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安寿姫塚(あんじゅひめづか)
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安寿姫塚の由来《安寿姫塚の概要》下東は舞鶴市の西部、由良川下流右岸に位置する集落で、東部の建部山麓宮ノ谷の池畔に昭和3年加佐郡教育部会が史跡として建てた安寿姫塚碑がある。 ![]() 案内板には、 〈 ![]() ![]() 村上天皇の天暦年間(九四七)奥州のの大守岩城判官将氏は、えん罪を受け筑紫に送られた。その子姉 安寿姫、弟 津塩丸(厨子王)は母と共に父のあとを追って、越後の国 直江の浦岐橋に来たとき、姦賊 山岡大夫に母は佐渡が島へ、姉弟は宮崎の二郎に由良の湊で、三庄大夫に売られ「汐汲み」「柴刈」にと冷酷な苦難の毎日を送っていた。 ある雪の朝、弟は浜小屋を抜け出し和江の国分寺に助けを求めた。住僧は彼を行季(こうり)の中にかくまった。追手はこれを見つけて槍で突いたが刺さらないので中をしらべると、石の地蔵さんが身代りに入っていたと言う。 難を逃れた厨子王は洛陽に行き、後に丹後の国司となり佐渡の母に再会する。 これより先、安寿姫も小屋を抜け出し京に上る途中、中山から下東に出る坂道で疲労と空腹に堪えきれず死亡した。 この坂道を後に「かつえ坂」と呼ぶようになった。 安寿姫の亡きがらは、村人の手により建部山の麓のこの地「宮の谷」に葬られた以後今日まで安寿塚には「かつえの神」として参詣者が絶えない。毎年7月14日は夜祭りが行われ池畔にたくさんの提燈をともし安寿姫の霊を慰めている。 ![]() ![]() コブシが建部山のこちら側斜面には多く、桜より少し早く咲いて、よく咲く年は山が白く見えるほどである。 普通このあたりではコブシと呼んでいるが、厳密にはタムシバだそうである。しかしタムシバの花ではここの伝説と調和しない。 《八雲のれきし》 〈 ![]() 安寿と厨子王は三庄太夫の仕打ちに耐えかねて、屋敷からぬけだし、和江のカクレ谷にのがれた。ここで二人は別れの水杯を交わし、近くの国分寺に逃げ込み救いを求めた。国分寺の和尚に厨子王の身をあずけて、安寿は佐渡にいるだろう母を求めて旅立った。和江の村人の助けを得て川向うの中山に渡ったのであるが、中山・下東の村界の峠で疲労と空腹にたえかねて、遂に悲運の最後をとげた。下東の村人達はこれにいたく心を打たれ、その亡骸を山里の奥に手厚く葬り祀ったと伝えられている。これが安寿姫家塚の発祥である。 その後、いつの時代か堂宇を建て、宝篋印塔が安置された。村人達は遠い昔から安寿を祀ったものと信じ、毎年七月十四日を例祭として安寿を偲び、霊を慰めている。貴重な伝承である。 この姫塚は良縁の権化としても知られ、最近特に若い自衛官の訪れが多いという。史実はどうであろうと、建部山のこぶしと安寿の伝説は末長く咲き誇るであろう。 平成四年舞鶴市は伝承の史跡保存のために周辺の整備を行い面目一新、観光遊園地として造成した。 市教委の調査によれば、この塚の宝篋印塔は鎌倉時代の形式だということである。 ![]() ![]() 近代では森鴎外の名作のおかげもあってか、日本人なら、安寿と厨子王の伝説を知らぬ人はなかろうと思われる。その伝説の塚である。 この伝説はかなりの数のいろいろな伝承要素から組み立てられているようで、鴎外の語る物語のように簡単単純なものではない。 超大物伝説で各地の伝承が時代を経ながら何重にも何重にも被さり、変化発展してもう本来の正体が見えなくなっている。 現代人には、わかったように思い込まれている伝説だが、実はそうはわかってはいない伝説である。 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47) ![]() 〈 ![]() 舞鶴を出て国道一七八号線を走れば由良川にかかる大川橋に出る。橋を渡らずに右へそれて宮津線をくぐると下東(しもひがし)部落へつく。その谷間に、国道よりそれるためあまり人にも知られていない安寿の姫の墓と伝えられる宝篋印塔が、覆堂に囲まれてひっそりと建っている。 そうしてその前に安寿が入水したという佐織池(さおりいけ)がある。 安寿物語は森鴨外の三荘太夫であまりにも有名である。 