丹後の地名

明石(あけし)
京都府与謝郡与謝野町明石


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京都府与謝郡与謝野町明石

京都府与謝郡加悦町明石

京都府与謝郡桑飼村明石

明石の概要




《明石の概要》

北流している野田川の東岸側の桑飼小学校のあるあたり、国史跡・蛭子山古墳(全長145m、前方後円墳)の「古墳公園」のある集落一帯である。日吉ケ岡遺跡や90基ばかりの古墳がある。古代加悦谷の、与謝の、丹後の中心地で、山裾から山にかけては古代遺跡だらけ、中には日本史の常識を覆す重要なものもあり、丹後王国の地とも推定されている。「明石たんぼ」と呼ばれる広い田が西側にはひろがる。
地名の由来は石川村との境に玉石という石があり、夜白く光って旅人の道標になったことによるともいわれる。明石の地名は以前の北桑田郡京北町にもあるが、赤い石のことで、褐鉄鉱だともいわれる。明石の裏山は大江山連山のもう終わりの方であるが、奥には赤石ヶ岳がある、ここでは赤い石も見られる。
明石村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年桑飼村の大字。
明石は、明治22年〜現在の大字名。はじめ桑飼村、昭和29年からは加悦町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。


《明石の人口・世帯数》

《主な社寺など》
須代銅鐸(レプリカ)
須代神社銅鐸
須代神社の裏山で発見されたという。丹後発見の7個の中ではもっとも古いもの。対岸になる梅林寺銅鐸はもっとも新しいものである。

同社の案内板
須代銅鐸出土地
 須代銅鐸は明治二六年(一八九三)十月十三日、大雨の後、須代神社の裏山の丘陵南斜面が崩れた場所より露出した状態で発見された。
出土した銅鐸は表面に流水文様がある「扁平鈕式」と呼ばれるもので、高さ四五センチをはかる。
 一般的に銅鐸は収穫の豊作をいのり、暮らしの繁栄を願うまつりに使ったものと考えられている。須代銅鐸出土地の前面には弥生時代中期から始まる須代遺跡があり、この遺跡はこれまでの調査からムラのまわりに幅5メートルの溝をめぐらす巨大な環濠集落とみられる。
 おそらく、この銅鐸も須代ムラが所有していたものと考えられる。
 また、出土地には銅鐸出土地を示す標柱が立てられている。なお、銅鐸は京都国立博物館で保管されている。   平成六年三月 加悦町教育委員会

須代神社発見の銅鐸
 桑飼村字明石須代神社境内明治三十八年八月発見せるものにて本府大正八年出版史蹟名勝調査報告書第一冊に次の如く載せたり、今同村小学校に保管す。

       桑飼村明石須代神社境代発見ノ銅鐸
 村ノ共同有ニシテ市田徳藏氏之ヲ保管ス。今同地小学校ニ置ケリ。形妖図版ニ示ス如ク総高一尺五寸二分「内鈕四寸二分」底径九寸六分アリ。質白緑色ヲ呈シ製作精巧ナリ。之ヲ見ルニ普通式ニシテ両面流水紋様アリ。鈕及ビ鰭ニハ一種ノ渦紋ト複合鋸歯紋ヲ現セリ。
此ノ銅鐸ヲ出シダル須代神社ハ同村小字和田ニアリ。延喜式所載ノ古社ニシテ丘陵ノ東ノ傾斜面ニ建テリ。発見ノ地点ハ社殿ノ南方約二十間ノ所ニ富リ、明治三十八年ノ頃境内拡張工事ニ際シ地下ノ大石ノ下ヨリ偶然発見セシモノナリト云フ。今実地ニ就イテ見ルニコノ辺土地緩傾斜ヲナセル所約三十間ノ間削り取ラレアリ、所々ニ大石ヲ含メリ。銅鐸ノ出デタル蓋シカゝル石材ノ下ヨリナルベシ。
京都府管下ニ於イテ従来銅鐸ノ発見ヲ伝フルモノ上記隣村三河内比丘尼城出土ノ遺物ヲ外ニシテハ他ニアルヲ聞カズ。コレハ銅鐸ノ分布ヲ考フル上ニ於イテ注意スベキ史実ナルト共ニ、此種遺物ノ発見ハ此ノ地方ガ已ニ太古ヨリ斯カル器物ノ使用ヲナシタル人民ノ住セルヲ示シ地方開発ノ状ヲ明カニスル黙ニ於テ貴重ナル遺物ナリ。特ニ注意ヲ加ヘテ保存方法ヲ論ズルノ要ヲ認ム。「以上 梅原末治氏」
(『与謝郡誌』)

