丹後の地名

日置上村(ひおきあげむら)
宮津市の旧村


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京都府宮津市日置

京都府与謝郡日置村



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日置上村の概要




《日置上村の概要》

 江戸期の村名で、世屋川・畑川の下流域世屋谷の入口に位置する。「慶長郷村帳」の日置郷のうち。はじめ宮津藩領、延宝8年幕府領生野代官支配地、天和元年宮津藩領、享保2年幕府領湊宮代官、久美浜代官支配地、宝暦8年以降宮津藩領。延宝8年に幕府領に編入された時、生野代官所の出張陣屋が当村と浜村境に設置されたという。明治初年に日置村の一部となった。

《日置上の人口・世帯数》383・142

《主な社寺など》
浅田大明神
若田神社(宮津市日置)
今は若田神社がある。浅田大明神と若宮神社を合祀し、一字づつをとって社名にしたという。
若田神社
日置村字若度、村社、祭神若宮大明神、淺田大明神配祀山王権現由緒不詳、明治六年二月村社に列せらる氏子二百十五戸、他に無格社秋葉社あり愛宕権現を合祀す。
(『与謝郡誌』)

百丈山禅海寺
禅海寺(宮津市日置)
初めは寿福寺と号したが、暦応3年(1340)良心が再興し、良海が日置郷友技保の2段の田昌を寄進した(禅海寺文書)。
寺伝によると、南北朝末期の至徳年間(1384−87)東福寺の虎関師錬の法孫明江が中興、百丈山禅海寺と称した。細川氏入国後、寺領は没収され衰微したというが、寛永年中(1624−44)智恩寺別源が復興した。
当寺傍らの薬園寺薬師堂は文政年間に寺領となった。
禅海寺は日置氏の菩提寺と伝える。日置氏はもと鎌倉御家人を称し、鎌倉末より細川氏に降参するまでこの地の日置上城・向山城を根拠として勢力をもった。日置上城跡は当寺北東裏山にある。
本尊の木像阿弥陀如来および両脇侍像と木造千手観音立像は重要文化財。
案内板に、
禅海寺
宮津市日置
 百丈心禅海寺(禅・臨済)は寺伝によると、もと天台宗寿福寺で平安時代の開創、その後南光朝期暦応年間(一三三八〜四〇)僧良心が再興、更に至徳年間(一三八四〜六)京都東福寺(臨済宗聖一派と呼ばれる)の虎関師錬の法孫明江和尚により再興、以来禅海寺を称したという。禅海寺の案内板(宮津市日置)
 禅海寺はこの地の地頭日置氏の菩提寺と伝える。日置氏はもと鎌倉幕府御家人を称し、鎌倉時代よりこの地に住し、日置郷友枝、有當保等を支配した。その居城は寺の近くにいまも城山とよぶ地と伝えている。『丹後国田数帳』には十五世紀中頃に日置次良左衛門の土地十五町余をあげ、伊勢外宮の御師の『丹後国御檀家帳』には、十六世紀前半頃の状況を「日置殿御城山 御内衆の家多くあり 日置殿」と記して、この辺り日置氏一族が多くいたことを伝える。寺の石段下の大永四年(一五二四)名号碑に刻まれた松井出雲も一族の一人であろう。
 近世になって寺は文殊智恩寺別源和尚によって再び中興され、臨済宗妙心寺派となってこんにちに至っている。
古寺にふさわしく多くの寺宝を蔵し、国指定重文彫像に、本尊木造阿弥陀如来坐像及び両脇侍の観音・勢至両菩薩立像、及び木造十一両観音立像がある。何れも平安末、定朝様式である。涅槃図は当地方の涅槃図のうち最も古様をのこし、鎌倉期のものとして注目されている。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会


