丹後の地名

郷村断層(ごうむらだんそう)
京丹後市網野町郷


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京都府京丹後市網野町郷

京都府竹野郡網野町郷

京都府竹野郡郷村郷

丹後大震災の郷村断層




郷小学校
郷小学校の正門は小池断層から50メートルとは離れていないが、当校の児童たちが作文を書き残している。

おとうさんのいのちとり
郷小學校 尋二 松浦正八郎

ぢしんがいつてとんで出たら、もういへはつぶれていました。みながやねの上にあがつて「おとうさん」といひました。おとうさんは「おーい」といひました。
ぼくにそのときとびたつほどうれしうございました。みなが一しようけんめいになつて、おとうさんをだしましら、もうよはあけていました。おとうさんにだんだんいきが小さくなつて、たうたうなくなられました。ぼくにおとうさんのそばでなきました。おかあさんもにいさんもなきました。
おひるになつてもごはんもきものもありまぜん。そのとき雨がふりました。ぼくにかなしくなりました。

地震
郷小學校 尋六 岡 猛夫

思ひがけない大地震。大きなお家ピッシャリコ。
あちらでぼうぼうもえろ火は。天地を今に焼きつくす。
すけてくれいとさけぶ聲。父が死んだと泣いてる子。
うんうんうめく人の聲。耳の底までしみ渡る。
しつかりせよと人の聲。心の底まで響けども。
地霙は實にこはいなあ。あゝ私はこはいなあ。

バラックの學校
郷小學校 高二 岸本 哲
大震災後の學校は毎日生徒は來るが淋しい遊び場であつた。それに教科書がなく勉強する所がなかつたからである。毎日々々を學校へ來ては先生に歸れと言はれすごすごと帰つたのであつた。
それが高い高い青天上の下で勉強し天幕の中で僕達手製の机を前にして勉強して今日のバラツクの中で勉強する樣に成つたのは五月の初め此のバラックの教室は僕達にとつて極樂の國である。
暑い暑い日光に頭から輝り付けられ天墓の中でむされ雨降リの日には勉強出来ずして歸つたのであつたがバラツクの教室には入つてから新しい赤い机に向つて勉強し寒暑をとはす愉快に雨の日も風の日も毎日々々勉強する事が出來る様に成つたのに僕達にとつて無上の喜びと言はねばならぬ。
今新しい學佼が立つた、もう暫くしたら新しい教室にに入つて勉強する事が出來るのである。
               (『奥丹後震災誌』より)
バラックが極楽だというのは本当だと思う、それ以前は天幕であった。キャンプで使う三角形のあの小さなテントを校庭にいつくも並べて勉強している。『京丹後市の災害』より↓
天幕教室


丹後大震災の概要


郷村断層北丹後大地震、あるいは奥丹後大地震などともいう。

(坂根正喜氏『心のふるさと丹後Ⅱ』より→
この部分は「小池」断層と呼ばれ、国指定天然記念物)
本当は直線道路なのだが、このように断層に断ち切られて食い違っている。右手は郷小学校、手前の広い道路は網野街道、奥のタンボの区割りがほぼ東西南北線で、北は左上になる。ここでの食い違い量は、水平に2.65m、手前側(西側)が0.62m隆起した。

1927年(昭和2年)3月7日午後6時27分40秒頃に起きた丹後半島を震源とするマグニチュード7.3と推定される大地震。
(阪神淡路大震災(1995.1.17)も同じM7.3の直下型。死者は6434名。断層の最大変位量は27㎝)
丹後半島は東西方向に圧縮力を受け続けていて、それによる歪みが地殻には蓄積され続けている。
そのエネルギーを解放しようと、「郷村断層」とそれに直交する「山田断層」が地表に現れたものである。周期は8000年とか言われている。
郷村断層(小池断層)
 陸域と、沿岸海底までを震源域として発生した、家屋密集した町々の中心地にごく近い位置にあった断層による浅い地震で、広範囲で激烈な地震が生じた。宮津市や豊岡市では震度6、震源域から100㎞も離れた京都市や奈良市、福山市などても震度5。朝鮮や台湾、樺太でも地震が観測された。
ちょうど夕餉の時刻であった。各所から倒壊した家屋より火が出た。被害は今聞いても耳を覆いたくなるほどに甚大であった。死者2925人、全壊家屋5149戸、全焼6459戸。



郷村断層の概要


空撮と同じ箇所の発生直後の小池断層↓(案内板より)
郷村断層(小池断層)


1927年の北丹後地震の地震断層」より↑
上:網野の郷における道路の左ずれ。東方に望む。下:西方に見た。
とある。

 こんなに断層の近くにある家屋が倒壊していない、それとも道路近くのガレキのようなものは倒壊した家屋だろうか。↑
この断層は一瞬に発生した。断層近くの隆起した側では、いきなりガンと1メートルも家は空中へ放り上げられた、空中に浮かんでいるいるうち、地面は3m近く水平移動していた。再び家が地表に落ちたときには、カマドやフロなどの地面に固定されていたものは、家の外にあった。達磨たたきのような話だが本当のことのようである。
人間は何することもできない、機械の速度では対応できないだろうし、コンピューターでもムリではなかろうか。これなら想定何ガルくらいになるのだろう。眼光鋭い皆様でよく考えてもらいたい。
転倒した機関車
 何もしないよりはマシかも知れないが、少々家屋の地震補強対策をしたくらいで、これで安心安全だなどとはユメ信じてはなりませぬぞ。自然の猛威は想定をはるかに超えることがある、欲得のインチキどもは問題外だが、きわめてまじめな全世界の学者・専門家の想定もはずれることがある。もちろん原発も同じである。
あの当時のボロ家とちゃうわい、などと思われるかも知れないが、それは現代人のまったく根拠のない思い上がりで、阪神淡路や三陸沖を思い起こせば、社会が高度に発展すればするほどに危険も新たにまた増えてくることがわかる。便利のカゲで、その危険もまるで歩調をあわせるかのように大きく「発展・進歩」してくるので、単純には比較ができない。汚染水はどないにもなりまへん、今から優秀なロボットを作ってもらって、どないしたら廃炉にできるか考えまして、などとこの当時では思いもしなかった超アホな事態も発生してくることになる。こうした自分が住んでる国がまるで地震国津波国ではないかのような阿呆気な構えでは安全安心などは決して得られない。
このころのハイテク交通機関の機関車もごらんのごとく横倒し。↑
線路と車輪が離れてないので、機関車が空中へ放り上げられたかは不明だが、地殻の水平移動スピードの凄まじさがわかる。活断層の直上やごく近くにある原子炉や燃料プールがこうしたことになれば、地球は終わってしまう。たかが電力会社や金融資本のゼニ儲けのために地球が終わる。網野駅
 網野駅は断層から西へ百メートルとは離れていない、断層と直交して線路が引かれている。写真は断層側から写したものと思われるが、違うかも知れない、当時の駅の構造がわからずどちら側へ倒れているのか不明。駅舎の傾きから判断すればあるいは山側へ倒れたのかも知れない…
後の客車も全部ひっくり返っているが、これは何Gくらいだったろうか。
40㎞くらいで走っている車が急ブレーキをかけると1G=980ガルだそうで、自転車は急ブレーキをかけてもせいぜい0.6G=590ガルだそう。重力の加速度(1G)くらいはかからないと客車はこけそうに思えないが、そうすると少なくとも1000ガルはあったことになる。自転車が急ブレーキをかけたくらいでは客車はこけないと思われる。
これは水平方向のガルであるが、垂直方向のガルは家が空中に浮いたというのだから、これは確実に1Gを越えている。白滝神社の折れた石の鳥居白滝神社(網野・琴引浜)のポキッと折れた石の鳥居→

