丹後の伝説:15集 |
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山椒太夫(三庄太夫)、安寿・厨子王伝説
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快慶仏は丹後には、加佐郡にしかないのだが(宮津市由良は元は加佐郡由良村)、四体残されている。 その一体である。『宮津市史』に、(写真も)、 地蔵菩薩坐像 一躯
字由良如意寺 木造 五三・二a 鎌倉時代(十三世紀) 京都府指定文化財 如意寺境内の地蔵堂に安置される地蔵菩薩像で、円頂で衲衣の上に環のない袈裟を着け右手に錫杖を執り、左手は掌を上に向けて、宝珠を載せ、左足を外に外して安座する。 像は、頭体を通してヒノキ材の一木造で、前後に割矧ぎ、首も割り放して内刳を施し、玉眼を嵌入する。この躯幹部に両肩外側部、膝前部を矧ぎ付け、さらに両袖、両手首、左足先及び裳先に別材を矧ぎ付けているが、このうち左手先、左足先、裳先などが後補のものにかわっている。内刳は各部別に施し、材を厚く刳り残している。 本像には膝前材の内部に「巧匠(梵字アン)阿弥陀仏」の銘文と地蔵菩薩種字があることが知られていたが、近世の粗悪な紙貼彩色のために快慶の様式が見出せず、真偽に疑問がもたれていた。ところが、昭和六十一年度に解体修理が施され、新たに頭部内面にも地蔵種字と「(梵字アン)阿弥陀仏」の墨書が確認され、また右玉眼押えに「安阿弥陀仏御房 □□」とある書状が使用されていることが判明した。それと同時に、本来の彫刻面が明らかになり、無位時代の快慶の張りのある若々しい作風が確認された。 本像は、山椒太夫のもとに捕らわれていた安寿と厨子王の姉弟が、そのもとから逃げようとして見つかり、焼け火箸を当てられたが、一夜明けると姉弟の傷は癒え、この像に焼け跡があったという伝承をもつ。この話から、本像は「身代り地蔵」と呼ばれ、先年の修理においても、その傷は残されている。
『京都新聞』(061109)に、(写真も) *ふるさとの昔語り6*
*如意寺の身代わり地蔵* *信ずる者に助けあり* 仏教の教えを説く説経が原型といわれ、森鴎外の小説でも知られる山椒太夫伝説。安寿姫と厨子王の悲しい物語は、中世以来たびたび小説や演劇の題材とされ、人々に親しまれてきた。その舞台の一つが丹後国加佐郡由良(現在の宮津市由良)にある。 謀略により筑紫に流された父、陸奥太守を訪ねる旅の途上だった安寿姫、厨子王とその母は、人買いの山岡太夫により母は佐渡に、姉弟は由良の山椒太夫に売られる。 由良で二人は山椒太夫に使われ、安寿姫は浜に潮くみに、厨子王は山にしば刈りに出る日々が続く。 そんな中、二人は逃亡を図り失敗、罰として焼き印を押されたはずが、厨子王が持っていた地蔵が身代わりになる。 宮津市由良の如意寺にある鎌倉時代前期の仏師快慶の木造地蔵菩薩座像(府指定文化財)は、姉弟の代わりに焼き印を受けた地蔵と伝えられ「身代わり地蔵」とも呼ばれている。 森鴎外の小説では、身代わりの部分は姉弟の夢の中の出来事とされているが、身代わり地蔵の右肩には実際に焼き印を押されたような跡がある。これにあやかり、以前からこの地域では「身代わり信仰」として、災厄やお産など、ことあるごとに身代わり地蔵に参拝する習わしがある。 如意寺の谷口宥全住職(八四)は「『信ずる者に助けあり』なのでしょう、お参りした人は不思議と悩み事が解決に向かいました」と振り返る。また、夢に安寿姫と厨子王が現れた後で悩みが解決したと、遠方かつお礼を言いに訪れた人もいるという。 毎月二十四日の身代わり地蔵の例祭日の前日には、今でも二十三夜参りとして地元の信徒が境内の地蔵堂にお参りに集まる。 足の痛みの軽減を願って毎月のお参りを欠かさない北野菊枝さん(七一)は「お祈りの後は、集まった仲間で弁当を食べて世間話。二十三日は月一回のお楽しみ」と笑う。 安寿姫と厨子王に代わって焼き印を受け、今は人々の痛みや悩みを引き受け続ける身代わり地蔵。谷口住職は「身代わりはあくまで伝説だが、お参りする人には心のよりどころなのかもしれません」と話す。 (宮津支局 江夏順平)
あまりにも有名な丹後由良の山椒太夫の物語。 『京都の伝説・丹後を歩く』(淡交社・平成6年)に、(伝承探訪と地図も同書による) 山椒太夫1伝承地 宮津市由良 これから語る物語は、国を申せば丹後の国、金焼地蔵のご由来である。 奥州日の本の将軍・岩城判官正氏殿は、帝のご勘気を蒙って、筑紫の安楽寺に流されなさる。後に残った御台所は、父恋しと嘆く安寿姫・厨子王を連れ、乳母を供として、夫の赦免を乞うべく国を出立して都に向かった。半月ばかりで一行は、越後の国直江の浦にたどり着いたが、ここで宿を貸そうという人買いの山岡太夫に騙され、御台所と乳母は蝦夷ヶ島、安寿姫・厨子王の姉弟は丹後に売り分けられる。その別れに絶望した乳母は、自から身を投げて果ててしまうが、同じく投身しようとする御台所は、舟梁に縛り付けられ、蝦夷ヶ島の商人に売られ、やがて足手の筋を断ち切られ、涙の雨に失明して、明け暮れ粟の鳥を追う身となったという。 