丹後の地名

平田(ひらた)
京都府与謝郡伊根町

伊根湾最奥の平田地区

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京都府与謝郡伊根町西平田・東平田・大浦

京都府与謝郡平田村

平田の概要




《平田の概要》

伊根湾の一番奥に位置する。伊相浦3ヵ村の1。西平田・東平田・大浦の3地区に分かれる。伊根小学校・伊根中学校・伊根漁協・町商工会館などがある伊根の中心地。船屋が密集する漁業集落。江戸期以来の近海漁業根拠地。
平田村は亀島村とともに伊禰浦における古い漁村で、早くから鰤漁業が開け、鰤刺網・鮪台網・鰹刺網・柔魚締網・越中網・延縄・海豚猟などが行われた。伊禰浦3ヵ村(平田村・亀島村・日出村)は一面では共同して鰤株制をつくりあげたが、一方ではその相互の間に、また伊禰浦3ヵ村外の沿岸漁村との間に紛争も絶えなかった。
3ヵ村共同の鰤漁場としての伊根湾はしだいに衰微し、外海に漁場を求めて、鋤先漁場を求め、さらに東に進んで鷲崎の西の「まくり」を発見、さらに北へのぼって「わりくり」を発見、享保13年より大原村地先に沿って鰤漁場を設けた。 

平田村は、江戸期〜明治22年の村名。端郷に蜂ケ崎・鳥屋がある。慶長6年から宮津藩領、寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年は幕府領。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年伊根村の大字。
平田は、明治22年〜現在の大字名。はじめ伊根村、昭和29年からは伊根町の大字となる。

《平田の人口・世帯数》373・111(西平田・東平田・大浦の合計)

《主な社寺など》
氏神は高梨の八坂神社
八坂神社(高梨)
亀島の八坂神社


曹洞宗平田山海蔵寺
海蔵寺(伊根町平田)

天和2年(1682)の丹後国寺社帳に名がみえる。
平田山海蔵寺
 同村字平田、本尊勢至菩薩、創立年代詳かならすと雖も舊と岩ヶ鼻村薪中に一宇のありしを今井助左衛門なるもの平田に移して振宗寺八世慶寳和尚を論じて開祖とす、寛保二年炎上寳暦十三年再興、文化十二年営繕、檀徒四十戸。
(『与謝郡誌』)

平田山海蔵寺(曹洞宗) 平田 檀家三十五戸
本尊 勢至菩薩
開基 今井助左衛門
開山 慶室宗朔和尚
由緒 元大島の「薮中」にあった真言宗の一堂宇を、天正十年(一五八二)一色氏の滅亡後今井助左衛門が現在地に移し、真言宗の寺院とした。慶長十七年(一六二一)正月、振宗寺八世慶室宗朔和尚を請じて開山とし曹洞宗の寺院となる。
 今井氏は八幡社を氏神とし、八幡社の青銅の擬宝珠には延宝五年(一六七七)五月三日今井五郎兵衛の銘が刻されている。また延宝九年(一六八一)平田村の「田畑永代分ケ帳」には庄屋助左衛門の名が見える。寺内には元禄十年(一六九七)今井助左衛門の建立になる三界万霊塔がある。元禄十二年(一六九九)九月二十八日今井祐照助左衛門が死亡し、その後今井氏の名は見あたらない。また裏山の秋葉山へ登る途中の墓地に、家型の石板造りの祠が二つあり、中に一石五輪塔が五基納められ、そのうちの一基には寛永十六年(一六三九)一月の年代が刻まれ、他の一基に寛文十年(一六七○)三月と銘記がある。小型の石造五輪塔は各地に数多く見られるが、年代の明記された五輪塔は珍しく貴重である。この寺院は寛保二年(一七四二)火災にあい、宝暦十三年(一七六三)再建されたが、その後大破し、文化十二年(一八一五)三月営繕された。
 檀家は隣村にもあったが、大正元年(一九一二)十二月、住職南野泰巌の代に岩ケ鼻岡田安太郎他一二名が大島顕孝寺へ難檀した。…
(『伊根町誌』)

