丹後の地名

船木(ふなき)
京丹後市弥栄町船木


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京都府京丹後市弥栄町船木

京都府竹野郡弥栄町船木

京都府竹野郡
弥栄村船木

京都府竹野郡深田村船木

船木の概要


《船木の概要》



『丹後国風土記』の、
竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善きをば奈具志と云ふ。」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。
とある、その船木の里、奈具の村のあったところ。奈具村は今はないが、奈具遺跡などの地だろうか。嘉吉3年(1443)9月の奥丹後豪雨の被害で、一村みな流失した船木庄内の奈具村の地で、亡村となり生き残った住民は隣村の溝谷村と外村へ避難移住したと伝えている。竹野川右岸の支流奈具川上流の谷に集落が立地。川沿いに水田があるほかは山林地帯。川沿いの林道が小金山(416m)に通じる。

古代の舟木郷で、奈良期に見える郷名。この郷名は『和名抄』には見えないが、平城宮跡出土木簡に「丹後国竹野郡舟木郷 生部須□□ 斗」と見える。また「丹後国風土記」逸文奈具社条に、上記のように見える。

中世の船木荘で、平安末期~戦国期に見える荘園名で、「玉葉」承安3年「一 女院御領舟木庄役夫工事、如何」となどと見える。
「丹後国田数帳」には「一 船木庄 八十二町七段百卅七歩内」。荘域は未詳、伊根町妙光寺の鐘の銘に「丹後国与佐郡九世戸 天橋山智恩禅寺常住 本願舟木庄溝谷 常金禅門……于時天文廿三年〈甲寅〉六月廿八日」とあり(日本古鐘銘集成)、少なくとも船木・溝谷を含む地域であったろうとされる。奈具村は慶長検地郷村帳以下にも村名はみえず、村を出た人々は帰村しても船木村に吸収されたのであろうという。
近世の船木村。江戸期~明治22年の村名。はじめ宮津藩領、のち幕府領久美浜代官所支配。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年深田村の大字となる。
近代の船木は、明治22年~現在の大字名。はじめ深田村、昭和8年弥栄村、同30年からは弥栄町の大字。平成16年から京丹後市の大字。

「室尾山観音寺神名帳」の「竹野郡五十八前」に、
正四位下 船木明神
が見える。
船木(舟木)は全国あちこちに見られる地名であり、氏族名である。
船木郷(安芸国安芸郡)(訓注・布奈木)
船木郷(安芸国高田郡)(訓注・布奈木)
船木郷(安芸国沼田郡)(訓注・布奈木)
船木郷(遠江国榛原郷)(訓注・布奈木)
船木郷(下総国海上郡)
船木郷(近江国蒲生郡)
船城郷(丹波国氷上郡)(訓注・布奈支、布奈木))
船木郷(尾張国山田郡)
船木郷(美濃国本巣郡)
造船に関わる職掌に由来すると、フツーは考えられている。
船来と書いたりする、船で来たという意味もあろうか、日本人のすべてが船で来た者の末裔なのだが、渡来系か、それとも海人系か、名乗り方からみれば渡来系氏族のように思われる。船型埴輪(ニゴレ古墳出土)
木さえあれば、船が作れるわけではなく、鉄がいるし、船大工がいる。だいたい近くに鉄があるはず、ここでも竹野川本流を挟んだ向かいは鳥取で遠所製鉄遺跡があり、そこのニゴレ古墳からは船型埴輪が出土している。奈具では水晶玉が生産されていた。時代がピタッとは合わないかも知れないが、みな関係しているものと思われる。玉を持って行き先は伽耶か新羅か。造船業は今ではローテクのようになっているが、かつては最先端ハイテク技術であった。古代その生産交易の基地は丹後ではこのあたりにあったのかも知れない、舞鶴造船業の遠い先輩の地ではなかろうか。
ちなみに、海水面を15メートルあげたときの地図↓
弥生・古墳時代はこうした海岸線であったかも知れない。黒部の式内社・深田部神社の伝えでは、「昔当地は海原であったが漸く潮水引き其の跡深き沼田となった」とある。『カシミール3D』の作図↓でもそうだっただろうと考えられる。

こうした今では想像もできない大きな潟湖が丹後にはあちこちにあった。これが古代丹後を輝かせた大きな地理的要因であろうかと思う。「海の京都」とか何か宣伝して観光客を呼び込み大儲けをたくらむということらしいが、どうせ大失敗ではなかろうか、京都に海があるか、馬鹿馬鹿しい、全世界が笑うぞ、言うなら「海の丹後」だろが、やる気なしのゴマカシの官僚さんあたりにそんなことができるわけがない。つまらぬことにゼーキンをほかすくらいなら、こうした調査をしっかりやって当時の海岸線でも復元してくれ。


《船木の人口・世帯数》 105・33


《主な社寺など》
船木家谷遺跡
奈具川上流に山の神・経ヶ丘の2古墳と石室。


奈具神社
奈具神社(舟木)
奈具社は現在は船木に鎮座するが、その旧地は舟木里奈具村で、その奈具村は中世の大洪水によってことごとく流失したと伝え、遺跡地は未詳とされている。奈具遺跡などの地で船木谷下流の谷口になる地ではなかろうか。鎮座地は船木奈具で、ここが旧奈具村の端にあたるのかも知れない。祭神は豊宇賀能売命。式内社。旧村社。
「丹後国風土記」逸文に「奈具社」がみえる。村の西方の姫石町は豊宇賀能売命が死去した所とされ、往古豊宇賀能売命が醸酒した手洗池があったの伝説があり、それが当地のよう。古代の「旦波大縣」の範囲内と思われる。
嘉吉3年(1443)の洪水で奈具村全村が流失し廃村になったと伝え、当社の旧鎮座地は明らかでない。祭神は外村の溝谷神社に移され、代表者が参拝していた。社殿は流失後現社地に再建され、天保3年(1832)式内号・霊石の返還を求めて争議が生じたが果さず、明治6年(1873返還された。風流田楽の「船木の踊子」民俗芸能が伝承される。
船木の踊子(奈具神社)
祭礼の幟
中央が姫宮と呼ばれる奈具神社。神額がないので確かではないが、向かって左が新羅神社、シラギではなくシンラと呼ぶようだが、正しい呼び方である、シラと呼んでも正しい、右は秋葉神社のようである。
「室尾山観音寺神名帳」の「竹野郡五十八前」、
 〈 正四位 奈具明神  〉 

『丹後旧事記』
 〈 奈具神社。婦哭村。祭神=奈具大明神 豊宇賀能売命。延喜式名神大社、豊宇気比売死給跡也。
今朝来の庄と書くは非なり神記真名為原の所にのせたり依て略す。  〉 

