日置(ひおき)
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京都府宮津市日置 京都府与謝郡日置村 |
日置の概要《日置の概要》 日置は名勝・天橋立の北方3キロばかりのところ。古来チョー有名。すなわち「丹後国風土記逸文」に、
日置は畑川・世屋川の下流域に位置し、東は宮津湾(与謝海)に面す。国道178号(丹後半島一周道路)沿いおよび海岸沿いに小字浜、府道浜丹後線(世屋谷道)に沿って小字 古代の日置郷。風土記は「里」と呼んでいるが、奈良期〜平安期に見える郷名で、「和名抄」丹後国与謝郡7郷の1つ。「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。同名郷は諸国に見られるが「ひおき」とよぶ例が多い、日置は「ひき」「へき」ともよぶ。 郷域は古代から中世にかけてかなり変化があったと考えられ、「日本地理志料」は「閉岐」とよみ、「成相里・波見・中波見・奥波見・世屋・松尾・東野・長江・岩鼻・日出」に比定、「大日本地名辞書」は「今の世屋・養老・朝妻・伊根・筒川・本荘の六村皆本郷の旧域とす、与謝郡北部なる山海、経岬に至るまで皆本郷に係る」とする。 「与謝郡誌」は、「風土記浦島傳には日置里とあり、元正天皇の朝に里を改めて郷となせるゆゑ此以前の制度によりしならん。尚風土記には今の本庄、筒川邊をも日置里と呼べるやう見受けらるゝが、其の区画平安朝に於ても同じきが如し。今日置、世屋、野間、養老、伊根、朝妻、本庄、筒川、日ケ谷一をなせるなるべし。地域廣きも人口乏しきゆゑ斯くの如く定めしならん。」 「宮津市史」は、「日置郷。平城宮跡出土の木簡に「日置郷」とあり(別掲四三)、「丹後国風土記」逸文に「日置里」とある。風土記逸文ではこの里に筒川村があると記載されており(別掲一○五)、この史料をもとにすると、おそらく現在の宮津市字日置から筒川を含む伊根町一帯に比定できよう。」とする。 日置とは何のことなのであろうか。日置と呼ばれた氏族が住んでいたからと思われるが、ナゾの氏族とされる。 『古代地名語源辞典』は、
日置地名などを周辺から拾ってみると、 京都府福知山市夜久野町 福知山市 京都府綾部市八津合町 京都府綾部市睦合町 京都府船井郡八木町 福井県大飯郡高浜町 兵庫県城崎郡日高町 篠山町 さて、「出雲国風土記」神門郡には、
吉野裕氏は、「日置の伴部 日置臣は応神天皇の皇子大山守命の後とされるが(姓氏録)、日置部・日置造などの別系氏もあり、あきらかにしがたい。あるいは製鉄関係の部民で、欽明朝の鋼鉄などの仏像・仏寺の製造と関係があるか。」と注釈しておられる。 『知られざる古代』(水谷慶一・1989)は、
日置や日下部の性格と関係すると思われる記録は、 「垂仁紀」
「尾張国風土記逸文」
与謝の日置氏は
日下部氏もナゾであるが、但馬国造氏も勤めており、丹後海部氏とも近い関係と思われる。 遙か古代に発する名であり、たぶん日本語で解くことはムリな、渡来語であろうかと思われる。金沢庄三郎はキは村の意味と見ているよう。日置は当字で、ヘ村、そのヘは太陽か。朝日照り夕日輝く村、日の村というのが元々の意味かも、日本の国号の原型かも知れない。 渡来人だから先進的で活動的で、当時求められたたいていの新しい事業はすべてやった、ように見える。広くは天日槍の後裔的な氏族かも知れない。日本の日、天日槍の日、その意味の日村がオリジナル的な解釈か。 中世の日置郷。 南北朝期〜戦国期に見える郷名。明徳2年9月28日付の西大寺末寺帳に「丹波国」の末寺として「金光明寺 〔ヒオキ〕金剛心寺 〔志楽〕泉源寺 成願寺」と見えるという(極楽寺文書)。 「丹後国田数帳」には、