大下神社
大下神社 平田
例祭 七月二十八日
沿革 創建年代は不詳であるが、江戸時代中期に村内に疫病が流行し、特に小児が多くかかり、村人は病気のひろがることを恐れていたところ、大下の森を境にして疫病が止んだので、村人は小祠を建て疫病平愈の神として「大下大明神」として祭った。近年まで立石地区にあっては、子供が病気にかかると大下神社の小石を持ち帰り、平愈の後は小石をきれいに磨き返礼する風習がつづいていた。
 祭礼は八坂・八幡の祭典のあと、平田区は祭礼船を仕立て、海を渡って大下神社に参拝し祭礼を入れる。江戸時代に受持寺は海蔵寺であった。
(『伊根町誌』)

七面神社
七面神社 平田
祭神 七面大明神。配祀 妙見菩薩・清正公・鬼子母神
例祭 八月十八・九日(元旧暦七月十八・九両日)
沿革 「鎮守七面大明神略縁起」によると、七面大明神は法華経を守る神としてあり、「水・火の二難を守り下病平愈」を願って文政十三年(一八三○)八月、「芸州巌島」(広島県宮島町)より勧請した。
 「御宮建立之儀」として、
  明和年中庄屋孝左衛門役中の時古来より有来るに付家敷引ならし候所余宗門の者より悪敷申出拠無く御上より暫御指止に相成し処今般向井源六役中に願出数日依丹情に右の通り法華勧請ニ願出御許容の上則御見分相済毎年七月十八九両日一宗門の男女相集り御威光増益御報恩のため御題目修行祭礼相務 当社別当職檀那寺妙典山大乗寺より誦経祈念して勤登 と記録されている。この七面神社建立の動機は、当時他宗寺院はそれぞれ蛭子神社、大下神社、秋葉社、愛宕社等の別当職としてあったが、日蓮宗大乗寺は誦経の神社をもたず、神仏習合の風潮が強い時代に、日蓮宗にあっても一宗門の男女が集まり、題目を唱える神社の建立が図られたのである。文政十三年(一八三○)八月、法華経を守る神として七面大明神が勧請され、七面神社が建立されると、妙典山大乗寺が別当寺としてあたり、毎年陰暦七月十八・九両日を祭日とし、日蓮宗の檀徒が集まり大乗寺住職による誦経が行われ、日蓮宗門の結束が図られた。発起本願主は「丹州伊根浦宗門向井源六並ニ氏子中」とあり、落慶法要は大乗寺十六世宣妙院日運上人により盛大に営まれた。その後神社には日蓮宗の僧侶が居住したが無住となり、現在は平田地区全体の神社として宗旨をとわず参詣し、誦経は大乗寺住職があたっている。…
(『伊根町誌』)

中尾古墳
中尾古墳から伊根湾をのぞむ
「今は何もありません」ということで畑地になっている。勝手によその畑を写してもどうしょうもないので、振り返って伊根湾を見ればすばらくしよく見えるご覧のように位置である。道の駅「舟屋の里」からもこの古墳の位置はよく見える。駐車場側に谷があるが、その谷の対岸の同じくらいの高度の畑地である。大原・新井へ行く道とバイパスとの分岐点から少し下った所に山へ登るコンクリートの階段が作られている、その階段を登った畑である。