永保元年(一○八一)陸奥掾平正氏は白河天皇の怒りを買い、筑紫の安楽寺へ流される。正氏の妻は安寿と厨子王を連れて岩代に移り住むが、子供たちの父恋しさに負けて筑紫への旅に出た。 安寿十六才、弟厨子王十三才の時だという。 越後国直江津で人買い山岡太夫にだまされ、母と仕女姥竹は佐渡へ売られ、姉弟二人は由良港の三荘太夫の館に売られ、姉は一日三荷の汐汲みを、弟は一日三荷の柴刈りをさせられたという。 この土地では安寿塚のことを昔から姫塚とよんでおり、村のはずれのちょうど中山城の真下にある坂道をかつえ坂とよんでいる。安寿が三荘太夫の館から逃れる途中にこの坂で飢に苦しんで倒れていたという。一説にこの塚は大雲川で討死した一色義道の墓ではないかともいわれている。 ![]() 安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しやほうやれほ 鳥も生あるものなれば とう とう逃げよ追わず とも 丹哥府誌には奥州岩木山の岩城権現には安寿と厨子王(津志王)丸を祀り、丹後の人が登ると山が荒れるので忌みきらって登らせなかった。 ある時丹後の人が但馬の人といつわって奥州岩木へ行ったら、海が荒れて帰れなくなった。とうとう路金にも困って恐る恐る丹後の人間であることを打ちあけたところ、土地の人が路金を与えて「早く立ち去れ」と言った。いざ帰ろうとすると、伝え聞いた村の人が「三荘太夫の子孫だそうな」と、ぞろぞろ見物に集まったのには困ったという話がのっている。 ![]() 『舞鶴地方史研究』(72.9)には、(地図も) ![]() 〈 ![]() 村上誠一 「越後の春日を径て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群れが歩いている。母は三十才を越えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。」 という書き出しで始まっている、文豪森鴎外の名作「山椒大夫」は、その文章の立派さと共に、物語のあわれさで全国に知れ亘っています。 母というのは岩城判官正氏の妻で、姉が安寿、弟が厨子王であります。 正氏は無実の罪によって筑紫へ左遷されたまゝ帰って来ない。母は幼児と共に北九州の夫を尋ねるために、日本海に沿う北陸道を西へ急いでいた。ところが越後の直江の浦(直江津)で、人買いにだまされ、母は佐渡へ売られ、姉と弟とは越中、能登、越前、若狭をへて丹後は由良の港の長者山椒大夫の奴婢に売り渡される。 そして安寿は汐汲みに、厨子王は山仕事に酷使される。姉はひそかに弟を逃がす決心をして、二人で山仕事に出る。 「安寿はそこに立って、南のほうをじっと見ている。目は、石浦を径て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った川向かいに、こんもりと茂った木立の中から塔の先の見える中山に止まった。」 と鴎外の情景描写は正確に書かれている。その中山からこの下東へ通ずる一寸した峠が今も「かつえ坂」と呼ばれる。 ![]() この附近で安寿は飢のために死んだのです。その骸をこの村の人がねんごろにこの地に葬ったと伝えています。 一方弟は、和江の国分寺の僧に助けられ、都に上り関白師実に見出され、平正道と名のり丹後の国守に任ぜられた。そこで丹後一国で人の売り買いを禁じて奴婢を解放し、国主の恩人の僧には恩賞を与え、姉のため、舟一艘の玉石を運び墓地に埋め供養塔を建てた。この塚の下には多量の玉石があるのです。 小説山椒大夫の最後には 「安寿恋しや、ほうやれほ。 厨子王恋しや、ほうやれほ。 鳥も生あるものなれば、 とうとう逃げよ、追わずとも。」 正道はうっとりとなって、このことばに聞きほれた。そのうち臓腑が煮え返るようになって、獣めいた叫びがロから出ようとするのを歯を食いしばってこらえた。たちまち正道は縛られた繩が解けたように垣の内へ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前にうつ伏した。右の手には守り本尊をささげ持って、うつ伏した時に、それを額に押し当てていた。 