丹後の地名

日置(ひおき)
宮津市

日置上空より

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京都府宮津市日置

京都府与謝郡日置村

日置の概要




《日置の概要》

日置は名勝・天橋立の北方3キロばかりのところ。古来チョー有名。すなわち「丹後国風土記逸文」に、
浦嶼子
 丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。爲人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。…
その「日置の里」の中心地である。このあたりに住む人達、男女を問わず「姿容秀美、風流なること類なし」ドキンと心臓が止まる。遙かな昔の浦島太郎さんや乙姫さんではなかろうか、目をこする。ここはイナカではない、何かあったのではの思いが強くなる。

日置は畑川・世屋川の下流域に位置し、東は宮津湾(与謝海)に面す。国道178号(丹後半島一周道路)沿いおよび海岸沿いに小字浜、府道浜丹後線(世屋谷道)に沿って小字(あげ)がある。

古代の日置郷。風土記は「里」と呼んでいるが、奈良期〜平安期に見える郷名で、「和名抄」丹後国与謝郡7郷の1つ。「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。同名郷は諸国に見られるが「ひおき」とよぶ例が多い、日置は「ひき」「へき」ともよぶ。
郷域は古代から中世にかけてかなり変化があったと考えられ、「日本地理志料」は「閉岐」とよみ、「成相里・波見・中波見・奥波見・世屋・松尾・東野・長江・岩鼻・日出」に比定、「大日本地名辞書」は「今の世屋・養老・朝妻・伊根・筒川・本荘の六村皆本郷の旧域とす、与謝郡北部なる山海、経岬に至るまで皆本郷に係る」とする。
「与謝郡誌」は、「風土記浦島傳には日置里とあり、元正天皇の朝に里を改めて郷となせるゆゑ此以前の制度によりしならん。尚風土記には今の本庄、筒川邊をも日置里と呼べるやう見受けらるゝが、其の区画平安朝に於ても同じきが如し。今日置、世屋、野間、養老、伊根、朝妻、本庄、筒川、日ケ谷一をなせるなるべし。地域廣きも人口乏しきゆゑ斯くの如く定めしならん。」
「宮津市史」は、「日置郷。平城宮跡出土の木簡に「日置郷」とあり(別掲四三)、「丹後国風土記」逸文に「日置里」とある。風土記逸文ではこの里に筒川村があると記載されており(別掲一○五)、この史料をもとにすると、おそらく現在の宮津市字日置から筒川を含む伊根町一帯に比定できよう。」とする。

 日置とは何のことなのであろうか。日置と呼ばれた氏族が住んでいたからと思われるが、ナゾの氏族とされる。
『古代地名語源辞典』は、
日置部に由来する地名か。「日置」の古訓については、ヘキが古く、戸数を調べて置くの意で租の徴収と関係があるとする説、ヒオキで暦法・卜占と関係があるとする説、また浄火を常置し神事とつながれがあるとする説などがある。
『西丹波秘境の旅』は、
ヒオキは、その太陽の運行を拝跪し、また計測する人々のいたところといわれているが、それは冠島南方から昇る夏至の太陽が、成相山の彼方に没するのを計測する日置部(日下部と同義)であった。日置部は日祀ヒホキ(日奉)部であって、…
『古代の鉄と神々』は、
日置氏と日神祭祀
…古代人は太陽の運行によって測量するのは現代人よりもはるかによくしたところで、必ずしも特定の氏族でなくともよかった。日置部の職掌としたところは、日祀(日奉)部と並んで日神祭祀にあった。日置流と云えば弓道の代表的流儀である。弓矢が海人族の日神祭祀の祭具であるとすれば、日置すなわち日を招ぎ迎える祭祀に用いた弓矢から、弓術の流儀の生まれるのは当然であった。
 多気には「海住(かいじゅう)」と名のる家もあり、海人族の出身であることは明らかだが、美杉村の山中深く海人族が住いしていたことを示すもので、日置氏も同じ海人族の一であり、弓矢をもって日神の祭祀を行いつつ製鉄に従事したものと察せられる。製鉄は水稲農耕の推進のためである。現在も美杉村の米の生産量の七○%は山間の僻地である漆の地であるという。
日置部と製鉄
日置氏が製鉄と結びつくことは、垂仁天皇紀三十九年十月条に、五十瓊敷命が茅沼の菟砥の川上宮に居て、大刀一千口を作ったとき、これに参加した十箇の品部の中に日置部もみられることがあげられる。日置氏が製鉄に関わった氏族であり、漆の地に鉄が得られたとすれば、ここに日置姓の家が多いことも不思議ではないのである。

