愛宕山(あたごやま)
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京都府舞鶴市引土 京都府加佐郡舞鶴町引土 |
愛宕山の地誌《愛宕山の概要》 愛宕山は全国どこにでも数多くあり、舞鶴でもかなりあるが、ここの説明は西舞鶴市街地の西山で、西山とも、あるいは舞鶴山とも呼ばれた。今は愛宕山と呼ばれる。JR「西舞鶴駅」を降りれば正面に見える。 ずっと古くは天香山あるいは藤岡。手元の地図によれば標高は208.7米。 麓の笶原神社に伝わる細川忠興再建の棟札の、 〈 丹後州神座郡田辺城外之西嶺有笑原神宮焉豊受太神神幸之古跡而所謂為真名井原與佐宮二處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉… 〉 アマノカグヤマがここにあるなどとは舞鶴人でも知りますまい、まして与謝宮(=元伊勢)の一つだなんて知る舞鶴人もおりますまい、地元郷土史家の大怠慢でありましょう、「それはおかしい」などと、自分の頭ではよくわからぬのか、自分勝手な都合良い判断をなさって古くから伝わる超大切な史料の紹介もなされる様子はない。現代舞鶴人の思い上がりと愚かさを見たければこれこそその好見本かも知れない、将来はきっと子供の教科書にも載せられる笑い話となろう。大正舞鶴人がよほど正常である。おかしいかおかしくないかの価値判断は市民のすること、教育委員会や郷土史家の仕事ではない、何を思い違いをしているのか親切心のつもりか、余計で有害なことである。そんなヒマがあるならせっせせっせと手元の資料の紹介でもされるがよろしい。 ↑田辺城天主台跡より 古代からこの頃まではかなり有名な名山でなかったかと思われる、誰だったか「牛が寝そべったような山」と書いていたが、姿麗しい山とはとても申せない。 古代にはまた矢原山。ヤブ山とも呼んだ。 風土記残欠に、 …矢原山即時生根枝葉青々故其地名云矢原(矢原訓屋布) 矢原山に鎮座していたから笶原神社であったと思われ、真名井や豊受大神とは深い関係を有する。 誰もがスコーンと忘却、実はそうした超古代の歴史を有する大変な山。ナゾは何も解明はされていない。 ↓西舞鶴駅舎より、駅の真正面の山。 ↑駅舎の窓硝子に映る愛宕山。駅舎の一等席のこの位置には民間の旅行社が店を構えていたが、すでに撤退した。その位置には舞鶴市の「まいづる観光ステーション」がつくられた。ゼーキン使っているので大赤字でも撤退はなかろう、納税者が支払えばいいだけのこと。一等地がカラでは見栄えが悪い、の所詮はオヤクショ仕事、月給持って帰ればいいだけの話ではなかろうか、眼前に横たわる愛宕山など目に映ることはゼッタイにあるまい、などと納税者としては心配する。 愛宕山には元々は豊受大神と真名井を祀る元伊勢とされる笶原神社があったと思われるが、その後山頂には愛宕神社が祀られる。 旧語集に、「愛宕ハ京極飛騨守高直侯御再興。昔女布村ニ森脇宗把ト云武士住居此節本堂も塔も建之由伝説不慥」とある。 そして何時からか虚空蔵が祀られている。 虚空蔵さんの十三詣り資料には、〈 陰暦三月十三日には山上虚空蔵の例祭がある、この虚空蔵祭には年齢十三になった地方の子女が「十三詣り」といって挙ってここに詣で、幸運を祈るのである、山上の展望極めて佳く春秋の候は遊山にも適する 〉 今も続けられているとか。 十三というのは数え年の十三で、満年齢なら十一か十二才、小六になる。