徐福を祀る神社として全国的に有名な伊根町の新井崎神社の祭礼行事。
現在は、というかかなり以前から新井崎神社だけの祭礼として単独では行われないようで、「朝妻祭」の一部としてとり行われている。
伊根町になる以前はこのあたりを朝妻村(明治22〜昭和29。大原・新井・井室・六万部・泊・津母・峠・畑谷の8か村が合併して成立)といい、バラバラであった村内の各神社の祭日をある一日に統一して行った歴史があるようで、その流れを引いて、今も旧村内の神社の祭礼を一度に行うのである。こうした祭礼は朝妻ばかりでなく丹後には多いのであるが、どの出し物が本来はどの神社のものかということはよくわからない、また今に伝わる出し物がすべてだったかもよくわからなくなってくる。
朝妻という地名は泊の海に注ぐ川が朝妻川、泊の松岩寺は江戸期に山号を朝妻山と号した。『曽我物語』の「朝妻狩座の事」としても知られる。近江の朝妻や大和の朝妻と繋がりがあるとも言われる。
朝妻祭は内部にグループがあるようで、井室地区は(08年)4月15日すでに終えていた。新井や新井崎地区は4月20日であった。
坂根正喜氏はこれまでに何度も行っておられるし、さらに新井の知り合いに電話して詳しく事前調査をしてくれていたので、私は乗っけてもらって行けばいいだけという殿様旅行であった。久しぶりの上天気でうかれ気分であった。
←これが新井の千枚田。有名な撮影スポット。新井に入る手前に広がる。半島状に突き出ているのが新井崎。防波堤のあるのが新井漁港。
知らぬ人もない美田もすでにどこが田んぼかわからなくなっている。この斜面は海まで全部田なのである。というか、田だったのである。
海に面した急斜面を、こんな高さにまで棚田にしている。あちこちに凝灰岩の大きな岩が転がる。もともとは火山帯であったと思われる地である。一部耕作されている田も残るが多くはすでに放棄されいて、こうなってから10年くらいは過ぎるという。この国は自分たちのくう食糧を作らず、何を作り、何を自賛しているのだろうか。何か納得できかねる。頼りない釈明政治屋どもの自賛が虚構でなければよろしいのだが、このぶんではいつ虚構と代わることやら…。食糧を心配しなければならない国、超最低国家がここに見えるような気にもなる。
今もここの棚田の美しい風景を写真などで見られるかも知れないが、それはたいていがそれくらい過去の写真だそうである。写真というか写偽というべきか。写真家のつもりなら世の中の偽を写してはなるまい。近頃の大本営発表のデーターと同じで、全体のある部分だけ都合の良いところだけを切り取れば、あるいは都合良い過去の写真をもってくれば、方法はいくらもある、…写真屋はどのような偽でも立派に写真として写せるのである。そんなんはなんぼでもおるで、そんなんばっかりやでと、また舞鶴の五老岳の展望台からだと、湾口の先、真正面に見える丹後半島がここである。高倍率の望遠鏡でのぞけば、ここの棚田もよく見えるなどと坂根氏はいうのであった。
(↓さっそく試しに登ってみたが、この日は霞がかかったようで、もう一つよくは見えなかった)
新井崎神社社頭での神事。浦嶋神社の宮司さんが執り行っておられた。9時30分〜。
新井崎神社は新井崎(子の日崎・子日崎・新崎)の突端にある。神社は東面していて、神社の正面に冠島がある。(この日は霞んでいてよく見えなかった)。
神社のすぐ先は断崖である。
この断崖はどんどん崩れているのではなかろうか、右は北側にある岩であるが、これがもう少し手前の樹が邪魔にならず写せた、もう少し右に(断崖の先に)寄れたのであるが、現在はこれ以上は行けない。何時の日か将来は新井崎神社の地も断崖に飲み込まれ消滅するかも知れない。
どのような神社なのかを見ておこう。
徐福伝説などは伊根町でも知る人は少なくなったという。忘れないようにと、最近入り口に石碑(右下)が建てられた。これを読めばいいのだが、漢文でムツカシイ。大学出た人でも漢字が難しいルビがないと読めないと文句いうくらいだから、せっかくだけれども、これはまず読める人はない。
「今はない古い案内板」
〈祭神は秦の始皇帝の侍臣徐福を祀る。紀元前221年中国の統一に成功した秦王「政」は新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり咸陽(今の西安)に都した。当時神仙思想が流行し仙丹に七返八環の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者は、この霊薬を求める者が多かった。
