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「鬼は」の節分祭'13
 (福知山市大原神社)





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↑ 開催地の地図


 〈 天一位 大原(おおばら) 神社境内の案内板
祭 神  伊奘冉尊 天照大神 月弓尊
  例 祭 五月三日(二日宵宮)神輿渡御
  恒例祭 節 分 節分祭 追儺式
    摂社火之神神社鎮火祭
 由 緒
 社伝によると第五十五代文徳天皇の御世、仁寿二年三月二十三日(八五二)北桑田郡野々村樫原(現南丹市)の地より遷座、国司大原雅楽頭社殿を造営同年九月二十八日遷宮される。 元亀大正(一五七三)の項明智日向守領主となる際、戦禍に遭遇、社殿消失するも明暦年間(一六五五〜五八)に旧態に服す。現在の社殿は九鬼氏領主として綾部に封せられてより累代の庇護により寛政八年(一七九六)再建される。安政二年(一八五五)千年祭、平成十四年千百五十年祭を斎行する。
 唐破風の龍の丸彫は天保三年(一八三一)中井権次正貞の作であり、拝殿頭貫の絵様彫刻、兎毛通の鳳凰、持送りの菊の籠彫は天保八年正貞の父久須善兵衛政精中井丈五郎正忠の作である。
 矛葺の絵馬殿は丈久三年(一八六三)の再建で舞台では浄瑠璃、農村歌舞伎等が演じられた。
 昭和五十九年に本殿等、京都府指定有形文化財の指定となる。
 当社に参詣することを「大原志」(おばらざし)といい俳句の季語としても詠まれ、近松門左衛門の浄瑠璃にも採り上げられる。安産・万物生産の神として信仰を集め公卿諸侯の参拝も多く、社記に公家清水谷家、北大路家、日野大納言家、宇和島藩主伊達家等の安産祈願が記される。江戸時代には社勢を延ばすため配札所が設けられ山城
地域の配札拠点として綾小路(現京都市下京区善長寺町)の大原神社が担った。
 川向にある京都府指定有形民俗丈化財「産屋」は古代の天地根元作りを模倣しており古事記の「戸無き八尋殿」を想わせる。産屋を神、先祖との連続した魂の再生の場、聖なる時空と見て、内部の砂は「子安砂」として安産の信仰対象となっている。  〉 



ずいぶんと山中で周囲の変容の影響をあまり受けないのか、古い民俗の「産屋」が時代をこえて、かわることなく化石のように残されている。地理的条件からかロクでもない「最新情報」とかにあまり踊らされることなく幸いにも、今ではここでしか見られない独自なものを残したのかも知れない。このほかにも古いものが残されているのではなかろうか、わたくし的に興味がひかれるのは、「天一位」という神階、それに「鬼は内」のかけ声である。
「産屋」と「天一位」はすでにどこかで取り上げているので、このページは主に「鬼は内」だけ。
産屋(大原) 天一位

実は立派な文献などを調べても、大原神社の「鬼は内」の話はなく、最近新聞などで報道されるまで私は知らなかった。だいだいこうした大事な民俗風習を文献はよく無視する。そんなことはどうでもよいとでも考えたのか。しかしほかに何かそれよりも大事なことでもあるのだろうか。文献だけを見ていても大事なことはわからない、と教訓を得たようなことであった。
「鬼は内」は普通は藩主の九鬼氏と関係がありそうとか言われる、確かに九鬼家では当社と同じように「鬼は内」、そして「福は内、富は内」と欲張りを唱えるそうだが、もし本当に九鬼氏と何か関係あれば、諸文献が得意げに取り上げないはずがないし、九鬼氏とは何も関係がないところでもこの唱え方をしたり、そもそも鬼やらいや節分をしない所もけっこうある。これはまたどうしたことであろう。
たぶん鬼とされるモノと仲が良いか、あるいは鬼とされるモノを神として祀っているか、あるいは鬼とされるモノ自身が祀った社なのではなかろうか…。
当社は旧府社でグレードは高い、同じように天一位とする大川神社も加佐郡名神大社であるが、大原神社の祭神は本来はオニでしょう、片目(一つ目)のオニでしょう、鉄穴師(鍛治屋さん)の、さらにいえば韓鍛冶系の神様でしょう、と私は推理して疑わないわけである。おそれ多いのか、それとも気がつかないのか誰もいわないが、たとえば節分珍風習」など参照してみて下さい。

