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丹波の

大原(おおばら)
京都府福知山市三和町大原


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京都府福知山市三和町大原

京都府天田郡三和町大原

大原の概要




《大原の概要》
天田郡の最も東部、土師川支流川合川上流に位置する。北方の山稜を境に何鹿郡(綾部市)と、同じく東方で船井郡と接する。国道173号が走る。川合川支流沿いに集落が散在する。
大原村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。はじめ6か村からなる河合村のうち。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」とも河合村に含まれているが、「巡察記」「旧高旧領」では6か村別々の石高を掲げ、当村は310石余。村内蛇ケ谷は何鹿郡和木村からの出戸であるという。
「巡察記」に、大原は博奕が盛んであったとブツクサ記される。今も国道173号線がすぐワキを通るが、伏見や灘への丹波杜氏・丹後杜氏が、宇治の茶つみなどの出稼者がその季節には大勢で組を作って通った、また額田村・末村(夜久野町)からの漆かきもここを宿舎として周辺の村々を回ったという。 大原神社への参詣人も多く集まって栄え、町垣内には多くの旅龍があった。産屋がある側の川岸だけでなく、向かい合う側の今人家の建ち並ぶ側も、見落とされているが川の両サイドがセットで“川原”であり、神域でもあり、周囲の農山村とはちょっと違う特殊なアジール的な地域性が古来の伝統を色濃く残していたものと思われる。
「聖域」であり世俗の権力からの「自由領域」、世俗のしがらみからの「避難所」であり「無縁所」であった丹波の山中のラスベガス、賭博ギャンブル黙認の土地、というか権力は立ち入れないとされた聖域、競馬競輪宝くじ売り公認の町、女郎屋もあったそうだが大原は別に権力からは公認はされてはいなかったが、九鬼の殿様の特別に尊崇篤かった大原社のお膝元でもあり、そうした古代からの風の感じが周囲と比べれば、特別に残っていて、権力側からはあるいは奇異な目でも見られたものかと思われる。
今も当地にカジノを復活させては…などの声もあるとか。「巡察記」でも読み直されるとよかろう、周囲の農民までがギャンブル狂となり、人が崩れ村は崩れて行く。パチンコ屋が1軒開店すると「これで青年団が1つつぶれるな」など言っていた昔を思い出すが、ギャンブルのような反社会性の強いものに、村の将来を頼らなくてはならないようなことではもう世も末ではなかろうか。
資本は本来は社会的なもので、大金持ちが生み出したものでなく、社会全体で生み出したものである。公平公正に当地などにも分配されるべきものだが、それが大金持ちや大独占大企業などに私的に盗られてしまい、当地などには回ってこない、これが戦争や紛争やテロやその他諸々の現代社会のかかえる問題の根元であろう。金持ちのみウハウハでは国亡ぶ、グローバルにすべて亡ぶ。
それでなくとも少ない自治体のゼニををこうした合法的盗人どもに気前よく追い金してやることはなかろう。

明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年川合村の大字となる。
大原は、明治22年~現在の大字。はじめ川合村、昭和30年からは三和町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《大原の人口・世帯数》 126・64


《主な社寺など》

産屋(うぶや)
産屋(大原)
「産屋」は悠久の古代から伝わる海人族の民俗慣習と思われ、記紀など「海幸彦・山幸彦」の段にも、「海辺のナギサに、鵜の羽を葺草にして産殿を造った」、「ウの羽で葺いた産屋をつくった」などの記録が残り、ウブヤをのぞくなかれの禁を破ったがゆえに、などの伝説もある。「児の死にたる産屋」だったか『枕草子』にもあったと記憶する、「いとすさまじき」だったか。
鵜の羽は安産の守り神で敦賀半島の白木(高速増殖炉がある所)では、ナギサに作られた産屋の萱葺屋根に刺したという。全国各地、太平洋の島々(ハワイ島、タヒチ、ソロモン群島、ニューカレドニア、ニュージーランドなど)では、特に海辺の村々で普遍的に広く見られた出産施設であった。病院で生むのがアタリマエとなった21世紀に、風習そのものはすでに廃絶しているが、いまなお古い形のままで当時の建物が現存しているのは、おそらく当地の当建物ただ一つだけのようで、極めて貴重なものである。幸か不幸か変化激しい文化の中心からは隔絶されたような山間であったため、神学以前からの人類史悠久の過去を今に保存してきたのかも知れない。
建物は萱葺切妻の天地根元造、博物館から出てきた推定復元された弥生~古墳時代の民家建物のような、見るからにフル~の建物で敷地9.9㎡、せいぜい江戸期末の古民家などを有り難がっているのはアホらしくなる超時代物である。しかも大正初期頃までは実際に使われていたという。出産のあるたびに作られ、終われば壊されたというから、こんなにはしっかりした建物ではなかったのかも知れない。
国道173号線沿いにあり国道からも見える。反対側に駐車場があり、地下道ができていて、国道を横切らずに、ここまで安全に来られるようになった。産屋ももっとボロッチイくたびれた屋根だったが、最近葺き替えられた様子で新しい。

新しく作られた地下道↑
国道は見通しが悪く、車のスピードが出ていて横切るのは大変にヤバイ。横断者あり、路肩歩行者ありなどの注意看板もなく、大事故がさけられそうにもない様子であった。
←少し以前までは、子供でも難儀して国道の急なノリ面を降りて行った(10年前)。
ゼニと武力ばかりをソンチョーしていては小さな村は亡び、弱い人間も亡び、みながアホになり、サルが笑うような生き物になってしまう。
ワレラのこうした長い歴史を尊重して、将来は世界の産屋を紹介する「産屋資料館」など建設されるといいかも…

産屋(大原)
産屋(大原)

川合川の川ブチに建てられている。今は川面より3~4メートルくらい高い位置である、以前はもう少し川面が高かったと思われる。
本当は海辺に建てられたのだろうが、当地は海はない。川のナギサに建てられていて、海辺に暮らしていた古い昔があったことを物語るかのように見える。
窓がないが、白木の産屋は海に面して小さな窓があるという、産婦は海に入り波で自らの身体を浄める、これを「とこよ波」と呼ぶのだそうである。これはいつ頃のハナシなのかわからないが、ワタシも一応は探してみたが、ゼニが落ちすぎたのか、もう過去は消えたのか、それらしき建物は見当たらなかった。
「常世の浪の重浪帰する」こうした所に産屋は建てられた。


 〽 我は海の子白浪の  さわぐいそべの松原に 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ。
 〽 生まれてしほに浴して 浪を子守の歌と聞き 千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり。  


←ウミガメの子のようなことか。

幽霊が出るのもこうした所だが、川端の「あの世」(常世国・黄泉国・ニライカライ)と「この世」の堺目上に立てられている。「この世」に人が生を受けるということは、「あの世」の神と深い繋がりがあり、その加護と霊を賜ることで、きわめて神秘的で神聖で大切なことと観念されていて、まさにこの場所にこそ建てられらなければならなかったと思われる。

産屋(大原)
産屋(大原)
入口の戸には魔除けのカマがぶら下がっている、内部は土間でウブスナ(産砂)と呼ばれる砂が床一面に敷かれている。縄が一本垂れ下がっている、見にくいが御幣のすぐ左に見える、これは力綱でこれにつかまってガンバル、当時は座って生んだという。後産の埋場が奥に見える。
「うぶすな」と言うのは産土とか本居とフツーは書く、推古紀に、馬子が「葛城県は元、臣の本居(うぶすな)なり」として、この県を授かりたいと述べたとあるが、ウブスナは生まれた土地のことの意味だが、さらにその元は、産屋に敷かれたまさにこの砂の意味であったのではなかろうか。
屋根だけ地面に直接置かれたよう見えるが、この姿こそがワレラのスミカの本来の形であろう。先祖はこうしたトマヤに暮らしていたと思われる、化石化した、わがなつかしき住家の姿でもある。
海の彼方の国の精霊に見守られ、その気を受けて、新しい命が誕生した。誕生や死がケガレなどと言うのはずっと後の世の観念であり、本来の「産屋」の観念とは関係はなかろう。
海の彼方の神と現地の女神と、そこから生まれた若宮、この三者が祀られる神社が近くにあったと思われるが、後世それらの神々は変形を受けたように見えて、そのままでは残っていないが、三神型式だけはかろうじて残していることが多い。
案内板がある。
大原の産屋
京都府指定有形民俗文化財
この産屋と親しく呼ばれる建物は、大原神社の対岸にあり、茅葺、切妻屋根、それをそのまま地面に伏せたような天地根元造という、古い建築形式で造られています。屋根の合わさる「妻」の方向から出入りします。古くは古事記・日本書紀にも著されており、日本の産屋の習俗として古くより使われていました。
大原では、出産の折、十二把のワラ(閏年は十三把)を持ち込み、出入口に魔除けとして古鎌を吊り、七日籠って出産していました。この習俗は大正年間まで続き、また産後三日三夜籠もる(一日一夜と変遷するも)習慣は、昭和23年ごろまで続いていました。
現在は利用されなくなりましたが、産後に身体を休めた安息の場所であろうこの産屋を、地元の方々は大切に守っています。
全国に残る数少ない産育習俗を伝える文化財として、また安産の神、大原神社の信仰の源として今の多くの人々に愛されています。
福知山市教育委員会


産屋の川向が町垣内と呼ばれる集落で、当集落の産婦は大正初期まではここでお産をした。その後、家で出産するようになってからも、産後産婦はここに移って7日間、のち3日間忌籠りする風は昭和30年頃まで続いていたそうである。
地元伝承によれば、昔大水が出た際、この場所のみが高地でもないのに水がつかず、水の引いたあと流れついた流木で建てたのに始まるとか。しかし古い姿をした建物を見ればそんなに最近のものではなかろう、そうしたことを聞いてもわかるわけがなかろうと、思われる。複数の産婦が同時に出産を迎えた場合はどうしたのか、もう一軒建てたのか、食糧は母の分はどこから、子の分はどこから供されたものか、そんなわかることを尋ねてみたい。

産屋、産小屋、産殿とか書かれ、ウブヤ、オブヤ、ニブあるいはニュウとかあるいはシラとか各地で呼ばれるというが、この建物は集落のもので、これにもいろいろバリエーションがあり、個人民家とは別個に共同体集落管理の産屋を建てた古い時代の典型であろうか、出産は共同体管理、子育ても共同体管理とするものであろう。管理というのか個人まかせにせず共同体が一体となって面倒を見るということであろう。小さな共同体は子が生まれ育ってくれないことにはすぐに亡びてしまう。(大きくても同じだが)
原始共同体はやがて解体に向かい、出産も子育ても共同体から離れて私人的な営みに変わり、民家の土間に一区画を設けて建てるようになったと思われる。そしてかつての共同体時代には神聖であった営みも、ケガレなどと遠ざけるものと考えるようにもなってくる。ユリカゴから墓場まで人は穢れている、ああアホクサの呪われた個人主義を象徴する神学でなかろうか。現在社会もこの神学に支配されていて、何事も個人責任、生まれることも育つことも学ぶことも病気になることも老いることも死ぬことも働くこともケガレであり、そもそも女であること、人間であることがケガレであり、自己責任とされている。アホクサの極みとしか言いようもないトッケンどものクソ神学であろうか。
決して犯すべからずのケガレなしの神聖な者は、あの人とゼニと原発と旧軍隊と自衛隊と米帝だけ。それを言いっちゃぁ、オシメエだが、あえて言えば、ありがたがるなど正気かと思えるようなクソばかりでなかろうか。個人としてどうであれ、社会の反動装置であろう。それよりも本当にありがたいものをありがたがることをしないと、当然ながらも、こうして自分自身もクソになってくる。
かくして「保育所落ちた。死ね!ニッポン」と産婦や子育てママに憎まれ恨まれ呪われる「ニッポン」へと急速に落ちぶれていくこととなる。子もいないのに経済成長をめざしましょう、ゼニモウケ第一です、誰がために、あの世にまでゼニは持ってはいけんぞ。金持ちにはドンドンドンドンゼニ儲けしてもらいましょう、ビンボーニンはそのおこぼれをもらいましょう。ああアホラシ、メデタイ政治屋や経済屋とそれにギモンも感じないニセ共同体員でチマタは溢れた。ゼニを喰うクソ政治屋や官僚などは別にいなくとも自由経済法則なるものに任せておけば社会はそうしたクソになっていくものである。しかしこうした「ニッポン」なるものがまともな人間社会であろうか、そもそも人間と呼べるようなリッパなものなのであろうか、持続可能なものであるのであろうか、未来などがはたしてあるものだろうか、ゼニ持ち大喜びして国亡ぶ。などと考えこまされる。こうした所で出産するのがいいとか言うのではないが、社会通念のあり方として、「保育所がうるさい」とかの現代社会と、人間社会の未来と過去をしっかり見直してみたいものである。
子供がウルサイとか祭がウルサイというのは何も大都会住民ばかりとは限らない、ワタシが住んでるようなイナカでもいた。ウルサイのは間違いなかろうが、ウルサイものはいくらでもある、強そうな所ヘはクスっとも言わないが、弱そうな付近の住民だとガーガー言う、しかも彼は教育者であった、ワシも手伝おうかいとか言うのか思えば、真剣になって彼一人が苦情を言った、どこかの町の教育界とはどんなことなのだろう。こんなモンが教えているのだから、次世代の歴史に関する知識などはさぞやリッパなことであろうと寒くなる。地域住民なしに地域作りなどできるワケもないが、その有力そうなのがこうしたことである場合がけっこうある、地域は自滅か、明日はないのか。

