京都府与謝郡与謝野町上山田・下山田
京都府与謝郡野田川町上山田・下山田
京都府与謝郡山田村
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山田断層の概要
《山田断層の概要》
三月七日の夜 與謝郡山田小學校 尋六 茂籠智惠子
にはかに、地面からぐらぐらとゆするのにぴつくりして、外に飛んで出ようとする間に家はつぶれて居た。向ふの庭の方では妹のなき聲がする。
其の内に家内中みな出て線路へにげた。すると四方が皆火になつて、其の時のこはさはとても口では言へません。向ふの方でも、こちらの方でも、助けを求める聲がするし、ほんとにあの夜は氣がそにそはして物もろくに言ふことが出來なかつた。
身ぶるひはぶるぶるとして仕方がなかつた。其のうちに夜が明けかゝつた。
おなかはペコペコになるご飯をたべようとしても、のどをこさなて。悲しい事、こわい事は色々とむねにうかんでくる。
(『奥丹後大震災誌』) |
↑四辻上空より東側(山田側)を見る。
左側(北側)の山裾を山田断層が走る。広いグランドは江陽中学校で、その先の小さく見えるグランドが山田小学校。その間が水戸谷で、昭和2年の丹後地震では、ここが山田断層の震央地となった。有史以前からの何度も何度もの地震によって左側(北側)の山が隆起し作られたという。右側の平らな平地はたぶん沈み込み帯であろう。
北丹後地震(奥丹後大震災)は、昭和2(1927)年3月7日午後6時27分43秒に発生した大地震。震源が浅い直下型で、阪神大震災と同規模のマグニチュード7.3。揺れは激烈で死者は2925人、全壊家屋は5149戸。夕食時に重なって火災が多発し、6459戸が全焼した。
小さなものなら毎日のようにあるが、大地震はそうたびたびは起きない、しかし地下深くのマグマの運動によって地殻には日々巨大エネルギーが蓄え続けていて、それがやがて支えられなくなり何年かごとの周期性をもって確実にそのエネルギーの解放・破壊、地震や津波が発生するものである、大きな危険なものほど周期が長く、人間の歴史程度では知られていないものがほとんどだろう。
マグマの動きは地球が生きている限り止まることはない、地殻の厚さはせいぜい50キロばかりで、地球全体から見れば、饅頭の薄皮程度のものである。マントルの動きも知らず、地殻の構造も知らずの状態では、激流に浮かぶ薄紙の明日をも知らぬ運命、薄紙に仮に何が起こっても別に不思議ではない。
別に想定外なのではない。想定外と言うのは原発推進関係者だけであろう、想定したくないということである、想定したくないものははじめから想定しないでゼッタイアンゼンで〜す、これがクソ流ニセ学問、本当は安全な地などは日本にはなかろうと思われる。
正確には不明だが、山田断層は東西にのびる、より大きな断層帯の一部で、地図を広げて見られればわかるように、東は天橋立基部の籠神社付近から、正確にはさらに若狭湾海底部まで、たぶん冠島の南まで約20q続いていて、西側は岩滝から下山田、上山田を通り、四辻付近でやや走向を変えて、さらに東北東〜西南西方向に岩屋から、兵庫県に入って中藤断層と続いて、出石神社あたりまで、総延長は少なくとも地上部で約33kmに及び、京都府北部では最大規模の活断層系を構成しているとされる。
もしも海底部まで連動すれば、M7.7くらい、食い違い1.5メートルくらいになるのではなかろうか。
どうした関係になるのか、山田断層帯と直角になる、丹後半島沖の海底から京丹後市までの長さ約34キロの郷村断層帯も含んで構成されるという。
日本海側にはマグニチュード9などいった巨大地震はない、ないならいいが、あるはずがないと、一般にはされているが、日本海の成因やメカニズムすらも不明の状況下では、そうした勝手な予見や思い込みはしない方が正しいと思う。阪神淡路もこの前の三陸沖もまったく予知できなかった。あるはずかなかった、しかし実際にはあった。
せいぜい百年程度の地震データと仮説しかなく、それよりずっと長い周期で発生する巨大地震は予知ができない、ごく最近の地震波だけのデータでは将来何が起こるかはわからない、それ以外の記録文献をさがし地層をさぐり補いながら行くよう手はない。
最近の報道番組(16.4.3NHK)↓
ハンパでない山田断層。
ユーラシアプレートは実は一枚のプレートではなく、ガラス板が割れたように細かな「ブロック」に割れていて、その割れ目の堺目のようである。山陰大断層とでも呼んだ方がいいのかも。
地下30キロばかりまで割れている巨大割れ目で北側は東ヘ、南側は西ヘ移動を続けている。郷村断層はその共軛断層ということか。
山田断層