大原はオオバラとかオバラと読む。丹後峰山の荒山、風土記の荒塩村ともされるが、その裏山は小原(おばら)山という。この山は麓の里名に残るように古くは荒山と呼んだと思われるが、荒山→御荒(おあら)山→小原(おばら)山と転訛したものと思われる。そうだとすれば、当社も御アラ→大原の転訛だったかも知れない。古名は「アラ神社」だったのかも知れない。アラについては、『福知山市史』は、
 〈 …なおまた由良川筋に有路・在田・荒河・荒倉・有岡等と、いわゆる朝鮮系の地名と思われるものが極めて多いことも一考すべきことであろう。

…由良川沿岸には有路・阿良須・荒河・荒倉などarに発する朝鮮系の地名が多い。

  〉 
別に由良川筋に限るわけではなく、日本全国そうした様子なのだが、アラ、アリはアリラン峠で知られるように、「光明」を意味する「朝鮮系地名」渡来地語である、地名だけが来るわけはなく、そうした人々が金属技術や稲作技術を携え、海を渡ってきて日本は開かれていった歴史が残されているわけであるが、この語の特徴として意外な転訛もするし、われらの祖先は天から降ってきたの皇国史観の神話的非科学的非歴史的な思い込みも強いため、今となればまったく見分けのつかないことも多い。


 当社の節分祭は、
鎮火祭 午前10時30分〜
火焚祭 午後6時〜
追儺式 午後7時〜
が催される。





   鎮火祭(摂社・火之神神社)

 向かって左の奥に「摂社・火之神神社」が鎮座する。摂社というのだから、本社のようなものかも知れない、大原神社の本来の性格に深く関わる社と思われるが、「天一位」や「鬼は内」と関係がありそうに思われる。
消防団などの参加の鎮火祭で、火除け消防の方に傾いているが、本来は金属精錬のために火の効果の大ならんことを願うものではなかったろうか。



 宮司さんは林サンとおっしゃる。当地には小林サンもあるよう…
こうした火は「第一の火」と呼ばれる。電気は「第二の火」。原子力は「第三の火」と呼ばれる。第一の火は、人類にはなくてはならぬ有用なものだが、一つ間違えると大きな禍いをもたらすものとして、「火の用心」を唱えノボリを立て火の見櫓を建て火消し隊を組織し子供達に教え莫大な人力と金力を注いできた、119番もあるし消火器や警報装置は家庭にも設置されている、防火管理者などもいて研修訓練が行われている、またこうした火除けの神々を各地に祀り、人間は不断から十分すぎるほどに厳しく警戒を緩めないチエを身につけ危機管理体制を整えてきた。
ところが第三の火に対しては、うってかわったかのように、みごとなまでのダーダーぶり大アホウぶりである、同じ人類かと疑いたくなるほどに無神経無警戒無防備。第一の火と比べられるほどの備えを第三の火に対しては人類は何ももたない、しかも安全安心だなどとチエのカケラすらないネゴトをほざきくさるものまで腐るほどもいるしまつ。人類があまりにも扱いなれていない、その怖さを十分に経験していない、その超危険さが金持ちども、火付けどもによって厳しく隠され続けてきた恥ずべき歴史が見えてくる。本来は政府がやってこなければならなかった事である。どうやら本当は日本は原発を稼働させられるほどの国ではなかったようである。「アメリカ以上の技術です」は口先だけのもの、あきれた国家であったことが発覚してしまったようである。第三の火は消せない火の部分が多いし、禍いは10万年以上も続く、それがもたらす禍いは第一の火の比ではない。第一の火の千倍万倍も警戒を緩めてはなるまい。我らの手で人類を滅ぼしたくなければ…