海辺の民が川をさかのぼり、この地に定着したものかと思われる。目前の川は由良川の支流になるが、その由良川をさかのぼった日本海側の海人なのか、あるいは瀬戸内側からやってきたものか、そのあたりが問題になるが、ワタシは瀬戸内側の海人ではなかろうかと、見ている。


大原神社


『天田郡志資料』の口絵のトップに掲載されているように、天田郡きっての名社。小さな集落にはまったく釣り合わない立派な大神社で、集落とは別に相当に広い信仰圏を持つ神社のように見える、布教する御師集団を抱えていたかと思われるが、取り上げた書は見当たらない。丹波丹後のあちこちに小さな大原神社があるが、あるいは当社のそうした布教分社なのかも知れない。
安産は言うまでもなく、万物万業、交通安全etc.etc.すべての守護神として厚く崇敬されている。5月3日の大祭には多数の参詣者でにぎわうという。
仁寿2年(852)創建、はじめ北桑田郡野々村に鎮座したが、弘安2年当地へ遷宮、応永4年、時の領主大原雅楽頭が社殿を整備し、近隣数か村に令して産土大神としたという。当社への参詣を「オバラザシ」といい、3月の「春ザシ」、9月の「秋ザシ」には遠近の参詣者でにぎわったという。
当社の下の集落を町(まち)垣内といい、門前町だが、ここより10メートルばかり高い裏山高台に鎮座。天一(てんいち)社とも称してきた。旧府社。

境内の案内板案内板
天一位 大原(おおばら) 神社
祭 神  伊奘冉尊 天照大神 月弓尊
  例 祭 五月三日(二日宵宮)神輿渡御
  恒例祭 節 分 節分祭 追儺式
    摂社火之神神社鎮火祭
 由 緒
 社伝によると第五十五代文徳天皇の御世、仁寿二年三月二十三日(八五二)北桑田郡野々村樫原(現南丹市)の地より遷座、国司大原雅楽頭社殿を造営同年九月二十八日遷宮される。 元亀大正(一五七三)の項明智日向守領主となる際、戦禍に遭遇、社殿消失するも明暦年間(一六五五~五八)に旧態に服す。現在の社殿は九鬼氏領主として綾部に封せられてより累代の庇護により寛政八年(一七九六)再建される。安政二年(一八五五)千年祭、平成十四年千百五十年祭を斎行する。
 唐破風の龍の丸彫は天保三年(一八三一)中井権次正貞の作であり、拝殿頭貫の絵様彫刻、兎毛通の鳳凰、持送りの菊の籠彫は天保八年正貞の父久須善兵衛政精中井丈五郎正忠の作である。
 矛葺の絵馬殿は丈久三年(一八六三)の再建で舞台では浄瑠璃、農村歌舞伎等が演じられた。
 昭和五十九年に本殿等、京都府指定有形文化財の指定となる。
 当社に参詣することを「大原志」(おばらざし)といい俳句の季語としても詠まれ、近松門左衛門の浄瑠璃にも採り上げられる。安産・万物生産の神として信仰を集め公卿諸侯の参拝も多く、社記に公家清水谷家、北大路家、日野大納言家、宇和島藩主伊達家等の安産祈願が記される。江戸時代には社勢を延ばすため配札所が設けられ山城地域の配札拠点として綾小路(現京都市下京区善長寺町)の大原神社が担った。
 川向にある京都府指定有形民俗丈化財「産屋」は古代の天地根元作りを模倣しており古事記の「戸無き八尋殿」を想わせる。産屋を神、先祖との連続した魂の再生の場、聖なる時空と見て、内部の砂は「子安砂」として安産の信仰対象となっている。



社伝によれば、仁寿2年(852)桑田郡樫原(かしわら)村(南丹市美山町)に鎮座したのを初めとする。現在も大野ダムに近い同地に同名の神社があり、大原ではこの社を元社といい、安永(1772~81)頃には神主が祭礼に参加したと伝える。
鎌倉時代に領主大原氏がこの社を信仰し、弘安2年(1279)にこの地に移し祀った。その後応永4年(1397)に大原雅楽頭が本殿・拝殿・舞楽殿などを造立、また近隣の村々の産土大神とするよう命じたという。
近世には綾部藩主九鬼氏の崇敬厚く、社記には寛永11年(1634)社領3石を寄進したのをはじめ、当社で百穀豊穣祈願・祈雨などを行ったこと、明暦3年(1657)九鬼降季による修造、天保11年(1840)神林に続く山林の寄進などを記す。社前を流れる川合川南岸に古くから産屋があり、現在は当社がその中の産砂を管理している。
社記には、寛政3年(1791)2月28日に、公家北大路弾正少弼の代参で「安産御守砂拝借」とあるのをはじめ、丹波国峯山藩主京極家・日野大納言・伊予国宇和島藩主夫人などの同様の砂の拝借があり、丹後国宮津藩主本庄候夫人は奉賽として御供田四畝六歩を寄進したという。

水門神社とオカマサン

参道石段↑の途中の右側に「水門(みなと)神社」↓が鎮座する。

当社は大原社よりも古くから当地に鎮座していた地元神と思われる。石段下に聖地「オカマサンの淵」↓があり、本来は水神(海の彼方の神・常世の神)を祀った社と思われる。岩には注連縄が張ってあったりなかったりする。



「丹波志」によれば、大原神社が遷座する時、天児屋根命が宮地を尋ねて、当地「水門の瀬」に来たところ、「水底ヨリ金色ノ鮭魚浮出テ申テ曰、非水底住、此山ヲ守ルコト数千年也、嶺ニ白和幣青和幣アリテ、毎時光ヲ放ツ、実ニ大神ノ鎮リ玉フヘキ霊地ナラン」と告げた。鮭は飛竜峰明神と号して末社天王社に祀っている。今もこの淵を「オカマサン」とよび、同書によると「悪事アラントテハ此淵ニ鱒魚点シ、又不浄ノコト有ンハ鮭ノ魚浮出ル事有、…今ニ至ルマテ鮭鱒ヲ食セス」などとの伝承が残る。鱒と鮭を食べないとお産に不調法しないともいい、妊婦は大正の末年頃までこの禁忌を守ったという。
水門大明神は「水門の瀬」とよばれたオカマサンの淵に現れた神の意味で、オカマサンの淵の岩には、明神が赤牛に乗って示現した時の牛の足跡というくぼみがある。本社参詣の前に、明神影向の聖地を拝するのが古い作法であったという。
この岩自体も実はすごいもので、府下最大の石灰岩のよう、質志の鍾乳洞まで繋がっているとか。この石灰岩はすぐ南の榎峠で露天掘りされていたというし、その先が質志だから、ひと繋がりの大きな岩体なのかも知れない。 質志の石灰岩は、今から約2億5千万年前に、赤道付近の海底で噴火した海底火山の上の浅い海にウミユリや紡錘虫(フズリナ類)など繁殖した珊瑚礁、その後、ゆっくりと海底プレートの移動で運ばれてきて、約1億5千万年前に日本列島にくっついた、さらにその後の地殻変動により、こんな所に顔を出した。周囲は凝灰岩みたいな岩のようである。

末社7社↓
末社7社
手前より祇園社(素盞嗚尊)、木神社(久久能廼知命)、若宮(若宮比売命)、八幡宮(誉田別命)、瘡神社(宇摩志麻遅命)、波尓山媛神社(埴山比売命)、飛瀧峯社(鮭魚化神)。

飛瀧峯社(ひろうほうしゃ)
祭神 鮭魚化神
大原大神此の地に御遷座の時此の山麓を流れる水門(みなと)の渕に鮭魚浮び出て、吾此の水底に住みて此の山を守ること数千年、此の山嶺に白和幣青和幣ありて常に光を放つ実に大神の鎮り給うべき霊地なりと申し、此の地に悪しき事あるときは鱒現れ、又不浄のことあれば鮭魚浮び出ると伝え斎き祀りて飛瀧峯明神と号す


広峰神社という牛頭天王を祀る神社が丹後丹波若狭など各地にあるが、「此の山嶺に…常に光を放つ実」と言うのは、あるいは鉱石ではなかろうか、広峰は本来は鉱山神社でなかろうかと思われるのである。

末社5社↓

左より、牛王神社(小童命)、稲荷大明神(倉稲魂大神)、大河大明神(罔象女命)、玉政権現(磐筒男神磐筒女神)、恵比須社(事代主命)。

摂社・火之神神社↓

当地周辺の鍛冶屋さんが祀ったといわれる、本来は鍜冶神のようである。


絵馬堂
境内の絵馬堂↓は舞台になっていて、昔はここで村歌舞伎をしたという。


大杉

大原の大杉、御旅所の大杉と呼ばれる。門前集落が途絶えるあたり、樹齢700年くらい、周囲8メートル。

大原大明神  古六部郷  河合村 大原ニ建
祭神伊奘冊尊  祭礼 正月廿八日 朝戸開ノ神事 三月廿三日 御遷座神事 御輿出 六月十日 初夏神事 九月廿八日 御殿造立ノ月日神事 御輿出流鏑馬二疋 西ノ方御旅所有 貳町斗当日七時也 白丁著持之
文徳帝仁寿二年三月廿三日桑田郡野々村ノ内西ノ方樫木原ニ鎮座也 于今此所ニモ神社アリ 天田郡河合村ニ斎祭ハ後宇多帝弘安二年九月廿八日ナリ 其後ニ後小松帝応永四年十月十三日造立ノコト有
本社 午未向上屋有 拝殿 三間三間 華表 天一位大原大明神ト篇セリ 舞殿三間三間 下馬札
 小野道風朝臣筆跡ト云
按先ニ北村継元書之 今于爰上ノミ天一位ト篇セシコト甚不審 社家ノ説モ不分 位階ニ正従ノ外可有ニモ非ス 日本国中大小神祇分テハ 皇祖ノ神ニ冠位を授ラレシ例多カレト不及聞事也 道風ノ筆跡非ルコト論之 道風ハ延喜ノ比ノ人ナリ 延喜以前ニ一位ヲ授ラレシ神社ハカソヘテ不知 然ハ正従ヲ訛リテ天トセシニモ非ス 一位授ケラレシ神社ノ神名帳に載ラレサルヘキニモ非ス 又八王子トハ天照大神ト素戔烏尊ノ天ノ安川ヲ隔テ誓ノ内ニ生マセン五男三女ノ神ヲ称シ申セハ伊奘冊尊ヲ斎奉ル社ナランニハ不審ノ事ナリト書タリ 今ハ額ヲ神殿ニ納置テ見ルコトナシ
当社ハ八王子ノ号ナルコト社家嫡々ノ相伝ノ神秘極秘中ノ秘ナル故縁起ニモ略之ト云
 継元按ニ和漢三才図会云伊弉諾尊天照太神ヲ合祭三座トス 春秋祭奠甚怪微ニシテ唯粢?ヲ礼トス神社啓蒙ニ?道ヲ天下ニ示スモノカト書リ 又社家ノ説ニ 鮭 -元魚+生ト書リ和名抄改之 ノ魚数千年領セリ 大神遷座ノ時天児屋根命宮地ヲ尋巡リ水門ノ瀨ニ当リ玉フ時水底ヨリ金色ノ鮭魚浮出テ申テ曰 非水底ニ住 此山ヲ守ルコト数千年也 嶺ニ白和幣青和幣アリテ毎時光ヲ放ツ実ニ大神ノ鎮リ玉フヘキ霊地ナラン 又川水清潔ニシテ不浄ヲ濯キスルコト上津瀨下津瀨ノコトク相合故ニ此所ノ河合ト云リ サレハ此地ニ悪事アラントテ此淵ニ鱒魚点シ 又不浄ノコト有ンハ鮭ノ魚浮出ル事有是自然ノ祥也 則鮭魚ハ末社ニ斎祭リテ飛龍峯明神ト号スト云々 今ニ至ルマテ鮭鱒ヲ食セスハ此故ナルヘシ 此説ヲ聞 継元按ニ天児屋根命ハ天孫瓊々杵尊天降玉セシ時天照太神高皇産霊尊ノ勅ヲ請テ太玉命ト同ク神事ヲ司リ玉ヘリ 神武天皇ノ東征ノ時ナヘモ其孫種子命坐ケリ 文徳天皇ノ此 社地ヲ尋巡リ玉フヘキニ非スマシテ文徳帝ノ比ノ勧請ノ地ハ桑田郡野々村庄ナリ 河合勧請ハ後宇多院弘安年中ナリト云リト書タリ可考 按ニ安永ノ于 今至テ毎歳野々村庄樫原村ノ社家来テ此祭事ニ預ルコト不違 午ノ時祭礼アリ 大原明神桑田郡野々村庄樫原村且天田郡河合村トモニ両社幣串ニ神秘有ト云ヘリ
人小野氏六代ノ書キ物在之 明暦年中女御ヨリ百人一首ヲ奉納シ玉フ 又古ノ御太刀在ト云
奥宮 日ノ宮大明神ト云 境内ニ薬師堂在 此所ノ釣鐘ニ六人部庄ト記セリト云
末社大概
大原町ハ社ノ西ニ在リ東西エ一町半斗西入口ニ坂有テ中低シ 西ノ入口左ニ御旅所在 本社ノ左廿間斗ニ奥院ト云フ日ノ社 巳向一間余四面 此社ノ右ニ小祠六社アリ 是本社ノ人足ノ神ト云 西向 内一社磯部大明神 俗ニ瘡ノ神ト云 本社ヨリ右ノ向ニ天王社 丑ノ方向 此天王ハ鮭魚ノ化神ニテ飛龍峰明神ト云 本社左ニ大河大明神ノ社 俗ニ是狼ノ社ト云 西向 此右ニ小祠三ツ 西向 一ツニ上屋アリ 本社ノ右御輿屋 同向ニ舞殿 拝殿 華表下馬札在 山ニ裾右ニ水門大明神 戌向 左ノ向ニ恵比須ノ社有 又水門ノ社ノ鳥居アリ 水門ノ祭神ハ天児屋根命不浄除ノ神也ト云
俗ニ大原神社ニ詣スルヲ大原指ト云習セリ水門社ヘ先ニ参リ身を清メ本社ニ向エハ掌ニ指コトク願成就スト
境内巳ノ方ヨリ戌亥ノ方エ凡百五十間未申ヨリ寅ノ方エ凡五十間
   奥院  社家   大原 和泉守
        社役人 大槻六太夫
  水門同断         浅十郎
大原ノ内畠高三石毎月御供料綾部御代々寄附 但 内貳石和泉壹石六太夫
同所御供田社ノ西町并社ヨリ奥ニ中ツコト云所又谷ト云所四ヶ所ニ在民家有
(『丹波志』)