山田村北部を東西に走つた約五粁の線で、その中央部は城山隧道附近にあり、入ロの花崗岩断面に二條の亀裂を生じ、隧道は全体として西方に捻じられた形となつてゐる。この亀裂に沿ふて山に登ると頂上には深さ約二尺三寸の地裂を生じ、更に東に進んだ谷間の桑園にも一度中絶し、この附近から南東に迂廻して鐵道線路を横切り、桑畑に入るに及んでその地辷りも狭小となり、山田村役場及び小學校敷地を経て街道に出で尚南東方に進み、野田川兵衛門橋附近で不明となつてゐる。又隧道から西方へは祥雲寺台下に入つて墓地を過ぎ、それから峰山街道に至る間、所々に深さ三尺位ゐの地裂を生じ、街道の地面は約二尺位ゐ沈降した所もあり、祥雲寺から西方約二十間の山中にある墓地附近で南西に廻り、畑地に出で再び山中に入り、頂上に五尺の地裂を生じ、附近の墓石は裂罅内に落ち込み、西方の谷間で線は不明となつてゐる。而し封岸の山腹に山崩れあり、附近田面にも亀裂多く、四辻街道を加悦谷に入るに及んで一旦消滅してゐるが、更に市場村字飛地から岩屋村に至る三間道路は東北東から西南西に向つて約五寸の亀裂二條を生じ、岩屋村にも地変は相當に多かつた。更に上山田東方では断層線は明かでないが、地変は相當に多くて所々に亀裂を生じ、砂の噴出や崖崩れ等あり、亀裂線は野田川の北部約三十尺の水田を通り、岩瀧町石田橋附近の鐵橋約三町の下流において川を横切り、山麓に沿ふて吉津村字須津の中間道路に出で、小亀裂及び海水の噴水等あり、更に岩瀧町字男山の南方海岸に至り海に没してゐる。この附近でも田面に海水の噴出した箇所多く、砂の噴出によつて三反歩の田面が埋没した。
別に吉原村字新治北東方入ロの田圃中に現はれた新治断暦と、間人町字砂方附近に現れた延長一粁未満の断層とがあるが、前の二大断層とは比較にならぬ小さいもので、沿線の被害も亦從つて少ない。
(『奥丹後大震災誌』、(図や写真も)) |
郷村や峰山・網野の被害が大きく、その方がよく知られているが、山田断層側では、当時の市場村、山田村、岩瀧村に被害が大きかった。同文献に、
山田村
山田村は丹後山田駅の所在地で、南は宮津・舞鶴・京都に達し、北は峰山・網野に通ずる交通の要衝に當ることゝて、今次の震災では被害激甚のため、他からの救援を受けたことよりも、全般の救護に最も大切な人員と物資の輪途並に配給に対する根拠地となり、これが中継場として多大の貢献をなした点において特記すべきものがある。発震と同時に被害箇所を生じて不通となつた峰山線は、八日中は開通の運びに至らなかつたので、救護に最も敏速を要する第一日において、人員と物資の輸迭上多大なる支障を來し、救護作業の進捗に影響する所少なくなかつたが、九日午前十時からは此駅までの開通を見、宮津方面からの交通復活したので、救護作業の進展に一段の活況を呈することゝなつた。駅の所在地である字下山田と四辻方面に接する字上山田とからなる本村は、震災直前の総戸歎三百七十六戸人ロ二千六十八人を有してゐた。何分にも四辻断層と郷村断層との通過した中心地帯に属してゐることゝて、スワ地震よと云ふ間もなく、村内の家屋は悉くメチヤメチャに倒壌しつくされ、残つた家でも満足なものは殆んど無いといつた有様、倒壊後二十分間で、竈、風呂揚、火鉢、炬燵等が原因で村の要所々々から火を発し、三十分後には九ヶ所に及び、四十分も経た頃には既に二十数ケ所から発火し、特に下山田の白数長左衛門方から発した火は一挙に附近の九戸を焼き、余震瀕々たる寒き暗夜、天に沖する炎焔物凄く、村民の多くは自己や家族の避難に焦り、僅かに身を以て免るゝに急で、周章狼狽殆んど爲す所を知らず、到底消火に從事する者とてはなく、消防の活動殆んど絶無となつた爲め、紅蓮の舌は意の儘に全村を甜めつくし、只モウ燃ゆるに放任するの止むなき状態に陥いり、翌八日午前十一時まで十六時間の長きに亙り燃え続いて、遂に住宅九十七棟、其他六十八棟計百六十五棟の全焼家屋を出し、文字通りの焦熱地獄を現出するに至つたのである。山田尋常高等小學校舎も全焼の厄に遭ひ、児童中にも十四名の死者二十四名の負傷者を出した。バラツク建を急ぎ、一週間休校の上、三月十四日からバラックと野天とで授業を開始した。地続きにあつた役場も全焼し、書類中にも焼失したもの多く、早急のバラック建で、辛ふじて多忙な災後の救護事務に當ることゝなり、長島村長以下役場吏員等も殆んど全部自身又は家族の上に罹災者を出さぬ者とてはなく、疲勢困憊の身を以て、休養と安眠の暇もない程の中で、一意罹災民救護の爲めに献身的努力を払つたのは、頼もしくも亦涙ぐましい情景で長島村長は心身疲労の極、一時は精紳に異常を來したとさへ傳へられたほどである。駅の建物は破損はしたけれども、幸ひに倒潰せず、附近にある巡査駐在所は屋根瓦及び壁が墜落した外別段の損害なく執務には差支へなかつた。なほ村内にある眞言宗西光寺、臨濟宗玉田寺は共に本堂が破損傾斜し、石燈籠や附近墓地の石塔等は殆んど全部打ッ倒されたが、寺院は修理の上辛ふじて法要等に間に合せた。村社八幡神社は庫裡焼失し、本堂も亦大破した。家屋と人との被害内容につき細別すると左表の如きものである。水溜池が二ヶ所、堤防欠潰のため流失し、田畑に浸水した結果、約二町歩に土砂が入り込んだので免租地となつた。