 日置地名などを周辺から拾ってみると、
京都府福知山市夜久野町日置(へき)
福知山市(おき)
京都府綾部市八津合町日置(へき)
京都府綾部市睦合町草壁(くさかべ)
京都府船井郡八木町日置(ひおき)
福井県大飯郡高浜町日置(ひき)
兵庫県城崎郡日高町日置(ひおき)(気多郡日置郷)。
篠山町日置(ひおき)(多紀郡日置郷)


 さて、「出雲国風土記」神門郡には、
〔日〕置の郷 郡家の正東四里なり。志紀嶋の宮に御宇しめしし天皇(欽明)の御世、〔日〕置の伴部等、遣され来て、宿停まりて 政爲し所なり。故、〔日〕置といふ。
日置は日が脱落してオキとも呼ばれたことがわかる。日置地名の語源説明としては、まことにわかりやすい話であるが、しかしさっぱりとわからない。日置氏とは何物なのであろうか。
吉野裕氏は、「日置の伴部 日置臣は応神天皇の皇子大山守命の後とされるが(姓氏録)、日置部・日置造などの別系氏もあり、あきらかにしがたい。あるいは製鉄関係の部民で、欽明朝の鋼鉄などの仏像・仏寺の製造と関係があるか。」と注釈しておられる。

『知られざる古代』(水谷慶一・1989)は、
…さて、これだけ同一の緯度上にかなりの密度でならぶ「日置」であるが、これをどのような氏族とみるかは学者によって実にまちまちである。この方も、これまでの説をいちおう整理しておこう。
@太陽神をまつり、暦法・卜占と関係のある集団とみる説。これについては第四章でかなり詳しく述べた。柳田国男や折口信夫によって代表される。
A浄火を常置し、これを管理する集団とみる説。いわゆる「消えずの火」や「火継ぎの神事」にかかわったものとし、のちに宮廷で油火と蝋燭の供給を受け持ったとする。これは民俗学者の中山太郎らによって代表される。
B日置は「ヘキ」と読むのが正しく、もともと戸置の字を当てるべきで、これは租税を徴集するために戸数を調べ置く意味だという説。江戸時代の国学者、伴信友や太田亮によって代表される。

日置や日下部の性格と関係すると思われる記録は、

「垂仁紀」
石上神宮と神宝 …
一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥河上に居しまして、鍛名は河上を喚し、大刀一千口を作らしめたまふ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、并せて十箇の品部を五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀は、忍坂邑に蔵め、然して後に、忍坂より移して石上神宮に蔵む。是の時に、神乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なりといふ。

「尾張国風土記逸文」
吾縵郷
 尾張の国の風土記中巻に曰はく、丹羽の郡。吾縵の郷。巻向の珠城の宮に御宇しめしし天皇のみ世、品津別の皇子、生七歳になりて語ひたまはず、旁く群臣に問はすれども能言さざりき。乃の後、皇后の夢に、神ありて告りたまひしく、「吾は多具の国の神、名を阿麻乃彌加都比女と曰ふ。吾、未だ祝を得ず。若し吾が篤に祝人を宛てば、皇子能言ひ、亦是、み壽考からむ」とのりたまひき。帝、神覓ぐ人を卜へたまふに、日置部等が祖、建岡の君、卜食へり。即ち、神を覓がしめたまふ時に、建岡の君、美濃の国の花鹿山に到り、賢樹の枝をよぢとりて縵に造り、誓ひて曰ひしく、「吾が縵の落ちむ處に必ず此の神あらむ」といふに、縵去きて此間に落ちき。乃ち神あるを識り、因りて社を竪てき。社に由りて里に名づく。後の人訛りて、阿豆良の里と言ふ。

福興寺
 同じき国の愛知の郡。福興寺俗、三宅寺と名づく。郡家より南に去ること九里十四歩、日下の郷の伊福の村にあり。平城の宮に御宇しめす(天璽国押開櫻彦命の)天皇の神亀元年、主政、外従七位下三宅連麻佐、造り奉れり。