江戸末期の天保年間に、宮津市由良から「突線帯式銅鐸」が二個出土〔小林玄章著丹哥府志より〕。続いて舞鶴市下安久匂ヶ崎から、一九三九年(昭和十四年)六月に二個(大小)が、入り子となって出土した。高さ六五センチメートルの突線帯式のものであった。
 ところで、加悦谷では、江戸中期の一七三二年(享保十七年)四月に、野田川町三河内の梅ケ谷に住む農民が、同町岩屋との境にある比丘尼城山へキコリに行き、山腹の土窟から、銅鐸(大小)二個を発見、さきの突線帯式のもので、大小相重なって埋没していた。他方野田川の東側に発見されたものは、加悦町明石の庄ケ崎に鎮座する、須代神社の本殿裏山の石窟に、一八九三年(明治二十六年)十月、同神社の境内拡張工事に従事していた住民により、高さ五○センチメートルの流水文様銅鐸を発掘したのであった。現在京都国立博物館の所有になっている。
 この銅鐸の大きさは、高さ五○・一六センチメートル、底の長径三一・六八センチメートルの偏平な白緑色を呈し、両面に原始の絵画が描かれている。
 ところで、この二か所の出土地は、丁度野田川をはさんで相対している点から、農耕文化がここの場所を中心に発達を遂げ、やがて加悦谷全域に及んだものと思われる。ただ、銅鐸の型からして、明石付近が初めて農耕生活に入り、その後三河内付近が栄えていったと推定される。何れにしても、この地点は〃霊山〃と称する祭記の場といえる。
 なお、兵庫県城崎郡湊村気比にある、鷲崎の岩窟から銅鐸が発見され、これが、明石のものと類似している点を考え、丹後地方における弥生式文化圏が相当な権力を持っていたことがわかる。
(『加悦町誌』)

須代銅鐸 須代銅鐸は須代遺跡の東に位置する須代神社の裏山で発見された。発見場所は、社殿の東約八〇bに位置する丘陵斜面である。この場所は花崗岩巨石の露出する狭長な谷部であり、谷底から一〇bほどの高さがある。
 銅鐸発見地点には、かつて巨石があった。明治の神社再建事業の際に、鳥居再建用材としてこの巨石が掘り出された。跡地には、大きな窪地が残ったが、明治二六年一〇月一三日、大雨によりこの窪地が崩壊し、崩壊現場に銅鐸が露出した。地元の人々により発見され、発掘された。地元で大切に保管されてきたが、その後、重要美術品に指定され、京都国立博物館に収蔵された。発見地点には、流水文様銅鐸出土地の標柱が立つ。
 銅鐸は、器高が四五・七a、身に流水文を措いた精美なもので、完全な形をとどめている(図1)。紐の部分に渦巻文と組み合わせて魚の文様が措かれているのが特徴的である。鰭には鋸歯文が巡らされている。銅鐸の編年でみると中段階(V−2式、扁平紐式)に属する。弥生時代中期中頃に釣鐘として製作された 「聞く銅鐸」 である。
(『加悦町誌資料編』)

須代遺跡(小字入谷)。弥生〜平安
須代神社の参道に沿うように北側に低い岡が張り出してきているが、そこが環濠集落遺跡になる。今の須代神社もその環濠内かと思われ、銅鐸はこの集落が保有していたものか。

↑丹後郷土資料館パンフより

須代遺跡 野田川右岸の段丘上に位置する。発掘調査により環濠と思われる大溝が二条確認されている。大溝は中期後半に掘削され、後期末にはほぼ埋没したと考えられる。
 この大溝の囲繞範囲は明確ではないが、道跡地は北南東の三方向を丘陵に囲まれ、西側に開いた地形であることから、西側にのみ環濠が施されたと思われる。その囲繞面積は大きくみて約四・九へクタール、少なくみて約三・八へクタールほどと思われる。
遺構としては中期後半に比定される竪穴住居跡が三棟検出されている。遺物は銅鏃、太型蛤刃石斧の未製品や玉作り関連と思われる擦り切り痕のある碧玉などがある。なお、背後の丘陵斜面から肩平紐式流水文銅鐸一つが発見されている。
 この須代道跡と日吉ヶ丘遺跡はともに野田川右岸にあり、直線距離にして一キロと非常に近く、時期的にみて密接な関係にあることは間違いない。現段階では日吉ヶ丘遺跡が須代道跡に先行して出現し、その後は須代遣跡に中心を移したのではないかと推定している。
(『丹後の弥生王墓と巨大古墳』(地図も))

加悦町須代遺跡は、昭和四十八年須代神社参道横の排水溝工事中に多数の土器が出土し明らかになった。須代神社裏山からは、明治三十八年ころ流水文銅鐸が出土し、参道両側の田畑からは以前から土器片が散見されていた。しかし、塊って発見されたのは今回がはじめであった。付近は、丘陵斜面谷頭に広がる段丘で、現在の水田表面下約五○〜六○センチメートルの漆黒粘土層から出土した。遺物包含層は溝状で、道路から南側へも伸びて広がっている。遺物の散布は、南北三○○メートル、東西二○○メートルの広い範囲におよび、土器は第三・四様式をはじめ第五様式土器が多く出土した。中でも第五様式前半の壷・甕・高杯・器台のセット土器(写真39)は、丹後地方弥生後期土器の指標となるものである。これら遺物によって、流水文銅鐸の時期を推論することは困難だが、本遺跡が中・後期の集落遺跡であることはまちがいないであろう。
(『舞鶴市史』)