一方、丹後の山椒太夫のもとに売り飛ばされた安寿姫・厨子王の姉弟は、あるいは潮汲みに、あるいは柴刈りの労役をしいられ、その過酷さに命も危うく思われたが、太夫次男の二郎の慈悲や村人の柴勧進によって、かろうじて命をつなぐ。しかし、太夫のあまりに過酷な労役から逃れようと、姉弟が逃亡の相談をするところを太夫三男の三郎に立ち聞きされ、二人はそれぞれ額に焼き金を当てられる。無残な姿となった二人は、年の暮れには浜路の松の木湯船の下に追いやられ、正月十六日には半死半生のまま山仕事に責め立てられる。が、宍道の岩の洞に、安寿姫が膚の守りの地蔵尊を取り出だして拝むとき、二人の焼き金の傷は忽ち消え、地蔵菩薩の白毫どころに焼き金のそれが現れたという。そこで姉の安寿姫は、その地蔵尊を弟の厨子王に託し、寺を頼めとあえて説得してその場から逃げさせる。ひとり屋形に戻った安寿姫は、太夫の三郎に迫め立てられ、湯責め水責めのはて、炭火に焼かれて、十六歳の一期を終える。山を逃れた厨子王は、太夫の追手が迫るのに気づき、国分寺の毘沙門堂に助けを乞うと、そこの聖は、古い皮龍のなかに厨子王を入れ、縄で結んで棟の垂木に吊って、素知らぬ体で日中の勤めをいとなむ。やがて太夫を先頭に、毘沙門堂に駈け込んだ追手たちは、聖を迫め立て寺中を探し回るが、厨子王を見出せない。しかし、ついに三郎は棟木の皮籠を見とがめ、兄の太郎の慈悲のことばを退けて、それを降ろして縄を切り、その皮龍の中を見ると、そこには姉から託された厨子王の膚の守りの地蔵菩薩が金色の光を放っていたという。 追手が去った後、毘沙門堂の聖は、厨子王の入った皮龍を背負い、はるばる都へ上り、西の七条朱雀の権現堂まで送ってくれる。その権現堂からは、厨子王は人々に土車に乗せられ、宿送り村送りされて、難波の四天王寺にたどり着く。たまたま天王寺の阿闍梨さまに見出され、茶汲みの稚児として仕えるが、清水観音に申し子をして子どもを求めていた梅津の院と邂逅、その養子に迎えられる。しかも、梅津の院に代って、帝の大番を勤めた厨子王は、求められて素姓を名乗り、帝から許されて、父の元の所領・奥州五十四郡を賜わり、丹後の国まで添えられたという。 厨子王は、早速に安楽寺に父を迎えの輿を出す。次いで丹後に入って、国分寺に詣でて聖を探し出す。聖は、その後に安寿姫の死骸を弔うたとて、その死骨・剃り髪をさし出して見せる。さらに厨子王は、由良の港に使を出し、山椒太夫親子を国分寺に呼び寄せた上で、太郎と二郎の二人を許し、太夫を三郎に鋸引きさせ、三郎を浜に引き出し往来の山人に鋸引きさせる。やがて慈悲の心を寄せた人々に恩賞を送った厨子王は、直江の浦で山岡太夫を引き出して、これを柴漬けの刑に処し、はるばると蝦夷ヶ島に赴いて、鳥追いに身を落とした母を探し出す。しかも、その母の盲目は、かの膚の守りの地蔵菩薩を取り出して、その両眼に当てるとき、たちまちに元のごとくに開いたという。 最後に厨子王は、姉の安寿姫の菩提を弔うため、かの膚の守りの地蔵菩薩を丹後の国に安置して、一宇の御堂を建立なさる。今の世に至るまで人々が金焼地蔵とあがめ申し上げるのは、このことでござったのだ。 (説経節『山淑太夫』) 2 伝承地 宮津市石浦 人皇第六十二代村上天皇の治世天暦年中(九四七−九五七)の頃のことだったか、山椒太夫は由良川上流の生まれであったが、若い時から商いに熱心で、大雨にもかかわらず青木山に流れ出す水が清らかなのを見て、きっとあの山奥には金があるにちがいないと思って、この里に住むようになった。その昔、この山からは金が産したとかいうことである。さて、折りしも、和江村に国分寺が普請されることになり、丹後国の地頭大江左衛門時廉から、山椒太夫が力ある者だということでその仕事の一切を執り仕切ることが命じられた。それから太夫は国分寺の勧進にことよせて村々の財物を意のままに集め、それを自らの蓄えとし、大長者となった。 奥州岩城判官政氏は出仕して都に住まいしていたが、あまりに思い上がってその出仕を疎かにした。この政氏の奥方の兄大江左衛門時廉が、政氏は病気と偽り、謀反を企てていると讒言した。そこで、さっそく調べられることになったが、申し開きをすることができず、とうとう自害することとなった。そして、さらに、本国奥州にも追捕使が派遣されるということで、奥方、その子供の津子王丸・安寿姫、それに小姓一人を連れ、主従四人は奥州から逃げ延びていった。日数を重ね、辛苦の末、越後国高田城下の扇の橋に着いた。ところが、ここの山岡という者がその従者をだまして、奥方、それに津子王丸、安寿姫の三人を九助という者に売った。そこで、この九助は、奥方を佐渡ヶ島に、姉弟二人は丹後国の山椒太夫に売った。 山椒太夫は、国分寺普請の功績によって、時廉から由良・岡田・河守の三ヶ庄の代官に任ぜられ、権力をほしいままにし、すべての人が恨みに思うほど、多くの家来たちを酷使していた。津子王丸・安寿姫の二人は、この里で、習ったこともない山仕事や田畑の仕事に責め使われ、何とも痛わしいありさまであった。 こうするうち、岩城判官一族の残党を生け捕った者には恩賞を与えようという命令が下され、姉弟二人はこっそりと太夫の家を抜け出した。