 与謝の日置氏は日下部(くさかべ)氏とも呼ばれたように思われるが、『宮津市史』は、
日下部をめぐって
表6の8の水江浦嶋子は「丹後国風土記」逸文に日下部首の祖と記されている。『日本書紀』顕宗即位前紀には市辺押磐皇子の子である弘計(ヲケ、のちの顕宗天皇)、億計(オケ、のちの仁賢天皇)の二王は、市辺押磐皇子謀殺の難を「丹波国余社郡」(与謝郡)に逃げ、与謝の地からさらに播磨の明石方面に逃亡し、そこで身分を明らかにしたこととなっている(三○)。この中で二王を与謝に導いたのが市辺押磐皇子の侍臣、日下部連使主とその子、吾田彦となっているように日下部は与謝の地と深くかかわっている。ただ水江浦嶋子の後裔は日下部首であり、弘計・億計二王を与謝に導いたのは日下部連とカバネは異なっている。しかし、両者は『新撰姓氏録』によると、同じ祖先伝承を伝えているのである。すなわち「新撰姓氏録」河内国皇別に「日下部連 彦坐命子狭穂彦命之後也。」同書和泉国皇別に「日下部首 日下部宿禰同祖。彦坐命之後也。」とあって、ともに丹波・丹後の伝承上重要な存在である丹波道主王の父に位置づけられている彦坐王を祖先とする伝承を伝えているのである。よって表6の与謝郡に関係する日下部は8のみであるが、日下部と与謝は密接にかかわっているといえよう。さらに、『日本書紀』の雄略紀には大草部吉士の賜姓など日下部の関連伝承が多いという指摘(上田正昭「史料編第一巻解説」)もあり、これらのことを背景に先の伝承の理解の糸口にすることもできる。また日下部は名代・子代のひとつであることから、与謝と倭王権のかかわりも想定できるのである。
 なお、与謝郡に属した宮津市難波野の麓神社と同須津の須津彦神社はともにヲケ、オケ二王が難をのがれた場所であったと地元で伝えられている。

 日下部氏もナゾであるが、但馬国造氏も勤めており、丹後海部氏とも近い関係と思われる。
遙か古代に発する名であり、たぶん日本語で解くことはムリな、渡来語であろうかと思われる。金沢庄三郎はキは村の意味と見ているよう。日置は当字で、ヘ村、そのヘは太陽か。朝日照り夕日輝く村、日の村というのが元々の意味かも、日本の国号の原型かも知れない。
渡来人だから先進的で活動的で、当時求められたたいていの新しい事業はすべてやった、ように見える。広くは天日槍の後裔的な氏族かも知れない。日本の日、天日槍の日、その意味の日村がオリジナル的な解釈か。

 中世の日置郷。
南北朝期〜戦国期に見える郷名。明徳2年9月28日付の西大寺末寺帳に「丹波国」の末寺として「金光明寺 〔ヒオキ〕金剛心寺 〔志楽〕泉源寺 成願寺」と見えるという(極楽寺文書)。
「丹後国田数帳」には、
一 日置郷 六町一段三百廿歩内
  六段           八幡領
  二町七段三百廿歩  成相寺 惣持院
  五段           本 主
  二町三段四歩     矢野藤左衛門

「丹後御檀家帳」には、
与謝郡分
一 ひをきの郷一円里数あまたあり
  ちいさき村ヘハ毎年音信不申候
    (朱書)
一 ひおきしを浜家百弐拾軒斗
  南 太 夫 殿   か う お や 也
  南 又三郎 殿   九郎左衛門殿
  岩 本 坊     助 左 衛 門 殿
    かうをや    かうおや
  わらや助太郎殿   五郎左衛門殿

  三郎左衛門との    七郎左衛門との
  小 次 郎 と の    与 次 郎 と の
  次郎三郎と の    左 門 助 と の
  かうしやとの     三 郎 次 郎 殿
  小 三 郎 殿    衛 門 三 郎 殿
  助 五 郎 殿    三 郎 助 と の
  又 次 郎 殿    弥 四 郎 と の
  〆
  (日 置 向)
一 ひをきむこ山の御城  御内衆の家
            三拾軒斗
           御そうしや
一 宮殿をとな也
  杉 左 馬 亮 殿  真下三左衛門殿
一 ひをき田中むら  家八拾軒斗
  中垣小治郎との かうをや中垣藤五郎殿
             よつまちの
  ミつかき与三左衛門殿 七郎左衛門殿
  かちや助左衛門殿   木 の 下 ど の
一 ひをきくわ田村  家八拾軒斗
かうをや(朱書)
 (津可)「し」
  川  ら  殿  助 左 衛 門 殿