女はすずめではない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつものことばを唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。 その時干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目があいた。 「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。 とめでたく物語を結んでいます。 然し伝説では厨子王は、国守になって山椒大夫の罪を糾弾し、体を生き埋めにした上通行人に竹の鋸で首をきらせて怨を晴らすのであります。 この民話は中世の民衆が支配者に対して、抱ていた絶望的な怨念が生み出したもののように思われます。 そこには何時の時代にも、支配する者と、される者の間にある対立が、財力や権力に屈する時に、人々の心の底にあるうっ積が、共感を呼び語り伝えられたのではないでしょうか。 私達の村の先人達が名も知れぬ、薄幸の少女の死に寄せた愛の供養が、連綿として絶えることなく受けつがれていることに誇りを覚えるのです。 毎年七月十四日は安寿の姫さんの祭とされ仕事を休み若者が主催して、営まれる宵祭りは、若き命を愛しんで昔の人が考えついた意味を感じます。 姫の難儀を思い、食物や、塩を供養するのがならわしとか。 五穀豊穣は勿論、子供の健やかな成長、若者にとっては良縁をかなえてもらえる、あらたかな御仏として崇められているのです。 因みに一片の伝説とは云え、この物語りにまつわる色々ないわれが各所にあります。 私達は今その跡を尋ねて、古人の「くらし」を考え、民話を伝えて来た心を探ぐるのも、現代に生きる支えになるかも知れない。 汐汲浜の波の音も、塚のあたりに咲くこぶしの花も、訪れる人に千年の悲しみを語りかけてくれるのである。 ![]() ![]() 丹後第一の、というか京都府下第一の大河・由良川の河口部に点々と伝承地がある。 そしてこの伝説は丹後だけには留まらない。実は奥州岩木山の麓一帯の津軽地方は、丹後人を忌み嫌うという慣習がある。 一通りの伝説や説経節以前の何かが隠されて、あるいは忘れられていそうに思われる。 岩木山(津軽富士)は蝦夷の産鉄の中心地である。岩木山のある津軽は正式には江戸時代にならないと日本の領土とはならなかった。ずっと蝦夷の天下の地だったところであった。 丹哥府志の引くところによれば、 〈 ![]() ![]() 鬼が棲むという岩木山の神が津志王丸と安寿だという。丹後人ゆえに私もこの山には登れないことのようである。丹後人は大事に大事に安寿姫をお祀りしていますので、どうかその折りには登らせて下さい。 誠に興味深いので、もう少し、 『山椒太夫伝説の研究』(酒向伸行・92)に、 〈 ![]() まず、『外が浜風』天明五年(一七八五)八月十五日の記事を掲げてみよう。 「この御山(岩木山)のはじめて開けたのは、延暦のころである」と人が語った。 「その昔、岩城の司判官正氏が子供をふたり持っておられ、安寿姫、津志王丸とよばれていた。その霊をこの峰に祀っている。そのような物語があるために丹後の国の人は、この岩木山に登ることができない。またこの峰を見渡すことのできる海上に、その国の舟がいると、海はひじょうに荒れ狂って、ぶじに港に停泊することもむつかしい」と、船頭がいった。 このいわゆる「丹後日和」については『外浜奇勝』、買政十年(一七九八)六月十六日西津軽郡深浦町での見聞として次のようにある。 「丹後船がいるのではないか、このごろうちつづく雨といい、空模様もただならぬのは……」とうわさして、たくさん停泊していた船のかじとり、船長らをみな、神社の御前にあつめ、岩木山の牛王宝印をのませて、岩木の神は丹後のくにのもの、とくに由良の港の人を忌みなさるから、「その国の人ではない」という誓約文に、みな爪じるしをさせた。 彼と時を同じくして、天明八年(一七八八)幕府巡見使に随行して、東北地方から北海道まで視察に行った古川古松軒の紀行文『東遊雑記」にも次のような記事をみることができる。巻之四、七月十五日の記事である。 岩城山(岩木山)は弘前より麓まで二里半八町、それより頂きに登る所曲り道の坂三里、四季に雪ありといえども、この節残暑強くして雪なし。岩城山に権現と称す小社あり、祭神詳かならず。