和江村の国分寺に逃げて行き、安寿姫が、「自分は女であるけれども、弟は大きな望みのある身なので、どうかしばらくかくまってください」と寺の和尚に繰り返し頼むと、和尚もしっかり請け負った。そこで、安寿姫は津子王丸に、「自分はこれから越後で別れた母の居場所を探して知らせよう。お前はここでしばらく隠れていて、時を待って望みを遂げなさい」と言って、泣く泣く別れた。そうして、安寿姫は和江村の北にある中山村のかつえ坂というところで亡くなったとかいうことである。今、ここを姫路がゆりという。その遺骸はその隣村下東村の山奥に葬った。今、ここに塚があるというが、草木が生い茂り、名ばかりが残っている。正月十六日がその忌日だとかいうことだ。こうして、津子王丸は和江村の国分寺に隠れているうちに、まもなく伯父時廉の、道にはずれた悪事が明るみに出、時廉は自害、その家は滅亡した。そこで、和江村の佐藤関内という者が津という者が津子王丸の供をして、都へ上っていった。その途中、丹波国の大江の坂というところで、かつて越後国の扇の橋で別れた岩城の家臣にめぐりあった。その家臣が言うことには、「このたび伯父時廉さまの悪事が明るみに出て、岩城判官さまには罪のないことが判明し、その一党がいるならば早く参内せよという高札が立てられていたので、元の所領を賜わることは間違いありません。片時も早く都へお供しましょう」ということであった。 津子王丸はその者を伴って都に上り、参内すると、父の元の所領である奥州五十四郡に丹後国を加えて賜わった。母は佐渡ヶ島で亡くなったとかいうことであった。 一方、山淑太夫は、一族残らず、懲らしめられた。また、和江村の佐藤関内をはじめ、津子王丸が隠れていたときに助けた六人の人々には褒美やその功績を讃えた文書などが与えられた。それらは長く持ち伝えてきたが、やや昔に焼失したり、盗賊に奪われたりなどして、今はないけれども、その子孫は立派に栄えている。国分寺の和尚へも恩賞がくだされたことであった。 (『山庄略由来』) (伝承探訪) 先の説経節『山椒太夫』の結びのいう「今の世」とは、それの流行した江戸初期のことで、金焼地蔵の信仰が、広く世に届いていた時代である。しかもその説経節は、もとは経典を講ずることにおこり、ついには三味線を伴奏楽器とし、人形繰りと組んで、京・大阪・江戸の劇場に進出した語り物芸であるが、それ以前は長く門説経とて、あるいは家々の門を訪ね、あるいは寺社の門前などに人を集め、簓を摺って物語を語って聞かせるものであった。しかもそれは、その物語と縁のある盛り場こそ、多くの喜捨を得たものであったから、この『山椒太夫』も簓説経にまで 遡れば、恰好の上演場は室町時代の金焼地蔵門前ということになろう。 余寒の一日、雪の残る丹後をめざす。京都から一時間半で明るい丹後の海に入る。宮津市中央公民館の一角に教育委員会を訪ねると、「山椒太夫」に詳しい文化財委員の小谷一郎さんを紹介して由良まで車で送つてくださる。風の強い日で、安寿姫の潮汲み浜なる由良の海は、大波に揺れている。小谷さんの案内で、旧道沿いに由良山麓の如意寺地蔵堂を詣でると、小谷さんの中学時代の同級生で、住職の谷口宥全師が気さくに本尊前に招き入れてくださる。 その地蔵尊は、五十センチあまりの坐像で、今も胸には焼跡を留めて安寿姫・厨子王の身代わりの昔を残している。すなわち、説経節によると、姉弟が山椒太夫のもとを逃れようとして発覚、無残にも焼き金を顔十文字にあてられるとき、二人の顔から火傷の跡は消え失せ、代わりに地蔵尊像がその白毫に姉弟の焼き金を受け取りなさっていたという。膚の守りとして持ち歩いたものとは、その大きさから言えぬが、それを模したものとして信じられていたことは疑えない。ちなみに、昭和六十一年の解体修理以前の尊像は、頭頂の右から左下腿部に至る半身が、無残に焼きただれており、その白毫も額の高い所に嵌入しなおされていたのであった。その痛々しい身代りのお姿こそ衆庶に強い感動を喚起させたもので、今回の改修にあたっても、胸のあたりにその一部を留めることとなったという。 しかも、この地蔵尊像は、昭和五十四年の文化庁の調査の折り、脚部の墨書銘から快慶初期の作品と想定されたが、昭和六十一年の解体調査で、頭部にも快慶の自署が確認され、さらに右の玉眼を押さえた紙片に、「安阿弥陀仏御房」、すなわち快慶あての書簡・墨書が見出され、まさしく仏師快慶の無位時代、文治五年(一一八九)−建仁三年(一二○三)の作と決せられたのだ。 それならば、当地の地蔵信仰は平安末期に遡ることになる。解体修理に携われた米屋優さんの報告によると、八条院領として鳥羽法皇・美福門院、そして重源・快慶のつながりのなかに、それは求められるという。しかし当由良山如意寺が、当所に移ったのは江戸の半ばで、元は宝珠院長福寺と号し、由良山の中腹にあったという。そして由良の港は、今よりもずっと由良山麓に近いものであったれば、安寿姫・厨子王の痛ましい物語の舞台も、由良の山中から山麓の浜に求めねばならぬ。 小谷さんの案内で、車を由良山に沿って東南に進めると、その東尾根の「森の鼻」の地こそ、かつての山椒太夫の屋敷跡と小谷さんは説かれる。それはまさしく古い時代の由良の河口に当たる。そのすぐ南の下石浦に、俗にその屋敷跡と称するものをみるが、これはかつての豪族の古墳あと。しかし、当浦は百石船の船頭を輩出した緊落であったのだから、その海の道は越後直江津から、はては陸奥の十三港まで続いていたはずだ。そして当地から由良の大河をうかがうと、かの「山椒太夫」の幻想は、この河口に拠した舟乗りたちのものであったことが感知されるのだ。 舞鶴市糸井文庫には、左のような、丹後の主立った伝説の江戸期の貴重な錦絵や書籍が所蔵されているそうである。WWWにも公開されている。 「舞鶴市糸井文庫閲覧システム」 江戸期のものともなると、もう伝説を題材にしたお話であって、その時代の新たな創作でもある。もっと古い本来の形を知りたいが、もうほとんど無理かも知れない。