  火焚祭

 古くなった「お札」や「お守り」などを焚く。本殿から採火した火で焚かれる。禍いを焼き払い新春を迎える。
ずっとずっと古い時代となれば人もついでにたぶん焼き払われたのであろう。悪い事ばかりしてると古い禍いの王として焼かれまするぞ。現在なら人気を失って選挙で落ちるくらいだが、政治屋さんは現在に生まれてよかったかも、それで無責任になってもらっては困る、ヘタすると節分に焼かれるかもと覚悟決めながら真摯に仕事をしてもらいたい…







  追儺式

 いよいよメーン・イベント。
ものすごい量の豆が用意されていた。↓


 神事。桃の弓で、邪鬼を祓う↓拝殿の中へ入れてもらえる。

「鬼は内」「福は外」と豆が蒔かれる。ウソではない、動画が録音しているので聞いてもらいたい。↓




鬼の登場↓


↓ここでも「鬼は内」「福は外」と唱えられるが、いままかれているものはマメではない。お菓子の包み。本殿の上がって写してもらえばいいですよ、と親切にいってもらっていたのだが、次にはそうさせてもらおうか。

争って拾う人々。




↑マメはすごい量が撒かれている。








 参考文献

『天田郡志資料』

 〈 府社、大原神社 川合村字大原鎮座
 祭神 伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大日G尊、月読尊。
伝へ云、当社は、もと文徳天皇仁寿二年三月廿三日、当桑田郡(今北桑田郡)野々村に鎮座。然るに時の国司大原某当社を信仰すること篤く後宇多天皇弘安二年九月廿八日此所に遷座奉斎す。爾来百余年を経て、後小松天皇応永四年十月十三日領王大原雅楽発起寄進して本殿、拝殿、舞楽殿等整ふ、此時領主より近傍数村に令して當社を産土大神たらしめたといふ。其後元亀、天正の交大原氏亡び光秀本国を領す。当時火災にかかり社伝、社記の類悉く焼失す。九鬼氏の綾部藩を治するや明正天皇寛永十一年始めて社領高三石を寄進せらる。爾来累代崇敬特に篤く以て明治廃藩に至る。其間九鬼氏は事.大小となく必す當社に奉告せらるゝのみならず、領内に於ける百穀豊穣の祈願、旱天には祈雨等神楽な奉奏して神助を奉仰されき。後土御門天皇明應三年十二月廿三日綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理。後櫻町天皇明和四年二月六日藩主親拝、仁孝天皇天保十一年十月神林に接続せる山林を寄進せらる、今の保安林是なり。当社は安産の守護神、穀物豊熟の大神として其名漸く遠近に聞え賽者四時絶ゆることなし。
今、社紀に存する重もなるものを挙ぐれば
 安永年中、丹波園部藩主小出美濃守の代参
 寛政二年春、公家清水谷家の代参
 仝三年二月廿八日、公家北大路弾正少弼の代参安産御守砂拝借。
 仝年七月十五日、丹波國峯山浦主京極家より仝前
 仝年八月廿三日、日野大納言家より仝前
 仝十二年十二月七日、伊豫國宇和島藩主世子夫人より代参安産祈祷。
 嘉永二年二月廿六日、丹後國宮津藩主本庄侯夫人奉賽として御供田四畝六歩寄進あり。
當神社域は天田、船井、何鹿三郡の境地にして四周皆山。而して川合渓流の清冷其下を流れ、眞に山高く水清かなる幽邃境なり、藩政時代は綾部領にして同地より京街道なる船井郡檜山驛に出づる往還に當れり。現時の社殿は寛政八年十月廿三日御遷座式を挙げしものにして爾来神徳いや高く、大正十三年二月七日、府社に昇格せらる。実に我が郡唯一の名社たり。  〉 

『京都府の地名』(平凡社)