『丹後史料叢書』「丹後国式内神社取調書」
 〈 奈具神社
○【丹後国風土記】云豊宇賀能売命也
○【諸社一覧】今称二天避社一 加佐郡奈具社條下可見合 丹波郷ニアリ丹後風土記云々後到二竹野郡船木里云々吾心奈具志久云々 竟留二居此處一因建社祭之所謂竹野奈具社坐豊宇気姫神也 【和爾雅】同在竹野郡宇賀乃命 ○加佐郡ニ同名社アリ田志ノ奈具神社ノ事ソコニ記セリ田志ナルハイツレノヲイへル歟田辺段ヲ以テ考フベシ
【宮津志】鎮座傳記云酒殿祉豊宇賀能売神也丹波国竹野郡奈具社是也諸社一覧云今舟木村ニテ問フニ知ル者モナク社ノ跡モナシ【三才】在丹波郡【覈】船木庄奈具村ニマス【明細】船木村宇賀能売命九月一日【豊】同上竹野郡外村溝谷村ヨリノ願書ニ奈具神社舟木村ヘ遷座ニ相成侯得共従来ノ氏子ニテ累代神恩ヲ蒙リ霊能難忘云々トミヱ嘉吉年中大水ノ節奈具村七村其後奈具神社ハ溝谷神社ヘ合殿相成奈具村遺民十二戸ハ溝谷村十一戸ハ外材ニ流寓致シ候ヨリ奈具村永ク廃シ申候ソレ故右奈具村ノ遺民子孫申傳ヘ今ニ至テ懐舊ノ情ニタヘズ尚更奈具神社ヲ敬慕罷在候由ノ處明治六年奈具神社舟木村ヘ遷座相成当時廿三戸ノ者氏神無之ニ付遺憾ノ餘今般別記差出候義ニ御座候【道】船木村奈具大明紳ト云古事記云神八井耳命者伊勢船木直祖云々丹波氷上郡船木郷アリ【式考】此社ハ舊奈具村ニアリシヲ嘉吉年中大洪水ニテ村家流廃後ヨリ明治六年三月マデ外村鎮座ノ溝谷神社相殿ニマゝヲ此三月ニ舟木村ヘ遷座ナリシハ私慾ノ争ヨリ起リシニ歎ハシキコト也風土記ニ後老夫婦等謂天女曰汝非吾児暫借住耳宜早出去於是天女仰天哭慟俯地哀吟云々遂去而至荒塩村云々亦至丹波里哭木村云々復至竹野郡船木里奈具村謂村人等曰此處我心奈具志ス 古事記平善者曰奈具志 乃留居此村斯所謂竹野郡奈具社坐豊宇賀能売命也トアリテ奈具村ニ鎮座マシテ嘉吉年間ノ洪水ニテ田畑民屋多分流失テ残民廿三戸外材ト溝谷村ト両村ニ散居シ亦奈具神社ノ霊爾モ外村鎮座ノ溝谷神社ニ相殿ニ合祀リ崇敬シタルナリ扨テ溝谷神社ハ外村溝谷村等楽寺村舟木村ノ産土神ナルヲ天保三ヨリ争起リ九年ニ訴ヘトナレリ其原由ハ両社ノ用費ヲ舟木ニ出サシメ氏子一般ニ其費ハ出シナカラ溝谷村外材トハ宮本ノ村也舟木ハ山ヲ隔テタル村ニテ客分同様ニ取扱テ受ケ祭礼ノ出席ハ末席ナルヲ窃ニ慣リ費用ヲ出サズ氏子ヲモ分離セント巧ミ奈具神社遙拝所ヲ設置 百三十年許舟木村ノ林野彌右衛門ノ発起ナリ 天保三年始テ祭礼ヲ行ヒ溝谷神社ニハ勤メザリシニヨリ事起リ天保九年ニ出訴トナリシ也サレド久美濱山本甚左衛門ヨリ取調ノ上堤村庄屋等ヲ申付和談イタサセ候時舟木村ヨリ産土神外村社ノ祭礼古格相守ルベキコト相般奈具明神ノ神威ヲ敬ヒ聊カ軽忽ニ心得間敷事トアル取替状ノ一札ニテ式内奈具神社ハ外村ノ溝谷神社ノ相殿ニ坐セシニ疑ナシ 外村神主ノ申立ニ奈具明神ノ儀ハ往古奈具村ヨリ引移シ候趣ニテ無木村ナルハ旧記證跡モナキ由トアリ サテ天保九年ヨリ事モ起ラザリシニ王政新ニ舟木村ハ久美浜代官所ナリ外村ハ宮津ノ私領ナリ自然ト威勢ハ舟木ニアリ且ツ郷長モアリテ官員ニ手蔓モアリ舟木ヲ可キニ申上ニヨリテ神祇省ヨリ指令ニテ明治六年三月舟木村ノ方勝トナリ溝谷神社ニアリシ霊石ヲ引渡スベキ由ノ沙汰アリ幽冥ニマス神ハ如何思シメスラン風土記至竹野郡舟木里奈具村トアルニツキ今ノ舟木村ゾ此舊跡ナリト種々杜撰ノ説ヲ説テ上申セシトミユ舟木里トハ此辺総テノ大名ニテ舟木パカリヲ云ニアラズシカモ船木里奈具村ト村名モ判然タリ奈具村ノ流失セシモ世人ノ知ル所ナリ又溝谷神社相殿ニマシゝモ普ク人ノ知ル所ナリ然ルニ明治六年神祇省ノ沙汰文ニ船木村鎮座奈具神社ノ霊石同村ヘ還スヘキモノ也トアリテイカニモ其意ヲ得ガタキ文ナルヲ熟考ルニ舟木村ヨリ悪ルタクミニ虚説ヲ申上シ故ナルベシ吉岡徳明曰コレニ付外村溝谷ノ両村ニスメル元奈具村ノ人民甚ダ歎悲シテ止マズ評曰外村ノ社費ヲ出サシムルヲ厭ハシクハ舟木村ニ分社シテ奈具神社ヲ祭ランコトテ朝許アラバ何カアラン然ルヲ舊奈具村鎮座ノ神社マデ其村ノ人民外村溝谷村両村ニ現在セルヲ船木村一村ノ社ノ如ク強テ神社ノ霊石ヲ遷スハ何事ゾヤ既ニ神慮ニ叶ハザリケン霊石ヲ遷セシ時大風雨ニテ衆人恐怖ヲナセリト聞ケリナレド庁令ニテ引移セシ霊石ハ引戻スコト難クトモ奈具神社ノ神体ハ尚溝谷神社ニ残レル由ナレバ式内奈具神社ノ本社ハ今モ外村ノ溝谷神社ト定ムベキ也トイハレタリ美能理云明治六年ノ沙政文ニ溝谷神社合殿ト定メテ舟木村ハ式外ノ奈具神社ト見ナシテモ條理ハ立ニ似タレドモコレハ世人ハ許サズ且ツ心モスマザレバ式内奈具神社ハ外村鎮座溝谷神社ノ相殿ナリト御指令アリタシ)
.(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 奈具神社 村社 字船木鎮座
 (延喜式) 竹野郡 奈具神社
 (丹後旧事記) 奈具神社 婦哭庄奈具邑
 祭神 奈具大神神 豊宇賀能売命 
  延喜ノ名神大社豊宇気比売死給跡也
  今船木庄と書は非也
 (丹哥府志) 奈具神社 延喜式
 奈具神社今奈具大明神と称す、風土記に云比沼山の頂に井あり眞井といふ今既に沼となる此井に天女八人天降り水を浴す是時に和奈佐といふ老夫婦あり窃に一人の羽衣をかくす、其羽衣あるものは皆飛去りて天に登り獨り羽衣を失ふものは天に登る事能はす於是老夫天女に謂て曰我に子なし汝よく我子になれといふ、天女の曰妾獨り羽衣を失ひけれほ今天に登る事能はす當に君が言に従ふへし請ふまつ羽衣を還し給へといふ、老夫これを疑ふて衣裳む渡さゞれば天女のいふ凡天人の心は信を以て本とす豈君を欺かんや、老夫の云疑多して信なきは率士の常なり是以て衣裳を還さず実に欺事なくんば遣すへしとて則衣裳を渡し遂に携へて家に帰り留る事十餘歳、天女よく酒を醸る僅に一盃飲めば万病悉く除く其酒の樽を車に積みてこれを送るよつて其家豊に土形富めり故に其里を土形の里といふ、後に老夫のり心変り汝は我子にあらす早く去るべしといふ、於是天女天を仰きて怨慕して曰我私意を以て来るにあるず、然るに我に去れといふ、今我如何すべけんやと遂に歌を作りて曰
  天の原ふりさけ見れは霞たつ
     家路まとひて行衛しらすも
 既にして荒塩村に到り村人に謂て曰老夫の心を思ふに荒塩に異なる事なしといふよつて其里を荒塩といふ(今の荒山)荒塩より又一村に至り槻木に依て哭く此處を哭木といふ(今の内記)哭木材より又一村に至る其處を婦哭といふ(今の船木)と云々今奈具大明神と称す、祭九月朔日
(深田村誌稿) 明治四年二月十日村社に列せらる、祭神は豊宇賀能売命なり
(神社明細帳) 祭神 豊宇賀能売神
 再興享保四年九月、寛政五年三月
 明治四年五月村社に列す
 明治四十四年五月三十日神饌幣帛料を供進し得へき神社に指定せらる
 本 殿 梁行二間二尺五寸 桁行三間一尺八寸
 拝 酸 仝三間 仝一間四尺七寸五分
 域内坪数  千二百十三坪

