京都府宮津市木子
京都府与謝郡世屋村木子
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木子の概要
市の北部で、汐霧山(624m)の西方、世屋谷最北端の標高460mの山間地。世屋谷というか、世屋川の谷の稜線を越えて向側の宇川の谷になる。
「タンゴのヒマラヤだぁ〜や、屋根だぁ〜や。屋根は雪が多かろうが、ガサイこと降るだぁ〜や、スキー履いて学校へ行くだぁ〜や。電柱があろうが、それを目当てにスベっていくだぁ〜や」という。舞鶴が10センチでもここらでは2メートルにもなる。三八豪雪では伊根町山間部では5mを越える積雪があったそうだが、この辺りもそれくらいはあったのでなかろうか。五月の連休あたりでも年によっては場所によっては雪がまだ残っている、春休みに行くならタイヤチェーンは必需品。回りには何もない何も売っていない、私なんぞよりかなり年下の人でも、チューイングガムというものを知らなかったという、子供の頃、都会の避暑人が吐き捨てたガムを拾って喰ってはじめてチューイングガムとはこんなものかと知った、汚い恥ずかしい話やけどそんなとこやでという。
木子村は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」の上世屋村のうち。はじめ宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。村高は「延宝郷村帳」54石余。
寺院はなく、護念寺の旧跡である道場で、春秋に宮津仏生寺の住持を招き1年の供養をした。
また苅畝という焼畑農業が行われ、蕎麦・赤小豆・粟などを栽培したという。村内には浄土真宗の名号にまつわる「なべ淵」があり、伝説がある。鎌倉期当村に伝染病が流行したが親鸞に名号を請い授かり、その功徳によって治癒した。のちに村中浄土真宗に帰依したが、一向専念の宗旨のため氏神社の取扱いが問題となり、折衷策として神体と名号をともに川に流した。ところが、神体のみが流れ、名号は水流をさかのぼり数万の蟻が取り巻く奇跡が起こった。そのため村民はなべ淵という岩に名号を刻して崇拝するようになったという。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同21年の戸数55。同22年世屋村の大字となる。
木子は、明治22年〜現在の大字名。はじめ世屋村、昭和29年からは宮津市の大字。
《木子の人口・世帯数》 16・7
《主な社寺など》
《交通》
《産業》
木子の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎木子村(駒倉村の北)
【道場】(駒倉村と同じ)
【なべ淵】(木子村より谷へ下る凡三四丁、出図)。
教念、祐念既に僧となりと後、疫邪流行して一村の人伝染せざるはなく死亡する者半に過ぐ、於是教念、祐念京都に上り親鸞上人へ其由を審に語り除病の妙符を請ふ、親鸞上人為に紺紙金泥十字の名號を二僧に授与す、教念、祐念兄弟是を以て丹後に帰り家々に授く、其功徳のありけるにや一郷の疫癘頓に除きぬ、故を以て一郷の人々其名號の霊験に帰依して甚是を崇敬す、元より一向専念の宗門なれば其宗意に従ひて古より祭り来る氏神の社をも毀たんとす、中には社は毀つべからずといふものあり、論議二途に分れて決しがたく遂に其霊験を試みんとて神体と名號を流に投ず(此處をなべ淵といふ岩に名號を刻して村人毎に礼拝す)然るに其名號は水流に遡り独り神体のみ流れ下る、於是諸々の人々其奇瑞に驚き恭して取揚げければ数万の蟻其名號を取巻き恰も警持するが如し、是木子駒倉の二村皆一向宗門となる所以なり、其名號を蟻巻の名號と称す、一に川上の名號ともいふ、今仏性寺に納む。竹野郡宇川の庄に元四社大明神あり、其別当深蟻といふもの二社の神体川に流る(木子駒倉の川宇川の庄に流る)を拾ひて四社大明神に合せ祭る、今上野に在る六社大明神是なり、事は承永三年九月朔日にあり即ち六社大明神の祭日なり。
