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新井崎神社(にいざきじんじゃ)
京都府与謝郡伊根町新井
↑ 朱色はどの色かな? 日本の伝統色、日本人ならすぐにわかるのでは?
漢字はすごいが、「朱」という字は牛を一刀両断にした象形文字だそう。ドバッと血が出る、その血の色ですよ。
ここの背景色がその見本色。#eb6101
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京都府与謝郡伊根町新井
京都府与謝郡朝妻村新井
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新井崎神社の概要
《新井崎神社の概要》
記録に残る古い地名としては、子の日崎(ねのひざき)(丹後旧事記)あるいは・子日の崎(ねひのさき)(宮津府志)。丹後半島の東端、日本海(若狭湾)に突出する。冠島の西10km、鷲岬の北4kmにあり、舞鶴湾・宮津湾を抱える若狭湾の西側入口として重要な位置にある。背後の蝙蝠岳(こうもりだけ)(311.3m)と鷲岬背後の鷲ケ尾(221.5m)とともに海上からの見通しは極めてよい。丹後天橋立大江山国定公園に属する。その岬の先端に鎮座する神社である。
↑鷲崎(先端部分)
↑新井崎
舞鶴軍港入口として軍備上にも重要視されて、昭和11年海軍の監視所が神社の上方(今は集会所や公園)に設置され、山麓には陸軍の砲台が設置され、この岬には探照灯を据えた、ちょっとした軍事基地であった。
↓伝説の箱石とその右が経文岩。(当社の南側にある)
そこの案内には、
経文岩
この岩が経文岩と呼ばれる所以は、里人が経を唱えて徐福を匿ったことによると伝えられるが、これは全くの伝説である。
記録によれば西域から中国に仏教が伝わったのは紀元前後。そして朝鮮半島百済から我が国に仏像教典がもたらされたのは五三八年とされる。徐福は天竺におもむいて仏道を修めること七年という伝説もあるがしかし、この時代丹後半島に仏教が伝わっていたとは考えにくい。だが、古代における記録或は文献或は口伝などの整合性を追いかけること自体が問題で、こういう場合その裏にひそむものを探ることに意味があるのかも知れない。
ここは、口碑記にいう徐福集団と原住民邑長との問答の場所であったと考えたい。
この岩の側面にこの岩に似つかないコンクリートの壁がある。此処は大東亜戦争の遺構である。この洞窟には探照灯が格納されており、事ある時ハコ岩に引き出されて夜空を照らしたのであった。陸軍の砲台も海軍の施設も今は無い。ただ経文岩のコンクリートだけが残された。
古代の徐福の渡来の跡と現代戦争の跡という異質のものが同居する経文岩なのである。 |
↑新井崎の先端部分。新井崎神社は枯れた木の後側、少し護岸のコンクリートの壁が見えるが、その上になる。
徐福伝説で有名な当社であるが、事実ならばそれは二〇〇〇年以上も昔のハナシになり、ボウとして確かめようもない。まずはこの地この社の本来の性格を知らねばなるまい。
宮津府志によれば、新井は古文書に見える子日が転訛したものと智恩寺和尚は推定しているという。
たいへん変化のはげしい地名で、よく意味不明とされるが、箱根火山の麓、神奈川県小田原市に東海道線の「根府川駅」がある、茨城県稲敷郡美浦村に根火、あるいは畝傍山のネビもそうかも知れないが、ネヒ、ネフ。
越中国婦負郡。今はネイと呼ばれているようだが、このネフ、たぶんメフと読むのが本当か。その東が新川郡である。
これなら兵庫県宝塚市の売布と同じであり、丹後ならおなじみの女布や売布神社である。
こうした地名が丹生の転訛らしいということは当サイトではあちこちで述べてきた。NとMはどんな言語でもよく転訛し合う。
宮津湾で擱座した駆逐艦・初霜と同型艦に「子日」(ねのひ)という艦がある、軍艦名は地名が多いので、こうした地名がどこかにあるのだろうかと思っていたのだが、これは、正月最初の子の日に長寿を願って祝い遊び、宴をひらく「子の日の遊び」という行事に由来する、のだそうである。
