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医王山成願寺(じょうがんじ)
七仏薬師のお寺
宮津市小田宿野
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京都府宮津市小田宿野
京都府与謝郡栗田村小田宿野
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成願寺の概要
《成願寺の概要》
宿野集落の西側山裾に麻呂子親王七仏薬師の伝承をもつ成願寺がある。いまは廃寺でお堂が一つと本尊・薬師如来坐像のみを残した、忘れられような、お寺というよりもお堂である。
ジョウガンシはどこですか、などと地元の人に聞いても、さぁー、お寺ならそこに永福寺がありますが…という返事である。かつては大寺院だったと思われるのだが、もうその伝承も面影もない。魚っ知館の入り口の近く道路からも見える山裾にある。
《成願寺の薬師如来坐像》
『丹後丹波の薬師信仰』(丹後郷土資料館・平20)には、(画像も)
木造薬師如来坐像
(阿弥陀如来坐像)
平安時代後期
成願寺(宮津市字小田宿野)
丹後町の成願寺と同じく、麻呂子皇子草創と自刻の薬師如来像との伝承を持つ寺院である。宮津栗田半島東岸の位置する本寺は「くんだのしゅくの」として斎明神縁起(作品二八)にも登場する。本像は法界定印を結び、通例の薬師如来像の印相とは異なる。ヒノキ材の寄木造で、頭体別材、右膝奥と両足部で一材ずつを矧ぎ附ける。表面の金泥と彩色は後補。丸くふくよかな尊容であり、瞼を伏せた穏やかな表情からは柔和な印象を受ける。底板はなく、胎内に十五p大の厨子に入った七・七p小立像を納めている(九頁下段)。この胎内仏は坐像より後世の作であるが、七仏薬師信仰において像内に小像を納める伝統が映されているとする理解がある。像高八九・四p) |
薬師如来坐像 一躯 字小田宿野 成願寺
木造八九・一a
平安時代(十二世紀) 宮津市指定文化財
成願寺は、麻呂子親王が丹後の鬼賊を討伐したのち、薬師如来七躯を分置して創建したという、いわゆる丹後七仏薬師の伝説を創建縁起にもつ寺院の一つで、この説話を描く竹野神社蔵の斎明神縁起絵巻には、「くんたのしゅくの」(栗田宿野)として現れている。現在では本堂と庫裏を残すのみで廃寺となり、曹洞宗永福寺の境外仏堂となっている。
この像は、両手を腹前で重ねる法界定印を結び、通例の薬師如来像と異なっている。しかし、同じく七仏薬師伝説を創立縁起に持つ丹後町成願寺の本尊が同じ形制をとっていることからすると、何か独自の信仰に基づくものかと考えられる。
ヒノキ材の寄木造で、頭体別材、頭部は左右二材を寄せ、後頭部に別材(後補)を矧ぎ寄せる。休部は四材からなるが、後半の二材は背板風で、右前半材がかなり大きめとなる不規則な木寄せとなっている。この躯幹部に左肩先(二材)、右膝奥、両足先を矧ぎ寄せ、右手は肩、肘、手首で矧ぐ。現在表面に施されている金泥、彩色は後補である。
作風は、柔和な相好、なで肩で抑揚の少ないモデリング、浅く穏やかに整えられた衣文などに特色があり、平安時代後期の定朝様の伝統をくんだ美作である。
なお、この像は胎内に厨子入りの薬師如来像を納めており、麻呂子親王伝説に基づく薬師信仰のあり方を示す点でも興味深い。
(『宮津市史・資料編5』) |
《成願寺薬師如来略縁起》
成願寺薬師如来略縁起
江戸時代(嘉永元年・一八四八)
成願寺(宮津市小田宿野)
本山とする宮津京街道の智源寺二五世の代書による。本巻では麻呂子親王を用明天皇の第四王子、時代は推古天皇の御時、鬼の住処は「三上ミ(みかみ)山」とする。また当寺を七箇所之寺の第四番目の霊地とする点は、作品三四と同じである。
概ね通説の伝承を述べた後に、薬師の東方世界と西方極楽世界は同佛土とし、当寺に伝わるもう一躯の仏像の阿弥陀如来坐像の由来を述べる。海の底にあって光を放ち、これをみた漁師に引き上げられたところを、寺主が迎え入れ、堂上に安置したとする。
坐像は像高八七・〇pの一木造で、素朴な容貌ながら、本尊(作品十六)とほぼ同時代の作とみられる。本巻の法量は、縦二六・七pX長一六八・〇p
(『丹後丹波の薬師信仰』に) |
