一類型である。これとは反対に、女が水を惜しんだばかりに水は涸れたという話型も広く分布する。いわば恩寵と懲罰が対となって伝承されているのである。そして大師が杖を突き立てたところは、弘法井戸・杖突き井戸とも称されている。 大師の威徳を語る弘法伝説は、(1)来訪と奇蹟、(2)恩寵と懲罰というモチーフを持って伝承されてきた。伝説の主人公が、伝教大師・泰澄大師・蓮如上人と変わる場合もある。こうした主人公たちに付会して、大子(おおいこ・尊い神の子)の懿徳を説いて歩いた民間宗教者の存在を指摘する説もある。 ともあれ眼の前にある井戸は、すでに涸れて水は淀んでいる。それでも八月の地蔵盆には池がえをして、子供たちは作り花の飾り物を供えるのだという。なるほど井戸の傍らには小さな地蔵尊がひっそりと祀られていた。 『天田郡志資料』に、 郷土物語 開祖様
下川口村の牧と言ふ部落に、永明寺と言ふお寺があります。この永明寺は昔からお乳の出る御祈祷をして下さると言ふので参詣人も多う御座います。これに就いて大変両白い又不思議な伝説があります。それを皆様におすそ分を致しませう。 それはかつと昔の事です。六百年も昔の事です。皆様の国史や修身で知ってゐる楠木正行が、四條畷で悲壮な戦死をした頃に、薩摩の鹿児島近くに福唱寺といふ有名なお寺かありました。そしてお寺の和尚さんは嵯山禅師と言って、その当時日本中に知れ渡った徳の高い坊さんでありました。附近の者は禅師をあだかも生佛の様に尊んで、お寺の境内にあるお墓に詣つた帰りには和尚様のお顔を拝んだり、御説教を聞きに寄ったりすることを一番の楽しみとしてゐましたので、参詣人も大変多う御座いました。 その福唱寺の門前に、花や線舎やそして飴、安本丹などと駄菓于を少し許りあきなってっその日その日を細々と送ってゐる花屋庄兵衛といふ者がありました。その庄兵衛の表戸を、しとしとと秋雨のふり注いでゐる淋しい真夜中頃、こと!こと!とたゝく者があります。その物音に目を覚した庄兵衛さんは耳をすましてゐますと、糸よりも細いとても生きてゐる人の声とは思はれない様な声で 「庄兵衛さん庄兵衛さんどうか開けて下さい。お願ひの者で御座います。」 と言ってゐます。どうやら女の人の声です。庄兵衛さんは嫌々起きて店に来てから 「何か御用ですか。」 と尋ねますと、外から又糸の様な細い声で気の毒さうに 「大層おそくなってすみませんが、一文だけ飴を下さい。どうかお願ひします。」 とさも悲しさうに願ってゐます。 村の人から佛の庄兵衛と呼ばれてゐる程に、親切な庄兵衛さんは腕をくんで考へました。この眞夜中にたった一文の飴を女の人が買ひに来るなんて、余程気の毒な理由かあるのだらうと思ひました。 そして飴を少し許り竹の皮につゝんで戸の隙間から女の人に渡しますと、しょんぼりと立ってゐた、白い着物を着たみだれ髪の青白い顔をした女は、一文払って嬉しさうにいそいそと出て行きました。庄兵衛さんは白い着物の女の人を見て恐ろしくてなりませんので、戸を閉めるが早いか蒲団を頭からかぶって寝てしまひました。 その翌晩も又その翌晩も同じ時分に一文持って白い着物の女は、庄兵衛さんを訪ねてアメ買ひにまゐりました。そして四晩 五晩と続きました。庄兵衛さんは不思議に思って、どこの女かつきとめて見たくなりました。 今夜来れば六晩目です。今度は寝もしないで庄兵衛さんは待ちかまへてゐました。そして又女の事を考へました。『何も一文づつ買ひに来ないでも五文とか十文とか一度に買へばよさゝうなものだのに。…』 『あの女はなんで白い着物を着てゐるのか知ら………。あの青白い顔と言ったら………。恐しいことだなあ………。』 等と考へてゐますと、又こと!こと!といふ表戸そたゝく音がします。 庄兵衛さんは立ち上って「飴ですか。」といって今度は表の戸を開けながら此方から伺ひました。同じ女は何時もの糸の様に細い声で「毎度遅くなってから来てすみませんが、一文だけ飴をお願ひ致します。」と哀願してゐます。庄兵衛さんは竹の皮づつみを渡しました。すると何時もであればいそいそと帰って行く女が、今日に限って柳にもたれてたゝずんでゐるのが行燈の遠明りで見えます。不思議だわいと思ひなから庄兵衛さん、抜き足差し足で近づいて行きますと、女は淋しい悲しい声で独り言をいひました。 「今夜限りでもうお銭がない。明日からはどうしたらよからうか。」 果はよゝと泣きながら雨のしとしとと降る中を、福唱寺の裏へ裏へと歩みを運ばせます。庄兵衛さんはしのびしのび見え匿れについて行きますと.女の人はお寺の裏門からすひこまれてしまひました。そして沢山石塔がたってゐる中を通り抜けて丁度中程の新墓まで行きますと、パツと青い火か燃えたったかと思ふさ消えてしまひました。 「助けてくれ−。」 と庄兵衝は大声で叫びながら無我夢中に我家へ飛びこんで下駄ばきのまゝ蒲団の中へもぐりこんで、 「南無阿禰陀佛南無阿弥陀仏どうぞ命だけは……桑原桑原。」 