 伊根町大浦中尾古墳
遺跡の所在地 伊根町字亀島小字中尾五八六番地(大浦地区)
伊根地区の火葬場に通ずる道路を登り、約二○○メートル西南方の畑地で海抜二六・五メートルの台地にある。亀島水源地の真下にあたり、伊根湾にむかって南西にのびる丘陵稜線上にあって、眼下に伊根湾を見下し、近隣の沿岸地を一望することができ、遠くは若狭湾一帯や丹後の山々が望める位置にある。現在は亀島バイパスの路線敷として買収され、京都府の占有地となっている。
 発見の動機 昭和五十五年(一九八○)十月十八日、府道伊根港線パイパス(亀島バイパス)建設工事中の現場で、切土作業を実施していた業者が、元同地の耕作者から、「その土地は古くから鬼門の土地とされているから、工事をする時にはお寺さんにおがんでもらってからするがよい」と聞かされ、町教委にその旨が連絡された。町教委にあっては早速職員と町文化財担当者が現地に赴き、発掘調査の必要があると判断し、丹後資料館の杉原技師の来訪を求め、同時に府文化財保護委員会に通報した。その後十月三十日文化財保護課より中谷雅治記念物係長が来町し、横穴式石室を有する古墳(円墳)であると推定され発掘予定がたてられた。
 調査の必要があると判断した理由
 1 標高約二七bの小高い丘にあって、南向きの陽当りのよい、朝日照り、夕陽照る墳墓として最良の地にある。
 2 波見崎以北の海上が一眺の下にあって、眼下には伊根湾が見下ろされ、青島が真正面にあって景観がすこぶるよく、永眠の地としての最適の位置にある。
 3 海上からも一見してわかる台地にあり、若し海を支配する豪族の墳墓であれば、豪族の権威の象徴として、人々の仰ぎ見うる場所である。
 4 旧街道筋にあたり、すぐ西側には隣村旧大原村に通ずる道が走って要衝の地に当る。
 5 この場所は元こんもりと塚の形になっており、篠竹が生え、鬼門の地として耕作されていなかったこと。
 6 現状は大小十数個の石が並んで露出し、長さ約七メートル、幅約二メートルの長方形に石の配列が見られ、地下に石組みがあると推定され、横穴式石室をもつ円墳ではないかと考えられた。なお石が露出しているのは、戦後所有者がかわり、鬼門の地の言い伝えも知らず、石が多く、耕作しがたいために、石の周囲の土を畑土にかいて、そのために石が露出したものであること。
 7 その他
 イ、この附近から土器の破片が出土していること。
 ロ、大浦のどこか不明であるが、珍らしい型の酒器のような土器が出土したことがあると、古老より聞いていたこと。
 ハ、伊根地区の住民のうち最も古い家の言い伝えに、先祖は大浦方面より移住したと伝えられていたことなどである。

発掘調査の概要と経過
 昭和五十六年八月二十五日、府土木建築部が財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターに依頼し、約二週間の予定で発掘調査を行うこととなる。当日午前十時半より町教育長、土木工営所関係者、町建設課長、埋蔵文化財調査員、その他関係者の参列の下に正法寺住職により鎮魂祭を挙行し、十一時より発掘作業に入った。
 調査地は最近まで畑地として利用されており、およそ一四平方メートルの平坦地をなし、調査はその平坦地の南東部に集まる石列の箇所から行われた。露出した石の箇所の表土を除去すると、細長い「コ」字状の石列が確認され、その石列の中心から放射状に四本の細長くトレンチ(試掘溝)を入れた結果、中心から六・五b前後の地点で、地山面の溝状の掘り込みが弧状に認められた。石室では天井石及び側壁石の一部が転落しており、その直下から須恵器、鉄刀、鉄鏃、鉄斧等が検出された。また石室の周辺の表土及び耕土を除去すると、平面プランがほぼ長方形をなす石室構築のための掘方のラインが明瞭に認められ、横穴式石室をもつ直径約一三メートルの円墳であることが確実に判明した。この古墳は盛土の部分が畑地として開墾の際にほとんど削平されており、天井石や側壁石の一部は南東隅へ移され、石垣として利用されたものもある。以下発掘の経過を記録し、とどめおくこととする。

