丹後の地名

朝代(あさしろ)
舞鶴市朝代


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京都府舞鶴市朝代

京都府加佐郡舞鶴町朝代

朝代の地誌




《朝代の概要》

西舞鶴市街地の中央部で、愛宕山東麓に位置する。引土村地内の田辺町に続く地が町場化したもので、田辺城下諸町の産土神として崇敬された朝代神社がある。その門前町として発展した。町は南北62間、幅2間2尺。鳥居前東西25間、幅2間半。
朝代町は、江戸期〜明治22年の町名で、田辺町のうち。田辺城下の1町であった。諸商人が住み、足軽の鉄砲町もあった。寛保3年の家数40軒(竹屋町文書)。明治2年には舞鶴町に所属。それまでは引土村に属したが、同8年分離したという。通りに沿って遊廓が残る(このあたりにケンバンがあったという)
明治19年舞鶴湾が軍港予定地となるに伴い、同21年朝代が貸座敷免許区域に指定され遊郭地となった。

朝代は、明治22年〜現在の大字名。はじめ舞鶴町、昭和13年からは舞鶴市の大字。
明治34年鎮守府開庁とともに妓楼38戸・芸娼妓約200人が開業。大正2年には46戸・124人、同12年には54戸・140人、舞鶴軍港の花柳街としてにぎわった。遊廓の様子
→これは東京吉原だそう。ここもこんな様子だったと思われる。海軍の街の大事な遺産。
遊廓は、当時貸し座敷などと呼ばれ、小さい店で2、3人、大店は100人ほどの遊女を抱え、遊女たちは格子の向こうに座って道ゆく客の指名を待った。廓の出入り口は「吉原大門」1カ所だけ、しかも監視がつき自由な外出は許されず、文字通り「籠の鳥」だった(朝日クロニクル『20世紀』より。キャプションも)
赤レンガにまた10億もむだにほかすのなら、こうした海軍遺産の遊廓も1軒くらいは残すべきではないのか。舞鶴市さん。それとも自分らだけが気に入った建物のみが歴史的価値があるとでも勘違いしているのか。

昭和20年第2次大戦の終戦によって、組合事務所を進駐軍向けのダンスホール・レストランに改造。同33年公娼制度廃止により39業者72人が廃業した。今も当時のたたずまいが残る。

朝代見番
検番事務所(大正12年 新舞鶴竜宮新地) 明治二十一年に、朝代新地が加佐郡で初めて遊廓指定を受けた。その後、竜宮や加津良にも遊廓がつくられていった。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)
朝代と引土新の境目あたりに「ケンバン」と呼ばれる空き地があるが、上の写真は竜宮新地の検番。

私などより少し年上になると、裏山の西山に登り隠れて舞鶴軍港花柳界の様子を盗み見たという。なかの様子がよう見えたんか、軍人さんは頑張っとたか、ああよう見えた、ワシらのころは軍人はおらへんで、という。
ずっと年上になると、毎晩ここへ来なんだら寝られなんだもんやった、伊佐津で酒買うて、12時くらいから来て泊まるんやった、それより早いと高い。
今は遊ぶとこがないもんで、皆若いもんらが家にすくんどる、ほやけど人間、付き合いいうもんがあるでな。ようケンカもあったで、ほんな時は皆がすぐに止めたもんや、今は誰も止めん、窓をちょっと開けて、のぞいとる、終わった頃に出てきよる、ホンマ腹立つでな。
ということでございました。

《人口》119《世帯数》46

《主な社寺など》
朝代神社

《交通》


朝代の主な歴史記録


《加佐郡誌》
 〈 引土は今舞鶴町に属している引土、京口、朝代、新と共に皆当字であったが明治八年に分離したものである。東南の茶臼山は一色氏の臣、長沼庄太夫(或は長江小太夫)とて細川氏の臣、沼田小兵衛に討たれたものの城址である。  〉 

朝代の小字

朝代 朝代町 鉄砲町

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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