 〈 祭神伊邪那岐命・天照大日・命・月読命。天一社とも称す。旧府社。社伝によると、仁寿二年852桑田郡樫原村(現北桑田郡美山町)に鎮座したのを初めとする。現在も同地に同名の神社があり、大原ではこの社を元社といい、安永1772〜81頃には神主が祭礼に参加したと伝える。また鎌倉時代に領主大原氏がこの社を信仰し、弘安二年1279にこの地に移し祀った。その後応永四年1397に大原神楽頭が本殿・拝殿・舞楽殿などを造立、また近隣の村々の産土大神とするよう命じたという。近世には綾部藩主九鬼氏の崇敬厚く、社記には寛永十一年1634社領三石を寄進したのをはじめ、当社で百穀豊穣祈願・祈雨などを行ったこと、明暦三年1657九鬼隆季による修造、天保十一年1840神林に続く山林の寄進などを記す。社前を流れる川合川南岸に古くから産小屋ウブヤがあり、現在は当社がその中の産砂を管理する。「丹波志」は祭神伊奘册尊、祭礼は正月二八日で「朝戸開ノ神事」と記し、そのほか三月二三日の御遷宮神事、六月一〇日の初夏神事、九月二八日の御殿造立の月日神事には神輿が出、馬二疋で流鏑馬が催されたとする。近年は五月三日に大祭を行う。大原神社は安産・五穀豊穣の神として近隣に広く知られ、社記によると寛政三年1791二月二八日に、公家北大路弾正少弼の代参で「安産御守砂拝借」とあるのをはじめ、丹波国峰山藩主京極家・日野大納言・伊予国宇和島藩主夫人などの同様の砂の拝借があり、丹後国宮津藩主本庄侯夫人は奉賽として御供田四畝六歩を寄進した。また「丹波志」によると大原神社が遷座する時、天児屋根命が宮地を尋ねてこの地の「水門の瀬」に来たところ、「水底ヨリ金色ノ鮭魚浮出テ申テ曰、非水底住、此山ヲ守ルコト数千年也、嶺ニ白和弊青和弊アリテ、毎年光ヲ放ツ、実ニ大神ノ鎮リ玉フヘキ霊地ナラン」と告げた。鮭は飛竜峰明神と号して末社天王社に祀っている。現在もこの淵を「オカマサン」と呼び同書によると、「悪事アラントテハ此淵魚点シ、又不浄ノコト有ニハ鮭ノ魚浮出ル事有(中略)今ニ至ルまで鮭鱒ヲ食セス」などとの伝承が残る。鱒と鮭を食べないとお産に不調法しないともいい、妊娠は大正の末年頃までこの禁忌を守った。山手にある末社水門ミナト大明神に関して同書に「俗ニ大原神社ニ詣スルヲ大原詣と云習セリ、水門社ヘ先ニ祭リ実ヲ清メ本社ニ向エハ、掌ニ指コトク願成就スト」とある。水門大明神はその名のとおり「水門の瀬」とよばれたオカマサンの淵に現れた神の意味で、オカマサンの淵の岩には、明神が赤牛に乗って示現した時の牛の足跡というくぼみがある。本社参詣の前に、明神影向の聖地を拝するのが古い作法であったらしい。また、この記述から大原神社へ詣ることを大原指といったことが知れる。同書によると小野東風筆と伝える「天一位大原大明神」の扁額があったが、現存の額には「大原大明神」のみが記されている。また神社境内の絵馬堂は舞台になっていて、昔はここで村歌舞伎をした。  〉 