いい伝う、永保年中(一○八一〜八四)のころ、この地の主に岩城判官正氏という人あり、在京せる間に讒者のために西国へ流さる。正氏に二子あり、姉を安寿姫という、弟を津志王丸という。父を幕いて、母をともないて西国に下らんとす。越後の国において人買いにかどわかされて、母は佐渡の国へ売り渡され、二人の兄弟は丹後の国由良の湊、山荘太夫に売られ、奴婢となり追い使わる。津志王丸なお父をこいて山荘太夫が家をのがれ出てて、ある寺院に忍んで難をのがる。安寿姫は津志王丸を隠しおとせしとて、山荘太夫父子いかりて攻め殺さる。その後ゆえありて、津志王丸本領安堵す。これによりて山荘太夫父子並びに人買いの一類を誅戮せり。いつのころよりか、津志王丸兄弟の霊をこの山に祭りて、岩城権現と称す。このゆえによって、丹後の人津軽地にいれば災いありとて、一人も来らずという。このことは先だって聞きし怪説ゆえ、信じがたく思いし所、このたび御巡見使御下向に付き、江戸において御三所に津軽侯の御使者来りていう、このたび召しつれ給う御家来の内、もし丹後出生の人あらば御無用あるべしとのことなり。すでに川口久助殿の士に丹後の産ありしゆえ、御供をのぞかれしなり。これを聞きて、妄説なれども大勢に手なしと、是非もなきことなり。永保年中は白河院の年号にして、頼義父子安倍の頼時及び貞任・宗任征伐二十年の後なり。岩城氏何れの書にありということを知らず、俗のいい伝えなるべし。除地三百石余、八朔重陽に至るまで七日が間潔斎して山に登るとのことなり。女人は禁制の山なりといえり。予思うに、安寿姫を祭りし山なるに何とて女人を禁ずるや、いぶかし。 さらに、寛政七年(一七九五)に刊行された橘南谿の『東遊記』巻之三「丹後の人」条に次のようにある。 奥州津軽の外が浜に在りし頃、所の役人より、丹後の人は居ずやと、頻に吟味せし事あり。いかなるゆゑぞと尋るに、津軽の岩城山の神甚丹後の人を忌嫌ふ、もし忍びても丹後の人此地に入る時は、天気大きに損じて風雨打績き、船の出入無く、津軽甚難義に及ぶ上也。余が遊びし頃も打績き風悪しかりければ、丹後の人の入りて居るにやと吟味せしことゝぞ。天気あしければ、いつにても役人よりきびしく吟味して、もし入込居る時は、急に送り出す事也。丹後の人津軽領の界を出れば、天気たちまち晴て、風静かに成也。土俗のいひならはしにて忌嫌ふのみならず、役人よりも毎度改むる事也。珍らしき事也。青森、三馬屋、そのほか外が浜通り、湊々最甚敷丹後の人を忌嫌ふ。あまりあやしければ、いかなるわけの有りてかくはいふ事ぞと委敷尋問ふに、富国岩城山の神と云は、安寿姫出生の地なればとて、安寿姫を祭る。此姫は丹後の国にさまよひて、三庄太夫にくるしめられしゆゑ、今に至り其国の人といへば忌嫌ひて風雨を起し、岩城の神荒給ふと也。外が浜通り九十里餘、皆多くは漁猟又は船の通行にて世渡ることなれば、常々最順風を願ふ。然るに差富りたる天気にさはりあることなれば、一国こぞって丹後の人を忌嫌ふ事にはなりぬ。此説隣境にも及びて、松前、南部等にても、湊々にては多くは丹後人を忌て送り出す事也。かばかり人の恨は深きものにや。 以上のように、いずれの記事も安寿、あるいは安寿・厨子王を岩木山に祀っているという伝説、およびそれにまつわる丹後日和の伝承を伝えている。… ![]() 安倍貞任などが出てくる話になってくる。由良には別所という所がある。 柳田国男は、(史料としての伝説)に、 〈 ![]() 女が石に成った話は存外に多くある。美作苫田郡香々美中村の縄目石、これは曾て妬深い婦人化して成ると傳ヘ、これに触るゝ者には祟があった。次には尾張知多郡内海村の姥撻石(うばはりいし)、渋谷金王の足跡石と言ふのと、二つ並んで居る。源義朝が長田の爲に欺し討ちに殺された時、従者の金王は何も知らずに漁に往って居た。主人の大事と聞いて此處まで馳せ還り、老女に逢って様子を尋ねると、もう夙に殺されてしまったと言ふので、悔恨の除りにその婆を撻つた所が、忽ちにして化して石と成るとある。迷惑至極な話であった。どうしてその様な原因結果があるものか、まだ何とも説明に能はい。しかし此等一二の異例を外にして見れば、他の話には極めて著しい幾つかの共通点がある。 その一つは、これ等の石が更科の姥石と同様に、多くは或山の登り口に在ることである。津軽の霊山岩木山の姥石の如きは、説経祭文で有名な安寿御前の乳母、姫を慕うて登らうとして、此處に於て石に成ったと謂ふ。