  三 郎 兵 衛 殿  弥 五 郎 殿
  は ん 中 殿  五 郎 次 郎 殿
  助 五 郎 殿
  〆
一 日置殿の御城山  御内衆の家多く有
  日  置  殿
一 日置中村  家六拾斗
           大寺也日置殿御寺
  金剛心院 大寺也  禅  海  寺
  見田蔵人殿    新 右 衛 門 殿
  助左衛門殿    喜 三 郎 殿
  七郎五郎殿    又 五 郎 殿
  与次郎 殿
 〆

一 日置竹森村  家百軒斗
 下 の 坊  此人道ひかれし山ぶし也
       かへしする人
 せんしやう殿    松井式部丞殿
かうをや(百鳥)
 も ゝ と り 殿
ここに見える地名は現在の小字向山(むこやま)・田中・水垣(みずがき)・かち・桑田・城山(しろやま)竹森(たけもり)などに残る。
田数帳に見える本主とは日置氏のこと、御檀家帳の時代には日置上に居城していた。
日置氏は鎌倉期以来、御家人と称して当郷に盤踞、鎌倉期には日置郷友枝保、南北朝期には日置郷友枝有富両保地頭職を帯して、日置上城と日置浜城(むこ山城)に拠って一色氏の有力被官となったが、細川氏の丹後入国とともに降ったという。
御檀家帳ではむこ山城に一宮殿(府中一色氏)の重臣杉左馬亮が居城、日置中村には金剛心寺(金剛心院)と禅海寺が見えるが、禅海寺は日置氏の菩提寺。
天文18年(1549)の岩ケ鼻山王社棟札では、岩ケ鼻・外垣・日ケ谷・大島はすべて伊禰庄とよんでいる、かつて風土記にみえる筒川の里までも含んだと考えられる日置郷は、そののちかなりの部分が伊禰庄として立荘、分離されている。

 近世の日置村。
 江戸期〜明治22年の村名。日置郷とも称した。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領生野代官支配地、天和元年宮津藩領、享保2年幕府領湊宮代官、久美浜代官支配地、宝暦8年以降宮津藩領。江戸初期に日置浜村と日置上村に分村した。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。明治初期に再び1村となる。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成した。

近代の日置村。
明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名。大字は編成せず。
昭和29年宮津市の大字となる。同年の戸数248・人口1、120。

近代の日置。
昭和29年〜現在の宮津市の大字名。


《日置の人口・世帯数》 780・255

《主な社寺など》
金剛心院(宮津市日置)
日置と府中の境の尾根上には、高石1〜3号墳(いずれも円墳)。
寺院は浜に日蓮宗顕立山妙円寺
上に単立真言系秘密山金剛心院・臨済宗妙心寺派百丈山禅海寺
金剛心院には国重文の春日厨子入り木彫愛染明王坐像1体・木彫如来形立像1体、そのほか六波羅探題・足利尊氏・内藤宗勝の制札、細川忠興の文書などを蔵し、禅海寺には国重文木彫阿弥陀如来および両脇侍像3体・木彫千手観音立像1体を蔵する。世屋谷入口の日置上城および浜の日置向山城は鎌倉御家人を誇る日置氏関係の山城で、向山城には室町期丹後の典型的な板碑1基がある。


《交通》
国道178号線


《産業》

日置の主な歴史記録


『丹後国風土記逸文』
浦嶼子
 丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。爲人、姿容秀美しく、風流なること類なかりぎ。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。是は、舊の宰伊預部の馬養の連が記せるに相乖くことなし。故、略 所由之旨を陳べつ。長谷の朝倉の宮に御宇しめしし天皇の御世、嶼子、独小船に乗りて海中に汎び出でて釣するに、三日三夜を経るも、一つの魚だに得ず、乃ち五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて船の中に置きて、即て寝るに、忽ち婦人と爲りぬ。其の容美麗しく、更比ふべきものなかりき。嶼子、問ひけらく、「人宅遥遠にして、海庭に人乏し。いずれの人か忽に来つる」といへば、女娘、微咲みて対へけらく、「風流之士、独蒼海に汎べり。近しく談らはむおもひに勝へず、風雲の就来つ」といひき。嶼子、復問ひけらく、「風雲は何の處よりか来つる」といへば、女娘答へけらく、「天上の仙の家の人なり。請ふらくは、君、な疑ひそ。相談らひて愛しみたまへ」といひき。…