府社、大原神社 川合村字大原鎮座
 祭神 伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大日尊、月読尊。
伝へ云、当社は、もと文徳天皇仁寿二年三月廿三日、当桑田郡(今北桑田郡)野々村に鎮座。然るに時の国司大原某当社を信仰すること篤く後宇多天皇弘安二年九月廿八日此所に遷座奉斎す。爾来百余年を経て、後小松天皇応永四年十月十三日領王大原雅楽発起寄進して本殿、拝殿、舞楽殿等整ふ、此時領主より近傍数村に令して當社を産土大神たらしめたといふ。其後元亀、天正の交大原氏亡び光秀本国を領す。当時火災にかかり社伝、社記の類悉く焼失す。九鬼氏の綾部藩を治するや明正天皇寛永十一年始めて社領高三石を寄進せらる。爾来累代崇敬特に篤く以て明治廃藩に至る。其間九鬼氏は事.大小となく必す當社に奉告せらるゝのみならず、領内に於ける百穀豊穣の祈願、旱天には祈雨等神楽な奉奏して神助を奉仰されき。後土御門天皇明應三年十二月廿三日綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理。後櫻町天皇明和四年二月六日藩主親拝、仁孝天皇天保十一年十月神林に接続せる山林を寄進せらる、今の保安林是なり。当社は安産の守護神、穀物豊熟の大神として其名漸く遠近に聞え賽者四時絶ゆることなし。
今、社紀に存する重もなるものを挙ぐれば
 安永年中、丹波園部藩主小出美濃守の代参
 寛政二年春、公家清水谷家の代参
 仝三年二月廿八日、公家北大路弾正少弼の代参安産御守砂拝借。
 仝年七月十五日、丹波國峯山浦主京極家より仝前
 仝年八月廿三日、日野大納言家より仝前
 仝十二年十二月七日、伊豫國宇和島藩主世子夫人より代参安産祈祷。
 嘉永二年二月廿六日、丹後國宮津藩主本庄侯夫人奉賽として御供田四畝六歩寄進あり。
當神社域は天田、船井、何鹿三郡の境地にして四周皆山。而して川合渓流の清冷其下を流れ、眞に山高く水清かなる幽邃境なり、藩政時代は綾部領にして同地より京街道なる船井郡檜山驛に出づる往還に當れり。現時の社殿は寛政八年十月廿三日御遷座式を挙げしものにして爾来神徳いや高く、大正十三年二月七日、府社に昇格せらる。実に我が郡唯一の名社たり。
(『天田郡志資料』)

大原神社の創建と縁起
大原神社は字大原にあり、安産の神として広く信仰を集めている。創建は『丹波志』によると仁寿二年(八五二)三月二十三日、桑田郡野々村(北桑田郡美山町字樫原)に鎮座、弘安二年(一二七九)九月二十八日に大原へ遷座、応永四年(一三九七)十月十三日に社殿が整ったとされる。
同社には、「大原神社本紀」という大原神社の縁起を書き綴ったものが五点残されている。成立年代はそのうちの一点に寛文十一年(一六七一)とあることや、他にも「寛文年中」の物は虫喰いが激しいから明治二十五年(一八九二)に書き改める、などの奥書があることから、同年代の成立であろうと思われるが、全体として非常に創作の感が強く疑問も残るので断定はできない。
「本紀」によると、大原神社が安産の神として信仰を集める所以を次のように記す。
 伊弉諾・伊奘冊尊二柱の神、天地万物の性霊を生ミなし給へは、則天下万物乃父母にしてましますゆゑに、天下太平・国土安穏・宝詐長久・五穀能成・万民農饒を守護し給ふ事、余社に勝れたまふ、天下万民を生ミなしたまふ御神なれハ、殊に以て女人乃安産を守り給ふ
とあり、伊邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、ことに婦人の安産を守る神なのである、としている。
 遷座については、
当社に斉ひ祭る水門大明神と申は、春日大明神にはましますなり、御大神乃御神託によって、天児屋根命、宮地を求めんと尋巡見たまひて、仁寿二年三月廿三日に、此天田部大原山乃麓、白波立水門の瀬に留り給ふ時に、水底より金色の鮭魚忽然と浮ひ、大明神に言て曰、吾此地を久領せり、此水底に住居て此山を守る数千載なり、嶺に白幣・青幣有て、毎時光を放つ、実に大神の鎮め賜へき霊地ならん、また此所の名大原と云
 此大神万物胚胎して生産たまふ、其神乃鎮地なるがゆゑ大腸という同訓なり また此川乃清潔は流転の不浄を濯き、亦上津瀬・下津瀬の如く逢合が故に、鮭を河合ともいへり、庶幾ハ大神爰に御鎮座ましまさは我則永く久く大神乃末社と成て仕奉らんと云々
として、天児屋根命が宮地を求めていたときに、水門の渕から金色の鮭が現れて、ここに鎮座して欲しいと頼んだというのである。また、
最初、御大神此地江御遷座の時、黄牛に乗りて御遷幸なし給ふ、此故に今に河辺の平石乃上に牛の蹄の跡あり、また当社の産子、黄牛持すといふは比謂なり、河辺と云ハ大神の山内にして、今爰を御釜といふ、(中略)又遷幸の御時、和知といふ処にて休給ふ、今其在所に大木一本あり、此木を祝て明神休木といふ、是其処に大御神休給ふといふ験なり
と、神が黄色い牛に乗ってやって来た遷座のようすを伝え、「お釜さん」に牛の蹄跡があるとしている。また、遷幸のときに和知で休憩をとったとあり、船井郡和知町大倉では、その休憩場所が今も口碑として伝承されている。
 本紀により、もう一点ふれておくと、大原神社は「天一位」という社号をもち、江戸時代には札にもそう刷り込まれていたが、天一位という号は、なにゆえの号であろうか。本紀にそれを示唆する一文がみられるので参考までにあげておくと、「一乾天の方位に御鎮座成ましまし、此謂を以て其位を尊て天一位大原大明神と社号を崇奉るものなり」とある。乾の方位とは北西の方角にあたり、その基準は平安演をさすのであろうか。陰陽五行の方位からの命名であろうことは想像に難くないところであろう。
 以上、本紀の一部をここでは取り上げた。本紀の伝承は、現在も伝えられているものも多いが、作成年代であろうとした寛文十一年(一六七一)は、後でも述べるように綾部藩九鬼氏が初めて大原神社にたいして高三石の地の寄進状を与えた年でもあることから、藩主の庇護による社格の上昇と一層の信仰を集めるためにまとめられたものではなかろうか。

九鬼氏の信仰と大原神社
 綾部に九鬼氏が所領を拝領するのはほ寛永十年(一六三三)であるが、寛文十一年(一六七一)に藩主隆孝から黒印地として高三石の社嶺が保障された。隆季の代には、菩提寺である隆歩興寺や、正暦等・綾部若宮八幡宮・了円寺・高津八幡宮などにも社領の寄進がなされたが、これらは九鬼氏の信仰と同時に領内の撫民と敬神・敬仏を兼ねていた。
 社伝によると、大原神社の社殿や古記録は、明智光秀が福知山に拠ったころに兵火に罹り消失したと伝えられ、九鬼氏によってその社殿が旧態に復したという。『天田郡志』には「明応三年(一四九四)十二月廿三日、綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理」とあるが、これは大原神社文書の中にある明応三年と年号が書かれた願文の奥書の「従五位下九鬼式部少輔隆季修造華表、同三年(以下略)」部分を抽出したものと思われ、明応三年に九鬼氏が存在するわけがないのであるからこれは明らかに誤りである。この願文は奥書の部分に追記する余白がとられ、そこに本文と同筆で書かれていることから、明応三年に書かれたものを後に写すさいに追記したか、明暦三年(一六五七)に作成したさいに年号を間違えたか、どちらかであろうかと思われる。しかし、どちらにしても寛政八年(一七九六)の社殿の再建までの間に九鬼氏の援助により社域が整備されたであろうことは十分に考えられる。
 歴代藩主の参詣も頻繁で、江戸への参勤の中途は通行路でもあるので必ずお参りし、旅の安全祈願をおこなったようである。明和四年(一七六七)九鬼隆貞の参勤にあたっては次のような対応がおこなわれた。社参の様子は、二月六日の四ツ時(午前九時半)ごろに大原村へ。まず、茶屋へお入りになって、上下一〇〇人が弁当をとる。殿様のお迎えとして大原村庄屋が、塩ケ崎(大原と台頭の境界付近)まで出向く。社参終了後、下向の節も同所までお見送りをし、川合組大庄巌は大原蔵の下(お旅杉の下辺り)まで見送る。神主の和泉と目の社祢宜六太夫は宮坂口で出迎えて、町はずれの御蔵の下まで見送る(大原神社文書)。
 藩と大原神社の関係の深さは、藩の年中行事にくみこまれた年始の挨拶にもうかがうことができ、綾部藩寺社奉行の享和年間ごろの成立と思われる「年中定式」(「藩政社寺要記」沼出家文書)によると、一月二日の五ツ半ごろ(午前九時前)神主兵庫と日社の祢宜兵太夫は藩邸へ上り、寺社奉行に挨拶し、藩主にたいしても年頭の御礼を申し上げる、とされている。
 また、綾部藩では、干ばつや飢饉、藩主や側室の病床のさいはかならずといってもよいほど代参を送り祈祷の執行を命じており、天保十年(一八三九)三月には江戸藩邸に大原神社が勧請されている。また、九鬼氏の縁故によると思われる諸大名や公家の代参も宝暦年間(一七五一~六四)ごろから社務記録には記載されはじめ、表37のように多数の代参・寄進があったことがわかる。代参の理由のわかるものはすべて安産祈願の代参で、一例をみると、寛政六年(一七九四)一月十七日「伊予宇和嶋大守伊達大膳太夫様奥方御安産御祈祷御頼、足軽両人率八方ニ一宿為致申候、御初穂銀壱枚金百疋被献候、大坂留守居頭横山勝左衛門殿ヨリ書状至来」(大原神社文書)とあり、宇和島藩伊達氏の奥方の安産祈祷のための代参が送られていろ。さらに、宇和島藩の家臣横山勝左衛門からは、五月二十日付で無事安産の報告の書状も届いており、「大膳太夫奥方妊娠ニ付、安産御祈祷御頼申候処、先頃被致出産、女子被致出生候、右之節差出候御守砂壱封御返申候間、御落手可被下侯」(西山氏所蔵文書)とあり、安産祈祷の参詣者には「守砂(もりすな)」がわたされ、出産後には返納されている。