 大浦中尾古墳の概要
古墳時代後期の古墳で 横穴式石室の構造や須恵器、鉄剣、鉄鏃などの出土品から、六世紀末と推定され、今から約一四○○年前の豪族の墳墓である。古墳の形式は円墳で、地形を利用して直径約一三bの楕円形に盛り土を築き、標高二六・五メートルの台地上に、高さ約四メートルの墳丘がつくられていたと想像される。構造は南東に張り出す丘陵の斜面を利用して、長さ八b、幅三・五bの溝を掘り込み、無袖式の横穴式石室がつくられ、石室の内部は玄室と羨道に分かれ、幅は奥壁部が一・三b、開口部が一・五bの長方形をなし、天井石は落下していたが、深さは約一・二bを測る。石組は玄室の奥壁が最もていねいに整然と積まれ、側壁は奥壁に比して粗雑で 大小の石を乱雑に積み上げている。石積みの手法は、大体野面積みであるが、セン積の技術を取り入れ、小口積みの様式をもって四段に積み組まれている。奥壁では一段目に幅約一b、高さ約五○aの巨石を中央に設置し、その両側に縦長の石が立てられ、二、三段目は板石を横積みに並べ、造築には石を積み上げながら、粘質の裏込めの土を用いて突き固めたと思われる。石質は安山岩で、一b余の巨石が三枚出土したが、天井石と側壁に使用されていたと推定され、見事に加工されている。石室の床面には奥壁部より約二メートルの地点に、二○a大の石六個が、径約一メートルの円形状に検出され、棺台として使用されていたと考えられる。また右側壁の中央部より奥壁部に向って、握り拳し大の石が約二メートルほど立てて並んでおり、棺台に沿って並べられたものと推定される。

出土品 須恵器二九点(坪蓋八点、坏身一八点、有蓋高坪三点)鉄製の直刀二振り、鉄小刀一口、鉄鏃十点分余、鉄製斧一口、その他鉄滓、須恵器破片多数。
 これらの出土品のうち、特に副葬品として鉄剣三口と多数の鉄鏃(やじり)や、鉄製の斧とおもわれる鉄製品が多数出土したことは注目にあたいする。鉄剣は直刀で片刃の小太刀である。鉄鏃は約六a〜一二aあり、一ケ所にかたまって出土した。鉄製斧は柄の木製部はなく空洞になっており、木棺や鉄剣の柄の部分と同じく、土にかえって木片はない。須恵器は容器として日常に使用された形跡はなく、祭祀用として副葬されたものである。この古墳に埋葬された豪族は横穴式石室である点から、被葬者は一人だけとは限らない。最初に埋葬されてから余り時代を経ないころ、一族の者で追葬されていると考えられる。それは出土した須恵器群が重ねられた状態で出土し、追葬時に古い土器や鉄鏃などを置きかえた形跡が見うけられた。
古墳の謎
1 被葬者について 
−だれが葬られているのであろうか−
 この古墳を構築した豪族はどのような勢力をもった支配者であったのであろうか。伊根湾を眼下に見下ろし、海上を一眺できる中央の場所を選んで、海上からも仰ぎ見得る位置に構築されており、墳墓の規模や鉄剣、鉄鏃などの鉄製の武器を保有している点から考え、この土地に住居を構えた豪族で、大和朝廷とつながりのある、主として海上を支配する豪族の墳墓であったのではなかろうかと考えられる。山が海岸線にせまり、極端に平野部の少ないこの付近の地形や、古代から豊かな漁場をもち、入江をなした伊根湾の地理的な条件から、海になんらかの形でかかわりをもっていたであろう。古墳の現地に立って鳥瞰すると、支配地域は波見崎以北の、中世伊祢庄の範囲の海上を支配していたのではなかろうか。海上を支配したこの地方の当時の豪族としては、「海部直」がありその一族であるとも考えられる。
2 住居について
 現在大浦の地には住宅一○戸と、他に作業場が建ちならんでいるが、この地に現在の住居が構えられるようになったのは、昭和初年からであり、それ以前は田畑のみで人々は住んでいなかったものである。それで大浦の地に古墳が発見されたことは、伊根地区に住む者にとっては、誰しも大きな驚きであった。当時の住居は竪穴式住居であるが、この大浦の地にどこかを求めるとすれば、いまのところ住居跡は発見されていないが、地形上から判断して、現在の住宅街にそって上り、西側の山際の麓から、東南に向いた台地の付近が考えられる。この付近は水量も多く、日当りがよく、風あたりは少なくて、海にも山畑にも出掛けやすい場所で、住居地として好条件をそなえているといえる。
3 なぜ人々が住まなくなったのであろうか −地震と洪水−
 古文献を調べると、七世紀以降何回かの大地震や洪水の記録がある。ことに古代の丹後地方の大地震の記録として、大宝元年(七○一)三月三日の大地震は、加佐群の「凡海郷」の大半が海没し、一夜にして海となり、高山の二峯の頂上のみが海上に残り、それが現在の冠島(大島)、沓島(小島)であると記されている。…
(『伊根町誌』)