『大日本地名辞書』
【日置郷】和名抄、与謝郡日置郷。○今日置村存す、風土記逸文に「与謝郡日置里、此里有筒川村」と云ふによれば、今の世屋、養老、朝妻、伊根、筒川、本庄の六村皆本郷の旧域とす、与謝郡北部なる山海、経岬に至るまで皆本郷に係る。
日置村は直に府中の北に連り、其西嶺には世屋村あり、其北部の海岸を波見崎と云ふ、日置に城跡あり、日置氏の居と伝ふるも、始末を詳にせず。
補【日置郷】与謝郡○和名抄郡郷考、風土記与謝郡日置里、此村有筒川村、此人夫、日下部首等祖、名云筒川嶼子、為人姿容秀美、風流無類、斯所謂水江浦嶼子者也。○日置村今存す、拝師郷の北に接す、本庄村・筒川村・伊根村・朝妻村・養老村などみなこの中なり、但し別に浦神社の神戸郷もあるに似たり。
○宮津府志、浜村に日置弾正、上アげ村には日置小治郎と云ふもの居れりと云、又一書に倉内将監と云者、日置の城を築くと、又田辺府志には松井・金山・茂呂・菊井の四氏日置城に居すとあり、年暦前後詳なることを知らず。

『丹後路の史跡めぐり』
日置の里
 このあたりは昔花浪の里とよばれた所で、弘安元年(一二七八)大江九郎季行が、蒙古が来襲した文永の役に功労があったとして、北条時宗から地頭を命ぜられて本拠とした処、のち日置氏と姓を改め浜の妙見山に城を築いた。