若狭原発はこれほどの高いガルは想定していない(最近引き上げて、高浜で700ガル、大飯で856ガル)。それにもにも関わらず安全で~すと宣伝され、またまた保安院に落ちた何とか委員会も太鼓判を押そうとしている。何が安全なのか、関電のおサイフと現政権と推進派が、フクシマがあったにもかかわらずいまだに自然をなめた思い上がった軽薄なノー味噌が安全ということでしかない。
原発に安全などないことは福島が証明したばかりである。家屋は何ガルで空中に浮かぶか、客車は何ガルで横倒しとなるか、石の鳥居は何ガルで折れるか、などは実験で割り出せる、それ以上のガルは若狭原発には科してもらいたい。

郷村断層
郷村断層は、タンボの中を走り、多くの箇所では消されてしまったが、郷村内の断層は国の天然記念物に指定され、現在、3か所で保存されている。
丹後大震災の震源地となった断層として有名。新聞紙面は「呪はれた丹後半島の光景実に凄惨を極む」「峰山、網野の両町、全く焦土と化す」などとある。そのときの断層が今も見ることができる。
郷村(郷・高橋・生野内・公庄・新庄・切畑)では、総人口2051人中、死者131人、死傷者を通じて306名を出した。総戸数411戸の中、全壊597棟、全燒149棟、半壊258棟であった。


「郷村断層」は、旧竹野郡網野町から旧中郡峰山町・大宮町にまたがる断層。昭和2年に発生した丹後地震によって生じた断層。
網野町下岡から峰山町長岡を走り、大宮町の三重付近を最南端とし、花崗岩の丘陵を切断し、北北西から南南東に雁行状に数条走る。延長18km、断層西側が最大80cm隆起し、南へ270cm移動した。郷と公庄の集落間は落差80㎝に及び、昭和4年に国天然記念物の指定を受けている。名称は、断層の中心をなす地域の旧村名郷村による。
これらは主に陸上部の話であるが、実際は日本海の海底部まで続いていて、それも含めると全長は34㎞以上とされている。
別の調査によれば、右の地図の海底断層よりまだずいぶん沖へも断層は続いて、郷村断層は大変な断層の様相である。
丹後大震災には津波もあったというが、海底断層も活動したと思われる。

今回は活動しなかったが、郷村断層の東側2.5㎞の所に並行する仲禅寺活断層がある。
(「山田断層帯の長期評価について」より→)
同時に両断層が海底部まで含めて全域で活動し、山田断層も動けば大変な地震と津波が発生すると思われる。


東にはさらに竹野川線や宇川線も何かありそうな線に思われる。どうか平穏であってくれと願うが、そうはいくまいの気配である。


同時に形成された山田断層は郷村断層と直角をなす共役断層で、旧・野田川町幾地付近から四辻付近を経て東北東に延びる、延長約8・5kmの断層。



現在に保存されている断層


もう90年近くになるが、郷村断層が3箇所で保存されている。
生野内断層
生野内断層
生野内村の一番奥になるが、断層が保存されている。

この溝が断層そのもので、開口亀裂と呼ぶのだそう。元々は左右(西東)は同じ高さで、ピッタリくっついていたのだが、左側が62㎝隆起し、手前側へ185㎝水平移動した。(ちょっとわかりにくいが、案内板↓)
生野内断層案内板

小池断層
小池断層
郷村断層といえばここ、というよく知られたな地点、小池断層という。網野街道から郷小学校へ入ったところにある。
道路は後に拡幅されていてズレがわかりにくいが、石柱が立っている所が当時の道路の左端になる。(鋪装されている部分は手前側も向こう側も少し拡幅されている、先の続きの未舗装のタンボの中の部分が当時のままの状態のよう、軽トラくらいしか通れない広さで、反対側から入ろうとしたが狭いのであきらめたくらいの道幅である。)
小池断層
小さな石柱が左右に二つ見えるが、地震以前は、これらは同じ一つであった。地震の後はご覧のように、左右に260㎝、上下に62㎝ズレた。案内板↓
小池断層案内板


樋口断層

樋口断層の保存は建物も新しくなり、駐車場まであっていいのだが、カギがかかっていて中に入れない、汚れたガラス越しの写真である。
上下にこれだけ60㎝、水平に石柱の距離275㎝である。案内板↓


こんな案内が書かれている(英文も添えられている
)
国指定天然記念物 郷村断層(生野内地区)

1927年(昭和2年)3月7日に丹後地方を襲った北丹後地震(推定マグニチュード7.3)は、各地で家屋が全壊・全焼し、死者は2925人にのぼるなど大きな被害を引き起こしました。
この地震によって生じたのが、網野から峰山を通り大宮に向かう延長18kmの「郷村断層」と与謝野町四辻から岩滝に向かう延長7.5kmの「山田断層」で、これらの断層沿いの地域が特に大きな被害を受けました。
郷村断層は、北より10度西の方向に走っており、西側隆起を伴う左ずれ断層(断層線に向かって立ったとき、断層線より向こう側の地面が左方向へずれている状態)です。ズレが明確であるだけではなく、花崗岩を切断し、岩盤に「鏡肌」や「擦痕」をつくりました。
1929年には、北丹後地震に開する重要な資料として、3地点が国の天然記念物に指定されました。また、この地震の直後に発表された論文のなかで、日本で初めて「活断層」という言葉が使われ、活断層の一つとして郷村断層が紹介されています。
生野内地区では、開口亀裂を伴う明瞭な地震断層(断層のズレの規模:垂直方向62cm、水平方向185cm)が現れ、現在も当時の状況を保存しています。