「丹後御檀家帳」には、
田数帳に見える本主とは日置氏のこと、御檀家帳の時代には日置上に居城していた。 日置氏は鎌倉期以来、御家人と称して当郷に盤踞、鎌倉期には日置郷友枝保、南北朝期には日置郷友枝有富両保地頭職を帯して、日置上城と日置浜城(むこ山城)に拠って一色氏の有力被官となったが、細川氏の丹後入国とともに降ったという。 御檀家帳ではむこ山城に一宮殿(府中一色氏)の重臣杉左馬亮が居城、日置中村には金剛心寺(金剛心院)と禅海寺が見えるが、禅海寺は日置氏の菩提寺。 天文18年(1549)の岩ケ鼻山王社棟札では、岩ケ鼻・外垣・日ケ谷・大島はすべて伊禰庄とよんでいる、かつて風土記にみえる筒川の里までも含んだと考えられる日置郷は、そののちかなりの部分が伊禰庄として立荘、分離されている。 近世の日置村。 江戸期〜明治22年の村名。日置郷とも称した。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領生野代官支配地、天和元年宮津藩領、享保2年幕府領湊宮代官、久美浜代官支配地、宝暦8年以降宮津藩領。江戸初期に日置浜村と日置上村に分村した。 明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。明治初期に再び1村となる。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成した。 近代の日置村。 明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名。大字は編成せず。 昭和29年宮津市の大字となる。同年の戸数248・人口1、120。 近代の日置。 昭和29年〜現在の宮津市の大字名。 《日置の人口・世帯数》 780・255 《主な社寺など》 日置と府中の境の尾根上には、高石1〜3号墳(いずれも円墳)。 寺院は浜に日蓮宗顕立山妙円寺。 上に単立真言系秘密山金剛心院・臨済宗妙心寺派百丈山禅海寺。 金剛心院には国重文の春日厨子入り木彫愛染明王坐像1体・木彫如来形立像1体、そのほか六波羅探題・足利尊氏・内藤宗勝の制札、細川忠興の文書などを蔵し、禅海寺には国重文木彫阿弥陀如来および両脇侍像3体・木彫千手観音立像1体を蔵する。世屋谷入口の日置上城および浜の日置向山城は鎌倉御家人を誇る日置氏関係の山城で、向山城には室町期丹後の典型的な板碑1基がある。 《交通》 国道178号線 《産業》 日置の主な歴史記録『丹後国風土記逸文』
『大日本地名辞書』
『丹後路の史跡めぐり』
日置の小字日置 札ケ谷 高石 地蔵谷口 矢ノ谷口 矢ノ谷 石尾尻 大谷河原 大谷口 西ノ野 竹ビ 中瀬 堀切口 氷牧谷口 狐塚 鎌町 五反田 一丁田 ソリ口 池田 赫山*かくやま キビ谷 倉谷 ソリ 砂入 野田 倉谷口 コヅクシ 弓田 勘右衛門石田 名森 杉森 横川 家ノ上 向山 城ノ腰 観音堂 勘右衛門 一本木 西ノ宮 笠原 水垣 金山 神谷 ボケ 堂屋敷 山田割 大清水 三反田 馬場崎 溝崎 小向 塚原 絹巻*きぬまき ツクタ 勇田 八斗田 カジ 大上戸 棚垣 山王前 山王後 山王 河原垣 鍛冶ノ上 田中 鍛冶 鍛冶屋 クコ法師栗 大坪 渡リセ 今福 門ノ前 内垣 寺ノコシ 堤 井関 道土原 岡田 風土*ふうど 伊尾谷 鳥ノヲク 門地 門ノ畑ツシ 桑田 砂田 サクラ垣 トウ田 寺戸 柱貫 武蔵 小玉 コダマ 小田モ 横田 桜垣 サラカ坪 サラガ坪 蔵ノ前 井戸 