村内知名の人やその家族で犠牲になつたのは、村會議員井田定右衛門重傷後死亡、村會議員時武勘助重傷、同家族長男寛和圧死、村會議員小長谷廣藏孫初枝圧死、同竹林政治負傷、同牛田徳之助母つね、妻ちゑ、二女稻子三男山治の四名圧死。の如くである。なほ村内全部の被害者三百五十三世帯を職業別に見ると、農業一五四、商業五〇、工業一六、機業八四、官公吏三、其他四六で、殆んど大部分は中流の生活を営み、生計維持できないものと、扶助を要すのものと各一名づつを出したに過ぎぬ。発震當夜罹災民の多くは、自宅附近の空地に焼残りの板片等を集め一時的の藁小屋を設けて避難し、恐怖の第一夜を明したが、その夜逸早く救援に來着したのは、宮津湾碇舶中の駆逐艦乗組水兵隊約四十名で、宮津署派遣の警官隊と協力して、人命救助に努め、倒潰家屋の下敷となつた瀕死の状態にある十数名を救助するなど、盛んな活躍を続けた、翌八日午前零時に至り、舞鶴署巡査六名來援、午後は伏見署から六名、堀川署から十六名來援し、消防に尽力した。続いて午前八時には上宮津消防組三十名來援し、防火や死軆堀出し及び道路に倒潰した家屋の取除作業に從事した。越えて十五日には、大阪府高槻の工兵大隊が九十三名來援し、その他の軍隊と協力してバラツク建設に當り、他の青年団・軍入會・消防組等は郡内の被害少なかつた諸村から七団体、他郡から十三団体、他府縣から七団体相前後して続々來援し、負傷者の救護、焼跡の整理取片付け物資の輸迭配給等の作業に當り、家を失つた罹災民を差当たり収容するバラツクを総計百九十八戸建設し、二ヶ月後の五月中旬頃に至つて、大体の応急的整理は完了したのであつた。 |
市場村
震災に亜ぐに火災を以てし、現住人ロに封する一割一分四厘の死者を出した市揚村は、山田村・岩瀧町と共に與謝郡内における被害の中心地と目されてゐる。南は加悦街道に、東は山田を経て岩瀧へ、西は中郡へ達する國道の接合する要衝に當り、その名も四辻で知られた縮緬機業の殷盛地で、大機業工場・商戸軒を並べてゐただけに、発震に続いて一時間内に四十箇所から発した火焔は、忽ちにして全区に延焼し、燃え盛る劫火は手のつけやうもなく、三時間の後には、殆んど大部分全壊してゐた家屋の半部は、見るも無残な灰燼に帰し、延焼實に十五時間の長きに及び、翌午前十時に至つて漸く鎭火した。少し離れた中郡常吉街道に沿ふた幾地区も亦同様の運命に陥いつた。
かくて震前の現住戸籔三百五十八戸中、百六十五戸(此棟数百九十四棟)を焼失し、百三十六戸(棟数百八十棟)は全壊し、僅かに残された五十七戸さへも多くは半壊の有様で、結局完全な家は一戸も無いといふ程に惨虐の魔手に攪はれたのである。住家が斯くの如き状態であるから、人命に關する犠牲も自然大ならざるを得ない。総人口千六百六十六人中、圧死及焼死したる者百九十一人を数へ、この外に重傷者は六十七人、輕傷者は七十四人に及び、総人口に封する死傷者の割合は、まさに二割の多きに達するのは、何としてもむごたらしい自然の
悪戯と云はねばならぬ。今死者を大字別にし、更に性別に示すと左の如くである。
大字別 男 女 計
四辻区 四四人 五八人 一〇七人
幾地区 四三 四六 九四
合 計 八七 一〇四 一九一
内戸主の死亡者二十五人に及んでゐる。重傷者には不具者となつたもの、精神に異状を來した者などもある。
全焼・全壊等その他被害を蒙つた重なる建物を挙けて見ると、左の如くである。役場・小學校は共に全焼したが、幸ひに焼失を免がれた。四辻郵便局と宮津銀行支店及び丹後商工銀行支店は共に全焼し、社寺では深田・八幡両神社共に半壊、養源院は全焼し、宝泉寺は全壊した。その他機業工場中工場法滴用の七工揚が全焼した。
當時遭難者の談によると、ソラ地震だ!と感知した時には、早くも家屋はベチヤンコに押ん潰され、身は既に棟木などの下敷となつてゐた。幸ひ傍に支へる物があつた爲め身軆の自由を得たので、屋根の一部を破つて屋上に逃れて出た、その時には既に四辻駅が眞先に火を発し、続いて四辻区内は十数ケ所から発火し、四方八方から救助を乞ふ悲鳴のみが、暗を染める紅蓮の焔の中に響いて物凄く、哀絶言ふべくもない。こんな有様で消防手として出場するものは一人だもなく、ガソリン?筒、その他の消防器具等は格納庫破壊のためその中に埋まつて容易に取り出すこと能はず、震後一時間内に約四十ケ所から火災を起し、これ等の火先きと火先きが渦をなして区内全部に延焼し、瞬く間に四辻区は全滅してしまった。かくて罹災民は小學校の敷地や道路端又は畑地等に各自蓆囲ひの藁小屋を作り、一時はこれに避難してゐた村内の官公吏や議員其他の名士にして圧死又は負傷したものは、村會議員坂根誠一郎及同妻並に五女美津子の三名、村會議員坂根安四郎同妻ふじ、村會議員坂根織藏及長男英夫次男榮一長女君子。