郷村断層
平成7年1月17日の阪神淡路大震災の六甲・淡路島断層帯は、断層南東側が南西方向に約 1m - 2m 横ずれし、南東側が約 50cm - 1.2m 隆起した。この一部を保存した「北淡震災記念館」が平成10年にオープン、入館者数は800万人にもなるそうである。
三陸の方では、思い出してつらいから残さないでくれとか、の声も多く、かなりの津波遺構が破壊されてしまったそうである。はやまって一度破壊すればもう永遠に失っわれてしまう、見ればつらい人も多かろうから当面は覆いをかけて見えなくしてでも、人はすぐに忘れてしまう、過去はすぐに風化する、自分もすっかり忘れていたように社会の全員が忘れてしまい、千年後の子孫がまたもや同じつらい思いをしなければならなくなるやも知れない、可能な限りを残し記憶を未来へ繋げていくのが現在を生きる者の勤めではなかろうか。そうでないと何のために死んだのか、というか犠牲者の命を生かす道がない。単なる犬死、無駄死にになってしまう。彼らの犠牲を生かすのは生き残った者の勤めではなかろうか。  写真は『京丹後市の災害』より↑
郷村断層は阪神淡路断層と同程度の規模の断層であるが、郷村断層は見学する人はダ~レもいない、ちゃんとしたことをすれば、有料でもこれくらいの人が集められ、人々の安全に貢献できる。日本にいる限りはお互い大地震にいつ遭遇するかわからない身である、3000名の命を生かす道を今もう少し考えて見てはどうだろうか。




丹後大震災の記録


郷村のあの日

『奥丹後大震災誌』(写真も)

 〈 郷村
郷村は震源地と目される郷村断層の發生地とて、その震動の激烈であったことは他に類例を見ぬ。字高橋區の中央から郷・公莊・生野内等の各區を過ぎて、峰山方面へ南下してゐる断層線、並にこれに伴なふ地層変動の状態を見、字郷學校前の道路の喰ひ違ひ、字生野内の溪間水田に現はれた大断層など、實に驚異に値ひする大きな地変を、一目見た丈けでも、いかに當時の震動が猛烈で、それから起った破壞力の偉大であったかといふことが首肯かる丶のである。
村内でも稍離れて南方に位置する字切畑は、地勢上幾分震動が緩であったものと見え大多數の家屋は半壞に止まり、全壞は僅かに四棟に過ぎなかったが、他の五区においては、ことごとく全壞若くは全燒で、大きな用材を惜氣もなく使って建てた堅牢な家屋が、一たまりもなくペチヤンコに押し潰され、算を亂して倒潰した上、更に火を失して焼きつくされたその惨状は、眞に二目と見られぬ程のむごたらしさ、戸數まばらな村落でありながら、殆んど一戸として滿足に殘った家はなく、所謂全滅に等しい有様に陷いった。
村内各區を通じて火元は爐から九件、炬燵から六件、火鉢から三件、合計十八件で延燒五時間に及び、夜十二時頃鎭火した。防器具は多く破損して用をなさず、高橋區では十五名集まって桶水を以て防火に努めた。生野内區では私設の器具を使用して防火に尽した。
即ち總戸數四百十一戸の中、全壊五百九十七棟、全燒百四十九棟、半壊二百五十八棟を出した點に見るも、その一般を知ることができる而してこれ等の建物と動産の總損害は約七拾萬圓に上り、一戸平均千七百五拾圓になってゐる。更に總人口二千五十一人中、死者百三十一人(歩合六分四厘)、死傷者を通じて三百六名(歩合一割五分)を出してゐる。
公共建築物中、郷尋常高等小學校は切畑・新庄両分校と共に全壊し、児童中でも死者十五名、負傷者五十名の多數を出したので、十六日間休校の上、天幕やバラヅクを利用して、三月二十三日から授業を開始した。役場は事務室及び附屬建物とも全潰し、また信用組合も全燒した。書類も一部燒失したので、止むなく附近の民戸を借り受けて災後の事務をとった。字郷にあつた巡査駐在所も全潰した。
全被害世帶數三百七十七を職業別にすると、農業三百二十二、商業九、工業三、機業十、官公吏三、其他三十一で、大多數は中層の生活をなし、生計維持者なきもの二名あった。
網野方面へ來た府、赤十字社支部、府立醫大の各救護班、神奈川・福井・三重等の各縣救護班は、多くは本村に來援して、傷病者の診療に任じ、工兵各大隊の手でバラツク百五十戸を建設し、家を失った罹災者を収容した。
救援隊は八日から九日にかけ、綾部町消防組が二隊に分れて乘り込み、死體發掘に從事したのを眞ツ先きにし、何鹿・葛野・南桑田・天田・桑田・加佐・與謝・紀伊各郡の青年團、軍人分會員等が、都合十六団体、約千人の人員が、二十二日までの間に続々來援して、小學校舍・寺院、一般民戸等倒潰建物跡の整理、道路の修理、バラツクの建設、その他一般救援の諸作業に從事、大體は六月中に一段落ついたのであつた。
家屋と人の被害内容を字別に示すと左の如くである。…  〉 




網野町中心地のあの日
車上に親子の屍体をのせて(網野町入口)とある。↓


『奥丹後大震災誌』(写真も)
 〈 竹野郡
竹野郡十四ヶ町村を通じて、最大の被害地は言ふまでもなく網野町で、島津・郷・濱詰・鳥取の四村これに亞ぎ、この中でも島津・郷両村は部分的に見る時は、或は網野町以上の大害を被ったといってもよい程である。他の九ヶ町村は素より多少の相遑があるにしても、その被害程度は以上の五町村とは到底比較にならぬ程の小被害で、就中郡の東北端に位する竹野・上下宇川の三村は最も少ない。從って救護作業も自治的に行つたのは勿論、更に進んで他町村へ救援隊を派し、大被害地における救護作業を応援したのである。以下順次町村別の状況を記述する。
(表中の家の單位は円・金の單位ば圓、借家持家の區別なき部分様全部持家)