日吉ヶ丘造跡・須代遺跡は中期中・後半の集落遣跡で、環濠とみられる溝の一部が確認されている。須代遺跡は段丘の緩斜面を切断するように溝が巡ることが発掘調査で確認されている。日吉ヶ丘遺跡は独立する低位の丘陵上に立地する。民地の開発の際に丘陵斜面で溝状の遺構が見つかり、多量の遺物が出土している。溝は一部が認められただけだが、丘陵を取り巻くと推測されている。
(『宮津市史』)




日吉ヶ丘遺跡(小字馬場)。
弥生中期。吉野ケ里と同じ頃で、卑弥呼以前。
日吉ケ岡遺跡の貼石墓(明石)

蛭子山古墳のすぐ北側の、桑飼小学校のある台地の張り出し部で、古代遺跡だらけの地だが、ここは桑飼小学校グラウンド遺跡とかつて呼ばれていた所である、水田面より少し高い場所である。これも環濠集落だが、もっとも早い時期の巨大貼石墓が出現し、最初の丹後王かとマスコミなどで超有名になった。そのほか多くの遺物が出土している。丹後の心臓部であった。
隣の「はにわ資料館」に出土品が展示してある。
日吉ヶ丘遺跡 貼石墓出土の管玉と朱(日本最多)弥生時代中期(2100年前頃) 日吉ヶ丘遺跡貼石墓の中央にあった木棺趾から朱と管玉が677個以上発見されました。棺の位置から、朱は埋葬された人の頭の場所で、管玉は顔にあたるところから出てきました。今回、朱と玉を発掘調査そのままの状態で残すために、地面を切り取って展示しています。
日吉ケ岡遺跡(管玉と水銀朱)
管玉はずいぶんと小さいもので、↑は径は2ミリくらい、それに1ミリくらいの紐遠し用の穴があけられている。未完成品や玉用砥石も出土しているから、ここで制作されたものかと思えば、これほど小さな物はどこかよそで作られたという。
入谷(にゅうだに)というところが少し北にあるが、ここで採れた水銀なのだろうか。朱関係の制作用具などの出土はないよう。写真は「はにわ資料館」蔵の本物。
鋳造・鍛造の鉄製品、鞴の羽口も出土していて鍛造はここで行われていたようである。その他、土器や石器類。

鉄資源の交易で富を蓄積した丹後の大首長

 弥生時代後期における丹後首長層を束ねた大首長、丹後政権とでもよぶべき政治団体を統率した大首長(王)の存在は、前に述べた普通の首長墓よりも大型の墳墓であきらかになっている。もっとも早い時期のそれは、中期後半に編年される加悦町・日吉ヶ丘墳墓で、長辺三三メートル、短辺一七〜二二メートル、高さ二・五メートルの方形貼石墓である。最大幅五・五メートル、深さ一・三メートルの溝を囲繞させた方形周溝墓だが、墳丘斜面に礫石を貼りつけていて、組み合わせ木棺に一人だけ埋葬していた。そして、六七七個以上もの大量の緑色凝灰岩製管玉が、大首長の顔面を覆うかのように凋密におかれていた。頭や顔が人間の本質だから、そこに邪悪なものをよりつかせないように、管玉で辟邪するかのようにも思えた。
(『前方後円墳とちりめん街道』)

*日吉ケ丘遺跡*環濠集落から工房群跡確認*加悦町教委*多量の鉄、製品作り*

 今春、丹後で最初の王の墓と見られる「方形貼【はり】石墓が確認された京都府加悦町明石の日吉ケ丘遺跡(弥生時代中期後半)を発掘調査していた同町教委は六日、墓の東側にある環濠集落から生活道具や装飾品を生産していた工房群跡と多量の鉄を確認した、と発表した。この当時、貴重な鉄を使って製品を作っていたと推定され、支配者の権力の大きさをうかがわせる。
 環濠集落は、方形貼石墓(南北約三十三b、東西約十七−二十二b)の東側にあり、工房は集落内に造られていた。周辺に直径約十五aの掘っ立て柱の跡が多数確認され、鉄の破片なども出土している。
 工房そばの集落をめぐる環濠(幅約三b、深さ一・三b)からは鉄製の斧や鍬、ヤリガンナ、ノミなどの鉄片計五百cが出土した。また、緑色の装飾品である碧玉製【へぎょく】の管玉、武器の石鏃、生活用具の石斧なども大量に見つかった。
 鉄は当時、海外に求めるしかなかった先進素材で、町教委は「独自に交易ルートを持っていたと考えられ、鉄の量の多さなどから当時の王の強大な権力をあらためて裏付けた」としている。
 同遺跡では今年五月、弥生時代中期後半(紀元前二世紀−紀元前後)では、全国最大級の方形貼石墓が発掘され、その後、町教委が七月から再調査していた。
 現地説明会は八日午後一時半から行われる。