本殿の建立
 現在の大原神社の本殿は、寛政八年(一七九六)に再建されたものである。ここでは、「社務記録」(大原神社文書)により、再建にいたる動きをみていきたい。
再建の記録は、天明四年(一七八四)の記事から始まる。「天明四辰秋ヨリ相談之上、御本社建立之願書差出候所、巳二月四日御免御座候」、天明五年(一七八五)の二月に再建の許可があり、氏子中へ再建許可の披露がなされ、二十日の晩から日待、二十一日には綾部藩川合狙七ヵ村の者一統が参詣した。三月の晦日には末社の大川社の上臣の棟上げが、若狭の大工二人によりおこなわれた。四月にはいると一日に大原村の再建の奉賀がよせられ、七貫九三五匁が集まり、六月二十日からは神主の兵庫と大原村の友八両人が、下川合村をはじめ郷中の村々へ奉賀初めに廻っている。十一月二十一日には長屋建がおこなわれており、長屋とはおそらく末社を連ねた社のことであろう。
 天明六年(一七八六)の暮れから、建立成就までの間、綾部藩から頂戴していた秋立ての運上米半分と夏立ての三斗と一斗は建立まで献上されるとあり、建立のための収入の一部となっていたことがわかる。また、七年六月十日には寄合を開き、建立の指図がされた。さらに、三月三日から十一日までかかり、材木小屋が建てられている。寛政元年(一七八九)十月六日には末社中へ、綾部藩の木戸恕庵・林理右衛門から額の奉納があった。同年八月二十八日からは、御普請大工杢三郎が十二月二十日まで取りかかるとあることから、本殿の作業の段取りにかかったのであろう。
 寛政二年(一七九〇)三月一日、思いもよらぬ事態となった。町垣内から出火し、本家も向かいの家も残らず焼失してしまうこととなったのである。仕方なく神主家では、台頭村の磯右衛門の宅を仮り住まいとして移築し、八日にこれに移っている。思わぬ火災にあったのであるが、本殿の普請の段取りは順調のようで、五月八日より大工杢三郎普請にかかる、とある。六月五日には神前の用心池と堀・橋の架けはじめがおこなわれた。
 寛政四年(一七九二〉十月六日には「地築」初めがおこなわれた。地薬は、地固め・土地の造成工事をさす。「地築」の初日には「祢込(ねりこみ)」とある。この「祢込」については、大原村のぼり・屋台、木挽より作り物、台頭より作り物、上川合より引き山、岼村より引き山、大身・加用・猪鼻からも引き山、下川合よりは「祢り物無之」、竹田三カ村からは「祢り込歌ふき」、さらに綾部から二〇〇人ばかり「祢込小供かふき」、他にも黒井や水呑、近江からものぼりや「祢り込」があったとされている。これらは、今日にまで伝わっている「練込み」のルーツにあたるものではないかと思われる。練込みの起こりがこれ以前にさかのぼれるという確証はないが、本殿の再建にあたっては大原村のみでなく、広く各地から引き山や幟、屋台が集まって、盛大に「祢り込」や歌舞伎がおこなわれた様子がうかがえる。
 翌五年(一七九三)二月末日から三日間、本殿の石場つきがおこなわれ、三月四日から上屋にかかった。本殿の建てはじめは三月十白で、二十二日までには荒建てが完了した。九月晦日には仮御殿へ遷宮し、四日までに古御殿の上屋を撤去し、古御殿は今の屋敷地へ引き、さらに十三日の夜には古御殿へ遷宮されて、十三日から二十三日までは拝殿の石場つきがおこなわれ、十一月十三日からは拝殿の上仮屋にかかった。十二月一日からは拝殿の建立がはじまり、二十日ごろには荒建が完了している。さらに寛政六年(一七九四)十一月一日には屋根の作業が完了し、八年二月十一日には神楽殿が完成した。
 寛政八年(一七九六)十月二十三日から二十五日までは、遷宮式が挙行された。遷宮式には京の吉田神社から鈴鹿播磨権守と大角勘解由の二人が参り、田辺や宮津、保津などの付近の神社からも神主が訪れて、神役を勤めている。
 天明五年の発起から本殿の落成までの入用は、表28の通りである。人足賃と材料費の内訳は不明であり、再建の支出総計も見当もつかない金額であるので「社務記録」の金額が実質の入用となるかというと不安が残るが、人足賃についてはかなり細かく記録されているので、はぼ表の通りであろう。また、収入が支出に比して極端に少ないが、とくに造営の期間には公家や各藩からの代参も多く、お供えも多かったものと思われる。また、郷中からの奉賀については記されていないが、大原村からの奉賀額をみるとかなりの額であり、他村からも建立に十分あてることができる金額が寄進されたことと思われる。

年中神事と祭礼
大原神社では「恒例之神事」とされる神事が年に四回執行されている。正月二十八日の「朝戸開之神事」、三月二十三日の「明神遷座之正日」、六月十日の「初夏之神事」、九月二十八日の「直指之最初日」がそうである。これらの神事で現在に伝わるものはなく由来も定かではないが、三月二十三日の明神遷座の日は、野々村大原神社からの遷宮の日として神事が営まれていたことがわかる。
 文政四年(一八二一)の「年内社勤」(大原神社文書)の改正によると、まず元日には鏡餅を一重ずつ、三社様へ供える。三社様とは本社と火神社、水門社であろう。飯台一つの中へ榊の薬・ウラジロなどをしき、その上に三重(餅をカ)にならべ、添物に栗・柿・昆布・きわい豆・ゴマメなどを添えてあげる。他にイワシを月の数ほどを箱に入れで献じる。節分は三社様、天道日三神、月三神へお供えを三膳ずつ、末社へも同様で御菜はそのときのものを献じ、四度の神事も同様である。三月の節分には、ヨモギ・切粉餅に桃の花を添えて献じる。五月には、笹巻き五つずつ、ヨモギ・菖蒲を添えて献じ、他に山ノ芋も供える。七月七日は常の御膳を上げ、同日は古来から土用干しをする。九月の節句は栗・黒豆をまぜ、御膳を上げる。霜月・極月朔日の「講どふ」は、勤番の者がお供えはこしらえ、御菜に大根の輸切り・干蕨・黒豆を茹でて供える。他に、お釜さんで、雑魚を三すくいしてそのうち二匹を献じ、残りはかわらけへ大根・豆・蕨・雑魚四品を入れて地頭(綾部藩主)へ献上する。講をあとで勤めた者は、翌年の正月の神事の神酒一升と御菜八抱を講中の者へ引き凝ぐ。
 大原神社に参詣することは「大原指」(オバラザシ)と呼ばれ、現在でも俳句の春の季語として使われており、未得「をしなべて人の心や大原志」(『日本大歳時記』)などとも詠まれている。とくに祭礼の当日などには参詣者も多かったようである。参詣者の増加にともない、道中に悪さをする者があらわれたために、綾部藩では次のような達をだし、その取り締まりにあたった。
 大原明神年籠之節、参詣も多く、中には酒興之者も有之哉、道橋抔少々宛荒し候趣粗相聞、不埒之事ニ候、以来ハ年籠者勿論祭礼等之節も同様之事ゆへ、行違之節万一作毛并道筋之石垣等踏荒し候者早速其村役人共之内江改置、往来可致候(三ノ宮山内家文書-京都府立総合資料館所蔵)
年未詳であるが、在来の行き違いのときに路肩の田畑や石垣、橋梁などの通行の注意をうながしたものであるが、ほろ酔い気分での参詣の状況が目に浮かぶようである。
 安政二年(一八五五)三月十日から十四までの五日間、大原神社では大原神社一千年祭が執行された。一千年祭にあたっては、木版刷りで「一千年御鎮祭御寄進帳」が作られ、広く寄進を呼びかけている。その呼びかけをうけて、上川合村でも寄進が集められ、金幣一二匁-三人・銀幣八匁-八人・本御膳六匁-一人・常夜燈四匁三分-四人・白幣三匁-三〇人・御膳三匁-五口・御洗米一匁二分-三〇口、奉賀金集めの造用を引いて、しめて二六八匁六分が集やられた。集金には各垣内ごとに世話人がおかれて、それにあたっている(土井家文書)。
 さて、一千年祭の執行にあたっては、京の吉田神社から神官が招かれた。対応はじつに丁重で、三月七日に上川合村庄屋喜平治が代表として京へ出立、九日朝に吉田へ到着し、招聘予定の神官鈴鹿陸奥と大角雅楽にそれぞれ菓子料として二朱と一分が献上された。十日に出京の予定であったが、差し支えができて翌十一日出京、面々は鈴鹿・大角、他に侍七人、下部が四人で、荷物は長持一竿、両掛二荷、笠籠二荷が運ばれ、その日は園部で宿泊。十二日は朝、大原村から年寄徳之丞と和泉守伜縫殿が桧山のとうふ屋まで出迎え、戸津川峠や大原中津戸口でもそれぞれ出迎えた。大原での饗応役は大原村・下川合村・上川合対の各庄屋が勤め、料理は綾部のさらさ屋庄兵衛・森本屋弥次兵衛が受け持った。祭礼が終了し十四日には大原村を出立、帰途についた。桧山までは、人足として郷中の村々から二、三人ずつが出され、村役人二人も同道した(土井家文書)。このような丁重な応対をみるとき、幕末にいたるまで吉田神社の権威がいかに高かったかということがうかがわれるであろう。
 一千年祭が執行された期間は、雨が降り続いたので、参拝者のお供えが少ないのではないかと心配していたが、算用尻よりも二貰匁あまりもたくさん集まったので、その費用で神輿の塗り替えがおこなわれた(土井家文書)。
米が停止するという事態となった。この事件は次のように推移した。
「綾小路出入 綾部地頭ヨリ京与力衆へ内聞願書写」(大原神社文書)によると、京陵小路からは初穂運上として二石三斗四升ずつ、毎夏秋に運上されており、たしかに元禄年中までは上納されていたが、祖父の大原和泉守が死してのち、しばらく名跡がないうちに運上米を納めないようになり、享保四年(一七一九)に養子である大原土佐守が家督をついだのち、京綾小路へ催促をしたが、一向にとりあってくれなかった。そこで、享保七年(一七二二)に吉田神社へ訴えたところ、綾小路の社務森石見が述べるところには、
  私義幼少二而家続仕候処、左様之訳合曽而存不申、併申伝候者、以前老巫女を差置、丹州大原社之午王を賦候故、初穂米をも差出候得共、当時ハ相止、私親式部御許状申請候而ヨリ、土佐父和泉へ相対ニ而相済候後、京綾小路大原社之午王を賦り申候趣、其節御本所様ニ而被仰渡候者、丹州大原社之午王を賦り候著、初穂来をも可差出筈ニ候得共、綾小路大原社之午王を賦り候者、及其儀申間敷候旨
つまり、かつては初穂米を差し出していたが、その件については石見の父式部と土佐の父和泉の間ですでに了解したことである、とした上で、綾小路の札を配っているのであるから、上納はする必要はないとして、吉田神社の曖いにより、土佐は午王に「大原本社」と札に「天一位大原大明神」と書きつ見の連署の請書を享保七年三月十五日に吉田神社に提出した。土佐の息子の兵庫は、この請書の一件を「其頃土佐若年之義、殊ニ養子ニ而家続仕間も無御座候故、心底ニ者不相叶候得共、追而再御吟味御願も得不申上、右之通ニ而無是非御請申上」と、そのころはまだ土佐も若年で家督も間もないころであったので、やむを得ず承知したのだ、としている。この曖いにより、綾小路は山城国に配札の独立権を得たのである。
 さらに寛政十一年(一七九九)大原神社にとっては寝耳に水の問題がまき起こった。吉田神社の大角勘解由から書簡で、山城国の配札差し止めを命じられたのである。配札の差し止め命令にたいして、享和元年(一八〇一)六月、大原兵庫は、綾小路からの運上も中止になり、そのうえ山域国での配札まで差し止められては、「当社衰微之基」として綾部藩寺社奉行の添状と、享保年間の一件文書もつけて、吉田神社に配札差し止め撤回の願書をもち上京した。吉田神社の神官である鈴鹿家では六月二十日、三名の連名で綾部藩寺社奉行にたいし、吉田神社では大原神社の山城国配札については差し障りはないとして、配札を許可することを認めたが、許可の書きつけの交付は京都町奉行所にうかがい出てからのことであるとしている。京都町奉行所での判断は記録にはないが、後年の史料から推察すると、大原神社の山城国への配札は再認可されたようである。「綾小路出入」にみられるように、京綾小路は吉田神社に接近し権利拡大を因ったことが、明白である。さらに文化九年(一八一二)には、大原神社が神楽の執行にさいし、山城の北山・西岡方面に寄進の勧化をしたところ、綾小路が「寄進無用之由」と触れまわるなど、綾小路は山城国の配札の権利独占を図ったことがうかがわれる。
 檀那場における配札の権利は、どのようにして所有されたのであろうか。寛政三年(一七九一)鳥羽村の神子四人の檀那場について「社務記録」には次のように記されている。「左内カ旦那ハ摂州ニ而凡三百村斗、五右衛門も同国ノ内、是ハ慶長年中樋口弥左衛門ヨリ旦所買受候由ニ申侯、理右衛門旦中ハ紅井ヨリ買候由、文平ハ曽根宇八ヨリ買候由」と、いずれも檀那場株ともいうべきものを買い請けて取得していたことがわかり、古いものは慶長年中にさかのぼるという。また、安永九年(一七八〇)からは多紀郡の善右街門が、天明二年(一七八二)からは多紀那井串村の与惣右衛門が善右衛門の口入で檀那場を得、寛政九年(一七九七)には丹後田辺平野町の菱屋徳兵衛・内藤長八が京・大坂方面の配札を願い出て預けられている。つまり、配札の権利を得るには、配札の株を買得するか、大原神社の許可を得るかのどちらかが必要であったようで、配札場をめぐっては綾小路一件のような出入りも生じたが、大原神社の信仰を底辺にまで広げる手段として大きな影響をあたえたと思われ、また慶長年間からすでに株の売却がみられるところをみると、中世後期にまでさかのぼる配札組織が編成されていた可能性もうかがえるのではなかろうか。
(『三和町史』)

大原志(おばらざし)
俗に大原神社に詣ずるを、大原指(おばらざし)といいならわし、俳句の季語(初夏)(五月)にもなっている。

狛犬に みくじをかませ 大原志
とか、絵馬堂に俳句が並べられている。当社春祭に参詣することは、かつては俳人たちにもよく知られた、たいへん賑わった初夏の行事であったという。今は連休の最中で、ゼッタイ混む、と思い、私は未だに見に行ったことがない。