『舞鶴市史』に、 三庄太夫 「加佐郡誌」由良ヶ獄のふもと石浦に三庄太夫の遺跡というのがある。三庄太夫は近在三ヵ庄の代官をもつとめる分限者であった。 村上天皇の天暦年間、奥州の太守岩城判宮将氏は無実の罪によって筑紫に流されたが、その二子、姉安寿姫と弟津塩丸は父を慕う余り、母を促して筑紫へ下ることにした。 山を越え、川を渡り、越後の国直江の浦の辺りまで来た時、山岡太夫という悪者にだまされて、母は佐渡ヶ島へ売られ、安寿・津塩の姉弟は宮崎三郎という者の舟で、丹後の由良湊へ連れてこられ、三庄太夫に売られて奴隷にされた。それからは姉は海へ潮汲み、弟は山の薪取りをさせられ、毎日々々随分むごい仕打ちを受けた。 それでとうとう堪え切れず、二人は屋敷を逃れ、津塩丸は和江の国分寺に隠れたが、和尚の義侠によって追手の難を逃れることが出来た。和尚は津塩丸を哀み、ひそかに経箱に入れ自ら背負って、京都清水寺の大悲閣まで送った。ここで津塩丸は、子のない梅津大納言に逢いその家に入って成人し、追々と出世する。 やがて津塩丸の家譜をはじめ、いろいろなことが天子の耳にも入り、特に旧国のほかに丹後の国も賜った。津塩丸はまず母を佐渡から迎え、和江の国分寺の和尚を訪ねて旧恩を感謝し、三庄太夫に対し一族の仇を打ったという。 これより前、姉弟は国分寺の谷間で水盃をして別れたが、それに使った草の葉を盃ギボシといい、その谷だけに成育したと伝えられ、その谷を隠れ谷というと伝えている。 また和江には、国分寺・大坊屋敷・堂ノ奥・老僧谷・仏谷・かくれ谷・院ノロなど寺にちなんだ地名がある。 また、姉の安寿は太夫の家を逃れ、京へ上ろうとする途中、中山から下東へ出る坂で、疲労と空腹に堪え切れず最期を遂げたという。いまもこの坂を かつえ坂のあるところは由良川が最も狭くなる場所である。そこに八雲橋(写真左手に見えるの吊り橋)がかけられている。右手の山上には中世の一色氏の山城・中山城があった。何でこんな便利の悪い難所に橋を架けたのか、不思議に考えていたのだが、川幅が狭いから架けたのだろう、コストがずいぶんと押さえられる。どこかの鉄道会社のようにコスト優先、安上がりがすべてだから、利便性や合理性・科学性はもとより安全すら顧みられていない、民営化という名の安上がり経営の行き着く当然の帰結を見せてくれたような事故であった。 由良川筋は気の毒である、こんなものが多かった。大変に危険な狭い路を走らねばならない。大型車両は通れない。神崎海水浴場に行く観光バスは、超狭いかつえ坂を通らねばならない、ここは大変に危険である、大事故が発生しないのは奇跡に近い。八雲橋は昭和31年完成、長さ172メートル、高さ8メートル、幅5メートル。市史には我国最初の永久吊り橋とある。 飢えたからかつえ坂ではなく、こうした川が曲がったような場所をかつ江とよぶのであろう。勝浦などと同じ地形であろう。和江も輪江で、川の曲がったような所であろうか。こうした所は船着き場になろう。 三庄太夫の拠点・石浦もそんな所で、中州があちこちに散らばり、内陸由良川水運と、日本海海運が合わさる一代拠点であったと思われる。百人一首で有名な「由良の戸」はここである。三庄・山椒・さんせうは散所・算所・産所とか書かれるが、中世のそうした農業外の職の人々(舟運とここなら製塩、それに皆が見落としているがここにも大事な製鉄があった、語部もいたかも知れない。中世の支配者が捉えきれなかった層である。彼らは中世世界の賤民ともなって差別されることがあったそうである)の集落であったろう。 この伝説に登場する下浦・和江・下東のあたりの河口部一帯こそ、古代加佐郡凡海郷の心臓であり、加佐郡そのものの心臓部ではなかったかと思われる。さらにそれ以前は陸耳御笠の拠点であったろう。今では軍港や商港のある舞鶴湾が最も大切な港であるが、ほんの少し以前までは加佐郡にとっては当然、丹後にとっても最も重要な港であったろう。舞鶴港の方は問題でもないような貧港であった、かつての国際貿易港・舞鶴港であったと考えておこう。 その歴史有る土地の歴史有るボスが三庄太夫、舞鶴鎮守府長官・東郷平八郎のようなものであるか、あるいはこの地の語部をそう呼んだか。安寿姫伝説と厨子王伝説、それにこの地の算所のボス伝説が合体した伝説だと言われる。この地のボス伝説は陸耳御笠伝説のスペシャル・バージョンかも知れない。この伝説は丹後由良だけのものではない。ざっと見ただけでも佐渡から、越後、津軽へ広がっている。