豚児はちょうどその年齢となり、過日新緑の中「幸運を祈る」ため虚空蔵めがけて登ってみた。 ↓円隆寺の多宝塔前から登るのが表参道。しばらく墓地の中を歩く。 ↓石の鳥居がある。ここからが神域か。 ↓参道には「四国八十八箇所」の寺々の石仏が祀られている。 ↓何のお堂か。半分以上は登ったことになります。 ↓しばしの瞑想? ↓倒木が道をまたぐ ↓山頂です。ここは愛宕神社。虚空蔵へは左手へ進む。 ↓道は狭くなる。すぐ近くのもう一つの山頂めざす ↓何だろう。壊れた石像 ↓虚空蔵様です。 ↓引き返して愛宕神社へお詣り。 ↑ガーン、ゴーン、グワァァァ〜ン、全世界の皆様の幸多からん事を願い、力込めて鐘を鳴らす。 西舞鶴高校が麓にあるが、クラブ活動のシゴキで、愛宕さんへ走って登れ、登ったら鐘を叩け、下で聞いとる、などと言われてヒーコラ走って登りましたな、鐘を叩きましたもんです、あの鐘は今もありますか、などと問い合わせがある、この通りでございます。 ↑中央が「愛宕権現」。向かって左手に「太郎坊次郎坊権現、右手に「神変菩薩」が祀られている。市街地からもこの建物が見える。 参道は綺麗に掃き清められていて、ゴミもない。1時間もあれば登れます。眺望もあります。 ↓西舞鶴市街地 ↓西舞鶴湾 ↓西舞鶴の市街地は東側に見える 愛宕山の主な歴史記録《加佐郡誌》 〈 笶原神社 一、由緒 当社の由緒は慶長五年細川忠興社殿再建の際の棟札に詳である。曰く 丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、 豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、 崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、 御霊化又遷與謝九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉夫當宮之有霊験者著于世也因記一二以示於後世社記曰、 文武天皇慶運三丙午歳夏久旱魃不降一露尋有災火而山悉焚爲之萬民無所置手足也於是、勅阿部朝臣眞君副使中臣朝臣人足等被進種々神宝幣帛於当宮雷聲忽応而火災自滅矣、 高岳親王詣当宮依神詫建清光殿于宮地遂奉戒言以自愼矣、 花山帝患無子被祈於當宮即有感応而、清仁親王生、 後醍醐天皇所於當宮被免蝮蛇之患、 邦高親王亦祈此神御脳忽平癒此以下世蒙、 神明之威徳者不可勝数、 歴帝崇此紳之徳数進幣帛被修理賓殿雖然星移物代而雨露疵其?清宮既古矣于時慶長五年秋八月石田三成方人小野木重勝方囲當城之時父藤孝詠一首歌以奉于此、神而後爲籠城矣歌云、天照神之御坐郡奈禮婆荒振毛能乎屋良比賜邊庸既有感応而、太神夢中以長歌詫、智仁親王親王輒奏之、天子、天子大驚直乃、勅烏九岩廣卿西三條實條卿加茂松下大宮司等下、綸命於小野木因之小野木等速解囲退是故父出戦苦得小治一國也是非我徳也正、神明之妙助也益尊敬、其神徳自奉幣帛愼配吾姓祖、清和天皇之霊爲寄附神領九町七段百九十歩者也又其宮地山林自西馬谷之尾崎接圓隆寺之境南至桂林寺之境分地各正而寄附者如先規茲新営治、宝殿命神主海部真正之令祷當城鎭護國家安全五穀成就武運長久府惟、神明霊徳尚紳愍敬白 慶長五年庚子冬十一月十四日 再建願主當國城圭 細川越中守忠興謹誌 棟札の竪は長さ曲尺三尺二寸一分で横は幅九寸五分あつて板は檜で厚さ一寸あり。今猶之を存してゐる。 