網野町
網野町は竹野郡第一の都邑で、東に離湖、西に淺茂川湖を控へ、淺茂川口を通じて北は漂渺たる日本海に面してゐる。震源地と目される郷村断層が、淺茂川口から網野驛の東側を經て、南は郷村字高橋に入ってゐる所から見ても、同町が最激震区域であつたことは言ふまでもなく、少しく離れた字淺茂川・下岡・小濱の三區は被害甚大唱こはいへ、なほ建物は幾分倒潰燒失を免れ、舊形を保つてゐるものも多いのであつたが、町の中心として最も殷盛を極めた網野區は、家屋といふ家屋は算を亂して片ツ端から倒れ、加ふるに猛烈な火焔に襲はれたこととて、全戸を擧げて殆んど燒燼し、只見る茫漠たる一面の燒野原と化しをはり、峰山と同じく文字通りの全滅を來したことは、何としても悲慘の極みといはねばならぬ。その當時の震動がいかに劇烈で、火の廻りが又いかに早かったかは、遭遇した人々の左の直話によつても知られる。
どこからとこもなく物凄い地鳴りが聞へたかと思ふと、忽ちユラユラミ搖れて電燈が消えた、はッと思ふて、無意識に外へ飛び出そうと、立って一足踏み出したが、二足目にはひどひ搖り返しがきても座敷一面は波打つがやう、足をさられてその場に倒され、何ともわからす、ぼーツとしてゐる間に、疊と共に街路に放り出されてゐた、この間僅かに二三分、外へ出た時にはモウ町内の各戸は殘らすペチヤンコに押し潰されてゐた。その刹那森閑として音なく聲なく、只それ萬象の寂滅を表徴する死の世界がをとづれたがやう。言ひ知れぬ恐怖に身も魂も消え入るばかりであつた。やがて五分間もたつたかと思ふ頃、丹後商工支店の附近にある向井印刷工場からパツと火の手が擧がつた。火事だ!と氣付いた頃には早やこゝからも、かしこからも發火して、忽ち十數ヶ所の火、それが又見る見る中に延燒しても二十四ケ所位いに擴がり、遂に全町一面の火の海となつてあンな大事になつてしまつた。次から次へと襲て來る余震の搖ぎで道なども暫らくは歩るくことさへできなかつた。
とは、さる人の實驗談の一節。以てその一班を窺ふことができやう。この大火に對して唯一の頼みとした蒸汽喞筒も、その置小屋の全壌した中に埋められてしまつたので、これが引き出しに手間取り、いよいよ用意のできた時は、既に一面の火で殆んど何の役にも立たず、只モウ火焔の猛り狂ふに任すより外に詮方もなかつた。忽ちに見る阿鼻叫喚の修羅揚、この間を逃け惑ふ哀れな罹災民逹は、期せずして町の三方を繞れる小丘上に避難して犇めき合ゐ、大自然の魔手に甜めつくされてゆく我家の沒落を、只呆然としてカなく打眺むるのみであつた。翌曉鎭火するに及んで、各自に燒跡に戻り、その附近の空地や畑地を探し求め燒け殘りの木材や家財などを拾ひ集めて、ボツボツ假小屋の準備に取りか丶つたのであつた。
發火の模樣と延燒の状況につき警察暑の調べた所によると、字網野區では竈・爐・炬燵等の火が原因で都合十九ケ所から發火した。最初の火元と目せられるのは
呉服商西村正二、機業森宇三郎、古物商吉岡徳藏、豆腐商松田徳藏、印刷業向井作次
の五戸でセ發震直後から燃え始めて延燒約九時間に、都合二百七十四戸を燒きつくし、翌八日午前四時に至つて漸やく鎭火を見た。消防員は多くは倒潰家屋の下敷こなつて僅かに身を以て逃れたので、到底團體的の活勸をなすことができなかつた。
字小濱區でも同樣の原因で三ケ所から發火したが、直ちに消防の非常召集を行ひボンプを引出し離湖及び用水池の水を利用して極力放水に努め、火勢を阻止したので、僅かに火元三戸を燒いたのみで他に延燒せず、二時間以内で鎭火せしめることができた。
字下岡區も同樣の原因で八ケ所から火を發し、農業松本熊蔵、同山下嘉二郎兩家から發火したのは附近家屋七戸に類燒し、その他の六ヶ所は附近十二戸に延燒したが、消防員等の多くは負傷して活動意の如くならず、延燒七時間に及び、翌午前二時に至つて漸やく鎭火した。
字淺茂川區でも機業岩淵音藏方から午後六時四十分頃發火したのを最初として、七時には機業野村新藏方から、八時には賣薬業飯島増吉方から共に發火し、前二戸の火元は附近を各四戸づゝ、後の火元は十一戸を全燒して、共に翌八日午前三時から四時までの間に鎭火した。同區ではこの外に十五ケ所も發火せんとしたが、消防組の機敏な活動によつて幸ひ大事に至らなかつた。初めガソリン喞筒を曳き出した機關手大橋源治は、折柄驅けつけた六名の消防手と共力して先づ柳田二郎方から發火したのを消し止め、ついで西部の消防組員も腕用ポンプを持ち來つたので、これと共力して飯島増吉方から發火したのを消防に努めたが、火勢強くして遂に附近の十戸を燒失した。前記岩淵方の發火に際しても東部消防組が腕用ボンプで活動したので四戸の類燒のみで鎭火した。その他各方面の發火に際して消防小頭池辺茂左衞門は家族の危難を顧みる遑なく、北方松林方面に避難中の消防組員を督勵して或は家屋の屋根を破り、或は雪塊又は水を注いで消火に努めたので遂に大事に至らすして悉く消し止めることが出來た。
震災直前における町の總戸數千九十戸、人口五千四百六十七人でその被害の内容を示すと左表の通りである。
(略)
死傷者調査表
字名 性別 死者 重傷者 軽傷者 計
合計 二九三 二〇三 二四九 七四五