この伝説の安寿姫は有名な鉄の山・津軽岩木山の鉄の女神が安珠姫でもある。ずいぶんと面白い超大物すぎる伝説である。手に余るが次から見てゆこう。 国分寺跡と言われる所に現在は毘沙門堂が建てられている。国分寺という小地名もある。この付近からは布目瓦も発見されている。ここに丹後国分寺があったのだろうか。毘沙門堂があり、億計弘計伝説がある。ということは、ここもやはり鉄の地である。 和江や由良の辺り、由良川河口部に丹後国府や丹後国分寺が一時置かれていたと考えても別に無理ではない。誰もそんなスルドイ事を言う人はないが、勘注系図や笶原神社棟札は「由良之水門」を記している。何もここに最初の丹後国府があったなどとは書かれていないが、神話的・伝説的に伝える内容を検討し翻訳すれば、どうもここにあったと言っているのではないのかと私は考える。 『和江の歴史』(昭47)に、 国分寺と和江聖徳太子が氏姓国家にかわり、新しい律令政治(西暦六○○年〜七○○年頃)が布かれ社会を安定された。やがて中央集権政治が進むにつれて、土地、人民の公地公民制が確立され、白鳳、天平文化が繁栄しました。 特に聖徳太子は仏教を政治の柱として国教化されました。聖武天皇が天平十三年(西暦七四一年)に護国鎮護の勅願をたて、国分寺、国分尼寺造立の詔を下され、全国六十六箇所に国分寺を造立されたのもこの時代である。 国分寺は、金光明王護国の寺として、二十僧を置き水田二十町を、国分尼寺は、法華滅罪の寺と称し、十尼を置かれ水田十町を下賜せられ、正税により建立された。両寺は、すべての国府の近くにあって地方文化の開発、社会公益の事に尽したものであった。 丹後の国府は、現在の宮津市府中におかれ、国分に国分寺が置かれた。 和江に国分寺が置かれていたと古くから云伝えられている。国分寺跡と称する所に毘沙門堂が現存し、小字地名に、本堂、老僧谷、仏谷又国分谿等があり、国分尼寺があったのであろうか。村上天皇、天暦十年九月(西暦九五六年)祝融の災に烏有に帰したと伝えられる。然し乍らその礎石が発見されないので考古学的に存在の有無が立証されないのは残念である。 小字本堂付近から、古代の布目瓦、屋敷礫石及土器等が発見されるので、相当の寺院かあったものと思考され、今後の考古学者の立証を俟つ。 『市史編纂だより』(昭和47.6.1)に、 和江の布目瓦…昭和40年ごろ地元の石間敏夫氏は国分寺跡地〃阿弥陀堂〃横の共同炭焼場の付近の土中よ り発見したもので、現在区有として保管している。 形状は周囲か欠失しているがタテ148セン チ、ヨコ140センチ、厚サ0.6センチの茶褐 色を帯びた平瓦で、内面に布目あとがある。 一般に布目瓦といわれるものは、製作時、形 を作るときに用いた布の跡が残ったもので、安 土・桃山時代以前の瓦に普通的に見られ、飛鳥、 ・奈良前期の布目は条か細く目かつまっており 奈良後期・平安時代に入ると逆に条が太く目 が荒くなるといわれている。 杉原技師は「出土品として、他に丸瓦や軒先 瓦などの付属品が出ていないので断定はできな いが、一応布目が手がかりになる.鎌倉以降は 布目を消すが、これは消していないので鎌倉以 前といえる。 布目の荒さからみて平安中期ころかと推定され る」との見解が示された。 『八雲のれきし』(平8)に、 和江毘沙門堂仏国山国分寺村上天皇の御代、奥州岩城判官正氏の子、とくれば安寿と厨子王の物語である。姉弟は由良の里をぬけだし和江の国分寺に逃げ込み、曇猛律師に救を求めたという三庄太夫伝説中の由緒ある寺であったと伝えられる。 この国分寺は大火にあい(九五七)伽藍を焼失した。勅願によって建立された寺であったが、財政的に再建の見込みなく、跡に一宇を建て本尊毘沙門天を祀り伝えたと言われる。地元ではこれを本堂さんと呼んで、区民の家内安全と村の繁栄を祈願し崇拝のよりどころとして来た。その後、幾度か改築されたと思われるが、天保十四年八月上棟された堂宇が腐朽はなはだしくなり、この度、和江区及び有縁者信仰厚き人々によって改築された。平成五年十一月十四日落慶法要が行われた。天保十四年再建当時の寄付板が保存されている。
『丹哥府志』に、 三荘太夫屋敷跡(和江村の北、石浦村の南) 田邊府志云。三圧太夫は元丹波氷上郡の人なり。丹後加佐郡由良の郷に来り三庄(由良の庄、神崎の庄、大川の庄)を押領して自ら三庄太夫と称す。永保元年(一本天暦又正暦に作る)奥州岩城判官正氏(三才図会に南部勝の子孫)幽せられて筑紫に謫せらる、其子二人あり、姉を安壽姫といふ年十六歳、弟を津志王丸といふ年十三歳、一日母に謂て曰く、人皆父あるに我獨り父なきは何ぞやと問ふ、母之に告るに実を以てす、於是其二子母と同じく父を慕ふて筑紫に至らんと越後直江浦に至る、爰に山岡太夫といふもの毎に人を拐かして携へ帰り売るを以て業とす、所謂人買なるものなり。不幸にして之に逢岐橋に邂逅す、遂に之が為に子母共に買はれける、母と婢女は佐渡に渡り二子は丹後に来る、於是三庄太夫共二子を買ふて奴婢となす。抑三庄太夫の人となり刻薄にして恩少し、所謂忍人(国語の註に不仁に安ずるは忍といふ)なり、其二子を使ふ土芥の如くにす、固より負載芻牧其任に堪へず、よつて弟津志王丸をして遁れしむ。