成願寺の主な歴史記録
《丹哥府志》
【医王山成願寺】(曹洞宗)。医王山成願寺は麿子皇子の開基なり。本尊法界勝恵遊戯神通如来は則皇子の彫刻する處なり。縁記曰推古帝卅三年麿子皇子勅を奉じて三上山の夷賊を征伐す。始皇子丹波の国篠村に来る頃人の馬を埋むるを見る、皇子心に誓わく此行若し利あらば此馬必ず蘇るべしといふ、忽ち其馬土中に嘶けりよって皇子之を堀られむれば果して駿馬なり、此處を今馬堀といふ。皇子此馬に乗て生野の里に来る。是時八旬の老翁皇子を迎て白色の犬を献ず。此犬の頭に明鏡を戴く、後に犬鏡大明神と祀る。皇子此犬を嚮導として丹後国雲原村に至る、於是皇子自から薬師の像七躰を彫刻す。この處は今仏谷といふ。皇子心に誓ていふ能の夷賊を誅伐する事を得ば丹後の国に於て七寺を建立し、今彫刻せし七躰の尊像各寺に安置せんといふ。既にして三上山に向ふ、三上山の夷賊妖術ありといへども犬の頭に戴きたる明鏡に照された其術を行ふ事を得ず。遂に悉く殺殲せらる。後新嘗の如く七寺を建立す、成願寺は其一なりといふ。 |
《宮津府志》
医王山 成願寺 在與謝郡栗田郷宿野村
禅曹洞宗 智源寺末
本尊 薬師如来 開山
開基未レ詳當寺薬師縁起ニ曰フ。推古天皇 田辺府志に用明天王とす 之時富国三上嶽に英胡、迦樓夜叉、土熊と云三鬼を魁首として悪鬼多く集りて人民を害す、帝麿子親王に命じて之を征伐せしむ。
田辺府志に云皇子命を受けて先づ宮中に於て七仏薬師の法を修し悪鬼殺戮国家平治の誓を爲し、且黄金薬師の小像を鋳て護身仏とすとあり。按ずるに是は当国佛性寺の本尊ならん。皇子官兵を率ひ当国に向ふの路、丹波の国の篠村の辺にて商客の死たる馬を土中に埋むるを見る、皇子心中に誓て若し此度の征伐利あらぱ此馬必ず蘇るべしと、忽ち其馬地中に於て嘶く、皇子之を堀らしむるに駿足の龍馬なり 此所名つけて馬堀といふ 皇子此馬にのりて同国生野の里を過ぎ給ふ時、老翁忽然と出来たり白き犬を献ず此犬頭に明鏡を戴きたり 是後に犬鏡大明神と祭る 皇子此犬を嚮導として当国雲原村に到る、自ら薬師の像七躰を彫刻し玉ふ 此所を仏谷とふ、仏岩といふあり此岩上にて皇子薬師を刻すと云傳、且皇子祈誓して曰く、若し鬼賊を平ぐる事を得ば当国に於て七寺を建立し此七佛を安置せんと。夫れより河守の庄三上ケ嶽に至りて鬼賊を攻め伐つ三鬼隠形の術を行ふと雖も彼明鏡に照らされて形を顕はし遂に伏誅せり。三鬼の内土熊鬼をば末世の證にとて岩窟に封じ込め玉ふ、是れ今の鬼が窟なり。
仏性寺縁起及田辺府志には土熊遁れ去て竹野郡に至り岩穴に隠れ居る、皇子迫ひ到りて彼鏡を松樹に掛けて之を照らす、今に竹野浦に鏡掛の松と云あり、俗説に竹野の岩穴三上ヶ識の岩窟に通ずと云、此鏡後犬鏡大明神と云、又庭森大明神と云、是伊勢の鏡宮の権化なりと云。
皇子鬼賊を平治して宿願の如く当国に七ヶ寺を造立し彼七體の薬師を置く、同寺本尊は其第六の薬師なりと云々。
按ずるに麿子親王 俗に金丸親王 の事神社の部の附録竹野郡の竹野社の下に載せたり、河守の庄鬼が窟といふもの今の千丈ヶ獄の窟を云ふか、是今酒呑童子が出城といふものなり。又竹野郡の岩窟は竹野郡此代村の端郷槙の谷村山と竹野宮山の間に岩穴あり是なるべし。七佛薬師の事田辺府志に見へたり所謂
第一善名称吉祥王如来 興謝郡加悦庄施薬寺
第二宝月智厳光普自在王如来 加佐郡河守庄清園寺
第三金色宝光如来 竹野郡 願興寺
第四無憂寂勝宝吉祥如来 同郡 神宮寺
第五法界雷音如来 同郡溝谷庄 等楽寺
第六法界勝慧遊戯神通如来 與謝郡栗田郷成願寺
第七薬師瑠璃光如来 加佐郡白久庄多禰寺
以上七仏薬師霊跡諸説多しと雖も、此説は永井尚長公の代に改むる所なりと府志に見へたり。 |
《大日本地名辞書》
補【成願寺】○宮津府志、医王山成願寺、薬師縁起曰、推古天皇(田辺府志に用明天皇とす)の時、当国河守荘三上ケ岳に英胡エイゴ、迦楼夜叉カルヤシャ、土熊ツチグマと云ふ三鬼を魁首として悪鬼多く集りて人民を害す、帝麻呂子親王に命じて之を征伐せいむ、皇子遂に伏誅せり、三鬼の内土熊をば末世の証にとて岩窟に封じこめ玉ふ、これ今の千丈岳鬼が窟なり、皇子鬼賊を平治して宿願の如く当国に七ケ寺を造立し、彼七体の薬師を置く云々。 |
《与謝郡誌》
医王山成願寺
