京都府宮津市小田
京都府与謝郡上宮津村小田
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普甲峠の概要
《普甲峠の概要》
今で言えば「大江山スキー場」のある所が普甲峠である。府道9号線(綾部大江宮津線)が大江町から宮津市へ越える大江山山中の峠である。
高速(京都縦貫道)で行けばこの下を「大江山トンネル」でくぐり抜けてしまうし、鉄道(KTR宮福線)で行けば、これも「普甲トンネル」でくぐり抜けて、歴史的なこの峠も、もうおおかた用済みの感もあるが、大昔も今もこの道は都から続く国道ではなく、この辺りの住む人々の通う裏街道であったのであるが、『丹後路の史跡めぐり』は、「豊鍬入媛が天照大神の神体を準じて吉佐宮へ入ったのも、和泉式部が夫藤原保昌に従って丹後へ入っのもこの峠であり、宮津藩主が参勤交代で江戸への行き帰り通ったのもこの道であった」と記す。
古い道は一本だけの路ではなく、何本もの細い路がネット状に一帯に張り巡らされているもののようである。ある所では一本、ある所では何本もの小径から成り立っていて、どれが主道かとも判断できかねるような状態の小径の束のようになってこの山を越えていたと思われる。その中の良さそうな小径がやがて主道へと発展していったものと思われる。現在のネット社会のようなもので、元々は庶民の道であった以上は、どこが主道とも言えそうにもない、小道の厖大な群れであったかと思われる。
もともとから今の府道の位置を通っていたのではない。古いものを「元普甲道」といい、江戸期の改修後の道を「今普甲道」と呼び、これは石畳道が残る。
「今普甲道」は、だいたい現在の府道沿いであるが、「元普甲道」は、冨久能神社の向かいあたりになる金山という所から普甲山の北側の鞍部を越えて辛皮へ続いていた。だから本来の普甲峠も普甲道も、今の府道の位置ではなかった。KTR線路や京都縦貫道の方が「元普甲道」に近いルートを通ることになる。
↓福知山市の元伊勢前から上宮津まで、今の普甲道
↓案内板
元普甲道
現在は鉄道線路や高速が通り、高い大きな土手になってしまっているが、上宮津小田の金山という集落から登ったという。
「茶屋ヶ成」という所に茶屋があったのだろうが、そこまで登り、普甲山(北側の大江山スキー場の山)の北側鞍部を越えて寺屋敷へ、辛皮、栃葉、毛原へと続いていたという。
→写真の案内の脇に、高速をくぐる小さなトンネルがあり、そこから道が山へ続くのが見えるが、それが「元普甲道」という。ちょっと簡単には行ってみるわけにもいきそうにもない気配で、恐れをなして引き返したのだが、『大江町誌』は、
元普甲越
昭和五十六年十二月、本稿を取材する為この旧道を確認してみた。宮津市字小田から元普甲(橋を経て教えられた山道を行くこと、二時間。約二キロメートルを登って引返したのであるが、土地の人の話ではこれは絶頂までの七分通りというから、いかさま「与佐の大山」を実感させる規模である。
道幅約四尺、狭いながら山側に側溝がしつらえられ、路面はさのみ崩れていない。要所要所には見事な山石を畳んだ敷石があり、石だたみは時に二、三十メートルもつづく。ここに掲出した写真がその一部である。この旧道がずっと近年まで往還として利用された証拠に、大変な山奥まで田畑が開かれた跡があり、現状ではそこに杉が繁っている。この峠は大江山スキー場裏の鞍部へ出てさらに辛皮へ出(この道は今荒廃がひどい)栃葉へ続く。 |
『おおみやの民話』に、面白い話がある。
普甲峠の通い嫁 延利 由村 金光
普甲峠(宮津市)をこえて、大川さん(舞鶴市にある大川神社)の方の村に通う、通い嫁さんがおっただそうな。あの長い峠を、夜の夜半にどうして通うだろう思ったら、なんでも頭に五徳さんをのせて、五徳の足に三本のローソクを立て火をつけて、胸には鏡をぶら下げ、手には鉄の火ばしの輪のようなもんをぶら下げ、じゃらじゃら音をさせて、化けものみたいにして、峠を越えては通っとった。
峠を下りたところに小さい池があって、そこまでくるとその女は、五徳をとり、池の水を鏡にして服そうをなおし、姿をようして、男の所へ通っとった。男は夜半に峠を越してくるのが不思議に思い、男はその女の帰る後をつけてみたら、そうだったんで、女の所に行って、
「お前は今日かぎり家へくるな」というたら、三日後にその池に死んだ女の死体があったと。 |
今普甲道
元普甲道は嶮岨な山道であったという。これを改修したというか、新たに新道を開鑿したのが、宮津城主・京極高広という。参勤交代にも使ったという。それを今普甲道(宮津街道)と呼ぶ。