仙丹は三神仙(蓬莱方丈瀛?)に仙人が仙丹を練り不死の薬を蓄えているといわれた。
始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に仙丹を求めることを命じた。伝承によると七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老不死長生の神薬を求め方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。その場所は箱岩である。
この地で徐福の求めた神薬とは九節の菖蒲と黒茎の蓬である。
徐福は仙薬を求むるままに、この地にとどまり、よく邑人を導いたので推されて邑長となり高徳は等しく仰慕の的となって死後産土神として奉祀されるに至った。 〉
『丹後旧事記』に、
〈 子の日崎。俗に新崎と云明神は秦の徐福を祭る此地肥饒にして七尺の艾を生ず。 〉
『丹哥府志』に、
〈 【童男童女宮】(新井崎、祭七月六日)
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。
新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。 〉
『与謝郡誌』に、
〈 新井崎神社
朝妻村字新井小字松川、村社、祭神徐福、秦の始皇童男童女に命じて不老不死の藥を此地に求めしめたりなどの傳説あり、明治六年村社、氏子六十戸、例祭九月十五日、外に無格社三寳荒紳、金刀比羅社、愛宕社等あり。 〉
私としては、子日崎も新井崎、新崎もみな同じで丹生のことと考えている。新井崎神社とは丹生崎神社である。
北の蒲入のニュウは丹生だと松田寿男氏は言っているし、伊根湾の耳鼻も丹生、筒川は間違いなく丹生に関係した名と思われるし、碇峠もある。このあたりは水銀の地である。
徐福伝説は不老長寿の霊薬としてヨモギやショウブといったものでなく、おそらくこの地の水銀と関係がある伝説と思われる。与謝郡の国内神名帳の従二位新明神(たぶん新井崎神社)と従二位売布明神(あるいは荒神社か)がおそらくこれに当たると考えるのである。
徐福渡来と関係があるとすれば一番問題にすべきなのは、この社名である。何を求めて渡来したのか、不老不死の霊薬・仙丹だが、それは硫黄と水銀の化合物、仙丹の解はこの社名にこそ求めるべきかと思う。
蓬莱山の「蓬」はヨモギ、「莱」はアカザという草、あるいは黒の意味があり、そこから「黒ヨモギ」などと考えたものか、実際当地には黒ヨモギがあって、とりに来る人もあるとか。しかし黒ヨモギ説は漢字から言っているだけのことでなかろうか。風土記では「蓬山」と書いてトコヨノクニと読んでいるが蓬莱山は元々の意味は草山のことであろうか。
新井崎神社から西へ少し行った蝙蝠岳の麓に荒神社(三宝荒神・三柱神社)が鎮座している。新井の元宮とされるという。
蝙蝠岳は火山だそうで、このあたりの田の中にも凝灰岩の岩がゴロゴロしている。硫黄もゴロゴロしていたかも知れない。
新井崎神社社頭での神事が終わるとここへやってくる。
わたしはこれが売布神社なのではなかろうかと考えたりしているが、別に根拠はない。
←写真はその参道で行われるもの、ナワテ振りと呼ばれている。ここから今日の祭礼が行われる。
荒神社(三宝荒神)境内で行われる大刀振り神事。
若者が何名か帰ってきたとかで結構パワーフルである。
『伊根町誌』は、
〈 三柱神社(元三宝大荒神) 新井小字荒神
祭神 火産霊命・配祀興津彦命・興津媛命
例祭 四月十五日 太刀振りを奉納する
沿革 永享七年(一四三五)五月創建されたとされている。新井地区の元宮と伝えられている。
昭和三十五年(一九六○)修造された。 〉
シンボチの口上はササオドリと言っていたが、府教委の資料によれば、伊根町のこのあたりは「花踊り」に分類されているようである。資料が手に入らず詳しく書けないが、実際このあたりの人は「花踊り」と呼んでいる。
しかし「花」も「踊り」もほとんどないようなおとなしいひかえめなもので、歌はあるが、歌詞はよく覚えていないようであった。公然とカンニングペーパー持参である。何曲かある。
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