安寿封王二人の孤児の物語も、やはり浄瑠璃などで泣く分は土地の話と大ちがひで、姉は山淑大夫と言ふ強慾な長者に、丹後の由良の湊で殺され、弟ばかり後に出世をして敵を打ったと傳ヘて居るが、津軽富士の神話にあっては、姉弟ともに還って来て、大坊の鎮守熊野潅現の獅子踊を見物し、弟が疲れて仮寝をして居る間に、姉の姫竊かに先づ登って、この山の神と成ったと謂ふのである。これを一つの事件の裏表と見ることは、殆と不可能かと思はれるにも拘らず、強ひて融合させて今では岩木山の女神が、曾て世に在って由良で苦められたるのと解釈し、丹後の船が十三の港に来て繋ると、天気が荒れるなどと言ふ俗信まで出来た。凡そこんな風に話は変化して行くものなのである。 私の見る所では、山淑大夫は室町期の小説に、幾らも型のある人買ひの話、及び親子兄弟の生別れを材とした、一向平凡なる脚色であって、文句や節には永く残るだけの面白味があったのか知らぬが、他にはこれと言ふ歴史上の背景もなく、強ひて奥州との関係を言へば、父を五十四郡の元の領主、岩木判官正氏と称する点であるが、それが又出鱈目である。但しそんなら何もかも、皆昔の大夫たちの作り事かと思へば、奇妙な事には浄瑠璃の方でも、やはり安寿姫等の乳母と言ふ女性が、格別用もないのに出て、さうして死んで居る。寛永板の翻刻かと言ふ正本には、「御めのとのうば竹」御供をしてと唄って居り、他の書物にはその名を宇加竹(うかたけ)とも傳ヘ、この女ばかりに特に注意をして居るのは、何か仔細があるらしい。また岩木一族の人買ひ船に売られたのは、越後の直江津でと言ふことにしてあるが、その附近の居多村の鎮守を、古くは嫗獄明神と称へて、この乳母の「うばたけ」を祀ったと謂ふ説がある。察するにこの語り物が自由に趣向を立てた当時、既に日本海の船乗り等の間には知れ渡った岩木山の旧話があって、乳母が石に成ったと言ふ奇抜な一條が其中にあったので、丸々これを無視した浄瑠璃も、作ることが出来なかったものであらう。越後の嫗獄明神は、勿論津軽からの勧請ではあるまいが、恐らくは信仰に一部が似て居た爲に、つひに人買ひの悲劇までが、この近海を舞台とするに至ったので、要するに山の神に姥石を結び付けた二箇の例が出合つたるのだらう。 嫗獄の最も有名なのは、豊後と日向の境に在る山だが、その事は後に折を見て言ふことにする。それとも亦大いに懸け離れて、東京の近くにある一例をこゝには言って置く。飯能の町から近い上直竹村の浅間社は、関東によく見る模造の富士山であるが、参詣路の中腹に嫗ヶ獄と称する地点があり、それから上は婦人を登らせない。昔或老女が禁を破って、強ひて上らうとして石に成ったと言ふ話がある。嫗ヶ獄の名はこれから起ると傳へて居る。一つしかなかったならば、これもやはり不可解なる怪談と見るの他はなかったのである ![]() 安寿姫と厨子王は岩木山の蝦夷の神様であるのかも知れない。 岩木山は津軽富士と呼ばれる。建部山は田辺富士、由良ヶ岳はどこから見ても富士の姿をしていないが、しかし丹後富士とも呼ばれる。安寿姫には姉がいて、その名は「おフジさん」、とも伝わる。だから安寿姫とフジは関係が深く、というのか同じもののようだし、籠神社の祭礼は藤祭、天女の舞い降りた磯砂山の麓に藤社神社がある。佐渡にいた安寿姫の母は眼が悪い、母も安寿姫の分身というのか、安寿姫自身でもあろうから、安寿姫も眼が悪かったかも知れない。 安寿姫とはあるいはそうした霊山に祀られた蝦夷の、エゾと呼ぶのか、エミシと呼ぶのかも、現時点では判断しかねるが、そうした北狄の地の、意外と鉄の鍛冶屋の神様であったかも知れない。遠い北の伝説だけがここに伝わったのか、あるいは人がここへやって来ていたのか、のちに渡ってきたのかも知れない、倭人や渡来人たちの末裔のあいだではしかとは何も伝わらない…。 《交通》 ![]() 安寿姫慰霊祭
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![]() ![]() 伝説は ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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