だいたい今の府道に近い所を通り、あちこちに今も当時の石畳道が残されている。案内板なども立てられていてすぐに見つけることができる。
普甲峠の主な歴史記録
《丹後宮津志》
千歳嶺碑
千歳嶺稗は上宮津村字小田普甲峠の頂上にあり、普甲嶺一に千歳嶺といふ、京都府下維新前民政資料碑文集に曰
千歳嶺碑
加佐郡河守上村より與謝郡宮津に通ふ普甲峠の西北に在り此道は大山を亙り険道にして行旅を苦しむを以て宮津城主本荘氏より開修し大に通行に便せしむ人民皆欣喜せしを以て賀茂季鷹に嘱し此碑文を作り石に刻し其阪に建てしめむ事は文に詳かなり。
碑文に曰
千歳嶺
千年山は近江丹波二国に在然るに此山は古ふこうたむけと云しを不幸不孝なと音かよへは祝て千とせたむけと云しとかや今思ふに延喜式神名帳に與謝郡布甲神社あれは其神社此山に在し成へしされは其餘波と覚しくて中比まて普甲寺てふ寺有しが夫は絶にきとそされは彌人蹟まれなれはおのつから草木所を得て茂りあへりとそ抑其山路さゝ泥たにさかしさに行かほ人苦しめるをこたひあわれみ給ひて此わたり知しめす守のとのゝ仰書有て岩をうかちさかしきを平らけせはきに広くなさしめ給ひたれは千歳山の千とせの末まても往がふ人あほきたふとまらむやあなめてたくめてたくとたゝへ侍りしなきこしめし氏仰事侍るをいなみかたくて八十の翁目をしほりつゝあからさまに筆を執い
へるやあな恐穴かしこ
天保二年九月廿三日
正四位下加茂 県主 季鷹
道ひろき君がめくみに諸人の
ゆきかひやすき此千とら山
季鷹 |
《丹後路の史跡めぐり》
普甲峠
待つ 人は行きとまり つつあじきなく
年のみ越ゆる与謝の大山
後一条天皇の治安二年(一○二二)国司として丹後板列(いたなみ)の国府へ赴任する藤原保昌に従っていた妻の和泉式部は、普甲峠に立ってこのように歌った。
式部の父は大江雅致(まさむね)といい、母は越前守平保衡(やすひら)の娘で昌子内親王の乳母をつとめた人である。当初和泉守道貞の妻となったので和泉式部といい、小式部内侍を生んだ。
大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天の僑立 小式部内侍
のち上東門院に仕えて弁内侍(べんのないじ)といった。情熱の歌人として知られ、冷泉天皇の皇子為尊親王と恋愛し、その次は武人藤原保昌の腕の中にとびこんではるばる丹後まで従って来た。丹後へ来たのは四○才の頃らしい。保昌が京へ去ったのちは藤原兼房の下に通っている。生涯を情熱に生きた人であったので丹後には心情あふれる歌を数多く残している。
昔この辺は普甲村といい、丹後へ入る関門であった。寺屋敷の上に普甲寺の跡はあるが記録に残る式内社普甲神社の位置ははっきりしない。戦乱で普甲寺と共に焼失して金山の富久能神社へうつされたのではないか。
京極高知は丹後入国の時この峠に立ち、普甲峠は不孝に通じるので「千歳嶺」に改めることとしたが、いつの間か再び元の名に戻ってしまった。
平安以来の本街道は毛原−栃葉−辛皮−寺屋敷を経て普甲峠の鞍部を越えて上宮津の金山へ降りたもので、いまも寺屋敷から峠にかけて石畳が残っている。室町の頃、若狭の武田が度々攻めこんだのもこの道である。京極高広の時代に鬼茶屋−中の茶屋−岩戸へと新しい道が開かれ、その後の参勤交代にはこの道が使われた。普甲峠のいまの道の少し上に並行して当時の石畳の道が残っている。寺屋敷に普賢堂が残っているが、これが普甲寺の跡で、延暦二年(七八二)棄世上人が開基し、かっては寺領が関東にもまたがって二千石あったといい、この辺一帯七堂伽藍を有した大寺であった。
小林一茶の徒然草(つれづれぐさ)のおらが春の中に「普甲寺の上人」という一文がある。
両丹国境の天険要害の地にあるために、守護一色氏はここを丹後の第一関門として、普甲寺に常時多数の僧兵を置いて固めた。文和元年(一三五二)より開始された若狭の武田氏の侵略にあい、幾度か援兵を送って守り抜いたものの、明応七年(一四九八)五月二九日武田元信は大軍をもって普甲寺へ攻めこみ、普賢堂に火をかけ国守一色義秀は一門十三人とともに自刃し、勢いに乗じて峰山の吉原城まで攻めこまれたがかろうじて撃退している。
その後もここが丹後の護りの第一関門である事には変わりなかったが兵火にかかった伽藍は修復できずに次第に手薄となってきたため度々破られて侵入を許している。一色氏が細川氏に破れて滅亡するまで二四七年間のうち一四○年間というものは防戦に明け暮れ、しかもその主戦場のほとんどがこの普甲峠であったのである。