先是二子の走らんことを恐れて鉄を灼き額に印す、是時地蔵菩薩出現して其身に代る、是を身代の地蔵と称す、今鹿原山金剛院に在り。 (校者曰)この身代地薮一時金剛院に預けありしも今は同院末寺由良山如意寺に祭る。 津志王丸既に遁れて国分寺に匿る、国分寺の住僧津志王丸を古き紙籠の内に入れ梁の上に掛く、果して三庄太夫之を逐ひ来りて寺内を探し求て遂に紙籠に及ぶ、是時梯折れて腰を折る、よつて果さず遂に家に帰りて安壽姫を責め殺す。於是永保二年正月十六日国分寺の住僧津志王丸を携へ都に上る、朱雀の権現堂に至りて津志王丸と別る、津志王丸是より又大阪の天王寺に往く、天王寺の阿闍梨其人となりを憐みて善く之を侍す、是時に当りて洛西梅津の人清水観昔に祈りて嗣子を求む、一夜観音の夢想あり依て阿闍梨の下に来り津志王丸を請ふて養子とす、於是其系譜及父正氏の讒に逢ふて筑紫に謫せられし次第又細に子女の状を語る、是事自然官に聞ゆ依て正氏赦されて本領に帰る事を得たり、又津志主丸に丹後、越後、佐渡三 国の地に於て若干の地を腸ふ、於是津志王丸は丹後に来り国分寺を旅舘となし懇に徳を謝し、遂に三庄太夫を誅戮し、又越後に至りて山岡太夫を刑に行ふ、既にして佐渡に渡り盲母(涕泣して明を失ふといふ)に尋ね逢ふて後に姉安壽の霊を奥州岩城の山に祀る。三才図会云。岩城山権現は津軽弘前の南にあり、社領四百石、山の麓に澤寺といふ直言宗の寺あり其別当なり、寺の傍より山に登る凡三里、一歳の内八朔より重陽に至る僅に卅九日登ることを許す、其人必七日の潔斎を行ふ、固より女人結界の處なり、俗に津志王丸・姉安寿姫を祀るといふ、於今丹後の人登山することを許さずといふ。東遊記云。奥州津軽の外ヶ浜にありし頃、所の役人より丹後の人は居らずやと頻りに吟味せしことあり、如何なる故ぞと尋ねるに、津軽の岩城山の神甚だ丹後の人を忌み嫌ふなり、若し丹後の人忍びて此地に入る時は、天気俄に損じて風雨打續さ船の出入なく津軽領の難儀となりぬ、依て役人より巌敷吟味して若し入込居たる時は急に送り出すことなり、丹後の人津軽領の界を出れば天気忽ち晴て風静かになりぬ、元より土俗の言ひならはして忌嫌ふのみならず役人よりも毎度改むることなり、青森、三馬屋より外ケ浜通の湊に最甚敷丹後の人を忌み嫌ふなり、餘りあやしき事なれば、如何なる訳のありて斯く岩城の神丹後の人を忌嫌ふやと委敷尋ね問ふに、岩城権現は安壽姫を祭るなり、安壽姫は当国岩城判官の女なり、夙に丹後にさまよひて三庄太夫といふ者に手込めらる、依て今に至り其国の者といへば岩城の神荒れ給ふて風雨を起すとなり、外ケ浜通り九十里餘、皆多くは漁撈又は舟の通行を以て世渡る處なれば常に順風を希ふ、然るに天気に障りあれば一国挙て丹後の人を嫌ふことに至る、此説隣境にも及びて松前南部などにても湊々は皆丹後の人を送り出しぬ、かくばかり人の恨みは深きものにや云々。 愚按ずるに、三庄太夫の事古書に見へずされども丹後又奥州の口碑に慥に傳はる、如何なる訳にや。今 爰辛丑の夏余浅茂川に宿す、是夜物語の序に三庄太夫の事に及ぶ、其村の人但馬の産と称して大阪の舟にのり岩城に至る、是時風雨打續き卅日餘も其處に泊す、始め丹後駆とて丹後の人の吟味なれども敢て実を以てせず、矢張但馬の人と称す、其滞留の間外に用事もなければ度々遊里に通ひて大に金を遣ひ果し終には仕方のなきに至る、特に出奔せんと覚悟を極むれども路費の手当もなし実に窮る、於是初て丹 後の人と称して丁寧に罪を謝しければ、是時の泊舟凡四、五十艘各金子を出し其路費を拵へて岩城の領を送り出す、前夜進退の窮るに比すれば有難き事にて実に安壽姫の加護なりとぞ恩ふ、されども三庄太夫の子孫今通行するとて道々見物の夥敷には恐れたりと語る、一座是が為に胡蘆大笑す。 【別の清水】 津志王丸別に臨みて安壽姫に水杯をなせし處といひて今に清水あり。又此辺に別の辻といふ處あり。 岩木藩(弘前藩)の丹後忌避 『丹哥府志』の記事はウソではないが丹後でもたいていは知られていない。 「丹後日和」と呼ばれて、丹後船や丹後人が藩内に入ると海が荒れるとされ、丹後人と判明し次第すぐに領内から送り出されたという。そんなアホげなハナシと思われるかも知れないが、実際にあったことで、丹後の経験者によれば、それは昭和33年になっても残っていて実際に経験したという。 京都から来ましたとか、但馬ですとか、言ってごまかすそうだが、まさかそんなこととも知らずワシは丹後です、とか言おうものなら領内追放の重罪であったという。 丹後人が岩木山(津軽富士)の神・安寿姫をいじめたから、丹後船や丹後人を見ると岩木山の神が怒り天候が荒れるからだといわれた。 しかし岩木山の神が安寿姫とされるのはそう古い話ではないようで、元々は普通の「山の神」で、名もなく麓の農漁民産鉄民イタコ等々の守護神として信仰されてきたものだが、後の世になればいろいろと習合されていき、岩木山神社(百澤寺)の神学(岩木山権現由来譚)になって安寿姫と厨子王丸を祭神と信じるようになっていったという、それは元禄の頃でないかという(小塚敏郎氏の話)。 ちょうどこのころ領内では大飢饉が発生し領民の1/3もが餓死したという。