鉄製造想定できる 村上恭通・愛媛大法文学部助教授(金属・冶金考古学)の話
 この遺跡からは大陸で生産された鋳造製と国内で生産された鍛造製の二種類の鉄製品が見つかっている。丹後の拠点的な集落と見られる日吉ケ丘遺跡に鍛冶工房があって、この工房で鉄が製造された可能性は十分に想定できる。
(京都新聞01.09.07)
銅鐸形土製品(はにわ資料館)

鉄製品と工具(日吉ヶ丘遺跡)

日吉ヶ丘遺跡(明石馬場)
↑今はこんな所で別にナニもない、明石たんぼを見下ろす少し高い丘である。正面の高い山は磯砂山。


蛭子山(えびすやま)古墳。古墳時代前期後半(4世紀後半)
明石といえばまずは巨大古墳ではなかろうか。
蛭子山古墳
デカイ、こんな大きなものはうまく写せない。右が後円部で、直径100メートル、高さ16メートル、三段目が高い。全長145メートルで、日本海側ではナンバー3の巨大古墳。
詳しくは蛭子山古墳」参照

現地の案内板
国指定史跡 昭和五年七月指定
  蛭子山古墳(えびすやまこふん)
 蛭子山一号墳は全長145b(復元長170b)、後円部径100b、高さ16b、前方部幅62b、高さ11bの大形前方後円墳です。墳丘は三段に築かれ、各段に埴輪列、墳丘には葺石が確認されています。古墳は昭和四年と同五十九年に調査が実施され、後円部中央から三基の埋葬施設、二ケ所の方形埴輪列が発見されました。三基の埋葬施設はいずれも南北を主軸とし、平行してつくられています。中央の第一主体部は巨大な墓こう内に砂利を厚く敷きつめ、その上に花崗岩製の舟形石棺を安置していたようです。棺内はすでに荒されていましたが、中国製の内行花文鏡・鉄製大刀などが検出され、棺外からは鉄製武器類が多数発見されました。埴輪列は墓こうを埋めた後、溝を掘って樹立されており33本の埴輪が出土しています。東側の第二主体部は全長4.6bの竪穴式石室で、第一主体部同様に石室を埋めた後、16本の埴輪を立てならべています。第三主体部は一部が確認されただけですが、埴輪列などはないようです。また舟形石棺は加悦谷産の花崗岩を使用しているので、石棺もこの地で製作されたものとみられます。古墳は出土した遺物などより、古墳時代前期、四世紀後半頃(今から1600年ほど前)に築造されたと考えられています。蛭子山一号墳はその規模・内容などからして、古墳時代前期後半頃の丹後地域を代表する首長墓とみられるもので、古代の丹後の成り立ちを考える上でも貴重な歴史的文化遺産といえるでしょう。
昭和61年三月  加悦町教育委員会

明石は古墳公園として復元整備されている日本海側第三位の蛭子山古墳はじめ、約90基の古墳が集中するところ、裏山の一帯はオールマウンテン、オール古墳、膨大な数で一日や二日では見てまわれるものではない。整備されてないものは見ても自然の盛り上がりなのか、最近に棄てられた廃土なのか、それとも古墳なのか見分けもつかない。プロでも同じことで、掘ってみないことにはわからないのだから仕方もない。
リストにあるものだけでも大変な数になる。
まず古墳公園にあるもの。これは誰が見ても王者の古墳である。



『加悦町誌』『加悦町誌資料編』などより。(写真や地図も)



蛭子山一号古墳 藤野にあり、丘陵の端に造成された前方後円墳で 全長一四五メートル、後円部の高さ一四メートル、後円部の径一一五メートル、周濠、葺石、埴輪列が巡らされた三段の造成。
内部に舟形石棺が置かれ、その回りに副葬品多数があった。出土品としては、土師器破片、長宣子孫内行花文鏡、短剣、長剣身、斧頭、鉄鏃、槍身、円筒埴輪、形象埴輪、樹物など。一九二九年(昭和四年)十月発掘調査。出土品は東京国立博物館に所蔵。
蛭子山二号古墳 藤野にあり、丘陵の稜線上の前方後円墳で、俗に帆立貝式古墳という。一号、二号とも一九三○年(昭和五年)「史跡」に指定される。
まだ続いていて八号墳まであるそう。
蛭子山古墳の南側に連なって5基の古墳がある。入口側の方が古い。