即ち住宅のみで全燒三百八十二棟、半燒五棟、全壊四百七十一棟、半壞三百三十二棟、合計千百九十棟を出してゐるのであるから、結局安全な家は一戸もなく、事實上の全滅に歸したわけで、この建物と動産の總損害高は四百七萬圓餘に逹しし、一戸平均三千七百四十圓に當つてゐる。一方人ロの犧牲は死者は總人口に對する五分、死傷者を通じて一割二分七厘の割合になつてゐる。
公共建築物その他の主なる建物中、網野尋常高等小學校は全潰し、児童中にも自宅にあつて死亡したもの二名、負傷したもの三十二名を出した。二週間休業の上、天幕張りや淺茂川の公會堂を利用して、三月二十二日から授業を開始した。一方早急に假校舍建築工事に着手し、伏見新張組の請負の下に五百四十七坪のバラツク建が六月二十日に竣工したので、學用器具の購入をなし、その他の移轉準備を整へて七月一日から新校舍で授業を開始するに至つた。役揚は大正五年に建築したばかりの新庁舎が全潰して使用できなくなつたので、幸にも倒潰を免れた元郡役所の建物内に移り、災後の事務を處理したのであつた。警察署は事務室と隣りの武術講習所との間の廊下は全潰したが、本廳舍と講習所の建物は共に半潰の程度に止まりもその儘修理の上使用した。網野郵便局は全壊し、納屋は半壊し、登記所は事務室及び附屬住宅、土蔵共に全燒し、丹後商工銀行網野支店、丹後縮緬同業組合竹野郡支部などの建物も一たまりもなく燒け、バラツク建で事務を執るの止むなきに至つた。網野驛は構内の地盤が低下したが、建物はさしたる被害もなかつた。社寺では郷瓧網野神社は拜殿・のりと舍・社務所共に倒潰して祭典不能の状態となり、曹洞宗心月寺、同正徳院、同松泉寺、日蓮宗本覺寺等の各寺は、何れも建物倒潰又は燒失し、法要は不能となつた。史蹟銚子山古墳は、第二古墳が約五十六坪崩壊して、あたら名所を臺なしにしてしまつた。
町内知名の人で犠牲者を舉けると、町長上山彌之助氏は、家屋の下敷となつた際右手を梁に挾まれた爲め、一時は發熟し臥床してゐたが、救護事務多忙のため、病體を推して出勤を續けも四ケ月後尚ほ患部はしびれて自由がきかぬにも拘はらす、一日として休まず、鋭意救護と復興事務に當つて倦まなかつたので、部下始め町民一同その誠意に感激し、協力一致復興事業の進捗にいそしんだ。町會議員高山貴一、農會技手味田由之助、網野區長代理梅田種藏の三君は時恰も農會の協議會の歸りで、町内の河田正三郎方に會合してゐたが、同家は三階の大きな家であつたに拘はらず、一たまりもなく倒潰全燒し、三君ともに無殘な燒死を遂げたのである。
個人の建物中、最も惜まれてゐるのは、旋館兼料理業かぶ徳の燒失である。同旅館は先代井上徳藏君が「かぶ徳」の別名で侠氣を以て知られ、現代辰治君に至つて「歌舞踊久」…と、もじつて業務を擴張し、數年前五萬圓を投じて本館と別莊を新築し、用材の選擇に加へて結構の壯大と設備の善美を以てし、町内は勿論この地方には到底見ることのできない一名物として知られてゐたのであるが、惜しや倉庫と共に全部見る影もない灰燼に歸してしまつた。
これ等の被害世帶千四十四を職業別に見ると
農業三五五、商業一七五、工業一二一、機業一二九、官公吏一七、其他二四九。
の如き種別で、生活程度は上一〇一、中五三八、下三九六といふ數になつてゐる。うち生計の維持者のない者一八、公けの救助を要する者一一を出した。
網野町に逹する鐵道は震災と共に不通となり、搗て、加へて峰山・網野間の國道も、被害箇所多くて車馬の交通不能となつてゐた爲め、直後における救護人員と物資の輸途は、海軍の驅逐艦によつて宮津灣から淺茂川港に輸迭するの方法に出で、辛ふじて急場の凌ぎをつけたのであつたが、これも折柄の惡天候續きに妨げられて、陸揚けに困難すること屡々あり、爲めに罹災直後數日間における網野町及び附近への物資の供給は、自然手薄となるを免れす、罹災民は寒氣と飢餓とに責められ、一層の苦難を重ねたのであつたが、漸やく災後五日目の十二日に至り、網野までの道路修理工事成り、停滯してゐた物資はトラツク百餘臺に配して一時に輸途を開始したので、雪解けの上に泥濘をこね返した悪道路の交通は非常の混雜と難澁を極め、輸迭も思つたほどに運ばない憾みがあつた。然るに翌十三日に至りし口大野・網野間の線路の復舊を見、十五日から小運転を開始した。城山隧道の應急工事が二十日に竣工すると共に、山田・網野間の鐵逍輸迭力も舊に復し、初めて完全に行はれるやうになつたので、この頃から救護人員や配給物資は思ひのま丶に積込まれて、遽かに豐富となり、町民も今更らの如く愁眉を開き、ホッと安堵の胸を撫でるやうになつた。
救護班は最初本府と赤十字瓧支部、府立醫大、京都衛戊病院、智恩院婦人會等の各班が出動し來り、管外では肺奈川・福井・三重の各縣、赤十字社兵庫支部、同三重支部、大阪市醫師會、大阪府藥劑師會等が續々來援し、元郡廳舍建物を假病院にして傷病者の診療に從事した。
工兵第三大隊は十七日から二十日にかけ、バラツク五百十七戸の建設に當り、歩兵第九聯隊を始め、その他の軍除は十六日から數日間來網して、道路の修理、燒跡の片付け、その他諸般の救援作業に活動したが、更に一般的の救援團は八日に郡内上・下宇川村から二十名來着したのを始めとしても府下各郡から十一團體、兵庫縣から九團體來援し、それぞれ救護作業に從事する所あり、三月二十二日兵庫縣香佳町救援團の來援を最後として、これ等の團體は全部引き上げ、後は町民の手でそれぞれ整理と復興に從ひ、漸やく七月牛ば頃に至つて一段落ついたのであつた。  〉 






