【苅畝】凡渓山を以て野山と称する所は誰と定りたる主ある事なし、よって村内の人なれば誰彼となく自由に働をなす、多くは不勝手の處にあるなり、其處に大木ありて材となすべきものは伐て材となし薪となすべきものは是を薪にす、其残たる草五、六月の間尽く苅りて以て一面に地に敷き日にかすら事十余日、其能く枯れたるを見て嶮敷所は下より火を掛け残らず是を焼く、然して後鍬熊手の類を以て地面をならし能く土と灰を和せしむ、初の年は其處に蕎麦を蒔く、其翌年は赤小豆を作る、又翌年は粟を作る、夫より粟と赤小豆を隔年に作るなり。地面の宜敷所は十年斗りも作る、唯種を蒔きさへすれば会て培ふ世話ある事なし。 |
『郷土と美術』.(S15.8)
木子の夏
木子 井本 桃軒
私の安住して居ます木子は、海抜千五百尺の高地にある木子といふ一区域で、戸数は五十に近く、位置は成相山を起点として、経ヶ岬へ走る大山脈の一部に位し、世屋村内の北端でありまして、一寺院と、一小学校とを有する寒村でありますが、近き将来に府道(日置−網野線)の通過する機運に向ひ目下工事中であります。
此木子の高地は、即ち有名なる太鼓山と同一山脈であります(この山間に七百余年の昔平家の残党が逃れ来て住んだ記録と遺物と地名が残る)斯る高地でありますから、冬は積雪一丈ばかり積もる事は珍しかちず。室内温度は、海辺よりも十度以上の差があります。幸にスキーの利用に依って、郵便その他の交通に支障はありませんが、大風雲の時はスキーマンと雖も一命に関する危険があり、交通杜絶の日も時々あります。府下有数の世屋スキー場は、木子の前面十町ばかりを距る山腹にありて、成相スキー場と連絡し、太鼓山迄も連絡があり、このスキー場へ来た人は木子に宿泊する事に成って居り、独逸人も来て泊りました。木子の夏は比較的涼しく、室気清澄にして、衛生に適し、木子に来てから病気の全快した人もあります。けれども、屋外の暑さは央して油断を許さぬ酷暑であります。田圃に労働する人日置局から二里の郵便の集配は気の毒至極であります。
住民の職業は始んど全部農業で、夏炭焼、養蚕を副業とする人も少々あれども純農ばかりと申すべきであります。田植は成るべく早く行ひます。田植が遅いと、秋冷が早くありますので、実が乗らずに青立に成って仕舞ますから、十分に光線を受けしむるには田植を早くする必要があります。東京の葛飾ほどに早くはないが、四月の天長節には籾種を苗代に播きつけます。六月に入ると直ちに田植にかゝります。浸水の籾種の残りで「甘米」を一斗ばかりも造ります。所謂麦芽糖の原理でありまして、甘味があり、廿米と申して居ます。
黒田甫夕先生が或雑誌で述べられました「たなばやし」「種生やし」であります。口中に入れて暫く含んで居る中に甘味が出て来ます。子供も大人も喜んで間食に用ひます。殊に田畑の重い土を耕す爲に非常の努力を用ひ、日の長い時季でありますから、田圃へ持参して働きつゝ間食すれば時間の経済上、楽だと仕事が捗りますので、何よりも重要なる食料であります。軍隊で御採用に成りましたら、無上の営養と御便利でありませう上思ひます。
農家は全部萱笹葺屋根で、屋根の厚さ一尺ばかり日射の透徹なく、夏は客室と寝室の外は全部板の間とし、鏡の如く拭き立てゝあります爲に、室内の涼しさは風を引くかと思ふ程です。朝早く露を蹴って牛をつれ田圃に出で日没の後に帰るのでありますが、近い田圃ならば午食に帰ります。汗の野良着を籬に干し牛には青草を与へて厩に休養せしめ、この涼室に入りて茄子の浅漬、胡瓜の酢もみに舌鼓を打ち、板の間に団扇を使ふ二時間ばかりは極楽です。午後又炎天下に労働して後、飼料の草を刈り集めて牛に着け夕焼もいつしか消えて合歓の葉の眠り谷風の涼しき夜路を帰り、牛を労はって厩に入れ、行水に労を流し、冷し西瓜を切り、新鮮な野菜の煮染、味噌汁に夕食をすれば、青田から吹き入る風はソヨソヨと蚊帳を揺るゝ中に大の字と成り夢を冷やす。