元々は丹後国分寺が作成した平安時代のものかいわれる、室生谷観音寺の神名帳「与謝郡六十八前」には、従二位新明神と従二位売布明神が見える。いつの時代のものかいいかげんなルビがふってある資料であるが、ニイ神社とメフ神社であろう、新明神は今の当社であろうか、売布明神はどこだろうか。
水銀や金属と言えば怪訝な顔をされるが、丹哥府志は、「平賀源内の考に、丹後の経ケ崎程北海へ出たる處はなし、此處には定て磁石あるべしといふ、されども経ケ崎には石の色白ふして鉄気あるべき岩を見ず、独り新井崎は誠に黒々としたる岩斗なり、源内の考たる處定て此處ならん。」としている。
近頃の官僚やそれに無批判に追従するガクシャ・センセ・郷土史家などが見落としているだけのハナシであろう。そんなことでこれまでは、誰も言う人はなかった、たぶん当サイトが最初と思うが、新井崎神社とは意味通りの漢字で表記すれば、丹生崎神社である。(小牧進三氏が先に触れていた)
南に亀島の耳鼻、北へ行けば蒲入、山側へ行けばイカリの地名が残る。この周辺が水銀朱の採取地であったことを示していて、それを求めてイカリには吉野の井光族が入植していたであろう。
朱は赤色硫化第二水銀 HgS の実用名で、水銀朱ともいう。丹砂・朱砂・真朱・光明砂などと称されているが、要するに辰砂のことである。辰砂は中国の湖南省辰州の産が有名でこの名ができたそうだが、辰砂は古くから水銀とともに医療等に使用され、粉末にして朱漆とし顔料に用いられてきた、大変に高価なものであった。
始皇帝は薬にした水銀の中毒で死んだとか、その陵墓の地面には中国の五大名山など地形の模型が置かれ、その溝には河川と海洋を象徴する水銀が流れているとか言われるが、徐福が求めたものは艾や菖蒲ではなく、不老不死薬の本命、水銀ではなかろうか。日本人的発想でヨモギやショウブを持って帰っても始皇帝ともあろう人が満足はすまいと思えるだが、この地の水銀で徐福と新井崎神社はあるいはつながりそうにも思われるのだが、そう簡単かどうか。
『伊根町誌』に、
当社祭神は、事代主神・宇迦之御魂神とされて、元三宝荒神を祭り、現在地区の住民は徐福を祭るとしている。御神体は木像約30センチ余の男神・女神(童男・童女)像。
江戸期の文献は徐福を祀るとしていて、少なくとも江戸中期ころにまではさかのぼり得る祭神である。それ以前は三宝荒神、要するにカマドの神様、火の神様であったのかもわからない。
創建年代は一条天皇の関白藤原道兼の時代にあたる長徳4年(998)7月7日とされているが、記録としては文禄年間(1592〜1595)に建立された社を、寛文11年(1671)4月再建に着手し、同年9月16日に完成している。その後石段をはじめ境内が整備され、現在の建物は昭和36年4月本殿の修理と上屋が再建されたという。
神社の別当としては、代々玉林寺の住職が管掌していたが、明治以降神社法施行後は宇良神社の神官が兼掌している。
例祭は、4月15日。
古くは陰暦9月20日であったが、陰暦7月6日となり、昭和5年(1930)より陽暦4月15日となる。昭和34年(1959)に伊根町の祭日は8月3日に統一され、昭和48年(1973)ふたたび4月15日となり現在に至る。
祭礼宵宮には青年と若家主が中心となり、手丸提灯をもって参拝する。本祭は三柱神社(三宝荒神社)・新井崎神社・龍権さん・老人島(おびとじま)神社・愛宕社・恵比須社・本尊さん(玉林寺)・金比羅社に太刀振りと花踊りを奉納し、翌日(後宴)に宇良神社・秋葉社に祭礼を入れる。「新井崎神社の祭礼」
徐福伝説は舞鶴にもあるし、宮津にもあったようだと『宮津市史』は推定している。新井崎だけの専売ではない。水銀をもう少し追わねばならない。
新井崎神社の主な歴史記録
『丹後旧事記』
子の日崎。俗に新崎と云明神は秦の徐福を祭る此地肥饒にして七尺の艾を生ず。 |
『宮津府志』
子日ノ崎 同じ辺のよし。
智恩寺妙峯和偶の説に、子日の崎は新井崎の事なるべし子日新井(ネヒニヰ)こえ近ければなり、新崎は鷲崎より外にて此地よりは五里余も北なり是非をしらず。一説には日置高石の辺なりといふ。