島津のあの日
『奥丹後大震災誌』(写真も)
 〈 島津村
島津村は離湖を挾んで網野町の東に隣りする字島溝川を中心とし、南は中郡界に接する字仲禪寺、北は網野町字小濱から間人町に通ずる海岸道路に沿ふた掛津・遊・三津の三字を包含し、戸數五百六十九戸、人口二千五百八十一人(震災直前)を有してゐる、郡内第一位の大村である。殊に島溝川は古來縮緬機業の本場として、知名の大工場櫛比し近年斯業の活況と共に生産額の増大につれて收入も増加し、これに伴なふ從業者も増し、商戸は日に榮え、村とはいへど、住家の宏壯と生活程度の高き、到底他村に比すべくもあらず。やがては來らん黄金村の理想郷を夢みつゝ、區民は急速なる發展の途上に驀進しつ丶あつた際、突如として起つた大震災は、一瞬にして永年積み來つた多くの財貨を亡ぽし、粒々辛苦の汗によつて建設した彼れ等が郷土の美をも富をも一擧にして蹂躙してしまつた。その上愛する多くの同胞をも奪ひ去つたのである。有爲轉變は世の常とはいへ、諦らめんには餘のに大きな犧牲である。泣いて止まんには餘りに深い創痍である。殆んど一人として罹災者たらざるなき區民の多くが、茫然自失恥、一時は殆んど爲すべきのすべさへ知らなかつたのは、げにも理なりといふべきである。
最烈震地蔕ではあり、殊に地質の軟弱なる島溝川と、掛津とが最も被害甚しく、三津・遊・仲禪寺の三字は右の両字に比すると、よほど被害の度も低かつたやうである。何れにするも激震につぐに火災を以てしても全壊五百十二棟の上に、全燒三百八十七棟を出し、建物と動産の損害だけでも、二百四拾萬圓に逹するのだから耐らない。
村の中枢である字島溝川は各小字によつて第一組から第六組に分れてゐるが、各組別によつて出火延焼の状況を調査して見ると左の如くである。
(略)
右の如く區内六組に亙り殆んど一時に發火して、區民は家屋の下敷となり、死傷者頗る多く、加ふるに消防器其器械は大部分焼失してその用をなさなかつたので、消防員も團體的に活動不能となり、遂に彼の如き大慘害を見るに至つたのである。
字掛津區においてはも發震後間もなく十五戸から發火し、東南の風烈しく炎々たる火先は忽ち西北に延びて如何ともするに由なく、延焼八時間二十三戸を燒失して翌八日午前三時頃漸やく鎭火した。
字遊においては三戸から出火し、二時間延焼したが、火元だけで他に類燒を見なかつた。
字仲禪寺で三戸から發火し延燒七時間に及んだが他に類燒せす、翌八日午前二時鎭火した。
これ等の被害献況を各字別に示すと左表の如くである。
(略)
建物と動産の損害だけで、一戸平均四千參百七拾六圓に當り、死者は總人口に封する八分八厘二毛丶死傷者を通ずると一割六分七厘の大被害に當つてゐる。
公共建築物ではも島津尋常高等小學校はも本校及び第二部教室ともに全潰しも児童中にも死者二十一名、負傷者五十六名を出した。三月中休校の上、天幕及びバラック建を利用して四月一日から授業を開始した。役場と巡査駐在所共に全潰の上全燒したので、燒跡に一夜造りの不完全なバラツクを設けて、不自由を忍びつゝ村長以下役場員等悉く罹災者であるに拘はらず、寢食を忘れて一意救護事務に盡瘁したのであつたが、十月に至り假建築が出來たので移轉した。
これ等被害の四百十六世帶を職業別に見ると、農業二一六、商業二四、工業一四、機業七四、官公吏二、其他八六で、生活程度は上中層と下層とほゞ相半ばしてゐる。この中生活の維持できないもの七世帶公けの扶助を受けねばならぬもの九世帶あつた。
島溝川から網野町へ通する唯一の道路は、離湖の水面や或はその附近の田面などが、隆起又は陷沒した影響を受けて所々に崩壌陷沒の箇所を生じ、その他の各區へ通ずる道路にも遊・掛津間の田面を埋沒した、大山崩れを始め、諸所に崩壞箇所を生じたので、唯一の物資配給の機關たる自動貨車の運行意の如くならず、爲めに罹災民は一時食ふに食なく、着るに衣なき窮境に陷いつたのであつたが、これも束の間陸軍の出動各部隊中の歩兵第九聯隊、工兵第三大隊將卒の活動と、府土木課の手によつて、道路の障害除去作業を進めた結果、三月十五日頃から一通りの交通ができるやうになつた。これと共に二十日頃から軍隊の指揮に屬する貸物自動車を網野から六臺、丹後山田から二十五臺運転して、救護物資並にバラツク材料の運搬を開始し、一方においては、歩・工兵相協力してバラツク建設を急ぎ、三月中に總計四百五戸のバラツクを建設し、家なき憐れな罹災民を收容したので、村民も安堵して意氣頓に昂り、復興事業の如きも次第にその緒につくこと丶なつた。
網野へ來た救護班の中、府及び海軍、赤十字社支部、京都衞戊病院、智恩院婦人會等の各救護班は、卒先して島溝川に來援し、傷病者の診療に從事した。
一般救援隊は郡内上宇川村の青年團百三十名が、大舉して十一日に來援したのを切ッかけに、葛野・天田・船井・與謝各郡の聯合青年團又は救援隊が二十一日までの間に約五百五十名來援し、燒跡の整理、その他の救援作業に盡し、六月中にやツと整理の一段落をつけた。なほ紳戸婦人同情會が、島溝川に託児所を設置し、夜を日についで復興作業に勵まねばならぬ村の多くの親逹のために、平生足手まとゐになる子供を引き取つて一定の時間預かり置き、愛と誠を以て懇切に世話をした、その同情に厚い篤行に對しでは、村民は涙をうかべて、いついつまでも感謝して止まなかつた。  〉 