 境 内 神 社
 秋葉神社 祭神 可遇土神
 若宮神社 祭神 素盞嗚命
(実地取調) 當字地名に奈具、内坪、恋路(コヒロ)、比尻等の残れるは本社に関係あるものと考ふ  〉 

『弥栄町史』
 〈 奈具神社 元村社 字船木鎮座
祭神 豊宇賀能売命
風土記及丹後旧事記によれば、
「比治の嶺に池ありその名を真名井という。此の池に天女八人降り来りて水を浴す。時に夫婦有り、和奈佐老父和奈佐老母と云ふ。此の池に至ってひそかに一人の衣裳をかくす。則ち衣裳ある天女は飛び去り衣裳なき天女一人水に身を隠し愧を抱きける。茲に於て老父天女に曰く、我に子なし汝を請じて子となさん。天女曰く、妾独り衣掌を失ひ今天に登る事を得ず。当に君が言に従ふべし(中略)。遂に携へて家に帰り相住む事十余年、天女よく酒を醸し僅に一杯飲めば万病悉く除く。醸酒を価に替へて富貴になりしを以て枡富の里と云ふ(中郡鱒留)。後老父の心変り汝我が子にあらず、はやく出去るべし。茲に於て娘天を仰ぎ地にかなしんで曰く、妾私意を以て来たるにあらず、然るに今我に去れと云ふ。妾如何にすべけんや。老父益々怒って早く去るべしと云ふ。天女嗟嘆して天を仰ぎ歌って曰く
天の原ふりさけ見れば霞立つ
 家路迷どひて 行方しらずも
斯く歌って遂に家を去る。既にして一村に至り村人に謂って曰く、老父婦の心を思へば荒汐に異なることなしと。故に此の里を荒汐の里と云(今の荒山)。荒汐より更に一村に至り、槻木によって哭く。故に此村を哭木という(今の内記)。哭木村より又一村に至り更に哭く。婦哭くを以て婦哭の里と云う(今の船木)。茲に至って我心をなくし(平然となったの意)(奈具の地名に通ずる)と静かに住み、終に此処に於て身を終る。是所謂豊宇気能売の命なり。」
とある。そこで真名井に天降りした天女の一人則ち豊宇気能売の命は婦哭の庄奈具村において死なれたので、此の地に奈具大明神と奉祀したようである。
再建棟札享保四年九月(二百五十年前)
寛政五年三月記録の再建の棟札がある。
本殿 梁行 三メートル二○センチ
   桁行 六メートル三〇センチ
拝殿 梁行 五メートル四五セソチ
境内坪数千二十三坪
明治四年五月村社に列する。
明治四十四年五月三十日神饌幣帛料供進し得へき神社に指定された。
境内神社
秋葉神社 祭神 加具津智神
若宮神社 祭神 素盞之男命神  〉 

豊宇気比売の命の旧跡
『弥栄町史』
 〈 豊宇気比売の命の旧跡 字船木
比治の嶺真名井に天降った天女が、養父神和奈佐の老父の請いを入れ養女となり、のち養父神の心変りにより家を出され、荒山、内記、丹波郷、矢田等を経て、哭く哭く船木の里に辿りつき、我れ心をなくす(平然となったとの意)という心境になられ、この地で亡くなったと口碑に伝える。
現在船木部落より西方五町余に、豊宇賀比女命終えんの地として、不浄をなせばたたりありと伝える土地があり、今の奈具神社の境内であろう。
天正十一年順国記に、奈具神社にて細川藤孝の歌として、
蝉の羽の 薄き衣にほしわびて
 森の梢の つゆになくなり
というのが出ている。  〉 

舟木の踊子
船木の踊子
『心のふるさと丹後Ⅱ』(坂根正喜氏)より↑。田楽か風流踊りか。
「10月10日(もと10月1日)に秋祭を行う。踊子(しかか踊ともいう)はその祭に奉納する芸能で、口碑に、これはむかし奈具の神に朝鮮から貢物を持ってきたかっこうであるといわれている。踊子は、大太鼓四人、カンコ四人、ササラ四人で構成され、鬼が一人つく。大太鼓は太鼓持と太鼓打(ナグリ手という)に二人づつ分かれる。」(『京都の田楽調査報告』)
船木の踊子(奈具神社)
坂根氏が写されたのは何年か昔のことだと思われるが、フル構成は黒部と同じなのだが、その定員の半分にも足りない、2014年は小太鼓とササラは一人ずつだけ、これ以下ではできないというギリギリの数。ササラの子はまだ小さい、ふつうなら加えてもらえそうにない年頃かと思うが、よく頑張ってくれました。踊りは三番まである。詳しくは下に引かせてもらった府教委の報告を見て下さい。村中に入ると大きな石が何組も広場に積み上げて注連縄が付いていたが、川の工事の安全祈願かと思い写しもしなかったが、しかしこれも当祭礼と関係があるそう。
丹後のあちこちの神社が一斉に祭礼を行っている10月の第二日曜日、2時の予定で当社境内で見られる。氏子以外には誰もいないようでした。同日の同時刻に一斉に祭が行われると欠点としては自分の村も祭りのためよその村の祭りは見たくとも見に行けないそうで、隣村の祭礼も生まれてこのかた一度も見たことがないそうである。
どこのものでもなく村々に何百年と伝承された行事なので誰がどう口をはさむこともできない、衰退特に少子化目立つ村々でどうこうしたものを将来へ繋げていくかはどの村でも大きな問題である。
遠くへ出た二世や三世を頼むこともできない、御輿かつぎくらいならそれも可能かも知れないが、事前に何度も練習しないとできないものは、そう簡単ではない。