作山五号古墳
作山5号墳
↑ナニともわかりにくく、専門家も初はこれが独立の古墳とは思っていなかったとか。右の葺石埴輪列の円墳は1号墳だが、これは帆立貝のような形になる造り出し部を持っていて、写真の上の段の張り出している部分がその1号墳の造り出し部分になる。その下にあるのが方墳の5号墳である。場所を変えて見ると↓
作山5号墳
1号墳はこんな大きな(8m×9m、高さ1m程度)造り出し部をもち、それが5号墳の上に負い被さっている。周辺埋葬施設が15基もあるが(タイルのように見えるもの)、そのいくらかも5号墳の上に設けられている。特にこの方向へ作り出しを築く要因もなさそうで、労力を省いたものだろうか。ひとの墓の上に自分の墓の上つくる、両古墳が築かれたのは蛭子山1号と同じ時期といい大きな時間差はない、自分のオヤジの墓の上に息子が墓を作ったりはすまい、何か系列上の違いがあるのかも。
『加悦町誌資料編』作山5号墳副葬品
五号境は第一次調査以来、一号墳の造出しと認識されてきたが、第二次調査の全面的な発掘調査がなされた結果、一号墳との間を溝によって区画された別個の古墳であることが判明し、五号墳と名づけられた。墳丘は南北一三b、東西一〇b、高さ二bの長方墳であり、東半部は地山を加工することにより、西半部は盛土により築造されている。段築はなく、茸石・埴輪は確認できない。埋葬施設は墳頂部に南北七・六b、東西三・八bの墓壙を穿ち、その中に全長六・四bの長大な木棺を直葬したものである。棺床がU字形を呈することから割竹形木棺の可能性が高い。棺の主軸はほぼ南北方向である。両小口には小口を押さえるために礫を据える。北小口端部から南へ二・二b離れた棺床には小礫が二石置かれ、この南側の棺内からは銅鏡一面・石釧三点・玉類一三四点・鉄製品等が出土した。銅鏡は棺の壁面に斜めに立てかけるように鏡面を上に向けて出土した。その北側には石釧が東に一点、西に二点重なって出土し、銅鏡の南には玉類が南北二群に分かれて出土した。南のグループは勾玉三点と大型の管玉を主体とするが、北のグループは細身の管玉が主体となる。

作山一号古墳
5号墳は呪術王銅王のような感じが強いが、1号墳は武王のような感じもする。蛭子山古墳の第一の将軍かも。何か威力がすごい。
作山1号墳(明石)

花崗岩製の組合式石棺

一号境は全長三六bの造出し付円墳である。円丘部は直径二八b、高さ四bをはかり、二段築成である。造出し部は後世の削平により大半が失われたが、裾部の周辺埋葬施設群の位置関係と、円丘部基底の茸石根石の状況から、その存在が推定された。その規模は長さ約八b、幅九b程度高さ一b未満と思われる。また、墳丘の南東側にはベースを周濠状にカットしている。外表施設には段築・茸石・埴輪がある。二段築成された墳丘の各斜面には茸石が葺かれ、段築テラス面と墳頂部平坦面縁辺には埴輪列がめぐらされる。埴輪は一本ごとに掘られた据付用の穴に埋置された。埴輪列に樹立された埴輪は計八〇本程度が検出されたが、本来樹立されていた埴輪は約一六〇本に及ぶことが推定されている。墳頂部の埴輪列では、丹後型円筒埴輪を主体とし、一〇本に一本程度の割合で朝顔形埴輪を配列している。段築テラスの埴輪列では朝顔形埴輪は少なく、南側で数個体が確認される程度であった。通有の普通円筒埴輪はいずれの埴輪列でも用いられていない。
 埋葬施設は直葬した組合式石棺である。石棺と墓境との関係はいわゆる「構築墓壙」に相当する。墳丘を盛土する中途で石棺の設置・組み上げがなされ、その後石棺から約一b程度距離をおいた外側に盛土をさらに行うとともに、その内側に崩落防止のために粘土を貼り付ける。また、墓壙底面には薄緑〜白色礫を敷きつめていた。
 石棺は主軸を北西−東南方向にとった花崗岩製の副室付組合式石棺である。石棺は左右長側石を立て、その内側に小口板二石と、副室と主室を区切る板材を据えている。西側長側石は一石であるが、東側は二石からなる。底石はなく、棺内床面には主副室ともに小礫を敷き詰める。蓋石は主室と副室とに二石をかぶせていた。棺内主室から出土した骨格は熟年男性一体と推定された。頭位は南である。頭部付近には銅鏡・碧玉製石釧・玉類が副葬され、副室には鉄器類(鉄剣・鉄刀子・鉄斧・鉄鎌・鉄ヤリガンナ)が埋納されていた。
 墓壙外の墳丘北側上面付近には、約二b四方に細かな砂利を敷き詰めた一画があり、そこから数種の土製模造品類や小型器台・小型丸底壷等の土器類が破砕された状態で出土した。これらは墳頂部で執行された祭祀に用いられたものと思われるが、土層観察の結果からは、石棺埋葬・埴輪列設置後にかかる祭祀が実施されたことが判明しており、さらに祭祀終了後、墳頂部全面に黄色土を厚さ五a程度に敷きつめた状態が確認された。
 古墳の周辺には、墳丘を取り囲むように周辺埋葬施設一五基が確認された。墳丘東南側裾部付近には木棺墓五基・埴輪棺墓一基・土坑墓一基が、造出し周辺には埴輪棺墓五基・土器棺墓一基が、南〜南西側裾部付近には木棺墓一基・土坑墓一基が配置されている。このうち埴輪棺に転用された円筒埴輪は一号墳に樹立された丹後型円筒埴輪と共通するものであり、これら周辺施設と一号境との関係性を示している。