真言宗秘密山金剛心院。開基は後宇多天皇の妃千手姫(藤原公親の娘)、開山は忍性律師。寺宝に足利尊氏制札などがある。

《交通》

《産業》

日置上村の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎日置上村(浜村の西北、是より世屋谷に入る)
【浅田大明神】
【【百丈山禅海寺】(臨済宗)
 百丈山禅海寺は江悟禅師の開基也、江悟禅師は元明の人なり、虎関和尚の孫弟子なりといふ。寺の傍に薬師堂あり、蓋薬師寺の舊地なりと傳ふ。
【秘密山金剛心院】(真言宗)
秘密山金剛心院は御匣殿藤原氏の開基なり、開山を忍性律師といふ(傳出于元亨釈書巻の十三)。本尊愛染明王は弘法大師の作なり。蓋後宇多帝紫宸殿に於て祀る所なりと傳ふ。成相寺の古記云。金剛心院は後宇多帝の妃千手姫の開基なり、千手姫は内大臣公親の女なり始め長楽院に仕へて遂に幸を得たり、後に出家して尼となり丹後に来り伽藍を建立し、忍性律師を請して之を開山とす、この内大臣公親廿一世の孫に松田山城守といふものあり日ケ谷村の城主なり、天正十年細川氏の爲に亡ぶ、其子福壽丸民家に下る今其子孫とて日ヶ谷村にありといふ。松田氏系譜云。千手姫は内大臣公親の女なり、始め長楽門院に仕へて遂に幸を得後宇多院の妃となる、後に出家して尼となり名を願蓮と改む、今金剛心院に延命地蔵を祀る即其木像あり、公親九世の孫に頼盛といふあり松田八郎左衛門と称す、頼盛十三世の孫に頼通といふあり即是松田山城守なり、其子福壽丸民家に下る、又公親の末族に平内左衛門秀頼といふあり和歌に長ず、次を具秀といふ次を兼秀といふ次を満秀といふ次を秀藤といふ次を秀興といふ次を秀長といふ、皆丹後に封ぜらるといふ。天橋記云。金剛心院始め寳光壽院といふ、後二條帝勅して金剛心院と號すといふ。日本史云。後宇多帝の妃御匣殿藤原氏内大臣公親の女也(一代要記皇胤紹運鑰諸門係譜)侍長楽門院(紹運録諸門係譜)得幸生尊澄法親王(要記紹運録諸門係譜)。
 愚按ずるに、寺記及成相寺の古記松田氏系譜などに所云千手姫といふは蓋日本史にいふ御匣殿藤原氏ならん。今山門の右に勅使門とて當時の門尚存す。
    蔵  寳
 一.忍性律師袈裟
 一、仝 銕鉢
 一、両六波羅制札 (元亨四年八月十三日右近将監陸奥守干朝臣在判)
 一、足利尊氏制札 (元弘三年五月十八日并建武三年八月廿九日)
 一、延永修理進制札 (文亀四年正月  日)
 一、越後守制札(天正十年七月  日末考)
 一、内藤宗勝制札(永録三年九月  日)
 一、羽柴氏制札(慶長六年十一月羽柴修理太夫といふは京極修理太夫高知是なり)

【日置九郎季行】
日置九郎季行は始め大江季行といふ、弘安元年與謝郡日置の里に城郭を築く。明国志云。大江季行弘安元年戦功あるを以て友枝有富大両保(今詳ならず)の地を加へ腸ふ、是時姓を日置と改む、其子日置弾正季綱始め名を次郎といふ、延慶の頃倉内将監の爲に敗績して伯父大和守入道道観と共に日置上村の城に保す、其子日置大和守季直始め名を又二郎といふ、其子彦治郎季清数々戦功あり是以別に浜村の城に居る、其子日置小治郎義久文和元年大に戦功ありといふ。
 【付録】(山王社、若宮、愛宕、桑田荒神)

『与謝郡誌』
百丈山禅海寺
 日置村字上にあり、本尊阿禰陀三尊、江悟禅師の開基にて代々日置家(大江氏)の菩提所なり、江悟禅師は元明の人にて虎関禅師の孫弟子なりといふ、寺に不空羂索観音立像あり(写真参照)彫刻精巧なり寺の傍に薬師堂あり薬園寺のありしを文政年中其寺頽れて草堂を當寺に移し境内仏堂となすに至れりと、成は曰、天台宗壽福寺の後なりと、蓋し寺に密宗に属する佛像多く遺存せるより見れば由ありげなり。

『丹後の宮津』
禅海寺
 金剛心院をでてさらに道を北へのぼると、しぜん百丈山禅海寺につく。この寺域にはもと天台宗の寿福寺があったとつたえ、また別に薬遠寺の跡であるともいっている。しかし現在の禅海寺は、中国明時代の江悟禅師の開基といい、その本尊である阿弥陀如来(重文)をはじめ、脇士観音・勢至の両菩薩像(重文)は、ともに平安時代藤原期のすぐれた作とみられ、さらに千手観音立像一体(重文)も同時代の立派な作である。したがって、これら仏像四体は、去る大正十四年八月、いづれも国宝と指定されている。なおこの寺は、中世を通じて日置村の支配者であった日置氏の菩提寺で、いまもなお日置氏の末孫というものがこの地に住み、写しではあるが往時の軍忠感状などを保存している。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん




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