だいたい以上が権威ある諸文献が、当社について語る所である。しかし、それらでは語られない重要そうな所に焦点を合わせて、ここでは少しばかり考えてみようかと思う。

大原とは。
社号の大原であるが、フツーの人はオオハラと、地元ではオオバラ、あるいはオバラと呼ぶが、それらは漢字をそう読んだということで、本来の意味ではなかろうと思われる。
元の鎮座地の北桑田郡美山町の樫原(かしわら)をまた大原と表記したものと思われる。大はカとかクとか読まれる、シがないがそれは佳字(好字)二字の原則で省いた、大原と書いてカシワラと本来は読んだと思われる。(彼の地で創建当時は野々村荘内であった、ノノというのは、ノーノーと唱えるように聞こえる呪者や神仏従者のこと、その他一般に月日や神様とか父母などありがたいもののことで、当社のことかは不明)。
大原とはカシハラ、クシフル、フクチのことで、福知山城地にも大原神社があったというのは、福知山とも大原とも表記していたということかも知れない。今は堀の一宮に移されているが、この社も当社グループの分社という。フクチヤマの名を残したのは光秀ではなく、意外にも、この氏族であったのかも知れない。樫原の大原神社は考徳天皇の時代と言うから、和泉式部とも年代的にはあう、当社よりも早く福知山には鎮座していたのかも知れない。
純な日本語では読めないので、たぶん渡来系半分の人達によるものではなかろうか。

天一社とは。
右のように大きな案内看板が国道173号線沿いに立てられている。天一というのはフツーはこのように神階のことだと理解されているが、天一位とか天二位とかの神階は実際には存在しない。だから正一位とか従一位とかよりさらに高い神階なのだ、と言われる。天一位は公式には存在するものでなく、天一の誠の意味を誤解して勝手に私称したものではなかろうかと思われる。
←福知山市奥野部の御土路神社の扁額。
天一とする社は各地にけっこう見られ、舞鶴の名神大社・大川神社も、天一大川五社大明神(旧語集)、楼門ノ額二天一位大河大明神ト書ス(宮津府志)としている。
伴信友『神名帳考証』、吉田東伍『地名辞書』では、鈴鹿郡式内社・天一鍬田神社の天一とは天目一箇命であろうかと推定している。
この推測は当たっていると思われる。天一とは祭神で、天目一箇神のことであり、当社も本来は一つ目の鍜冶神を祀る社であったと推測される。この神を祖とする氏族はあちこちに相当にある、一体どの氏族の開発になるものかはいまのところはつかみようがない。
強力な布教陣を敷いているのでナミの鍜冶氏族とは考えられない、神祇を得意とする氏族、元は桑田郡に鎮座していたから、天一鍬田神社と同様にあるいは伊勢忌部氏かも知れない。大江町の元伊勢(外宮)さんにも大和忌部氏の祖・太玉命を祀っていて、強力な布教団を抱える、伊勢神宮と関係ありそうな神社は忌部氏が関わっているようにも思われる。

鬼は内
当社節分祭では「鬼は内、福は外」と唱えて豆がまかれる。

ウソではない。
鬼は内の節分祭

フツーとは逆に唱える。世の中には逆の場合もあるのである。フツーだけしか世の中にはないなどとは考えてはならない。ハンパでない、こんな大神社が冗談でなく「鬼は内、福は外」である、当社境内が鬼の特区であることが宣言される、フツー世間の常識は通用しないアジール領域になるのであろうか、「駆け込み寺」の大きなヤツだったものか。ヘラヘラと権力にすり寄るだけでは必要性はなく未来はない、これくらいの根性を断固貫かないと神社といえども時の流れの中に消えていくことだろう。
当社の性格を考える上できわめて重要な民俗慣習と思われるが、オーソリティー筋では誰もこの風を紹介することすらもしない。外へ追いやられるそのものだから、取り上げることすらできないものか。
何事にもそれなりに理由あってのことと考えれば、当社は本当はオニを祀る、オニの神社でなかろうかと思われる。
地方の神社はほとんどそうで、オニと関係のない地方の大社などはなさそうに見える。オニと言うのは中央の支配者から見てのハナシである、当社では目一つのオニ、鍜冶神を祀っているのではなかろうかと思われる。鉱山があったのではないかと推測するが、そのような記録は見られない。天正年間頃には川合谷の惣村は断絶寸前であったというから、これ以前の記録なども多くが失われたのかも知れない。しかし記録はなくとも、こうした神社があるからには、あったはず、今後の調査次第かも知れない。

木神社

境内の末社に「木神社」があり、久久能廼知命を祀っている。
この社はたぶん紀氏を祀るものではなかろうか。「木」とも書くが「紀」のことであろうかと思われる。
当地には紀氏の子孫だとする細見氏だとか、野々村庄では、大和守藤原朝臣・筑後守紀朝臣連署で、「聴松院領丹波国野々村庄 川上滝□井 下限河合落合」の殺生を禁じた木札があるという。文亀3年(1503)のことで、その当時までは藤原氏と紀氏は当地一帯の支配者であったと思われる。藤原氏は春日神社で祀られているが、紀氏の神社が梅田神社と当社ではなかろうか。



春季例大祭の様子
以前は4月23日だったそうだが、今は5月3日に催される。たいへんに有名なのが「練り込み行列」である。しばらく途絶えていたが、平成6年の大祭に保存会により復活し、その後5~10年くらいおきに催されるそう。2018年は5年ぶり。


地区内の小中学生はゼロだそうだから、少子高齢化とかなどは天国のハナシである、当地は零子高齢化集落、限界集落を越えた“断絶目前集落”、いよいよ最後の最後の最後“壊滅カウントダウン集落”。当地だけではない、いくつもの数知れぬ日本の古来の集落が同様の危機を迎え、すでに壊滅した所も数多く、これから消滅する所はさらに多い、外からの攻撃で潰れたのではなく、日本内部からの攻撃である、こんにちの日本社会のあり方の根幹に致命的な大問題があることを告げている。ごく一部の地だけが栄えてもそれはやがて立ちゆかなくなる、すべてが何とかやっていける、生き残れる、全体としてそうでないと全体は生き残れない、当地も全体の一部である。日本社会の亡びの前兆であろう。貪欲で知性を失ったなキチガイ蛸が自分の足を食う、全部食う、それが成長だと思ってである、そうして自ら亡びてしまう。
日本の政治屋さんや行政屋さんや学問屋さんだけが問題なのではない、国民の一人ひとりが変えていかねば解決はなかろう。変えなければ日本は自ら終了する。
その有史来の大危機のなかで行列を盛り上げる子供達↑(「小奴」本来は8名の先頭の2名だけのよう)はすべて小さな“外人部隊”、エルサレムを救えの“少年少女クルセーダー”。ありがとね。どうか御身たちのうえに神々の御加護の多からんことを…
祭礼の最後を飾る「練り込み行列」は1時過ぎくらいに石段下か郵便局前あたりにいると見学できる。本来は祭礼が終わりお迎えした神様を、元の場所までお送りするための行列と思われる。



曹洞宗慈眼山法釈寺
法釈寺(大原)

慈現山 法釈寺  河合村大原
曹洞宗船井郡胡麻村  末寺
(『丹波志』)

慈眼山 法釈寺 (曹洞宗)  同村字大原小字谷
 本尊  聖観世音菩薩  開山 龍察大和尚
 創建 正保元年 弘化四年四月三日伽藍焼失、嘉永三年再建
(丹波志) 境内に薬師堂あり、此薬師如来は丈三尺一寸二分、俗に伝ふ、淳和天皇天長諸国疫病流行の際此薬師の霊験あらたかなり。蓋し此は曾て役ノ小角三刀三礼にて全国に十二体の薬師を配置せし一なりと云ふ。此薬師を迎へしにより、古は迎へ村といひしを、大原神社勤請以来今の村名に改めしと云ふ。もと大原神社境内にありしを明治十四年此境内に移安せりといふ。
 著者幼時父に従ひて大原に居りし時には薬師堂ありき。
檀家 百十戸  ◎天田郡四国七十二番 山を越え谷を巡りて行く末はとうとうこゝに大原の里
行事 大体常楽寺に同じ。

(丹波志)大中山延明寺址菟原村友淵にあり、民家より東山の七分許の所に在り、又同所に円明山といへる草菴ありしと云ふ ◎薬師堂、菟原村字高杉にあり、本尊伝教大師作、足指六つ、座像にして、日本三体の一といふ。 ◎ゴウドの森不動、菟原村字菟原中にあり、小き瀧あり、 ◎鹿倉山太平寺菟原下に在り古は近傍に五ヶ寺ありて何れも天台宗なりきと、又稲葉候の時廃寺となれりと、 ◎白泉山の旧址は本寺より五丁許東にありきと云、◎薬師堂、梅田神社境内にあり、古鹿倉山太平寺境内にありしを同寺退転の際此に移せりと云。◎小谷山昌業寺址上川合にあり、◎瑠璃山仏光寺址加用にあり、
(『天田郡志資料』)

慈眼山法釈寺
法釈寺は、大原小字谷に所在する曹洞宗の寺院である。『丹波志』には、「慈眼山法釈寺、曹洞宗、船井郡胡麻村 末寺」とされ、『丹波誌』には「本尊聖観音、開山龍札和尚、創建正保元寅年、弘化四年焼失、嘉永三年再建」とある。「寺院明細帳」にも、「本尊聖観音菩薩、弘化四年未年焼失致、什物等一切焼減セリ」とあり、現在の建物は嘉永三年のものであろう。
境内には薬師堂があり、『丹波誌』には、「薬師堂本尊三尺一寸二分、淳和天皇即位四年(天長甲辰)、、諸国疫病流行ス。役ノ行者之ヲ鎮メントテ、三刀三礼の式ヲ以テ、日本国中二十二体の薬師像ヲ彫刻配置シタリ、此レ其ノ一ト云フ。此ノ地ノ旧名ヲ迎へ村ト呼べルハ村民挙リテ之ヲ迎ヘタレバナリ」と、俗伝が記されている。「寺院明細帳」にも「薬師堂、本尊薬師如来」とあり、「大原神社境内から明治十四年法釈寺境内に移安した」と『丹波誌』『天田郡志』ともに述べている。「迎へ村」の名は、大原神社勧請以来、大原村と村名を改めたという。
正保二年(一六四五)「大原村法釈寺寺号遺ス記」(龍沢寺文書)から略述すると、「大原村には八百年も前から七番の薬師堂があり、大鐘があり、八百年前に野々村から明神が飛来してこの薬師の山に住せよとの神託があった。薬師堂を西へよせて、旧跡について社を構え、大原大明神と尊崇し 小宮は一四五ある。神主もあり、唯一神道を唱えていたので寺院ではない。それがこのたびの御触によって草庵を建てる。寺号はなかったが、当所に注釈寺という号があったのでこれを用い、正保二年三月に存甫を住持として遣わす。当山の二世孤峰大禅師を開山として尊牌をたて、宮ノ内・町・谷・中津谷を檀那とする」とある。平成四年には参道の橋、山門の壁などが修理された。
(『三和町史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


大原の主な歴史記録



『綾部市史・資料編』「巡察記」
大原村 土性台頭村ニ同シ 田方十町八段十五
歩畑方二十四町一段八畝半 高三百十石一斗
家数百十七軒人別五百十九人牛七十六疋アリ
当村ノ百姓ハ其ノ業全ク台頭村ニ同クシテ金銭
ヲ取リ入ルルコトハ常ニ台頭村ノ三倍ニ及フコト有
リ 然レドモ人気ノ甚夕悪シキ村ニテ博突盛ン
ニ行ハレ他国ノ騙局モ恒ニ入リ込居リテ近隣諸
邑ノ良民ヲ鈎距シ挑撥シテ金銭ヲ矢ハシム悪ム
ベキノ風俗アリ 此等ノ処置ハ刑官ノ事ニテ此
ヲ禁スルコト難キニ非ズ 唯タ此ノ近辺村々ハ上
ニ説タル如ク実漆ヲ植ルニ甚夕応合スル土地ナ
ルヲ以テ泉原法ヲ行ヒテ後年ノ計リヲ為サント
欲スレドモ此ノ村ノ人心賭気ノミ強ク眼前ニ人
ノ銭ヲ唯夕取リニセンコトヲ心掛居ガ故ニ仮令ハ
銭ハアリト雖ドモ近隣ノ貧窮トル加用村ノ如ク
ニハ積ミ立ルコト能ハザルベシ 来月上旬諸郷村
々ノ積立帳上覧ニ人ラバ窃ニ此ヲ試ミ給テ富村
ノ大原若シ貧村ノ加用ヨリ少キカ如キハ大原村
庄屋ノ奸人タルコトヲ御察シ給フベシ 人々天命
ノ賦与スル本性ナルモ有リテ明徳ヲ明ニスルト
暗ストパ絶テ隠スベカラザル者ナリ 安楽島ニ
命ジ教化ヲ以テ其ノ誤リヲ救ハセ給フベシ 是
レ仁事ノ最タル者ナリ


『丹波の話』(礒貝勇・昭和31)
産小屋
 ウガヤフキアエズノミコトの御名は、産小屋の完成を待たす御誕生になられたとうとい命の御名であることは知る人も多かろう。
 わが国の古俗では、血の忌み、特に産穢(アカブジョウ)を深くおそれ、出産のため産屋を作りそこで出産し、その後の幾日かを、他の家族と火を別にして生活したことは、種々の伝承から立証することが出来る。
 天田郡川合村大原では、今も産婦は出産後すぐウブゴヤに移って、其処で幾日かの生活をして過す風習が残っているのは著名なことである。このウブゴヤは天地根元作りの原始的な藁ぷきの仮小屋で、今では出産後との共同の小屋に移るというが、本来は出産をこの小屋で行ったものであろうし、古くは出産のためにかかる小屋をその都度設けた筈である。
 こうした風習は一見珍らしそうであるが、決して珍らしいものではなく、今でもタヤとか、ウプヤとか称して、血の不浄に対して火を別にする例は全国に多い。綾部などでも近い頃まで産の時は畳をあげて行うという簡易な略式手段を採用したことは一般であったらしい。何鹿郡小畑村などでも女の月忌みの時、土間に筵をしいて食事をとったものだと聞いたことがある。
又上記の川合村では月忌みの際ヒガエと称して、火を別にしている例がある。何鹿郡中筋村高津では、台所の一隅に別火を行うための一区画があり、その時に使用するため什器を用意している家もあると聞いた。
 イミの習俗を作りあげた根本の物の考え方は、わが民族の固有信仰の問題につながる重要なテーマであって、単なる物好きの詮索に終るべきものではないことは確かである。   (一九五○・七).