罹災の中心地だけに、府の救護宮津出張所からは、特に平尾属・辻田視學を救護監督として同地に派遣滞在せしめた。救護事務所は役場全壊のために天幕張りを設けたが、狭隘で不便甚しく、十三日からバラツクを建設して之に移つた。山本村長以下各役場員は何れも家屋の倒潰全焼に遭ひ。妻子を失つた人もあるが、幸ひにして身軆上の被害がなかつた爲め、一同一身を犠牲にして蓮日救護事務に當つた。
食糧品の配給も、災後五日目の十二日頃には未だ充分でなく、炊出しの握り飯は一回一人に一箇宛しか当らない、副食物も漬物や梅干の外には何もなく、十一日に堅パン二箱の供給を受けたのみであつた。而し十四日頃からは府の供給物資も漸やく要求を満たし得る状態に達し、この日から炊出の供給を廃して現品給與に改めたが、各避難所においても不完全ながら炊事し得られるやうになつた。十五日には食糧の給與を要する人員約千二百人で、之に封し一人三合宛の白米と簡単な副食物を給與してゐた。
府計画のバラックは、十三日役場事務所二棟が完了したのを手始めに、漸次一般的の建設を進め、豫定の百戸分中約二十戸分は學校の屋外運動場に、残りは村営の分と共に四辻・幾地両区に漸次建設を行つたのである。
十六日に至り役場用電話の開通を見、宮津町及び村内一部との直通を開始した。この頃から漸次秩序回復し、救護事務も漸次自治的組織的に進捗する程度に達した。
なほ応援員救援団等の最初に到着した日時団名員数並に活動の概況を示すと左の如くである。
三月八日午前八時福知山二十聯隊救護班十五名到着負傷者の手當運搬等に從事、九日午後二時から與謝郡與謝村在郷軍人分會員十五名消防組員廿五名來援道路に倒壊せる家屋の取片附け及當日強雨の爲め氾濫せる河水の排泄をなす。同時刻から兵庫縣出石郡資母村消防組員十名來援右同様從事、同日上川口村消防隊四十名来援死軆発掘に從事、同日午後四時赤十字社兵庫支部から医師看護婦七名到着負傷者診療、十日午前十時より赤十字社滋賀支部より医師看護婦十名出張右同様治療に從事、同十時十分兵庫縣出石郡資母村消防組員五十名來援道路整理をなす、同十時二十分新舞鶴軍人分會員及青年團員二十七名來援同上。
右は何れも無報酬を以て各自弁当携帯奉仕したものである、家屋の被害及死傷者の内容を示すと左の如くである。(略) |
岩瀧村
岩瀧町は與謝郡の中部に位し、天橋立を境界とした以西の入海を隔てゝ吉津村と相封し、郡の東北部及び奥三郡へ達する交通の要路に當り、古來縮緬の生産地として知られてゐる。東から西に貫通した所謂四辻断層(中村教授命名)線に沿ふた一帯の地とて、その震度も激しく家屋の倒壊算なく、搗てゝ加へて火災を以てしたので、その惨状言語に絶するものがあつた。
最初発震後間もない六時四十分頃、東の府中村に近い字男山の農家から二ヶ所火を発して全焼したが、これは防火湊効して二戸限りで喰ひ止めた。引続き西の山田村に近い字弓木でも亦二ケ所から発火し縮緬工場一棟を全焼し、民家一戸を半焼したが、これ又消防奏効して延焼を防ぎ得た。然るに中央の字岩瀧は家屋も密集してゐることゝて倒潰後間もなく町内の六ヶ所から発火して次第に燃え広がり、内二ヶ所は消防隊・青年團等の協力で、直ちに消し止めたが、他の四ケ所から起つた猛烈な紅蓮の炎は必死の消防隊の活動も力及ばず、町内全体に延焼して、遂に住宅三十四棟、其他三十九棟、計七十三棟を全焼し、目貫の場所を烏有に帰せしめるに至つたのである。
多くの火元中延焼の模様を調べて見ると、発震後約三十分間に十七箇所から火の手が挙つた。発火原因は竈五、火鉢四、風呂場四、工場の火鉢で、中に特に大火となつたのは、
一、機業矢野梅吉方から午後七時三十分頃竈の火が原因で発火したものは、附近十戸に延焼して翌曉午前三時頃鎭火した。
二、ブリキ職安見儀平方から午後九時頃、風呂場の火が原因で発火したものは十一戸を焼き払ひ、翌曉午前三時に漸く鎭火した。
一、かしわや田中幅藏方から火鉢が原因で発火したものは、附近十戸を焼失して翌午前三時に鎭火した。
かくて全部の鎭火を見たのは翌朝八時頃で、延焼時間は十三時間の長きに及んだ。
激震と猛火全町を襲ふた呪ひのその夜! 全町四千の住民は右往左往に逃げまどひ、助けを求める悲鳴と、肉親を呼ぶ號泣と、ツイ今の今まで平和の樂郷であつた静けき地方の都邑も、忽ちにして阿鼻叫喚の大修羅場を現出した。この時逸早く救援に駆けつけた水兵隊三十名や宮津町から來た医師三名の手によつて、負傷者に封する応急手當は施こされ、屈強な青年團員や、軍人會員の救援によつて、住民の多くは一先づ小學校庭や、各区會堂の廣場、その他の室地へ避難し、こゝかしこに屯して恐怖と戦慄の一夜を明かしたのである。
役場の建物は大破損を來したけれども、幸ひに倒潰を免がれたので翌八日早朝から救護事務所を設け、医師二名と看護婦三名の救護班を組織して卒先到着した府医師會派遣隊の手によつて假病院を開設して傷病者の治療を開始し、糸井町長以下町吏員等参集して、救援事務の指揮に當つたが、役場書記白数吉藏は祖母とみと共に自宅にあつて倒潰家屋の下敷となり、無残な圧死を遂げた。小學校は全壊して用をなさず十日間休校の間に、一部残りの建物に大修理を加へ、急造のバラツク建を利用して三月十六日から授業を開始した。巡査駐在所は屋根瓦と壁とが落ちて破損はしたが割合に輕微であつた。町内にある郷社八幡神社は本殿半壊となつたが、所蔵の國寳には異状はなかつた。