日置の小字


日置
札ケ谷 高石 地蔵谷口 矢ノ谷口 矢ノ谷 石尾尻 大谷河原 大谷口 西ノ野 竹ビ 中瀬 堀切口 氷牧谷口 狐塚 鎌町 五反田 一丁田 ソリ口 池田 赫山*かくやま キビ谷 倉谷 ソリ 砂入 野田 倉谷口 コヅクシ 弓田 勘右衛門石田 名森 杉森 横川 家ノ上 向山 城ノ腰 観音堂 勘右衛門 一本木 西ノ宮 笠原 水垣 金山 神谷 ボケ 堂屋敷 山田割 大清水 三反田 馬場崎 溝崎 小向 塚原 絹巻*きぬまき ツクタ 勇田 八斗田 カジ 大上戸 棚垣 山王前 山王後 山王 河原垣 鍛冶ノ上 田中 鍛冶 鍛冶屋 クコ法師栗 大坪 渡リセ 今福 門ノ前 内垣 寺ノコシ 堤 井関 道土原 岡田 風土*ふうど 伊尾谷 鳥ノヲク 門地 門ノ畑ツシ 桑田 砂田 サクラ垣 トウ田 寺戸 柱貫 武蔵 小玉 コダマ 小田モ 横田 桜垣 サラカ坪 サラガ坪 蔵ノ前 井戸 スミタ 大溝 ノ川 小池 舟屋敷 木綿畑 トヲロ田 竹立場 天骨 桑原 壱本森 宮ノ前 宮ノコシ 荒田ケ谷 当チ引 トチ引 小屋ノ谷 コマカナル ヲクカハラ 二ノ井子口 宮屋敷 本化坊 ミナツキハ ミナツキバ ニンブ ヱモンボリ 右衝門堀 大川原 茂エ門田 フケ 大河原 川尻 古川 向河原 五反歩 六反歩 六反田 竹コシ 前田 桂鉾 タモノキ 川向 大道 中河原 猪口 山添 林ノ谷 一ノイ子 馬場 ツクアミ イヲノシリ 東角 西角 南田 イヲゝ 大田 四反田 添 添西角 リンシテン ミゾクロ キノ戸 溝クロ 石田 角田 梅ノ木 上ノ堀 大外垣 クラ谷 弥助 東谷 マトハ 上登 キノト 譲リハ スゝキ 松ケ坪 ハクダ 伊尾後 ツキス 土ノ坪 明福 下モ田 ユヅリハ 枕シタ 高畔 サキノ尻 弥助尻 イノキ谷 大石谷 榎谷 百町 猿御殿 ハケ谷 チハラ 研屋*みがきや 中山尻 世屋谷 堂谷 中山 芦中 カタウケ サキノシリ ヘラ田 塚谷 スヱシ 石尾尻 大谷 平尾尻 スリコギ 鳥ノ尾 西谷河原 西谷口 孫谷 孫谷口 西谷 山林 堀切 上藤流 上新宮 氷牧河原 中薪宮 下新宮 白髪 浜垣 天マ石 氷牧口 氷牧 氷牧谷 サゝコ谷 石ノ尾尻 坂山谷 坂山尻 奥椿ケ谷ノタバ キビ谷 倉谷 城山 ケシマ 城ノコシ 若宮 佐右衛門谷 小室 小風呂口 谷登り 右道 小室口 井関奥 狐塚奥 地蔵ノ谷 小孫谷 孫谷堀切 氷牧サゝゴ谷 氷牧坂山 氷牧サカ山 椿ケ谷 梶為 蝮蛇谷 長尾尻 林ノ谷口 ツカ谷 ハゲ谷 大池上 波見崎 ヤクシ 寺ノ越 道々原 道上原 古宮谷 風戸 桶ケ谷 足谷口 若宮ノ横 谷地 奥谷 薬師谷奥 薬師谷 薬師 竹モリ 竹森 茨崎 シロ山 大池ノ上 コマガナル 胡麻ケ成 ハシ谷 ソヘ谷 添谷 小屋ノ谷ノヲク 小谷ノ谷 ハシ谷口 ヲクカワラ フクシ 長尾 中谷 スエシ 地蔵尾 舟ケ尾 舟ケ尾小谷 舟ケ尾ズヱ 石ノ尾 大谷左 大谷奥 大谷右 茶園 ?木谷奥 西谷左ノ奥 西谷右 新宮 矢ノ谷左 矢ノ谷奥 矢ノ谷右 若林 氷牧短カ尾 氷牧右 氷牧谷右 氷牧荒代 氷牧口右 ハゲ山 キヒ谷 クラダニグチ コツクジ コズクシ コツグシ 岡ノナル 万東谷 岡田口 古宮谷 ニノマカリ 伊尾谷口 牛休 クニチデン 上山 小野垣 鳥ノ奥 長谷 キラク谷 峠 蛇池 小峠 トチヒキ 大ナル尻 トチ引 大ナル 荒田ノ谷 ハシ谷打コシ谷 ハシ谷松山 ハシ谷石倉谷 口石倉谷 犬ケ尾 犬ケ尾道ブチ 口石倉谷嶺 奥石倉谷 石倉谷 地土山 奥谷嶺 提打越 杉ノ前 胡麻ケナル 薬師山 愛宕下 愛宕屋敷 本丸 五郎カ谷口 西ノ丸 五良ケ谷 胡麻ケ成ル 胡魔ケナル 山ノ神 打コシ 奥河原 フチガハナ 福地 ヱノキ谷 向荒神 ソヱ谷 カザト ヲカダ フルミチ コブロ フタケ谷 平尾尻 平尾 浜崎 平尾谷 中藤流 右御堂 上大道 上大堂 坂 菱田 坂下 中地 四辻 大塚 小塚 墓下 氷牧川尻 大門 寺腰 上釈迦堂 ヲンカ谷 ノタバ 上池田 下釈迦堂 釈迦堂 モリ 浜垣 中村 山田屋赦 長塚 三人夫 渡り場 上川尻 コツクシ 小孫 大成 ハケ谷右カワ 裏山 クロ河原 門ノ地 長尾尻 ヲノガキ 若宮口 若宮下 蓮池 ハス池 門ノ上 柿畑 西ノ堀 助兵衛堀 ナカシマ 水無月場 フチガハナ 上堀 道フチ 豆場 梅ノキ 舟ケ尾 小谷 中道 長五郎堀 小松浜

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京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
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市町別 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん




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