と念じながら夜の明けるのを待ちかねたのでした。 夜か明けました。庄兵衛さんは峨山禅師を訪れて事の次第を詳しく話して、ホッと蘇生したかの様に息をついたのでした。禅師は眉一つ動かさずに耳をかたむけてゐましたが、何も言はずに庄兵衝をうながして二三の寺男と共に昨夜の新墓の所にとやって来ました。庄兵衝の案内した新墓は七日前に死んだ城下の某といふ妻の奥津城であって、彼女は妊娠中であったことも禅師は知ってゐました。禅師は静かに手を合せて観音経普門品第二十五の章を誦し始めました。 「何々クシャクシャ、何々クシャクシャクシャ。」暫くたってお経か終ってから新しく盛り上げた件の墓に禅師がぴたりと耳をつけると、オギャーオギャーオギャーと赤子の声らしいものが聞えます。禅師の眉はピクリと動きました。 「これは不思議だわい。」 と言ひなから禅師は暫く考へてゐましたが、やがて寺男をカへり見て、 「お前達すまぬがこの墓を一つ掘って見てくれ。」 と言ひました。寺男達は皆不思議さうにたゝずんでゐましたが「承知しました」と答へなから鍬をふり上げて、カツチン、ふり上げてはカツチンと堀って行きます。四五尺堀り下げました、又鍬をふり上けておろしますと、カチンと何か手ごたへがありました、それと同時です、大へんかん高い声をあげて 「おぎやおぎや」 と喧しく泣き出しました。皆は驚いて、総がかりで、棺桶を堀り出して、ふたをねぢあけて見ますと、ろう石の様になった女が、膝の上には、それはそれは可愛いゝ玉の様な男の子を抱いてゐるではありませんか。そして、その男の子が、かん高い声をあげて泣いてゐるのです。又その近くに竹の皮が五六枚散らばってゐます、細長くなった女の首にかけてあったはずの六文のお銭はありません。禅師はそっと、その子を両手で抱き上けますと、男の子は泣くのをやめて急にニコニコ顔になりました。 「あゝ可愛い子だ、これは佛の子だ立派なお坊さんにしてあげたいものだ」 とつくづくと考へながらいひました。 それからこの赤チャンは禅師に可愛がられて、後には大極和尚と言ふ立派なお坊さんになりました、そしてこの丹波にやって来て牧に永明寺を建立して開祖様になったのであります。それで永明寺では乳の出るごきとうをなさるさうです。 『京都の伝説・丹波を歩く』の【伝承探訪】に、 墓中に生まれた赤子は、その誕生の不思議ゆえに高僧となる。民間説話の世界は、このような高僧誕生の不思議を長く伝承してきた。「子育て幽霊」「飴買い幽霊」譚がそれである。近くは洛東霊山正法寺の国阿上人、丹波の通幻禅師、遠くは伊予龍澤寺の幽霊和尚、陸中大興寺の如幻禅師、かぞえあげればきりがない。これらはすべて「土中出誕の僧たち」(柳田国男)であった。そしてこの説話は、東北から九州、南西諸島におよぶ広範囲の伝承例が見られるのである。
幽霊に養われ墓中より生まれた高僧。福知山牧の永明寺開山、大極禅師もまたそのひとりである。当寺は曹洞宗であり、如意輪観音を本尊とする。縁起によれば大極は観音の応現であると説かれている。彼の高徳はとどろき、丹波・但馬・播州の禅寺は大極の一派と称するに至ったと伝えられる。 秋も深まったころ再び水明寺を訪れた。春の連休に伺ったとき、須弥壇の後ろの襖絵に土中誕生の有様が描かれてあるのを拝見した。再びそれが見られると思うと胸が躍る。若い奥さんはかつて新聞記事になった子育て幽霊譚を示して語ってくださるのだ。 さて幽霊が飴を買って赤子を育てる「飴買い幽霊」譚は、洛東松原東大路の珍皇寺門前にも伝承されている。このあたりは六道の辻とも呼ばれる葬送の地であった。ここ鳥辺野に伝わる墓中出生譚は、六道の辻で地獄語りをする下級宗教者によって語られた。いまも盆の六道参りのときには、珍皇寺門前で幽霊飴が売られるという。 子育て幽霊譚は中国の宋代の書物にすでに見えている。幽霊が赤子に与えるのは餅や粥であるが、これも日本の類話に見られる例である。近世初頭の曹洞宗の禅僧は、これら中国種の冥婚譚を材料として子育て幽霊譚に仕立てあげた。彼らはこの説話を説いて説法布教の手段としたのである、と堤邦彦さんは説いておられる。それならばかつて水明寺でも、かの襖絵を前にして子育て幽霊譚は絵解きされたのだろうか。
真名井原 波せき地蔵堂
昔大宝年間(約一三〇〇年程以前)大地震の大津波が押し寄せたのをここで切り返したと伝えられ以後天災地変から守る霊験と子育て病気よけの妙徳も聞こえる。又、日本の原点・真名井の神へのお取次もされると云う、あらたかなお地蔵さんである。 二千五百(ふたちいほ)鎮まる神の神はかり 百(もも)の御生(みあ)れの時ぞ近づく 平成八年八月八日 本当に過去に大津波が来たのか、それとも洪水伝説なのか。「真名井神社」参照 |
資料編の索引
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