夫木鈔
はるかなる子の日の崎に住む海士は
梅松をのみ引やよるらん よみ人不知 |
『丹哥府志』
【童男童女宮】(新井崎、祭七月六日)
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。
新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。 |
『与謝郡誌』
新井崎神社
朝妻村字新井小字松川、村社、祭神徐福、秦の始皇童男童女に命じて不老不死の藥を此地に求めしめたりなどの傳説あり、明治六年村社、氏子六十戸、例祭九月十五日、外に無格社三寳荒紳、金刀比羅社、愛宕社等あり。 |
『伊根町誌』
新井崎神社 新井小字松川(旧村社)
祭神 事代主神・宇迦之御魂神とされているが、元三宝荒神を祭り、現在地区の住民は徐福を祭るとしている。御神体は木像約三○センチ余の男神・女神(童男・童女)像である。
例祭 四月十五日
古くは陰暦九月二十日であったが、陰暦七月六日となり、昭和五年(一九三○)より陽暦四月十五日となる。昭和三十四年(一九五九)に伊根町の祭日は八月三日に統一され、昭和四十八年(一九七三)ふたたび四月十五日となり現在に至っている。
沿革 創建年代は一条天皇の関白藤原道兼の時代にあたる長徳四年(九九八)七月七日とされているが、記録としては文禄年間(一五九二〜一五九五)に建立された社を、寛文十一年(一六七一)四月再建に着手し、同年九月十六日に完成している。(棟札に祢宜野村仁兵衛、別当玉林寺、大工手間二三五人とある)その後石段をはじめ境内が整備され、現在の建物は昭和三十六年(一九六一)四月、本殿の修理と上屋が再建された。
小狛犬 天保 七年(一八三六)八月 若連中奉納
大石灯籠 天保十一年(一八四○)五月 大阪橘屋清三郎寄進
石灯龍・狛犬 明治四十三年(一九一○)嵯峨根孫兵衛寄進
大狛犬 明治四十五年(一九一二)大阪市大平安、嵯峨根孫兵衛、広島県佐々木市郎寄進
新井崎神社碑 明治四十五年(一九一二)建立
神社の別当としては、代々玉林寺の住職が管掌していたが、明治以降神社法施行後は宇良神社の神官が兼掌している。
徐福伝説 紀元前二二一年、中国の統一に成功した秦王の「政(せい)」は、新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり、成陽(かんよう・今の西安)に都した。この一世の英雄秦の始皇帝は方士徐福を召して不老不死の霊薬を求めることを命じた。当時神仙思想が流行し、仙丹に七返八還の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者はこの霊薬を求める者が多かった。仙丹は三神仙(渤海にある蓬莱・方丈・エイ州)に仙人が仙丹を練り、不死の薬を蓄えているといわれた。始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に、仙丹を求めることを命じたのである。伊根町字新井には古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を産土神として祭り、新井崎神社の祭神として崇拝している。
伝承によると『七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。漂着した場所は新井崎のハコ岩で、長途の船旅と波浪によって疲れ果てて岩の上で休んでいると、時の澄の江の邑長(むらおさ)がいぶかって来意を聞いた。徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都威陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住みついた。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」(からよもぎ)である。