作山二号古墳
作山二号墳

作山二号墳墳頂部

二号境は一号境の東に接して位置する円墳で、直径二八b、高さ三・五bをはかる。墳丘は二段築成で、墳丘の東半側には周溝をめぐらす。周溝は一号墳の周溝と接しているが、重複関係より二号墳が後出する。茸石は無く、墳頂部平坦面と段築間のテラスには埴輪列がめぐらされる。埴輪は四七本が確認されたが、本来は一六〇本程度の樹立が想定されている。樹立された埴輪は丹後型円筒埴輪が主体であるが、少量ながら普通円筒埴輪を含む。墳頂部には、縁辺を円形にめぐる埴輪列の内側に、埋葬施設を取り囲むと推定される方形壷形埴輪列が検出された。その列内には小型土器が多数破砕されていたほか、家形埴輪とみられる破片一点がある。また方形埴輪列中には朝顔形埴輪の体部下半を取り去ったものが一本のみ確認された。中心の埋葬施設については、未調査のため不明である。
 墳丘の周辺には、計一〇基の周辺埋葬施設が検出された。墳丘の北西側に木棺墓六基・埴輪棺三基が、その北より周溝内に埴輪棺一基がそれぞれ配置される。これらの埴輪棺に転用された埴輪は二号境に樹立されていたものと同様の特徴を示している。

作山三号墳
作山三号墳

三号項は二号境の東側にある一辺一七b、高さ二bの方墳で、北側に幅一・五b、深さ一bの周溝をもつ。周溝は二号境と接するが、重複関係からは三号境が二号項に後出することが判明している。段築はなく、茸石を持たない。埴輪は少量が出土した。墳頂部平坦面の北よりで、大型の土師器壷形土器が据えられた状態で検出されたほか、小型器台等の小型土器が数個体確認されている。埋葬施設については、未調査のため不明である。

作山四号墳
作山四号墳

四号境は古墳群中最も東に位置する古墳である。全長三〇b、後円部径一八b、現況での高さ三b、前方部幅一二b、高さ一・五bの小型前方後円墳である。後円部は後世の削平を受けており、埋葬施設はすでに破壊された可能性が高く、墳丘北側斜面から出土した花崗岩製板石は石棺等の埋葬施設に関係する部材と思われる。墳丘は段築テラスを南側のみに設け、茸石も南側のみ上下二段に設置するが、北半部は下段茸石を省略する。埴輪は三号境と同じく少量の出土にとどまる。


芦ノ屋一号古墳 芦ノ屋にあり、丘陵の中腹の円墳で、横穴式石室。
芦ノ屋二号古墳 芦ノ屋にあり、丘陵の中腹の円墳で、横穴式石室。

明石大師山古墳群
地理的には蛭子山古墳群や日吉ヶ丘遺跡の大江山側のつづきのような尾根になり、4つの支群がある。時期的には日吉ヶ丘〜蛭子山の39基。
大師山一号古墳 藤野にあり、丘陵の端の円墳で、径四○メートル、高さ六メートルの段築になっている。
大師山二号古墳 藤野にあり、丘陵の稜線上の円墳で、径三○メートル、高さ五メートルの段築になっている。
大師山三号古墳 藤野にあり、丘陵の稜線上の円墳で、径二○メートル、高さ五メートルで、頂上部には樹木がなく、鉄片か出土している。
大師山四号古墳 藤野にあり、丘陵の頂にある円墳で、箱式石棺がみられる。現状は半壊。
大師山五号古墳 藤野にあり、丘陵の最高部に位置する。


堂ケ丘古墳 藤野にあり、丘陵の頂にある円墳。土器多数と石斧が発見されている。現状は全壊。

須代神社一号古墳 庄ヶ崎にあり、台地上の円墳で須代神社境内に立地の横穴式石室が残されている。
須代神社二号古墳 庄ヶ崎にあり、台地上の円墳で、横穴式石室が残され、土器が出土し、現状は全壊。