記録には見えないが元伊勢であろう超古社であるが、その拝殿の天井は雨漏りがしていて、見といて下さいこんなこってす、とのこと。
市や府が乗り出すより手がないかも、それでも決して万全とは言いがたく、国全体が大資本ばかりを大事にするでなく地方の小さな文化を大事に、考え改めるより道はなさそう、しかし一度こうした傾向で皆がワァーと動き始めると方向転換は難しい……


氏子さんたちに混じって動画など写させてもらっていると、「ワシらみたいなモンにはようわかりまへんが、ここはそんな有名な神社なんでっかいな」などとのこと。地元氏子でも奈具社と羽衣伝説が全国的にどれくらいに有名で重要な神社なのかはよく知られていない様子であった。

ナーガ神
フナキもあるいはナキなのかも知れないが、奈具、名木、伊去奈子嶽、とアナゴ、ウナギ、ヤナギ、サナギは、たぶん同じもの。ヘビの姿をした神を言っていると思われる。南方海人系の言葉ではなかろうか。羽衣伝説・白鳥伝説がそうした地名や社名ができた当初からあったものか、後に付加されたものか不明だが、原初的にはヘビ伝説があったと思われる。
この言葉はインドに起源を持つナーガ神(龍)かも知れない。ナーガはヒンドゥー教の神だが、もっと古くインダス文明においてすでに存在したと推測されている。上半身は頭頂に5匹の蛇を飾る人間で、下半身は蛇(コブラ)という姿をしている。羽根があるから空を飛ぶよう、与保呂のヘビは空を飛んで高浜までいったそうだが、これかも知れない。
ギリシャ神話では怪物メデューサの姿だが、メデューサも元々はナーガではなかろうか。中国では龍と訳されて、日本でも龍とみたようである。雨や水を支配する大地母神とされてきた。ナーガ神(ここでは仏を保護している)
南方からやってきた古いナガ神信仰を持った海人系種族が本来は祀っていた神かも知れない。仏教もインドだが、それよりも早く南方海上のルートで伝わったものかも。
また奈具神社祭神の豊宇賀能売命の「宇賀」は、沖縄諸島ではヘビであり、穀神を意味するといわれ、メデューサもナーガもどこか豊受大神にもつながっている。
後の羽衣伝説に上書きされてもう何も残っていないのかも知れない、溝谷の龍淵寺、吉沢の雲龍寺とか、峰山にも龍ヶ岡とかあるが、何かナーガ時代まで見通せるかも知れないような伝説などあるといいのだが、”外宮の神はメドーサ(ゴルゴン)と同神”などと衝撃の歴史が判明するかも…アレキサンダー大王
アレキサンダー大王の甲冑にもメデューサが描かれていた、インドばかりでなく、マケドニアでも信仰があったものか、彼女と金属文化と関係がなかろうかと調べるが手掛りはない。もしかすると彼女の目に関係があるかも…、彼女の目は、見る者を一瞬にして石に代えたという、金属に代えるはあと一歩…
ここは竹野郡式内社であるが、加佐郡式内社の奈具神社は宮津市由良に鎮座する。由良からは銅鐸が出土している。
ナガ神を祀った種族と銅鐸とが関係があるのかも知れないし、銅鐸はサナキ、サナギ、サナグ、サナコ、サヌキなどと呼ばれたようで、そのサが脱落して奈具となったとも考えられないことはない。このあたりからは銅鐸の出土は今のところは知られていないが、奈具谷遺跡からは銅鐸形土製品が出土している。ナーガ神を祀るナーガ族はあるいは古くは弥生銅鐸種族だったかも知れない。ベトナムの銅鼓と日本の銅鐸に何某かの繋がりが見られると何かで読んだ記憶がある。メデューサメデューサは恐い、ペルセウスほどの勇者でもなければ近づくのも恐ろしい。この化物と豊受大神とが繋がる?誰も信じないか。
いずれにしてもこれらの話はフツーに知られている風土記説話的歴史解釈とは文化の断層があって不整合で、その断層の先にあったかも知れない、忘れられたのかも知れない、あるいは隠蔽されたかも知れない超古代丹後の歴史になる。

『子どもがつづる丹後の歴史』という書があり、子供達が作文を書いている、誰に教えてもらったのか、次のようなものもある。
 〈 峠のことを小字名で「タワ」と呼ばれている所があります。「タワ」とは古代朝鮮語で谷あいのせまい土地、あるいは山と山をつなぐ道の意味で、この地方が中国と朝鮮の文化と関係のあることがわかります。奈具とはナーガの変化したもので、ポリネシア系の言葉だと聞きました。すなわち南の国とも関係があるようです。  〉 
このあたりの知識となれば大学では教えてはもらえず、先生もスジはいいがチト頼りないようである。タワは「たわむ」という日本語があるように、稜線がたわんでたれ下がって低くなっている所を呼ぶ、鞍部などともいうが、そこは向こうへ越すには都合がよく、道ができる、だからタワ、それがマナってトオとなる、そのトオに登尾という漢字を当てて、今ではたいていノボリオと呼んでいるようだが、峠というのはもともとはそうした意味の言葉であろうか。アリランの歌を原語で聞くと、「アリラン峠をロムサンダ」とか聞こえる、この歌を聞く限りは峠は朝鮮語のようで、「たわむ」という語がもともと朝鮮語のように思われる(筆者は何も知識はないので、違うかも)
当社は新羅神社も祀り、踊子は朝鮮の衣装と伝わるから朝鮮と繋がりあることは間違いない。それだけでもない、ポリネシア語とするのは、マレー・ポリネシア語派とひとまとめで呼ばれることも多いようで、大きな間違いはないか、しかしその先のインドが落ちているよう。この両者が混じっている、当地で混じったのか、当地に伝わる以前から混じっていたのかは不明。伊去奈子嶽の山頂の神を祀る当社は普通に考えれば伊勢外宮の故地、元宮であり、当社の古代を調べることは天皇制軍事国家の国家機密に触れそうなことになり、以前は誰もわかってはいても敢えて言う者はなかった、そうしたことをすれば権力によって闇に葬られかねなかった、新羅神社も祀られていることなどは郡誌もまったく触れていない、知っていただろうが一言も書いてはいない、そうした戦前の暗黒史ともかかわって、偽りの「歴史」と決別しての真の歴史の解明はこれからに大きく残されている。
観音寺の神名帳の「竹野郡五十八前」に、正四位下 嶋奈岐明神が見える、どこにあったのだろうか。あるいは浅茂川の島児神社であったかも知れず、おもしろい所へ意外につながるのかも知れない。