天真名井考(中澤起一薯)に曰ふ 内外皇大神丹波國に神幸ありし始の古跡は加佐郡田造郷なり此の田造を田邊と改めたるは細川玄旨法印城築ありし時より名づけたり云々此田邊西に山あり是を天香久山又藤岡とも云ふ、則笶原神社(式内)是なり天照皇大神神幸ありて一年除り三月大座せし大宮の古跡なり古額あり書曰総肚笶原魚井匏宮これ神祇伯王白河家の元祖なる禅正尹清仁親王の真筆也又華山天皇の御宸筆八百曾殿の勅額あり云々 書中の古額及び勅額は今猶之を残つてゐる。 丹後風土記曰 所以號田造者往昔天上降臨之時豊受大神教而天香語山命與天村雲命天降于当国之甲去奈子嶽天香語山命與天道姫命共祭大神及欲親掌井水忽変而不能炊神饌故云泥真名井於是天道姫命抜葦占大神心故名云葦占山也爾天道姫命授以弓矢天香語山命而詔汝可咎三其矢留之處必清地矣命諾而発其矢則到于當國之矢原山即時生根枝葉青々故其地名云矢原(矢原訓屋布)則于其地建神籬以遷祭大神而始定墾田當巽方三里許湧出霊泉天村故雲命灌其泉於泥真名井之荒水以和故其井名称真名井亦傍天吉葛以其匏盛真名井水進之調度神饌長奉大神故称真名井原匏宮也於是春秋耕田施稻種遍于四方即人民豊故名其地云田造也云々 〉 (舞鶴地方史料集第二輯) 〈 愛宕山 円隆寺持 二王門より九丁登 (引土地区) −略−宝永五戊子年九月町中年寄発起山の麓に石の鳥居建立す在町貨物寄進其後石段を作九月十五日場所鍬初 十月十九日花表棟上廿一日供養−略− =秋葉神社= 舞鶴町の西南愛宕山の頂にあるので俗に「愛宕さん」といふ、円隆寺の所管である、祭神地蔵地蔵大権現の縁起によると文禄元年某月二十日の夜円隆寺末智恩院六世の住職秀尊法印が地蔵大権現の霊夢に感じ神告のあった山嶺を掘ると竹筒様の銅器が現はれたのでこれを開くと一道の霊光と共に地蔵尊の銅像が現はれたのでこれを本尊として祠堂を建立したものだといはれて居る、地方人の信仰殊に篤く祭典は七月二十三日で陰暦三月十三日には山上虚空蔵の例祭がある、この虚空蔵祭には年齢十三になった地方の子女が「十三詣り」といって挙ってここに詣で、幸運を祈るのである、山上の展望極めて佳く春秋の候は遊山にも適する。 〉 (旧語集) 〈 愛宕山権現社 本社五間四方 客殿三尺四方 円隆寺持元理性院持也 後円隆寺江移 五月壱ケ月斗理性院持也 麓ヨリ八丁惣門ヨリ九丁山上ニ有テ中程ニ休堂有本堂棟札モ無之縁記モなし 飛騨内匠建タル由云伝なり 峠より下西の方福井村江下ル道モあり 六月廿三日祭也夜祭御家中札多翌朝愛宕ノ宵祭也 翌廿四日参詣多し 太郎坊社 二間四方 宮殿 六尺 拝殿 九間三間 右愛宕ハ京極飛騨守高直侯御再興 昔女布村ニ山脇(ママ)宗把ト云武士住居此節本堂も塔も建之由伝説不慥 二王門或時焼失二王を除安久村(後に至てみれハ吉原町より下地)北の浜に置夫ヨリ其辺を二王崎と云由 其後類焼難除焼失其以後門無しと云崎御代門と用水の所被仰付堂の西の方本尊の後堂のはめ板に放駒の絵有巨勢金岡筆の由 此馬夜々出て田畑を荒し東ノ方若狭道白鳥峠ヨリ東土橋迄出て帰ると依之此橋後の世迄も駒返の橋と云伝 其後是を繋駒とす夫ヨリは不出此絵六十年斗以前迄薄く見へたり次第に消て見へかたし 其頃の理性院住持秀円と云し僧絵を好右之図をよく覚へ脇に書たるよし 円隆寺の奥ノ方山脇に稲荷あり奥の堂の才蔵トて霊狐之由云伝ふ先御代由良村磯にて大網御覧之節大亀一ツ掛れり小船に乗せ船着迄廻り葉山信水被仰付画之其絵馬を愛宕山へ被為掛也 高橋助之進蒙仰亀の記を作り亀ハ沖江放し給ふ 亀の記別に有宝永五戊子年九月町中年寄発記山の麓に石の鳥居建立す 