食物は米を常食とし、魚の顔も知らぬかと思はるゝ山奥なれど、鰮の安い時に笊に数はい買入置き、糠漬、桜干、鹵漬等適宜に貯蔵し、特に木子の渓流には「あめご」(あめ魚)とて鮎に劣らぬ程の珍味があり、却って大川には居ない魚です、田には尺に届く程の鯉が泳ぎ、鰻も川の岩の下に居ます。新鮮な卵も得られます。お手作の豆で、いつでも豆腐を作ります。
私が学校在職中、岩瀧校の先生、府中校の先生が三人木子へ避暑がしたいとの希望でありましたから、木子教念寺の御住職に申込んで快諾を得ました所、二人しか来られませんでしたが、ゆるゆると二週間ばかり本堂で避暑と勉強をいたし、庫裏からの賄を受け満足して帰られましたが、最終日には木子の渓流野間の渓流に添ふて右の魚を漁り、太鼓山に登って盆栽適当の草木を採集して帰られました。木子には祭りにも行事はなく娯楽といふ程の物はありませぬが、昔から盆踊には熱心な所で、大盆にも、地蔵盆にも踊りますが、それも時局中は中絶であります。 先は是にて擱筆と致します。 |
『両丹地方史』(S39.12.30)
亡びゆく村々を思うて
宮津市 岩崎英精
前略。本日これから申しますことは、他の諸先生方のようご研充発表ではありませんで、実は私どもの位に奥丹後地方に、ここ数年来ひきつづいておこりつゝある恐ろしい現象、それは幾百千年の歴史ある山村が、次ぎ次ぎと潰れていくという事実につきまして、これはやがて全国的にひろがる性質の現象でもありますので、この際ぜひとろ皆さん方に絶大なるご関心をいただくよう、お訴え申し上げたいものであります。
ご承知のとおり、かって徳川時代によくみられた「逃散−ちょうさん」ということ、すなわち村中が先祖伝来の故郷を捨てて一夜のうちに住民が離村して村が潰れてしまうという事実、その「逃散」が昭和の今日、自民党政府の政治のなかで、あちらにもこちらにもみられる現象なのであります。私はこの事実を「現代的逃散」と申しておりますが、実に白夜堂々と「逃散」が行われ、しかも徳川時代のように「強訴・徒党・逃散」といって、幕藩による圧制への抵抗としての犯罪ともみられないで、政府も地方行政体もほとんどとこれという対策もないままに、住民は村を見捨てて離村してしまうのが、まことに現代的逃散にみられる特長であります。
そこで私共の住む奥丹後地方で すでに亡びてしまった村々をあげますと、左のような実状でありまして、なんとも言葉にもあらわしえぬようなひどい有様であります。その村々こいうのは…
宮津市。旧日ヶ谷付の牧、旧世屋村の麻谷・松尾・駒倉・旧府中村の西谷・東谷。
与謝郡。伊根町旧筒川村の田坪・吉谷。
竹野郡。丹後町旧豊栄村の力石・旧宇川村の竹久僧・旧野間村の住山・小杉。
といった実状でありまして、これらはいずれも現在潰れた旧藩時代の村々であり、町村制施行後は大字部落乃至小字であります。
いま申し上げた村々は例外なく山村、丹後半島の屋根といわれる五〇〇メートルから七〇〇メートルの山々に囲まれた山村でありますが、この幾百千年の歴史に生きてきた村人が、先祖代々の墓をはじめ、苦心して築きあげた家屋敷も、先祖代々の血と汗とで育ててきた田畑、さらに個人の、あるいは共同の山林原野までも見捨てゝ、これらがいずれも経済的生産の価値を失って、まさに自然にかえってしまっても、何処からも誰からも一円の金も補償してはくれないのであります。