地震後に打続いて豪雨の爲めに、字岩瀧海岸に沿ふた耕地に大陥没を生じ、その當時は野田川岩瀧橋以西、同町に達するまでの路面に約一尺五寸の浸水あり、田面約五町歩は、災後数ヶ月後もなほ浸水し、植付は不能に了り、全く不毛地となつてしまつた。
かくて惨害を逞ふした同町の被害家屋と死傷者の内容を細別して表示すると左の如くである。
住宅家屋被害調査表(略)
死傷者数調査表
字名 性別 死者 重傷者 軽傷者 計
弓木 男 六 四 八 一八
女 一一 一二 一一 三八
男山 男 二 一 三 六.
女 六 二 三 一一
岩瀧 男 二五 一六 二一 六二
女 四一 三一 三二 一〇四
計 男 三三 二一 三二 八六
女 五八 四五 四六 一四九
合計 九一 六六 七八 二三五
右表による総損害高貳百五拾六萬参千七百参拾圓を総戸数八百十三戸に割当てると、一戸平均参千百五拾五園の大損害を受けたことになり、人の方では総人口三千九百五十八人の中、死者と重輕傷者を通じて二百三十五名を出してゐるから、これは総人口に封する約六分の被害に當つてゐる。
更に被害世帯七百六十七を職業別に見ると農業二一一、商業一一一、工業六九、機業一四四、官公吏八、雑業其他労賃業者等二二四といふ割合で、生活の程度は下層者の方が比較的多く、生活維持困難の者公けの扶助を要する者各一名づつを出した。
被害激震地を通じて、同町は地理上宮津方面から來る第一の關門に当つてゐるので、宮津湾碇舶駆逐艦から水兵隊が逸早く來着して防火及び人命救助に當つたのを手始めとし、郡内では宮津町を始め、栗田・日置・世屋・府中・上宮津・吉津・與謝・伊根等の近郷各村から、青年團員や、軍人會員消防組等が、先を争ふて駆けつけ、競争的に救援作業に當つた外、新舞鶴・幅知山の両町加佐・何鹿・中・葛野等各郡内の諸村並に京都市等から聯合青年團や其他の救援団体が約三十団体の多きに及んで、直後から四月上旬までの間毎日の如く相前後して來援し、小學校を始め倒潰家屋の跡片付け、道路及び水路の交通排水整理、死体発掘物資の蓮搬と配給、バラツク二百二十二戸を建築する材料の運搬等萬般の救援作業に當り最も熱心にこれが進捗と遽行に努めたので、さしもに混乱を極めた町の災後処置も、三ケ月餘を経た六月中旬頃には大体一段落を告げたのであつた。 |
『岩瀧町誌』
地震 史上記録されている我国の主な地震は、大和朝時代に十八回、平安朝初期に二十四回、同中期に二十二回、同末期に二十回、鎌倉時代に四十九回、南北朝時代に三十五回、室町時代に五十二回、戦国時代に八十一回江戸時代初期に六十二回、同中期、七十一回同末期に四十回、明治以後昭和二年の丹後大震災までに三十三回、合計五百七回、このうち府下に発生したもの実に二百六十四回、特に我が岩滝町に関係の深いものは次の如くである。
天武天皇 白鳳四年(六七五)十一月 丹波大地震
文武天皇 大宝元年(七〇一)三月二十六日 丹波大地震
朱雀天皇 承平七年(九三七)四月十五日 丹後大地震
後一条天皇 治安二年(一〇二二)三月四日 丹後地震
後土御門天皇 明応五年(一四九六)五月十一日
八月二十五日 丹後大地震
後西院天皇 万治三年(一六六〇)正月四日 丹後大地震
仝 寛文二年(一六六二)五月一日 丹後大地震
後桃園天皇 安永三年(一七七四)十二月十一日 丹後地震
孝明天皇 弘化四年(一八四七)正月十三日 丹後地震
今上天皇 昭和二年(一九二七)三月七日 丹後大地震
これらの大地震についてはなんらの文献も見当らないので規模、被害等知る由もないが、大宝元年の大地震は三日間も止まず、加佐郡の大半が滄海となり、現在の冠島、沓島はその時に陥没した陸地に取り残された高山の二峰であると伝えられ、寛文二年の大地震は京都で倒潰家屋一千、死者二百、近郊では潰れたり、焼けたりした家三千、死者が六百であったといわれている。このことから当町でも相当の被害があったものと推察される。最も記録の新しいものは、昭和二年奥丹後大震災であり、その概略は次の如くである。
昭和二年三月七日(一九二七)午後六時二十八分、突如奥丹を中心に震度六を記録する激震が発生し、岩滝町も多大の被害をこうむった。特に石田木積神社東方の地が激しく、山崩れ数十ケ所、土地の隆起陥没はその数を知ら
ず、山では頂上が三メートル低下し、亀裂を生じた所数百ケ所、中には延々百メートルに及ぶものもあり、耕地の地形は東方に傾き、久保谷川の如きは平素の五倍も水量を増し、反面宮ケ谷川、新宮川は全く涸渇した。石田に次いで被害の大きかったのは弓木であった。山崩れ、亀裂等各所に生じ中でも大内峠から一本松に至る二キロメートル余の亀裂はその代表的なものである。