『舞鶴の民話』

 〈 乾鮭の怪物
 四ツ尾山を左にみながら南へ行くと綾部の小学校に出る。
妻の父が務めていた蚕糸試験所がある。その左の方藤山の麓に若宮神社がある。境内に杵の宮という変わった名前の社がまつられている。妻や母の話によると、この社は土地の守護神としてあがめられてきた。
 この藤山の東南麓の一帯は老木が生い茂り、昼でもうす暗いところであった。その森を横ぎる道に大きな池があった。むかし宮津や舞鶴から魚を売りに丹波、京都へと売りにいく商人がいた。冬は乾鮭など干物、塩漬け魚を行商した。ある行商人がこの池のほとりに通りかかった。草むらの中に尾の長い鳥がばたばたしているのが見えた。在所の者がしかけたわなに雉がかかっているのだ。行商の男は、あたりを見廻したが人影がない、これ幸いにとその雉をちょうだいすることにした。たゞでは悪いと思ったのか、になっている籠より商売物の乾鮭を一尾、雉のかわりにかけておいたのである。
 夕方になって、わなを見まわりに来た在所の男が、雉わなに奇妙なものんがかっているのをみてびっくりした。綾部から南へ山一つ越えた所には大原神社があって、その社の氏子は勿論、近隣では鮭や鱒がタブーになっている、わなの持主は、おそるおそる乾鮭をとりあげ池にほりこんで、あとも見ずに逃げ帰った。それから年がたって、この鮭が池の主になって、怪異を引きおこす事になったのである。
 道を通る在所のもの、旅人をおどかし、時には人身御供の娘を要求したり、池に引きづりこんだりした。在所のものも、この池の主に出あうことをおそれた。
 数年後、また通りかかった乾鮭売りの男は、大池の主が人身御供を求めることを耳にした。様子を聞くと、ばけもの鮭のようで、もしかしたら以前に自分が置いていった乾鮭が通力を得て、あやしいわざをしているに違いないと思った。そこで男は、怪物退治を引き受けて、人身御供の少女と共に池のほとりへ向った。退治するのにいいものもないので、杵をかりていった。
 池のほとりに少女が立つと、池水がさっとたち、池の面が沸きたち、怪物が現れた。みると頭は鬼瓦のようで、胸のあたりから翼のようなものが生えていて、全身がみどりのこけがはえている。よくよく見ると、まさしく自分が置いていった乾鮭に違いない。男はこの怪物にむかって、 「お前はわしがわなにかけておいた乾鮭ではないか、ねだんは三分五厘のくせに、身のほども忘れたのか。」乾鮭の怪物も、売価をいわれてはぐうの音もでず、通力を失った。
 そこを男は杵をふりあげて、頭をしたたかなぐりつけた。さすがの鮭の怪物もなぐり殺された。里人は怪物を殺した杵を神としてまつり、藤山の東にある本宮山という小さい丘に「杵の宮」を建立した。そして森を伐り、水路を掘って、大池の水を由良川へ流しこんだので、谷はみちがえるように明るくなり、伝説の池のあとは、緑のゆたかな住宅地となっている。  〉 

まめまきしない、おにやらいしない、節分しない 風習。
丹後の伝説

「目一つの鬼」の日本最古の記録
『出雲風土記』の大原郡阿用郷

 〈 阿用の郷 郡家の東南のかた一十三里八十歩なり。古老の伝へていへらく、昔、或人、此處に山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来りて、佃る人の男を食ひき。その時、男の父母、竹原の中に隠りて居りし時に、竹の葉動げり。その時、食はるる男、「動動(あよあよ)」といひき。故、阿欲(あよ)といふ。神亀三年、字を阿用と改む。  〉 
郡名が当社の社名と同じなのは偶然か。目一つの鬼とは天目一箇神(あめのまひとつのかみ)でないかという説がある。天目一箇を縮めて天一と呼ぶことがある。
こうした物語は金属利用が早くから発展した地から金属精錬技術や人とともに伝わったものと思われる。英語のコッパーcopperは、地中海のキュプロス島が語源らしい、この島には古くから大きな銅鉱があり、『オデッセイア』には、この島にはキュプロスという人を食う目一つの巨人がいたと伝えられている。
金属精錬加工するためにはどうしても焼け溶けた金属の光を見なければならない、その光を見て温度を判断し加工のタイミングをはかるわけである、この光は強く肉眼で見続けると目は痛みやがて視力を失ってしまう。従って両眼では見ずに片目だけで見る。こうしたなりわいにたずさわり続けベテランの50歳にもなれば片目は完全につぶれてしまう。
この片目をメッカチ(目鍜冶)と今でも呼ぶし、一つ目とも呼ぶ。鍜冶の神にふさわしい姿といえないだろうか。









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