しかもなおこれらの人々は村を棄てゝ出てゆくのでありますが、その出てゆかねばならぬ理由がどこにあるかと申しますと、それは「もうこの村ではとても生活が成りたたないから…」という一語につきるのであります。ある週間雑誌や新聞には昨年の豪雪に将来を絶望して出るんた…などと書いていたのもありますが、この人々は断じて単なる豪雪、一年や二年の大雪でヘコタレたのでは決してありません。楽しい生活、平和な暮しができるのなら、こうして先祖伝来の村を捨てるでしょう、もっとも多少の時代的影響はありましても、断じてこれらの村々が潰れるといった現象はおこらないはずであります。
いわば、そこには豪雪よりも台風よりも、もっともっと恐ろしい現代的飢餓が彼ら村人をおそい、日夜ひしひしとその苦しみが肌にせまってくる昨今の生活、この怖ろしい現代的飢餓にたえられなくった人々が個々にまた集団で、村々を見捨てゝ出てゆき、そうして村は潰れ亡びるのであります。
ではいったいその怖ろしい現代的飢餓とはどこからきたのでしょうか、それは戦後の生活環境の激変、ことに自民党池田内閣の「所得倍増政策」の結果でありまして、独占的な資本のみにはほゝえむ所得倍増政策こそは、豪雪よりも台風よりも怖ろしい飢餓の波であり、こゝにこそ現代的「逃散」は当然におこるべくしておこりつゝあるのであります。
おそらく以上申し上げた村々だけが亡びたのではなく、きっとこれからもどしどしと亡びる村が出るでしょうし、これはやがて全国的規模において現われる前徴であることも間違いないと思うのであります。
さて私が皆さんに訴えて、お願いしたいことは、ここであります。私はここで政治を語り、社会経済を云々しているのごはなく、このようにして潰れ亡びる村々と、その村々をつつむ村や町や市の、その歴史の変化を、この際ぜひとも強い関心をもって見守り、お互に地方史を目標とするものが協力して、私たち現代人の責任においた、後世の若い人たちに誇りをもって引継ぎうるような歴史を明らかにすべきだと思うものであります、どうかこの歴史の激変期に、ぜひとも皆さん方と共に、進ませていただきたいものであります。 (完) |
『丹後の宮津』
木子と駒倉
まづこの高原地帯の奥へつずく道をのぼりきると、その先に少しばかり坂があって、北の方へ心もちさがる道、約一キロあまりすゝむと、ひよっくりお寺の屋根がみえ、それから下へずっと草ぶきの民家がつずく。おまけにこの民家のぐるりは、五百メートルも高い山奥だなんて思えぬ田畑がとりまき、また家々には荒廃のかげが少しもなく、生活の安定さがうかがえる。−といった部落。ここが第一に目ざす「木子」なのである。お寺一ヶ寺、真宗で教念寺といい、民家三十九戸、小学校一校、部落電話一本、田畑一戸平均八反から一町歩あまり、いうまでもなくここも宮津市で、電灯もつき、道路は意外に立派で、ジープなら充分のぼりうるし、時にトラックもはいってくるという便利さである。でも、わずか二十ケ年前までは、木子だなんていうと、町のものはとうてい一生のうち、そんなところへは行けそうにも思えぬ僻地だったのである。ことに教育関係では、今日でも僻地教育のモデルケースとして、いつも問題になるところであり、おまけにそのむかし、先祖たちは平家の落人としてひそかにここへかくれたものの、教念寺とはその先祖の一人がひらい親らん上人へ帰依の道場であった。そしてこれにちなむ伝説や遺跡・遺物。これらのことは、この木子から南へ約一里余の「駒倉」部落もほぼおなじで、ここは戸数約三十戸、これがすべてやはり平家落人の伝説を信じている。村の人にたのんで、落人伝説にからむ遺蹟「なべぶち」をたずね、教念寺の住職に寺と村との関係などを話してもらい、四囲のありさま、生活の実状などは小学校の校長に聞きなどしていると、どうもいままでに感じない異境の思いがして、なにか異教徒が地下へもぐり込んだとでもいったとまどいがするのである。次ぎの「ガラシャ夫人遺蹟」をたづねかたがた、少しの時間的余ゆうをみて、ここまで一寸足をのばすことができれば、おそらくこの日のハイキングは、いつにない満足感をえられるにちがいない。 |
『おおみやの民話』
木子の吉原の牛鬼が化かす
五十河 田上惣一郎