『福知山市史』
大原神社(元府社)
 古い記録ほど付会のところが少ないと思うので、例によって「丹波志」の記録に基づいて概説し、その後の変遷について注記することとする。
 大原大明神は古来の六人部郷の河合村(後川合村と書く。現三和町)字大原に鎮座する。丹波志が書かれたころの祭神は伊奘冊尊、祭礼は一月二十八日で、その朝戸開きの神事が行われた。三月二十三日には神輿が出て御遷座神事が行われた。
 六月十日が初夏の神事、九月二十八日は御殿造立(実は神社創祀の紀念日)の神事で御輿が出、馬二匹で流鏑馬が催された。御旅所は社の西の方二丁(約二百メートル)ばかりのところにあり、当日は七時に白丁(白布の狩衣を着た仕丁)が神輿をかついで御霊を遷座した。
 近年は五月三日に大祭を行っている。明治・大正のころは秋祭りもあったようであるが、現在は執行していない。
 文徳天皇の仁寿二年(八五二)三月二十三日、桑田郡野々村庄の樫木原(かたぎはら)村(現在美山町樫原)に鎮座した。現在樫原に同名の神社があり、大原ではそこを「元社(もとやしろ)」といっている。安永のころには毎年樫原村の社家(神主)が来てこの祭に参与したとあるが、現在はそのことは行われていない。天田郡川合村大原に移ったのは後の鎌倉時代の弘安二年(一二七九)九月二十八日であり、その後室町初期の応永四年(一三九七)十月十三日に社殿が造立された。境内の建物には本社(上屋付)と、拝殿(二間に三間)、舞殿(三間に五間)、華表(鳥居)、下乗札も立てられていた。鳥居には「天一位大原大明神」という篇額が上っていたとあるが、現在の額には「天一位」は省かれている。そしてその元のものと思われるものが拝殿の内側に、またそれを写して金文字にしたものが、境内の絵馬堂に掲げられており、やはり「天一位大原大明神」と、顔真卿流に似た肉太の字で書かれている。鳥居に掲げられていた額の字は、書道の三筆とうたわれた小野道風の筆蹟であると言っているが、これについては「丹波志」の著者古川氏は次のように述べている。
  先に北村継元が『太邇波記』に、「鳥居の額が小野道風の筆になるといわれているが、上に〔天一位〕と書いているのははなはだ不審である。社家の説明も明確ではない。そもそも位階には正従の外あるはずがなく、日本国中大小の神祇で、とくに皇祖の神に冠位を授けられた例は多いが、天一位というのは聞いたことがない。またこの額の字は道風の筆蹟ではない。道風は延喜年間(九○一~九二二)の人である。延喜以前に一位を授けられた神社は数えればわかるはずである。従って正従を訛って天(原文)としたものでもない。一位を授けられた神社が〔延喜式〕の神名帳に載っていないはずはない。また八王子とは天照大神と素戔嗚尊が、天の安川をへだてて誓われて産まれた五男三女の神をさすのであるから、伊奘冊尊を斎きまつる神社には不可解なことである」と述べている。
 今(安永のころ)は、額を神殿の中に納めてしまって見ることが出来ない。当社を八王寺と号することは、社家代々相伝の神秘であって、極秘中の秘であるから、神社の縁起にもこのことは省略しているのであるという。
 継元が調べたところ、「和漢三才図会」には、当社の祭神は伊奘冊尊の外に伊弉諾尊と天照大神を合わせて祭って三座とし、春秋の祭典がはなはだ軽微(簡素)であり、ただ粢?(米の餅と白米)を供えるだけである。そのことについて神社啓蒙(向井宗因著、寛文七年成、全国数百社の縁起や行事の解説)に謙遜の徳を天下に示すものかと書いている。(以上丹波志)一方「天田郡志資料」には当社の祭神を伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大日ヒルメ貴尊、月読尊とあり、現在同社では祭神を天照大神と伊奘冊命と月読尊外の三神としている。

「鮭・鱒の話」
 やはり丹波志の文であるが、大原神社の記述のうち、社家の説として次のようなことがある。
 この山に鮭が数千年住んでいる。伊奘冊命を遷座する時、天児屋根命が宮地を探し廻り、水門の瀬をみつけた時、水底から金色の鮭が浮き出て来て申すには、「私は水底には住まず(原文判読)、この山を守ること数千年である。嶺に白和幣、青和幣(ともに神に供える麻布)があって、いつも光を放っており、この山こそ大神の鎮まりたもうにふさわしい霊地であろう。また川水は清冽であって不浄を濯ぐのによく、上つ瀬下つ瀬のごとく相合しているので、この地を河合(川合)と呼んでいるのである」と、だからこの地に悪事が予感されるときは、この淵に鱒がちらちら上って来、不浄の事がある前には鮭が浮いて出るのであろう。これが自然の祥(兆)である。そうしたことから当社では鮭を末社に斎き祭ってあって、飛竜峯明神と呼んでいるのがそれである。いま(安永)に至るまで、この地で鮭や鱒を食べないのはこのためであらう。
 注 上記水門(みなと)というのは、大原神社の真下の川岸に、石灰岩の断崖があり、その下に、川の浸食による洞穴があって、里人はこれを「オカマ」と呼んでいる。この穴は山をつき抜けて、船井郡瑞穂町の質志の鍾乳洞へ通ずるともいう。こういう神秘的な奇観を呈するところには、人々はいろいろの話をつくり、それが増幅されて伝説化していくのである。
 昭和の初めごろには、質志の鍾乳洞へ鶏を入れたところ大原神社の下へ出たという話も残っていた。それはともかくとして「オカマ」の下は真青な淵をなしており、ここを神聖な水門と呼んでいるので、ここにも民俗学者のいう穴に対する表現困難な微妙なマヂックを見ることが出来る。
 茂正は社家の説に続けて次のように記述している。
 継元(注、北村継元・大邇波記の著者)が、さきの金色の鮭が天児屋根尊に、伊奘冊尊の神鎮まります霊地を教えたという話を聞いて考えたことは、天児屋根尊は天孫瓊々杵尊尊が降臨されるとき、天照大神や高御産日尊の勅を請けて、太玉尊とともに神事をつかさどられたことがあるし、神武天皇御東征の時も、その孫種子尊が随従されたのであった。してみると文徳天皇の時に大原神社の社地を選定されたというのは解し兼ねる。もしそうだとしても、最初勧請されたところは、桑田郡野々村庄(現美和町)であり、川合村に勧請されたのは後宇多天皇の弘安年中のことであって、まだまだ検討の余地があるというのであった。とにかく現に今(安永のころ)、この大原神社の祭りには野々村庄樫原村の大原神社の神主が来て、式典に奉仕するのである。ちなみに祭礼は正午ごろに行われた。なお大原神社では、当社でも元社でも双方の社の幣串に何か神秘なことがあるといっている
 人は川合の大原神社には、小野氏(道風か)第六代の人の書物(筆蹟)が蔵せられているとか、明暦年中(一六五五~一六五七)に宮中の女御(中宮の次)より百人一首が奉納されたとか、古太刀があるなどとも言ている。同社の奥の宮は日ノ宮大明神といった。境内に薬師堂がありそこの釣鐘に「六人部庄」と記してあるという。

 大原神社の末社
当社の末社についてはそれぞれの細かい位置のことは省略して、一~二特色あるものについて述べると、その中の磯部大明神は瘡の神とある。俗に疱瘡(天然痘、転じてできものの神)といっている。本社の右に天王社というのが前述の飛竜明神(前には飛竜峯明神とある)であり、左に大河大明神があり俗に狼の神という。水門大明神は、天児屋根尊を祭るといい、本社に参けいする前に必ずこの宮に参拝するならわしである。俗に大原神社に参拝することを「大原指(おいばらざし)」という。今でも神主の話の中に、春指、秋指という言葉が出る。その意味は水門社に先に参り身を清めてから本社に参拝する。すると掌にさすごとく(原文)願いごとが成就するというので、指(そし)というのである。大原神社は毎月の御供料として、米三石が綾部藩主より認められ、内二石は神官大原和泉守分、一石が社役人大槻六大夫分であった。現在も御供田という地名がある。

  同神社崇拝の歴史
以上おおむね「丹波志」に基づいて、述べたのであるが、昭和の初めの「天田郡志資料」によると、「後小松天皇応永四年の社殿造営については、当時の領主大原雅楽頭発起寄進して本殿、拝殿、舞楽殿等整ふ。此時領主より近傍数村に令して、当村の産土(うぶすな)大神たらしめたという。その後元亀、天正の交大原氏滅び光秀本国を領す。当時火災にかかり社殿、社記の類悉く焼失す」寛永十年(一六三三)、「九鬼氏の綾部藩を治するや明正天皇寛永十一年(注、一六三四)始めて社領三石を寄進せらる。その間九鬼氏は事大小となく必ず当社に奉告せらるるのみならず、領内における百穀豊穣の祈願、旱天には祈雨等神楽を奉奏して神助を奉仰され、後土御門天皇明応三年(皇紀略、後西天皇、明暦三年〔一六五七〕の誤りであろう)十二月廿三日綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理。後桜町天皇明和四年(一七六七)十一月六日の藩主親拝。仁孝天皇天保十一年(一八四○)十月神林に接続せる山林を寄進せらる。今の保安林是なり。当社は安産の守護神、穀物豊熟の大神としてその名漸く遠近に聞え奏者四時絶ゆることなし」とある。(原文皇紀は西紀に訂正)
次に社記に存する丹波内外の公卿、諸大名などの崇敬の記録を列挙してある。

安永年中       丹波園部藩主小出美濃守の代参
寛政二年春      公家清水谷家の代参
同 三年二月廿八日  公家北大路弾正少弼の代参安産御守砂拝借
同 年七月十五日   丹波国峯山藩主京極家より同前
同 年八月廿三日   日野大納言家より同前
同 十二年十二月七日 伊予国宇和島藩主世子夫人より代参安産祈祷
嘉永二年二月廿六日  丹後国宮津藩主本庄侯夫人奉賽として御供田四畝六歩寄進あり
当社の社殿は近郡にもまれな規模壮大なもので、寛政八年の建築であるが、第二次大戦後大修理が行われた。
この神社には民俗学的に興味がある伝説・俗説・付会の説・慣習などが多く、なお祭神を安産の神とするのは、その社名の発音に由来するものであろうし、末社大川神社を狼の神となすのも「オオカワ」から「オオカミ」に転じた可能性が多い。こういうことは、付近におおかみがいた昔、庶民の知識が一般に低かった時代に立ちかえって、素朴な信仰を想定する必要がある。

「産屋のこと」
字大原の人は古来子を産む時には、神域付近が汚れるとして、大原川の向こう河原付近に作られた「産屋」でお産をした。産屋はぶ厚い草ぶきの屋根で柱はなく、原始的ないわゆる天地根元造りといわれるものであって、広さは二間(約三・六三メートル)に一間(約一・八二メートル)位で中は土間になっており、出入口は幅三尺(約九○センチ)ばかりのものが一ケ所あるのみで、そこでこもやわらを敷いてお産をした。昭和二十五年ごろには、産婦がお産をする時に、きばるためにつかまる太い藁縄(きばり縄)が産屋のほぼ中央に屋根からぶら下がって残されており、また、その小屋の脇に電柱が建っていて産屋の中に電燈がつくように設備されていた。この産屋が使われなくなってすでに久しいが、大正の初期までは、全村の誰もがここで生まれたものであるといわれている。
昭和三十一年綾部高校の磯貝勇氏が出版された「丹波の話」に大原の産屋(同氏は産小屋と称す)についての研究が載せられている。それによると、「わが国の古俗では、血を忌み、特に産穢(アカフジョウ)を深くおそれ、出産のため産屋を作りそこで出産し、その後幾日かを他の家族と火を別にして生活した…天田郡川合村大原では、今も産婦は出産後すぐウブゴヤに移って、そこで幾日かの生活をして過す風習が残っているのは著名なことである。このウブゴヤは天地根元作りの原始的な藁ぶき仮小屋で、今では出産後この共同小屋に移るというが、本来は出産をこの小屋で行ったものであろうし、古くは出産のためにかかる小屋をその都度設けたはずである。
 こうした風習は一見珍しそうであるが、決して珍しいものではなく、今でもタヤとか、ウブヤとか称して、血の不浄に対して火を別にする例は全国に多い。綾部などでも近いころまで、お産の時は畳をあげて行うという簡易な略式手段を採用したことは一般であったらしい」と記してある。福知山辺では、農村部の老婦は、昔はそういうことがあったと聞いているが、それは百年も昔のことであろう。お産はむしろめでたいことと思っているという返事が多い。ともかくイミ(忌)の問題は、民俗固有の信仰なども加わっており、古代人の思考の残象でもあるので深く考えて見る必要があろう。