家屋倒壊(大宮町) 口大野駅前通りの惨状。
(『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも)



郷村断層の主な歴史記録

『郷土と美術』(昭和15、3)
 〈 昭和二年の北丹後地震に就て       永浜 宇平

 想ひ起す昭和二年三月七日の地震、東経百三十五度二分弱、北緯三十五度三十九分弱、恰も丹後国竹野郡郷村字郷小字樋口に大地の底(測候所の発表によれば地下三十二粁が震源とある)から震波が射出し、此所を震央として一萬粍といふ恐ろしい加速度を以て上下左右に震盪し、地裂け屋倒れ祝融の毒炎天を衝き同胞三千の生霊を冥府に奪ひ去った。真の発震時刻は私も知らぬし多くの人が記憶してをらぬだらうが、宮津の測候所の地震計に感じた時刻は十八時二十七分四十三秒五で豊岡の測候所は四十三秒八に感じたといふ。宮津から樋口までの距離約二十一粁で樋口豊岡間二十三粁強あり地震伝播の秒速波動は七粁四二だから両者の感震時刻から逆算して、震央樋口に於ける真の発震時刻は十八時二十七分四十秒七内外といふ一瞬時であったらう、一般に午後六時二十八分といふ。それが一分間の後には東は東京西は福岡、二分間にして本土四国九州は固より朝鮮全土北海道小樽に、三分間後には樺太の大泊から小笠原列島琉球諸島、四分の後には台湾まで波動が届いた。
 東京天文台昭和三年理科年表に「潰家及び焼失家屋の数並に人命の喪失大なりしこと日本海岸に起った震災の新記録でこれは震央が陸地に在ってその辺の町村は震動を感じ始めてから家屋の破壊する迄に僅か二三秒しかなかったことに起因する。この地震は大地震に伴って起る各種の現象を遺漏なく具備してをつた、例へば断層、山津波、地盤の隆起陥没、津浪等の如きがそれで、特に地震前の著しき徴候の如きは決して見逃してはならないものであった」とある。
 さてこの断層の日本で一番大きなのは明治二十四年十月二十八日に発現した濃尾烈震の根尾谷断層で、次が昭和二年の郷村断層である。この断層は前記樋口の震央から北二十度西浅茂川の十倉の海岸から、南二十度東中郡三重村字三重の大尺から鉄道線路を斜断して、小字石原参謀本部水準点第一二三四号附近まで雁行式に陸上延長十八粁、海軍海図に據れば十倉の沖合海底数粁同方向延長線上に水深の異変を示してゐる。しかしこれは海中の事とて肉眼で判らぬから措くとして陸地は、震央附近は言ふに及ばず、この沿線の山河道路宅地建物凡ての物が断層のために両断し、その西翼は跳ね上って南にずり東翼は落ち込んで北に滑り天地の段差約一米、南北の喰違ひ約三米といふ大地変が現れ、この断層延長線震央より約十四粁のあたりで千二百二十六年前、大宝元年三月二十六日東丹後凡海烈震に劈裂した古疵なる、岩屋地溝から與謝海湾を縦走する山田断層にぶち當り、此に第二の震央所謂副震央が発現し右の主断層線に殆んど直交して、西約二十度南市場村幾地より東二十度北岩瀧町郵便局裏海岸まで約七粁、この断層線は更に延長して男山三田川尻を喰ひ天橋立基部を斜断して海底遠く黒崎沖に沈んでゐる。この断層は北翼が隆起して東へ南翼が陥没して西へといふ方向に上下一米余東西六十糎といふ喰違ひを生ぜしめた。
 佐藤理学士の地質学に「一六九二年(元緑五年)六月七日西印度ジャマイカの烈震に市街に散歩してゐた人が空中に衝き上げられて海に抛り込まれた」由が書いてあって、そんな阿呆気なことがあるものかと思ったが、這般の地震に田中館学士の報文に「郷村断層線に近く朝鮮人の小屋あり其の女の子が断層西翼部に遊びゐたるに、地震と共に西翼部は押上り女の子は断層線を越へて東翼に跳ね飛ばされた」とあったので、此所へは私も往って見たが違ってゐなかつに。高橋の村外れに右の小屋があり前に府道が通じ後に小三米の崖があって上は畑で、子供が雪滑りに興じてゐたのに忽然足下に大地が裂けて、片縁衝き上げて南に逃げ、子供は跳ね飛ばされて道路に放擲されたといふ、雪の中だったからよかったものゝ、まるで蛙を抛つにやうな恰好であったらう、其の落ちた場所は陥没した方の片縁だから崖の高さと断層の天地と合せて四米に近いし、然うして北にすったのだから元の場所とは背馳してこれも三米飛んだわけである。人を抛り上げて海へはめる豈たゞジャマイカ地震のみならんやだと驚嘆せざるを得なかった。
 震災直後の橋立新聞紙上に「けふ此頃の丹後は到る所地震談に花が咲く、そして尾鰭の附いた誇張談も伴ふ、イヤ峰山の地はいきなり大地が三尺も飛び上って直ぐに家がつぶれた、逃げる間が全くなかったといふ、いやはや恐ろしい次第であるが諸君、私は右の話説を虚偽だと信じる誇張だと考へる、理由は左の通り」と云って住民の震死率を挙げて理窟を並べ「確かに逃出す時間はあった筈だ」といふ記事が出たのに対し、網野町の罹災者河田某なる人より「筆者は確かに地震に遭はなんだ人に相違ない、俺の家は大黒柱が(勿論家諸共)一間半ばかり東南に飛んでゐるが、大地が三尺位は衝き上げなかったら家が一間半も飛んで逃げる道埋がない、こんな場合に逃げる時間があればこそ、罹災何千の震死者が天地の揺すれ加減を見て太平楽を構へてゐた命知らずばかりではない、実際に体験を有たぬ者は勢ひこんな無情が迸る」といふ意味の憤慨が見えてゐた。私も罹災地域内に住する一人であるが実動の尺度は覚えてゐない。実は測候所の報文震央一萬粍以上副震央及び四辻、峰山の五千粍に対する三重、加悦二千粍といふ程度の住民だから論ずる資格がないかも知れぬ。
 併し家が三尺内外飛上ったといふことは震央副震央及び断層沿線に限るがそれは事実である。新治の吉田彌之助爺が藁を打ってゐたのに前なる大黒柱が飛上って頭を乗り越へて素頸から胴体を小田原提灯に疊んだこと、同村中村周造君の家が一米半北微東に飛んで不思議に潰れずに立てたまゝ竈が家の外になってゐたこと、高橋の池辺清治氏宅が飛上って戸尻に在った五右衛門風呂の上へ台所座敷の真中あたりが乗ってゐたこと、山田の村島仙蔵氏宅も家そのものが風呂桶を跨げて逃げたこと、同村山崎彌七郎翁の宅では最も鮮かに家が風呂桶を飛越へて夕べ家人が半ば浴ばたばかりの五右衛門が湯水を湛へたそのまゝに跡に立ってゐて、大学の先生も見舞客も流石に一驚を喫したこと、その他これに類する例證を挙げて駄作の丹後地震誌に書いて置いたから忘備録の代用になるが、之等の風呂桶は臍風呂や鉄砲風呂のやうな引くり返り易いのではなくて、尻の裾りのよい五右衛門のみであり湯水が半ば以下なら猶さら転倒しない訳も頷かれる。で、俯伏せに四つん匍の恰好の上の重たい家屋は弾みを喰って飛んで逃げても、仰向けになって雲天井のものは耐震力が前者の比でない理由も判って、これはやがて住家建築の上に考慮を払ふ価値が充分あらう。
 なほ掛津其他の山津波、網野の水田や木津の川床の隆起、小浜や上り山の陥没、海岸地帯は十四分後に津浪が襲来し、それが十四分毎の週期的に繰返して来たことなど、それに関連して学ぶべきことも多いがそれは又の機会に譲り、茲には天文台が見逃しにしてはならぬと謂つた地震前の徴候に就いて一言したい。昭和三年五月貴族院彙報今村博士の談を載せて「寛政四年十二月二十八日西津軽の鯵ケ沢で朝六ッ時に潮が五六尺引いて、斯ういふ時は津浪の恐れがあるからと山の手の方へ逃げたら昼過に大地震が起って崖が崩れ、これは叶はねと浜の方へ逃げた所へ津浪が襲来してこける焼ける怒濤に浚はれるといふ始末になった」由を伝へ、大森博士の日本地震資料に「享和二年十一月十五日に佐渡の小木港でこれも朝間潮が八九尺引いて船が膠着して弱ってゐると昼過に大地震が起り、町家が潰れて火を発し丸焼になった所へ津浪が襲来して掻つ攫へた」と見へ、東大の地震研究所彙報には「明治五年二月六日石見の浜田で夕方これも潮が六尺余り引いて海岸から二町余沖にある鶴島の根本まで海底が露出し、潮に引残されて跳ねる魚を手取りにして喜んでゐると三四十分にして大地震か突発し亜いで津浪が襲来し根こそぎ掻つ払つた」と載せてある。
 そこで昭和の丹後烈震に就て京都府測候所の北丹後地震報告に「間人町に於ては大震当日従来稀なる大干潮を来し海面一帯に海水濁流せるを認め、浅茂川は川の水一時減水河底を露出し云々」とあり、地学雑誌四六九号に東北大学田中館理学士は「浅茂川震霊前二三時間水は引き向ふに渡れる位なりき、多分三四尺引きたるならん」、また今村博士の講演にも「午後四時頃に漁師が沖から帰ってみるとふだん見ることのできね暗礁が現れてゐる、ふだんより水が四尺引いてゐた、さういふことが唯一ヶ村のみならか近所の村でもイヤ私の村は三尺であった、私の村は二尺であったとか、二時間半も前に早やさういふ変動に気づいてをったのであります」と見え、其他午後四時頃から浜詰、塩江、磯、浅茂川、掛津、遊、三津、砂方、間人等の沿岸に著しく海潮の減じた記載は中央気象台の国富技師の報文にも、海洋気象台の棚橋技師の報文にも、京大の田中理学士の報告論文にも等しく見えてゐる。
 此の時ならぬ潮が引いたといふ現象が海水自然の動揺に基くものなら、もつと廣範園に亘って気づかれなければならぬ筈であるのに、僅かに浅茂川を中心として東西数粁の沿岸だけ減潮に気づかれたといふことは、海水はやはり水平で潮が引いたと見えるのは反対にその局部の地盤が隆起して居ったことを意味するもので、最も著しく顕れた浅茂川の十倉の海岸は地震後郷村断層が海に没した地点であり、両翼なる磯海岸は八十糎の隆起を示すと反対に東翼なる掛津は二十糎の沈下を見せてゐる。これは地震以後に残った現象だが地震に先立つ二時間半、既にその徴候が顕れてゐたのにそれを地震来と予想せなかつた鈍感さを遺憾なく発揮したものに外ならぬ。今後大に学ぶぺき事であらう。
 編輯子より地震記念号に足りになる事を書けとの仰せであったが、これでは余り足りにもならなかったもう、下手長談議、若し聊かの参考にもなれば幸甚。 (をはり)  〉 