 海の古墳というよりも鉄の古墳であろう。被葬者は五十建速石別命か。大浦や平は舞Iにもあるが、そこは鉄の地である。ダイラ・タイラでタタラではなかろうかと私は考えている。↓別所・別フなどといった小地名もある。



《交通》

《産業》




平田の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎平田村(高梨村の次)
【八幡宮】(祭六月廿九日)
【平田山海蔵寺】(曹洞宗)
 【付録】(大下社、愛宕社)
【蜂ケ崎】(平田村の端郷)
【七面堂】
【島屋】(平田村の端郷)



平田の小地名


平田
小坪 シヨウブ ソブ田 蒲田 寺田 アキヤダ 宮ノ下 南所 南所道ヨリ下 南所道ヨリ上 北所 上ノ山 ヨコハマ 池ノサキ 堂田 花田 伊賀口 伊賀口滝ノ上 伊賀口滝ノ下 イガ口北山添 イガ口北側 イガ口川ヨリ北 掴グリ 六助田 三右ヱ門田 清八田 大桜 小桜 トビケス 掛内 桜カベ 長四郎田 道ノ向 大ベラ カキ内 出合 千丸道ノ下 出合清八田 柳ケ谷 千丸 金石原 大谷 四国ケ谷 地蔵山 マムシ谷 ビワノコウ ムクロジ山 伊根元 障子谷 大原口 高ヘラ ウスノキ トビ渡 甲毛 奥溝ノ上 奥溝ノ下 奥溝 ヒヨウシカ谷 墓ノ下 ヒイラ 墓ノ下別所 墓ノ上 別所 三ツ町 松川田 長右ヱ門田 八ケ崎 向山 別フ 大成ル サヤダ上ノ切 サヤダ下ノ切道ノ上 サヤダ下ノ切 横浜 七面山 鳥屋 横浜道ノ下 鳥屋ノ上 大ナル 網場ケ崎 口ノ合 カニ切 大ウラ 嶽ケ 大成柿ケ谷 大城柿ケ谷 鳥ケ岳 鋒ノ尾 大浦 日出畑 銚子口 大浦坂 サガ尾 トノ坂 ヨセカケ ワリグリ 奥乃谷 大下タ 魚見 平ラ林 ハセノキ モメンヤ畑 姥ケ懐 クロチ イ子ケクビ 茶前ノ上 崔喰 黒地浜田 日出ケ谷 立石 石ケ谷 中ザキ 南所家ノ上 南所道ノ下 横浜田ノ上 三十代 日出田 イガ口ヒヨフタングリ イガ口川ヘリ イガ口奥 出合向ヒ トビカラス 金石原南山添 千丸西山添 金石原中 大谷口 大原口道ヨリ西 別所道ヨリ西 別添 別所東小谷 別所谷 別所上切東山添 別所道ヨリ東 サヤ下ノ切 別所東山添 松川田 一ツ町 大成道ヨリ北 トヤマ上 黒地小屋谷 奥ケ谷 坂尻 地蔵山 比ワノコー 道ノ向 家ノ山 宮ノ横 魚見ノ横 大下ノ森 戸屋 向井山 タカヘラ引続伊根元

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↓伊根湾の地図(道の駅「舟屋の里公園」の案内板)


【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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