又、各谷川は三割程度増水し、野田は沈下し、各地に水が吹き出し、又一方家滝(現農産物流通センター西南七〇メートル)の田面からは二十八度の温湯が吹きあがった。
このほか、野田約十町歩(十ヘクタール)(弓木分も含む)、男山海岸地帯約四町歩(四ヘクタール)が陥没し、岩瀧では約二町歩(二ヘクタール)の山崩があった。また多数の重軽傷者を出し、多くの尊い人命を失った。
特に家屋の被害は甚大で全焼、全壊、半壊その他を合わせると実に全家屋の六分の五に及び織物業は壊滅的損害をうけた。
小学校は本館、体育館を残し全部倒潰したが授業時間外であったため児童は難をまぬがれることができた。
激震直後倒伏家屋より出火、被災地一帯は各所に火災が発生したが消防団員の必死の消火活動により大惨事を未然に防止し得たことは倖であり、住民の消防団に対する信頼の念は当時絶大なものがあった。
鳥居、灯籠、記念碑、墓の類はすべて倒伏した。 |
地震の間隔
675 |
|
701 |
26 |
937 |
236 |
1022 |
85 |
1496 |
474 |
1660 |
164 |
1662 |
2 |
1774 |
112 |
1847 |
73 |
1927 |
80 |
20 ? |
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上の『岩滝町誌』のデータから大地震の起きる周期を計算してみる。全部の過去の地震記録が残っているのか、震源地は丹後かなどは不明だが、たとえば『兼見卿記』の天正13年(1585)津波地震の記録がこれにはないようである、
廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦辺波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、江州・勢州以外人死云々…
これも含めて見てみれば、ここ五百年はがりの最近の地震の周期は百年とは離れていないよう、そうだとすれば、今年(2012)で85年になり、次はもう間近なのかも、と一応の覚悟が必要な時期になったよう…
…記録によれば、地震の瞬間、舞鶴では大砲のような地響きがとどろき、京都の嵯峨では汽車が鉄橋を渡るときのような音がしたそうです。また、遠く新潟や鹿児島でも体に感ずるほどでした。当時の京都測候所や神戸海洋気象台の地震計はふれすぎて、針がふっ飛んでしまいました。通信網もとだえ、震源地や被害状況についての情報は当初かなり混乱しました。
やがて、通信網の回複とともに、震源地が網野町高橋、(当時の郷村高橋地区)の地下約三十キロメートルであること、丹後四郡の死者が三千人近いことがわかってきました。とくに峰山、網野は筆舌に尽せぬ惨状で、峰山では当時の町民約四五〇〇人のうち約一千人が家の下敷きになったり火災のために亡くなられたのです。これは二十世紀の地震のうちでは、被害の大きさでは関東地震(大正十二年)、福井地震(昭和二十三年)、三陸沖地震(昭和八年)に次ぐものです。しかし、およそ半世紀たった今、私たちの郷土でおこったこの大事件を、果して何人の人が知っているでしょうか。
引きさかれた大地
地震の混乱の中で調査活動が開始されました。アメのように曲がった線路、横転する列車、縦横に走る亀裂の状態が次々と明らかになり、すさまじい大地の動きがあったことがわかってきました。とくに網野町下岡から郷、さらに峰山と、六キロ以上にわたって土地のくい違いができており、最も被害の大きかった郷村の名前をとって郷村(ごうむら)断層と名づけられました。また下山田から野田川町四辻、そして岩滝方面につづく土地のくい違いも発見され、山田断層と名づけられました。
郷村断層によって、郷小学校や郷村役場のあたりでは六十センチから九十センチの段差ができましたが、それにも増して大きかったのは水平のずれでした。実に三メートルの横ずれが生じたのです。そのため、郷村役場前にあった泉さんのお宅などは斜めに引きちぎられてしまったのです。その後の調査で、この郷村断層に沿って、丹後半島全体が北西、つまり日本海側に動き、断層の西側は南に移動したこともわかってきました。
「動かざること大地の如し」という言葉とはうらはらに、一瞬のうちに大地を引きちぎってしまう地震。北丹後地震の力は、佐久間ダム級の大発電所が一年間に起こすエネルギーを一度に放出したものに相当するといわれます。こんな大きな力が、いったいどこに貯えられていたのでしょうか。
大地震のあとで起こる小さな地震を余震とよんでいます。北丹後地震の余震は丹後半島全域(南北二十八キロメートル、東西十二キロメートル)で起こりました。ということは、少くともそれだけの地塊に巨大な力が加わって、地下の岩石を押しっぶし、そのショックが波となって地表に伝わったといえるでしょう。それはちょうど、消しゴムを力一ぱい押しつけると、ある限界に達したとき消しゴムがぼっくりと割れてしまうのに似ています。丹後半高の地下にも、地塊を押しつけるような何らかの力が働いていたに違いありません。