御陵古墳 棒賀にあり、丘陵の頂の円墳。須恵器が出土する。現状は全壊。

広川古墳 広川にあり、平地の円墳で、横穴式石室の中に組合せ式石棺が置かれ、大刀、須恵器、人骨片、鉄鏃などが出土する。一九一七年(大正六年)七月発掘。

河辺一号古墳 広川にあり、丘陵の頂の円墳で、径三メートル、高さ一、五メートル、出土品は管玉、直刀、鉄鏃、人骨片、金環、須恵器など。一九一七年(大正六年)七月発掘。
河辺二号古墳 広川にあり、丘陵の稜線上の円墳。
河辺三号古墳        〃
河辺四号古墳        〃

滝谷古墳 滝谷にあり、丘陵の端の円墳。

流尾一号古墳 流尾にあり、丘陵の稜線上の円墳で、径二○メートルから三○メートルに及び、現状は完全である。
流尾二号古墳 流尾にあり、丘陵の稜線上の円墳、径二○メール、現状は完全。
流尾三号古墳 流尾にあり、丘陵の端の円墳、径三○メートル、現状は完全。

入谷古墳群 30〜60基の横穴式からなる、丹後では最大の群集墳という。台地上の円墳で、その一基は径一六メートル、高さ三メートル、横穴式石室が残り、土器(須恵器片)、内行花文鏡、大型の壷が出土している。

二ッ塚一号古墳 庄ケ崎にあり、台地上の円墳で径一七メートル、高さ三メートル、現状は半壊である。
二ッ塚二号古墳 庄ヶ崎にあり、台地上の円墳で径五メートル、高さ一メートル、現状は半壊である。
一ツ塚古墳 庄ヶ崎にあり、台地上の円墳で、二ッ塚の東方に位置する。愛宕山三号墳主体部
明石愛宕山古墳群
愛宕山一号古墳 表ノ谷にあり、丘陵の頂上の円墳、愛宕の祠を祭る。現状は完全。
愛宕山二号古墳 表ノ谷にあり、丘陵の稜線上の円墳で、径二五メートル、高さ三メートル、現状は完全である。
愛宕山三号古墳 表ノ谷にあり、丘陵の稜線上の円墳、径二七メートル、高さ二、五メートル、竪穴式石室になっており、その中に箱式石棺、土壙を発見。(一九六五年(昭和四十年)八月、発掘調査)出土品は刀子、勾玉、管玉、小玉、やりがんな、人骨、鏡など。京都府教育委員会所蔵
愛宕山四号古墳 丘陵の稜線上の円墳。
愛宕山五号古墳 丘陵の端の円墳。須恵器片を出土する。
愛宕山六号古墳 丘陵の端の円墳。
愛宕山七号古墳 丘陵の端の円墳で、径一○メートル、現状は半壊。
愛宕山八号古墳 丘陵の端の円墳で、径五メートル、高さ一、五メートル、現状は全壊。
愛宕山九号古墳(釈迦堂古墳) 丘陵の端の円墳で、径二五メートルで、須恵器片が出土する。


式内社・須代神社
須代神社(明石)

祭神は須勢理姫命・天明玉命・天太玉命・倉稲魂命。旧村社。かつて「坂代明神」と称したといわれ、もと200メートルばかり北の鹿の谷に鎮座していたと伝える。また一説に当地に鎮座していた坂代明神と、鹿の谷に鎮座していた須代神社を合祀したともいう。坂代明神については「三代実録」元慶4年(880)10月13日条に「丹後国正六位上(中略)坂代神並授C従五位下」とみえる。毎年2月11日茗荷の生え方によって当年の水稲早晩品種の作柄を占う「みょうが祭」の神事が有名。

須代神社
○【大日本記】素盞烏尊所D生三女神奉D助B天孫C而爲B天祖C所D祭止詔之神也今丹波国与佐乃比沼之眞名井坐須勢理媛
【覈】明石村【明細】同祭日八月廿八日【道】所在同上須代大明神ト云【式考】吉岡氏云本社ヲ里俗坂代明神ト称ス是ニヨラバ三実元慶四年十月十六日丹後国正六位上阪代神従五位下トアルハ此社ノ事ナリ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」)

須代神社
 桑飼村字明石小字宮ノ越、村社、祭紳須瀬理姫命、天明玉命、天太玉命、倉稻魂命、三代実録元慶四年十月十三日丹後國板代神に從五位下を賜る由見ゆるも當社なりや否や不明なり延喜式には竝小社に列す。元鹿之谷に鎮座ありしを寛保三年八月今の地に奉遷再建せしといふ、當社に賓物として銅鐸壹個あり史蹟編に詳録すぺし。明治六年村社、祭八月二十八日氏子百三十九戸。
(『与謝郡誌』)