栗田村小田宿野堀江伊豫守城山の麓にあり本尊薬師七仏の内法果勝恵遊戯神通如来、用明の朝麿子親王の開剏なりと云ひ、本尊は親王自ら佛谷にて刻ませ給ひし七佛薬帥にて詳細は與謝村字瀧の施薬寺の篠参観すべし、往古法相宗なりしも真言宗となり久理陀神社の別當なりしが如し當寺別に木彫下生阿弥陀如来の座像を安置す海中より光明を放ちて湧出し給ひしとの説あり。 |
《鬼伝説の研究−金工史の視点から−》
…もともとこの辺りには、酒呑童子の話をぬいても、その昔から鬼の話があり、今のべた福知山市の近くの鬼ヶ城(猪崎)には洞窟があり、そこにも鬼神が住んだという。またそれは茨木童子であって、平将門の子供だとも伝えており、古いものには、千丈岳の北、与佐郡加悦町滝本の施薬寺に英胡、カルーラ、土蜘蛛の三鬼を金屋王子が退治したという縁起がある。また同郡栗田郷の成願寺縁起にも、同様に三鬼を退治し、そのうちの土蜘蛛(土熊)を来世の証に岩屋に封じたが、この岩屋が鬼の岩屋といわれるものだという。さらに加佐郡仏性寺にも、ほぼこれと同様の三鬼を退治した話がある。たしかその施薬寺の付近にカナホリ、カナヤマといわれる地名があり、仏性寺にも銅山跡があると聞いている。)(元伊勢の大林宮司さんより聞いた話として) |
《丹波・丹後の伝説遍歴》
与謝郡栗田荘宿野村(いま宮津市)の医王山成願寺の縁起も紹介しておく。
「用明天皇のとき、河守荘三上ケ獄に英胡・軽足(または伽楼夜叉)・土熊(または土車)の三鬼を首領とする悪鬼が集まって庶民を苦しめていた。天皇は麻呂子親王にその征伐を命じた。
(註)田辺府志に曰、命を受けた皇子は先ず宮中において七仏薬師の法を修め、悪鬼殺戮国家平治の 誓いをたて、黄金薬師の小像を鋳て護身仏にした。
親王は官軍を率いて丹波国篠村辺りに達したとき商客(商人)が死馬を土中に埋めているのを見た。このとき親王はもしこの度の征伐に利があればこの馬必ず蘇ると心に念じたところ、たちまち其の馬が地中に嘶き蘇生した。この地を馬堀(亀岡の南)と名付けた。親王はこの俊足の龍馬に乗って生野の里にさしかかると老翁が忽然と現れ、頭に明鏡をつけた白い犬を献上した。この犬の先導によって丹後国雲原に至った。ここで親王自ら薬師の像七躰を彫った。そして親王は、鬼賊を平らげることができれば、必ず当国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓した。これより河守の庄三上ケ獄(大江山の古名)に至り鬼賊を攻め討つ。三鬼は隠形の術を使ったが彼の明鏡に照らされ形を現し、遂に伏誅した。三鬼のうち土熊は末世の証として岩窟に封じ込めた。これが今の鬼の窟である。
(註)仏性寺縁起および田辺府志によれば土熊は遁れ去って竹野郡にいたり岩穴に隠れていた。これを追ってきた皇子は、かの明鏡を松の枝にかけて照らし出した。今竹野浦に鏡掛けの松あり、俗説にこの竹野の岩穴は三上ケ獄の岩窟に通じるという。
鬼賊を平治した親王は宿願のように当国に七ヶ寺を建立し、彼の薬師七躰を祀った」
このように大筋は違わない。宮津府志は「河守の庄の鬼が窟は、今の千丈ケ獄の窟を云うか。又竹野郡の岩窟は竹野郡此代村の谷村山と竹野宮山の間にある岩穴がこれであろう」と述べている。
親王の進路は後述する頼光が大江山に向かったのとほぼ同じコースで、犬を道案内に雲原村にいたり、薬師像七躰を彫刻した。これが仏谷の由来になっており、ここに仏岩があって皇子はこの岩の上で薬師を刻んだと伝えられる。
大江町誌は「親王は黄披・隻披・小頚・綴方の四天王を従えて首尾よく三上ケ獄に英胡・軽足の二鬼を討ち取り、見失った土熊を鏡で映し出し、これも退治して末世の証として岩窟に封じこめた。それが今の鬼の岩窟である。そして土熊は逃れて竹野郡で討たれたというのもある」と二説を併記しているが、親王の鬼退治の舞台は現在の大江山中心になっている。 |
関連項目
「丹後の七仏薬師」
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丹後の地名へ
資料編の索引
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん
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