曹洞宗安源山禅勝寺
天和2年(1682)の丹後国寺社帳に寺名がみえる。
禅勝寺(船木)
『丹後国竹野郡誌』
 〈 禅勝寺 曹洞宗 字船木にあり
 (丹哥府志) 安源山禅勝寺
 (同寺調文書) 本尊 阿弥陀如来
 當幸は往古七堂伽藍にして十七ケ寺ありて伝来せりといふ、今山門の跡を通堂と称して村の西方三丁にあり、其左の谷を薬師堂の跡といふ、寺の東の山を観音屋敷といひ西に當て居宅屋敷あり、開闢開山無中和尚より十代伝記不詳、天正年中再建、延宝年中智源寺の未となり開山を橘州宗曇和尚とす、享保二年火災に罹り翌年再建せり、現今の伽藍は弘化三丙午年二月の再建に係る、  〉 

『弥栄町史』
 〈 安源山禅勝寺 字船木
本尊 阿弥陀如来 曹洞宗
竹野郡誌によれば、
「往古七堂伽藍ありと伝承せり。今の通堂は耕地整理の際多少移動せるも山門跡なりと称し西方三丁にあり。其の左の谷を薬師堂の跡という。寺の東の山を観音屋敷といい、西に当って屋宅屋敷あり。開闢開山無中和尚より十代伝記不詳。天応年中再建、延宝年中智源寺の末寺となり、開山を橘州宗曇和尚とす。享保二年火災に罹り翌年再建せり。現今の伽藍は弘化二丙午年一月の再建に係る」
とある。
その他由緒不詳  〉 

 小字城山に近世初期、一色氏の部将大条家安の居城であったという(丹後旧事記)船木城跡がある。
『弥栄町史』
 〈 船木城 字船木城山にあり、丹後旧事記によれば船木の城主大条家女とあり、また一色軍記によっても一色家居城弓の木城より廻状をもって召集した各地城主の中にも船木の城主大条家女とある。  〉 

小金山
小金山
『丹哥府志』
 〈 【小金山大権現】
小金山は野中の下より起りて、竹野郡黒部の庄舟木に跨る。麓より頂に至る凡五十丁、金剛童子、露なし、市ケ尾の高山と肩を並ぶ。頂に大蔵権現を安置す、汚穢不浄の者登るべからず、利生も多ければ罰もするどく皆人の恐るる所なり、されど危難に当っては皆祈願をこめる。(祭正、五、九月廿三日)  〉 

『丹後国竹野郡誌』
 〈 小金山
 (深山村誌稿) 與謝郡野間村の境に峙立し海抜一千六百六十三尺にして頗る険峻なり、山頂に社あり春秋の二季(舊三月廿三日舊九月廿三日)遠近より参拝する者多し、  〉 

『弥栄町史』
 〈 小金山
海抜四百十メートル黒部野間の境に聳立しすこぶるけわしい。山頂には小金神社を祀る。春秋二季の祭日には金もうけの神として、遠近を問わず参拝者が多く、眺望絶佳の名山である。  〉 

小金山権現


《交通》


《産業》




船木の主な歴史記録


『日本古典文学大系』
奈具社
 丹後の国の風土記に曰はく、丹後の国丹波の郡。郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治山の頂に井あり。其の名を眞奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女八人降り来て水浴みき。時に老夫婦あり。其の名を和奈佐の老夫・和奈佐の老婦と曰ふ。此の老等、此の井に至りて、竊かに天女一人の衣裳を取り蔵しき。即て衣裳ある者は皆天に飛び上りき。但、衣裳なき女娘一人留まりて、即ち身は水に隠して、獨懐愧ぢ居りき。爰に、老夫、天女に謂ひけらく、「吾は児なし。請ふらくは、天女娘、汝、児と爲りませ」といひき。(天女、答へけらく、「妾獨人間に留まりつ。何ぞ敢へて従はざらむ。請ふらくは衣裳を許したまへ」といひき。老夫、」「天女娘、何ぞ欺かむと存ふや」と曰へば、天女の云ひけらく、「凡て天人の志は、信を以ちて本と爲す。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざる」といひき。老夫答へけらく、「疑多く信なきは率土の常なり。故、此の心を以ちて、許さじと爲ひしのみ」といひて、遂に許して、)即ち相副へて宅に往き、即ち相住むこと十餘歳なりき。爰に、天女、善く酒を醸み爲りき。一坏飲めば、吉く万の病除ゆ。其の一坏の直の財は車に積みて送りき。時に、其の家豊かに、土形富めりき。故、土形の里と云ひき。此を中間より今時に至りて、便ち比治の里と云ふ。後、老夫婦等、天女に謂ひけらく、「汝は吾が児にあらず。暫く借に住めるのみ。早く出で去きね」といひき。ここに、天女、天を仰ぎて哭慟き、地に俯して哀吟しみ、即て老夫等に謂ひけらく、「妾は私意から来つるにあらず。是は老夫等が願へるなり。何ぞ厭悪ふ心を発して、忽に出し去つる痛きことを存ふや」といひき。老夫、増発瞋りて去かむことを願む。天女、涙を流して、微しく門の外に退き、郷人に謂ひけらく、「久しく人間に沈みて天に還ることを得ず。復、親故もなく、居らむ由を知らず。吾、何にせむ、何にせむ」といひて、涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎ」て哥ひしく、
 天の原 ふり放け見れば
 霞立ち 家路まどひて
 行方知らずも。
遂に退き去きて荒塩の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「老父老婦の意を思へば、我が心、荒塩に異なることなし」といへり。仍りて比治の里の荒塩の村と云ふ。亦、丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。復、竹野の郡船木の里の奈具の村に至り、即ち村人等に謂ひけらく、「此處にして、我が心なぐしく成りぬ。古事に平善きをば奈具志と云ふ。」といひて、乃ち此の村に留まり居りき。斯は、謂はゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇賀能賣命なり。


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
 〈 竹野郡
一 船木庄  八十二町七段百卅七歩内
  四十一町三段二百四十九歩   地頭 三条殿
  廿町六段三百五歩  此内八町一段七十四歩川成
                    本所分
  廿町六段三百五歩  此内八町一段七十四歩川成
                    小倉又七  〉 