『丹後半島の旅』(澤潔)
さて、かかる産屋のあとは、丹後半島には残っていないものであろうか。いやきっと残っているはずである。そうすれば、丹後海人族と南方とのつながりが生まれてくると考え、種々探訪の結果、ようやく丹後にも産屋のあったことがわかり、わが意をえたりとうれしくなった。
 それは、与謝郡筒川村(現、伊根町)や丹後町岩木で、老婆から聞いて確かめた話である。それによると、伊根でも岩木でも、つい最近まで屋外に特設の産屋は作らないが、母屋の土間に藁を敷き、周りを垂れ延や屏風で囲ってお産をする風習があったのである。
また、丹後地方史家、今沢美喜雄氏によると、宮津市江尻、同難波野、同中野の小字名にも、それぞれ、生屋(おぶや)ケ谷、生産屋(おぶや)ケ谷、生家(おぶや)ケ谷があるというが、これらの谷口も宮津湾沿岸流によって形成された古代の渚の砂地に産屋のあったことを示す地名ではなかろうか。
 また、最近読んだ本に、『宗教以前』(NHKブックス)があって、この本にも次のようにのべている。
 冬には雪が二メートルも積るという京都府竹野郡のある山村で、いろいろ昔のことを話してくれたお婆さんが、嫁入りして一年はどした初産のとき、それはまだ二十才にもならない明治の末年のころであったが、生や馬のようにひとりだけ土間に寝起きして、姑が別につくってくれた食事をするのは、まことに遣る瀬ない、淋しいことであった。女に生まれた業の深さが身にしみた。
また、どの本であったか忘れたが、瀬川清子さんは、「加佐郡東大浦村(現、舞鶴市)の部落では、明治初年まで村外れに産小屋があって、産婦は七十五日そこに過したが、狐狸の類が好んで近寄り、産小屋をおそったので、夜伽の人がサンヤ(産屋)の火を怠らず焚いた」ともいっている。これによると、大浦村では産屋は村外れにあったことになる。
 また、内陸部では、岐阜県飛騨地方や愛知県北設楽郡、京都府天田都などにも屋外に産屋がみられる。天田郡三和町大原の町垣内に残っている産屋は、由良川を遡った海人族の遺風とみるべきであろうか。前書によれば、三和町の場合、
 産屋は集落の横を流れる由良川の支流土師川に面した水田の中にあって、内部は三疊敷ほどの土間をもった藁葺きの小屋である。妊婦は陣痛が始まると、夫が必ず先導して、この小屋に移す。この時は、いつも渡っている橋を渡らないで、臨時に梯子に板などを渡した仮橋をかけ、土間には藁を月の数の十二束、閏年には十三束敷きつめ、入日には魔除けの鎌を下げるという細かい気の配りようである。
 この風習は明治の末まで続いたが、その後もお産だけは家ですませるが、産婦はすぐ赤ん坊をつれてすぐここに移り七日間、のちには三日程過した。そしてこの風習は、第二次世界大戦直後まで続いた。
ということである。


『宗教以前』
女人の罪障
赤不浄白不浄
中世には「諸社禁忌」とか「物忌令(服忌令)」とよぶものがつくられ、触穢といって穢れにふれたものが社頭に参入するのを遠慮する期間とか、穢れを解除するための作法などが神社ごとに定められるようになったが、たいていは死穢・血穢・産穢の三者を忌むべきもっとも大きな穢れとしている。そして死穢を黒不浄とよぶのに対して、血穢は一般的な外傷だけでなく、とくに女性の月々の生理をさして赤不浄とよび、産穢は白不浄とよばれ、神道と深く結びついた僧侶たちによって、女性は赤・白の不浄をもつことで罪障深く、穢れたもの、救われがたいものと説かれた。
 しかし、先に死穢について指摘したことは、この血穢・産穢についても同様にみとめられる。
 たとえば、昔は男のツワリということがあった。アイボ(相棒)のツワリとかトモヤミ(共病)・クセヤミ(癖病)とよぶのがそれで、妻が妊娠すると夫まで身体が変調になり、妊娠とおなじように冷汗をかいて弱りこんだり、吐き気まで催す人もあった。ツワリは妊婦初期の生理現象で、女性にしかないはずのものである。それが男にも現われるというのは、心理的な原因、したがって潜在的な信仰によるという以外にないだろう。また、お産を穢れとして夫は七夜まで産室に入るのを避けるふうさえあるのに、一方では夫が妻のお産を手伝うところもあり、一度手助けするとクセになり、その後も夫がいないと安産できないともいう。
 それに妻が産気づくとまじないに夫のフンドシを妻の頭にかぶせたり、夫が鍬や臼をかついで家の周囲を三度まわるというところもあるし、アトザン (胞衣)がなかなかおりないときは、夫がフルイ (篩)を頭にかぶり、片足に草履、片足に下駄をはいて屋根にのぼり、産婦のいる部屋の上から「オリタカ、オリタカ」とさけび、下から「オリタ、オリタ」と大声で返事するとよいというところもある。屋根の上でさけぶというのは、先に紹介したタマヨバイに通じるものがある。タマヨバイは肉体から遊離してあの世に行こうとする霊魂をよびもどそうとするものである。これに対してアトザンのおりないときにするのは、新しい霊魂があの世からこの世へ無事に現われるよう、妻の霊魂をしっかり身体にとどめるためと解せられるが、ともかく、男のツワリといい、妻のお産に夫も立会って、いろいろのまじないをするというのは、お産を妻だけにまかせないで夫もなんらかの形で関与し、そうしないと無事によい子が授からないという素朴な連帯感が、一種の信仰的なものと重なった習俗といえる。したがって、これらは月のものやお産を穢れとする思想とは無縁のものであり、出産をめぐる習俗にも、穢れの思想では解釈できないものが多く含まれているのである。
 そればかりか、かつて根強く存在した血穢や産穢を忌む習俗も、その実態はけっして単純なものではなかった。たとえば、以前は赤不浄や白不浄でも火が穢れるといって火替えをしたし、別火のふうも一般的であった。別火とは家の火が穢れないよう、忌みのかかった女性が家族とおなじものを食べず、別に煮炊きしたものを食べることで、臨時のカマドを土間のすみにつくったり、家から離れた小屋に寝起きして自炊し、そのための小屋は月小屋とか産屋・産小屋とよばれて多く部落ごとにつくられた。これらの習俗はいずれも穢れを避けるためと説明され、そのように信じて行なわれてきたものであるが、その実態をみるとけっしてそれだけでなく、その背後には無意識ではあるが人間のもっと根元的な信仰のあったことがうかがわれる。

昔のお産
月小屋や産小屋にこもる場合は、女性にとってある種の解放を意味する面もあった。貧弱な設備しかなくても、そこにはおなじ忌みのかかった仲間も来たし、忌みのあいだは家事を離れて一人ですごせた。これに対して、そうした設備のない村では、忌みのかかった女性は家の火を穢さないよう、細心の注意をはらわねばならなかった。
 彼女たちは板の間のイロリの火に近づくのを遠慮して、ナンドとかヘヤとよばれる寝室に食事を運んでもらったり、縁側で食事をした。戸外へ出るにも縁側からまわったし、ときには土間のすみにワラやムシロを敷いて臨時の寝床をつくり、出産も土間ですることもあった。昔のお産は坐産といって天井から下げられた綱にすがったり、ワラ束を積みあげてそれによりかかってしたが、土間の場合は下にワラを敷きつめるほか、三方にムシロを下げて囲い、一方で火をたいて産婦の身体を冷さないようにした。
 冬には雪が二メートルも積るという京都府竹野都のある山村で、いろいろ昔のことを話してくれたお婆さんが、嫁入りして一年か一年半しかたたない初産のとき、まだ二〇才にもならない明治の末年のころ、牛や馬のようにひとりだけ土間に寝起きして姑が別につくってくれた食事をするのほ、まことにやるせない、さびしいことであった、女に生まれた業の深さが身にしみたといって、若いときの体験を語ってくれたことがある。
 しかし、こうした土間でのお産も、それが穢れだからという外からの強制だけではじまったのだろうか。たとえば、おなじ京都府の天田郡三和町大原の町垣内にある産屋は、左図のような素朴な建物で、内部は三畳敷ほどの土間になっているの そこは町垣内の部落の横を流れている川の対岸の水田のなかで、以前は妊婦に陣痛がはじまると夫がかならず先導してここに移した。そのときふだん使っている橋をわたらず、臨時に梯子に板などをわたした仮橋をかけ、土間にはワラを月の数の一二束、閏年には一三束しきつめ、入口に魔除けの鎌を下げたという。実際にここでお産をしたのは明治の末までであったが、その後もお産だけ家ですませてから産婦は赤ん坊をつれてただちにここに移り、七日間、のちには三日ほどここですごし、この風習は第二次大戦直後のころまでつづいた。
 この産屋がこのように最近まで使われたのは、これが部落の人たちの信仰に支えられていたからであった。産屋のある場所は川のふちなのにどんな洪水でも水がつかないといい、それは昭和二八年の集中豪雨のときにも実証されたが、昔この地に大洪水があったとき、上流から流されてきた材木がここに流れついていたのを村の鎮守である大原明神のおつげだとして、その材木で産屋を建てたのがはじまりと伝えている。
 そして、この産屋でお産をすれば大原明神が守ってくださるのでまちがいが起こらないといい、現在でも土間の砂は安産のお守りとされて鎮守の大原神社で管理し、建物は町垣内の人が協力して屋根を茸替え、昔のままの姿を保存している。
 こうしてみると、この産屋にこもって別火生活するのは、お産が穢れであるからではなく、それとは正反対に神を迎え、神の加護のもとに安産するため、穢れを避けて精進することになる。とすると、他の産小屋はもちろんのこと、土間でのお産にも、こうした信仰が歪曲された形で潜在していたのではないだろうか。


『京都民報』(いつ発行されたものか不明)
*まちと暮らしの京都史〈20〉*古代⑩*都市生活と女性の穢れ*「清浄」の場から隔離*天皇制確立でタブー拡大*

死と産の穢れを異常に忌避
 七九四年に平安京に遷都した前後から、京都の都市生活には様ざまな変化が起き始めました。穢(けが)れの発生もその一環で、天皇や神事はこれをヒステリックにまで忌避するのです。この穢れには、死穢と〈女性の穢れ〉が含まれています。女性の穢れは出産と生理(月事)の穢れで、女性に固有と見なされ、近年まで、出産や月事のおり産屋に籠るなど伝統的な民俗として受け継がれてきました。女人禁制もそうですし、大相撲で土俵に女性を上げないのも、これの一側面にすぎません。
 このように、女性の穢れは、女性を「清浄」と考えられた空間・時間から排除する働きをもっていました。しかし、女性は穢れているから差別されたのではなく、各種の差別の一環として、とくに「清浄」から隔離するために発生したのです。すなわち、女性の穢れは特定の歴史的な背景をもって成立しました。ここでは、それを〈出産の穢れ〉について検討してみましょう。
産穢は、『弘仁式』(八二○年)にはじめて制度化されました。その神祇の規定のなかで、人の「死」と「産」が対比され、死が三十日・産が七日の忌みとされています。この死と産は人に限らず、六畜(馬・牛・犬など)もそれぞれ五日・三日の穢れとなっています。しかし、この「産」を女性にだけ固有と考えるのは早計です。むしろ、これは「生成という神秘的な現象」として畏怖されたのであり、女性にのみ関係したのではありません。
 八世紀にまとめられた海幸彦・山車彦の神話では、山幸彦と結婚した海神の娘豊玉毘売が出産にさいし「産殿」を「造り」、「あをな見たまひそ」と夫に願いました。しかし、これは「見るな」を強調したにすぎず、穢れではありません。しかも、産屋(うぶや)は出産にさいし、臨機に新設すると信じられていました。また、この頃には、誕生ののち、「七日目」に祝賀が行なわれています。かように、八世紀までは、出産はよりおおらかであったのです。
 しかし、九世紀初めには、産は七日の忌みと制度化されました。しかし、これが内裏などで強く意識されるのは、九世紀中頃でした。

女性の出産より縁の下の犬
 産婦は出産の間近には保護が加えられ、内裏などで出産するのは稀でした。問題になったのは女性ではなく、犬の出産でした。この頃には、内裏の「縁の下」に犬が棲みつき、残飯などを食料にしていたのです。今も各地に野良犬がいますが、当時の京都には内裏に限らず、犬が多く棲息していました。ところが、官人は縁の下に入って犬を追い出すのをいやがり、そこで、その死や産の穢れが多発したのです。内裏で発生した産穢は、犬に限られているといってよいほどです。これは三日と短い忌みですが、それでも、これによって神事がしばしば延期されています。このようにして官人や京都の市民に産穢が広く意識されていきました。
 神聖な出産が穢れに反転したのは、神事や天皇のあり方が変化したためと考えられます。平安時代には、天皇や貴族は多種多様の禁忌に病的に拘束されていました。これは、それ以前のいくぶん素朴であった天皇制が制度として確立し、それに反比例してタブーが拡大していったからです。このような禁忌の一環として穢れが成立し、そのなかに「死」や「産」が取り込まれていったのです。