「夏草やつわものどもか夢のあと」この古戦場であるスキー場附近の五輪ヶ尾には、応永の頃討死した一色・武田の戦死者の墓が散在している。
普甲寺は昔の面影はなく、本堂の礎石、弁財天、再建された普賢党のみが残り、宝篋印塔らしい物が僅かに形をとどめているが、田圃の中から仏像や器が出たこともある。普賢堂には美しい普賢菩薩が納められている。一見に価する。
丹後第一の関門らしく、辛皮を見下すその眺望はすばらしく、ほととぎすの名所として知られている。 |
《上宮津村史》
…まず明かなことは彼の交通路に対する大変革である。即ち過去少なくとも七・八百年の長きにわたって、丹後から丹波へ貫通する山陰の要路として、嶮嶺与佐の大山に続く布甲山の東端を越えた峠道を、高広は布甲山の西端で大江山の東に続く鞍部を越して二瀬川から仏性寺に出る道を新開して藩の公路とした。そして城下からは大手川に沿うて京口橋より南へ、いわゆる松綴手を経て上宮津村を南北に貫通し、金山から福野にいたって旧布甲越えを左にみて南東山麓を関淵谷を右にみて平石へ、そして「かんと岩」を経て大江山東端へ峻坂をよじ登るのである。高広はこの峠道頂上を中心に行人のため官給の「御茶屋」を設けたことは「丹後守領知目録」中に明かで、元禄二巳年(一六八九)貝原益軒が天橋立に遊んだときここを通り、その「天橋記」中の普甲山の項に−
与佐の海の南也。大山という名所也。帝都(京都)より山の南の麓内宮まで廿四里、夫より嶺まで二里、此間に二瀬川あり。左の方に千丈ケ獄鬼ヶ窟あり、是をも大江山というに式部か詠に、大江山いく野とつゝけたるは老の坂の事也。嶺に宮津より二里の碑あり。其東に普甲寺の旧跡あり、是普賢の道場にして、開山は棄世上人と云う。今辻堂のようなり。普賢堂あり、荊棘生いて路も断え尋ねる人もまれなり。凡山間に三所茶屋あり、京極安智(高広)旅客の為に置所也。麓の左に宮津より一里の碑有是まで山路嶮岨也。
と書いていることからも、この峠の嶮岨さと官給茶屋のあったことは証される。それに高広がここを公路として以来、この峠頂上を「千歳嶺」と称しているが、これは「普甲は不孝」に通ずるのでかく呼ばせたといい、金山の福野に鎮座する「富久能神社」もまた「布甲神社」てあったのを、やはりこの音が「不孝」に通ずるというので改称させたとは、古来多くの文書記録にいうところであるが、しかしこの「冨久能神社」が果して「布甲神社」であったかどうか、これを証する何ものもない。 |
《大江町誌》
普甲峠越の新開
京極高広の治績として特記されるものに、普甲峠道の新開がある。過去七○○〜八○○年の間丹後・丹波をつなぐ要路として使われたのは、宮津市小田から普甲山東端を経て辛皮へ結ぶものであったが、高広は岩戸−普甲−中茶屋と大江山東端の峻坂を開墾し、行人のために峠道頂上辺に官営の御茶屋を設けた。今も残る茶屋跡がそれであろう。(「上宮津村史」)
(註) 後年辛皮山論(後述)で上宮津村から出した返答書が元普甲道をこうのべている。
安知様(高広)御代 元普甲古道御通りなされ候刻ハ 道橋掃除之事 上宮津河守組より人足出 掃除以下仕り候
高広はこの新開の道を公路として以来、峠の頂上を千歳嶺と改名した。これは「普甲は不幸に通じる」のでこう呼ばせたといわれる。元禄二年天橋立に遊んだ貝原益軒はこの峠を通って宮津に出たが、その「道中記」に、
与佐の海の南也、大山という名所也、帝都より山の南の麓内宮まで廿四里、夫より嶺まで二里、此間に二瀬川あり。左の方に千丈ケ獄鬼ヶ窟あり、……嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あり、是普賢の道場にして開山は棄世上人という。今辻堂のようなり。普賢堂あり、荊棘生いて路も絶え、尋ねる人もまれなり。凡山間に三所茶屋あり、京極安智(高広)族客の為に置所也、麓の左に宮津より 一里の碑有、是まで山路嶮岨也。
と描写している。 |
《加佐郡誌》
京極高広。元和八年に城主となったが、其の後病気に罹ったので京都に転地療養した。そして承応三年四月二十三日に隠居し剃髪して安智斎といひ惣村口に館を造って居たが、後京都岡崎へ移った。御城時の鐘太鼓を初めた事、智源寺を建立した事、成就院を万町天神山上へ移した事、分宮明神を職人町に建立した事等、皆此の城主の時である。 |
関連項目
「普甲寺」
「布甲神社」
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