在町貨物寄進其後石檀を造九月十五日場所鍬初十月十九日花表棟上廿一日供養 一日供養 手水鉢 久美屋理右衛門 寄進 廻り石場 勇屋和右衛門 芋屋四郎三郎 丹波屋勘介 時ノ住職 良泰法印 寺僧 成就院 快弁 理性院 良印 橋本坊 良遍 造料銀壱貫九百九匁二分之由 右神門寄附銀高不足ニ付丹波屋嘉右衛門弍百三拾匁取替出追而石檀の寄進銀余慶を以引取由 猶又嘉右衛門発起ニ而当寺者御祈願所たりと言共大般若経無之転読被仰付時は桂林寺ニ而借用申ヨリ外なし 御安全守護大般若若調納仕度此度不足取替銀を以百巻調可申残り五百巻追々寄進も可在と百巻を調進す 然処に酒井信濃守忠吉侯奥方様御安産御祈祷被仰付則被遊御平産候ニ付智恩院御城江被為召白銀五枚頂戴し直に丹波屋江立寄此施物ニ而大般若経百巻調弥以御安全奉祝候由 嘉右衛門最初調候百巻を智恩院を主とし二百巻目嘉右衛門寄進と振替納其後方々より寄進六百巻出来奉納なり 〉 (丹後田辺誌) 〈 愛宕山 円隆寺持二王門ヨリ九丁登 元来理性院持ナリ後円隆寺エ移五月一ケ月理性院持 本社 五間四方 太郎坊社二間四方長床九間ニ三間 客殿 三尺四面并太郎坊客殿二尺五寸四方屋根各柿葺 右両社上屋八間ニ四間屋根茅 神変大菩薩客殿二尺四寸四方高サ七尺 淳和元?酉年九月勧請 屋根瓦 小宮一宇毘沙門天 同 同一宇俗鍜冶殿ト申伝ル 同 拝殿二間半七間半 正面通り二尺鏡有 石燈篭二基高サ五尺拝殿ノ前ニ有 同 休堂一間半ニ二間 屋根板葺 秋葉山権現小宮一尺四方 屋根瓦 上屋一間四方 屋根瓦 稲荷小宮三尺ニ四尺 同木鳥居広サ五尺 社記曰慈恵山之嶺愛宕宝殿者近古所挿尊也智恩院従今六世之前為主翁者秀尊法印也維時当後陽成院御宇也文禄元年壬辰六日之夜座下一僧得矣夢也地蔵大権現立于杙上告曰我是所鼠於山嶺土塊之一体也我久志乎利済年空莫矣汝何不出我於世耶此僧忽夢覚冷汗流膚也 明日即告院主院主相伴到山冢掘其地則果得銅器其形如竹筒也開焉則地蔵菩薩之銅像也院主感其夢無誤而忽仮構一社備香火矣於是今徳所満自国他他邦象人拝詣雑?此時女布村之館主森脇宗巴也領近郷而居焉?監護円隆之伽藍無?矣?是聴前許急??一?於私館而悉接虚誕相罵以?僧?矣僧也告之雖以矣夢相解棹首不可也僧皺眉趣帰?五町許而宗巴之館既発回禄当于此時宗巴雖悔吐?言何益之有哉速乗素馬相遂曰錯?者罪矣徳於木根故知無所遁冥?願急獲祓斯火災焉伏則?建一社可以奉報慈恩矣此僧?乎高野川向慈恩山持念焉猛大忽滅而郡客之渋?定矣宗巴不耐喜明旦請乎慈恵山憑院主之指揮而建一宮?曰之以桧皮也其後慶長七年丹後守高知公主於当城聞其緒余不勝感激則革旧敵寸建本殿其大四維約五間造拝殿也往三間長七間也加称建太郎坊社四隅合二間列構悉取諸唐制亦闔国之庶生戮力而作稲荷社也実為国家鎮護之矣場也抑言方位則自惣門左旋右転相竝九町高離凡境叢樹葵々芳草葺々東則瞰田辺城郭壁?曜南則?高野渓翠煙氤?西焉有大江山??北?有滄海渺漫也凹凸千谿断続万嶺環繞四隅而不可勝数也山城愛宕嶺若耶後瀬山隔雲達矣市陌千家列於平麓民居百邑?於下界朝煙夕気客易不可?筆而記也回首則水清大悲閣伊佐津天神宮添目?之奇観也千?万状不可得而?? 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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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