『丹哥府志』
 〈 ◎船木村(黒部村より東へ入る、小野山の下)
【奈具神社】(延喜式)
奈具神社今奈具大明神と称す。風土記に云。比治山の頂に井あり真井といふ、今既に沼となる、此井に天女八人天降り水を浴す、是時和奈佐といふ老夫婦あり、竊に一人の羽衣を隠す、其羽衣あるものは皆飛去りて天に登り、独り羽衣を失ふものは天に登ること能はず、於是老夫婦天女に請て曰く、我に子なし汝よく我子となれといふ、天女の曰、妾独り羽衣を失ひければ今天に登ること能はず当に君が言に従ふべし請ふ先羽衣を還し給へといふ、老夫之を疑ふて衣装を渡さざれば、天女のいふ、凡天人の心は信を以て本とす豈君を欺んや、老夫の云、疑多して信なきは率士の常なり是を以て衣装を還さず実に欺く事なくんば還すべしとて、則ち衣装を渡し遂に携へて家に帰り留ること十余歳、天女よく酒を醸り僅に一盃を飲めば万病悉く除く、其酒の樽を車に積みてこれを送るよって其家豊に土形富めり、故に其里を土形の里といふ、後に老夫の心変り汝は我子にあらず早く去るべしといふ、於是天女天を仰ぎて怨慕して曰、我意を以て来るにあらず然るに我に去れといふ今我如何すべけんやと、遂に歌を作りて曰、
天の原ふりさけ見れば霞たつ  家路まとひて行衛しらすも
既にして荒塩村に到り村人に謂て曰、老父の心を思ふに荒塩に異ることなしといふ、依て其里を荒塩といふ(今の荒山)、荒塩より又一村に至り槻木に據て哭く、此處を哭木といふ(今の内記)、哭木村より又一村に至る其處を婦哭といふ(今の舟木)と云々。今奈具大明神と称す。(祭九月朔日)
 愚按ずるに、日本史云。丹波道主命の五女皆召されて后妃となる、独り竹野媛醜きを以て家に帰るといふ。倭姫世記に道主命其八乙女をして豊受大神を斎奉らしむといふ、又雄略帝廿二年秋七月七日大佐々木命を以て丹波国与謝郡真井原より豊受の大神を迎へ奉りて度会山田ケ原に遷し奉るといふ。今風土記に云天女八人天降るといふは蓋道主命の八乙女をいふなるべし、其一人衣裳をかくされて遂に和奈佐の家に行き後に其家を出るといふは道主命の女独り竹野媛形醜きを以て家に帰るといふを象るなるべし、和奈佐は恐らくは大佐々木命の名を象りていふならん乎。
【安源山禅勝寺】(曹洞宗)
【大条家泰城墟】(伝未詳)  〉 

『京丹後市の考古資料』
 〈 船木家谷遺跡(ふなきいえだにいせき)
所在地:弥栄町船木小字家谷
立地:竹野川中流域、支流奈具川左岸扇状地上
時代:弥生時代前期、後期
調査年次:なし
現状:宅地ほか
遺物保管:丹後郷土資料館
文献:G025
遺構
船木家谷遺跡は、奈具川左岸の丘陵裾から平地にかけての扇状地上に存在する。1946年頃、井戸掘り中に弥生時代前期および後期の土器が出土したとされる。
遺物
丹後郷土資料館に1点の口縁部を一部欠くがほぼ完形の壺型土器が保管されている。
壺は体部最大径20.2㎝を測り、器高20.7㎝にほぼ等しい。口縁部は大きく外反りして水平に開く。強く張った胴部と口縁部境には削り出した突帯を施したのち、突帯上部に、一条の沈線文を巡らす。底部は突出気味のしっかりした平底である。口縁部内・外面はヨコナデ調整、頸部および体部外面は横方向のヘラ磨き調整を施す。
意義
出土した弥生時代前期の土器は1点のみで遺跡の時期を決定するのは危険である。しかし、口縁部を含めた器形および削り出し突帯の加飾から前期中葉に位置づけられる資料であり、丹後地方でもっとも古い弥生土器の一つに位置づけられる。竹野川の支流により形成された小さな扇状地で谷水田を経営した弥生人がいた可能性を示す資料である。  〉 


京都の田楽調査報告』(府教委・昭53)
 〈 舟木の踊子
     名 称 踊子
     所在地 竹野郡弥栄町舟木
     時 期 一○月九・一○日奈具神社祭
 弥栄町舟木にも黒部と同様の踊子が伝えられる。舟木は弥栄町の中心溝谷から黒部に向うちょうど中間のあたりを東に入った、小さな谷の奥に位置する。黒部とは山をへだてて一・五キロほどしか離れていないが、谷筋が異り日常的には直接のかかわりを持っていない。
 集落に入るかなり手前の道ぞいに氏神の社がある。氏神は奈具神社といい、一○月一○日(もと一○月一日)に秋祭を行う。踊子(しかか踊ともいう)はその祭に奉納する芸能で、口碑に、これはむかし奈具の神に朝鮮から貢物を持ってきたかっこうであるといわれている。
 踊子は、大太鼓四人、カンコ四人、ササラ四人で構成され、鬼が一人つく。大太鼓は太鼓持と太鼓打(ナグリ手という)に二人づつ分かれる。
 鬼は本祭のときのみ参加するならわしである。鬼は赤衣にタッツケを着たうえに鎧をつけ丸帯をたすきにかけて背で大きく結び、赤熊をかぶり額に鬼面をのせ、錫杖を手にする。これだけが青年の役で、両親が健在でケガレのない者から選ばれる例であった。戦前は、この役をすれば兵隊にとられても無事にもどれると信じられ、希望者が多くて困ったという。鬼になると一年間錫杖をあずかる。次の役が決ったとき杖の受け渡しを行い それをうけとった際には谷の上流でこれを清めるならわしであった。潔斎のなごりである。
 鬼のほかはすべて少年の役である。踊子は一種の子供組であり、大将があって、もとは新加入者の選定から諸行事にいたるまてずべてをとりしきり、大人の口出しを許さなかった。大将は同時加入の最古のメンバー二人のうち、出生月日のよりはやい者がつとめ、踊子では太鼓持の役にあたる。太鼓持は太鼓打より上位とされるからで、他の一人がその相棒の太鼓打となり相談にあずかる。この二人は最後の踊子をつとめるとメソバーから退き、その欠員二人が補充される。だいたい七、八才が加入の該当年令で、踊子のメンバーに選ばれるとまずササラ役をつとめ、そのあとササラ→カンコ→カンコ→大太鼓→大太鼓とくりあがって、大太鼓の役を最後に踊子からぬける。つまり踊子は大将をかしらとする年令的な序列をもつのである。
 踊子の少年は膝までのカスリの着物にタッツケを着、黒足袋にわらじをはく。さらにササラとカンコは背で大きく結んだ白襷をかけ、トーザイとよぶ華やかに飾った帽子をかぶる。これにたいし大太鼓は、赤い上着を羽織って鬼と同じく丸帯の襷をかけ、赤熊をかぶる。いずれも風流のいでたちである。
  踊子はその役名に応じた楽器をもつ。
大太鼓 普通の締太鼓。太鼓持がこれを両手にもち太鼓打に打たせる。
 桴は色紙で巻き、桴の尻に五色の一房をつける。
カンコ 皮面径二○センチ、筒長二五センチほどの締太鼓。筒全体に白布を巻き、紐て首からつって前腹部につけ腰鼓とし、左右両面から打つ。桴は大太鼓と同様に飾る。
ササラ 竹のスリササラ。ササラとコからなる。ササラは径六センチ長さ三五センチほどの丸竹を、握りの部分をのこして全体に細く割ったもの、コは長さ四○センチほどの竹の棒に刻みめをつけたもので、紐でつなぎ首にかけ、右にササラを持ってすり合わせる。
使用楽器はこの三種てある。笛はもとからなかったといわれる。踊子はつねに左右二列編成で行われるが、先頭の鬼からみて、左側に太鼓持二人、カンコ二人、ササラ二人が順に並び、それとあい対して、右側に太鼓打以下が並んで終始このかたちをくずさない。