精密な測定によって、丹後では最近十四年間に宮津で五センチ、峰山で六センチ、野田川町のある地点では五十センチも土地が隆起していることがわかりました。これは丹後半島全体が今もなお、ゆっくりと運動していることを示しています。最近、大きな地震こそ起っていませんが、小さな地震は郷村断層や山田断層にそって起っているのです。
記録によれば、大宝元年(七〇一年)に起った大地震は加佐郡の一ケ村を海中に沈め、残った山の頂が冠島と沓島といわれます。その真偽はともかく、大地震が過去に何回か起ったことは事実です。さらに何百万年、何千万年前の地質時代に大地震があったことも、地層に残されている断層などから推定されます。
(『京都五億年の旅』) |
丹後大地震と野田川町
昭和二年(一九二七)三月七日午後六時二十七分四十三秒、大概の家庭では夕食の膳に着くか、またその準備中であった。この年後れて降雪があり、地上三十〜四十センチくらいあり、近くの各測候所の地震計は、余りの強震にその役を果たさず、震源地は山陰東部ともいい、三重県鈴鹿山方面ともいい、若狭湾との見当がついたのは、ずっと後からのことであった。網野、峰山、加悦谷方面の惨状が伝えられるに従って、徐々に震央も竹野郡の郷付近と決定された。
竹野郡郷村付近とした震央は、その深さ三十二キロの地下と計算され、京大の調査隊によって…
と言われる山田断層が発見された。この地震は、直動、旋回性のものであると記録されているが、事実、家の土台が庭の風呂桶を何の損なうこともなく飛び越えて向うの方へ行っていたともいい、家屋がピンピンと飛んで一メートルも違う方へ行って、傾いたり、倒れたりしていたと伝えられる。墓石や鳥居、記念碑のあるものは、左回転して倒れたり、危く倒れかかったり、いかにその震度が激しかったかを想像することができる。さらに加えて、直後の九日大雨となり、雲解け水と雨水とで洪水となり、倒壊した家屋で、川をせき止められて、所によっては水深、膝を没するところがあった。地面は、電線その他の破片が充満し、歩くことすらも困難となり、被災者救出に難渋した。余震は引っ切りなしに起こり、「世直り、世直り(咒言)」の声が各避難所から聞えた。遠くで焼残っている金物の出す光でもあろうか、青い光が、パッハ、ボヨボヨとあがっていた。やっと倒壊を免れた家は、余震のたびにガラガラと倒れた。地獄とかいう所はこんなものであろうかと思わせる。実に惨たんたるものであった。以下は「丹後地震誌」に記載されている事実の一部である。「山田断層は峰山街道に於て著しく現われ、横づれ八十センチ、段違い四十センチに及んでいる。(中略)此断層西方四辻付近にも著しく現われ、また峰山街道の東、城山の鉄道トンネルの南口に於て花崗岩を貫通し、東方男山渡場辺に於いて土地の著しき沈下として現われている。概して西微南から東微北の方向を取り延長十四キロに及んでいるから其の規模に於いて郷村断層につぐべきものである。」
その被害の状態を見るに、山田村は、わずか五戸を残して全部焼失してしまったが、残った家も使用し得るものなく、全滅といってよいほど被害甚大であった。ただ、山田村の発電所の鉄筋コンクリートの建物は、わずかに家らしい形を残していたが、西側は全部破壊されていた。下山田の山手にある人家の間の二間幅の道路には、非常に大きい地割れができ、幅九十センチ、深さ二・七メートル、長さ二百五十メートルぐらいで東北に走向していた。この地割れは、雨水が流れ込んだあとなので、直後にはそれ以上の深さを持っていたものと思われる。下山田大清水の東方五、六十メートルの辺で、牛をはめ込んで困難したことが伝えられている。鉄道踏切りの北側の地割れでは、立ててある稲架は、土地が竪木穴から引裂けて幅十センチ、五メートルほどもある割目の中に宙吊の珍芸当をやったところもある。城山トソネル内部は、局部的に食違いを生じ、南北両出口に著しく、コソクリートの壁は、いずれも南側は北側より西へ水平に移動し、両入口は亀裂を生じていた。上山田の愛宕神社、秋葉神社、鎮守苦無神社も転覆した。野田川畔に近いところ、山田駅構内付近では噴水し、高くは一丈余、彼方此方に消防演習の放水のような様相を見せ、恐怖とも何ともいい得ぬ奇観を呈した。村役場、小学校もこのとぎ灰じんに帰した。
(『野田川町誌』) |
山田断層の主な歴史記録
特に山田村の人的被害が大きかったわけではないが、山田断層と村名が冠されて呼ばれるので、ここでは取り上げてみる。当時の山田村の人口は、二、〇五〇名。死者一四一。重傷九三。軽傷一〇九で、それでも死傷者の比率は一六・九八%であったという。西隣の市場村はその2倍の比率であった。