天災と人災(こうした根も葉もないデマを流すようではたぶん相当な悪政藩ではなかったか)が重なり、その批判の矛先を丹後に反らせようとしたとも言われる、藩という公権力が何か悪事が発生するたびに、発生しなくとも予防的に丹後人のせいにしようとした。お触れを出し、人改めをし、丹後人を追い出し続けた藩はもうなくなったが、人々には丹後忌避の意識が残り続けたのではなかろうかと言われる。 世迷い言ばかり言う市長さん市政も似たようなことかも… 江戸期の「由良の戸碑」は、由良の集落の西詰、奈具海岸への入口に建てられている。この辺りの砂浜を汐汲み浜といい、安寿姫が汐を汲んだと伝えられている。安寿姫が実在したかどうかは疑問であるが、「由良の戸」は実在したものである、和歌から考えれば、梶を流されるとどこへ行ってしまうか、行方も知れなくなる流れの激しく複雑な所を言っているのである。それはこの奈具海岸寄りの場所ではないだろう。川口の位置が変わっていれば別だが… 由良の戸は由良集落の東の端、由良川の河口だと思う。地名から考えればトは戸か渡か処であって、奈具海岸寄りの場所ではないと思われる。「由良の戸」には、大正13年に建造された国鉄の由良川鉄橋が架かっている。風が強い日はこの上を走る鉄道は止める。一年に何回かそんな日がある。風も怖い難所である。丹後人は京都などから帰るとき、この鉄橋をゴーと列車が渡るとき、あー丹後へ帰ってきたと実感するという。 両岸の由良と神崎は海水浴場である。ちょっとあっちへも行ってみようかなどと浮気心を起こしてはならない。泳いだり、手こぎボートで「由良の戸」を対岸へ渡ろうなどとは決してしないこと、曾禰好忠風にいえば、「由良の戸」は恋の道にも似て、対岸はすぐそこに見えるが、決して渡れない魔の戸である。天国の門ではなく地獄の門である。脅かしではなく、本当に命を失いますぞ。実際にここは何人もの犠牲者が出ている。ちょっとばかり自信のある若者が死ぬ。舐めてはいけない、オリンピック水泳選手以上の実力がない限りは、決して渡らないこと。以前は確かに畳三枚ほどの大きな看板があったと記憶しているが、今はないようだ。これでは立てたというだけのものでしかない。それとも常時監視員を置いているいるのだろうか。よそから来た人で事情にうといと泳いで渡る者もあるだろう。「あぶない!」ではない、「命をうしないますよ」と書くべきではないか。 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、 汐汲浜由良海岸の栗田寄り、奈具海岸に近い所に大きい岩がある。ここが安寿が一日三荷の塩水を汲んだ浜といわれ、汐汲浜とよばれている。 由良神社では毎年正月十四日に社の前で火をたく。これはこの日が安寿が入水した日で、命日にあたるため、帰ってきた魂の体をあたためる行事とされている。 この由良神社は元府社で、祭神は伊奘諾命、櫛御気命、誉田別命を祀り、もとは熊野神社といい後に京都花御所八幡宮をうつしたもので、氏子が由良・川筋のみならず京都市上京にもあり、近在きっての名社である。この境内に、田辺藩の名医で天保十年(一八三九)京都に医師の学問所「順正書院」を建てた新宮涼庭の碑がある。涼庭は天明七年(一七八九)三月由良に生れた。 墓は京都南禅寺の天授庵にある。 さらに塩汲浜の近く、昔はここに由良川の河口があって由良の戸とよんだといい、 由良の戸を渡る舟人梶を絶え 行方も知らぬ恋の道かな 花山天皇の天元三年(九八○)国司として赴任した曾根好忠の名作である。 さらに天保六年(一八三五)には加茂季鷹が、 由良の戸に梶の絶えしは昔にて 安らかに渡る今日の楽しさ とよんでいる。 ここに岩穴神社が妃られていて、附近を由良の戸公園とよんでいる。 由良神社の隣に如意寺という寺がある。ここの地蔵堂に厨子王が額に焼ごてを当てられた時、身替わりとなって傷を癒したという地蔵菩薩が祀られている。土地の人はこれを「身替わり地蔵」とよんでいるが、じっさいはその傷あとは右肩にある。 当初鹿原の金剛院にあずけられていたものが、如意寺へ戻されたという。 由良からは天保年間(一八三○−一八四四)年間に大小二個の六区突線帯文様の銅鐸が出たという記録があり、延喜式に丹後から生鮭を平安の朝廷に献上したことがみえる。鮭は丹後では由良川からとれたので、古い歴史を秘めた土地であることがわかる。 砂浜が続く由良海岸の一番西側に、写真のような岩がある。このあたりを潮汲浜と呼んでいる。今では砂浜がずいぶんとやせてしまっているが、砂浜はもっと広かったという。岩の上に碑があるが、海水が寄せていて行けなかった。
三庄太夫
三庄太夫は本村三野地内川谷の住民にして、山淑の皮を集めて之を丹後地方に鬻ぐ業とせり。往復の途上丹後の七廻八峠を越ゆる毎に、必同一の石に躓きしかば、怪みてその石を掘り取りしに、其の下より互多の小判金を発見して忽ち大富豪となれり。かくて川谷の田地を買収し、区民を小作人とし大に威福を張れり。然るに三庄太夫尚大望を起して由良に移り、名を後世に残さんが爲兇悪の徒の巨魁となり、つひに由良岡田等の三庄を押領して横暴を逞しうしたり。かくて山淑大夫のちには三庄太夫となりぬ。誠に傳説の好標本といふべし。
<三庄太夫余談> 編さん委員 池田儀一郎