木子(宮津市)にはこんな諾がある。
木子の吉原の丸山いう田のあたりには、牛鬼という者がおって、人を化かすいうことだ。昔、あるとき内山の市さんいう者が、雪のよう降る日に、そこを通ったそうな。吹雪が、ビュウビュウ吹くので、前も後も見えんようになってしまったが、又杖いうもんをつきながら、一生懸命雪道を歩いとったら、急に道がようなった。『はてな、変だな、こんなはずはない。ひょっとしたら、自分が同じ所を、ぐるぐる回っとったかわからん』思って、又杖をそこにてんと立て、ひと歩きしてみたら、やっぱりそうだった。自今が立てた又杖の所へもどってきたそうな。
それで、『こりゃ牛鬼に化かされとった』と思って、こんどは、しっかり道を見きわめてもどったそうな。 |
木子の小地名
木子
カヤノ 中道 中道尻 ヌマノ谷 カンサキ 稲木 マチ 神崎道ノ上 神崎 カンサキ出合 前田出合 前田 ダイド サンゲンヤ ワラベタ 三ンケンヤ 三ト前 奥ノ前 川戸 松ノ下 杉ノ下 杉谷 宇道 フカタ 杉ケ谷 石クロ 沼ノ谷 林ノ下 林ノ下尻 クラマチ下切 休場 ソウナ道ノ下 池ノ尻 ホコダン サコジリ 畠ケ中 大内ノモ ハリ立場 ミゾノヲク ミソノオク伊根口 アリガクビ アケジ ゴンゴ芝 タマコ原 迎アゲシ アゲシ タキツボ タキツキ 溝ケ下 シモ イバラクロ 大シモ 迎タ タンロ タンロ稲ノ下 タキツキ河原 タキツキ下切 リヤウデン 下の河原 大シモ尻 大シモ河原 迎内下 ソヲナ 迎内 ハカイリヤウ迎 ハカイリヤウ 大町内 百合表 大内 大内川原 大内上 大ケ道ノ上 宮越 水上タ コヲノ谷 立道 キゴハナ 長イリヤウ 長イリヤウ奥 ワラマチ ホラノヲテ イコマチ アラ谷迎 ナケン アシ谷奥 中足谷 中足谷尾ノ下 中足谷尻 中足立一ウ町 中足立 イ子マチ 一ツ町 足谷 足谷奥 黒松 足谷道ノ下 堀ノヲテ 堀ノヲテ谷 セン水 セン水下 ハルノ下谷 ヒヤノ奥 大内道の前 カマヤ谷 大ナル ヲテヤマ 池野 天ダケ ダケ 下ダケ 山中 山中原 山中坂 ワサダ 大イネノ下 下イ子 下イ子モト 山中道ノホテ 山中道ノ上 山中ヲカ ハリダケ バリダケ迎 バリダケ フル内道の下 フル内 クミカサコ 下ノ迎 油天 ズエノ谷 迎谷 公事代 迎山谷 迎山 迎山道ノ上 横道ノ上 長サコ 長サコ谷 ヒルヲ 長サコ尻 シヨウジハタ 渡り瀬 シヨウジハタ谷 ソウブ谷 柳原 迎ヲヘナ ヲバナ 松ケ尾 松ケ下 奥畑 大成ル 畠中 石グロ 大サコ ヲイノ林 クジロ ソウブ キコハナ タカウチ場 木ヲノヲテ 池ノ尾 下ダケ谷 シナノ木谷 古ヤシキ 古ヤシキ道ノ上 家ノホテ 家ノセト 神崎家ノ前 神崎家ノセド 神崎門の前 神崎家ノ上 サコノ下 サコ家ノ上 家ノ上 大イド 三ケンヤ ソラヂ カミ 奥前 コク家ノ上 奥ノ前イ根ノ上 奥ノ前イナキ 奥ノ前門ノ前 杉ノ谷 カヤノハナ クラマチノ上 ソラナ マトバ 池ノ上 笹原 畠ケ中道ノ上 畠ケ中 家ノ稲木 大内ノキ道ノ下 大内ノキ 家ノ上稲木 サコ尾 家ノウラ サコジリ サコノ上 下稲木 下井ナキ シタイナキ 大ナル口 大ナル口イナキ 大ナル口稲木 溝ノ奥 ミゾノヲク アケン辻 アゲン アゲンセド コンゴ芝 アゲンノ上 下ノ河原 小峠 ツツラワラ 宮腰口 宮越シ 足谷ノ奥 ハルノ木谷 大内川ノ上 大成 アリガカビ ダケ坂 クサカサマ 地ノ上 ?《私注・しんにゅうに非》山 クシゝロ 障子畑 ホヲノチテ 池ノヲ ゴンゴンバ ラウサコ ラク畑 クジゝロ ソウテ ホヲノヲテ 池尾 ユル畑ケ 家ノ向 家地 成坂 杉山 鼻ケ中 シンイナキ 道奥 ゴゝゴ芝 宮ノ越 立道 池ノ尾 渡り瀬ノ下 シヨウシ 畑谷 ゴンゴツシバ 畑ケ中 玉子原 ソウチ 木子鼻 泉水
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