『奥丹後大震災誌』より
地震直後の山田村の写真資料
鉄道線路の被害 鉄道線路の被害
上:山田駅以西城山付近 上:山田駅付近の線路傾斜
下:山田駅遠方信号の附近 下:同上
惨憺たる倒壊家屋
上:山田駅前 上:山田駅付近
下:同上 下:一家六名圧死した山田村 氏 の家屋
惨憺たる倒壊家屋 焼燼の跡
上:上山田 上:上山田
下:下山田 下:下山田
我家の燃え落ちたのを眺めつつ(上:上山田)
雪中に蒲団を敷いて(同上)
被災地視察(岩滝町) 町長を先頭に皇宮より視察に訪れた侍従が被災地を行く。
(『舞鶴・宮津・丹後の100年』より キャプションも)
『福井校百年史』(舞鶴市上福井の小学校)
笑えぬ喜劇
中瀬一男
…昭和二年奥丹後大震災後のエピソートである。子供心に一番恐怖をいだいた大震災の想い出は、今だに忘れることが出来ない。夕方の事である、ゴーと云う音と共にグラグラと家が揺れ始めた。夢中で外へ飛び出したが歩くことが出来ず、道路の真中でしゃがみこんでいると、電線がゆれてヂャンヂャンと大きな音がしていたのをおぼえている。日が暮れて暗くなってくると建部山から喜多村の山の向うが真赤に染って見え出した。宮津方面が大火事だと云うニュースが出ていた。夜になっても余震が何回となくやって来るので、一晩中眠れなかった。他所では家は危険なので、外にむしろを張って、焚火をして一夜を明かした人達も多かったと聞いている。親達は毎日交代で四所駅から汽車で奥丹まで救援に出掛けて行った。雪の下で倒れた家屋の始末をするのは大変だったろうと思う。 |
『奥丹後大震災誌』
山田村
責任感念の強い村長さん
人間のほんとうの偉さは非常時によく現はれます。三月七日の大地震に不幸にも山田村は小學校役揚を始め村中の家といふ家は一軒も残さず倒されたり焼かれたりして全滅致しました。死者がこの小さな村で百四十餘人員傷者の数は調べがつかぬ程有りました。断層や亀裂、山崩れが多くて稻作の出來ない田も澤山出來ました。この不仕合な村の全責任を背負つて復興に家も身も忘れて骨折つてゐられるのは長島村長さんです。
地震の時に村長さんは役場から出て帰路につかれた所でした恐ろしい震動と同時に路傍に投倒された村長さんは自宅や家族の安否も氣づかはれたでせうが、それらの一切を打忘れて役場へ引返されました。その時役場は既に火災を起してゐました。村長さんは火の雨を浴びながら、下敷になつてゐる二人の小使を助け出されました。火は益々猛り狂つて役場を焼き尽し、學校に延焼致しました。然し村の人々は誰一人として來て呉れるものは有りませんでした。それもその筈です、全村丸潰れになつてゐるのですもの。
村長さんはその晩から、村中を駈け廻つて、死者を調べたり、負傷者を見舞つたり、罹災者を慰められました。間もなく他の町村から救援に続々と多数の人々が見えますので。村長さんは之が応接に日も夜も足らなかつたのです。
こんな有様で殆んど一週間は不眠不休で活動を続けられました。「ゆつくりお休みなさい」と幾らすゝめても「村民のことが氣にかゝる」といつて少しも眠られません。村長さんのお宅は丸焼けになつた上に死んだ人や重傷者が有りますのに一度もお帰りにはなりませんでした。そんな暇がない程役場は忙しかつたのです。その時でした「長島村長職務繁忙の爲発狂す」といふ様な記事が新聞に出ましたのは、然し今はもうすつかり回復されて相変らず村の復興に努力してゐられます山田村はこの村長さんのお蔭で大さう元氣づいて着々復興して参ります。「私事を以て公事を棄てず」といふことも平時にはそれ程困難ではありませんが、一朝非常時に際して長島村長さんの様に公私の別を明かにすることは容易でないと思ひます。
村長さんは小さい時から學問が好きで村中での読書家ですが青年の頃人生とは何かといつた様な問題に非常な悩みを持ち煩悶の末信仰に生きるの道を悟り深く佛教(禅)の研究を進められて奥底の知れぬ深さを持つた方です、この修養が今度の変時にあの沈勇を生みあの働きを爲さしめたことゝ思ひます。(山田尋常高等小學校長瀧本伊十次氏記)
編者曰、村長長島嗣右衛門氏(四七)に、その後健康が許さぬので村民愛惜の中に辞職した、家庭に妻りよ(四七)の外、先妻の中に出來た長男両太郎(三七)、二男誠治郎(三五)と四男薫(三〇)、六男八郎(十四)があり、長男妻みゑ(三〇)、二男妻つよ子(二九)、同長男両一郎(二)の中つよ子のみは震災で死んだ。 |
偉い首長さんにケチつける気はまったくないが、断層がまったく保存されていない、震災資料館のようなものもない、これではまもなく忘れてしまい、またもや被害甚大となりはしないかと心配したりする。
関連情報
「郷村断層」
「若狭湾にも40メートル超の巨大津波があった!?」真名井神社の波せき地蔵
「丹後大震災の記録(中郡編)」
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