 秋祭が近づくと、踊子は宿で稽古をはじめ、八日夜(いま九日夜)には「七コオリ」を行う。これは、踊子全員が集落の中ほどにあった庚申堂の前の谷川に浸り、水面下のできるだけ大きな石を七個づつ上げて、堂の前の広場に踊子の位置にあわせて積む行事をいう。このときとり上げる石は大きいほど良いとされ、石が下位の者より小さかったら面目を失った。垢離の変った形式である。この石が上がると、誰であれ石積みの間を通るのは禁忌され、カンコ役が交互にその番にあたった。本祭にはここから踊子が出立ちするならいてある。
 翌九日の宵宮には「百度ホイホイ」を行う。この夜、踊り子たちはふだん着のまま氏神に詣で、本祭に準じて一とおり踊子を演じたあと、最後に全員でお百度をふむ。すなわち奉納の終りに大太鼓の「百度ホイホイ」のかけ声で本殿を一周したあとすぐ全員裸となり、大将から杉(もと榊)の小枝をうけとって、本殿のまわりを右回りに走りめぐるのである。その途中、本殿の左後方にある小さな泉のところで、「一回」「二回」ととなえては杉を泉にひたしてわが身にふりかける。回るのは一二人合わせて百周で、まず大太鼓四人が一列となってまわりはじめ、その四周めにカンコ、六周めにササラが加わり、大太鼓の一一周をもって終る。大太鼓四人一一周、都合四四周、同様にカンコ三二周、ササラニ四周というきまりで、回り終ると杉を神前に供え、衣服をととのえていま一度本殿に向って踊子をあげ、ついて本殿を一まわりして終りとなる。その夜は以前は宮に寵ったが、いまは廃されている。
 こうした踊子の行事にあわせ、村をあげて祭の準備がととのえられる。
 舟木では各戸が年番で祭りの宿をつとめ、宿が祭の諸事万端を担当する。宿では出立の際に振舞う白酒を用意するほか、祭に旗四本を出す例となっている。一方、区長は扇鉾、傘鉾を庭先に奉祀し、床には神号の軸をまつり、またそのかたわらに、各戸の奉持する白幣や鬼。大太鼓所用の面と赤熊を飾る。「オヒマ」と称する御供二膳がそれらの前に据えられるが、一膳は野菜(大根と枝豆)、一膳はかがみ餅とおこわ(赤飯)てある。オヒマはもと、氏子のなかで最年少の女児のいる家が用意するものとされており、「お旅」ではいまも、家の者が女児を伴ってヒルマを捧持するきまりである。ヒルマは田遊びなどにのこるヒルマモチにつながるものとして注意される。区長の役割はこの場合、当人に類するけれども、これはもともと祭の宿が負うべきものであったらしい。
 このヒルマのほかに、祭の役として樽(酒)、面(三番叟)、金幣、旗を棒持する役がある。これをとくに「諸役」と称している。諸役もまた各戸の持ちまわりとなっているが、近親に不幸があった場合は辞退する。これは宿、区長についても同様である。
 こうして準備がととのうと、いよいよ一○日の本祭となる。
 早朝宿で衣裳をととのえた踊子は、庚申堂前の石積みの場に勢揃いする。鬼もここから加わる。踊子はここでまず一~三番を演じるならいて、それがすむと、鬼を先頭に石の間を通りぬけて区長の家へと向い、そこてまた三番を行う。その頃には氏子も参集し、宿から旗もくる。ほどなく鬼と大太鼓に面や赤熊が渡され、人々は白酒をいただいてそれぞれ我が家の白幣をうけとり「お旅」の列をととのえる。行列は、旗、扇鉾、金幣、傘鉾、鬼、踊子、オヒマ、樽、面持、村役、白幣 (ゴヘイ)の順である。
 旗を先頭に行列がととのうと神社へと向う。この道中を「お旅」といっている。お旅の道中、踊子ははやしつつすすむが(はやしの名はない、仮に道ばやしとよぶ)途中、ところどころで立ちどまっては踊子を演じる。これは小宮にあげるもので、山王に一番、稲荷に二番、住吉に三番と定っている。やがて宮につくとだんだんの神事があり、ほどなく踊子の奉納が行われる。

 踊子はまず、本殿前で一~三番を行ってのち、境内にある新羅(しんら)社に三番、秋葉社に三番を奉納し、ついて道ばやしで社日(しゃにち)のまわりを右まわりに四周し、本殿前にもどって二番、その場で姫宮社に向って二番と順に奉納する。またこの間、依頼に応じて願の踊をくり返し演じる。
 踊子を踊ってもらうと息災にくらせる、お産も安産だという信仰で、金一封による依頼がつぎつぎに鬼によせられるのであり、鬼はその軽重をはかって「今度は○番所望」というふうに踊子に指示するのである。この願の踊は宮以外ではやらないきまりで、すべてこのときにすまされる。
 踊子はこのようにして延々とつづけられる。踊り子にとってはなかなかの難行であるが、ようやく願の踊がすむと、再び行列がととのえられ、本殿と社日のまわりを一周してひきあげてゆく。祭は区長宅に帰ったところで終了し、踊子も解散する。しかし踊り子には日を改めて二つの行事が待っている。一つは「ナツベモン」、もう一つは「お講」である。
 ナツベモンとは、ナツベルすなわち後片づけの意で、神無月に入る(一○月二八日)までに宿で行うならわしであった。「衣裳ナシベ」ともいい、楽器や衣裳を片づけるとともに、踊り子たちが鬼を招待し慰労するのである。このとき願の踊で集った金一封つまり”花”の分配も行う。誰にいくら分けるかは大将が決め、誰も文句は云わなかったというが、これもいまは鬼が介錯して分配される。お講はこのナシベモンが終り、神さんが出雲から帰られてのちに行うものとされる。やはり宿で開かれた。宿では昼、夜、朝の食事を用意し、甘酒でもてなす例であり、子供たちは一夜を宿ですごした。この日は、大太鼓が監督し、谷川の上流で、ササラはセリをつみ、カンコは魚をとって神前に供えることもしたが、野荒しが公認され、何であれ自由に採ってよかったと伝えられる。近年これは廃止され区長が踊り子を招いてご馳走するように変えられている。