スミタ 大溝 ノ川 小池 舟屋敷 木綿畑 トヲロ田 竹立場 天骨 桑原 壱本森 宮ノ前 宮ノコシ 荒田ケ谷 当チ引 トチ引 小屋ノ谷 コマカナル ヲクカハラ 二ノ井子口 宮屋敷 本化坊 ミナツキハ ミナツキバ ニンブ ヱモンボリ 右衝門堀 大川原 茂エ門田 フケ 大河原 川尻 古川 向河原 五反歩 六反歩 六反田 竹コシ 前田 桂鉾 タモノキ 川向 大道 中河原 猪口 山添 林ノ谷 一ノイ子 馬場 ツクアミ イヲノシリ 東角 西角 南田 イヲゝ 大田 四反田 添 添西角 リンシテン ミゾクロ キノ戸 溝クロ 石田 角田 梅ノ木 上ノ堀 大外垣 クラ谷 弥助 東谷 マトハ 上登 キノト 譲リハ スゝキ 松ケ坪 ハクダ 伊尾後 ツキス 土ノ坪 明福 下モ田 ユヅリハ 枕シタ 高畔 サキノ尻 弥助尻 イノキ谷 大石谷 榎谷 百町 猿御殿 ハケ谷 チハラ 研屋*みがきや 中山尻 世屋谷 堂谷 中山 芦中 カタウケ サキノシリ ヘラ田 塚谷 スヱシ 石尾尻 大谷 平尾尻 スリコギ 鳥ノ尾 西谷河原 西谷口 孫谷 孫谷口 西谷 山林 堀切 上藤流 上新宮 氷牧河原 中薪宮 下新宮 白髪 浜垣 天マ石 氷牧口 氷牧 氷牧谷 サゝコ谷 石ノ尾尻 坂山谷 坂山尻 奥椿ケ谷ノタバ キビ谷 倉谷 城山 ケシマ 城ノコシ 若宮 佐右衛門谷 小室 小風呂口 谷登り 右道 小室口 井関奥 狐塚奥 地蔵ノ谷 小孫谷 孫谷堀切 氷牧サゝゴ谷 氷牧坂山 氷牧サカ山 椿ケ谷 梶為 蝮蛇谷 長尾尻 林ノ谷口 ツカ谷 ハゲ谷 大池上 波見崎 ヤクシ 寺ノ越 道々原 道上原 古宮谷 風戸 桶ケ谷 足谷口 若宮ノ横 谷地 奥谷 薬師谷奥 薬師谷 薬師 竹モリ 竹森 茨崎 シロ山 大池ノ上 コマガナル 胡麻ケ成 ハシ谷 ソヘ谷 添谷 小屋ノ谷ノヲク 小谷ノ谷 ハシ谷口 ヲクカワラ フクシ 長尾 中谷 スエシ 地蔵尾 舟ケ尾 舟ケ尾小谷 舟ケ尾ズヱ 石ノ尾 大谷左 大谷奥 大谷右 茶園 ?木谷奥 西谷左ノ奥 西谷右 新宮 矢ノ谷左 矢ノ谷奥 矢ノ谷右 若林 氷牧短カ尾 氷牧右 氷牧谷右 氷牧荒代 氷牧口右 ハゲ山 キヒ谷 クラダニグチ コツクジ コズクシ コツグシ 岡ノナル 万東谷 岡田口 古宮谷 ニノマカリ 伊尾谷口 牛休 クニチデン 上山 小野垣 鳥ノ奥 長谷 キラク谷 峠 蛇池 小峠 トチヒキ 大ナル尻 トチ引 大ナル 荒田ノ谷 ハシ谷打コシ谷 ハシ谷松山 ハシ谷石倉谷 口石倉谷 犬ケ尾 犬ケ尾道ブチ 口石倉谷嶺 奥石倉谷 石倉谷 地土山 奥谷嶺 提打越 杉ノ前 胡麻ケナル 薬師山 愛宕下 愛宕屋敷 本丸 五郎カ谷口 西ノ丸 五良ケ谷 胡麻ケ成ル 胡魔ケナル 山ノ神 打コシ 奥河原 フチガハナ 福地 ヱノキ谷 向荒神 ソヱ谷 カザト ヲカダ フルミチ コブロ フタケ谷 平尾尻 平尾 浜崎 平尾谷 中藤流 右御堂 上大道 上大堂 坂 菱田 坂下 中地 四辻 大塚 小塚 墓下 氷牧川尻 大門 寺腰 上釈迦堂 ヲンカ谷 ノタバ 上池田 下釈迦堂 釈迦堂 モリ 浜垣 中村 山田屋赦 長塚 三人夫 渡り場 上川尻 コツクシ 小孫 大成 ハケ谷右カワ 裏山 クロ河原 門ノ地 長尾尻 ヲノガキ 若宮口 若宮下 蓮池 ハス池 門ノ上 柿畑 西ノ堀 助兵衛堀 ナカシマ 水無月場 フチガハナ 上堀 道フチ 豆場 梅ノキ 舟ケ尾 小谷 中道 長五郎堀 小松浜 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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