徐福はその後里人をよく導いたので、推されて邑長となり、里人の仰慕の的となって、死後産士神として奉祀されるに至った。』と伝えられている。「からよもぎ」は普通のよもぎ(綿蓬)と異なり、葉の裏にある白毛が少なく、草餅(よもぎ餅)にするため早春に蓬をつむとき、特に「からよもぎ」をえらんで若葉をつみとる。成長した葉は「もぐさ」にもなる。「からよもぎ」は当地方では新井崎海岸(のろせ海岸)に多く自生しているが、近年、道路の改修、土地基盤整備等により少なくなったが、現在なお自生している。
「童男童女宮」(とうなんかじょぐう) 新井崎神社は徐福を祭り新井崎大明神とよんでいるが、縁起に童男・童女の渡来を「童男寡女」と記したことにより、住民は「とうなんかじょぐう」とよぶようになった。御神体が男女二神であるのは、徐福とともに渡来した童男・童女をあらわしている。
文献−新大明神口碑記
原夫丹之後州与佐郡澄江里新大明神者震旦奏始皇帝奉侍之童男女也実当(二)本人王第七代孝霊天皇御宇(一)焉蓋始皇帝好学(二)長生老之仙術(一)其方也朝服(二)金丹石髄(一)暮飲(二)酒瓊醤(一)以欲(レ)求(二)真人不死之神薬(一)九茎薬草九節菖蒲不老延齢薬餌也故勅(二)命童男寡女(一)而言曰域丹後奥郡澄江里與(二)龍宮城(一)同所而異名也汝等去此真人之霊薬可(二)尋得来(一)儻不(レ)然則勿(レ)帰焉童男寡女承(レ)勅而得々航(レ)海来著(二)岸干澄江(一)時澄江村長怪而且問云答以(二)上件事(一)矣頃間談(二)成陽宮等事(一)日先始皇帝都京也云々(下略)
維時嘉永五(一八五二)龍次壬子孟夏日禺居
澄江里金剛山下写焉氷子(花押)
祭礼
宵宮には青年と若家主が中心となり、手丸提灯をもって参拝する。本祭は三柱神社(三宝荒神社)・新井崎神社・龍権さん・老人島(おびとじま)神社・愛宕社・恵比須社・本尊さん(玉林寺)・金比羅社に太刀振りと花踊りを奉納し、翌日(後宴)に宇良神社・秋葉社に祭礼を入れる。 |
『丹後の宮津』
伝説地・新井崎
伊根から大原という古い部落をすぎて約四キロ、海岸へでると日本海の荒波にあらわれる小半島の上に数十戸の家がみえる。ここが新井崎であり、漁村新井である。このすばらしく雄大な景色、断層海岸の典形ともいうべきせまい海岸に、「わずかばかりの農地をたがやし、幾百年のむかしから漁業を主として生活する漁村であるが、しかし日夜荒けづりな自然のなかに育ってきた村の人々は、またそれだけに鍛えられて、いかなる困難にも打ちかつ力を養っているかのようである。目を海上にむけると、呼べばこたえる男嶋・女嶋の二島、この嶋は丹後海漁民にとって神秘そのものであり、海上の安全と豊漁をまもる神々の嶋とされている。ではここの伝説とはなんであろうか、足をこの村にすゝめ、小半島の外海に面する方へまわると、そこに「新井崎大明神」という氏神がある。伝えられるところによると.いまから二千二百余年のむかし、中国の秦始皇がその臣徐福に命じて、東海に不老不死の薬草をもとめさせた。その徐福がやがて流着したのがこの新井崎であり、この「新井崎大明神」にまつる祭神が徐福だというのである。丹野府志の記者は、この伝説を「初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり」といって、どうやらこの説はほんとうらしいと書いている。決定的な資料のない、いわゆる伝説であるから、いまさらどうともいえないが、しかし丹後半島が対島暖流やリマン海流にあらわれて、はやくから大陸と往来していることは実証されるし、これから足をむける伝説浦島子の話も、やはりこのついさきの浦島の浜であることなどを考えあわせて、この徐福の話が事実でないという根拠はもうとうないのである。−−などと考えつつ、この神前をさって泊り部落への道、この新井崎からさきへの海岸をいそぐこと二キロ、断崖の下にはめずらしい黒一色の奇岩怪石、打ちよせる怒涛がこの海岸におそいかかり、白くくだけちる波の花は、その黒い岩々のあいだに消えてゆく。いかにいそぐ足も、さきさきで足をとめ、ただぼうぜんとこの景観にみとれること再三、次ぎの目的地「泊り」部落はすでに目ぢかである。 |