『網野町誌』
 〈 丹後地震と断層
 「どこからともなく物凄い地鳴りが間へたかと思うと、忽ちユラユラと揺れて電灯が消えた。ハツと思って無意識に外に飛び出そうと、立って一歩踏み出したが、二足目にはひどい揺り返しがきて、座敷一面は波打つよう。足をとられてその場に倒され、何もわからずボーッとしている間に畳と共に街路に放り出されていた。この間 僅かに二、三分。外に出た時にはもう町内の各戸は残らずペチャンコに押しつぶされていた。……やがて五分間もたつかと思う頃……パツと火の手が挙った。火事だと気付いた頃には早やここからもかしこからも発火して忽ち十数ヶ所の火元、又みるみる内に延焼して二四ヶ所位に拡がり、遂に全町一面の火の海となってあんな大事になってしまった」。
 昭和二年三月七日午後六時二七分に起こった丹後地震の網野町の様子である。この地震は規模の大きいことに加えて、夕食時と残雪が多かったことが、二○世紀の地震のうちでは、関東地震(大正一二年)、福井地震(昭和二三年)、三陸沖地震(昭和八年)に次ぐ大きな被害を出すことになった。(歴史編第五章第七節 丹後震災の復興参照)
 地震発生時刻  昭和二年三月七日午後六時二七分
 震源(震央)   東経一三五度一、北緯三五度六(郷付近)
   (深さ)     一○キロメートル
 マグニチュード  七・三
 初期微動時間   平均二秒八
(宮津では地震計の針がふっとび最大振幅は観測できなかった)
 丹後地震は関東地震や北但馬地震後間もなく起こったもので、調査は詳しく行われ、我が国の地震研究の進歩の足がかりをつくることになった。
 地震による被害は網野から峰山・四辻にかけて特にひどかった。大きな地震は断層と地割れを起こすことがある。この地震では浅茂川から大宮町三重まで一八キロメートルの断層(郷村断層)と野田川町岩屋から宮津市府中までの七キロメートルの断層(山田断層)を起こした。被害はこの二つの断層に沿っていたのである。郷村断層は長さ二~三キロメートルの一二の断層が雁行状に配列したもので、網野町では浅茂川・下岡・郷・生野内の四断層が認められた。
 このうち郷断層は網野駅南から郷南東丘陵までの約二キロメートルの長さをもち、郷小学校前の道路では走向N一五度W、横ずれ三・一三メートル、縦ずれ○・八メートル西おち、となっていた。京都府では地震で生じた断層について学術研究資料として、三か所を永久保存することにした。生野内・高橋・郷の断層で、郷のものは旧道を保存し、史蹟天然記念物としている。
 丹後地震後の調査では郷村断層の東側では北西、西側では南向きの水平移動と、東側では沈降し西側では隆起する垂直変位を生じ、浅茂川港や夕日港では八○センチメートルもの隆起がみられた。地下に蓄えられたエネルギー(歪)が限度に達すると地殻が破壊されてくる。丹後地震は地震後の余震調査から南北二八キロメートル、東西一二キロメートル、厚さ一五キロメートルの郷村・山田両断層より東の丹後半島全体が一つの地塊をなし、ここに蓄えられたエネルギー(佐久間ダム一年間のエネルギーに相当する)で、一瞬のうちに放出されたために起こったものである。
 断層の長さと地震の規模の間にはM=0.76logL(㎞)+6.36の関係がある。過去の断層線の長さからその時の地震の規模を推測してみると、掛津から焼却場を通り丹後町力石にのびる断層線からはM七・二、離湖から網野駅にのびるものではM六・九~七・一で、丹後地震M七・三とほぼ同じ規模のものが過去にもあったことになる。丹後半島地塊では起こりうる最大の地震の規模はM七くらいとされることから、今回の地震はその最大のものであった。
 地震の発生には周期説があるが、一般的には時間的にはランダムであり、京都府北部では現在は活動初期、大地震の直後に相当するといわれている。郷村断層を発掘してみると、ここでは数千年間は大きな地震を起こした跡がないし、仲禅寺断層では有史以来これが活動した跡がない。しかし、郷村断層では三メートルもの断層変位もあることから断層の累積とも考えられ、活動期の長い不活発断層が再活動したものといわれている。
 最近の丹後の地盤変動を水準点測量からみると(昭和二六年=一九五一~同四○年=一九六五の一四年間)、宮津は平均五センチメートル隆起(局部的に一六センチメートル沈下)、野田川約五○センチメートル隆起(所により一六センチメートル沈下)、峰山約六センチメートルの隆起がみられ、地下での活動は現在も続いている。久美浜・間人・宮津に地震計を据えての震央調査によると、最近の丹後での震央は丹後半島の付け根付近にあって郷村断層に関係するようなものは認められないようである、とされている。  〉 









関連情報



「若狭湾にも40メートル超の巨大津波があった!?」真名井神社の波せき地蔵

丹後大震災の記録(中郡編)
山田断層




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『丹後国竹野郡誌』
『網野町史』
その他たくさん



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