「加悦町算所」日本全国にわたって所々に「散所」という地名の残っている所がある。辞書を繰ってみると「散所」は「算所」の意で、算木(さんぎ)をとって卜筮(ぼくぜい)祈祷をした原始呪術(じゆじゆつ)者の群がいた所と説明している。 散所で有名なのは「玉櫛(たまぐし)の散所」である。ここは河内の国(大阪府)生駒山の山麓(さんろく)て、その近くに玉櫛川が流れておりその河原の小高い所にあるのがその散所である。 散所については前記のよりな説明もあるが、他に年貢(ねんぐ)を取り立てる対象とならない特異な領地であって、ここに住む者は荘園領主のきびしい年貢の取り立てにたまりかねて逃げ出した農民や、あぶれ者、遊芸人、さすらいの遊行婦女(娼婦)など、いわば社会からはみだした人たちの吹きだまりのような土地だった。 邦光史郎さんは「楠木正成の首」という話の中に、つぎのようなことを書いている。「散所民は年貢のかわりに本所(領主)の駕寵(かご)をかついだり、また荷物を運んだりしてもっぱらおのが労働によって年貢に替え、そうした運送業者が次第に定職化して馬借(ばしやく=荷馬車業者)や車借(しゃしゃく=車業者)などが生まれつつあったのである。そのほか散所には遊民が至って多く、いわば無籍者の入りこみやすい悪所だったのである、玉櫛の散所は楠正成の父正遠が散所の太夫(支配人)を勤めていたこともあって、楠家の財源の一つになっていた所である」と書いている。 ここで読むと、由良の三庄太夫は同じことなんじゃないかと思われるであろう、わたしも確証はないが「由良の三庄太夫」は 「玉櫛の散所太夫」と同じようなものだったんだろうと思つている。 ずっと以前、私が当市の西図書館にいたころ、奈良本辰也先生が見えて、由良の「三庄太夫は散所太夫」とも書いた形跡はないか、と問われたことがあったが、その時先生も同じことを考えていらっしゃったんだなと思った。 「三庄太夫」の話は「人買い」 ということから始まっているので、この「人買い」のことを本郷寅夫氏の考証読物「人買い無惨図絵」を参照しつつ少し述べてみたい。人身売買の歴史は遠く、記録に残っているところでは奈良時代にはじまる。 「天武紀五年(677)五月のところに「下野(しもつけ)の国司奏す、所部の百姓凶年にあい飢亡(きぼう)す、子を売らんと欲す、而(しこう)して朝聴(きこ)さず」とあるのがそれてある。そして人身売買を行なった者は、その軽重によって相当の刑に処せられた。 くだって鎌倉時代の正応三年(1290) には幕府はつぎのような厳命を下している。 人売りを禁制せしむぺきの事 右は人商と称して、その業を専らにする輩多くもってこれにあり、これを停止すべし、違犯の輩は犬印をその面に捺(お)すぺきなり。とあるように犯人はその額に犬のしるしのらく印をおされた。 このように厳しい法令が出されていたにもかかわらず、室町時代になると人身売買はほとんど公然と行なわれるようになっていた。こういうような情勢になったのは足利幕府の威勢が地におちて政治ははなきにひとしく社会の秩序は乱れに乱れ庶民は絶え間ない戦乱とききんのために生活のどん底におり、武人だけが大名と小名をひつくるめて、女狂いをする有様で、ここに目をつけた人買い業者がはびこったということがその最大の原因である。 これらの人買いをそのころ、中媒(ちゆうばい)といった。この中媒実例として「信長公記』(巻12)はつぎのような記事を掲げている。 「天正七年(2179)九月二十八日、下京馬場町門役(かどやく)仕り候者の女房あまた女をかどわかし、和泉の堺にて日ごる売り申し候、このたび聞き付け村井長春軒召し捕り糺明(きゅうめい)候へば女の身として八十人程売りたる由申し候すなわち成敗せしなり。」 これからさきの女中媒の残酷きわまりない話は読むにたえないし、紙面もないから省略する 現代になってもこういう残酷物語は後を絶っていない。その一つは「からゆきさん」 であった。「からゆきさん」は日清戦争ころから大正へかけて島原や天草列島の娘さんたちが、三池炭坑の石炭といつしょにバタンフイルド号によって、口之津から海外へ運び去られた娘さんたちのことである。そしてこの娘さんたちはホンコン、シンガポール、仏領インドシナ、スマトラ、ジャワなどの南方諸島へ売られて行った大和撫子(なでしこ)なのである。思えば人買いの甘言に乗せられ、海外へ連れ出されて、白人を初め、各種の男たちの相手をざせられ、長い長い苦界のうちに青春もなく一生をすり減らしたのであった。 つぎの歌はずっと前、私が天草に遊んだ時の一連の歌の中の二つ、三つで、史実とは関係のない蛇足(だそく)であるが、ここに書き添えてこの文の結びとする。 かなしみははてしもあらずからゆきさんの生れ故郷の天草に来て なでしこのつぼみの娘(こ)をさらい行けりバタンフイルド号の鬼畜ら 大方は責め苦の中にいのち果てきからゆきさんの名を負うむすめら 算所は加悦町に算所、大江町に算所。 但馬朝来郡与布土村大字迫間字産所を柳田国男は挙げている。 |
資料編の索引
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第十五集(山椒太夫伝説)