 踊子には、一番、二番、三番の三曲がある。一番が基本で、二、三番は一番の最後に変化をつけ、それをくりかえすだけの違いである。このほかに道ばやしがあるが、これは歩みにあわせて打ちならす単調な楽で、名前もない。ただしこのときは、「ホーイホイ ホイホイホイホイホイ ホーイホイ」と踊り子のかけ声が入る。
 踊子は、左右二列になり対面して、楽器を打ちながら踊る。二列が互いに入れかわるようなこともなく、所作は簡単である。とくにカンコとササラの動きは単純で、その位置にほとんど立ったままであり、たまに左右に足をふみだし、あるいはその場を一回転(右まわり)するだけである。カンコはそれでも、中も側も打ち、カンコの胴に桴を立てて、左右交互に打つ打ち方に特徴をみせるが、ササラは前後にすりならすばかりである。これにたいし大太鼓には踊子を特色づける変化がみられる。基本となる一番について、以下大太鼓の所作を中心に述べておこう。記述の都合で、太鼓持を頭、太鼓打を尻(鬼に近いものを尻一)とよぶことにし、左、右は頭の側からみた方向とする。
 両列対面の位置につく。太鼓は頭と尻が両側から持っている。まず、尻一が太鼓を三打する。その四打めからその他も加わって強く四打し(尻は桴を頭上に大きく回わして打ちおろす)、右、左、右、左、右と大きく大鼓を振りつつ五打し、その勢いで頭は(尻は太鼓を離し以下両桴となる)、太鼓を頭上にさし上げて左前におろし、左足を右前にふみだしてかがみ、左肩先にあてるように太鼓をかまえ、尻が足をふみかえながら二つ打つ(打つ前に握りを上にして桴を胸先に揃える振があり、以下も同様である)。ついて頭はその場を右まわりに回転し右足を左前にふみだして右肩先に太鼓をかまえ(尻はその間所作しつつ待つ)、右、左、右と尻が五打し(この間にカンコとササラはその位置を左右とも右まわりに一回転する)、打ち終ると一回転して(右まわり)(頭はそのまま) 二つ打ち、頭がさきと同じく、太鼓を左肩先にかまえるのをまって二つ、一回転し右肩先にかまえるのをまって五打して終る。
 本番は無言であるが、所作を覚えるため、口拍子による一種の譜が行われている。くどいようだが次にあげよう。
 〈カンコ・大太鼓〉      〈ササラ〉
 一ツン 二ツン 三ツン 四ツン 五ツン ザイ ザイ ザイ ザイ ザイ
(太鼓を右左と振り)
 ヨーリャ ポチリン 六ツン 七ツン ザイ ザイザイ
(太鼓を頭上にさし上げ左肩先にかまえる)
 カッカ カッカ カッカ ー カ  シキ シキ チャッキ  キ
(頭回る) (カンコ回る)  (尻回る) (回る)
『一ツン 二ツン    ザイ ザイ
 カッカ カッカ カッカーカ  シキ シキ チャッキ キ
             (頭回る)
 一ツン 二ツン 三ツン 四ツン 五ツン カイ カイ カイ カイ カイ
上段がカンコと大太鼓、下段がササラ用というか、上段のものはカンコのためのものと考えられる。
 これが一番である。二番は、一番の最後の五打を一回転の所作とし『印のところにもどってくり返すのであり、三番はそれをさらにもう一度くり返すものである。頭は太鼓を左から右へかまえなおす際に太鼓をくるりと裏返す所作もみせ、太鼓を頭上にかざし、あるいは回転するなど、その振にもっとも動きがある。その頭に息をあわせ所作をまじえて打つ尻の振も面白く、そこに踊子は簡単ながら、一見なかなか変化に富むものとなっているのである。

 このように踊子は大いに変った芸能である。拍板でなくスリササラを用い、腰鼓のほかにさらに太鼓役が加わってそれが主導的な役割をにない あるいは笛がないこと、太鼓をいろいろとあやつることなど、定型的な田楽の範ちゅうをこえるものである。いくつか特色が指摘されるが、そのもっとも大きなものは、道ばやしを奏しつつ移動しては一曲を演じる形態をもつことである。これは風流のかたちであろう。
 風流の性格は踊子の扮装にも鮮やかに示される。鬼面をつけた鬼役の参加にそれは端的にあらわれるが、赤衣に赤熊という大太鼓、トーザイとよぶ華麗な帽子を冠るカンコ・ササラの姿にも濃厚てある。赤熊をかぶり背に丸帯を負う姿は、舞鶴を中心に分布する振物(太刀振)にみられ、鬼面を額にあてる例は岩滝町石田の笹ばやしに認められるのである。しかし踊子ははやしのみからなる芸能であり、笹ばやしなど小歌に特色をもつ風流踊とは明らかにタイプを異にし、それよりはいちだんと古いタイプに属するものと考えられる。
 この踊子をどうみるか。現在なお決め手を欠くけれど、私はこれを風流田楽であると考える。ササラを用いること、移動しては演じる行道的形態を保つこと、風流の花笠 (ここでは赤い布をかけ頂に鶏頭とススキを立てる傘鉾となっている)が附属すること、そして何よりもヒルマが存在することがその理由である。踊子が楽舞として整備された職業的田楽でないことは明らかであるが、田から陸にあがった「田楽」の流れをひく芸能であるのは確かであろう。
 舟木では踊子について冒頭に述べた口碑があるが、また、黒部より古くからあったと伝え、溝谷神社(溝谷鎮座)の祭はここの踊子が行かないと始まらなかったともいう。史料的には金幣に「正徳二年(一七一二)辰九月十七日丹後竹野部舟木庄」とあり、扇鉾に「延享二年(一七四五)」の年紀がみえるばかりで、由来沿革は明らかにできない。あるいは、伝説にのこる七堂伽藍に関連を有したものでもあろうか。
 この踊子は全体として、黒部のそれより簡略となっている。しかし、舟木・黒部の踊子は、近くの丹後町遠下のチイライ踊とともに全く同一の芸能伝承であった。現在のところ、この三ヶ所のほかに類型が知られないが、それらは風流田楽でないとしても、その面影を色濃くとどめる風流拍物であることは確言できよう。興味ある民俗とあいまって注目すべき伝承である。  〉 

『広報きょうたんご』(平成26年1月) 京丹後市の文化財 93
 〈 舟木の踊子(弥栄町舟木)
中世の風流踊りの姿をよくとどめる芸能
 舟木の踊子は、弥栄町船木の氏神奈具神社の秋祭りに奉納される芸能です。大太鼓・カンコ・ササラ各四人で構成される踊子は、いずれも中学生以下の少年で、大太鼓を持つ最年長の少年を「大将」と呼びます。さらに祭り当日は、青年の鬼一人が加わります。踊子は、宵宮までは大将、祭礼当日は鬼の指示により、一番・二番・三番という三つの踊りを演じます。 踊子は、祭りの1カ月ほど前から練習を始めます。宵々宮の夕方には、川から上げた石を地蔵堂前の広場まで運び、7カ所に12個ずつ積み上げる「ナナゴオリ」を行います。その後、集落に祀まつられている山王さん・稲荷さん・住吉さんに向かってそれぞれ一~三番の踊りを演じ、奈具神社へ向かいます。神社では、本殿前と境内社の前で踊りを奉納します。 
 宵宮の夜は、前夜と同じように地蔵堂前などで踊りを演じてから神社へ向かいます。神社に到着後、裸の踊子たちが神社境内を百回まわる「百度」を行います。
 祭礼当日は、午後に氏子の行列と一緒に祭り宿を出発し、前夜と同じように地蔵堂前などで踊りを演じてから神社へ向かい、神社境内で踊りを奉納します。 舟木の踊子は、大太鼓・カンコ・ササラのみを用いて演じられており、その内容は中世の風流田楽やその流れを引く風流踊りの姿をよくとどめています。このような点が評価され、昭和59年4月14日付けで京都府指定文化財に指定されています。 (文化財保護課)  〉 


船木の小字一覧


舟木(ふなき) ウチツボ エダニ オノチ オカジ カセダニ カシラダニ カナヤ ガク キコリダニ クバラ コイロ コバカ サンダンダ シモノマエ シレダニ ススモリ スミヨシ タナカ タニジ トビエ トオリドウ ナカダ ナグ ニシウラ ハシズメ ハタガタニ ヒジリ マチガタニ マエダ ミヤノモリ ガクダニ 通り谷(とおりだに) 奈具谷(なぐだに)


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福井県三方郡美浜町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん



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