須代神社  明石小字宮ノ越
 須勢理姫命、天明王命、天太玉命、倉稲魂命を祭る。当社は昔坂代神社と称したといい伝えている。
 延喜式内須代神社は、二町ばかり北の鹿の谷という所に鎮座していたのに、この社を須代神社と称するに至ったのは、合祀の結果とも思われる。しかし、その時代は定かでない。
『三代実録』に八八○年(元慶四年〉十月十三日丹後国正六位上坂代神社に従五位下を賜うとある。
 祭神須勢理姫命は素戔鳴命の子で、大己貴命の妃であり、天明玉命は玉造りの祖で、大己貴命に奉仕、天太玉命は祭祀を司り、倉稲魂命は五穀の神で、須勢理姫の兄に当る。
一七四三年(寛保三年)癸亥、八月再建。
 一八七三年(明治六年)二月豊岡県から村社に指定された。
 一八九三年(明治二十六年)境内拡張工事中神殿の南方から流水文様の銅鐸が出土した。
 この付近一帯は古代人が生活していたらしく、古墳も多く、住居跡があり、弥生式土器も多く出土している。
 一九二三年(大正十二年)八月本殿、拝殿を再建した。
 旧暦一月五日には「茗荷祭」と称し、境内の茗荷の芽のはえ方によって、当年の稲作について、その品種の選定と豊作を祈る祭典が行われる。
(『加悦町誌』)

日吉神社
桑飼小学校の正門前の小高い山に鎮座。
日吉神社(明石)

日吉神社
 桑飼村字明石小字藤野、村社、祭神大山咋命もと温江の木積山にありしを元慶年中慈徳院の権管禅老此に移せしといふ。當社式内木積神社なりとの説あるも徴證なし、宝暦甲戌閏二月再建明治六年村社に列せらる、氏子三十戸、境内末社若宮、外に大谷に愛宕、吉田稻荷、鎌倉に愛宕、金刀比羅、平野岡に稻荷等あるも皆無格社なり。
(『与謝郡誌』)

日吉神社 明石小字藤野
 大山昨命を祭る。
 この神は山城、丹波の開拓を行ったといわれ、土木、建設の神として尊崇されている。なお、造酒の祖ともいう。
 八八八年(仁和四年)、時の臨済宗慈徳院の住職が温江小字木積山の元宮を現在地に移したのがその初めで、一七五四年(宝暦四年)二月に再建された。境内に若宮社がある。
(『加悦町誌』)

亥の代(いのしろ)城址。
明石城跡 明石の表ノ谷にあり、通称亥ノ代城という。本丸、二ノ丸跡が残り、本丸の平坦地に幅、○、三メートルの溝跡がほぼ正方形になっている。城主は市田氏で 山麓に屋敷跡と堤が見られ、地名に馬場、ウマノマヤ、堀越などがあり、付近に市田氏の祖神を祭る石塔が立っている。
(『加悦町誌』)

臨済宗妙心寺派金?山慈徳院
桑飼小学校の前。
慈徳禅寺(明石)

金ゴウ山慈徳院
 桑飼村字明石の藤野にあり本尊聖観世音、永享年中権管和尚開山、堂ノ岡、作り山に地蔵堂あり。
(『与謝郡誌』)

金ゴウ山慈徳院  明石小字藤野
 一四三〇年(永享二年)権管和尚によって開山され、元は谷垣の奥の谷にあった。本尊は聖観世音菩薩。
 谷垣城藤田氏輝の戒名が慈徳院であるところからみて、藤田氏の菩提寺として建立されたものであろう。
江戸時代に火災にあったので、記録がほとんど残っていない。『丹後国郷保田数帳』に「大野郷、六町九十歩慈徳院殿」とある。宝物として涅槃像軸物、三千仏の軸物、十六善神の軸物、大槃若経六○○巻、金剛経出土仏の軸物、伝法衣の袈裟、理趣分経などがある。
境外仏堂に明石平ケ岡の松渓庵があり、延命地蔵を祭り、岩屋雲岩庵の住職万安一和尚によって開基されたという。明石堂ノ坂の藤野堂は延命地蔵を祭り、古い形の堂の形式の残った唯一のものとして、貴重な存在である。
檀家は約二〇〇戸。
(『加悦町誌』)


《交通》

《産業》


明石の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎明石村(温江村の北)
【須代神社】(延喜式)
【金?山慈徳院】(臨済宗)
【付録】(山王宮、地蔵堂)

『加悦町誌』
滝谷の蛇 明石の滝谷に草刈りにいった男が、大蛇を見つけ、切れもので、首・胴体・尾を切り離し、棒賀・大代の荒神山並びに須代神社の一本松の下に埋めた。その後、その男の主家は滅んで、その男はここにおられなくなった。
滝谷は香河峠の手前



明石の小地名


明石
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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