『丹後路の史跡めぐり』
徐福伝説の新井
はるかなる子の日の崎に住む海女は
みるめをのみや引きやよすらむ
子の日崎とよばれた新井(にい)は丹後半島一周道路から外れた日本海に突出した僻地であるが、その風景はすばらしいの一語につきる。真青な海を目の下に見て、冠島、沓島が手の届くように浮び、はるかなる水平線には能登半島が霞んでみえる。
耕地が少い上に断涯になっているため、小さな田が無数に重なりあって「千枚田」とよばれて一種の名所になっており、人間の耕地に対する執念と過酷な労働を物語っている。いまから二千二百年前、万里の長城を築いた秦(しん)の始皇帝は家臣の徐福に命じて不老不死の薬を求めさせたが、徐福は薬を求めてこの地に着いたといい、眺望のよい岬の上には徐福を記る新井崎神社がある。
寛文元年(一六六一)京極高国が藩主の時代に重い年貢の一部が払えなかったために、庄屋助左衛門ら村民が追放になって亡所となったが、高国が所領を没収されてからは幕府の天領となった。
文政九年(一八二六)二月三日、宮津駒之爪場屋から脱出した栗原百助は天領である養老の大島村の酒屋島崎藤五郎を頼ってかくまわれたが次第に身辺が危険となり、舟で若狭へ渡ろうとしたが、冬の風浪にさえぎられてやむなく新井村へたどり着いて小西新四郎方へかくまわれた。ところがここも藩の詮議が次第にきびしくなってきたために、新井村の漁師市助の船で若狭小浜へ渡り、陸路江戸へ向ったが足を患い、近江八幡の宿で家人に密告されて追手に追いつめられ、ついに西光寺の門前で切腹して果てた。時に三十九才であった。西光寺の住職は宮津藩の追手の非礼を怒って死骸を渡すことを拒み藩から重役が出向してようやく貰い受けている。この地方では義士百助を慕って次のような歌が残っている。
おいとしや
宮津家老の栗原様は
百姓想うて腹召さる
家老であったのは百助でなくて父の理右衛門である。理右衛門は百姓に同情した罪で十七年間座敷牢に入れられていたが、宗発がなくなって宗秀が後を継いだ時に許されて補佐役となった。八○余才になっていたという。
新井の小西家には理右衛門が座敷牢から出された天保十二年(一八四一)子息百助が世話になった新四郎にあてた丁重な礼状が残っている。
新井崎神社の上、いま青年の家のある所に昭和十一年海軍の監視所が設けられ、陸軍は山麓に口径二一センチの重砲四門をすえつけて舞鶴湾口の護りとしたか、いまはみかん畑とかわり、きじが飛び交う楽園とかわっている。 |
(新井崎神社の案内看板)
祭神は秦の始皇帝の侍臣徐福を祀る。紀元前221年中国の統一に成功した秦王「政」は新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり咸陽(今の西安)に都した。当時神仙思想が流行し仙丹に七返八環の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者は、この霊薬を求める者が多かった。
仙丹は三神仙(蓬莱方丈瀛?)に仙人が仙丹を練り不死の薬を蓄えているといわれた。
始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に仙丹を求めることを命じた。伝承によると七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老不死長生の神薬を求め方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。その場所は箱岩である。
この地で徐福の求めた神薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬である。
徐福は仙薬を求むるままに、この地にとどまり、よく邑人を導いたので推されて邑長となり高徳は等しく仰慕の的となって死後産土神として奉祀されるに至った。 |
『宮津市史』
徐福伝承