誕生の儀礼で〝穢れ〝が拡散
 平安時代にも産屋の観念は継承されましたが、新設するのではなく、既存の殿舎を転用するようになりました。しかも、その期間は七日と考えられていました。七日は以前から誕生の区切りであり、これが産屋の七日・穢れの七日に転化したのです。そして、この期間は、産屋に転用した殿舎やお付きの女房の衣裳を「白」に統一・転換していました。(写真左上)
 一方、平安中期には、貴族社会で、誕生の儀礼が整備されていきました。これを、産養(ウブヤシナイ)と呼んでいます。これは、誕生から三日・五日・七日・九日の夜にお祝いをするのですが、三日・五日・七日は穢れの期間に含まれています。
 天皇の王子や王女の誕生には、ほとんどの貴族が産養にかけつけましたが、そのために市中に穢れが拡散していったのです。ここには、天皇が生み出した穢れが、天皇の子孫の誕生によって充満していく逆説がうかがえます。(西山良平・京都市立芸術大学講師)
    ◇
 *参考文献 西山良平「王朝都市と〈女性の穢れ〉(『日本女性生活史』一、東京大学出版会、九〇年五月)



大原の町並み↑(三和町・昭和10年代)大原の中心に鎮座する大原神社の門前町。オバラザシと称する神社への参詣人のオアシスとして栄えた集落である。(『目で見る福知山・綾部の100年』より)



伝説


『三和町史』
大原社頭の合戦
 「殿、大分風雨が列しくなりました」「そうか非常な音がするのう」。外は嵐である。「ゾッと寒気するような夕方だ。ハクション。少し早いが門を閉めとこう」、下男が独言を言いながら門に顔を出した所へ、ずぶぬれの真黒な物が飛び込んで来ました。「キャー」といって下男は腰をぬかして泡をふいています。物音におっとり刀で若侍が出て見ますとこの有様。「こら、そこの奴、名乗れ。ここは白波瀬肥前守様御館なるぞ」とつめ寄ると、身につけた蓑笠をパッと投げだして、「一大事でございます。今日、当国八木の城主内藤備前守重則公、大軍を出して、山家表へ押寄せて来ました」と大息ついて注進したのは、大原の役人原田某いう人です。「原田、大儀であった。すぐ休息するがよいぞ。下男六助、まだ腰が立てぬか。笑止な奴ハハハ馬鹿な奴」「アー」下男はびっくり、その拍子に腰かたった。下男は頭をかきながら、「たいへんだ。大軍がくる。大軍かくる」といいながら、ブルブルふるえています。
 そこでみんな寄って軍議評定となりました。家中には白波瀬作内・忍の小太郎・伊藤伊織・同合兵衛・岩見某・小林某・伊藤市助・林文太夫・白波瀬作太夫・岩本吉兵衛・出口五郎助・三ケ槻重兵衛・四方文七などなど一六名ずらりと並ちびました。肥前守は威儀を正して、「皆々承知のごとく八木城主は国司となろうとして丹波・丹後両国のすべての城主から侍一○名ずつ人質にとった。ところがこれに応じない者は、黒井の赤井悪右衛門直政とまた我が大恩ある山家の和久左衛門様であった。それで八木備前守は大軍を出して、一戦もせずに黒井城主赤井を服し、今大原の社に宿陣する由、山家の城も乗っ取る策戦だ。備前守は音に聞こえた猛者。猛者も猛者だがずぶぬれ猛者とは案山子と間違えられるのう、ハハハ」「殿、笑いごとではありませんそ、こと火急に御座る」「急ぐでないぞ。思うに武士は軽々にことを運んではならぬ。熟慮断行あるのみ、いかに」「家の方々、我が元は加賀の国の浪人にて、山家の城主和久様には長々御世話になり、このところに住むことができるようになった。この報恩のときが来たのだ。八木の大軍を引受け勇士を打取り名を後の世に残そう。皆どうじゃ」「もっともでございます」、と膝をたたいて奮い立つ面々をなだめ、策戦はめぐらされました。
 女・子供は谷へ忍ばせ、武士は武器を取って立ち上る。「人は生れて五十年、百年も生きることはできないのだ」と屈強の勇士白波瀬権之丞は、早や鎧兜に身を固めています。肥前守は、年七十五歳壮者を凌ぐ元気で、白髪を押し乱し、緋縅の鎧を着け、漱形打った兜を脇立たせ、白鞘の太刀を佩き、九寸五分を差し添え、絞紗の羽織を着け、悠々として大手に向ごて座ります。小人数で大敵にあたるのですから非常な決心です。館を取り囲ませて矢種つきると八方に出て、戦う予定でありました。
 いっぽう、山家の城へは、水泳達人の岩本吉兵衛に注進させ、忍の小太郎は忍術で敵の本陣、犬原社の武器をこわすことになりました。なお、夜戦のことでありますから、合言葉「白イ」と言えば「波」と答えて、同志討ちをせんようにしました。実に知勇兼備の集まりであります。伊藤合兵衛は禅定寺(山家下野)と申し合せて、敵将備前守を寺へ引き入れることを主張し、策戦をまったく終えた勇士一六名は折りからの嵐のなかで、最後の水杯をしました。血涙の忠臣、別れの宴が置かれます。悲壮な嵐の音にも勇気百倍・一死報恩あるばかりです。
 敵方、大原の社頭には、篝火の下で警護の武士が眠たげに警戒しています。兵士は家に入って休んでいます。大雨かザアザアと降っているのです。この闇のなかを騎馬か一騎かけ廻って行きます。やがて人馬の声。間もなく出陣を知らす銅鉦が雨中の暗を切り裂いて流れてきます。ブツブツ小言をいっている武士、眼をこすっている武士。かけ廻って叱っている部将の声も雨音にかき消されて聞えません。第一陣はガヤガヤと出立しました。だんだんあたりが騒がしくなってきます。民家で着物を乾している連中、鎧も着けずにだらしなく叱られている武士。また一陣、またまた一陣と和木峠をさして進軍です。ぬれ鼠の行軍です。酒をくらって一杯気味の連中が、ガヤガヤ不平を言っては叱られています。「チェッ、大将もちっとはこちらの身にもなって見ることよ、馬鹿らしい」「バカ」大目玉をいただいて、酔っぱらい連中の一陣が進軍しかけました。どうもあきり乗り気の進軍ではないようです。「頭が冷えると思ったら兜を忘れた」民家へ引き返す連中もあります。大将備前守はこの大雨を冒して、一挙に山家の城の不意を襲おうと、にわかに進軍の命令を下したのでありました。
 峠の上の鏡石という平地を越すころは、大雨益々激しく、水は逆巻き、兵士たちは非常に困りました。するとぶつぶつ不平のヒョロヒョロ武士が、ガヤガヤ蛙のように言い出しました。大将も困っているとき、面前へ蓑笠姿に寺男と化けた伊藤合兵衛が、「私は下原村の禅定寺の寺男でございます。お迎えに参りました」、これを聞いた大将一同はやれやれと安心しました。「今夜はもう眠い、今度こそ宿陣だ」、一同の宿陣は下原村にきまりました。禅定寺の奥座敷には若殿のいたいけな十三歳の初陣姿が見え、御守役千原左衛門、彼の赤井悪右衛門、先手の大将八木監物、人見、中川の諸将らと、山家の絵図面を拡げて策戦中であります。やがて酒宴が開かれます。備前守は下原の由波瀬が参札せぬを怒って、八木監物をつかわしました。
 白渡瀬方では決心の一六名、手ぐすね引いて待っているとも知らぬ八木は、一杯気嫌で大音声。「何ぞ白波瀬たしかに聞け、八木城主備前守、山家を討つべく、ただ今禅定寺に御宿陣なるに、参礼せざりしは不届至極、一時も早く参礼せよ.某こと、備前守身内八木鑑物定吉なり」。すると、館内より声がしました。「唯今返礼申さん」と白波瀬作内が、一三束三人張り木の根の光り矢でヒョウと放って、見事胸板後へ打通って、鑑物はその場にばったり。大将が殺されてどぎまぎした家来達、館の暗がりから飛んでくる矢にあたってばたりばたりと打ち倒される。こりゃたまらんと逃げるとこころへ、どっとばかりに一六人、太刀を振って飛び出す。本陣の兵まで逃げ始めました。気早い連中は大原まで刀かついで逃げて行きます。呑気な連中はいろりの傍で、裸で一枚の蒲団に三、四人、足を六、七本おどらしている。ムニャムニャと寝言をいごてヨダレを流しているのは前に兜を忘れたヒョロヒョロ武士。大将備前守は大声でしかるけれども逃げて行く諸軍には聞こえません。しかたがないので再び本陣を大原に決すべく総退却の命が発せられました。
 山家の城主和久左衛門は手勢三〇〇騎を率い、鷹栖明神前に出馬し、一六名を助けようとするけれども当たり一面水で、しかも岩をもころがさんばかりの激流にさえぎられて、アレヨアレヨと言うだけでどうすることもてきません このとき紺糸縅の大鎧に、金覆輪の鞍置いた武者一騎、「ザンブ」とばかり乗り入れて、「川渡り出陣、十倉の城主、渡辺内膳一番乗り」「白波瀨殿に御味方申す」といいながら違駄天のごとく駈せ廻り、敵をふみにじる。一六人は勇気一〇〇倍して奮戦。和久勢も励まされて先へと追いまくっていきます。備前守もいっぽうの大将です。さすがに悠々迫らず退却。しかし、暗黒の狭路和木峠へかかったころは路がわからなくなりました。渡辺内膳は馬で追いすがり二人の勇士はここをせんどと戦いました。勝敗いまだ決しなかったとき、「大将の首、我にとらせよ」と大音声をあげたのは、猛者白波瀬権之丞です。ここで備前守はとうとう首を取られました。
 備前守の嫡子小五郎は、御付添役の千原清左衛門と従老五、六人で山中を迷うとき、白波瀨作内に追いつかれました。とても駄目だと覚悟を定めた千原は、大音声で「某ことは、内藤備前守方に、隠れもなき千原清左衛門中治、いざよって首打ち候へ、しかし内藤殿の一子小五郎の命はお助け下されえ」、言いも果てず腹一文字に切りました。ときに二十五歳。敵ながら実に惜しい武士でありました。風粛々としてなまぐさく、武士の涙なさそうのでありました。正親町天皇の永禄六年四月二十九日。昨夜の豪雨の名残りを一面の濁流に見せた地上には春光が流れています。白波瀬の館から送り出される乗り物一つ。それは父を失い、侍者千原を失った若者小五郎が捕虜の身を許されて、懐しの母の許へ帰って行く戦国の哀れな姿でありました。乗り物に影のごとく添って首をうなだれて行くは小桐丹下であります。父なき小五郎に幸あれと春風か乗り物を過る。(因に備前守戦死の地を人呼んで備州尾と言う)〔大原〕。
 「大原社頭の合戦」の伝承は、『郷土ものがたり』第二輯に採録されているものを、一部口語体に修正し収録した。


『和知町石の声風の声』
内藤備前守滋則の墓
大成の伝説長者ケ成るの上方三郡嶽に八木城主であった内藤備前完滋則の墓がある。三郡嶽を天田郡の下った旧川合村の登山口には府教育委員会天田郡部会の建てた「この上に内藤滋則討死の古戦場あり」の道しるべである。これに就いても原田銀之丞さんの文章をお借りする。応仁の乱後国中到る所、地方豪族の力ある者は、互に隙をねらい合いの状態であったのだが、山嶽地帯であったこの地方は、その豪族の根拠を置くに便利が良く、諸所から忍び込んだ事であろう。ここに山家城主和久佐ヱ門尉義国もその一人で、加賀河北郡から来て他日の壮途を期していた。茲に又八木城主内藤備前守滋則は将軍義輝の命を奉ずと称して、丹波丹後を討ち従え両国の国司たらんと欲して、国内の豪族に使者を出して、各々の順逆を聞きただしたのであった。多くは降伏したが、黒井の城主赤井直政と山家の和久義国は、その命に従わなかった。そこで八木の内藤は永禄六年(一五六三)四月二十六日軍勢三千を以って赤井を攻めてこれを降伏せしめた。そこで内藤は兵を二つに分ち、中川主圭川勝頼母等を大将として磯、夜久野、福知山、鬼ケ城の諸城及び附近の郷士を従えて、栗村城に向わしめ、一方内藤は自ら将となって山家城を攻むることにした。翌早朝黒井を発して、正午川合の大原村に到達した。和知の出野の城主始め樋口氏も弓矢をとった地侍もこれに加わったであろう。折しも朝よりの大雨、午後は風さえ加わったので、内藤の部将等、交々大原に宿泊するよう迫ったが、内藤少しも聞かず、地理不案内の山林地帯に入り、和木峠を越えて山家に出ようとした。鏡石に着いた頃、暴風雨はいよいよ烈しく行手も確かならず進退谷まって来た。まだその頃後陣は大原神社の社頭にあった。これより先大原の某、和木の原田氏に内通を受けた原田氏は、下原の白波瀬肥前守の館へ馳けつけて其の旨を通じた、白波瀬肥前守一計を案じ、同志伊藤郷兵衛をして禅定寺の使者として内藤をだまして禅定寺に引き入れてこれを討とうした。内藤この手に乗って禅定寺に入ったのである。けれど内藤も肥前守の策に落ちたことをさとり、後方との連絡をとろうとすれば、これも亦肥前守の廻し者が、近道を案内しようと行手難所の三郡嶽に導き入れて、そこを肥前守の勇士の面々が襲いかかった。内藤備前守滋則は遂に武運拙なく最後を遂げたのであったと原田氏は結んでいる。戦国時代は比の和知の地も亦戦国時代であった。山家の城主和久佐右ヱ門義国の統治下にあったのである。曽我井伝記横山硯には、永禄六年三月山家に城を張りて和知上林の丙谷を討ちとりて領土となすとも書いてある。





大原の小字一覧


大原(おおはら)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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