徐福は中国秦の時代の方士(神仙の術をおこなう者)で、始皇帝に申し出て、不老不死の仙薬を求めるため、童男女数千人を連れて海中の三神山に船出したと『史記』に伝えられている(別掲一○二)。また我国の中世の『神皇正統記』には、始皇帝が長生不死の薬を日本に求めたと記されている(別掲一○三)。そのためか、徐福は佐賀県有明海一帯や和歌山県熊野付近など日本各地の約二○か所に渡来したとする伝承地があり、丹後もその一つに数えられている。すなわち、与謝郡伊根町新井の新井崎神社は、徐福の渡来地といわれ、徐福を祭神としている。この神社は、日本海に面しており、切り立った海岸の崖の上に、徐福が上陸したと伝える「箱岩」があり、その下を日本海の荒波が洗っている。
また、伊根町新井からは少し離れるが、同じ与謝郡の加悦町滝の施薬寺には徐福伝承を題材とした与謝蕪村の「方士求不死薬図」の屏風(京都府指定有形文化財)があることも付け加えておこう。
日本各地の徐福の渡来伝承は、総じてそんなに古いものではないと考えられているが、与謝の地には次に見る浦島伝承など、神仙思想に関連するものが多いのである。
徐福
伊根町新井崎の徐福伝説を記すもっとも古い文献は、延宝五年(一六七七)に宮津藩主水井尚長に同行した儒臣和田宗允(静観窩)が書いた「与謝巡遊記」(『天橋立集』収載)の次の記載である。
又往而海岸有森建童男寡女宮、世伝秦徐福上書始皇、請与童男女五百人入海求三神山不死薬、而得海島、
遂留不還、所謂蓬莱三山者、吾朝尾川熱田、駿川富士、紀州熊野也、未知其迹在丹後国、蓋五百男女
所々散在而然乎、想尋常古蹟、所伝処々尚有之、况於異域流落之輩乎
中世の史料では、新井崎の地名は明記されていないが、春屋妙葩が丹後滞在中(一三七一−七九)に作った漢詩の連作「丹陽十題」のなかに、次の七言律詩がある(第七章第三節参照)。
福島白沙
先生采薬得悟霊 奉使秦皇為避秦
不向桃源徒問路 遠探蓬島此願神
白沙猶照鬢糸雪 丹竃未寒和気春
緬想天山楼上月 夜深呼夢鶴声頻
明らかに徐福伝説を詠んでいるが、島も砂浜もない新井崎の情景とは考えにくい点がある。「丹陽十題」は、浦島伝説を詠んだ「鮫宮玉箱」も含むが、天橋・成相・普甲・千歳・九世など宮津湾岸の名所を詠んだ詩が多い。あるいは、蓬莱島と呼ばれたと『丹後州宮津府志』(宝暦十三年〔一七六三〕)『丹後名所案内』(文化十一年〔一八一四〕)などに見える獅子村沖にあった小島のことを詠んだものかとも思われる。
また、智海が文明年間(一四六九〜八七)ごろ撰述した『丹後国一宮深秘』(七五八)には、次の記述がある。
亦古伝二蓬莱ハ此国ニ有ト見ヘタ□、昔秦皇帝漢武年々ニ霊薬ヲ海水漫々トメ覓二処ナシ、不覓得蓬莱 ヲ否不帰云々、童男?女終船中ニテ老タリ、誠蓬莱ハ名ノミ有テ無実云ヘリ、機縁熟シヌレハ見事無疑 ト云々
ここには具体的な丹後との関連づけはないが、当時、丹後の宗教界の中枢にいた智海が徐福に関する知識を持っていた事実は注目され、やはり宮津湾岸に徐福の伝承があった可能性をも示唆していよう。
中世後期に流行した幸若舞の『屋嶋軍』ては浦嶋太郎と重男?女の船が並んで登場する(林晃平「浦島と四季」『苫小牧駒沢短期大学紀要』一九)。徐福については、無住の『雑談集』、北畠親房の『神皇正統記』(古代・別掲一○三)、「太平記」などに記載があるほか、熊野の伝説を無学祖元・絶海中津ら禅僧も漢詩文の題材として取り上げ、中世の知識人にはすでに馴染み深い逸話であり、浦島伝説との習合もはじまっていた。
新井崎は浦嶋神社の氏子圏にあり、浦島伝説の影響のもと冠島信仰が蓬莱山と結びついて不老不死の霊薬への関心をともない、早ければ南北朝期以前、遅くとも近世初期までに徐福漂着伝説が定着したと思われる。 |
関連情報
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資料編の索引
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん
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